押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第125話 冬が来る前に

 押入商会侯爵領事業所の扉を開けると、冷え始めた町の空気と入れ替わるように、乾いた木の匂いが澪を包んだ。

 

 昼を少し過ぎた工房では、朝から続いていた鋸や槌の音が幾分落ち着いていた。それでも作業が止まったわけではない。窓から斜めに差し込む光の中で、削り屑が細かな埃と一緒にゆっくり舞っている。親方の一人は、仕上げた椅子の脚を掌で撫でながら、目では見つけにくい磨き残しを探していた。少し離れた作業台では、別の親方が木箱の蓋を何度も開閉し、擦れる音に耳を澄ませている。

 

 工房の奥で働く子供たちの様子も、以前とは少し違っていた。

 

 ミラは開いた帳面と木箱の札を見比べ、記録の抜けがないかを一つずつ確かめている。ピナは梱包に使った布を広げ、まだ家具を包める物と、別の用途へ回した方がよい物を分けていた。トルは長さの違う端材を前にして少し迷ったらしく、一本を持ってマルテのところまで歩いていく。

 

「これは、補修用でいいですか」

 

 数字を書き込んでいたマルテが顔を上げた。子供たちの中に混じっていても、成人した女性であることは一目で分かる。端材を受け取ると、長さだけではなく、切り口と木目まで確かめてから答えた。

 

「補修用へ回してください。ただし、同じ長さの物とまとめておきましょう」

 

「はい」

 

 トルは素直に頷き、端材を戻した。収納へ入れる前に札を選び直し、区分を間違えていないかをもう一度確かめている。

 

 澪は扉の近くで立ち止まり、その様子を眺めた。

 

 収納は便利だった。物を運ぶだけなら、重さも大きさも気にせずに済む。けれど、何をどこへ収めたのか分からなくなれば、必要な時に取り出せない。以前の子供たちは、収納へ入れられること自体が嬉しくて、先に片づけてから困ることもあった。

 

 今では、札を確かめてから収める。迷った時には、勝手に決めずに聞く。ゴブリンの群れが押し寄せた日を越え、澪と一緒に訓練を重ねるうちに、三人は少しずつ周囲を見るようになっていた。

 

 怖い経験をした分だけ大人になった、と簡単に言ってしまうのは違う気がする。それでも、目の前で落ち着いて動く三人を見ていると、積み重ねた時間が無駄ではなかったことだけは分かった。

 

「澪様」

 

 澪に気づいたマルテが、帳面を残して机の上を空けた。

 

「準備はできています」

 

「ありがとうございます」

 

 澪は一度息を整えてから、収納を開いた。

 

 取り出した給金袋を机へ並べ、帳面と照らし合わせながら数を確かめていく。親方たちの分に続き、ミラ、ピナ、トルの分を置く。最後に、マルテへ渡す袋も忘れていないことを確認した。

 

 袋の中で、硬貨が小さく触れ合った。

 

 入っているのは日本円ではない。金貨と銀貨に、町での日々の買い物に使いやすい銅貨も混ぜてある。押入商会が異世界側で得て、異世界側で使うために残している貨幣だった。

 

 親方たちが作った椅子や棚や木箱は、押し入れを越えた先へ運ばれ、現代側で販売される。九月分の家具と木工品の売上は、暫定で七百二十万円になっていた。

 

 けれど、今日の給金袋へ入っている硬貨は、その売上を両替した物ではない。

 

 異世界側で持っている貨幣を、材料費や給金として使う。親方たちの手で家具や木工品へ変えてもらい、完成品を現代側へ運ぶ。そうして販売して、初めて日本円になる。

 

 押入家具は、異世界側の貨幣を日本円へ換えるための事業所だった。

 

 もちろん、それだけではない。

 

 親方たちには仕事が生まれる。子供たちも、自分にできる作業を覚え、給金を受け取れる。帳面の数字だけを見ていると忘れそうになるが、目の前の工房には、人が働いた跡が残っている。

 

 澪は最初の袋を両手で持ち上げた。人へ給金を渡す立場になったことには、まだ慣れない。けれど、緊張しているからといって、いつまでもマルテに任せきりにはできなかった。

 

「今月も、ご苦労様でした。お給料です」

 

 棟梁格の親方は、木を削り続けて太くなった指で袋を受け取った。

 

「ありがたく頂戴します」

 

 親方は深く頭を下げた後、袋を大切そうに持ち直した。それで一区切りかと思った澪へ、すぐに次の相談を持ちかける。

 

「次の椅子ですが、脚に使う材を、もう少し選ばせていただけますか。節の位置が悪い物は、箱の方へ回したい」

 

「分かりました。後で見せてください」

 

 次の親方へ袋を渡すと、今度は棚の角について意見を求められた。その次には、金具を扱う親方から、蝶番を少し多めに揃えたいという話が出る。

 

 澪は袋を渡しながら、思わず頬を緩めた。

 

 給金日なのだから、もっと仕事が一段落したような雰囲気になると思っていた。けれど、親方たちの頭の中では、もう次の仕事が始まっているらしい。今月の給金を受け取りながら、来月に使う木材や金具を考えている。

 

 工房が止まらず、先へ進んでいる。

 

 そのことが嬉しかった。

 

 親方たちの後は、子供たちの番だった。

 

「ミラさん」

 

「はい」

 

 ミラは帳面を抱えて机の前へ来た。澪が袋を渡す前に、自分の名前がある欄を確かめ、日付と金額へ目を通す。受け取り済みの印を付けてから、両手を差し出した。

 

「今月も、お疲れさまでした」

 

「ありがとうございます」

 

 ミラは給金袋を受け取ると、札を一度確かめ、自分の収納へ入れた。すぐに帳面へ戻り、自分以外の欄にも抜けがないかを見直していく。自分の給金が嬉しくないはずはない。それでも、先に確認を終わらせようとするところが、いかにもミラらしかった。

 

 ピナも、小さな声で礼を言ってから袋を受け取った。札を丁寧に確かめ、収納へ収める。以前のように何度も不安そうに見直すことはなくなったが、嬉しさまで隠せるわけではないらしい。少しだけ柔らかくなった表情を見て、澪も嬉しくなる。

 

 トルは、机の前へ立つ時だけ、いつもより少し胸を張っていた。

 

「トルさんも、お疲れさまでした」

 

「ありがとうございます」

 

 受け取った袋の札を確認し、収納へ入れるところまでは、きちんとしている。

 

 ただ、収め終えた後に浮かんだ満足そうな顔までは隠しきれなかった。

 

 澪は笑いそうになり、慌てて帳面へ視線を落とした。真面目に受け取っているのだから、ここで笑ってはいけない。それでも、唇の端が少しだけ上がってしまった気がする。

 

 最後に、マルテへ給金袋を差し出す。

 

 マルテはすぐに受け取ろうとはしなかった。親方たちと子供たちの欄を順に確認し、受け取り済みの印が揃っていることを確かめる。自分の名前がある行へ目を向けたのは、その後だった。

 

「マルテさん」

 

 澪は、袋を差し出したまま言った。

 

「マルテさんの仕事も、帳面に入っています」

 

 紙を押さえていたマルテの指が、僅かに止まった。

 

 普段と変わらない落ち着いた表情のまま、それでも少しだけ目元を柔らかくして、給金袋を受け取る。

 

「ありがとうございます」

 

「はい」

 

 机の上に並んでいた袋がなくなると、帳面だけが残った。

 

 現代側で家具を売れば、日本円の売上として記録される。異世界側で働く人たちへ渡すのは、この町で使える金貨や銀貨や銅貨だ。貨幣の種類も、帳面へ書く行も同じではない。

 

 けれど、澪には、袋の中で硬貨が触れ合う音の方が、白金の塊よりも商会の金として近く感じられた。

 

 人の手へ戻っていく音だった。

 

 

 

 

 

 

 給金確認が終わっても、工房の仕事は急には止まらなかった。

 

 親方たちは、それぞれの作業台へ戻っていく。ミラは帳面を棚へ収める前に、記録の抜けがないかを見直していた。トルは先ほど迷った端材を同じ長さの物と揃え、札を付け直している。

 

 澪は帰る前に工房を見回し、ピナが広げている布へ目を留めた。

 

 何度も家具を包み、運び、ほどかれてきた布だった。色も厚さも揃っておらず、角は擦れ、端の方では糸が緩んでいる。新品の家具を包むには少し頼りないが、布として使えなくなったわけではない。

 

 マルテは、ピナから受け取った一枚を作業台の上へ広げ、薄くなった部分を指で確かめていた。

 

「この布は、どうするんですか」

 

「教会へ回せるか、分けています」

 

「教会へ?」

 

「冬が近いので、繕えば使える物は残しておこうと思いまして」

 

 古布の隣には、細かな端材もまとめられていた。椅子の脚には短すぎ、木箱の補修にも使いにくい。それでも、よく乾いている。

 

 澪は、その中から一本を取り上げた。

 

 表面へ触れてみると、湿り気はなかった。家具にはならなくても、火を起こす時には役に立つ。

 

「私が持って行きます」

 

「よろしいのですか」

 

「はい。収納がありますから」

 

 マルテが頷くと、ピナは教会へ回す布を揃え、トルは端材をまとめた。ミラが払い出し分を帳面へ書き込んでいる間に、マルテが札を付ける。

 

 澪は、札を確認しながら古布と端材を収納へ入れた。自分の収納から、保存しやすい食品と石鹸も少し加える。現地で使える施しも用意した。

 

 工房では使い道を失いかけていた物が、別の場所では必要になる。

 

 家具を現代側へ送り出すばかりではない。余った物を、必要とする人のところへ回す道もある。

 

 澪は、そのことを考えながら、教会へ向かった。

 

 

 

 

 

 

 町は、いつもの秋を迎えていた。

 

 雪はまだ降っていない。息が白くなるほど寒くもない。けれど、パン屋の煙突から上がる煙は、夏よりも長く空へ残っている。市場の端では、薪を積んだ荷車が石畳の上をゆっくり進み、布屋の軒先には厚手の生地が目立つ場所へ掛けられていた。

 

 穀物を扱う店の前では、店主が荷車から降ろされた袋の札を確認している。冬に備えて、倉へ入れる物が増える季節なのだろう。

 

 誰も慌ててはいない。

 

 この町では、毎年、同じように冬が来る。だから人々も、毎年、同じように備える。

 

 澪は、冬支度を進める町の中を歩いた。

 

 両手は空いている。古布も端材も、食品も石鹸も、収納の中へ入っている。それでも、何をどこへ回せばよいのかを考え始めると、手ぶらで歩いている気はしなかった。

 

 教会が見えてくる。

 

 先に目へ入ったのは、石で囲まれた井戸だった。

 

 湿った縄が縁へ掛かり、使い込まれた木桶の内側には、何度も擦れた跡が残っている。以前、ミナへ収納を使った水の分離を教えた場所だ。洗い場には、汲み上げた水の跡がまだ残っていた。

 

 一人の子供が、桶を置いた後、濡れた指先を軽く擦り合わせる。

 

 ほんの小さな仕草だった。

 

 震えているわけでも、辛そうな顔をしているわけでもない。それでも、夏には気にならなかった井戸水の冷たさが、少しずつ暮らしへ重くなり始めていることを、澪はその手の動きから感じた。

 

「澪さん」

 

 シスターに呼ばれ、澪は足を止めた。

 

「こんにちは。工房から、少し回せる物がありました」

 

 奥から出てきた司祭様にも頭を下げる。

 

 置ける場所を確かめながら、澪は収納から古布を取り出した。続いて、乾いた端材を箱へ収める。保存しやすい食品と石鹸を並べ、最後に施しを渡した。

 

「いつも、ありがとうございます」

 

 司祭様は穏やかに礼を述べた。

 

 シスターは、古布を一枚広げる。擦れた場所を指で確かめ、裏返し、縫い直せる部分を見ていく。

 

「こちらは服の繕いに使えます。これは、寝具へ足せそうですね」

 

 布を扱う手には迷いがない。

 

 澪は、その手元を見つめた後で、少しだけ考えてから尋ねた。

 

「何か、ほかに入り用はありますか」

 

 シスターの手が止まった。

 

 すぐには答えず、広げた古布へ目を落とす。端材を入れた箱を見て、それから洗い場にいる子供たちへ視線を移した。

 

「冬支度を、もう少し整えたいのですが」

 

 司祭様も、僅かに困ったように笑う。

 

「毎年のことではありますが、余裕のある冬ではありません」

 

 何かを強く求める言い方ではなかった。

 

 町全体に異変が起きているわけでもない。ただ、孤児院には、いつもの冬を迎えるための余裕が足りない。

 

 澪は少し迷ってから尋ねた。

 

「寝室を、見せてもらってもいいですか」

 

 シスターは司祭様へ一度目を向けた。司祭様が頷くと、静かに歩き始める。

 

「こちらです」

 

 

 

 

 

 

 寝室は、男女で分けられていた。

 

 澪が片方の部屋へ足を踏み入れると、廊下よりも冷たい空気が頬へ触れた。人が寝起きしている部屋なのに、火を使った匂いがない。見回しても、暖炉や炉らしい物は見当たらなかった。

 

 窓から入る薄い光の中に、木製のベッドが並んでいる。

 

 飾り気はない。長く使われ、角が擦れた粗末な寝台だった。木の板の上には敷物が置かれているが、身体を支えられるほど厚くはない。

 

 澪は、入口に近い方から順に目で追った。

 

 途中で一度数が分からなくなり、最初から数え直す。

 

 十四台だった。

 

「ここで、何人が寝るんですか」

 

「二十二人です」

 

 シスターの答えを聞き、澪はもう一度部屋を見た。

 

 数え間違えたわけではない。

 

 十四台のベッドで、二十二人が眠る。

 

「小さい子は、一緒に寝ます」

 

 シスターは、奥の寝台へ目を向けた。

 

「年上の子と眠ることもありますし、小さい子同士で使うこともあります」

 

 寄り添って眠れば、一人で寝るより暖かい。

 

 けれど、それは、寝床が足りないことの代わりにはならない。

 

 澪は口を開きかけて、言葉を飲み込んだ。

 

 ここで驚いても、シスターを困らせるだけだ。すぐに何でも用意できると言ってしまうのも違う。必要な物を、必要な数だけ確かめてから届けなければならない。

 

 澪は、薄い敷物へ目を落とした後、十四台のベッドをもう一度見渡した。

 

「ありがとうございます」

 

 寝室を出る前に頭を下げる。

 

「少し、相談してきます」

 

 シスターも、静かに頭を下げた。

 

 

 

 

 

 

 教会から戻る道は、行きと変わらなかった。

 

 薪を積んだ荷車が通り、布屋の軒先には厚手の生地が並び、穀物袋が店先から倉へ運び込まれている。誰も騒いでいない。いつもの冬へ向けて、いつもの支度をしているだけだ。

 

 けれど、澪には、同じ景色には見えなかった。

 

 町の人々は、それぞれの家で必要な薪を集め、食べ物を倉へ入れ、寒さを防ぐ布を用意する。

 

 孤児院にも同じ冬が来る。

 

 十四台の木製ベッドで、二十二人が眠る部屋にも。

 

 薄い敷物しかない寝台にも。

 

 水仕事を終えた子供の濡れた指にも。

 

 古布と端材を届けるだけでは、まだ足りない。

 

 寝る時の冷えを減らす物を入れたい。冬の間、食べ物が不足しないようにもしたい。寝床の数も増やした方がよい。

 

 自分一人で、すぐに全部を決める必要はない。

 

 けれど、何をしたいのかは、自分で言わなければならない。

 

 澪は、押し入れへ向かう足を少しだけ速めた。

 

 

 

 

 

 

 現代側の六畳間にも、夕方の薄い光が残っていた。

 

 押し入れを抜けると、畳の匂いがする。窓の隙間から入り込む風には、もう夏の熱がない。

 

 本棚の最上段には、白い布を敷いた古い燭台が置かれている。供えられた水が、傾き始めた日の光を静かに映していた。

 

 机の向こうでは、真壁が帳面を見ていた。

 

 澪が戻る音に気づくと、ペンを置く。

 

「戻りましたか、澪君」

 

「はい」

 

「給金は」

 

「渡せました。親方たちにも、子供たちにも。マルテさんにも」

 

「そうですか」

 

 真壁は、それ以上感想を重ねなかった。

 

 澪は椅子へ座った。上着を脱ぐ気にはならず、鞄を机の横へ置く。膝の上で手を一度握ってから、自分から切り出した。

 

「真壁さん。相談があります」

 

「何かな」

 

 真壁は、澪の顔を見た。

 

 澪は、教会へ古布と端材を届けたことから話した。井戸の水が冷たくなっていたこと。シスターと司祭様が、冬支度をもう少し整えたいと言ったこと。寝室を見せてもらったこと。

 

「暖房がありませんでした。マットもなくて、一部屋に二十二人いるのに、ベッドは十四台だけでした」

 

 真壁の目が僅かに細くなる。

 

「寝室も見ましたか」

 

「はい。小さい子は、年上の子と一緒に寝ることもあるそうです」

 

「そうですか」

 

 真壁は、すぐに続けなかった。

 

 机の上の帳面を閉じ、澪が話し終えるのを待っている。

 

「毛布を入れたいです」

 

 澪が言うと、真壁は迷わず頷いた。

 

「入れましょう」

 

 返事が早くて、澪は少しだけ顔を上げた。

 

「足りぬまま、冬を迎える必要はありません」

 

「それと、食べ物もです。冬の間、足りなくならないようにしたいです」

 

 真壁はもう一度頷き、机の端へ置いてあった電卓を引き寄せた。紙を一枚取り、ペンを持つ。

 

「子供は、四十四人でしたな」

 

「はい」

 

「司祭殿とシスター、それから少し余裕を見て、六十で考えましょう」

 

「六十人分ですか」

 

「途中で足りなくなるよりはよい」

 

 真壁は紙へ数字を書き、電卓のキーを叩き始めた。

 

 冬の四か月を、百二十日として見る。保温マットと毛布は六十枚ずつ。急に冷え込んだ夜や避難の時に使えるよう、防災用のアルミポンチョも人数分入れる。

 

 それだけではない。

 

 食料を四か月分確保するなら、主食だけを積めば済む話ではなかった。豆や缶詰、油、調味料、乾燥野菜も要る。湿気や虫から守るための密閉容器も必要になる。保管箱を揃え、荷を受け、運び込む費用まで考えなければならない。

 

 真壁は、一つずつ声に出して読み上げたりはしなかった。

 

 必要な項目を書き、数字を入れ、電卓を叩く。時々ペンを止めて紙を見直し、少し余裕を加えていく。

 

 澪は、その手元を見ながら、昼間の給金袋を思い出した。

 

 帳面に書かれた数字は、数字のままでは誰も暖めない。

 

 毛布になり、食べ物になり、必要な場所へ届いて初めて役に立つ。

 

 やがて電卓の音が止まった。

 

 真壁は、最後の数字を書き込み、紙を澪の前へ滑らせた。

 

「四百三十万円……」

 

 見積書の一番下に書かれた金額を見て、澪は思わず声に出した。

 

「少々、余裕を見ています」

 

 払えない金額ではない。

 

 けれど、軽く頷いて終わらせてよい金額でもない。

 

 澪は、紙を上から見直した。六十人分を四か月。防寒用品も、保存食も、途中で不足しないように揃える。

 

 孤児院の寝室で感じた冷たさが、紙の上で別の重さへ変わっていた。

 

「会社の口座から、出せますか」

 

「今回は、芋と豆の時と同じ形にしましょう」

 

 澪は、一度だけ考えた後、意味に気づいた。

 

「押入家具からの買付依頼ですか」

 

「ええ」

 

「また、白金払いですね」

 

 真壁の口元が、ほんの僅かに緩んだ。

 

「先方の都合ですからな」

 

「先方って、私たちですよね」

 

「帳簿の上では、海外の押入家具です」

 

「そうでした」

 

 澪は、小さく息を吐いた。

 

 真壁はスマートフォンを手に取り、明石へ電話を掛ける。

 

「真壁です。海外の押入家具から、追加の買付依頼が入りました」

 

 電話の向こうで、明石が何かを尋ねた。

 

「冬季用の防災用品と保存食です。六十人分を四か月。予備を含めて、四百三十万円ほどになります」

 

 短い間があった。

 

 前回は、大量の芋と豆だった。

 

 今度は、六十人分の冬支度である。

 

 澪は、電話の向こうにいる明石が、どのような顔で聞いているのかを少しだけ想像した。

 

「ええ。支払いは、前回と同じく白金で」

 

 真壁は、明石の言葉を聞きながら、紙の端へ必要な書類を書き留めていく。

 

「依頼書と仕入れ書類、納品記録。それから、白金を受け取った時点の重量と評価額ですな。承知しました」

 

 電話を切ると、澪は少しだけ身を乗り出した。

 

「大丈夫でしたか」

 

「ええ」

 

「何か、聞かれませんでしたか」

 

「前回ほどは、驚かれませんでした」

 

「慣れさせていいんでしょうか」

 

 真壁は答えず、見積書の角を揃えた。

 

 その沈黙が少しだけ可笑しくて、澪は肩の力を抜いた。

 

 

 

 

 

 

 見積書を見直していると、寝室で気になった物が、まだ一つ残っていることを思い出した。

 

「ベッドも、こちらから買いますか」

 

 真壁は、首を横へ振った。

 

「寝台は、親方たちへ頼みましょう」

 

「親方たちに」

 

「ええ。現物を見てもらう必要があります」

 

 真壁は別の紙を引き寄せ、一部屋で眠る子供の数と、今あるベッドの数を書いた。

 

 二十二人に対して、十四台。

 

 一部屋につき、寝床を八人分増やさなければならない。

 

「古い寝台を、そのまま積み上げるわけにはいきません。使える物を残し、状態の悪い物は入れ替える。二段寝台へ置き換える物も、親方たちに選んでもらいましょう」

 

「一部屋に八台くらいですか」

 

「目安としては。二部屋なら十六台ですな。ただし、上段には柵と梯子が要る。幼い子供は下で寝かせるべきでしょう」

 

 真壁は、すぐに決めきらず、最後は職人へ任せるつもりらしい。

 

 澪は、昼間の工房を思い出した。

 

 給金袋を受け取った直後に、次の木材や金具の話を始めた親方たち。椅子の脚を掌で撫で、僅かな磨き残しまで探していた手。木箱の蓋を何度も開け閉めし、擦れる音へ耳を澄ませていた姿。

 

 あの親方たちなら、子供が眠る寝台を雑に作ったりはしない。

 

 現代側から買うべき物は、買う。

 

 けれど、異世界側で作れる物まで運び込む必要はない。

 

 澪は、見積書の余白へ鉛筆を置いた。

 

 六十人分を、四か月。

 

 その文字を書いた後、孤児院の寝室を思い出す。

 

 薄い敷物を置いただけの木製ベッド。火の匂いがしない部屋。小さな子供が、年上の子供へ寄り添って眠る夜。

 

 澪は、その下へ、もう一行だけ書き足した。

 

 冬が来る前に。

 

 真壁は、その文字へ目を向けた。

 

「手配を始めましょうか、澪君」

 

「お願いします」

 

 窓の隙間から入り込んだ秋の風が、見積書の端を僅かに持ち上げた。

 

 澪は、飛ばされないように手のひらで押さえる。

 

 冬は、まだ来ていない。

 

 だから、今なら間に合う。

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