押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第126話 病人を分ける場所

 

 教会の裏手へ回ると、石壁の影に残っていた冷気が、澪の頬へ薄くまとわりついた。

 

 町を歩いている間は、上着の前をきつく閉じるほど寒いとは思わなかった。けれど、隣家との間にある細い通路へ入った途端、季節が半月ほど先へ進んだように感じる。夏には涼しさをもたらしていた石壁が、今は日の光を遠ざけ、近づく冬の気配を静かに蓄えていた。

 

 勝手口の前では、司祭様とシスターが待っていた。

 

 開いた扉の向こうからは、何事が始まるのかと様子を窺う子供たちの顔が、いくつも覗いている。前にいる小さな子供が少し身を乗り出すと、後ろから年長の子供が肩へ手を置き、通路へ飛び出さないように押し戻した。

 

「お待たせしました」

 

 澪が頭を下げると、司祭様は穏やかな笑みを浮かべた。

 

「こちらこそ、無理なお願いをしてしまったのではないかと、気にしておりました」

 

「必要な物ですから」

 

 そう答えたものの、澪は少しだけ緊張していた。

 

 現代側の倉庫で荷を確認した時には、箱へ貼られた札と、帳面へ並ぶ数字しか見えていなかった。約六十人が四か月を越すために揃えた保存食も、人数分の毛布や保温マットも、収納へ入れてしまえば重さを感じずに運べる。

 

 けれど、これから取り出す物は、ただの在庫ではない。

 

 冬の朝になれば、誰かが箱を開ける。台所では鍋が火へ掛けられ、子供たちの食卓へ温かな湯気が運ばれる。夜になれば、今日届ける毛布を胸元まで引き上げ、冷たい木の板から身体を守る。

 

 箱の向こう側にある暮らしを考えると、収納の中身が急に重くなったような気がした。

 

「澪君。先に、食料の置き場を決めましょう」

 

 隣に立つ真壁が、勝手口の奥へ視線を向ける。

 

「はい。シスター、どちらへ置けばいいですか」

 

「こちらからお願いします。台所に近い棚へ、日々使う物を入れます。長く残す分は、少し奥の方がよろしいかと」

 

 澪は頷き、収納から最初の箱を取り出した。

 

 石床へ置くと、乾いた音が壁へ反響する。その隣へ二箱目を並べ、札が読める向きへ揃える。三箱目を出したところで、扉の向こうにいた子供たちが、そろって首を伸ばした。

 

「まだ出てくるの?」

 

 小さな声が聞こえた。

 

 澪は、少しだけ笑いながら答える。

 

「まだあります」

 

 言葉通り、箱は次々と増えていった。

 

 床へ置くたび、真壁が札を確認し、置き場所を分けていく。司祭様は途中から帳面を持ち出し、箱へ貼られた文字を確かめながら、丁寧に数を書き留め始めた。

 

「こちらは、先に使ってください」

 

 真壁は、台所に近い場所へ積んだ箱へ手を置いた後、少し離れた一角を示した。

 

「奥へ入れる分は、冬の後半まで封を切らない方がよいでしょう。予定通りに使い切ることが出来れば、最後まで開けずに済む箱もあります」

 

 司祭様が、帳面から顔を上げた。

 

「こちらの札は、予備と書かれておりますな」

 

「ええ。仕入れが滞ることもあれば、急に必要な人数が増えることもある。使わずに冬を越せたなら、それが一番よい箱です」

 

 シスターは、真壁の説明を聞き終えると、すぐに棚の使い方を変えた。

 

 日々の食事へ回す箱は台所の近くへ残し、後半まで封を切らない箱は奥へ運ぶ。湿気が溜まりにくく、鼠も寄りつきにくい棚を選び、年長の子供たちへ置き場所を伝えていく。

 

 子供たちは、自分たちで持てる大きさの箱を選び、二人一組で運び始めた。小さな子供も手伝いたそうに近づいてきたが、箱の角へ手を伸ばすより早く、シスターが笑いながら止める。

 

「あなたたちは、道を空けてください。それも大切なお手伝いです」

 

 言われた子供たちは、少し残念そうに壁際へ寄った。それでも、箱が運ばれるたびに視線だけは忙しく動いている。

 

 澪は、その様子を見ながら、収納から次の箱を取り出した。

 

 前に寝室を見た時には、どこから手を付ければよいのか分からなかった。暖房のない部屋には粗末な寝台が並び、薄い敷物の上で、幼い子供たちが誰かと身体を寄せ合って眠っていた。

 

 今は、少なくとも冬の間に食べ物が尽きる心配を減らせる。

 

 箱を一つ置くたび、形のなかった不安へ、目に見える答えを重ねているように思えた。

 

「澪さん」

 

 シスターの声に振り返ると、勝手口の脇が箱で埋まりかけていた。

 

「これ以上は、先に奥へ運ばないと置けません」

 

「あ、すみません」

 

 慌てて収納を閉じると、シスターは小さく笑った。

 

「謝っていただくことではありません。食べ物を置く場所が足りないと言える冬が来るとは、思っておりませんでした」

 

 澪は、すぐには返事を出来なかった。

 

 上手い言葉は見つからない。けれど、前回訪れた時よりも、シスターの表情がほんの少しだけ柔らかくなっているように見えた。

 

 食品を棚へ収める作業が一段落するまで待ち、澪は今度は寝具を取り出した。

 

 畳んだ毛布を重ねると、壁際へ柔らかな山が出来る。保温マットは寝室へ運びやすいように分け、年長の子供たちへ手渡した。

 

 最後に、薄い銀色の包みを取り出す。

 

 それまで遠巻きに眺めていた子供たちが、一斉に首を傾げた。

 

「それ、何ですか」

 

 小さな子供が、隣にいたトトの袖を引いた。

 

 尋ねられたトトも答えられず、澪を見る。

 

「急に冷え込んだ夜や、外へ出なければならない時に、身体へ掛ける物です。毛布の代わりにはなりませんが、あると少し違います」

 

 澪が袋を開くと、アルミポンチョが、かさりと音を立てながら広がった。

 

 毛布よりもずっと薄く、布にも革にも見えない。銀色の表面へ日の光が映り、角度を変えるたびに不思議な輝き方をする。

 

「本当に、暖かいんですか」

 

「着てみますか」

 

 澪が尋ねると、トトは周囲を一度見回した後、妙に真剣な顔で頷いた。

 

「はい」

 

 肩から掛け、前を合わせる。

 

 トトが腕を少し動かすだけで、銀色の外套は、かさり、かさりと大きな音を立てた。

 

 周囲の子供たちから笑い声が上がる。

 

「騎士みたい」

 

「銀色だ」

 

「動くたびに鳴ってるよ」

 

 トトは、最初こそ澄ました顔を保っていた。けれど、少し身じろぎするだけでも思った以上に派手な音が鳴るため、最後には自分でも笑ってしまった。

 

 澪も、つられて頬を緩める。

 

 シスターは、子供たちの笑い声を聞きながらも、ポンチョを毛布とは別の棚へ収めるよう指示し、すぐに札を用意した。非常時に使う物として、日常の寝具と混ざらないようにするつもりなのだろう。

 

 その手際を見ていると、澪の胸に残っていた固いものが、少しだけほどけた。

 

 保存食の箱は、奥の棚へ収まり始めている。寝室には新しい毛布が運び込まれ、保温マットを敷けば、木の板へ直接身体を横たえる必要もなくなる。

 

 去年よりは、暖かい冬になる。

 

 そう思いながら、澪は寝室へ向かった。

 

 

 

 

 

 寝室へ入ると、前回よりも部屋が明るくなったように感じた。

 

 暖房が入ったわけではない。窓から差し込む光も変わらない。それでも、積み上げられた毛布と、寝台の上へ広げられた保温マットを見ると、前に訪れた時の寒々しさが幾分薄れているように思える。

 

 シスターは、木製の寝台へマットを広げ、掌で表面を押さえた。

 

「薄いのに、不思議ですね。板へ直接寝るよりも、ずっとよさそうです」

 

「床から上がってくる冷たさを、少し減らせます」

 

 澪も、隣の寝台へマットを置いた。

 

 前回、何度数えても増えなかった十四台の寝台を見渡す。この部屋で眠る子供は二十二人。親方たちへ二段ベッドを頼むことにはなっているが、完成までには少し時間が掛かる。

 

 今は、届いた寝具を出来る限り役立てるしかない。

 

 次の毛布へ手を伸ばしかけた時、真壁が窓際で立ち止まっていることに気づいた。

 

 真壁は、窓枠へ軽く触れた後、部屋の中へゆっくりと視線を戻した。

 

 冷たい風を防ぐため、窓はきちんと閉じられている。寝台同士の間には、人が身体を横にして通れるほどの余裕はない。奥では、幼い子供が年上の子供と同じ寝台を使っているらしく、小さな枕が二つ並んでいた。

 

 澪は、真壁の視線を追ううちに、前回とは違うものが見え始めた。

 

 毛布を増やせば、寒さは和らぐ。

 

 けれど、熱を出した子供がいたら、どこで休ませればよいのだろう。

 

「シスター。一つ、伺ってもよろしいかな」

 

 真壁の声は穏やかだった。

 

「はい」

 

「病を得た子供は、どちらで休ませるのですかな」

 

 シスターの手が止まった。

 

 広げかけていた毛布を膝の上へ置き、少し考えるように部屋を見回す。

 

「熱がある子も、こちらで休ませています。ひどくなった時には、寝台を端へ寄せますが……」

 

 言葉は、そこで途切れた。

 

 澪にも、その先は分かった。

 

 寝台を端へ寄せても、同じ部屋であることに変わりはない。隣に眠る子供との間へ壁が出来るわけではなく、看病をするシスターは、病人の寝台と、ほかの子供たちの間を行き来することになる。

 

「ほかに、使える部屋はありませんかな」

 

「物置にしている小さな部屋はあります。ただ、何人も休ませられる広さではありません。看病をするにも、狭すぎます」

 

 真壁は、すぐには答えなかった。

 

 窓から寝台へ、寝台から部屋の隅へ視線を移し、もう一度、全体を見渡す。

 

 寒さをしのぐためには窓を閉めるしかなく、寝台が足りなければ、幼い子供は誰かと一緒に眠るしかない。熱を出した子供がいても、ほかに部屋がなければ、この寝室へ寝かせるしかない。

 

 誰かが怠けているわけではない。

 

 限られた物と場所を使い、出来る限り冬を越そうとしている。

 

 けれど、病が入り込んだ時には、その近さが別の意味を持つ。

 

 真壁は、司祭様へ顔を向けた。

 

「昨年の冬、流感が広がった折には、どのように対処されましたかな」

 

 司祭様は、すぐには答えなかった。

 

 少し離れた場所で毛布を畳んでいたシスターも、手を止める。

 

 寝室の中には、子供たちが布を広げる音だけが残った。

 

「少々、お待ちください」

 

 司祭様は、それだけ言って部屋を出た。

 

 戻ってきた時には、古い帳面を両手で抱えていた。

 

 革の表紙は擦れ、何度も開かれた頁の端は、少しだけ波打っている。司祭様は、窓際の机へ帳面を置き、ゆっくりと頁をめくった。

 

「最初は、一人でした」

 

 指先が、一つの名前の上で止まる。

 

「熱が出ました。咳もありましたが、その時は、何日か休ませれば治ると思っていたのです」

 

 頁をめくる。

 

 そこにも名前がある。

 

 その隣にも、また別の名前が残されている。

 

 シスターが、言葉を引き継いだ。

 

「同じ寝台で眠っていた子が、すぐ後に熱を出しました。それから、同じ部屋の子たちへ広がっていきました」

 

 澪は、帳面から目を離せなかった。

 

 名前の横には、熱が出た日や、ポーションを飲ませた時刻が、丁寧な文字で残されている。食事を取れたか、水を飲めたか、夜に眠れたか。途切れ途切れではあっても、出来る限り記録しようとした跡があった。

 

「身体を温めました。少しずつでも水を飲ませようとしました」

 

 シスターは、膝の上に置いた毛布を握り直した。

 

「ポーションも使いました。でも、効かなかったのです」

 

 最後の言葉だけが、少し掠れた。

 

 身体の小さな子供ほど、早く弱っていったという。食事を受け付けなくなり、水も飲めなくなり、やがて息をすることさえ苦しそうになった。眠っているのか、呼びかけが届いていないのか、分からなくなった子もいた。

 

 司祭様は、帳面を閉じなかった。

 

 開いた頁へ視線を落としたまま、静かに言う。

 

「幼い子供たちが、次々と神に召されました」

 

 澪は、何かを言おうとして、言葉を飲み込んだ。

 

 帳面の上へ並んだ名前を目で追う。どの名前にも、顔を思い浮かべることは出来ない。去年まで、この世界にいなかったのだから当然だった。それでも、司祭様が頁をめくるたびに、知らない名前を今年も増やしてはいけないと思った。

 

 真壁は、帳面に残された名前を一人ずつ確かめるように見ていた。

 

 それから、寝室へ視線を戻す。

 

「では、離れを一棟、建てる必要がありますな」

 

 司祭様が顔を上げた。

 

「しかし、そのようなことまでお願いするわけには……」

 

「ああ、手配はします。ご心配なさらず」

 

 真壁は静かに遮った。

 

 相談というより、必要な物を一つ確認し、その場で発注を決めた時の口調だった。

 

 それから、澪へ顔を向ける。

 

「澪君も。良いですな?」

 

 澪は、古い帳面へ目を落とした。

 

 保存食と防寒用品を揃え、二段ベッドも親方たちへ頼むことになっている。その上で、病人を休ませる離れまで建てるとなれば、決して小さな支援ではない。

 

 けれど、迷う理由はなかった。

 

「はい。お願いします」

 

 真壁は短く頷いた。

 

「病を得た子供を、ほかの子供たちと同じ寝室へ置き続けるわけにはいきません。看病をする者が動けるだけの広さと、空気を入れ替えられる窓は要るでしょう。冬に使う以上、暖を取る方法も考えなければならない」

 

 それ以上は細かく語らなかった。

 

 後で親方たちや町の職人を呼び、現地を見てもらうつもりなのだろう。

 

 真壁は、もう一度帳面へ目を向けた。

 

「澪君。こちらの予防法と、病が出た後の対応を伝える必要があるね」

 

 澪は顔を上げた。

 

 離れを建てれば、すべてが終わるわけではない。

 

 病気になった子供を早く見つけ、早く分けなければならない。使う杯や匙を分けることも、手を洗うことも、熱が出た時に我慢せず知らせることも必要になる。

 

 自分が知っているつもりで、きちんと誰かへ説明したことのないことが、いくつも頭へ浮かんだ。

 

「はい。次回、準備します」

 

 

 

 

 

 現代側の六畳間へ戻ると、澪は上着を脱ぐ前にノートパソコンを開いた。

 

 畳の上には、夕方の薄い光が残っている。押し入れを抜ける前に見た石壁の冷たさとは違う、乾いた室内の空気だった。

 

 けれど、机へ座っても、古い帳面に並んでいた名前が頭から離れない。

 

 検索窓へ指を置く。

 

 最初に何を調べればよいのか、少し迷った。

 

 病を広げない方法だけでは足りない。病人を分ける時期も、水を飲めなくなった時の対処も、司祭様とシスターへ伝える必要がある。年長の子供たちには、幼い子供の異変へ気づいてもらわなければならない。

 

 澪は、キーボードへ文字を打ち込み始めた。

 

 検索結果には、簡単に治ると断言する動画も、これだけ飲めば病気にならないと言い切る動画も混じっていた。澪は、それらを避け、公的な機関や医療機関が公開している動画を一つずつ開いた。

 

 手洗いの説明が始まると再生を止め、ノートへ必要な部分を書き写す。少し進めてはまた止め、子供たちに伝わらない言葉へ線を引いていく。

 

 最初に書いた文字を見て、澪は鉛筆を止めた。

 

「病原体……」

 

 三歳の子供へ、そのまま伝わるだろうか。

 

「難しい言葉ですな」

 

 向かい側で資料を見ていた真壁が言った。

 

「やっぱり、そうですよね」

 

 澪は、その文字へ線を引いた。

 

 少し考え、その下へ書き直す。

 

「目に見えないほど小さな、病の原因。これなら、どうですか」

 

「よいでしょう」

 

 真壁は短く頷いた。

 

 澪は、次に書いた「飛沫」という言葉も見直した。動画の中では当たり前のように使われていたが、子供たちへ見せる資料には向かない。

 

「咳やくしゃみと一緒に飛ぶ、細かな粒……」

 

 鉛筆を動かしながら、声に出して確かめる。

 

 授業の順番は、すぐには決まらなかった。

 

 薬の話を先へ持ってくると、薬さえ飲めばよいと思われるかもしれない。手洗いを細かく説明しすぎれば、年少の子供たちは途中で飽きる。昨年亡くなった子供たちの話を重く扱いすぎれば、怖がらせるだけになる。

 

 紙を並べ替え、説明を削り、絵を探す。

 

 白い布へ映した時にも見えるように文字を大きくする。咳をする子供の絵には、口元から飛ぶ細かな粒を描き足した。寝室を分ける絵では、元気な子供と、熱を出した子供が別の部屋で休むようにした。水分を取らせる場面は、寝台へ横になった子供へ、匙で少しずつ飲ませる絵にする。

 

 作業を続けているうちに、窓の外は暗くなった。

 

「澪君」

 

 真壁に呼ばれ、澪は顔を上げる。

 

「一度、休んだ方がよいでしょう」

 

「もう少しだけ」

 

「大学の課題もあるのではありませんかな」

 

「あります」

 

「では、なおさらです」

 

 澪は、画面の隅へ並んだ資料を見た。

 

 まだ完成ではない。

 

 けれど、伝えなければならないことは、少しずつ形になっている。

 

「あと、この一枚だけ直します」

 

「一枚で済めばよいのですが」

 

 真壁はそう言いながらも、止めはしなかった。

 

 

 

 

 

 翌日、澪と真壁はドラッグストアへ向かった。

 

 店内へ入ると、明るい照明の下に、色とりどりの商品が整然と並んでいる。昨日まで石壁の教会にいたせいか、棚へ詰め込まれた箱や袋の多さだけでも、少し目が疲れるような気がした。

 

 澪は籠を持ち、授業の後も孤児院で使える物を選んでいく。

 

 洗い場へ置く石鹸は、すぐに使い切らないよう多めに入れた。マスクは、体調を崩した子供と、看病をする者へ回す。体温計は一つだけでは足りない。経口補水液は、すぐに使える物だけでなく、保管しやすい粉末も選ぶ。

 

 病人用として分けて使う杯や匙、洗面器、蓋付きの容器も、同じ場所へまとめて置けるように揃えた。

 

 澪が棚を行き来する間、真壁は薬の箱へ書かれた注意事項を一つずつ確かめていた。

 

「これは、病そのものを治す薬ではありませんな」

 

 真壁が、子供用のアセトアミノフェンを手に取る。

 

「はい。熱や痛みを和らげるための物です」

 

「量を誤れば、害になります」

 

「司祭様かシスターに管理してもらいます。誰に、いつ、どれだけ使ったかも、帳面へ残せるようにします」

 

 真壁は頷き、箱を籠へ入れた。

 

「ポーションの代わりを持ち込むわけではない」

 

 澪は、籠の中へ目を落とした。

 

 石鹸の箱と、体温計と、経口補水液と、子供用の薬が重なっている。どれも必要な物ではある。けれど、棚へ置くだけでは、昨年と同じ冬を変えることは出来ない。誰が管理し、どのような時に使い、何を見逃してはいけないのかまで伝えなければならなかった。

 

「方法を、持って行くんですよね」

 

「ええ」

 

 栄養補助食品の棚へ移り、澪はビタミンCのサプリメントを手に取った。

 

「これも、病気にならない薬だと思われないように説明しないと」

 

「食事で足りない分を補う物ですからな」

 

「はい」

 

 澪は、籠の中へ入れた。

 

 薬を持っていけば済む話ではない。

 

 使い方と、使う時期と、見逃してはいけない兆候を伝えて初めて、去年とは違う備えになる。

 

 

 

 

 

 数日後、教会の一角へ白い布を張ると、子供たちはすぐに集まってきた。

 

 いつもは祈りを捧げる静かな部屋だった。石壁へ沿って並ぶ長椅子の前に白い布が掛けられ、机の上には見慣れない黒い箱が置かれている。

 

 澪がノートパソコンを開き、大容量バッテリーへつないでからプロジェクターの角度を直すと、白い布の中央へ淡い光が浮かび上がった。

 

 子供たちの間から、小さなどよめきが起きる。

 

「何が始まるの?」

 

 前の方へ座った小さな子供が、隣にいる年長の子供へ尋ねる。

 

「授業だって」

 

「文字のお勉強?」

 

「たぶん、違う」

 

 小声のやり取りが聞こえ、澪は資料の最初の頁を確認しながら、一度だけ深く息を吸った。

 

 大学で発表する時とは違う。

 

 ゼミの仲間なら、難しい言葉を使っても後から質問してくれる。けれど、ここにいるのは三歳から十四歳までの子供たちだ。分からなくても、分からないと言えない子もいる。

 

 司祭様とシスターは、子供たちの近くへ座っていた。

 

 真壁は、少し離れた壁際で、白い布へ映る画像を見ていた。

 

 澪が最初の頁を出そうとした時、真壁はふと教会の外へ視線を向けた。

 

「澪君」

 

「はい」

 

「少々、失礼」

 

「え?」

 

 理由を尋ねる間もなく、真壁は静かな足取りで教会を出ていった。

 

 澪は、閉じた扉を一度見た。

 

 何か忘れ物でもあったのだろうか。

 

 けれど、子供たちは既に白い布を見上げ、何が始まるのかと待っている。司祭様とシスターも前を向いている。

 

 澪は、真壁が出ていった扉から目を離し、最初の頁を映した。

 

 白い布の上へ、寒い日の町を描いた絵が現れる。

 

「今日は、冬に増える病気の話をします」

 

 子供たちの視線が集まった。

 

「寒い日に外へ出たから、病気になると思いますか」

 

 何人かが、すぐに頷いた。

 

「薄着をしていると、風邪をひくって言われます」

 

「窓を開けたまま寝たら、熱が出るよ」

 

 澪は、答えた子供たちへ頷いた。

 

「身体が冷えないようにすることは、大切です。だから、毛布も配りました」

 

 資料を切り替える。

 

 閉じた窓と、一つの寝台で眠る子供たちの絵が映る。

 

「でも、寒さだけが病気の原因ではありません」

 

 澪は、一度だけ言葉を選んだ。

 

「目に見えないほど小さな、病の原因があります。それが、人から人へ移ることで、病気が広がることがあります」

 

 次の絵では、咳をする子供の口元から、細かな粒が飛んでいる。

 

「咳やくしゃみをした時には、こうして細かな粒が飛びます。その後で杯や匙へ触って、別の人が同じ物を使うと、病気が移ることがあります」

 

 前の方へ座った子供が、自分の隣に置かれた杯へ目を落とした。

 

 澪は、机の端へ用意していた杯を持ち上げ、病人用と書いた札を付ける。

 

「だから、病気になった人が使う杯や匙は、ほかの人が使わないように分けます。でも、病気になった人が悪いわけではありません」

 

 年少の子供たちの顔を見ながら、澪はゆっくり続けた。

 

「嫌いだから分けるのでもありません。病気を、ほかの人へ広げないためです」

 

 資料を進めると、石鹸で手を洗う絵が映った。

 

「外から戻った時や、食事の前、それから咳をした後には、石鹸を使って手を洗います」

 

「手のひらだけじゃないんですか」

 

 年長の子供が尋ねる。

 

「はい。指の間や、爪の周りにも汚れが残ります。後で、一緒に洗ってみましょう」

 

 窓を開けた寝室の絵へ切り替えると、小さな子供が不安そうに口を開いた。

 

「寒くならない?」

 

「ずっと開ける必要はありません。朝や夕方に少しだけ空気を入れ替えます。その間は、毛布や銀色の外套を使って、身体を冷やしすぎないようにします」

 

「銀色のやつ」

 

 誰かが言い、子供たちの視線がトトへ集まった。

 

 トトは居心地が悪そうに少しだけ身じろぎした。

 

 澪は、笑いそうになるのを堪えながら次の資料へ移った。

 

 白い布の上に、二つの部屋が映る。

 

 一方には、元気な子供たちがいる。

 

 もう一方では、熱を出した子供が寝台で休んでいる。

 

 澪は、声を少しだけ落とした。

 

「大切なことがあります」

 

 子供たちが静かになる。

 

「熱が出たり、強い咳が続いたりした時には、元気な子と同じ寝台で眠らないようにします。具合が悪い人は、別の部屋で休みます」

 

 怖がらせないように、急がず話す。

 

「具合が悪くなったことは、悪いことではありません。怒られません。早く教えてくれた方が、助けられます」

 

 小さな子供の一人が、隣に座る年長の子供を見た。

 

 年長の子供は、安心させるように頷く。

 

「小さい子は、自分で上手く言えないこともあります。だから、いつもと違うと思ったら、司祭様かシスターへ教えてください」

 

 澪は、次の絵を映した。

 

 寝台へ横になった子供へ、匙で水を飲ませている。

 

「熱が出た時には、食べられなくなることがあります。でも、水を飲めないままにしてはいけません。一度にたくさん飲めなくても、少しずつ、何度も飲ませます」

 

 机の上へ置いた経口補水液を示す。

 

「これは、水分を取りやすくするための物です。薄いスープや温かい湯でも構いません。飲める物を、少しずつ渡してください」

 

 司祭様とシスターは、画面を見ながら頷いている。

 

 澪は、呼吸が苦しそうな子供と、顔色の悪い子供を描いた絵へ切り替えた。

 

「息をするのが苦しそうな時や、水が飲めない時、呼びかけても、いつものように返事をしない時には、朝まで待たないでください。一度よくなったように見えても、急に悪くなることがあります」

 

 年長の子供たちへ視線を向ける。

 

「小さい子の様子が、いつもと違うと思ったら、すぐに大人へ教えてください」

 

 最後に、薬と栄養の話へ移った。

 

 澪は、ポーションが役に立つ時もあることを先に伝えた。けれど、昨年の流感には効かなかった。薬を一つ持っているだけで、すべての病気を治せるわけではない。

 

「こちらの薬を使う時には、司祭様かシスターに渡してもらいます。自分で勝手に飲まないでください」

 

 子供用の薬を見せ、熱や痛みを少し和らげるための物であり、飲めば病気が消えるわけではないと説明する。

 

 ビタミンCのサプリメントについても、容器を示しながら伝えた。

 

「これは、食事で足りない分を補い、身体を助けるための物です。飲めば絶対に病気にならない、という物ではありません」

 

 小さな子供が、容器を見つめる。

 

「お菓子じゃないの?」

 

「違います」

 

 澪が答えると、周囲から小さな笑い声が上がった。

 

「勝手に食べたら駄目です」

 

「はい」

 

 返事だけは、妙に素直だった。

 

 

 

 

 

 授業が終わると、澪は子供たちと一緒に洗い場へ移動した。

 

 井戸水は冷たい。けれど、汲み置いておいた水を使い、澪が自分の手へ石鹸を付けて泡立てると、子供たちは興味深そうに覗き込んだ。

 

「手のひらだけではなくて、指の間にも泡を入れます」

 

 澪が見せると、子供たちも真似をする。

 

 年長の子供は、隣にいる小さな子供の袖をまくり、手首まで洗えるようにしてやった。

 

「ここまで?」

 

「手首までだって」

 

「爪のところも洗うんだよ」

 

 泡を付けすぎた子供の手が、白く膨らむ。

 

「多すぎるよ」

 

「でも、いっぱい洗える」

 

「流すのが大変になるよ」

 

 小さな笑い声が広がった。

 

 トトも、いつになく真面目な顔で指の間を洗っている。銀色のポンチョを羽織った時に笑っていた子が、今度はトトの手を見ながら同じように洗っていた。

 

 澪は、その様子を眺めながら、少しだけ肩の力を抜いた。

 

 昨年の帳面に書かれた名前は消えない。

 

 けれど、今年の冬に出来ることはある。

 

 洗い場から戻ると、澪は司祭様とシスターへ新しい記録帳を渡した。

 

「朝と夕方に体温を測ってください。食事を取れたか、水を飲めたか、眠れているかも、分かる範囲で書いてください」

 

 シスターは頁を開き、澪が作った欄を指で追った。

 

「薬を使った時には、こちらへ時刻と量を書くのですね」

 

「はい。全部を完璧に書こうとしなくても大丈夫です。続けられる範囲でお願いします」

 

 司祭様は、新しい帳面を受け取った。

 

 少し迷った後、昨年の古い帳面の隣へ置く。

 

 並べてみると、表紙の違いがよく分かった。

 

 角が擦れ、何度も開かれた古い帳面。

 

 まだ折り目さえ付いていない、新しい帳面。

 

 澪が二冊を見比べていると、教会の扉が開いた。

 

「終わりましたかな」

 

 聞き慣れた声に振り返る。

 

 真壁が、出ていった時と変わらない落ち着いた表情で立っていた。

 

「真壁さん。どこへ行っていたんですか」

 

「少々、手配を」

 

「手配?」

 

 真壁は答える代わりに、勝手口の方へ顔を向けた。

 

「ご覧になりますかな」

 

 澪は、司祭様とシスターと一緒に教会の外へ出た。

 

 裏手へ回り、細い通路を抜ける。

 

 その先で、足が止まった。

 

 先ほどまで、何もなかったはずの空き地に、建物が立っていた。

 

 離れ、と聞いて澪が想像していたのは、木造の小さな平屋だった。寝台を何台か置き、看病をする人が歩ける程度の広さがあればよいと思っていた。

 

 目の前にある建物は、どう見ても平屋ではない。

 

 西欧風の意匠で整えられた外壁には、縦長の窓が規則正しく並んでいた。石造りに見える落ち着いた外観は教会の雰囲気を壊していないが、見上げれば、窓は二階にも、その上にもある。

 

 澪は、首を上へ傾けた。

 

 三階建てだった。

 

 入口の前には、数段の階段と、小さな庇まで付いている。

 

 司祭様は言葉を失っていた。

 

 シスターも、新しい記録帳を抱えたまま、建物を見上げている。

 

 澪は、ようやく真壁へ顔を向けた。

 

「真壁さん」

 

「何かな」

 

「これは……」

 

「離れです」

 

 真壁は、当然のことを答えるように言った。

 

「病人を分けて休ませる場所が必要でしたので、用意しました」

 

 澪は、もう一度建物を見上げた。

 

「三階建てに見えるんですが」

 

「地下三階、地上三階建てですな。地下はかなり広く取っています。」

 

「石造りですか」

 

「外観は周囲へ合わせました。内部は鉄筋コンクリートです」

 

 澪は、言葉を失った。

 

 寝台を置ける小さな療養用の離れを想像していた。

 

 それが、授業をしている間に、地下もある鉄筋コンクリート三階建ての西欧風建築へ変わっていた。

 

「真壁さん」

 

「何かな」

 

「離れって、もう少し小さい建物を言いませんか」

 

 真壁は、建物を見上げた。

 

 ほんの僅かに首を傾ける。

 

「足りないよりは、よいでしょう。スタンピードもある危ない世界だ。頑丈にしないとならないでしょうな」

 

 澪は、反論しようとして口を開いた。

 

 けれど、司祭様とシスターが、まだ建物を見上げたまま動かないことに気づき、何も言えなくなった。

 

 冬が来る前に、病人を分けて休ませる場所が必要だった。

 

 必要ではあった。

 

 ただし、真壁へ離れを一棟任せる時には、先に大きさを確認しなければならない。

 

 澪は、そのことを新しい帳面の余白へ書き足しておこうと思った。

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