押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第129話 分ければ、調査になる

 

 十月も第二週へ入ると、駅から大学へ向かう道の空気が少しだけ変わった。

 

 昼間には、まだ夏の名残がある。日差しをまともに受けると、薄手の上着を持ってきたことを少し後悔するくらいには暑い。それでも、朝の風が街路樹の葉を揺らすたび、首筋へ触れる空気には、九月までとは違う冷たさが混じっていた。

 

 澪は、肩へ掛けた鞄の位置を直しながら、信号が変わるのを待った。

 

 鞄の中には、午前中の講義で使う資料と、ゼミへ持っていくレジュメが入っている。昨夜、印刷したアンケート案も忘れていない。横断歩道の向こうへ目を向けたまま、念のため収納の中も確かめると、大学で使うノートとは別に、押入商会の予定を書き込んだ頁が開きかけていた。

 

 孤児院へ運び込む寝台の進み具合を、帰宅後に真壁と確認する。親方たちへ払う人件費と、手伝いに入った子供たちの見習い給も帳面へ付けなければならない。柳皮から作った試作品については、セルマとゲオルクが確認を始めることになっている。

 

 目に入っただけで、考えることが次々と増えていく。

 

 以前なら、それだけで足が止まっていた。

 

 大学の課題へ取り掛かろうとしているのに、押入商会の予定が気になり、商会の帳面を確かめようとすると、今度はゼミの連絡を思い出す。何から手を付ければよいのか分からなくなり、予定表を開いたまま固まることも珍しくなかった。

 

 澪は、収納の中で、異世界側の頁をそっと閉じた。

 

 帰宅後に真壁と確認することは、そこへ置いておけばよい。セルマへ任せた試作まで、大学へ向かう途中で考え直す必要はない。今、鞄へ入っているのは、ゼミで使うアンケート案だった。

 

 信号が青へ変わる。

 

 澪は、周囲の人たちと一緒に横断歩道を渡った。

 

 五連休が明けてから、ゼミ対抗研究発表の準備も少しずつ進んでいる。

 

 佐伯、神谷、三浦と同じ班になり、先行研究や自治体の資料を持ち寄った。最初は、商店街の個人店へ客が来ない理由を広く調べるつもりだったが、資料を読んでいくうちに、話が広がりすぎていることが分かった。

 

 商店街そのものへ来ない人と、商店街までは来るのに店へ入らない人では、理由が違う。一度入った後で買い物をしなかった人や、二度目に来なかった人まで同時に扱えば、何を調べているのか分からなくなる。

 

 前回のゼミで、澪は、机へ広げられた資料を見ながら、少し迷った末に口を開いた。

 

「店へ入る前の話と、入った後の話が混ざっていると思います」

 

 言った後で、三人から視線を向けられ、手元のノートへ目を落としてしまったことまで覚えている。

 

 けれど、佐伯たちは、その言葉を拾ってくれた。

 

 今のところ、研究の仮題は「商店街の初回来店障壁と導線」。対象は、店の前まで来たのに、個人店へ入らず通り過ぎた人へ絞ることになっている。

 

 今日は、そのためのアンケート案を持ち寄る日だった。

 

 大学の門をくぐると、校舎へ向かう学生の流れが幾つかに分かれていく。足早に階段へ向かう人もいれば、ベンチの近くで立ち止まり、スマートフォンを見ながら友人を待っている人もいる。

 

 澪は、鞄の中へ入れた資料の角へ指を触れた。

 

 異世界では、侯爵家の応接室で、薬師ギルド長が拘束されるところまで見た。

 

 それでも、大学のゼミ室へ入る前には、少しだけ緊張する。

 

 扱っている話の大きさとは、あまり関係がないらしい。

 

 

 

 

 

 ゼミ室へ入ると、窓際の机に、既に紙の山が出来ていた。

 

 開けられた窓から入る風が、コピー用紙の端を僅かに持ち上げている。室内では、別の班も話し合いを始めており、椅子を引く音や、資料をめくる音が重なっていた。ホワイトボードには、前の時間に使われたらしい英単語が、消し切れないまま薄く残っている。

 

 佐伯は、机の向こう側で紙を揃えながら、少し疲れたように笑った。

 

「おはよう、篠原さん」

 

「おはようございます」

 

「一回、全員の質問をまとめてみたんだけど」

 

 差し出された紙を受け取り、澪は表面へ目を落とした。

 

 質問は、頁の下まで続いていた。

 

 裏返す。

 

 まだ続いている。

 

 さらに、佐伯は、少し申し訳なさそうな顔で別紙を差し出した。

 

「思ったより長くなった」

 

 三浦が、椅子へ浅く腰掛けたまま、紙の束を見る。

 

「これ、通行人に渡したら、途中で逃げない?」

 

「私も、そう思った」

 

 佐伯は、否定しなかった。

 

「でも、最初から勝手に削るのも違うかなと思って。みんなが考えた質問だから」

 

 神谷は、自分の前へ積んだ資料の束を押さえながら、困ったように眉を寄せた。

 

「見落としがあると困ると思って、必要そうなものを入れてみたんだけど」

 

 机の上には、論文のコピーだけでなく、自治体が公開している商店街調査の資料や、店舗改善事例をまとめた紙も並んでいる。神谷が手を抜いた結果ではない。むしろ、真面目に調べたために、確認したいことが増えすぎたのだろう。

 

 澪は、佐伯がまとめた紙を一枚ずつめくった。

 

 最初の頁では、個人店へ入る前に感じる不安について尋ねていた。ところが、裏面へ進むと、買い物をした後の満足度が現れ、その少し下では、店を何で知ったのかを確認しようとしている。最後の方には、商店街へ来る頻度や、SNSを使う回数まで入っていた。

 

「全部、関係はありそうなんだけどな」

 

 三浦が、澪の横から紙を覗き込む。

 

「関係ありそうだから、増えたんだろうけど」

 

「そうなんだよね」

 

 佐伯は、机の上へ肘を置きかけ、すぐに姿勢を戻した。

 

「どれを削ればいいのか、分からなくなってきた」

 

 澪は、すぐには答えなかった。

 

 鞄からノートを出し、鉛筆を持つ。

 

 似ている質問の脇へ、小さな丸を付ける。その少し下にある質問には、同じ丸を二つ重ねた。外から店舗を見れば分かる内容には、今度は短い線を引く。今回の研究から外れそうな質問へ鉛筆を置いた時には、少し迷ってから、文字を消さない程度に薄い印を残した。

 

 周囲では、別の班の声が続いている。

 

 少し離れた机では、発表テーマをどこまで絞るかで意見が割れているらしい。教室の前方では、教授が別の班の資料を見ながら、何かを尋ねている。佐伯は、来週の予定について神谷と確認し始め、三浦は、澪が読んでいる紙を反対側から眺めていた。

 

 以前なら、誰かが話している間に別の声が入るだけで、何を考えていたのか分からなくなっていた。

 

 今は、紙の上へある質問と、周囲から聞こえてくる声が、同じ場所で絡まらない。

 

 机へ広げ切れない内容は、見えない場所へ置いたノートの頁で、少しずつ分けていく。今のアンケートに残すもの。実際に店舗前へ立った時、自分たちで確認するもの。今回の研究からは外すが、結果を見た後で役に立つかもしれないもの。

 

 どれも捨てる必要はなかった。

 

 ただ、今、同じ紙へ載せる必要がない。

 

「篠原さん」

 

 佐伯の声で、澪は顔を上げた。

 

「何か、分かった?」

 

 三人から視線を向けられる。

 

 頭の中では、ある程度まとまっている。けれど、それを口へ出そうとすると、喉の奥で言葉が少しだけ詰まった。

 

 澪は、紙の上へ付けた印を見た。

 

「同じことを聞いている質問が、いくつかあると思います」

 

 神谷が、椅子を少し寄せる。

 

「どれ?」

 

「例えば、ここです」

 

 澪は、丸を付けた三つの質問を指した。

 

「店内が見えないと入りにくいか、外から中が見えた方が入りやすいか、店の様子が分からない時に不安を感じるか。少しずつ言い方は違うんですけど、重なっているところが多いと思います」

 

 佐伯は、指された質問を上から順に読んだ。

 

「あ、本当だ」

 

 神谷も、自分の資料と見比べる。

 

「別の理由を聞いているつもりだったけど、答える側から見ると、ほとんど同じに感じるかもしれない」

 

「一つにまとめられれば、少し短く出来ると思います」

 

 澪が答えると、佐伯は、紙の端へ鉛筆で印を付けた。

 

「それなら、質問数も減らせそう」

 

 三浦が、少しだけ身を乗り出す。

 

「ほかにもある?」

 

「あります」

 

 言った後で、澪は少し驚いた。

 

 以前なら、自分から続けて説明する前に、相手の反応を気にして黙っていた気がする。

 

 けれど、今は、紙のどこを見ればよいのか分かっている。

 

「この辺りは、質問しなくても、私たちが見れば分かると思います」

 

 澪は、別の印を付けた箇所を指した。

 

「価格表示があるかとか、入口から中が見えるかとか、外へ商品が出ているかとか。通行人に聞くより、店舗前で記録した方がいいです」

 

 三浦が頷く。

 

「やっぱり、実際に見れば分かることもあるよね」

 

 神谷は、少し考えた後で、自分の紙を机へ置いた。

 

「見落としがあると困ると思って入れておいたけど、アンケートへ入れなくても、観察表へ移せばいいのか」

 

 澪は、小さく頷いた。

 

「はい。その方が、答える人の負担も減ると思います」

 

「なるほど」

 

 佐伯が、紙の束を見ながら息を吐く。

 

 質問を削る話ではなくなったことで、少し安心したらしい。

 

 全部を捨てるのではない。

 

 使う場所を分ければよい。

 

 

 

 

 

 班の机へ教授が来たのは、質問の幾つかを移し始めた頃だった。

 

 佐伯が、まとめ直しかけている紙を教授へ渡す。

 

 教授は、表面を読み、裏返した。別紙まであることに気づくと、一度だけ眼鏡の位置を直した。

 

「質問は多いね」

 

「はい」

 

 佐伯は、少し困ったように笑った。

 

「今、重なっているものを削ろうとしていて」

 

「削る前に、一つ確認していい?」

 

 教授は、机へ紙を戻し、人差し指を質問の上へ置いた。

 

「これは、何を知りたい調査なの?」

 

 佐伯は、すぐには答えなかった。

 

「商店街の個人店へ、初めて入る時の……入りにくさ、です」

 

 神谷が、その言葉を補う。

 

「初回来店の障壁を調べたいと思っています」

 

 教授は、小さく頷いた。

 

「それなら、商店街へ来たことがない人と、商店街までは来たけれど店へ入らなかった人は、同じなの?」

 

 机の周りが静かになる。

 

「店へ入って買い物をした人と、一度入ったけれど何も買わなかった人も、同じ?」

 

 澪は、ノートへ引いた線を見た。

 

 紙の上へ並んでいる質問は、どれも商店街に関係している。けれど、同じ問題を見ているわけではない。

 

 商店街そのものへ来ない人には、駅からの距離や、道の分かりにくさも影響するかもしれない。店の前までは来るのに入らない人は、入口や価格表示、外から見える店内の様子へ不安を感じている可能性がある。中へ入ってから買わずに出る人なら、品揃えや実際の価格も関わる。一度買った後で戻ってこない人には、接客や満足度まで影響するだろう。

 

 全部、必要な話ではある。

 

 けれど、一度に混ぜると、どの理由が、どの行動へつながっているのか分からなくなる。

 

「篠原さんは、どう思う?」

 

 突然、名前を呼ばれた。

 

 澪の鉛筆が止まる。

 

 教授から直接尋ねられると、頭の中へあった言葉が、一度だけ遠くへ逃げる。

 

 以前なら、分かりません、と答えていたかもしれない。あるいは、何も言えないまま、佐伯たちの誰かが話すのを待っていた。

 

 澪は、手元のノートを見た。

 

 一度だけ息を吸う。

 

「今回は、店の前まで来たけれど、入らなかった人に絞った方がいいと思います」

 

 声は、思っていたよりも小さかった。

 

 けれど、教授には届いた。

 

「どうして?」

 

「商店街へ来ない人まで入れると、交通や立地の話も混ざるので、入口や価格表示の影響が分からなくなると思います」

 

 教授は、僅かに頷いた。

 

「うん。続けて」

 

 澪は、机へ広がった紙へ目を落とした。

 

 まだ緊張している。

 

 それでも、話すべきことは分かっていた。

 

「それから、通行人へ聞かなくても、私たちが見れば分かることがあります」

 

 神谷が、自分の質問案を見る。

 

「価格表示があるかとか、入口から中が見えるかとか、外へ商品が出ているかとか。そういうことは、店舗前で私たちが記録した方がいいと思います」

 

「アンケートでは、何を聞く?」

 

「見ただけでは分からないことを聞きます」

 

 澪は、少しだけ声を整えた。

 

「値段が見えないと不安なのか、中が見えない店へ入りにくいと感じるのか、何が分かれば少し入りやすくなるのか。そういうことは、本人へ聞かないと分からないので」

 

 教授は、澪のノートへ視線を落とした。

 

「質問することと、自分たちで見ることを分ける?」

 

「はい」

 

 教授は、そこで初めて、はっきりと頷いた。

 

「それなら、調査になるね」

 

 澪は、机の下で、握りかけていた指を少しだけ緩めた。

 

 

 

 

 

 教授が別の班へ移った後、三浦は、自分の筆箱を机の中央へ置いた。

 

「じゃあ、入口に商品が置いてあるかは、観察するんだよね」

 

「そうなるね」

 

 佐伯が、観察表に使う紙を新しく取り出す。

 

 三浦は、机の中央へ置いた筆箱を見た。

 

「でも、商品が外に出てた方が、何を売ってる店か分かるんじゃない?」

 

 神谷が、少し首を傾げる。

 

「置きすぎると、入口が見えにくくなるかもしれない」

 

「どっちなんだろ」

 

 澪は、筆箱を見た。

 

 異世界で、押入家具の売り方を考えた時のことを思い出す。

 

 作った家具を並べれば、それだけで売れるわけではなかった。何を扱っている店なのか分からなければ、客は足を止めない。けれど、見せようとして入口を塞げば、今度は中へ入りにくくなる。

 

 試食をしてもらった時も、同じだった。

 

 置けばよいわけではない。

 

 見えることと、近づけることは、似ているようで少し違う。

 

 澪は、三浦の筆箱を、机の中央から少し横へ動かした。

 

「真ん中へ置くと、商品は見えますけど、どこから入ればいいのか分かりにくいと思います」

 

「うん」

 

 三浦は、筆箱を入口の商品棚だと思って見ているらしい。

 

 澪は、三浦のペットボトルを借り、筆箱より少し奥へ置いた。

 

「横へ寄せれば、商品も見えます。それから、奥も見えるので、中へ入っていい場所が分かりやすくなります」

 

 佐伯と神谷も、机の上へ目を向けた。

 

 筆箱とペットボトルしか置いていない。

 

 それでも、中央へ置いた時より、横へ寄せた時の方が、入口らしい空間が見える。

 

「なるほど」

 

 神谷が、小さく呟いた。

 

「商品が見えるかだけじゃなくて、入る場所が見えるかも確認した方がいいんだ」

 

 三浦は、机の上から澪へ目を向けた。

 

「篠原さん、こういうの考えるの速くない?」

 

 澪は、一瞬だけ止まった。

 

 異世界で家具を売っています、とは言えない。

 

「少しだけ……似たようなことを考えたことがあって」

 

「バイト?」

 

「そんな感じです」

 

 完全な嘘ではない。

 

 澪は、少しだけ視線を逸らした。

 

 佐伯は、机の上に出来た即席の店舗入口を見ながら、観察表へ書き足している。神谷も、自分の資料へ何かを書き込んでいた。

 

 三浦だけが、筆箱とペットボトルを見比べながら、少し楽しそうに笑っている。

 

「これ、地味に分かりやすいな」

 

 

 

 

 

 アンケート案は、少しずつ短くなった。

 

 削った質問の全てが消えたわけではない。

 

 店の外から見れば分かることは、新しく作った観察表へ移した。今回の対象から外れる質問は、別の紙へ残した。現地で集めた結果を見た後で、必要になるかもしれない。

 

 澪は、見えない場所へ作っていた分類を、表向きのノートへ簡単に写した。

 

 頁の中央へ線を引く。

 

 左側には、店舗前で確認する内容を寄せる。右側には、通行人へ聞かなければ分からないことを書く。今は使わない質問は、欄外へ小さく残した。

 

 鉛筆を置いた時、机の横へ人影が止まった。

 

「少し見せてもらっていい?」

 

 教授だった。

 

「はい」

 

 澪は、ノートを差し出した。

 

 教授は、中央の線を目で追った後、左と右へ書かれた内容を順に読む。欄外へ残された質問にも気づいたらしい。

 

「削った質問も、捨てていないんだね」

 

「後で、結果を見た時に必要になるかもしれないので」

 

 教授は、すぐには何も言わなかった。

 

 ノートへ視線を落としたまま、少しだけ考える。

 

「これ、ほかの班にも見せていい?」

 

「え」

 

 澪は、思わず教授の顔を見た。

 

 教授は、返事を急がなかった。

 

 澪は、佐伯たちへ目を向ける。

 

 佐伯は、すぐに頷いた。

 

「いいと思う」

 

 神谷も、小さく頷く。

 

 三浦は、少しだけ笑った。

 

「篠原さんの表だし、篠原さんが決めていいけど」

 

 澪は、ノートを持った教授と、三人の顔を順に見た。

 

「はい」

 

 声は、あまり大きくならなかった。

 

 教授は、ゼミ室全体へ向き直る。

 

「少しだけ、手を止めて」

 

 別の班から聞こえていた声が、徐々に小さくなる。

 

 椅子を引く音も止まった。

 

 教授は、澪のノートを開いたまま、中央へ引かれた線を示した。

 

「アンケートへ、聞きたいことを全部入れると長くなる。質問で聞くことと、自分たちで観察出来ることを分けると、かなり整理しやすい」

 

 周囲の学生の視線が、教授の手元へ集まる。

 

「ここの班の分け方が分かりやすいから、参考にして」

 

 やめてください、と言うわけにもいかない。

 

 澪は、俯きすぎると不自然だと思い、机の上へ目を向けた。けれど、顔を上げ続けるのも難しい。結局、教授が持っている自分のノートと、机の上の筆箱の間くらいへ視線を置いた。

 

 異世界では、侯爵家の応接室で、薬師ギルド長が追い詰められる場面へ同席した。

 

 夜の映像も見た。

 

 証拠が並べられるところも見た。

 

 その時も緊張した。

 

 けれど、ゼミ室で、自分のノートを全員へ見られる方が、別の意味で逃げたくなる。

 

 机の下で、指先だけが少し固くなった。

 

 

 

 

 

 教授が別の班へ移った後、佐伯が澪へノートを返した。

 

「篠原さん、助かった」

 

「いえ」

 

 澪は、両手でノートを受け取った。

 

 神谷は、短くなったアンケート案と、別に作った観察表を見比べている。

 

「質問を減らすことばかり考えてたけど、観察表へ移せばよかったんだね」

 

 三浦は、机の上へ置いたままの筆箱を手に取った。

 

「先生に、そのまま使われるとは思わなかったけど」

 

「私も、思いませんでした」

 

 澪が答えると、佐伯は少し笑った。

 

「篠原さん、前より話してくれるようになったよね」

 

 澪は、一瞬だけ返事に迷った。

 

 気の利いた答えは思い浮かばない。

 

 急に何かが出来るようになったわけでもない。

 

 今でも、教授から名前を呼ばれれば緊張する。自分のノートを全員へ見せられると、どこへ視線を置けばよいか分からなくなる。

 

「少しだけ、前より整理しやすくなった気がします」

 

 佐伯は、自然に頷いた。

 

「じゃあ、これからもお願い」

 

「はい」

 

 澪は、小さく答えた。

 

 嬉しい。

 

 けれど、まだ少し恥ずかしい。

 

 その気持ちまで、うまく言葉へ分けることは出来なかった。

 

 

 

 

 

 ゼミが終わる頃、佐伯がスマートフォンを見ながら、小さく声を上げた。

 

「あ、来週、教室変わるかもしれないって」

 

 神谷が、鞄へ資料を入れながら顔を上げる。

 

「また確認しないと駄目?」

 

「四大学運動競技大会で、施設の使い方が変わるみたい」

 

 三浦は、筆箱を鞄へ放り込みながら言った。

 

「グループLINEでいいんじゃない?」

 

「うん。後で送る」

 

 佐伯は、予定表をもう一度確かめる。

 

 澪も、ノートを閉じる前に、次回の教室確認について小さく書き足した。

 

 予定の変更が一つ増えた。

 

 以前なら、それだけで、大学側の課題と押入商会の予定が、頭の中で同時に開いていた。孤児院の寝台も、親方たちの給金も、柳皮薬の確認も、ゼミの教室変更も、全部を今すぐ確認しなければならないような気がしていた。

 

 澪は、異世界側の頁を開かなかった。

 

 次回の教室は、佐伯から連絡が来た後で確認すればよい。

 

 アンケート案は、今日の話をもとに佐伯がまとめ直す。

 

 観察表は、帰宅後、少しだけ見直す。

 

 今、分けられるものは分けておけばよい。

 

 

 

 

 

 帰宅途中の電車は、朝よりも少し混んでいた。

 

 窓の外では、夕方の街並みが流れていく。傾いた光が、線路沿いの建物の壁へ細長く残っていた。

 

 澪は、座席の端へ腰掛け、膝の上へ鞄を置いた。

 

 スマートフォンが震える。

 

 佐伯から、グループLINEへ連絡が届いていた。

 

 次回の教室については、分かり次第、改めて知らせること。それまでに、観察表へ追加したい内容があれば送ってほしいこと。アンケート案は、今日の話をもとに佐伯がまとめ直すこと。

 

 最後に、一行だけ付け足されている。

 

「篠原さん、今日はありがとう!」

 

 澪は、画面を見た。

 

 返信欄へ文字を打つ。

 

「こちらこそ、ありがとうございます」

 

 少し堅い気がする。

 

 消す。

 

「いえ、少し分けただけなので」

 

 今度は、何となく言い訳のように見える。

 

 また消す。

 

 侯爵家の応接室では、薬師ギルド長を追い詰める証拠へ向き合った。

 

 あの時も、緊張していた。

 

 けれど、同級生へ送る短い返信の方が、別の意味で難しい。

 

 澪は、少し考えた後で、もう一度、文字を打った。

 

「こちらこそ、ありがとうございます。次回までに観察表も見直してみます」

 

 送信する。

 

 数秒後、佐伯から返信が届いた。

 

「よろしく!」

 

 それだけだった。

 

 澪は、少しだけ肩の力を抜いた。

 

 電車の窓へ映った自分の顔は、朝よりも僅かに疲れている。

 

 それでも、九月の初めに予定表を見たまま固まっていた頃よりは、少しだけ落ち着いて見えた。

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