朝の六畳間で、篠原澪は古着屋で買った薄手の上着を両手で持ち上げていた。
布は軽い。洗剤の匂いも残っていて、古着屋で管理されていたものだと分かる。澪はそこを大きな問題にするつもりはなかった。日本の古着屋で売られている服は、少なくとも、昨日まで誰かが泥だらけで着ていたものをそのまま並べているわけではない。気にするべきなのは、そこではなかった。
値段である。
澪はタグを外した後の小さな穴を指でなぞりながら、古着屋のレシートを思い出した。百円ショップの商品とは違う。薄手の上着とシャツだけでも、澪の財布にはそれなりに響いた。しかも一点物だ。同じ色、同じサイズ、同じ形を十枚そろえることはできない。現代ロゴが目立たないものを探すだけでも時間がかかったし、ファスナーやタグが異世界で浮かないかまで考えると、服そのものを売り物にするのはかなり面倒だった。
澪はシャツを着て、その上から薄手の上着を羽織った。姿見の前で袖をまくり、肩を回す。次にリュックを背負い、肩紐が布に引っかからないか、背中が突っ張らないかを確かめた。普通の女子大生なら、ここで似合うかどうかを見るのかもしれない。澪は、汗を吸うか、逃げやすいか、リュックを背負って走れるかを見ていた。
女子大生の朝というより、完全に異世界市場用の装備確認だった。
軽く鑑定を向けると、頭の奥にいつもの備考欄めいた感覚が浮かんだ。薄手で、通気性があり、汗を吸う。洗濯済み。現代ロゴは目立たない。ただし同型品確保困難。最後の一項目が、商売としての道をきれいに塞いでくる。
「自分用装備、参考サンプル、商品化は保留……」
澪はメモにそう書いた。服を売るのではなく、服から暑さ対策の考え方を拾う。そう割り切ると、少し気が楽になった。
台所へ水を取りに行った時、流しの横に空のペットボトルが一本立っているのが見えた。昨日飲んだ水の容器だ。透明で、軽くて、栓が閉まる。第七話で老司祭が中身より容器に目を奪われたことを思い出し、澪は思わず手を伸ばした。
蛍光灯に透かすと、中はきれいに見える。洗えば、水入れとして使えそうだった。だが、その瞬間、澪は流しの横を見回した。あるのは一本だけ。棚の横に、もう一本。合計二本。
市場で使うには、全然足りない。
澪はペットボトルを持ったまま、少し考えた。自分が飲んだ水やお茶のボトルなら、出所が分かる。洗うこともできる。だが、そんなに大量には出ない。アパートのゴミ集積所から持ってくる、という考えは、浮かぶ前に自分で押し潰した。誰の物か分からない。中身も分からない。そもそも勝手に持ってくるものではない。
澪はボトルを洗いながら、修さんの顔を思い浮かべた。彫金教室や飯島貴金属なら、水やお茶の空ボトルが出るかもしれない。もちろん、勝手にもらうのではなく、相談して、出所が分かるものだけを譲ってもらう。
水を流す音を聞きながら、澪は早くもメモが増える予感に肩を落とした。無料に見えるものほど、条件を書くと無料ではなくなる。これはもう、押入商会の法則かもしれない。
飯島修一郎は、澪の話を最後まで聞いてから、手元の小さな銀線をケースへ戻した。
「澪ちゃん、今度は空き容器?」
「はい。水筒……ではなく、再利用容器の実験です」
言ってから、澪は自分で少し恥ずかしくなった。彫金教室の先生に、空ペットボトルの相談をしている。話だけ聞くとかなり変だ。だが修さんは笑わず、作業台の端に置いてあった水のペットボトルを見た。
「中身が分かるものだけにしなさい」
声はいつも通り静かだった。だが、澪はその一言で背筋を伸ばした。
「はい」
「水とかお茶ならまだいい。油っぽいもの、匂いの強いもの、甘い飲み物の容器は避けた方がいい。洗っても匂いが残ることがあるし、口のところは特に気をつける」
「やっぱり、そこですよね」
「あと、人のゴミを勝手に持っていくのは駄目だよ」
「それはしません。そこまでは落ちてません」
「落ちる前に言っておくのが大人の仕事だからね」
澪は反論できず、視線を作業台に落とした。修さんは責めているわけではない。危ない線を越える前に、静かに線を引いてくれている。澪はそれがありがたく、少しだけ怖かった。
「彫金教室で出る水やお茶のボトルなら、声をかけておくよ。飯島貴金属の方でも、分かる範囲でなら取っておける。ただし、数は期待しすぎないこと」
「はい。少量試験からにします」
「澪ちゃんは、その言葉を忘れない方がいいね」
修さんは軽く笑った。澪は「少量試験」とメモに書き込み、その横に「出所明確」「水・お茶系のみ」「匂い確認」と足した。空のペットボトルを集めるだけで、もう三項目増えている。
押入れを抜けた瞬間、異世界市場の暑さが澪の顔に当たった。
石畳は日差しを受けて白く光っている。屋台の火からは熱が上がり、香辛料の匂いと革袋の匂いが混ざって空気を重くしていた。澪は古着屋で買った薄手の上着の袖を軽くまくり、首元の汗をタオルで押さえた。服は悪くない。厚手の服より動きやすいし、日差しも少し防げる。だが、涼しいというほどではなかった。
リュシアの倉庫に着くと、リュシアは澪の顔より先に服を見た。
「それ、新しい品?」
「私の服です。売り物ではありません」
澪は即答した。リュシアは商人の目で袖口を見て、布の薄さを指で確かめる。
「薄いし、動きやすそうね。市場の人間にも欲しがる者はいると思うわ」
「品としては悪くないんです。でも、服そのものを売るのは難しいです」
澪は上着の裾を軽く引っ張りながら説明した。日本の古着は洗濯や管理がされているので、清潔面を大きく問題にするつもりはない。ただ、古着でも意外と高い。サイズが合わない人には売れない。同じ物を数そろえられない。現代のロゴやファスナーやタグが目立つものも多い。価格表に載せても、次に同じものが仕入れられない。
リュシアは惜しそうに澪の袖を見た。
「品としては良さそうなのに」
「私が着る分にはいいんです。装備としては。でも、売り物にすると管理が重すぎます」
「装備」
リュシアが少し笑った。澪は笑われても仕方がないと思った。上着を一枚着ているだけなのに、自分の中では完全に市場出勤用の装備である。
その時、倉庫の外で小さな騒ぎが起きた。
澪とリュシアが外へ出ると、荷運びの子供たちが木箱を降ろしているところだった。トトもいる。その横で、別の子がしゃがみ込んでいる。完全に倒れたわけではない。声をかけられて、うなずいている。ただ、顔が赤く、汗をかき、息が少し荒い。
澪の胸が詰まった。老司祭の時のことが一瞬で戻ってくる。
しかし、澪はポカリを出さなかった。あれは目立ちすぎた。薬と誤解されるようなものを、また人前で出すわけにはいかない。リュシアが水売りを呼び、近くの大人が日陰を作る。市場の人々は暑さに対して無知ではない。水を飲ませ、休ませ、火の近くから離すことは分かっている。
澪は自分のタオルを水で濡らし、しゃがみ込んだ子の首元へ当てた。布の冷たさが、指にも伝わる。子供は少しだけ目を細めた。トトが心配そうに覗き込んでいる。
「ゆっくり。急に立たないで」
澪は小声で言った。異世界側に通じる言い方になっているか自信はないが、リュシアが横で補ってくれた。
服では足りない。
澪は、子供たちの汗と、水売りの革袋と、日陰を探す視線を見ながら思った。必要なのは、薄い服だけではない。水を持ち歩けること。汗を拭けること。日を避けられること。倒れる前に休めること。市場の暑さは、商品ではなく生活そのものに食い込んでいる。
リュシアも同じところを見ていたらしい。
「服より先に、倒れない道具ね」
澪はうなずいた。暑さ対策は、服を売る話ではなかった。
倉庫へ戻った澪は、持ってきた空ペットボトルを取り出した。
前に容器へ注目された記憶があるので、出す手つきが少し慎重になる。リュシアの目はすぐに変わった。透明で、軽く、中の量が見えて、栓ができる。トトもそばに寄ってきて、指でつつく。
「これは新品の水筒じゃありません。再利用する容器です」
「さいりよう?」
リュシアが言葉を繰り返した。澪はボトルを光に透かしながら、なるべく短く説明した。一度飲み終わった容器を洗って使う。ただし、長く使い続けるものではない。熱い湯は入れない。強く洗いすぎると傷む。においが残ることがある。洗ったらしっかり乾かす。潰れたり傷があるものは使わない。
澪が意識を向けると、鑑定結果が浮かんだ。
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空ペットボトル
用途:水の持ち運び
利点:軽い、透明、栓ができる
注意:熱湯不可、長期使用不可、洗浄乾燥必須
販売区分:再利用容器
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リュシアはしばらく黙って見ていたが、やがてうなずいた。
「高く売る器じゃないのね」
「高く売ると目立ちすぎます。あと、これは新品じゃありません。安く、でも洗って検品したものとして扱いたいです」
「水売りから買った水を入れる容器にするなら、水売りの邪魔にもならないわ。むしろ、買った水を持ち歩けるなら、余分に買う人も出るかもしれない」
リュシアの目が商人の目になっている。澪は少し安心した。水売りの商売を壊すのではなく、水を運ぶ容器として使う。そちらの方が市場に馴染みやすい。
ただし、問題はここからだった。
「これ、現代側でもそんなに数がありません。私が飲んだ分と、知り合いから譲ってもらえる水やお茶の容器だけです。中身が分からないものは使いません」
「集めるところから仕事なのね」
「はい。しかも洗うところから仕事です」
無料のはずの容器が、まったく無料ではない顔をし始めていた。
リュシアは倉庫の裏にある水場へ視線を向けた。
「洗いと乾かしなら、子供たちの仕事にできるかもしれないわ」
「ただでやらせるのはだめです」
澪は反射的に言った。リュシアは少し驚いたあと、すぐに表情を戻す。
「分かってるわ。手間賃か食事は出す。荷運びの合間にできる仕事なら、あの子たちにも悪くない」
トトはその言葉に反応して、ボトルを持ち上げた。
「洗うの?」
「振り回さないで。まず、中を水ですすぎます。口のところをよく洗って、においを確認して、逆さにして乾かします。傷があるもの、潰れているもの、においが残るものは使いません」
澪は実際に水を入れ、軽く振り、口の部分を指で示した。トトは真剣に見ているが、途中で面白がってボトルを強く振ろうとする。澪は慌てて止めた。
「振り回す道具じゃないです」
「水が入ってると面白い」
「面白さは分かるけど、商品としてはやめてください」
リュシアが笑いをこらえている。澪は濡れたボトルを逆さにして、倉庫の端に立てかけた。紐を張って吊るす方法もありそうだ。乾燥場所、洗浄手順、検品基準、販売区分。空ペットボトル一本から、必要な管理項目が次々に増えていく。
無料のはずなのに。
澪はその言葉を口には出さなかった。出すと負けた気がした。
澪は一度、江古田のアパートへ戻った。
水入れだけでは足りない。暑さで汗をかくなら、水だけでなく、飲みやすいものも必要になる。第七話の時のポカリは目立ちすぎたし、毎回買って持ち込むには高い。継続するなら、材料を管理できる方がいい。
台所の小さな作業台に、食用クエン酸、黒砂糖、塩、水、計量スプーン、ボウル、清潔に洗ったボトルを並べる。澪はスマホで調べたメモを見ながら、慎重にスプーンを持った。
最初の一口は、酸っぱかった。
澪は顔をしかめ、ボウルを見下ろした。クエン酸を入れすぎたらしい。次に塩を少し増やそうとして、手を止める。入れすぎれば飲みにくい。黒砂糖を溶かすと、液体が薄く色づいた。味は悪くないが、この色は異世界側で薬液に見えないだろうか。高級ポーション扱いされた記憶が、澪の手元を何度も止める。
「これは薬じゃない。ジュースでもない。暑い時の飲み物」
澪は自分に言い聞かせながら、少量ずつ調整した。味見をするたびに、甘み、塩気、酸味のどれかが前に出すぎる。料理番組のようにきれいには進まない。台所の上には、濡れたスプーンとメモと、黒砂糖の粒が少し散っていた。
ようやく飲みやすいところへ近づいた時、澪は鑑定を向けた。
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手作り補水飲料
用途:汗をかいた時の水分補給
利点:甘み、塩気、酸味で飲みやすい
注意:薬ではない、濃度注意、作り置き注意
管理:清潔な水と容器が必要
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売れる、と思った。
同時に、怖い、とも思った。
飲み物は体に入る。カラビナやタオルとは違う。濃度を間違えれば飲みにくいし、作り置きすれば傷むかもしれない。収納は時間停止しない。容器の洗浄も必要になる。いきなり大量に作って売るものではない。
澪は大きめのボトルに入れようとして、手を止めた。今日は少量だけ。リュシアに見せる分だけ。当日分だけ。台所で冷たい水を一口飲み、試作品のボトルを冷蔵庫へ入れる。
また管理が増えた。
けれど、これは必要な管理だった。
リュシアは、薄く色づいた飲み物を見て、まず警戒した。
「薬?」
「違います。暑い日に、汗をかいた人が飲みやすいようにした水です」
澪は早口になりかけて、途中で息を整えた。説明が長くなると、かえって怪しくなる。リュシアはボトルを受け取り、少しだけ匂いを確かめた。現代の飲料を知らない彼女には、甘みと酸味の混ざった匂いは不思議に感じるのだろう。
「少しだけ味を見てもいい?」
「少しだけです。一気に飲むものではありません」
リュシアはごく少量を口に含んだ。眉が少し動く。
「水より飲みやすいわね。甘い。でも、ただ甘いだけじゃない」
「塩気と酸味もあります。汗をかいた時に飲む想定です。病気を治すものではありません」
トトも興味津々で見ている。澪は小さな器にほんの少しだけ注いだ。トトは慎重に飲み、すぐに目を丸くした。
「甘い水?」
「甘いだけじゃないです。たくさん飲めばいいものでもないです」
「なんで?」
「濃さがあります。飲みすぎるものではありません」
トトは分かったような、分からないような顔でうなずいた。リュシアはすでに市場の中での使い方を考えている顔だった。
「荷運び、火を使う屋台、鍛冶場に近い職人。欲しがる人はいるわ」
「でも、作り置き販売は危ないです。当日分だけ。清潔な容器だけ。古いものは売らない。まずはリュシアさんの管理下で、少量だけ試したいです」
「慎重ね」
「飲み物なので」
リュシアはそこで、澪の顔を見た。便利なものを持ってきた時の澪は、いつも少しおどおどしている。だが、危ないと思った時の澪は、意外と頑固だ。
「分かったわ。暑さ対策の品として、少量だけ。私の倉庫で扱う」
澪は胸をなで下ろした。売れるかもしれないものを、売らない方向へ止めるのは怖い。でも、止めない方がもっと怖かった。
次に澪が出したのは、百円ショップの扇子だった。
リュシアは開く動きに目を見開いた。トトはもっと分かりやすく、身を乗り出した。澪が扇子を一度あおぐと、薄い風が頬に当たる。市場の熱気の中では、それだけでも少し楽になる。
「軽い。畳める。風が出る」
リュシアはすぐに利点を拾った。澪はその横に注意を置く。
「でも壊れやすいです。骨が折れます。水にも弱いです。子供が乱暴に扱うと、たぶんすぐ壊れます」
トトが扇子を受け取り、勢いよく開こうとした。澪は反射的に手を伸ばす。
「ゆっくり。ゆっくり開いてください」
「めんどう」
「壊れたらもっと面倒です」
リュシアは笑いながらも、扇子を丁寧に閉じる動きを見ていた。高級品として売るのではなく、暑さ対策の小物としてなら使えるかもしれない。だが、扱う相手は選ぶ必要がある。
タオルは、もっと分かりやすかった。
薄手の百円ショップタオルを広げると、リュシアは最初、ただの布として見た。澪はそれを首に巻き、汗を拭き、水で濡らして首筋へ当て、さらに日よけとして頭に軽くかけてみせる。
「服より、こっちの方が数をそろえやすいです。サイズもあまり選びません。汗拭きにも、首巻きにも、日よけにもなります」
「市場向きね」
「はい。古着より、こちらの方が商品にしやすいと思います」
再利用水入れ。タオル。扇子。手作り補水飲料は当日分だけ、リュシア管理下で限定運用。澪が木箱の上でメモをまとめていると、リュシアが隣で考え込んだ。
「基本は、水入れと布。少し余裕がある人には扇子を足す。飲み物は、暑い日の荷運びや屋台向けに倉庫で管理する。いいわね」
「利益は大きくないかもしれません」
「でも、市場が止まりにくくなるわ」
リュシアの声が少し変わった。
「暑さで荷運びが止まれば、商人も困る。水売りも、屋台も、買い手も動きにくくなる。倒れる者が減れば、市場全体が回る。そういう品は、単品の値だけで見ない方がいい」
澪はリュシアを見た。現代知識はない。ペットボトルも扇子も知らない。けれど、リュシアは市場の流れを見ている。誰が動き、誰が買い、誰が倒れると困るのかを、商人として知っている。
「暑さ対策セット……」
澪はそう書きかけて、顔をしかめた。
「またセット商品ですか」
「何か問題?」
「表が増えます」
リュシアは、少しだけ呆れたように笑った。
「ミオはいつもそこね」
「そこを間違えると、本当に困るんです」
澪は本気で言った。リュシアはその真剣さを見て、笑いを引っ込めた。
「なら、表も商品の一部ね」
その一言に、澪は少しだけ救われた気がした。管理表は面倒だ。でも、面倒な表があるから、危ないものを危ないまま渡さずに済む。
江古田の夜、澪のちゃぶ台はまた事務所になっていた。
在庫表、収納スキル管理表、販売禁止品リスト、暑さ対策メモ。そこに、ペットボトル調達メモと、手作り補水飲料の配合メモが加わる。澪はペンを持ったまま、空ペットボトルの欄を見下ろした。
自分が飲んだ水とお茶のボトル。修さんや彫金教室周辺から譲ってもらう、水・お茶系のボトル。中身が分からないものは使わない。油分や匂いの強いものは避ける。傷、潰れ、におい残りを確認。洗浄、乾燥、検品。異世界側の子供たちの手間賃。
無料の容器なのに、条件が多すぎた。
扇子は百円ショップで注文候補。タオルも百円ショップ。白すぎると汚れが目立つ。派手すぎると市場で浮く。薄手で乾きやすいもの。日よけ布にするなら大きさも必要。
手作り補水飲料の欄は、さらに面倒だった。食用クエン酸、黒砂糖、塩、清潔な水、清潔な容器。当日分のみ。古いものは捨てる。濃度注意。薬ではない。作り置きしない。収納に入れない。
澪は自分の頭が少し重くなってきたところで、ふと自分自身へ鑑定を向けた。今回は、表示形式もだいぶ慣れてきた。頭の奥に、管理表のようなものがすっと開く。
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篠原澪
体力:39
筋力:28
集中:41
睡眠:やや不足
栄養:改善中
鑑定:3
収納:1
商才:芽あり
危機回避:学習中
在庫管理:上昇中
課題進捗:危険
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澪は「栄養:改善中」のところで、少しだけ目を止めた。卵と納豆と野菜を買った効果かもしれない。ちゃんと食べると、表示にも出るらしい。そこは素直にうれしかった。
だが、最後の一行がいつも通りだった。
「課題進捗、ずっと危険……」
澪はため息をついた。暑さ対策セットを作っている場合なのか、と一瞬思う。けれど、異世界市場で自分が倒れたら、課題どころではない。押入商会代表社員が倒れた瞬間、商会は即休業である。
澪は暑さ対策セットのメモの一番上に、「自分用一組」と書いた。
商売用の試作品を作っているはずなのに、最初の顧客が自分になる。少し情けないが、かなり正しい気がした。
台所では、洗った空ペットボトルが逆さになっている。澪はそれをもう一度確認し、口の部分に水が残っていないか見た。冷蔵庫には、少量だけ作った手作り補水飲料が入っている。作り置きではない。明日持っていく分だけ。扇子はちゃぶ台の端に置き、タオルは一度首に巻いて長さを確かめた。
澪は扇子を開き、顔に風を送った。
涼しい。
その涼しさが本当に必要な場所を、澪はもう知っている。石畳の照り返し、屋台の火、汗を拭く荷運びの子供、日陰へ運ばれる小さな体。涼しいという感覚は、売り文句ではなく、倒れないための猶予だった。
ちゃぶ台の上には、「洗浄」「乾燥」「検品」「当日分」「濃度注意」「薬ではない」と書いたメモが増えている。無料に見えたペットボトルと、家で作れる飲み物は、結局たくさんの管理を連れてきた。
澪は「倒れる前に休む」と書いたメモを見た。
商品説明というより、自分への注意だった。消そうかと思ったが、消さなかった。むしろ、その横に小さく丸をつける。
それから、暑さ対策セットの一番上に書いた「自分用一組」の文字を、もう一度なぞった。