食品工場の酒造区画には、朝の冷えた空気がまだ残っていた。
壁際へ並んだ小樽の列は、窓から差し込む光を受けても静かなままだった。樽の腹へ掛けられた札だけが、開けた扉から入る風に僅かに揺れている。
リュシアは、記録机の前で白皿丘へ送る発注書を見直していた。
昨日、真壁が持ち帰った仕様書には、陶工頭ベルトラムと職人たちが考えた器の形が残されている。味噌を日々の食卓で使うための小壺は、匙を入れやすく、返却後に洗いやすい広口になっていた。醤油用の瓶は、掛けすぎを防ぎながらも内部へ水を通して洗える程度に、首の細さが調整されている。
貴族家へ出す器には、白皿丘の釉薬と印を使う。
町で回す器とは、役目が違う。
けれど、飾り立てすぎて職人の手を塞ぐほどにはしない。
リュシアは、紙へ必要数を書き加えた後、鉛筆を止めた。
視線の先には、芋焼酎を収めた小樽が並んでいる。
五樽足りないことについては、すでに話をした。
真壁が当然のように自分の収納へ移し、熟成比較試験という名の何かを始めていることも知っている。
今さら、そこを蒸し返すつもりはなかった。
問題は、残った八十五樽を売った後だった。
「瓶は、白皿丘へ頼める。次は、この小樽だね」
リュシアが帳面から顔を上げると、壁際で札を確かめていた真壁も、樽の列へ目を向けた。
「左様」
「最初に百樽あれば足りると思う。今ある分を売りながら、戻ってきた樽を洗って回せるようにする。壊れた時に直せる職人も、先に見つけておきたいね」
「無理のない筋ですな」
「作れる人を探しておくれ」
「承知した」
素直な返事だった。
澪は、少し離れた場所で醤油樽へ掛かった札を確かめながら、顔だけを真壁へ向けた。
「真壁さん。今度は、普通に発注するだけですよね」
真壁は、澪を見る。
すぐには答えなかった。
その間が、澪には気になった。
「酒を預ける器です。水桶と同じに済ませる方が、むしろ不自然でしょうな」
「もう、何か考えていますね」
「職人の腕を見てから決めます。先に答えを作るのは、少々品がない」
真壁は、地図を開いた。
食品工場のある町から伸びる道筋の先に、水車町リーデンがある。以前、穀物倉の鼠害を確認し、虫や鼠を防ぐための用品を売った町だった。
黒鷺川の流れを使って水車を回し、周辺の農村から集まる麦を粉へ変える。
穀物を扱う町なら、桶も樽も使う。
壊れれば、直す者もいる。
澪は、地図へ落とされた真壁の指先を見た。
「リーデンですか」
「ええ。仕事を頼むなら、まずは仕事をしている者を見るべきでしょうな」
真壁は地図を畳み、町外れへ向かう。
澪は、その背中を見送った後、並んでいる小樽へ視線を戻した。
「普通に発注するだけで終わると思いますか」
リュシアは、鉛筆を持ったまま考えた。
「終わればいいね」
「終わらないと思っていますね」
「五樽を、知らない間に持っていかれたからね」
リュシアは新しい頁を開き、真壁の比較試験とは別に、食品会社が扱う樽の欄を作った。
どちらも樽ではある。
同じ帳面へ混ぜる気にはなれなかった。
町外れへ出ると、真壁は収納からワッパを取り出した。
上下二基の大型反転ファンを備えた機体は、地面へ置かれた直後から低い唸りを響かせる。真壁が乗り込むと、風が草を外側へ押し倒し、車体は僅かな砂埃を残して浮き上がった。
街道へ向かう必要はない。
荷車の轍が町の門から緩やかに曲がっていくのを横目に、真壁は畑の外れから草地へ入った。
地面から離れた機体は、起伏を飲み込むように滑っていく。荷車なら遠回りをしなければならない丘も、その斜面をなぞるように越えた。
低い駆動音が風の中へ溶ける。
黒鷺川へ出ても、真壁は橋を探さなかった。
水面へ近づいた反転ファンが細かな飛沫を巻き上げる。薄い波紋だけを背後へ残し、ワッパは川の上を滑って対岸へ抜けた。
やがて、流れる水の音へ、一定の間隔で軋む木の音が重なり始める。
水車町リーデン。
黒鷺川から引かれた水路では、大きな水車がゆっくりと回っていた。濡れた羽根板が持ち上がるたび、水滴が朝の光を受けて散っていく。
真壁は町外れで速度を落とし、ワッパを収納へ戻した。
道へ下りると、麦を積んだ荷車が脇を通る。
御者は、見慣れない場所から突然現れた真壁を二度見したが、荷車を止めるほどではなかった。
この町には、粉を挽く順番を待つ者がいる。
朝から仕事を止める余裕はない。
真壁は、以前訪れた穀物倉へ向かった。
倉の扉は開いている。
中では、麦袋を運ぶ男たちの足音が響いていた。
以前は壁際へ古い藁が積まれ、袋の陰には鼠の糞が残っていた。今は、藁が片付けられ、倉の隅まで箒が届くようになっている。
鼠用の駆除用品は、穀物袋から距離を置いた場所へ設置されていた。
子供や家畜を近づけないための札も、そのまま残っている。
掃除道具の近くには、手洗い用の石鹸が置かれていた。
真壁は、倉の中を一度見回した。
大袈裟に褒める必要はない。
売った荷が、使われている。
それで十分だった。
「鼠は減ったかね」
声を掛けると、麦袋の数を確かめていた倉番が振り向いた。
「前よりはな。糞を見つけたら、すぐ片付けるようになった。最初は面倒だと言っていた連中も、麦袋を齧られなくなれば黙ったよ」
「形になっていますな」
「まだ出る時は出るけどな」
「一度で消えるなら、商いにはならぬでしょう」
倉番は、意味を考えるように真壁を見た後、少し笑った。
「妙なことを言うな」
「使い方を守れば、減らせる。それでよい」
真壁は、倉の奥へ視線を移した。
「桶や樽を作る者を探している。酒場へ卸す小樽が要るのでね」
「ああ、それなら裏だ」
倉番は、親指で建物の裏手を示した。
「オットーがいる。水樽も保存桶も、壊れたらあそこへ持っていく。口は悪いが、腕はいい」
「結構」
「酒を入れるなら、先に言っておけよ」
「なぜかね」
「水樽と同じつもりで頼むと、追い返される」
真壁は、僅かに目を細めた。
「それは、なおよい」
穀物倉の裏手へ回ると、木槌の音が聞こえた。
乾いた音が、一度響く。
少し間を置き、もう一度。
軒下には、修理を待つ水樽や桶が積まれている。側板が割れたものもあれば、箍が緩み、僅かに形を崩しているものもあった。
若い職人が、桶の底板を削っている。
別の男は、水樽へ巻かれた箍へ木槌を当て、少しずつ位置を直していた。
工房の奥には、年嵩の男がいる。
五十代の後半ほどだろう。
肩幅は広いが、動きは大きくない。
男は修理中の水樽へ指を当て、側板を軽く叩いた。
返ってきた音へ耳を澄ませる。
箍の位置を僅かにずらし、木槌で一度だけ打つ。
もう一度、同じ場所を指で叩く。
今度は、先ほどより低く締まった音が返った。
男は、横に置かれた桶から柄杓で水を汲み、水樽へ注いだ。合わせ目へ指を沿わせ、ゆっくりと一周する。
水滴は落ちない。
それでも、すぐに顔を上げず、少し待った。
真壁も声を掛けなかった。
男が水樽から手を離してから、初めて口を開く。
「オットー君」
男は、真壁を見る。
「何だ」
「君の腕を借りたい」
オットーは、すぐには答えなかった。
真壁の服装を見るより先に、その手元を見た。
「何を直す」
「直すのではない。作っていただきたい」
真壁は、収納から二十リットルの小樽を一つ取り出し、作業台へ置いた。
「酒場と宿屋へ卸すための樽が要る。私が作り続けるより、君たちの仕事として残す方がよろしい」
オットーは小樽を持ち上げた。
見た目については、何も言わない。
真壁が錬成した樽は、側板の幅も、箍の位置も綺麗に揃っている。けれど、オットーが最初に見たのは形ではなかった。
指の背で箍を弾き、返ってきた音へ耳を澄ませる。
樽の腹へ掌を当て、ゆっくりと一周させる。
栓を外すと、内部へ鼻を近づけた。
底板と側板の合わせ目を指先でなぞり、最後に樽を作業台へ戻す。
「水を入れる樽じゃないな」
「芋から作った蒸留酒を入れる」
「酒を入れたことは?」
「ある」
「なら、酒を見せろ。中身を知らずに、器だけ作れと言われても困る」
オットーの声には、愛想がなかった。
けれど、真壁は気を悪くしなかった。
むしろ、僅かに目を細めた。
「結構。水を運ぶ桶と、酒を預ける樽を同じものとして見ておられぬ。それならば、話が早い」
収納から、小さな瓶と杯を取り出す。
瓶の中にあるのは、食品会社で作った最初の芋焼酎だった。
真壁が自分の収納へ移した五樽から取り出したものではない。
まだ若い酒。
杯へ注ぐと、透明に近い液体が小さく揺れた。
樽工房へ、芋由来の香りが広がる。
強い。
荒さも残っている。
だが、単に酒精が鼻を刺すだけではない。
オットーは、差し出された杯へ鼻を近づけた。
すぐには飲まない。
香りを確かめ、僅かに眉を動かす。
「強い酒です。まずは香りを見ていただきたい。一息に飲み干しては、この酒の品を見誤る」
オットーは、杯へ口を付けた。
一口だけ含む。
舌の上で酒を転がし、時間を掛けて飲み込んだ。
若い職人たちも、手を止めて見ている。
オットーは何も言わない。
杯へ残った酒を眺め、もう一度香りを確かめた。
「荒いな」
「左様」
「だが、悪くない。木へ預ければ、変わるかもしれん」
真壁は、杯の底へ残った透明な酒を見る。
声も、表情も大きくは変わらない。
ただ、返事は少しだけ早かった。
「では、君ならば、どの木へ時間を預けるかね」
オットーは答えず、工房の奥へ向かった。
真壁も後を追う。
若い樽職人が、手にしていた木槌を置き、二人の後ろへ付いてきた。
工房の奥には、乾燥させた板が積まれていた。
水樽を直すための木材。
保存桶を作るための木材。
割れた樽から外し、削り直せばまだ使える板。
それぞれが、使い道に合わせて分けられている。
オットーは、そのどれにも手を伸ばさなかった。
壁際の隅へ寄せられた板の束へ向かう。
長く動かされていなかったらしく、表面には薄く埃が積もっている。
若い樽職人が、不思議そうに首を傾げた。
「それを使うんですか」
オットーは、束の中から一本を引き出した。
真壁へ渡す。
板は十分に乾いていた。
指を滑らせると、詰まった木目の凹凸が掌へ伝わる。
真壁は、板へ顔を近づけた。
木の香りが、強く残っている。
「水樽には使えん。匂いが移る。客から、水が木臭いと言われる」
オットーは、残った束へ手を置いた。
「捨てるには惜しい。だが、水を入れる仕事では使えない」
若い樽職人も、板へ顔を近づけた。
「薪にすると思っていました」
「火へ入れれば、燃える。それだけだ」
オットーは、真壁が持つ板と、作業台へ置いた若い芋焼酎を見る。
「水には邪魔だった匂いが、この酒なら欠点にならんかもしれん」
真壁は、乾いた板へ指を滑らせた。
荒さの残る透明な酒。
木材の中へ残っている香り。
樽の中で過ごす時間。
収納内で、すでに五樽の比較試験を進めている真壁にとって、見過ごせる話ではなかった。
「欠点と決めるには、少々早い。水桶として扱えば余る木でも、酒へ時を与える器に使えば、値を持つかもしれませんな」
「試してみなければ分からん」
「無論。比べもせずに答えを決めるのは、品がない」
オットーは、初めて僅かに笑った。
「商人の言い方じゃないな」
「酒を育てる話です。少々、丁寧にもなります」
「酒が好きなのか」
真壁は、板の木目を見たまま答える。
「嫌いではない」
その返事を聞いた若い樽職人が、ほんの少しだけオットーを見る。
オットーは何も言わなかった。
ただ、工房の隅へ積まれている板の量を確かめた。
作業台へ戻ると、オットーは販売用の小樽をもう一度持ち上げた。
先ほどよりも、見る場所が増えている。
酒を入れて運ぶ。
戻ってきた樽は洗う。
乾かす。
緩めば、箍を締め直す。
壊れた時には、自分たちの手で修理する。
酒へ香りを移すための樽とは、役目を分ける必要があった。
「売る酒を運ぶ樽は、今までの仕事へ少し手を入れれば作れる。二十リットルなら、一日五樽。二十日あれば百樽だ」
真壁は、すぐに答えた。
「それで十分です。急いで数だけを揃え、酒を漏らしては意味がない」
オットーは、真壁を見る。
「もっと早く作れと言うと思ったが」
「木にも都合がある。急かして歪ませるほど、こちらも無粋ではない。君たちが責任を持てる速さで作っていただきたい」
「なら、受ける」
「お願いしよう」
話は、それで終わらなかった。
オットーは、真壁製の小樽へ手を置く。
「一つ、ばらしていいか」
「どうぞ。私の樽を拝む必要はない。壊れた時に、私を呼ばなければ直せぬ品では困る。君たちの手で作り、君たちの手で直せる樽へ落としていただきたい」
オットーは、少しだけ眉を上げた。
「変わった注文だな」
「続かぬ品を作っても、商いにはなるまい」
オットーは、若い樽職人を呼んだ。
差し出された真壁製小樽を、若者は両手で受け取る。
綺麗に揃った側板へ目を奪われかけたが、オットーの視線に気づき、すぐに箍の位置へ目を落とした。
「見ろ。板の合わせ方は使える。だが、そのまま真似るな。俺たちの手で直せる形へ落とす」
「はい」
「栓も確かめろ。水樽と同じつもりで作るな」
若い樽職人は、小樽を抱え直した。
オットーは、香りの強い板へ手を伸ばす。
「売る酒を運ぶ樽と、酒を変えるための樽は、分けた方がいい」
「同感だ」
「こっちは、何樽作る」
真壁は、少しだけ考えた。
収納内で比較を始めている五樽がある。
それでも、木が違えば条件も変わる。
試さずに終える理由はない。
「別に扱いましょう。運ぶための樽と、育てるための樽では役目が違う。まずは少数でよい。酒へ時を預ける器なのです。数より先に、違いを見たい」
「木は、俺が選ぶ」
「お願いしよう」
オットーは、隅へ積まれていた板を一本ずつ見始めた。
若い職人も、その隣へ立つ。
板を受け取り、匂いを確かめる。
乾燥の具合を見る。
木目へ指を沿わせる。
「親方。これは」
「まだ若い。戻せ」
「こっちは」
「匂いが強すぎるかもしれん。だが、試すなら残せ」
真壁は、二人の手元を見ながら札を書いた。
木材の種類だけを分けるのではない。
乾かした時間も違う。
同じ木でも、樽の内側へ火を入れるかどうかで、酒へ渡す香りは変わる。
容量を変えれば、木と酒が触れる割合も変わる。
全部を最初から決める必要はない。
確かめるために、少しずつ分ける。
オットーが木材を選び、若い職人が板を束ね、真壁が札へ書き込む。
いつの間にか、販売用小樽の発注とは別に、小さな試験の道筋が作られていた。
オットーは、作業台へ戻ると、紙を引き寄せた。
木炭で字を書きながら、乾燥棚へ目を向ける。
「百樽なら、二十日だ。木を急かさなければな」
「結構。木にも都合がある。君たちが責任を持てる速さで作っていただきたい」
「返ってきた樽は、洗って乾かせ。箍が緩んだら、こっちへ戻せ」
「修理も頼めるかね」
「そのための樽職人だ」
オットーは、覚書の端へ、熟成比較用の小樽についても書き添えた。
販売用の百樽とは、別の仕事。
少数試作。
木材は、オットーが選ぶ。
真壁は、紙へ目を通した。
「悪くない」
「酒を持ってこい」
「何のために?」
「木を選ぶのに要る」
真壁は、僅かに目を細めた。
「それは、もっともですな」
オットーは、返事をしなかった。
だが、最初に出した杯より少しだけ大きな杯が、作業台の端へ置かれていた。
夕方。
真壁は、水車町の外へ出た。
黒鷺川から引かれた水路では、水車が変わらず回っている。穀物を挽く音へ、遠くから木槌の乾いた音が混じっていた。
真壁は、ワッパを収納へ収めたまま、地図へ意識を向ける。
食品工場のある町だけが、帰還先として深く刻まれている。
水車町から自由に好きな場所へ移れるわけではない。
登録した一つの拠点へ戻るだけ。
それでも、帰り道を歩かずに済む。
地図へ刻まれた場所を意識する。
黒鷺川の音が、途切れた。
派手な光はない。
浮遊感も、眩暈もない。
次の瞬間には、食品工場前の硬い地面を踏んでいた。
水源から流れる水の音が聞こえる。
扉の向こうから、子供たちの声もする。
真壁は、少しだけ周囲を見回した。
「悪くない」
扉を開ける。
酒造区画では、リュシアが帳面を確認していた。
澪も、醤油樽の札を見終えたところだった。
真壁が戻ってきたことに気づき、時計を見る。
「真壁さん。早いですね」
「帰還を使った」
「行きは?」
「ワッパだ」
「やっぱり、突っ切ったんですね」
「急ぐのでね」
真壁は、オットーから受け取った覚書を取り出した。
リュシアが受け取り、紙へ目を通す。
「二十リットルの小樽を百。二十日で揃うなら、次の仕込みには間に合うね」
「無理のない速さです。作る者へ無理を押しつけず、次の酒も待たせない。悪くない」
リュシアは、帳面へオットーの名前を書き込んだ。
納期を残し、返却された小樽を洗う場所と、修理が必要になった時の送り先についても書き加える。
これで、次の酒を入れる器は、真壁の収納内錬成へ頼らずに済む。
だが、覚書には続きがあった。
リュシアは、紙の下へ書き添えられた文字へ目を止める。
「熟成比較用小樽。少数試作」
帳面を持つ手が止まった。
顔を上げる。
「真壁殿。五樽で、足りなかったのかい」
「木が違えば、酒へ渡す時間の質も変わる。そこを見ずに終えるのは、少々惜しい」
「足りなかったんだね」
「比較の幅は、狭めぬ方がよろしい」
リュシアは、少しだけ額へ手を当てた。
完全に否定することはできない。
水樽には使えず、薪にするしかなかった木材へ、新しい値が付く可能性がある。
食品会社としても、無意味な試験ではない。
ただし、食品会社の仕事と、真壁の趣味に近い比較試験を、同じ帳面へ混ぜる気はなかった。
「これは、食品会社の百樽とは帳面を分けるよ。試験に使った分も、残しておくれ」
「無論」
真壁は、預かってきた板を収納へ入れようとした。
「真壁さん」
澪が声を掛ける。
「何かね、澪君」
「収納へ入れる前に聞きます。その板で、何を作るんですか」
真壁は、乾いた木目へ向けていた視線を澪へ戻した。
「酒へ、時を預ける器ですな」
「増えますね」
「比較試験なのでね」
「五樽で終わる話ではなかったんですね」
真壁は、板へ指を滑らせた。
「木が違う。器が違う。ならば、酒へ与える時も異なる。確かめぬ方が、不自然でしょうな」
「収納の中に、樽を何個並べるつもりですか」
「必要なだけですな」
「その必要数が信用できません」
「結果を急かすのは、熟成に対して失礼だ。急がず見守りたまえ」
「増やす気ですよね」
真壁は、答えなかった。
板を収納へ収める。
その動きは、いつも通り静かだった。
リュシアは、新しい帳面を一冊取り出した。
表紙へ、熟成比較と書く。
食品会社の販売用百樽とは、別の記録。
けれど、何も書かずに任せる気もない。
「真壁殿」
「何かね、リュシア君」
「試験用の樽が増えたら、先に書いておくれ」
「善処しよう」
「約束しないんだね」
澪は、真壁を見る。
真壁は視線を逸らさなかった。
ただし、約束もしなかった。
食品工場の酒造区画には、販売へ回せる八十五樽が並んでいる。
水車町リーデンでは、次の百樽を作る仕事が始まる。
白皿丘の窯場でも、味噌と醤油を入れる器の試作が進んでいる。
食品会社の品を受け止める器は、少しずつ、真壁一人の手を離れ始めていた。
その一方で。
真壁の収納内には、別の時間を過ごす小樽がある。
水樽へ使えば、客から苦情が出る。
それでも捨てられず、工房の隅へ積まれていた木。
強く残る香りが、まだ若い芋焼酎と重なった時、どのように変わるのか。
答えは、時間の中にある。
澪は、真壁が板を収めた場所を見た。
「増えますね」
「比較試験なのでね」
「増えますね」
真壁は、否定しなかった。
澪は、その静けさを少しも信用しなかった。