押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第122話 石の出なかった蔵

 

 侯爵家の執務室には、いつもより大きな地図が広げられていた。

 

 領内の村々を記した紙の上へ、細い木片がいくつも置かれている。赤い印は、芋を育てたいと申し出た村。青い印は、大豆を試したいと願い出た村。木片の脇には、農政官エーリヒ・ヴァイスが書き込んだ小さな文字が並んでいた。

 

 畑の広さだけではない。

 

 水はけや苗床を作れる場所、冬場に雪が積もる日数、荷車を出せる家の数、収穫期に動ける人手まで、村ごとに書き分けられている。

 

 澪は、机の端へ立ったまま、その細かな文字を目で追った。

 

 大学の講義で配られた資料よりも、よほど細かい。

 

 侯爵領で芋と大豆を作りたいという農家が増えたことは、嬉しい話だと思っていた。リュシア食品会社が豊作時にも買い取る道を作ったことで、余った作物を抱える不安が減った。侯爵家も、候補となる村を選び始めている。

 

 こちらで手配した原料も、まだ届いてはいないが、受け取る準備までは進んだ。

 

 食品加工へ使う分と、侯爵領の畑へ渡す分を合わせ、芋は二十六トン。大豆は六・五トン。塩や麹に関わる資材も、食品原料卸へまとめて依頼してある。

 

 数字を聞くたびに、澪は少しだけ頭が痛くなる。

 

 前回は、二トンの芋でも十分に大事だった。

 

 今度は、二十六トンである。

 

 押入商会の口座へ振り込まれた金額を見た時も、自分の感覚だけが急に取り残されたような気がした。修さんの会社で白金三キログラムを買い取ってもらい、必要な資金は確保できた。それでも、パソコンの画面へ表示された数字が、急に軽くなったわけではない。

 

 ただ、ここまで来れば、後は運び込むだけだと思っていた。

 

 エーリヒは、村ごとの一覧へ視線を落としたまま、すぐには口を開かなかった。

 

 アルベルトも急かさない。

 

 窓の外から、庭木の葉が擦れる音だけが聞こえていた。

 

「希望する農家は、予想よりも多く集まりました」

 

 ようやく顔を上げたエーリヒの声は、喜びだけを含んではいなかった。

 

「第一陣として選べる村も、すでに絞り込んでおります。しかし、配布の順を考えているうちに、先に解決しなければならない問題へ気づきました」

 

 澪は、地図へ置かれた木片を見る。

 

「畑が足りないんですか」

 

「畑はあります。人手も、最初の規模であれば足りるでしょう」

 

 エーリヒは、赤い印の置かれた村を指先でなぞった。

 

「ですが、芋を受け取っても、すぐに畑へ植えることはできません。春まで、生かしておかなければならない」

 

 澪は、瞬きをした。

 

 芋を買う。

 

 運ぶ。

 

 村へ渡す。

 

 自分の頭の中では、そこまでが一続きになっていた。

 

 畑へ植える季節があることは、分かっていたはずなのに、荷物として届く二十トンの芋を、春まで置いておく場所までは考えていなかった。

 

「各家へ預ければよい、とは参りません」

 

 エーリヒは、机へ置かれた別の紙を開いた。

 

「冬の冷え込みが強い家もあります。納屋へ鼠が入る家もある。湿気の多い場所へ置けば、春を待たずに傷みが広がるでしょう。状態を見ず、傷んだ芋を苗床へ入れれば、村ごとの失敗では済みません」

 

 澪は、地図の上へ置かれた木片を、もう一度見直した。

 

 配る先を決めるだけでは足りない。

 

 配る時期まで守らなければならない。

 

「豆も同じです」

 

 エーリヒは、青い印へ手を移した。

 

「芋ほど扱いは難しくありませんが、播く時期まで湿気と虫から守らなければなりません。鼠にも気を付ける必要があります。村ごとの納屋へ少量ずつ分ければ、記録も散ります」

 

 リュシアは、持参した帳面へ片手を置いたまま、静かに話を聞いていた。

 

 工場の責任者として、すでに別の問題へ気づいている顔だった。

 

「食品会社の方でも、置く場所は足りなくなるよ」

 

 リュシアは、帳面を開いた。

 

「味噌も醤油も、仕込んだ日のうちに売れるわけじゃない。芋焼酎も、小樽へ入れて寝かせる分が増える。返ってきた樽を洗って乾かす場所まで考えれば、作業場へ何でも置くわけにはいかないね」

 

 澪は、食品工場の中を思い浮かべた。

 

 最初に芋と大豆を運び込んだ時には、広く見えた。

 

 洗い場があり、乾燥場があり、倉庫もある。発酵試験室も、失敗品を分ける部屋も用意されていた。

 

 しかし、商品が売れ、次の仕込みが始まれば、空いていた場所は次々に埋まっていく。

 

 作る場所と、待たせる場所。

 

 同じではない。

 

「芋を置く場所も、必要なんですね」

 

 澪が言うと、エーリヒは頷いた。

 

「まずは、冬を越させる保管場所を整えたいと考えております」

 

「芋蔵を探すんですか」

 

 真壁は、机へ広げられた地図ではなく、リュシアの帳面へ一度だけ目を向けた。

 

 その視線を追い、澪も、工場へ並び始めた樽の数を思い出した。

 

「芋も、豆も、樽もだよ、澪君」

 

 澪は、真壁を見る。

 

「芋だけではないんですか」

 

「芋だけなら、春まで守ればよい。だが、豆も来る。樽も増える。味噌も醤油も、時間を置くことで品になる」

 

 真壁は、地図の端へ長い指を置いた。

 

「工場は、働く場所です。待たせる荷まで押し込めば、いずれ仕事の邪魔になる。荷にも、時間を過ごす場所が要る」

 

 澪は、少しだけ額へ手を当てたくなった。

 

 二十トンの芋をどうするのかという話だったはずなのに、いつの間にか地下倉庫の話へ広がっている。

 

 ただし、真壁が余計なものを増やしているわけではない。

 

 必要になるものが、少し遅れて姿を見せているだけだった。

 

「同じ場所へ、全部置くんですか」

 

「同じ場所へ積み上げるつもりはありませんな」

 

 真壁は、僅かに目を細めた。

 

「芋には芋の都合がある。豆には豆の都合がある。樽へ預けた酒や味噌にも、邪魔をされたくない時間がある。区画を分けられる場所が必要です」

 

 リュシアが帳面を閉じた。

 

「食品会社で使う分は、きちんと区画を借りるよ。農政の倉を、勝手に使わせてもらうつもりはない」

 

「使用料と管理の分担は、候補地を見てから決めましょう」

 

 アルベルトは、机へ両手を置いた。

 

「農政のためだけでも、保管場所は必要だ。食品会社が区画を借りるのであれば、維持費の一部も回収できる。悪い話ではない」

 

 エーリヒは、考えるように地図へ目を落とした。

 

「領内の地下室や洞穴を、改めて調べますか」

 

「候補を増やしすぎる必要はありますまい」

 

 真壁は、地図の北西へ指を滑らせた。

 

 白皿丘でも、水車町でもない。

 

 侯爵領の端に近い銀鹿山。

 

 以前、古い坑道と鉱毒水を確認した場所だった。

 

「まずは、銀鹿山を見ましょう」

 

 エーリヒが、指先の位置を見た。

 

「旧坑道ですか」

 

「本坑道へ食料を置くほど、無思慮ではない」

 

 真壁は、静かに言った。

 

「探すのは、鉱脈へ当たらなかった横坑ですな」

 

 アルベルトは、すぐに頷いた。

 

「ヴィクトルへ連絡を出そう。クラッセン子爵家には、坑道図と鉱夫を用意させる」

 

 真壁は、地図から手を離した。

 

「恐れ入ります」

 

「蔵として整える価値があると分かれば、侯爵家の農政事業として扱う。食品会社が使う区画については、後でリュシアと詰めればよい」

 

「承知しました」

 

 リュシアは、帳面の端へ短く書き込んだ。

 

 澪は、その手元を見ながら、自分の大学の予定を思い出した。

 

 明日も講義がある。

 

 地下蔵を探すという話は、押入商会にも関わる。同行すれば、自分の収納や鑑定も役に立つかもしれない。

 

 それでも、大学の予定を当然のように投げ出してよいとは思えなかった。

 

 真壁は、澪が何か言う前に視線を向けた。

 

「澪君は、大学へ行きたまえ」

 

「まだ、何も言っていません」

 

「顔へ出ていますな」

 

 澪は、少しだけ視線を逸らした。

 

「二泊三日ですよね」

 

「銀鹿山は近くない。坑道を一つ見れば済む話でもないのでね」

 

「私は、大学へ戻ります」

 

「それでよい」

 

 真壁の声は、突き放すものではなかった。

 

「君の荷まで、こちらへ積む必要はない。戻ったら、きちんと報告しよう」

 

 澪は、小さく頷いた。

 

 

 

 侯爵家の館の前では、ハイエースの後部扉が開いていた。

 

 エーリヒは、手元の紙を見ながら、車内へ収められた荷を一つずつ確かめている。真壁は、ランタンの火が問題なく灯ることを確認すると、布で包み、手の届きやすい位置へ置いた。

 

 地図と記録用紙は、助手席の後ろへまとめられている。水と食料は、走行中に崩れないよう箱へ収められ、寝具は車内の奥へ押し込まれていた。

 

 澪は、館の石段を下りながら、手元の紙へ目を落とした。

 

 昨夜、六畳間で書いたものだった。

 

 難しいことは書いていない。

 

 坑道へ水が入り込まないか。

 

 鼠が入る隙間はないか。

 

 荷車を入口へ寄せられるか。

 

 芋と豆と樽を、離して置けるか。

 

 崩れやすい場所や、鉱毒水が流れ込む危険はないか。

 

 自分で調査へ行けないなら、気づいたことだけでも渡しておきたかった。

 

「エーリヒさん」

 

 呼び掛けると、農政官は紙から顔を上げた。

 

「これも、見てもらえますか」

 

 澪は、自分の書いた紙を差し出した。

 

「私が思いついたことだけです。農政の方で必要な確認と、重なっているかもしれません」

 

 エーリヒは、受け取った紙へ目を落とした。

 

「いえ。食品会社の樽まで考えるなら、見方が増えた方がよいでしょう。使わせていただきます」

 

「お願いします」

 

 真壁が運転席の扉を開いた。

 

「では、行ってくる」

 

「戻ったら、結果を教えてください」

 

「無論」

 

 澪は、少し迷ってから続けた。

 

「無理はしないでください」

 

 真壁は、僅かに目を細めた。

 

「危うい場所へ、急いで踏み込むつもりはありませんな」

 

 エーリヒが助手席へ乗り込む。

 

 ハイエースは、低いエンジン音を響かせながら館を離れた。

 

 澪は、車体が門の向こうへ消えるまで見送った。

 

 その後で、押し入れを通って六畳間へ戻る。

 

 机の上には、大学の講義資料と、食品原料卸から届いた書類が並んでいた。

 

 澪は、大学用の鞄へノートを入れ直した。

 

 自分にしか持てない荷もある。

 

 真壁に言われたからではなく、少しずつ、そう思えるようになっていた。

 

 

 

 侯爵領の北西へ向かう街道は、銀鹿山へ近づくほど細くなった。

 

 ハイエースは、荷車の轍が深く残る道を、車体を揺らしながら進んでいく。

 

 平地では畑が広がり、収穫を終えた場所には乾いた土の色が見えていた。しかし、昼を過ぎる頃には、景色の中へ低い山並みが増え、道の両脇へ木々が迫り始めた。

 

 エーリヒは、助手席で地図を開いている。

 

「この村から銀鹿山へ向かう道は、春先に泥濘みます」

 

 指先で示した場所には、小さな川が描かれていた。

 

「芋を出す頃までに、荷車が通れる状態へ戻るでしょうか」

 

「橋の手前だけ、少々弱い」

 

 真壁は、前方の道を見たまま答えた。

 

「大きく直すほどではない。水を逃がす溝を整え、砕石を入れればよいでしょう」

 

「蔵を見つけるだけでは足りませんね」

 

「荷を置くなら、荷を動かす道も要りますな」

 

 山道へ入ると、速度はさらに落ちた。

 

 ハイエースなら越えられる坂でも、荷車ならば馬を休ませなければならない。道の片側が崩れている場所では、真壁は一度車を停め、地図へ短い印を付けた。

 

 エーリヒも、村の名簿へ書き込みを加える。

 

 春に芋を出す時期。

 

 豆を村へ渡す時期。

 

 食品会社から樽を運び込む時期。

 

 同じ道を使うとしても、荷車が集中する日をずらさなければならない。

 

 夕方になると、山道の脇にある乾いた高台で車を停めた。

 

 斜面の下には小さな川が流れているが、車を置いた場所までは湿気が上がってこない。真壁は、地面の硬さを確かめてから、ハイエースを風除けになる向きへ動かした。

 

 エーリヒは、車内から地図と名簿を取り出した。

 

 湯が沸くまでの間も、紙から目を離さない。

 

「作らせることばかり考えていました」

 

 エーリヒは、広げた名簿へ指を置いた。

 

「育てたい農家が集まり、畑もある。ならば、配ればよいと。しかし、芋を渡す前にも、守る時間がある」

 

 真壁は、湯を注いだカップを差し出した。

 

「畑へ渡す前にも、荷には時間があります。いま気づいたのであれば、遅くはない」

 

「中央に一つ蔵を作れば、十分でしょうか」

 

「最初の冬を越すには、役に立つでしょう」

 

 真壁は、自分のカップへ口を付けた。

 

「だが、領内へ広げるなら、いずれ村ごとの小さな蔵も要る。すべてを銀鹿山へ集め、春にまた戻すだけでは、道へ余計な荷が掛かる」

 

 エーリヒは、地図へ目を落とした。

 

「まず銀鹿山で管理し、扱い方を覚える。その後、村へ広げる」

 

「悪くない」

 

 真壁は、暗くなり始めた道の先を見る。

 

「蔵も、畑と同じです。一つ作って終わるものではない」

 

 夕暮れの冷気が、木々の間から高台へ降りてくる。

 

 エーリヒは、名簿の余白へ、新しい印を書き加えた。

 

 

 

 二日目の昼前、ハイエースは銀鹿山の鉱山町へ入った。

 

 以前訪れた時よりも、入口近くの道は歩きやすくなっていた。

 

 沢水が流れ込んでいた場所には溝が掘られ、廃石は道から離れた場所へ寄せられている。作業小屋の脇には、補修に使う木材が積まれていた。

 

 町の者は、見慣れない車が来たことで一度振り返ったが、運転席から真壁が降りると、表情を少しだけ緩めた。

 

 ヴィクトル・クラッセン子爵は、作業小屋の前で待っていた。

 

「真壁殿。農政官殿。遠いところを、よく来てくださった」

 

「突然の願いを聞いていただき、恐れ入ります」

 

 真壁は、静かに頭を下げた。

 

 ヴィクトルは、エーリヒとも挨拶を交わした後、作業小屋へ二人を案内した。

 

 机の上には、すでに古い坑道図が広げられている。

 

「アルベルト殿から、坑道を見たいと聞きました」

 

 ヴィクトルは、紙の端を押さえた。

 

「採掘再開へ向け、何か確認されるのかと思いましたが」

 

「今回は、石を掘る話ではありません」

 

 真壁は、坑道図へ視線を落とした。

 

「芋も豆も、樽も、急かさず預けられる場所が欲しい」

 

 ヴィクトルは、一度だけ瞬きをした。

 

「鉱山町で、芋を預かることになるとは思いませんでした」

 

「鉱石だけが、この山で扱う荷ではありますまい」

 

 真壁は、坑道図の中央を指先で避けた。

 

「ただし、本坑道は使わない。鉱毒水もある。排水も、食品を置くには不安が残る」

 

「同感です」

 

 ヴィクトルは、図の端へ視線を移した。

 

「本坑道から離れた横坑なら、いくつか心当たりがあります。試しに掘ったものの、鉱脈へ当たらず、使われなくなった場所です」

 

 ヴィクトルは、外にいた鉱夫を呼び、古い図面をもう一枚持ってこさせた。

 

 紙は黄ばんでいた。

 

 線も、ところどころ薄れている。

 

 それでも、本坑道から離れた位置へ、短い横線がいくつか残っていた。

 

「この横坑なら、昔は坑木と道具を置いていた」

 

 年嵩の鉱夫が、図の一角を指した。

 

「石が出なかったから、掘るのを止めた。沢からも少し離れている。入口までなら、荷車も寄せられる」

 

「中は」

 

「長く入っていない。入口は塞がっていないはずだが、奥まで使えるかは分からん」

 

 真壁は、図面を見たまま頷いた。

 

「まず、入口を見ましょう」

 

 

 

 横坑へ向かう道は、鉱山町の外れから斜面へ沿って伸びていた。

 

 ハイエースは途中まで進めたが、最後は草の伸びた細道を歩く必要があった。

 

 ヴィクトルと鉱夫たちが先へ進み、真壁とエーリヒが後へ続く。

 

 林の中へ入ると、日中でも空気が少し冷たい。

 

 やがて、斜面の一角へ、黒い入口が見えた。

 

 朽ちた坑木が片側へ倒れ、周囲には草が伸びている。それでも、入口そのものは崩れていなかった。

 

 真壁は、すぐ中へ入らなかった。

 

 足元へしゃがみ込み、入口付近の土へ指を触れる。

 

「沢水は来ていませんな」

 

 エーリヒは、振り返って道幅を確かめた。

 

「荷車は、ここまで寄せられます。入口前で向きを変える場所も取れそうです」

 

 鉱夫の一人が、ランタンを灯した。

 

 真壁は、その灯りを借り、入口から数歩だけ奥へ進む。

 

 床は乾いていた。

 

 本坑道のように、水が流れた跡もない。

 

 壁へ残る石の色を見てから、地図へ意識を向ける。

 

 坑道の線が、暗い斜面の内側へ伸びていた。

 

 本坑道とは離れている。

 

 危険な排水坑ともつながっていない。

 

 奥には、枝分かれした横穴がいくつかある。

 

「今日は、ここまでですかな」

 

 ヴィクトルが尋ねた。

 

「左様」

 

 真壁は、入口の奥へ揺れるランタンの光を見た。

 

「日が傾いてから、長く使われていない横坑へ入るほど急いではいない。明朝、改めて見ましょう」

 

 鉱夫たちは頷いた。

 

 エーリヒは、入口から道までの距離を歩数で確かめ、紙へ書き込んだ。

 

 芋を運び込む時。

 

 春に苗床へ出す時。

 

 豆を村へ配る時。

 

 樽を運ぶ時。

 

 横坑が使えるとしても、入口で荷車が詰まれば、仕事は進まない。

 

 農政官は、暗くなり始めた道を見ながら、何度か紙へ印を付けた。

 

 

 

 三日目の朝、横坑の中には、複数のランタンが灯った。

 

 真壁とエーリヒは、鉱夫たちとともに、入口から奥へ進む。

 

 ヴィクトルも、最初の分岐までは同行した。

 

 足元は、想像していたよりも平らだった。

 

 以前、坑木や道具を置いていたためだろう。壁際には、古い木片が残っている。朽ちた部分は多いが、鉱夫たちが歩く場所には大きな段差がなかった。

 

 真壁は、地図と現場を重ねながら、歩みを止める。

 

「ここは、定期的に見に来る荷がよいでしょうな」

 

 入口から近い。

 

 春に苗床へ回す芋を置けば、状態を確認しやすい。傷みが見つかった時にも、奥の荷を動かさず取り出せる。

 

 エーリヒは、床の広さを目で測った。

 

「木箱を床へ直に置かず、台を入れます。列の間へ、人が通れる幅も残したい」

 

「よい判断だ」

 

 さらに奥へ進むと、右手の枝坑は空気が乾いていた。

 

 エーリヒは、壁へ手を当てる。

 

「豆はこちらへ分けた方がよさそうです。入口に近すぎる場所より、湿気が入りにくい」

 

「鼠への備えは」

 

「入口だけでは足りません。箱にも蓋を付けます。定期点検の時刻と担当者も、帳面へ残します」

 

 真壁は、短く頷いた。

 

 左手の枝坑は、入口から少し離れている。

 

 空気の動きは穏やかで、壁も乾いていた。

 

 鉱夫が掲げたランタンの光が、奥へ静かに伸びる。

 

 真壁は、しばらく何も言わなかった。

 

「こちらは」

 

 エーリヒが尋ねる。

 

「樽ですな」

 

 真壁は、坑道の奥へ視線を向けた。

 

「味噌も醤油も、酒も、急かされるのを好まぬ。入口の出入りへ付き合わせる必要はないでしょう」

 

 エーリヒは、紙へ新しい線を書き込んだ。

 

「食品会社が使う区画として、分けておきます。農政用の芋と豆とは、管理帳面も別にします」

 

「リュシア君と相談するとよい」

 

 少し離れた場所には、小さな横穴もあった。

 

 広くはない。

 

 しかし、状態の悪い荷を一時的に分けるには使える。

 

 エーリヒは、入口付近へ戻りながら、鉱夫へいくつか尋ねた。

 

 天井の補強が必要な場所を見上げ、入口へ新しい扉を取り付ける位置を確かめる。床へ水が入り込んだ場合に流す溝をどこへ通すか考え、棚や木箱を組むために使える木材の量も確認する。

 

 鉱夫は、壁を叩き、音を確かめ、古い坑木へ触れながら答えた。

 

 真壁は、すぐに完成品を出さなかった。

 

 ここで暮らし、後から直すのは、鉱山町の者たちである。

 

 扉が壊れるたびに真壁を呼ばなければならない蔵では、使い続けられない。

 

 ヴィクトルは、入口近くで鉱夫たちの話を聞きながら、坑道図へ目を落とした。

 

「石が出なかったため、捨てられた横坑です」

 

 エーリヒも、乾いた床と、用途ごとに分けられる枝坑を見た。

 

 真壁は、坑道の奥から入口へ向かって差し込む光を見る。

 

「だが、芋も、豆も、樽も置ける。使い道がなかったわけではありませんな」

 

 鉱夫の一人が、少しだけ笑った。

 

「芋を入れる坑道になるとは、掘った奴らも思わなかったでしょうな」

 

「役目が変わっただけでしょう」

 

 真壁は、入口の木枠へ手を置いた。

 

「まず、使う区画だけを整えましょう。欲張って奥まで触る必要はない」

 

 ヴィクトルが頷いた。

 

「鉱夫と職人を集めます。補強の必要な場所を見て、扉と棚を作らせましょう」

 

「農政側からも、人を出します」

 

 エーリヒは、紙へ書き込んだ線を確かめた。

 

「村へ渡すまで、領で預かる荷です。鉱夫たちへ、管理まで任せるわけには参りません」

 

「食品会社の区画については、リュシア君と条件を詰めればよい」

 

 真壁は、坑道図を折り畳んだ。

 

「筋が見えましたな」

 

 

 

 横坑の前へ戻ると、昼を少し過ぎていた。

 

 真壁は、測量道具と坑道図を収納へ収める。

 

 使わなかった野営道具も、順番に消えていく。

 

 最後に、横坑へ続く道の手前まで戻り、ハイエースへ手を触れた。

 

 車体が、その場から静かに消える。

 

 エーリヒは、何もなくなった地面を見た。

 

「帰りの車まで、しまうのですか」

 

「帰路まで、三日目の仕事へ加える必要はありますまい」

 

 真壁は、地図へ意識を向けた。

 

 食品工場のある町。

 

 登録した拠点は、まだ一つだけである。

 

 銀鹿山へ自由に飛べるわけではない。

 

 戻る道が、短くなっただけだ。

 

「農政官殿」

 

「はい」

 

「少々、驚かれるかもしれない」

 

 エーリヒが、何を尋ねるべきか迷ったように真壁を見る。

 

「同行は、一名までです。今回は、都合がよい」

 

 真壁が転移を使う。

 

 派手な光は出なかった。

 

 銀鹿山の冷えた空気が、唐突に消える。

 

 靴底へ伝わっていた土の柔らかさが、次の瞬間には、食品工場前の硬い地面へ変わっていた。

 

 町の音が聞こえる。

 

 遠くで、子供たちの声もする。

 

 エーリヒは、しばらく動かなかった。

 

 数時間前までいた銀鹿山の山肌は、どこにもない。

 

「戻りましたな」

 

 真壁は、何事もなかったように周囲を見回した。

 

 エーリヒは、ようやく息を吐いた。

 

「行きには、一日以上掛かりました」

 

「帰りまで同じ道を使う必要はありますまい」

 

「便利な力です」

 

「戻る場所が決まっている時にはね」

 

 真壁は、食品工場の方角へ歩き始めた。

 

「どこへでも行けるわけではない。同行者も、一名までです。使える場所で使えば、それでよい」

 

 

 

 食品工場の記録机へ、銀鹿山の坑道図が広げられた。

 

 エーリヒは、書き込まれた線を指で追う。

 

 横坑は、まだ蔵ではない。

 

 入口には、直すべき木枠が残っている。天井も、鉱夫に見てもらわなければならない場所がある。棚を入れる前に、床へ置く台も作る必要がある。鼠を防ぐ戸も、点検の記録も、これから整える。

 

 しかし、使える場所は見えた。

 

 芋を春まで守る場所。

 

 豆を播種期まで預ける場所。

 

 食品会社の樽を寝かせる場所。

 

 石が出なかったために、長く使われずにいた横坑が、来年の畑と、次の味噌と醤油と芋焼酎を守る。

 

「石が出なかった横坑が、領の畑を支えることになるとは思いませんでした」

 

 エーリヒは、坑道図の入口へ指を置いた。

 

 真壁は、銀鹿山の方角へ一度だけ目を向ける。

 

「採るものがなくとも、預ける荷はある」

 

 静かに折り畳まれた坑道図の中で、石の出なかった横坑は、これから蔵になる。

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