侯爵家の執務室には、いつもより大きな地図が広げられていた。
領内の村々を記した紙の上へ、細い木片がいくつも置かれている。赤い印は、芋を育てたいと申し出た村。青い印は、大豆を試したいと願い出た村。木片の脇には、農政官エーリヒ・ヴァイスが書き込んだ小さな文字が並んでいた。
畑の広さだけではない。
水はけや苗床を作れる場所、冬場に雪が積もる日数、荷車を出せる家の数、収穫期に動ける人手まで、村ごとに書き分けられている。
澪は、机の端へ立ったまま、その細かな文字を目で追った。
大学の講義で配られた資料よりも、よほど細かい。
侯爵領で芋と大豆を作りたいという農家が増えたことは、嬉しい話だと思っていた。リュシア食品会社が豊作時にも買い取る道を作ったことで、余った作物を抱える不安が減った。侯爵家も、候補となる村を選び始めている。
こちらで手配した原料も、まだ届いてはいないが、受け取る準備までは進んだ。
食品加工へ使う分と、侯爵領の畑へ渡す分を合わせ、芋は二十六トン。大豆は六・五トン。塩や麹に関わる資材も、食品原料卸へまとめて依頼してある。
数字を聞くたびに、澪は少しだけ頭が痛くなる。
前回は、二トンの芋でも十分に大事だった。
今度は、二十六トンである。
押入商会の口座へ振り込まれた金額を見た時も、自分の感覚だけが急に取り残されたような気がした。修さんの会社で白金三キログラムを買い取ってもらい、必要な資金は確保できた。それでも、パソコンの画面へ表示された数字が、急に軽くなったわけではない。
ただ、ここまで来れば、後は運び込むだけだと思っていた。
エーリヒは、村ごとの一覧へ視線を落としたまま、すぐには口を開かなかった。
アルベルトも急かさない。
窓の外から、庭木の葉が擦れる音だけが聞こえていた。
「希望する農家は、予想よりも多く集まりました」
ようやく顔を上げたエーリヒの声は、喜びだけを含んではいなかった。
「第一陣として選べる村も、すでに絞り込んでおります。しかし、配布の順を考えているうちに、先に解決しなければならない問題へ気づきました」
澪は、地図へ置かれた木片を見る。
「畑が足りないんですか」
「畑はあります。人手も、最初の規模であれば足りるでしょう」
エーリヒは、赤い印の置かれた村を指先でなぞった。
「ですが、芋を受け取っても、すぐに畑へ植えることはできません。春まで、生かしておかなければならない」
澪は、瞬きをした。
芋を買う。
運ぶ。
村へ渡す。
自分の頭の中では、そこまでが一続きになっていた。
畑へ植える季節があることは、分かっていたはずなのに、荷物として届く二十トンの芋を、春まで置いておく場所までは考えていなかった。
「各家へ預ければよい、とは参りません」
エーリヒは、机へ置かれた別の紙を開いた。
「冬の冷え込みが強い家もあります。納屋へ鼠が入る家もある。湿気の多い場所へ置けば、春を待たずに傷みが広がるでしょう。状態を見ず、傷んだ芋を苗床へ入れれば、村ごとの失敗では済みません」
澪は、地図の上へ置かれた木片を、もう一度見直した。
配る先を決めるだけでは足りない。
配る時期まで守らなければならない。
「豆も同じです」
エーリヒは、青い印へ手を移した。
「芋ほど扱いは難しくありませんが、播く時期まで湿気と虫から守らなければなりません。鼠にも気を付ける必要があります。村ごとの納屋へ少量ずつ分ければ、記録も散ります」
リュシアは、持参した帳面へ片手を置いたまま、静かに話を聞いていた。
工場の責任者として、すでに別の問題へ気づいている顔だった。
「食品会社の方でも、置く場所は足りなくなるよ」
リュシアは、帳面を開いた。
「味噌も醤油も、仕込んだ日のうちに売れるわけじゃない。芋焼酎も、小樽へ入れて寝かせる分が増える。返ってきた樽を洗って乾かす場所まで考えれば、作業場へ何でも置くわけにはいかないね」
澪は、食品工場の中を思い浮かべた。
最初に芋と大豆を運び込んだ時には、広く見えた。
洗い場があり、乾燥場があり、倉庫もある。発酵試験室も、失敗品を分ける部屋も用意されていた。
しかし、商品が売れ、次の仕込みが始まれば、空いていた場所は次々に埋まっていく。
作る場所と、待たせる場所。
同じではない。
「芋を置く場所も、必要なんですね」
澪が言うと、エーリヒは頷いた。
「まずは、冬を越させる保管場所を整えたいと考えております」
「芋蔵を探すんですか」
真壁は、机へ広げられた地図ではなく、リュシアの帳面へ一度だけ目を向けた。
その視線を追い、澪も、工場へ並び始めた樽の数を思い出した。
「芋も、豆も、樽もだよ、澪君」
澪は、真壁を見る。
「芋だけではないんですか」
「芋だけなら、春まで守ればよい。だが、豆も来る。樽も増える。味噌も醤油も、時間を置くことで品になる」
真壁は、地図の端へ長い指を置いた。
「工場は、働く場所です。待たせる荷まで押し込めば、いずれ仕事の邪魔になる。荷にも、時間を過ごす場所が要る」
澪は、少しだけ額へ手を当てたくなった。
二十トンの芋をどうするのかという話だったはずなのに、いつの間にか地下倉庫の話へ広がっている。
ただし、真壁が余計なものを増やしているわけではない。
必要になるものが、少し遅れて姿を見せているだけだった。
「同じ場所へ、全部置くんですか」
「同じ場所へ積み上げるつもりはありませんな」
真壁は、僅かに目を細めた。
「芋には芋の都合がある。豆には豆の都合がある。樽へ預けた酒や味噌にも、邪魔をされたくない時間がある。区画を分けられる場所が必要です」
リュシアが帳面を閉じた。
「食品会社で使う分は、きちんと区画を借りるよ。農政の倉を、勝手に使わせてもらうつもりはない」
「使用料と管理の分担は、候補地を見てから決めましょう」
アルベルトは、机へ両手を置いた。
「農政のためだけでも、保管場所は必要だ。食品会社が区画を借りるのであれば、維持費の一部も回収できる。悪い話ではない」
エーリヒは、考えるように地図へ目を落とした。
「領内の地下室や洞穴を、改めて調べますか」
「候補を増やしすぎる必要はありますまい」
真壁は、地図の北西へ指を滑らせた。
白皿丘でも、水車町でもない。
侯爵領の端に近い銀鹿山。
以前、古い坑道と鉱毒水を確認した場所だった。
「まずは、銀鹿山を見ましょう」
エーリヒが、指先の位置を見た。
「旧坑道ですか」
「本坑道へ食料を置くほど、無思慮ではない」
真壁は、静かに言った。
「探すのは、鉱脈へ当たらなかった横坑ですな」
アルベルトは、すぐに頷いた。
「ヴィクトルへ連絡を出そう。クラッセン子爵家には、坑道図と鉱夫を用意させる」
真壁は、地図から手を離した。
「恐れ入ります」
「蔵として整える価値があると分かれば、侯爵家の農政事業として扱う。食品会社が使う区画については、後でリュシアと詰めればよい」
「承知しました」
リュシアは、帳面の端へ短く書き込んだ。
澪は、その手元を見ながら、自分の大学の予定を思い出した。
明日も講義がある。
地下蔵を探すという話は、押入商会にも関わる。同行すれば、自分の収納や鑑定も役に立つかもしれない。
それでも、大学の予定を当然のように投げ出してよいとは思えなかった。
真壁は、澪が何か言う前に視線を向けた。
「澪君は、大学へ行きたまえ」
「まだ、何も言っていません」
「顔へ出ていますな」
澪は、少しだけ視線を逸らした。
「二泊三日ですよね」
「銀鹿山は近くない。坑道を一つ見れば済む話でもないのでね」
「私は、大学へ戻ります」
「それでよい」
真壁の声は、突き放すものではなかった。
「君の荷まで、こちらへ積む必要はない。戻ったら、きちんと報告しよう」
澪は、小さく頷いた。
侯爵家の館の前では、ハイエースの後部扉が開いていた。
エーリヒは、手元の紙を見ながら、車内へ収められた荷を一つずつ確かめている。真壁は、ランタンの火が問題なく灯ることを確認すると、布で包み、手の届きやすい位置へ置いた。
地図と記録用紙は、助手席の後ろへまとめられている。水と食料は、走行中に崩れないよう箱へ収められ、寝具は車内の奥へ押し込まれていた。
澪は、館の石段を下りながら、手元の紙へ目を落とした。
昨夜、六畳間で書いたものだった。
難しいことは書いていない。
坑道へ水が入り込まないか。
鼠が入る隙間はないか。
荷車を入口へ寄せられるか。
芋と豆と樽を、離して置けるか。
崩れやすい場所や、鉱毒水が流れ込む危険はないか。
自分で調査へ行けないなら、気づいたことだけでも渡しておきたかった。
「エーリヒさん」
呼び掛けると、農政官は紙から顔を上げた。
「これも、見てもらえますか」
澪は、自分の書いた紙を差し出した。
「私が思いついたことだけです。農政の方で必要な確認と、重なっているかもしれません」
エーリヒは、受け取った紙へ目を落とした。
「いえ。食品会社の樽まで考えるなら、見方が増えた方がよいでしょう。使わせていただきます」
「お願いします」
真壁が運転席の扉を開いた。
「では、行ってくる」
「戻ったら、結果を教えてください」
「無論」
澪は、少し迷ってから続けた。
「無理はしないでください」
真壁は、僅かに目を細めた。
「危うい場所へ、急いで踏み込むつもりはありませんな」
エーリヒが助手席へ乗り込む。
ハイエースは、低いエンジン音を響かせながら館を離れた。
澪は、車体が門の向こうへ消えるまで見送った。
その後で、押し入れを通って六畳間へ戻る。
机の上には、大学の講義資料と、食品原料卸から届いた書類が並んでいた。
澪は、大学用の鞄へノートを入れ直した。
自分にしか持てない荷もある。
真壁に言われたからではなく、少しずつ、そう思えるようになっていた。
侯爵領の北西へ向かう街道は、銀鹿山へ近づくほど細くなった。
ハイエースは、荷車の轍が深く残る道を、車体を揺らしながら進んでいく。
平地では畑が広がり、収穫を終えた場所には乾いた土の色が見えていた。しかし、昼を過ぎる頃には、景色の中へ低い山並みが増え、道の両脇へ木々が迫り始めた。
エーリヒは、助手席で地図を開いている。
「この村から銀鹿山へ向かう道は、春先に泥濘みます」
指先で示した場所には、小さな川が描かれていた。
「芋を出す頃までに、荷車が通れる状態へ戻るでしょうか」
「橋の手前だけ、少々弱い」
真壁は、前方の道を見たまま答えた。
「大きく直すほどではない。水を逃がす溝を整え、砕石を入れればよいでしょう」
「蔵を見つけるだけでは足りませんね」
「荷を置くなら、荷を動かす道も要りますな」
山道へ入ると、速度はさらに落ちた。
ハイエースなら越えられる坂でも、荷車ならば馬を休ませなければならない。道の片側が崩れている場所では、真壁は一度車を停め、地図へ短い印を付けた。
エーリヒも、村の名簿へ書き込みを加える。
春に芋を出す時期。
豆を村へ渡す時期。
食品会社から樽を運び込む時期。
同じ道を使うとしても、荷車が集中する日をずらさなければならない。
夕方になると、山道の脇にある乾いた高台で車を停めた。
斜面の下には小さな川が流れているが、車を置いた場所までは湿気が上がってこない。真壁は、地面の硬さを確かめてから、ハイエースを風除けになる向きへ動かした。
エーリヒは、車内から地図と名簿を取り出した。
湯が沸くまでの間も、紙から目を離さない。
「作らせることばかり考えていました」
エーリヒは、広げた名簿へ指を置いた。
「育てたい農家が集まり、畑もある。ならば、配ればよいと。しかし、芋を渡す前にも、守る時間がある」
真壁は、湯を注いだカップを差し出した。
「畑へ渡す前にも、荷には時間があります。いま気づいたのであれば、遅くはない」
「中央に一つ蔵を作れば、十分でしょうか」
「最初の冬を越すには、役に立つでしょう」
真壁は、自分のカップへ口を付けた。
「だが、領内へ広げるなら、いずれ村ごとの小さな蔵も要る。すべてを銀鹿山へ集め、春にまた戻すだけでは、道へ余計な荷が掛かる」
エーリヒは、地図へ目を落とした。
「まず銀鹿山で管理し、扱い方を覚える。その後、村へ広げる」
「悪くない」
真壁は、暗くなり始めた道の先を見る。
「蔵も、畑と同じです。一つ作って終わるものではない」
夕暮れの冷気が、木々の間から高台へ降りてくる。
エーリヒは、名簿の余白へ、新しい印を書き加えた。
二日目の昼前、ハイエースは銀鹿山の鉱山町へ入った。
以前訪れた時よりも、入口近くの道は歩きやすくなっていた。
沢水が流れ込んでいた場所には溝が掘られ、廃石は道から離れた場所へ寄せられている。作業小屋の脇には、補修に使う木材が積まれていた。
町の者は、見慣れない車が来たことで一度振り返ったが、運転席から真壁が降りると、表情を少しだけ緩めた。
ヴィクトル・クラッセン子爵は、作業小屋の前で待っていた。
「真壁殿。農政官殿。遠いところを、よく来てくださった」
「突然の願いを聞いていただき、恐れ入ります」
真壁は、静かに頭を下げた。
ヴィクトルは、エーリヒとも挨拶を交わした後、作業小屋へ二人を案内した。
机の上には、すでに古い坑道図が広げられている。
「アルベルト殿から、坑道を見たいと聞きました」
ヴィクトルは、紙の端を押さえた。
「採掘再開へ向け、何か確認されるのかと思いましたが」
「今回は、石を掘る話ではありません」
真壁は、坑道図へ視線を落とした。
「芋も豆も、樽も、急かさず預けられる場所が欲しい」
ヴィクトルは、一度だけ瞬きをした。
「鉱山町で、芋を預かることになるとは思いませんでした」
「鉱石だけが、この山で扱う荷ではありますまい」
真壁は、坑道図の中央を指先で避けた。
「ただし、本坑道は使わない。鉱毒水もある。排水も、食品を置くには不安が残る」
「同感です」
ヴィクトルは、図の端へ視線を移した。
「本坑道から離れた横坑なら、いくつか心当たりがあります。試しに掘ったものの、鉱脈へ当たらず、使われなくなった場所です」
ヴィクトルは、外にいた鉱夫を呼び、古い図面をもう一枚持ってこさせた。
紙は黄ばんでいた。
線も、ところどころ薄れている。
それでも、本坑道から離れた位置へ、短い横線がいくつか残っていた。
「この横坑なら、昔は坑木と道具を置いていた」
年嵩の鉱夫が、図の一角を指した。
「石が出なかったから、掘るのを止めた。沢からも少し離れている。入口までなら、荷車も寄せられる」
「中は」
「長く入っていない。入口は塞がっていないはずだが、奥まで使えるかは分からん」
真壁は、図面を見たまま頷いた。
「まず、入口を見ましょう」
横坑へ向かう道は、鉱山町の外れから斜面へ沿って伸びていた。
ハイエースは途中まで進めたが、最後は草の伸びた細道を歩く必要があった。
ヴィクトルと鉱夫たちが先へ進み、真壁とエーリヒが後へ続く。
林の中へ入ると、日中でも空気が少し冷たい。
やがて、斜面の一角へ、黒い入口が見えた。
朽ちた坑木が片側へ倒れ、周囲には草が伸びている。それでも、入口そのものは崩れていなかった。
真壁は、すぐ中へ入らなかった。
足元へしゃがみ込み、入口付近の土へ指を触れる。
「沢水は来ていませんな」
エーリヒは、振り返って道幅を確かめた。
「荷車は、ここまで寄せられます。入口前で向きを変える場所も取れそうです」
鉱夫の一人が、ランタンを灯した。
真壁は、その灯りを借り、入口から数歩だけ奥へ進む。
床は乾いていた。
本坑道のように、水が流れた跡もない。
壁へ残る石の色を見てから、地図へ意識を向ける。
坑道の線が、暗い斜面の内側へ伸びていた。
本坑道とは離れている。
危険な排水坑ともつながっていない。
奥には、枝分かれした横穴がいくつかある。
「今日は、ここまでですかな」
ヴィクトルが尋ねた。
「左様」
真壁は、入口の奥へ揺れるランタンの光を見た。
「日が傾いてから、長く使われていない横坑へ入るほど急いではいない。明朝、改めて見ましょう」
鉱夫たちは頷いた。
エーリヒは、入口から道までの距離を歩数で確かめ、紙へ書き込んだ。
芋を運び込む時。
春に苗床へ出す時。
豆を村へ配る時。
樽を運ぶ時。
横坑が使えるとしても、入口で荷車が詰まれば、仕事は進まない。
農政官は、暗くなり始めた道を見ながら、何度か紙へ印を付けた。
三日目の朝、横坑の中には、複数のランタンが灯った。
真壁とエーリヒは、鉱夫たちとともに、入口から奥へ進む。
ヴィクトルも、最初の分岐までは同行した。
足元は、想像していたよりも平らだった。
以前、坑木や道具を置いていたためだろう。壁際には、古い木片が残っている。朽ちた部分は多いが、鉱夫たちが歩く場所には大きな段差がなかった。
真壁は、地図と現場を重ねながら、歩みを止める。
「ここは、定期的に見に来る荷がよいでしょうな」
入口から近い。
春に苗床へ回す芋を置けば、状態を確認しやすい。傷みが見つかった時にも、奥の荷を動かさず取り出せる。
エーリヒは、床の広さを目で測った。
「木箱を床へ直に置かず、台を入れます。列の間へ、人が通れる幅も残したい」
「よい判断だ」
さらに奥へ進むと、右手の枝坑は空気が乾いていた。
エーリヒは、壁へ手を当てる。
「豆はこちらへ分けた方がよさそうです。入口に近すぎる場所より、湿気が入りにくい」
「鼠への備えは」
「入口だけでは足りません。箱にも蓋を付けます。定期点検の時刻と担当者も、帳面へ残します」
真壁は、短く頷いた。
左手の枝坑は、入口から少し離れている。
空気の動きは穏やかで、壁も乾いていた。
鉱夫が掲げたランタンの光が、奥へ静かに伸びる。
真壁は、しばらく何も言わなかった。
「こちらは」
エーリヒが尋ねる。
「樽ですな」
真壁は、坑道の奥へ視線を向けた。
「味噌も醤油も、酒も、急かされるのを好まぬ。入口の出入りへ付き合わせる必要はないでしょう」
エーリヒは、紙へ新しい線を書き込んだ。
「食品会社が使う区画として、分けておきます。農政用の芋と豆とは、管理帳面も別にします」
「リュシア君と相談するとよい」
少し離れた場所には、小さな横穴もあった。
広くはない。
しかし、状態の悪い荷を一時的に分けるには使える。
エーリヒは、入口付近へ戻りながら、鉱夫へいくつか尋ねた。
天井の補強が必要な場所を見上げ、入口へ新しい扉を取り付ける位置を確かめる。床へ水が入り込んだ場合に流す溝をどこへ通すか考え、棚や木箱を組むために使える木材の量も確認する。
鉱夫は、壁を叩き、音を確かめ、古い坑木へ触れながら答えた。
真壁は、すぐに完成品を出さなかった。
ここで暮らし、後から直すのは、鉱山町の者たちである。
扉が壊れるたびに真壁を呼ばなければならない蔵では、使い続けられない。
ヴィクトルは、入口近くで鉱夫たちの話を聞きながら、坑道図へ目を落とした。
「石が出なかったため、捨てられた横坑です」
エーリヒも、乾いた床と、用途ごとに分けられる枝坑を見た。
真壁は、坑道の奥から入口へ向かって差し込む光を見る。
「だが、芋も、豆も、樽も置ける。使い道がなかったわけではありませんな」
鉱夫の一人が、少しだけ笑った。
「芋を入れる坑道になるとは、掘った奴らも思わなかったでしょうな」
「役目が変わっただけでしょう」
真壁は、入口の木枠へ手を置いた。
「まず、使う区画だけを整えましょう。欲張って奥まで触る必要はない」
ヴィクトルが頷いた。
「鉱夫と職人を集めます。補強の必要な場所を見て、扉と棚を作らせましょう」
「農政側からも、人を出します」
エーリヒは、紙へ書き込んだ線を確かめた。
「村へ渡すまで、領で預かる荷です。鉱夫たちへ、管理まで任せるわけには参りません」
「食品会社の区画については、リュシア君と条件を詰めればよい」
真壁は、坑道図を折り畳んだ。
「筋が見えましたな」
横坑の前へ戻ると、昼を少し過ぎていた。
真壁は、測量道具と坑道図を収納へ収める。
使わなかった野営道具も、順番に消えていく。
最後に、横坑へ続く道の手前まで戻り、ハイエースへ手を触れた。
車体が、その場から静かに消える。
エーリヒは、何もなくなった地面を見た。
「帰りの車まで、しまうのですか」
「帰路まで、三日目の仕事へ加える必要はありますまい」
真壁は、地図へ意識を向けた。
食品工場のある町。
登録した拠点は、まだ一つだけである。
銀鹿山へ自由に飛べるわけではない。
戻る道が、短くなっただけだ。
「農政官殿」
「はい」
「少々、驚かれるかもしれない」
エーリヒが、何を尋ねるべきか迷ったように真壁を見る。
「同行は、一名までです。今回は、都合がよい」
真壁が転移を使う。
派手な光は出なかった。
銀鹿山の冷えた空気が、唐突に消える。
靴底へ伝わっていた土の柔らかさが、次の瞬間には、食品工場前の硬い地面へ変わっていた。
町の音が聞こえる。
遠くで、子供たちの声もする。
エーリヒは、しばらく動かなかった。
数時間前までいた銀鹿山の山肌は、どこにもない。
「戻りましたな」
真壁は、何事もなかったように周囲を見回した。
エーリヒは、ようやく息を吐いた。
「行きには、一日以上掛かりました」
「帰りまで同じ道を使う必要はありますまい」
「便利な力です」
「戻る場所が決まっている時にはね」
真壁は、食品工場の方角へ歩き始めた。
「どこへでも行けるわけではない。同行者も、一名までです。使える場所で使えば、それでよい」
食品工場の記録机へ、銀鹿山の坑道図が広げられた。
エーリヒは、書き込まれた線を指で追う。
横坑は、まだ蔵ではない。
入口には、直すべき木枠が残っている。天井も、鉱夫に見てもらわなければならない場所がある。棚を入れる前に、床へ置く台も作る必要がある。鼠を防ぐ戸も、点検の記録も、これから整える。
しかし、使える場所は見えた。
芋を春まで守る場所。
豆を播種期まで預ける場所。
食品会社の樽を寝かせる場所。
石が出なかったために、長く使われずにいた横坑が、来年の畑と、次の味噌と醤油と芋焼酎を守る。
「石が出なかった横坑が、領の畑を支えることになるとは思いませんでした」
エーリヒは、坑道図の入口へ指を置いた。
真壁は、銀鹿山の方角へ一度だけ目を向ける。
「採るものがなくとも、預ける荷はある」
静かに折り畳まれた坑道図の中で、石の出なかった横坑は、これから蔵になる。