朝の六畳間で、篠原澪は古着屋で買った薄手の上着を両手で持ち上げていた。
洗剤の匂いが少し残っている。生地も傷んではいない。
問題は、そこではなかった。
「百円じゃないんですよねえ……」
ミニテーブルの上に置いたレシートを見る。
百円ショップの商品とは違う。薄手の上着とシャツだけでも、それなりの金額になった。
しかも古着は一点物だ。
同じ色、同じ大きさ、同じ形を10枚そろえる、という買い方はまずできない。ゲンダイの大きなロゴが入っていない物を探すだけでも時間がかかったし、金具やタグまで気にし始めると、仕入れ商品としてはかなり面倒だった。
澪はシャツを着て、その上から薄手の上着を羽織った。
姿見の前で袖をまくる。肩を回し、しゃがんでみる。立ち上がってからリュックを背負い、肩紐が引っかからないか、背中が突っ張らないかも確かめた。
鏡の中には、かなり地味な女子大生がいる。
「……よし」
似合うかどうかは、まだ見ていない。
服を買った女子大生として、確認する順番が少しおかしい気はする。
けれど市場で汗をかきながら荷物を背負うなら、似合うより先に動ける方が大事だった。
軽く鑑定を向けてみる。
薄手で通気性があり、汗を吸う。洗濯済み。目立つ文字もない。
その代わり、同型品を継続して確保するのは難しい。
「自分用装備。参考サンプル。商品化は保留……」
メモへ書く。
服なのに装備。
自分で書いておいて少し引っかかったが、消さなかった。
押入れを越えて市場へ行く時に着るのだから、澪の中ではかなり装備寄りである。
水を飲もうと台所へ向かい、流しの横で足が止まった。
昨日飲んだ水の空ペットボトルが1本立っている。
「あ」
澪はそれを手に取った。
透明で、軽い。
蓋を回せば閉まる。
この容器を見て驚いた人なら、すでにいる。
司祭様へスポーツ飲料を持っていった時、リュシアは空になったペットボトルを自分で持っていった。
軽さも、透明なことも、押せばへこんで戻ることも確かめていた。
中でも気にしていたのが、回して締めるスクリューキャップだった。
開けて、閉めて、横にしても漏れないことまで見ていた。
「そういえば、考えるって言ってましたよね……」
リュシアなら、忘れているとは思えない。
ただ、使い道を思いつくことと、同じ物を作れることは別だった。
この薄い容器も、細かく溝の切られた蓋も、向こうで同じ形をいくつもそろえられる物ではない。
澪は手の中のボトルを見る。
「だったら、持っていける私の方で考えればいいのか」
本物の水筒のように、何年も使える物ではない。
熱い湯を入れられても困る。
それでも、水やお茶が入っていた物をきちんと洗い、傷んでいないことを確かめて短期間だけ使うなら、水入れにはなりそうだった。
澪は流しの周りを見る。
1本。
棚の横に、もう1本。
「2本」
市場で使うには、さすがに少ない。
自分が飲んだ水やお茶の容器なら、中身は分かっている。洗うこともできる。
だからといって、澪1人が毎日大量の水を飲んで空ボトルを生産するわけにもいかない。
一瞬だけ、アパートのゴミ集積所が頭に浮かんだ。
「なし」
即座に却下した。
誰が出したか分からない。何が入っていたかも分からない。
そもそも、他人のゴミを勝手に持ってくるところから始めたら、別の問題になる。
澪はボトルを洗いながら、修さんの顔を思い浮かべた。
彫金教室や飯島貴金属なら、水やお茶の空ボトルが出るかもしれない。
もちろん、勝手にもらうのではない。
聞いて、分かる物だけ譲ってもらう。
「空の容器を集めるだけなのに……」
すでに条件が増え始めていた。
無料に見える物ほど、扱おうとすると急に手間を連れてくる。
最近の押入商会では、あまり珍しくない。
◇ ◇ ◇
彫金教室の作業が一段落したところで、澪は修さんへ声をかけた。
「あの、修さん。空のペットボトルって、取っておいてもらえたりします?」
修さんは銀線をケースへ戻してから、澪を見る。
「澪ちゃん、今度は空き容器?」
「はい。水筒……ではなくて、再利用する水入れの試験です」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
彫金教室の先生に空ペットボトルの相談をしている。
最近、修さんへの相談範囲が広すぎる。
けれど修さんは笑わず、作業台の端に置いてあった自分の水のボトルへ目を向けた。
「集めるなら、中に何が入っていたか分かる物だけにしなさい」
「やっぱり、そこですよね」
「水とかお茶ならまだいいね。匂いの強い物や、油分が入っていた物は避けた方がいい。洗ったつもりでも残ることがあるから」
澪はメモを取る。
「口のところもよく見て。傷んだ物は使わない」
「はい」
「それから、人のゴミを勝手に持ってこないこと」
ペンが止まった。
「しませんよ。そこまでは落ちてません」
「落ちる前に言っておくのが大人の仕事だからね」
「信用が……」
「心配してるんだよ」
修さんはいつもの声で言った。
穏やかな分、逃げ道がない。
澪はメモへ視線を戻した。
「ちゃんと許可をもらった物だけにします」
「それなら、ここで出た水やお茶のボトルは声をかけておくよ。飯島貴金属の方でも、分かる物だけなら取っておけると思う」
「ありがとうございます」
「ただし、数は期待しすぎないこと」
「少量試験から始めます」
修さんの手が止まった。
「澪ちゃんは、その言葉を忘れない方がいいね」
「……最近、私もそう思います」
澪はメモの『少量試験』へ丸をつけた。
中身の分かる水かお茶の容器だけを集め、匂いや傷みも確認する。
空のペットボトルを集めるだけの話だったはずなのに、もう立派な注意事項になっていた。
◇ ◇ ◇
押入れを抜けた途端、熱気が顔へ当たった。
「暑っ……」
石畳が日差しを照り返している。
屋台の火からも熱が上がり、革や香辛料、焼いた肉の匂いまで、いつもより濃く感じた。
澪は上着の袖をまくり、首元の汗をタオルで押さえた。薄手にしたおかげで動きやすく、日差しも少し防げるが、涼しいわけではない。
リュシアの倉庫へ入ると、彼女は澪の顔より先に服を見た。
「それ、新しい品?」
「私の服です。売り物ではありません」
返事はすぐ出た。
リュシアは袖口を指でつまみ、布の薄さを確かめる。
「薄いし、動きやすそうだね。市場でも欲しがる人はいると思うよ」
「品としては悪くないんです。でも、服そのものを売るのは難しいです」
「何が引っかかるんだい?」
「値段と、大きさと、同じ物をそろえられないことです」
澪は上着の裾をつまんだ。
「ゲンダイの大きな文字や絵が入っている物もありますし、ファスナーやタグが目立つ物もあります。1枚見つけても、次に同じ物を持ってこられるとは限りません」
リュシアは澪の袖を見る。
「品は悪くないのにね」
「私が着る分にはいいんです。装備としては」
「装備?」
「市場へ来る時に着るので」
リュシアが澪を見る。
「服だよ」
「装備です」
「そこは譲らないんだね」
少し笑われた。
澪も、そこについては反論しにくかった。
その時、倉庫の外が急に騒がしくなった。
リュシアの顔から笑いが消える。
2人で外へ出ると、荷運びの子供たちが木箱を降ろしていた。トトもいる。
その少し横で、1人の子が石壁の陰にしゃがみ込んでいた。
倒れてはいない。
声をかければ反応もする。
けれど、顔が赤い。汗も多く、呼吸がいつもより速かった。
澪の手がリュックへ伸びた。
途中で止まる。
スポーツ飲料。
司祭様の時には助けになった。
同時に、高価な薬だと勘違いされかけた。
市場の真ん中で、同じ騒ぎを起こすのはまずい。
「水を持ってきて。そっちは荷をどけな。もっと風が通るようにするよ」
リュシアの声が飛ぶ。
周囲の大人がすぐ動いた。
1人が水売りのところへ走り、別の男が木箱をどける。
こちらの人たちも、暑さで具合の悪くなった者をどう休ませるかくらいは知っている。
澪は自分のタオルを水で濡らした。
「これ、首に当てますね」
しゃがみ込んだ子が小さくうなずく。
濡れた布を首元へ当てると、張っていた肩が少し下がった。
「すぐ立たないで、もう少し――」
言い方が通じにくかったらしく、子供が澪を見る。
リュシアが横から短く言った。
「しばらく座ってな。荷は他の子に任せればいいよ」
今度はうなずいた。
トトも近くで心配そうに見ている。
澪は水売りの革袋と、汗を拭いている荷運びの子供たちを見比べた。
薄い服だけでは足りない。水を持ち歩けて、汗を拭ける物があり、できれば日差しも少し避けられる方がいい。
何より、こうなる前に休めた方がいい。
リュシアが澪の隣に立った。
「服より先に、倒れないための物だね」
「……ですね」
澪はリュックを見る。
今朝洗った空ペットボトルが入っている。
持ってくるのが早すぎたかと思っていた。
今日は出番がありそうだった。
倉庫へ戻ると、澪は空のペットボトルを木箱の上へ置いた。
トトがすぐ近づいてくる。
「透明だ」
「はい」
「軽い」
「はい」
指が伸びた。
「まだ触らないでください」
「見るだけ」
「もう触る手でした」
トトが手を引っ込める。
その横から、リュシアの手が伸びた。
「それ、前のと同じやつだね」
「覚えてたんですか?」
「忘れるわけないだろ」
リュシアはペットボトルを持ち上げると、蓋をつまんだ。
くるりと回して開け、また閉める。
「この栓は特にね。回せば締まって、横にしても漏れない」
「そこまで覚えてたんですね」
「前のは私が持って帰ったんだよ」
「そうでした」
リュシアは今度は容器の胴を軽く押した。
薄い側面がへこみ、指を離すと戻る。
「軽くて、中が見えて、この形だろ。それにこの栓。使い道はいくらでも考えられるよ」
「何かに使いました?」
聞くと、リュシアは少し眉を寄せた。
「使うだけなら、水を入れればいいよ」
「じゃあ?」
「同じ物を作れなかった」
「ああ……」
澪にも、それは分かる。
薄くて透明な容器を同じ形でそろえるだけでも難しい。
まして、容器の口と蓋に細かな溝があり、回せば毎回きちんと締まるスクリューキャップまで同じように作るとなれば、話は別だ。
「だから、澪に頼るしかないね」
「私ですか?」
「そっちには普通にあるんだろ?」
「普通にありますけど……」
「なら、こっちで無理に作るより早いじゃないか」
完全に仕入れ先を見る目だった。
「ただ、新品の水筒として売るつもりはありません」
「違うのかい?」
「一度、飲み物が入っていた容器です。それを洗って、もう一度水入れとして使えないか試します」
リュシアの目が少し細くなった。
今度は容器ではなく、澪の話を聞く商人の顔だった。
「一度使った物を売るの?」
「何でも使うわけじゃありません。元に何が入っていたか分かる物だけです。水かお茶。傷や潰れがある物、匂いが残る物も外します」
澪はボトルへ意識を向けた。
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空ペットボトル
用途:水の持ち運び
利点:軽い、透明、栓ができる
注意:熱湯不可、長期使用不可、洗浄乾燥必須
販売区分:再利用容器
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「さいりよう?」
「一度使った物を、洗ってもう一度使うことです」
「なるほどね」
「長く使う物ではないですけど」
表示を見ながら、澪は言った。
リュシアはもう一度スクリューキャップを回し、閉まったところで手を止めた。
「同じ物を作れないなら、なおさら使える分は使いたいね」
「はい。ただし、状態を見た物だけです」
「高く売る器じゃないね」
「はい。元は使い終わった容器ですから。安くして、その代わり洗って状態を見た物だけにしたいです」
「水売りから買った水を入れるなら、水売りの邪魔にもならないね」
リュシアがボトルを軽く振る。
「むしろ、持って帰れるなら多めに買う客も出るかもしれない」
「あ」
澪はそこで初めて、水売りの側から考えた。
「それなら、水売りさんの商売を取らずに済みますね」
「始める前には話を通すよ。後から揉める方が面倒だからね」
「お願いします」
新しい物を1つ増やすと、相談する相手も増える。
そちらはもう慣れ始めていた。
「で、何本あるんだい?」
「今は2本です」
「少ないね」
「言うと思いました」
「2本は少ないよ」
正論だった。
「修さんたちにも頼みました。水やお茶が入っていたと分かる物だけ、少しずつ集めます」
「集めるところから仕事なんだね」
「はい。しかも、その後に洗います」
無料だったはずの容器が、だんだん無料ではない顔になってきた。
リュシアは倉庫の裏手にある水場を見る。
「洗って乾かすくらいなら、荷運びの子たちの仕事にできるかもしれないね」
「ただでやらせるのは駄目です」
澪の返事が早すぎた。
リュシアが一度こちらを見る。
「分かってるよ。手間賃か食事は出す。荷がない時間にできるなら、あの子たちにも仕事になる」
「それならお願いします」
「洗うの?」
トトが横から覗き込んだ。
「はい。まず中を水ですすぎます。口のところも洗って、終わったら匂いを確認して、逆さにして乾かします」
澪は少量の水を入れ、軽く振ってみせる。
「こうです」
トトも真似した。
次の瞬間、両手で思い切り振り始める。
「そんなに振らなくていいです!」
「この方がきれいになる」
「振り回す道具じゃありません」
「水が入ってると面白いよ」
「面白さは分かりますけど、商品ではやめてください」
後ろから小さな笑い声がした。
リュシアだった。
「トト。澪が言った通りにやりな」
「壊れないよ、これ」
「壊れないなら、壊れない洗い方をしな」
「はーい」
澪は洗ったボトルを逆さにして置いた。
乾かす場所や洗い方を決め、販売前には傷や匂いも確かめなければならない。
空の容器1本なのに、仕事が増殖していく。
澪はそれを口に出すのをやめた。
無料だったのに、と思ったら負けな気がした。
◇ ◇ ◇
澪はいったん江古田のアパートへ戻った。
水を持ち歩けるだけでも違う。
けれど、さっき座り込んでいた子供の赤い顔が頭に残っていた。
スポーツ飲料を毎回ゲンダイから持ち込むのは高い。
それに、また薬だと誤解されても困る。
こちらで用意できる物を使って、似た目的の飲み物を作れないだろうか。
台所へ、食用クエン酸、黒砂糖、塩、水、計量スプーン、小さなボウルを並べた。
洗って乾かしたペットボトルも置く。
スマホで調べた内容を横に置き、少量から混ぜてみた。
一口飲む。
「すっぱ……」
澪の顔が縮んだ。
クエン酸が前に出すぎている。
作り直す。
今度は塩気が気になった。
「違う」
黒砂糖を溶かす。
薄く色がついた。
飲みやすくなったが、そこで別の不安が出てくる。
「この色……薬に見えないかな」
司祭様のところで、ただのスポーツ飲料が高価な薬に見えたことを思い出す。
透明な容器に、見慣れない色の液体。
知らない人が見れば、何か特別な物だと思う可能性は十分にあった。
「薬じゃない。暑い時の飲み物」
自分へ言い聞かせる。
もう一度味を見る。
甘い。
少し水を足す。
今度は薄い。
「料理って、調べた通りに入れれば終わりじゃないんですね……」
台所には、濡れたスプーンと使った小皿が増えていく。
黒砂糖の粒まで少しこぼれた。
何度か調整し、ようやく無理なく飲めるところまで来た。
澪は鑑定を向ける。
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手作り補水飲料
容量:500mL
水分:約97.8%
糖分:約2.0%
塩分:約0.15%
酸味成分:約0.05%
ミネラル分:微量(塩・黒砂糖由来)
用途:汗をかいた時の水分補給
利点:甘み、塩気、酸味で飲みやすい
品質:★★★☆☆
注意:薬ではない、濃度注意、作り置き注意
管理:清潔な水と容器が必要
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「……星?」
澪は表示を見直した。
消えない。
「品質、3つ……」
飲めるところまでは来た。
自分でもそう思った。
鑑定も、どうやらそこまでは認めている。
ただし、5つではない。
「飲めるところまで来たと思ったんですけど」
誰に言うでもなく呟く。
★★★☆☆。
可もなく不可もなく、と言われているようで妙に悔しい。
「……もう少し調整したら4つになるのかな」
スプーンへ手が伸びた。
途中で止める。
「いや、今日はやめます」
星を1つ増やすために配合を崩したら、本末転倒である。
味は悪くない。
暑い市場なら、欲しがる人もいるかもしれない。
そう考えた直後、澪はボトルを見た。
これは体に入る物だ。
カラビナなら、壊れれば使うのをやめればいい。けれど飲み物は、濃さを間違えたり、古くなった物を飲ませたりした後では遅い。
売れそうだから増やす、はできない。
澪は大きな容器へ移しかけた手を止めた。
「今日は、見せる分だけ」
小さなボトル1本。
それだけにする。
作った分は冷蔵庫へ入れた。
「収納じゃなくて、冷蔵庫」
当たり前のことを口にしている。
収納を覚えてから、家にある普通の道具の仕事を再確認することが増えた。
◇ ◇ ◇
リュシアは、薄く色のついた飲み物を見るなり眉を寄せた。
「薬かい?」
「違います」
澪は即答した。
「暑い日に、汗をかいた人が飲みやすいようにした水です」
「そう言われると、余計に何かありそうだね」
「薬ではありません」
「分かった、分かった」
リュシアはボトルを受け取り、匂いを確かめた。
「少し味を見てもいい?」
「少しだけです。まだ試作なので」
小さな器へ注ぐ。
リュシアは一口含んだ。
眉が動く。
「水より飲みやすいね。甘いけど、甘いだけじゃない」
「塩気と酸味も少しあります。汗をかいた時に飲む想定です」
「病気を治す物じゃない」
「はい。そこ、大事です」
「分かったよ」
リュシアはもう一度、器の底に残った液体を見る。
「荷運びや、火を使う屋台にはよさそうだね。鍛冶場の近くで働く人も欲しがるかもしれない」
「でも、作り置きして売るのはやめたいです」
澪は先に言った。
「作った日の分だけ。きれいな容器を使って、まずは少量で試したいです」
「慎重だね」
「飲み物なので」
「それなら、私のところで見るよ。勝手に広げない。少量だけ」
「お願いします」
澪は少し肩の力を抜いた。
売れそうな物を、自分から止めるのはまだ慣れない。
けれど、飲ませてから失敗に気づくよりはずっといい。
トトも小さな器でほんの少し味を見た。
「甘い水?」
「甘いだけじゃないです。塩気と酸味も入っています」
「もっと飲んでいい?」
「たくさん飲めばいい物でもありません。今日は味見だけです」
「残ってるのに」
「残っていてもです」
トトがリュシアを見る。
「澪がそう言ってるなら、今日はそこまでにしな」
「はーい」
返事だけは早い。
澪は少し感心した。
子供の扱いはリュシアに任せた方が確実に早い。
次にリュックから扇子を出した。
「これは?」
「風を作る道具です」
澪が開き、顔をあおぐ。
ぱたぱたと風が当たった。
リュシアの目が変わる。
トトはもっと分かりやすかった。
「貸して!」
「待ってください」
澪は伸びてきた手を止めた。
「ゆっくり開いてください。骨が細いので、乱暴に扱うと折れます。水にも弱いです」
「風を出すだけなのに?」
トトへ渡す。
案の定、勢いよく開こうとした。
「ゆっくり!」
澪が慌てて押さえた。
「めんどう」
「壊れたら、もっと面倒です」
リュシアが笑う。
トトから扇子を受け取り、ゆっくり開いた。
何度かあおぐと、頬に風が当たる。
「軽いし、畳める。それでちゃんと風も出るんだね」
「はい。ただ、扱い方は先に教えないと駄目そうです」
「トトで分かったよ」
「ぼく、壊してないよ」
「澪が止めたからじゃない」
トトが黙った。
次に出したタオルは、ずっと話が早かった。
澪は首へ掛けて汗を拭く。
水で濡らし、首筋へ当てる。
さらに頭へ軽く掛けてみせた。
「これは分かりやすいね」
「服ほど大きさを選びません。汗も拭けますし、濡らして使うこともできます。数もそろえやすいです」
「市場向きだね」
「私も、古着よりこっちの方がいいと思います」
リュシアは木箱の上に並んだ品を見る。
再利用する水入れ。
タオル。
扇子。
そして、倉庫で少量だけ試す飲み物。
「基本は、水入れと布だね。少し余裕がある人なら扇子もあり。飲み物はこっちで管理する」
「利益は大きくないと思います」
「でも、荷運びが止まりにくくなる」
リュシアは倉庫の外を見た。
「暑さで荷運びが止まれば、商人も困る。水売りも屋台も困るし、買い物に来る人だって動かなくなる。倒れる人が減るなら、品1つの値段だけで考えなくてもいいよ」
澪も外を見る。
ゲンダイの品を同じように作ることはできなくても、市場のどこが止まれば誰が困るのかは、リュシアの方がずっと早く見えている。
さっき座り込んだ子供は、まだ日陰で休んでいた。
荷へ戻されてはいない。
澪はメモへ視線を戻す。
「暑さ対策セット……」
書きかけて、手が止まった。
「また表が増えますね」
リュシアが澪を見る。
「澪はいつもそこだね」
「水入れだけ欲しい人もいるでしょうし、タオルだけの人もいます。扇子を付けるかもしれません。飲み物は商品と一緒に渡すんじゃなくて、こっちで管理しますし……」
リュシアはメモを指で軽く叩いた。
「間違えると困るなら、その表も商品の一部だね」
澪は紙を見る。
商品そのものではない。
けれど、何をいくつ渡したかだけではなく、洗浄済みか、古くなっていないか、飲み物なら当日分かまで分からなくなれば、危ない物をそのまま渡しかねない。
「じゃあ、増やします」
「そうしな」
◇ ◇ ◇
夜。
江古田の六畳間では、ミニテーブルがまた仕事机になっていた。
在庫表、収納スキル管理表、販売禁止品リスト、暑さ対策のメモ。
そこへ、空ペットボトルの調達条件と、手作り補水飲料の試作メモまで増えている。
澪は、自分で飲んだ物と修さんたちから譲ってもらった物を分け、使えるのは中身の分かる水かお茶の容器だけ、と条件をまとめた。傷や匂いを確かめ、洗って乾かす。子供たちへ頼む分には、ちゃんと手間賃も必要になる。
「無料だったんだけどなあ……」
容器代だけなら、たしかに無料だった。
扇子は追加で仕入れられる物を探し、タオルは薄手で乾きやすい物を選ぶ。手作り補水飲料は当日分だけにして、清潔な水と容器を使い、古くなった物は使わない。収納へ入れて安心したことにもしない。
そこまで書いたところで、頭だけではなく体まで重くなっていることに気づいた。
「……今日は動いたな」
朝から服を確認し、修さんのところへ行った。
暑い市場を歩き、一度ゲンダイへ戻って飲み物を試作し、また市場へ行った。
それから夜まで、こうして机に向かっている。
澪は自分自身へ鑑定を向けた。
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篠原 澪
分類:人間/異界渡航者
役割:押入商会代表
現在ジョブ:商人
状態:睡眠不足/疲労
疲労度:56%
身体異常:なし
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基礎能力値
体力:39
筋力:28
器用:49
知力:66
判断:51
精神:54
集中:41
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既得スキル
鑑定:3
収納:1
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成長傾向
商才:芽あり
危機回避:学習中
在庫管理:上昇中
----------------------------------
「56%……」
朝からの行動を順番に思い返す。
「まあ、そうなりますよね」
むしろ数字を見せられて、ようやく座りっぱなしだった自分の腰まで重く感じてきた。
澪は自分用管理表を引き寄せた。
食事の欄は、納豆だけだった頃よりましになっている。卵も食べているし、野菜も買った。
そこは丸にしていい。
その横では、大学の課題が残っていた。
見なかったことにはできない。
澪は数秒だけ課題ノートを見てから、暑さ対策の紙へ戻った。
「倒れる前に休む」
今日、市場で見たことをそのまま書く。
押入商会代表社員が倒れた瞬間、商会は即休業である。
「……暑さ対策セットを作ってる場合なんですかね、私」
少し考えて、『倒れる前に休む』の横へ丸をつけた。
さらに、一番上の利用者欄へ書き足す。
「自分用 1組」
水を入れるペットボトルに、タオルと扇子。
必要なら、当日分だけ作った飲み物も持つ。
市場へ売る物を考えていたはずなのに、最初に試すのは自分になった。
「……まあ、試す人は必要ですし」
誰も聞いていないのをいいことに、少しだけ商売らしい理由をつける。
台所を見る。
洗い終えたペットボトルが逆さにしてあり、口の部分にも水は残っていない。
冷蔵庫には、明日持っていく分だけの補水飲料が入っている。
ミニテーブルの端には扇子があり、その横には畳んだタオルも置いてあった。
澪はタオルを首へ掛けた。
前で端を合わせ、動いた時に邪魔にならない長さか確かめる。
そのまま扇子を手に取り、開いた。
風が顔に当たる。
「涼しい」
昼間の石畳の照り返しが浮かんだ。
屋台の火のそばで働く人や、汗を拭きながら荷を運んでいた子供たちも思い出す。
澪は自分用管理表へ目を戻した。
『倒れる前に休む』
その横の丸を見てから、『自分用 1組』の文字も、もう一度なぞった。