セルマの工房へ入ると、昨日まで作業台の端に寄せられていた小瓶が、いつの間にか窓際まで勢力を広げていた。
午前の光を受けているのは、淡い褐色の抽出液だけではない。濃い茶色の液体が沈殿を抱えたまま残っている瓶もあれば、底へ薄い粉末をこびり付かせた瓶もある。細い紐で結び付けられた札には、使った柳皮の区分や煮出した時間、抽出した時に感じた違い、水へ戻した後の変化まで、セルマの少し癖のある文字で書き込まれていた。
澪は、その隣へ椅子を寄せ、昨日から使っている紙へ鉛筆を走らせていた。
柳皮から熱を和らげる機能分を取り出せる可能性は見えた。けれど、孤児院の棚へ置ける薬にするためには、まだ決めなければならないことが多い。軽い熱へ気軽に使わせず、高熱や痛みで眠れない子供、水分を取ることさえ難しくなった子供へ限って使う。誰へ、いつ、どれだけ飲ませたのかを残し、発疹や息苦しさが出れば直ちに止める。激しい嘔吐や意識障害が起きた場合には、司祭様へ知らせ、状態異常回復薬やポーションを使えるようにしておかなければならない。
一枚目の余白がなくなり、澪は紙を裏返した。
子供の手が届かない棚を用意し、状態異常回復薬も近くへ置く。司祭様とシスターへ渡す説明書には、文字だけではなく、読めない者にも分かる印を付けた方がよいかもしれない。柳皮を継続して集めるなら、採りすぎて木を枯らさないようにする必要もある。孤児院だけでなく、町の人々へ供給することまで考えるなら、価格や販売方法も決めなければならない。
書けば書くほど、紙の裏面にも文字が増えていく。
「セルマさん」
「うん」
返事はあった。
けれど、セルマは澪の方を見ていなかった。窓際へ立ち、小瓶を光へ透かしている。僅かに傾けられた瓶の底では、沈殿が細い筋を描きながら、ゆっくりと崩れていた。
「この薬を孤児院へ置くまでに、まだ決めなければならないことが、かなりあります」
「そうだね」
「誰が管理するのか、どのような時に飲ませるのか、副作用が出た場合には何を使うのかも決めないといけません」
「そうだね」
「薬師ギルドとも、話をした方がいいと思います。今まで薬を扱ってきた人たちですから」
「そうだね」
澪は、鉛筆を止めた。
セルマの返事が、少しずつ軽くなっている。聞いているようにも見えるし、沈殿が動く速度しか見ていないようにも見える。
試しに、紙へ視線を落としたまま続けた。
「あと、芋焼酎を樽ごと一気飲みする人が出た場合の対策も必要です」
「そうだね」
「セルマさん」
「今のは聞いてなかった」
セルマは、ようやく小瓶から顔を上げた。
少しは申し訳なさそうにするのかと思ったが、そうでもなかった。小瓶を作業台へ戻し、澪が裏返した紙を見る。
「澪。まだ増える?」
「増えると思います」
「薬を作るところまでは、私がやる」
セルマは、当然のことを確認するように言った。
「抽出の仕方は、もう少し試したい。水へ戻した時に同じ効き目になるかも見たいし、蜜を入れた時に変わらないかも確かめたい。ポーションの方も、前より分けられるようになったから、もう一度やりたい」
そこまで話した時の声は、先ほどまでとは違っていた。
研究に関わる話だけは、実に分かりやすい。
セルマは、澪が持っている紙へ視線を移した。
「でも、誰が飲ませていいとか、いくらで売るとか、薬師ギルドが怒るかもしれないとか、その辺は真壁に任せていい?」
「全部ですか」
「うん」
即答だった。
澪は、隣に立っていた真壁を見た。
作業台の上へ積み上がった面倒事を、セルマは一息で丸ごと渡したのである。少しくらい困った顔をしてもよさそうだった。
けれど、真壁は、むしろ僅かに目を細めた。
「結構。人の使い方を心得てきましたな」
セルマが瞬きをする。
「褒められた?」
「ええ。適材適所というものです」
「分かった。じゃあ、お願い」
セルマは満足そうに頷くと、もう一度、小瓶を持ち上げた。
窓から入る光へ透かし、沈殿の動きを確かめ始める。
澪は、文字で埋まりかけた紙とセルマを見比べた。
セルマは、確かに成長している。
ただし、その方向が本当に正しいのかは、少しだけ考える余地がありそうだった。
工房を出た後、澪は、真壁が侯爵家へ向かうのだと思っていた。
柳皮の薬を領内で扱うのであれば、アルベルトへ先に相談する必要がある。薬師ギルドとの調整も、侯爵家を通した方がよい。
ところが、真壁は侯爵家へ続く道へ曲がらなかった。
乾燥薬草を軒先へ吊るした店が並ぶ、町の中心へ向かって歩いていく。
「真壁さん」
「何かな」
「アルベルト様へ相談するのではないんですか」
「相談はします」
真壁は、軒先で揺れる薬草の束を眺めながら答えた。
「ですが、その前に、相談する内容を知らなければなりません」
「薬師ギルドについて、ですか」
「ええ」
乾いた風が吹き、紐で束ねられた葉が擦れ合った。
市場では、野菜を売る声と、布の値段を交渉する声が重なっている。その間を、荷車の車輪が石畳を擦る音が抜けていく。人の声が絶えない通りの中で、真壁の声だけが、不思議なくらい静かに聞こえた。
「どのような組織なのか。誰が決めているのか。何を守ろうとしているのか。何を失うことを恐れているのか」
真壁は、店先へ吊るされた値札へ視線を落とした。
「それが分からないまま相手のところへ行くのは、交渉ではありません」
少しだけ間を置く。
「お願いですな」
澪は、真壁の横顔を見た。
真壁は、薬を売らせてくださいと頼みに行くつもりではない。
相手が何を考え、どこまでなら譲れるのかを見極めてから、話を始めるつもりだった。
最初に入ったのは、市場の端にある小さな薬草店だった。
店内には、乾燥させた葉や根を詰めた袋が並び、奥では、店主らしい年配の男が秤へ薬草を載せていた。澪たちが近づくと、男は手を止め、少し警戒するように目を細める。
真壁は、柳皮の話から始めなかった。
昨年の冬、流感が広がった時に、熱を和らげる薬がどの程度の値段だったのかを尋ねた。
「ギルド長の悪い噂でも探しているのかい」
男は、秤の皿へ残った薬草を袋へ戻しながら言った。
「そんなもの、俺は知らんよ。薬が高いのは、薬草が足りなかったからだろう。病人が増えれば、値も上がる。珍しい話でもない」
「なるほど」
真壁は、それ以上、追及しなかった。
男が話したことを、小さな帳面へ短く書き留める。
澪は、少し意外に思った。
店主の言葉には、嘘をついている様子がなかった。本当に、薬草が足りなかったのだと思っているらしい。
店を出た後も、真壁は結論を口にしなかった。
次に話を聞いたのは、薬草を山から運んできた男だった。
肩幅が広く、日に焼けた手には、枝で擦ったような細かな傷が残っている。背負籠を下ろしたばかりらしく、額には薄く汗が浮かんでいた。
「去年ですか」
男は、真壁の質問を聞いて首を傾げた。
「特別、少なかった覚えはないな。冬前だから、集める種類は増えたけど、納めた量は例年と大きく変わらなかったと思う」
「どちらへ納めましたかな」
「薬師ギルドだよ。勝手に売ると面倒だからな」
真壁の帳面へ、また一行が増えた。
その後も、真壁は、同じことを相手を変えて尋ねた。
市場で薬草を扱う別の店では、流感が広がった後、仕入れ値が急に上がったと聞いた。昨年、家族のために薬を買ったという女性は、店先で財布の中身を数えた末に、必要な量の半分しか買えなかったと話した。薬師へ素材を運ぶ商人は、例年と同じように荷を運んだはずなのに、町では薬が足りないと言われていたと首を傾げた。
真壁は、一人の言葉だけを信じることも、疑うこともしなかった。
短い話を聞くたび、帳面へ日付と要点を書き留める。
澪は、その横で増えていく文字を見ながら、少しずつ違和感を覚えた。
薬が値上がりし、買えない者が出たことは、どこで尋ねても変わらなかった。孤児院へ回せる量が足りなかったことも、これまで聞いた話から分かる。けれど、山へ入る者たちは、薬草を採れなかったとは言っていない。例年と大きく変わらない量を運び、それを薬師ギルドへ納めている。
それなら、薬草は、どこへ消えたのだろう。
教会へ入ると、外の市場とは違う静けさがあった。
窓から差し込む光が、古い木製の長椅子へ落ちている。奥では、小さな子供が一人、シスターから渡された布を畳んでいた。
司祭様は、澪と真壁を見ると、すぐに事情を察したようだった。
「薬のことですか」
「ええ。昨年、流感が広がった折について、少し教えていただきたい」
真壁が答えると、司祭様は、棚から古い帳面を取り出した。
革の表紙は擦れ、角が丸くなっている。
昨日、澪が見た帳面とは別のものだった。
頁を開くと、薬を買った日と、支払った金額が書かれている。最初の方は何とか読める程度に整っていた文字が、流感が広がった頃から少しずつ乱れていた。
司祭様の指が、ある頁で止まる。
「この頃から、急に高くなりました」
澪は、差し出された帳面を覗き込んだ。
金額が上がっていく一方で、買えた量は減っている。最後の方では、薬ではなく、身体を温めるための薪や、薄い粥へ使う穀物の記録が増えていた。
「薬は、買えなかったんですか」
澪が尋ねると、シスターは、畳んでいた布へ視線を落とした。
「買えるだけは、買いました」
声は静かだった。
「でも、幼い子たち全員へ行き渡るほどは……」
その先を、シスターは言わなかった。
言わなくても、澪には分かった。
司祭様は、別の頁を開いた。
「ゲオルク先生が、手元に残っていた薬を分けてくださいました」
「ゲオルク先生?」
「薬師ギルドの古参です」
司祭様は、少しだけ表情を和らげた。
「代金は後でよいと言ってくださった。あの方がいなければ、もっと多くの者が神に召されていたでしょう」
真壁が、帳面へ名前を書き留める。
「ほかの薬師は、どうしていたのでしょう」
「助けようとしてくださった方は、ほかにもいました」
司祭様は答えた後、視線を帳面へ戻した。
「ただ、途中から、薬草が回ってこなくなったと聞いています」
「ギルド長の意向ですかな」
真壁が尋ねる。
司祭様は、すぐには答えなかった。
教会の中へ、頁をめくる音だけが小さく響く。
「そう聞いております」
シスターも、静かに頷いた。
「孤児院へ安く渡すなら、次から素材は回さないと」
澪は、帳面へ残る数字を見た。
紙の上にあるのは、ただの金額ではない。
薬を買えなかった日と、熱に苦しむ子供へ渡せなかった物が、そのまま残されている。
真壁は、帳面の内容を書き写した後、司祭様へ深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「何か、分かりそうですか」
「まだ、分かりません」
真壁は、いつも通りの静かな声で答えた。
「ですが、分からないままにはしません」
教会を出た後、真壁は、町の外れに近い場所へ向かった。
大通りから少し離れると、人通りは減る。石畳の隙間には細い草が生え、建物の壁には雨の跡が黒く残っていた。
真壁が足を止めたのは、小さな薬師の店の前だった。
窓は閉じられていたが、店内には灯りがある。
扉を叩くと、少し間があってから、若い男が顔を出した。
まだ三十歳にも届いていないように見える。袖をまくった腕には、薬草を刻んだ時に付いたらしい細かな汚れが残っていた。
真壁が、昨年の流感について尋ねると、男の顔が僅かに強張った。
「私は、何も知りません」
答えは早かった。
真壁は、それ以上、すぐには尋ねなかった。
店の中へ無理に入ろうともせず、扉の外で静かに立っている。
「そうですか」
それだけを言った。
若い薬師は、扉を閉めかけた。
けれど、完全には閉めなかった。
真壁は、少しだけ声を落とした。
「孤児院で、昨年、何人かの子供が亡くなりました」
若い薬師の指が止まる。
「薬師を潰すつもりはありません」
真壁は続けた。
「薬師の知識も、技術も必要です。薬草を集める者も、調合する者も、患者へ渡す者も必要だ」
「では、何をしに来たんです」
若い薬師は、周囲へ視線を向けた。
通りに人影がないことを確かめてから、少しだけ扉を開く。
「薬が届かなかった理由を知りたいのです」
真壁の声は変わらなかった。
「薬がなかったのか。それとも、別の理由があったのか」
若い薬師は、しばらく黙っていた。
やがて、扉を開けたまま、声を落とす。
「ゲオルク先生は、教会へ薬を渡しました」
「伺いました」
「私も、少しだけ渡しました」
若い薬師は、悔しそうに唇を噛んだ。
「でも、その後、調合に使う素材を回してもらえなくなった。ギルド長へ逆らえば、薬師として仕事が出来ない」
澪は、何も言えなかった。
「倉庫には、薬があったんですか」
ようやく尋ねると、若い薬師は、澪を見た。
「少なくとも、全部なくなったわけじゃない」
その声は小さかった。
「でも、俺たちには、出すなと言われた」
「誰にですかな」
真壁が尋ねる。
若い薬師は、もう一度、周囲を確かめた。
「ギルド長です」
真壁は、帳面へ短く書き留める。
その後、少しだけ考え、別の頁へ名前を書いた。
ゲオルク・ハルトマン。
その文字だけが、ほかの記録から少し離れた場所にある。
澪は、それに気づいた。
「真壁さん」
店を離れた後、澪は小声で尋ねた。
「ゲオルクさんと、話をするんですか」
「いずれは」
「薬師ギルド全体が、悪いわけではないんですね」
「そうでしょうな」
真壁は、帳面を閉じた。
「組織と、そこにいる者を、一つにして考えるべきではありません」
六畳間へ戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
澪は、真壁が集めた話を整理し、すぐに侯爵家へ向かうのだと思っていた。
けれど、真壁は、机の上へ小さな機材を並べ始めた。
見覚えのある小型ドローンと、記録用の端末。それから、画面を映すための機材が、六畳間の低い机へ静かに置かれていく。
「真壁さん」
「何かな」
「まだ、調べるんですか」
「評判は、入口にすぎません」
真壁は、機材を確認しながら答えた。
「必要なのは、言い逃れ出来ない証拠です」
夜になると、六畳間の明かりは少し落とされた。
机の上へ置かれた画面に、暗い倉庫の裏手が映っている。
壁際には、積み重ねられた木箱の影が見えた。月の光は弱く、遠くからでは、細かな文字までは読めない。
それでも、倉庫の裏手へ荷馬車が止まったことは分かった。
人影が動き、倉庫の扉が開く。
木箱が、いくつも運び出される。
澪は、画面から目を逸らせなかった。
昼間に話を聞いた者たちは、薬草が足りなかったと信じていた。司祭様の帳面には、値段が上がり、買える量が減っていった記録が残っていた。孤児院では、必要な薬を幼い子供たちへ行き渡らせることが出来なかった。
それなのに、夜の倉庫からは、木箱が次々と運び出されている。
画面の端へ、恰幅のよい男が映った。
上質な外套を羽織り、灰色の髭を丁寧に整えている。荷馬車の側へ立つ商人らしい男と、何かを話していた。
端末から、少しだけ雑音の混じった声が聞こえる。
「今は、値を崩す時ではない」
男は、落ち着いた声で言った。
「流感が広がれば、さらに上がる。貧民へ安く売ったところで、利益にはならん」
商人が、何かを尋ねる。
男は、木箱を見ながら答えた。
「薬を持っている者が、値を決める」
澪の指先が、冷たくなった。
司祭様の帳面へ並んでいた、幼い子供たちの名前が浮かぶ。高い熱が下がらず、最後には、水を飲むことさえ出来なくなった子供たちだった。
薬がなかったのだと思っていた。
違う。
薬は、あった。
値段が上がるのを待つために、倉庫から出されなかった。
「澪君」
真壁の声が聞こえた。
澪は、ようやく画面から顔を上げた。
「大丈夫ですか」
「はい」
答えた声は、自分で思っていたよりも小さかった。
真壁は、無理に何かを言わせようとはしなかった。
画面へ映る荷馬車の印と時刻を記録し、人影が倉庫から離れるまで、静かに見届けていた。
翌日、澪は真壁と一緒に、町の門に近い荷の検め場へ向かった。
夜に見た荷馬車は、遠方へ出る前に、ほかの荷と一緒に止められていた。
真壁は、門番へ昨夜の記録を見せ、確認を求めた。門番は、荷馬車の印を見比べた後、近くにいた上役を呼ぶ。短い相談の後で、荷は検め場へ残され、積み替えのために外へ出されていた木箱を確認することになった。
側面には、薬師ギルドの印がある。
さらに、その下には、別の印も残っていた。
澪は、息を整え、《鑑定:10》を使う。
《薬師ギルド管理木箱》
《内容物:熱を和らげる調合薬、咳を和らげる薬草、滋養薬、ポーション》
《一部素材:侯爵家救済用支給品》
《搬出記録:照合を要する》
表示を見た瞬間、澪は、言葉が出なかった。
箱の中へ残されていたのは、どれも昨年の孤児院に必要だった物ばかりだった。熱を和らげ、咳を抑え、弱った身体を支えるための薬だけでなく、ポーションまで入っている。
それだけではない。
侯爵家が、領民救済のために回した素材まで混じっている。
「真壁さん」
ようやく声を出す。
「侯爵家から支給された物も、入っています」
「確認出来ますかな」
「はい」
澪は、もう一度、表示を確かめた。
「間違いありません」
真壁は、木箱の印と、積み替えられる前の位置を記録した。
六畳間へ戻ると、真壁は、集めた資料を机の上へ並べた。
市場で聞いた薬価を記した紙の横へ、教会の帳面から写した数字が置かれる。薬草を納めた者の話と、若い薬師の言葉を記した頁を重ねた後、真壁は、夜の画面へ映った荷馬車の記録と、澪が《鑑定:10》で確認した木箱の内容を添えた。
ばらばらに見えていた話が、机の上で一つにつながっていく。
少し離れた場所には、別の紙が置かれていた。
ゲオルク・ハルトマン。
その名前だけが、ほかの記録から分けられている。
「真壁さん」
「何かな」
「薬師ギルドは、どうなるんですか」
真壁は、紙から顔を上げた。
「潰す必要はありませんな」
「でも、ギルド長は……」
「ギルド長と、薬師ギルドは同じものではありません」
真壁は、ゲオルクの名前へ指を置いた。
「薬師の知識は必要です。薬草を集める者も、調合する者も、患者へ渡す者も必要だ。流通網まで壊してしまえば、薬が届かなくなる」
穏やかな声だった。
「腐った部分だけを切ればよいでしょう」
澪は、机へ並ぶ資料を見た。
昼間、市場で帳面へ数字を書き留めていた真壁の指先と、今、証拠を並べている指先は、同じように落ち着いていた。
町を歩いている間、真壁は、誰か一人の言葉へ飛びつかなかった。夜の画面へ映った声を聞いた後も、怒りに任せて動かなかった。
必要なものを揃えた後で、ようやく立ち上がる。
「では、アルベルト様へ相談しましょう」
侯爵家の応接室は、静かだった。
大きな窓から差し込む光が、磨かれた机の上へ落ちている。壁際には領内の地図が掛けられ、扉の近くには、控えの者が一人立っていた。
アルベルト・ヴァルディスは、真壁の説明を遮らなかった。
最初に聞いたのは、柳皮薬についてだった。
孤児院の子供たちへ、安価に常備出来る熱冷ましを置きたいこと。軽い発熱へ気軽に使わせる薬ではなく、服用した場合には、誰へ、いつ、どれだけ使ったかを記録すること。異常が出た時には、状態異常回復薬やヒール、ポーションへつなぐこと。セルマが、柳皮から熱を和らげる機能分を抽出し、固形化する試作へ成功したこと。
アルベルトは、机の上へ置かれた小瓶を見た。
「孤児院だけの話ではないな」
「ええ」
真壁が頷く。
「領内へ広げることも出来ると考えております」
「そうなれば、薬師ギルドとの調整は避けられない」
アルベルトは、小瓶から真壁へ視線を移した。
「無断で売り出せば、必ず揉める」
「ごもっともです」
真壁は、静かに答えた。
「そのために、薬師ギルドについて調べてまいりました」
机の上へ、資料が並べられる。
教会の帳面と、町で確認した薬価。薬草を納めた者の話。夜の倉庫を映した記録。荷馬車へ積まれた木箱と、澪が《鑑定:10》で確かめた内容。
アルベルトは、すぐには何も言わなかった。
一枚ずつ紙を読み、画面へ視線を向ける。
暗い倉庫の裏手へ荷馬車が止まり、木箱が運び出される。灰色の髭を整えた男の姿が映り、雑音の向こうから、声が聞こえた。
「貧民へ安く売ったところで、利益にはならん」
アルベルトの指が、机の上で止まった。
「流感が広がれば、さらに上がる。薬を持っている者が、値を決める」
音声が終わった後、室内は静かになった。
澪は、机の上へ視線を落としたまま、息をすることさえ少し難しく感じた。
アルベルトは、すぐに怒鳴らなかった。
しばらく黙った後、澪を見る。
「昨年、孤児院でも子供が亡くなったと聞いている」
「はい」
澪は答えた。
声が震えないようにするだけで精一杯だった。
真壁が、静かに続ける。
「薬がなかったのではありません」
僅かに間を置いた。
「届かなかったのです」
アルベルトは、机の上へ並べられた資料を見た。
表情は大きく変わっていない。
けれど、声だけが少し低くなった。
「ギルド長を呼べ」
扉の近くに控えていた者が、一礼して部屋を出ていく。
閉じた扉の向こうから、廊下を遠ざかる足音が聞こえた。
アルベルトは、その間も机の上から視線を上げなかった。
薬師ギルド長のバルタザール・ケラーは、呼び出されてから、それほど時間を置かずに現れた。
部屋へ入ってきた男は、恰幅のよい体格を上質な外套へ包み、丁寧に整えた灰色の髭へ指を添えながら、机の上の小瓶を一瞥した。近づくにつれ、乾燥薬草へ香油を混ぜたような匂いが、澪のところまで届いた。
足取りに迷いはない。
侯爵家へ呼ばれた理由を、柳皮薬についての相談だと考えているらしい。
「薬の知識を持たない者が、柳の皮から内服薬を作ろうとしていると聞きました」
バルタザールは、澪と真壁を順に見た。
「危険なことです。薬は家具とは違います。安価であればよいという物ではありません。知識のない者が扱えば、救える命まで失います」
声は穏やかだった。
けれど、相手へ教え諭すような響きがある。
澪は、何も言わなかった。
腹が立たなかったわけではない。
けれど、その言葉には、正しい部分もある。
薬は、安ければよいわけではない。
柳皮薬にも、使い方を誤れば危険がある。
真壁も、反論しなかった。
「ご懸念は、もっともです」
いつも通りの穏やかな声だった。
「柳皮薬を、軽い熱へ気軽に使わせるつもりはありません。服用した者と量を記録し、異常があれば直ちに使用を止める。必要であれば、状態異常回復薬、ヒール、ポーションへつなぐ体制も整える予定です」
バルタザールは、短く息を吐いた。
「それでも、薬師ギルドを通さずに薬を扱うことなど、許されるはずがない」
「では、一つ伺ってもよろしいかな」
真壁の声は変わらなかった。
「昨年、流感が広がった折、薬師ギルドには、熱冷ましの在庫がなかったのですかな」
バルタザールの表情に、大きな変化はなかった。
「不足していた。薬草が入らなかったのだ」
「なるほど」
真壁は、それ以上、すぐには尋ねなかった。
机の上へ置かれた端末を操作し、画面をバルタザールへ向ける。
暗い倉庫の裏手へ荷馬車が止まり、扉から運び出された木箱が、荷台へ次々と積まれていく。
バルタザールは、画面を見ても、まだ顔色を変えなかった。
「遠方で、より必要としている者へ融通しただけだ」
「記録が見当たりませんが」
真壁は、帳面の写しを机へ置いた。
「搬出の記載がない。売却価格についても、通常時とはかなり異なるようですな」
「帳面の誤りだろう」
バルタザールは、少しだけ眉を寄せた。
「下の者が、書き忘れたのだ」
「そうでしたか」
真壁は、淡々と答えた。
夜の倉庫を映した画面の横へ、帳面の写しを置く。その上へ、澪が《鑑定:10》で確認した木箱の記録を重ねた。
「こちらには、侯爵家が領民救済用として回した素材も含まれていたようですが」
バルタザールの視線が、僅かに動いた。
「管理の都合で、まとめて保管していたのだろう」
「それを、帳面へ載せずに遠方へ運ぶ理由は?」
「必要な場所へ回しただけだ」
言葉は、まだ崩れていない。
けれど、最初に部屋へ入った時より、声が少しだけ硬くなっていた。
窓から差し込む光は、机の端まで移動している。扉の近くに控える兵は動かず、誰もバルタザールの言葉を遮らなかった。
真壁は、急がなかった。
相手へ話させる。
言葉を重ねさせる。
言い逃れの形を、自分で作らせる。
その後で、最後の記録を再生した。
雑音の向こうから、バルタザール自身の声が聞こえる。
「今は、値を崩す時ではない」
バルタザールの顔から、初めて余裕が消えた。
「流感が広がれば、さらに上がる。貧民へ安く売ったところで、利益にはならん」
誰も口を挟まない。
「薬を持っている者が、値を決める」
音声が終わった。
室内に、長い沈黙が落ちる。
バルタザールは、何かを言おうとした。
けれど、すぐには声が出なかった。
夜の倉庫を映した画面の横には、帳面の写しと、木箱の記録が置かれている。バルタザールが一つの説明へ逃げるたび、その先へ回り込むように別の証拠が差し出され、机の上から少しずつ余白が消えていた。
何より、自分自身の声が残っている。
アルベルトが、短く命じた。
「拘束しろ」
扉の側に控えていた兵が動く。
バルタザールの両脇へ立ち、腕を取る。
「待て」
ようやく、バルタザールが声を上げた。
「薬師ギルドを敵に回すつもりか。薬がなくなれば、困るのは領民だぞ」
真壁は、連行されるギルド長を見た。
声を荒らげなかった。
勝ち誇るような表情も見せない。
「患者を見ず、値札だけを見る者を、薬師とは呼びません」
僅かに間を置く。
「相場師ですな」
バルタザールは、何も言い返せなかった。
上質な外套の裾が揺れ、薬草と香油の匂いを残して、部屋の外へ連れて行かれる。
その後、侯爵家による調査は、バルタザール本人だけではなく、一族が管理していた倉庫や帳面にまで及んだ。
領民救済のために回された薬草を隠し、流感で薬価が上がるのを待って横流しする。その利益を一族で受け取っていたことも明らかになった。
バルタザール一族の財産は没収され、一族は領外へ追放された。
少なくとも、この領地で、患者の苦しみを値札へ変える者が、再び薬の流通を握ることはない。
ゲオルク・ハルトマンが侯爵家へ呼ばれたのは、その後だった。
部屋へ入ってきた年配の男は、痩せた体格を上等とは言えない外套へ包み、使い込まれた革鞄を抱えていた。白髪交じりの髪は短く整えられている。外套の端には何度か繕った跡があり、鞄の角と持ち手には、長く使い続けた時間が残っていた。
ゲオルクは、アルベルトの前まで進むと、深く頭を下げた。
「私が、もっと早く声を上げるべきでした」
疲れの滲んだ声だった。
「申し訳ございません」
アルベルトは、すぐには責めなかった。
「責任の話は、後で聞く」
机の上へ残っていた資料へ視線を落とす。
「今は、薬を止めないことが先だ」
ゲオルクは、少しだけ顔を上げた。
真壁が、柳皮薬の試作品を示す。
「錬金術師が、柳皮から熱を和らげる機能分を抽出し、保存しやすい形へ整えるところまでは出来るようになりました」
ゲオルクは、小瓶へ目を向けた。
「錬金術師が?」
「ええ。ただし、薬として領民へ渡すところまで、錬金術師だけで行うつもりはありません」
真壁は、机の上へ置かれた小瓶を、ゲオルクの方へ少しだけ寄せた。
「抽出物の質を確かめ、どのような症状の者へ使うのかを整理する。渡す時には注意を伝え、服用後の記録を残す。異常があれば、状態異常回復薬や、聖職者のヒール、ポーションへつなぐ」
ゲオルクは、真壁の顔を見た。
「それを、薬師ギルドへ任せると?」
「薬師殿には、薬師の仕事をしていただきたい」
真壁は答えた。
「患者を診る。薬を確かめる。必要な者へ渡す。それで利益を得ることに、何の問題もありません」
ゲオルクは、すぐには頷かなかった。
小瓶を手に取り、光へ透かす。
中へ残る固形抽出物を確かめた後、慎重に口を開く。
「安くするだけでは、続きません」
澪は、少しだけ身構えた。
けれど、ゲオルクの声には、自分たちの利益だけを守ろうとする響きはなかった。
「薬草を採る者にも、生活がある。品質を確かめる者にも、患者へ説明する者にも、手間が掛かる。記録を残し、異常が起きた時に対応するなら、なおさらです」
ゲオルクは、小瓶を机へ戻した。
「安ければよいと決めてしまえば、来年には、誰も作れなくなる」
「ええ」
真壁は、静かに頷いた。
「適正な利益は必要でしょう。続かなければ、来年には薬がなくなる」
ゲオルクの目が、僅かに見開かれる。
真壁は、話を続けた。
「孤児院と教会へ置く分については、価格を抑えたい。庶民へ売る分にも、上限は設けるべきでしょう」
「それでは、薬師たちが納得しない可能性があります」
「検査、管理、販売には、それぞれ手数料を残します。薬師の生活を奪うつもりはありません」
真壁は、机へ置かれた資料へ一度だけ視線を落とした。
「ただし、薬を抱え込み、病人が増えるのを待つ商売は認めない」
ゲオルクは、しばらく黙っていた。
疲れの残る顔から、視線だけは逸らさなかった。
「若い薬師たちにも、話をさせてください」
「もちろんです」
「薬草を採る者とも、相談します」
「必要でしょうな」
「それから、柳皮の抽出物を見せてください。どの程度、濃さを揃えられるのかも確認したい」
真壁は、僅かに目を細めた。
「セルマ君が、喜ぶでしょう」
澪は、少しだけ想像した。
作業台へ小瓶を並べ、抽出条件を一つずつ試しているところへ、古参の薬師が確認に来る。
最初の十分ほどは、セルマも楽しそうに話すだろう。
けれど、記録の形式や供給体制の話が始まった瞬間、かなり高い確率で真壁へ視線を向ける。
ゲオルクは、アルベルトへ深く頭を下げた。
「患者の顔を見る薬師へ、戻します」
アルベルトは、静かに頷く。
「暫定的に、ギルドの立て直しを任せる」
ゲオルクは、使い込まれた革鞄を握り直した。
「承知しました」
「では、話は早い」
真壁の声は、いつも通り穏やかだった。
侯爵家を出た後、澪は、真壁の隣を歩いた。
町の通りには、昼下がりの光が落ちている。市場の方からは、荷車の音と、人々の話し声が聞こえていた。
昨日までと同じ町に見える。
けれど、澪には、少しだけ違って見えた。
薬師ギルド長が拘束されたからではない。
昨年、孤児院へ薬が届かなかった理由を知ってしまったからだった。
「真壁さん」
「何かな」
「最初から、ゲオルクさんと話をするつもりだったんですか」
「ええ」
真壁は、歩く速さを変えずに答えた。
「薬師ギルドを潰してしまえば、薬を作れる者まで失いますからな」
「バルタザールさんが、言い逃れ出来る可能性は」
「残しておく理由がありません」
声は静かだった。
澪は、真壁の横顔を見る。
市場で話を聞いた時も、教会の帳面を写した時も、夜の画面へ映る荷馬車を見た時も、真壁の指先は落ち着いていた。
侯爵家の机へ証拠を並べた時も同じだった。
怒りに任せて、誰かを悪人だと決めつけたわけではない。
残すべき人と、切り離すべき人を見極め、そのために必要なものを揃えた。
真壁が元軍人だということを、澪は知っている。
戦う方法は、武器を使うことだけではないらしい。
セルマの工房へ戻ると、窓から入る光の向きが変わっていた。
作業台の上に並ぶ小瓶へ、夕方に近い柔らかな光が差している。
セルマは、朝とほとんど同じ姿勢で、そのうちの一本を透かしていた。
澪と真壁が入ると、ようやく顔を上げる。
「終わった?」
「終わりました」
澪は答えた。
侯爵家で交わされた話を、最初から順番に説明するなら、かなりの時間が掛かるだろう。薬師ギルド長が拘束され、ゲオルクが暫定的に立て直しを任され、柳皮薬を領内へ広げる道まで出来た。
話したいことは、いくつもあった。
けれど、セルマは、澪へ小瓶を差し出した。
「じゃあ、次の試作を見て」
澪は、一瞬だけ言葉を失った。
セルマにとっては、面倒な話が予定通り片付いただけらしい。
真壁だけが、僅かに目を細める。
「結構。実に効率的ですな」
セルマが瞬きをする。
「褒められた?」
「ええ。人の使い方が、ますます上手くなりました」
セルマは、満足そうに頷いた。
澪は、本当にこれでよいのだろうかと思いながら、差し出された小瓶を受け取る。
窓から入る光の中で、淡い褐色の液体が揺れた。
澪は、小瓶へ《鑑定:10》を使った。