押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第13話 姫様、扇子を壊す

 

 朝の六畳間で、篠原澪は冷蔵庫から小さなボトルを取り出した。

 

 前の晩に作った手作り補水飲料である。

 

 クエン酸と黒砂糖と塩と水を混ぜ、何度も味を見て、ようやく飲めるところまで調整した物だ。

 

 冷蔵庫から出したばかりのボトルは指先に冷たく、澪は蓋をもう一度ひねって、きちんと閉まっていることを確かめた。

 

 ミニテーブルには、今日持っていく再利用ペットボトル2本、薄手のタオル3枚、百円ショップで買った扇子2本、手作り補水飲料の小ボトル1本が並んでいる。

 

 その横には、リュシアへ説明するための注意書きもあった。

 

 澪は紙を手に取った。

 

『薬ではない』

 

 昨日、自分で書いた文字である。

 

「……もう少し大きく書いた方がいいかな」

 

 ペンを持ったところで手が止まる。

 

 大きくすればするほど、逆に薬らしく見える気がした。

 

 ゲンダイでも『これは怪しくありません』と何度も書かれた商品は、だいたい怪しく見える。

 

 異世界ならなおさらだ。

 

「やめよう」

 

 澪はペンを置き、『暑い日に少しずつ飲む』と書き足した。

 

 玄関脇には透明盾が立てかけてある。

 

 今日は市場へ試作品を見せに行くだけだ。

 

 一瞬だけそちらを見たが、持っていくのはやめた。

 

 タオルと扇子を見せに行くのに、透明盾まで背負う必要はない。

 

 澪は補水飲料が倒れないようタオルで包み、扇子は折れない位置へ差し込んだ。

 

 収納にも入れない。

 

 今日は普通にリュックへ入れて、自分で持っていく。

 

 昨夜、自分用の暑さ対策まで作ったのだから、まず自分で使うところからである。

 

「少量試験」

 

 口にしてからリュックを背負った。

 

 小さな品ばかりなのに、注意書きと管理メモが増えると、肩の重みまで増した気がする。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 市場へ入る前、澪は門の横で足を緩めた。

 

 紋章の彫られた木板が掛かっている。

 

 二頭の獣が盾のようなものを支え、その下には澪には読めない文字が並んでいた。

 

「あれ、何ですか?」

 

 隣を歩くリュシアが木板を見る。

 

「ヴァルディス侯爵家の市場札だよ。ここが侯爵家の公認市場だって示してる」

 

「侯爵家」

 

 澪の声が少し小さくなった。

 

 王家ではない。

 

 それでも、これまで単に『市場』と呼んで出入りしていた場所の後ろに侯爵家がいると知れば、十分に大きな話だった。

 

 入口では、荷を積んだ商人が警備の男へ木札を見せ、その横では別の商人が銅貨を渡していた。

 

「王家直轄じゃないよ。そこまで大きな市場じゃない。でも、ただ人が勝手に集まって商売してる場所でもないんだ」

 

 リュシアは荷車を避けながら歩く。

 

「場所代に警備、荷車を通す場所、水場、火を使う屋台の位置、倉庫の区画。その辺りは侯爵家の代官と市場組合が決めてる」

 

 澪は周囲を見回した。

 

 水売りの革袋も、煙を上げる屋台も、荷を抱えた子供たちが通る幅も、誰かが決め、誰かが見ている。

 

「じゃあ、暑さ対策セットを広げるなら……」

 

「扇子とタオルなら、雑貨で済むかもしれないね」

 

 リュシアは指を折る。

 

「でも、水入れは水売りと関係する。飲み物は薬師や神殿に変な物だと思われても面倒だよ」

 

「同じセットなのに?」

 

「中身が違えば、関わる相手も違うよ」

 

 リュシアはもう一度指を折った。

 

「水売り、市場組合、薬師、神殿。考える相手が増えるね」

 

 澪はリュックの肩紐を握り直した。

 

 補水飲料を1本持ってきただけなのに、周囲の建物までさっきより大きく見えた。

 

「いきなり大きく売るのはなしだよ」

 

「しません。少量試験です」

 

 リュシアの口元が少し緩んだ。

 

「その言葉、今日は何度も使うことになりそうだね」

 

 澪は何も答えず、そのままリュシアの倉庫へ向かった。

 

 倉庫ではトトたちが荷運びの合間に待っていた。

 

 澪はまず空のペットボトルを取り出す。

 

「水を入れるなら、水売りさんから買った水を入れてください。どこの水か分からない物を勝手に入れるのは駄目です」

 

「空なら平気?」

 

 トトがペットボトルを持ち上げた。

 

「空なら飲めませんから、そういう意味では平気です」

 

 トトは分かったような顔をして、次の瞬間にはペットボトルを軽く振った。

 

「振り回さないでください。遊び道具じゃありません」

 

「水、入ってないよ」

 

「入ってなくても商品としては平気じゃないです」

 

 澪が手を伸ばすと、トトは素直に返した。

 

 次にタオルを出すと、またすぐ寄ってくる。

 

「汗を拭く。首に掛ける。水で濡らして首元に当てる。日差しが強い時は頭や首に掛けてもいいです」

 

 澪は自分の首へ巻き、次に頭へ軽く掛けて見せた。

 

 トトも真似したが、顔まで全部覆った。

 

「見えない」

 

「それは使い方が違います。少しずらしてください」

 

 周りの子供たちが笑う。

 

 トトがタオルをずらすと、片目だけ出た。

 

「もう少しです」

 

「これなら見える」

 

「見えるかどうかだけを基準にしないでください」

 

 リュシアが横で笑う。

 

「でも、日よけにはなってるね」

 

 澪はトトの頭を見てから、反論するのをやめた。

 

「次が扇子です」

 

 澪は1本取り出した。

 

「これは、ゆっくり開いてください。骨が細いので、強く開くと折れます。水にも濡らさないでください」

 

 自分でゆっくり開いて見せる。

 

 ぱたぱたとあおぐと、倉庫の中に風が流れた。

 

 トトの目がすぐ扇子へ向く。

 

「昨日も言いましたけど、勢いよく開かないでくださいね」

 

「分かってる」

 

 その時、荷運びの子供たちの後ろから、ひょいと別の顔が出た。

 

 少年服の子だった。

 

 麻のシャツに膝丈のズボン、薄い上着。

 

 服だけなら市場の子供たちに混ざれそうだが、靴の革も縫い目も周囲の物より明らかに良い。

 

 頬には、市場を歩いてきたのだろう土埃が薄くついていた。

 

 それでも背筋の伸びた立ち方までは、周囲の子供たちと同じにならない。

 

 帽子の下へ押し込めた赤毛が、こめかみから少しこぼれていた。

 

 琥珀色の目が、まっすぐこちらを見ている。

 

 澪は、裕福な商家の子供だろうかと思った。

 

「また来たの?」

 

 トトが普通に声をかけた。

 

 リュシアの表情が、ほんの少し変わる。

 

 倉庫の外にいた大人たちも、急に静かになった。

 

 少年服の子は胸を張った。

 

「見に来ただけだ。今日は、暑さで倒れない道具があると聞いた」

 

 澪はリュシアを見たが、リュシアはまだ何も言わない。

 

「これですか?」

 

 澪が扇子を見せると、琥珀色の目がそちらへ向いた。

 

「これは、ゆっくり開いてください。勢いよく開くと――」

 

 言い終わる前だった。

 

 少年服の子が扇子を受け取り、ぱっと開いた。

 

 ぱき。

 

 小さな音がした。

 

 澪は扇子を見る。

 

 細い骨が1本、折れている。

 

 少年服の子も見る。

 

「壊れた」

 

 だからゆっくりって。

 

 そこまで出かかって、澪は周囲を見た。

 

 荷運びの子供たちは固まり、外にいた大人たちは青ざめている。

 

 リュシアは片手で額を押さえていた。

 

 遠くから走ってきた護衛らしき男たちまで、折れた扇子と少年服の子を見て顔色を変える。

 

 リュシアが一歩寄り、耳元へ声を落とした。

 

「澪。その子、ヴァルディス侯爵家のエレナ様だよ」

 

「……え」

 

 澪は折れた扇子より先に、自分の心が折れそうになった。

 

 その間にも、護衛の1人が息を切らして倉庫へ入ってきた。

 

「エレナ様、お屋敷を抜け出されては困ります」

 

「抜け出してなどいない。オスカー、市場を見に来ただけだ」

 

「それを抜け出したと言います」

 

 オスカーと呼ばれた護衛は、声こそ抑えているが、かなり疲れて見えた。

 

 エレナはむっとした顔をする。

 

 けれど折れた扇子へ目を落とすと、少しだけ気まずそうに唇を結んだ。

 

 澪は扇子を受け取るべきなのか迷い、半端に手を伸ばしたまま止まった。

 

 エレナはそのまま木箱へ腰を下ろした。

 

 オスカーはすぐ後ろに立つ。

 

 リュシアは澪の隣。

 

 トトだけは、折れた扇子の方を気にしていた。

 

 少なくともトトにとっては、遠くから頭を下げるだけの『姫様』ではないらしい。

 

「暑さで荷運びの子がふらついたと聞いた」

 

 エレナが言った。

 

「それで来たんですか?」

 

「屋敷では、水もすぐ出る。日陰もある。侍女が扇いでくれる。でも、市場ではそうではないのだろう」

 

 エレナが顔を上げる。

 

「見なければ分からない」

 

 澪は黙って聞いた。

 

 エレナは折れた骨を指で押さえた。

 

「これは、乱暴に扱うと壊れるのだな」

 

「はい。軽くて風は作れますけど、骨が細いので、強く開くと折れます」

 

「壊れるのに売るのか」

 

「ええと……」

 

 相手は侯爵令嬢だ。

 

 普通に注意していいのか、丁寧に言い換えるべきか、澪の頭の中で言葉が渋滞する。

 

「壊れやすいことを隠して売るのは駄目です。でも、壊れやすいと先に説明して、丁寧に使える人に売るなら、役に立つこともあります」

 

 トトが折れた扇子を横から覗き込もうとした。

 

 オスカーが見る。

 

 トトの頭が元の位置へ戻った。

 

「危ない物なら売りません。使い方を間違えると危ない物なら、誰に渡すかも考えます。でも、これは扱い方を守れば風を作れますから」

 

 エレナはしばらく扇子を見た。

 

「では、これは説明が足りなかったのか」

 

「いえ、私が説明している途中で……」

 

 澪はそこで止めた。

 

 エレナの眉が寄る。

 

「私が先に開いた」

 

 エレナは唇を少し結び、澪から目をそらさなかった。

 

「弁償する」

 

 澪の肩から、少しだけ力が抜けた。

 

「いえ、これは試験品なので……」

 

 澪は慌てた。

 

 侯爵令嬢から百円ショップの扇子代を受け取るとなると、今度は100円とは何かという説明まで必要になる。

 

 リュシアがすぐ間へ入った。

 

「エレナ様、これは試験品だよ。壊れ方を見るのも試験のうちさ。強く開けば骨が折れる。それが分かったなら、売る前の情報としては役に立ってる」

 

「では、私は試験に役立ったのだな」

 

 澪は一瞬迷った。

 

「はい。かなり、分かりやすく」

 

 リュシアが口元を押さえる。

 

 オスカーは何も言わなかった。

 

 エレナは少しだけ胸を張った。

 

 そこへ、エレナの視線が小さなボトルへ移った。

 

「その色のついた水は何だ」

 

 オスカーの表情がすぐ変わる。

 

「危険はありませんか」

 

 問いかけは早かった。

 

 黒砂糖のせいで、補水飲料には薄く色がついていた。

 

 澪はその色を見て、司祭様のところへ持っていったスポーツ飲料を思い出した。

 

「これは薬ではありません」

 

 言ってから、澪は朝の注意書きを思い出した。

 

「暑い日に、汗をかいた人が少しずつ飲むための水です。甘みと塩気と酸味があります。病気を治す物ではありませんし、意識がない人に飲ませる物でもありません。作り置きもしません」

 

「さっき私も味を見たよ。暑い日の飲み物として、少しだけ試してるところだね」

 

 リュシアが小さな器へ注ぎ、自分で先に一口飲んだ。

 

 それを見てから、エレナが手を出す。

 

 オスカーは器とエレナの手元を見ていた。

 

「市場を見るなら、味も知る」

 

 エレナは言い切った。

 

 澪は器を渡す。

 

「少しだけです。一気に飲まないでください」

 

 侯爵令嬢に一気飲みを止める日が来るとは思わなかった。

 

 エレナは一口だけ飲んだ。

 

 琥珀色の目が少し大きくなる。

 

「水より飲みやすい。甘いが、甘いだけではない」

 

「汗をかいた時向けです。飲みやすいからって、たくさん飲めばいい物ではありません」

 

「持ち帰りはできますか」

 

 オスカーが澪へ聞いた。

 

「今日はだめです。まだ試験中です」

 

「これを侯爵家で――」

 

「まだ試験中です」

 

「まだ試験中だよ」

 

 澪とリュシアの声が重なった。

 

 昨日まで空のペットボトルを洗っていた話が、いきなり侯爵家まで届きかけていた。

 

 エレナが不満そうに眉を寄せる。

 

「なぜだ。役に立つなら広めればよい」

 

 リュシアが一歩前へ出た。

 

「エレナ様。まずは市場組合の範囲で小さく試させてください。日陰や水場、休める場所を良くする話なら、侯爵家へ上げる価値はあるよ。でも、この飲み物や水入れは、使い方と管理を確かめないといけない」

 

「なぜだ」

 

「水売り、薬師、神殿、倉庫、水場。関係する人が多いからだよ。品が良くても、広め方を間違えれば揉める」

 

 エレナは黙り、倉庫の外へ目を向けた。

 

 水を売る者、荷を運ぶ子供たち、火を使う屋台。

 

 人と品物が狭い通路を行き交っている。

 

「では、小さく試す」

 

 やがてエレナが言った。

 

「その代わり、日陰と水場の話は私が聞いたと言ってよいな」

 

 リュシアは少し考えた。

 

「市場の暑さをご覧になったこととしてなら、いいと思うよ」

 

 エレナはうなずいた。

 

 澪は折れた扇子を回収し、骨の部分を指先で押さえる。

 

 細くて軽く、安い。

 

 それでもちゃんと風は出るが、強く開けば簡単に折れる。

 

 澪は鑑定を向けた。

 

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百円ショップの扇子

用途:手で風を送る道具

利点:軽い、畳める、持ち運びやすい

注意:強く開くと骨が折れる、水濡れ注意

販売区分:扱い説明必須

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「やっぱり、扱い説明必須……」

 

 澪は『強く開かない』『子供には先に説明』と頭の中で注意を足した。

 

 試用品も、壊れることを考えて数を用意した方がいい。

 

 今日、その必要性を侯爵令嬢が全力で証明してくれた。

 

 エレナは折れた扇子をちらっと見てから、澪を見上げた。

 

「次は壊さない」

 

「次は、ゆっくり開いてください」

 

「分かった」

 

 オスカーがほんの少しだけ安堵した顔をした。

 

「姫様、壊す係?」

 

 トトが横から聞いた。

 

 オスカーの目が見開かれた。

 

「トト」

 

 リュシアが低く呼ぶ。

 

 トトは口を閉じた。

 

 エレナは一瞬むっとしたが、言い返さなかった。

 

 澪は折れた扇子をリュックへ戻した。

 

 朝は2本あった。

 

 使える物は、あと1本だった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 夜。

 

 六畳間のミニテーブルには、折れた扇子が置かれていた。

 

 澪はその横へ今日のメモを広げる。

 

 今日のメモには、侯爵家、代官、市場組合、水売り、荷運び、倉庫、それにリュシアとエレナの名前まで並んだ。

 

 澪は、どこへ話を通す必要があるのかを考えながら、紙の上に線を引いていく。

 

 最初に、

 

『姫様』

 

 と書いたところでペンが止まった。

 

「王女じゃない」

 

 市場では姫様と呼ばれているが、正式には侯爵令嬢だ。

 

 澪は『姫様』へ二重線を引き、その横へ書き直す。

 

『エレナ・ヴァルディス侯爵令嬢』

 

 長くなった。

 

 名前が長くなっただけなのに、紙の上の圧まで増した気がする。

 

「……こっちの方が怖い」

 

 次に扇子の注意欄を見る。

 

 強く開かない。

 

 水に濡らさない。

 

 振り回さない。

 

 子供には先に説明。

 

 そこまで書いて、澪は別の行へペンを走らせた。

 

『姫様には先に説明』

 

 手が止まる。

 

「駄目だ」

 

 誰が見るか分からないメモに、それはまずい。

 

 線を引いて、

 

『子供には先に説明』

 

 と書き直した。

 

 範囲は広くなったが、これなら普通の注意書きで済む。

 

 澪はペンを置き、折れた扇子を見る。

 

 侯爵家、市場組合、水売り、薬師、神殿。

 

 今日増えた言葉はどれも大きいのに、目の前で一番はっきり壊れているのは、百円ショップで買った扇子の細い骨だった。

 

 澪は折れた部分を指先で持ち上げた。

 

 修理できるのか、試験品として使えなくするのか、同じ物をもう1本仕入れるのか。

 

 それはまだ決めない。

 

 ただし在庫は決めなければならない。

 

 朝は2本。

 

 使える扇子は、今は1本。

 

 領主家との関係より先に、明日の試験用扇子が1つ減った。

 

 澪はペンを握り直し、在庫表の扇子の行へ小さく書き込んだ。

 

『1本破損』

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