朝の六畳間で、篠原澪は冷蔵庫から小さなボトルを取り出した。
前の晩に作った手作り補水飲料である。
クエン酸と黒砂糖と塩と水を混ぜ、何度も味を見て、ようやく飲めるところまで調整した物だ。
冷蔵庫から出したばかりのボトルは指先に冷たく、澪は蓋をもう一度ひねって、きちんと閉まっていることを確かめた。
ミニテーブルには、今日持っていく再利用ペットボトル2本、薄手のタオル3枚、百円ショップで買った扇子2本、手作り補水飲料の小ボトル1本が並んでいる。
その横には、リュシアへ説明するための注意書きもあった。
澪は紙を手に取った。
『薬ではない』
昨日、自分で書いた文字である。
「……もう少し大きく書いた方がいいかな」
ペンを持ったところで手が止まる。
大きくすればするほど、逆に薬らしく見える気がした。
ゲンダイでも『これは怪しくありません』と何度も書かれた商品は、だいたい怪しく見える。
異世界ならなおさらだ。
「やめよう」
澪はペンを置き、『暑い日に少しずつ飲む』と書き足した。
玄関脇には透明盾が立てかけてある。
今日は市場へ試作品を見せに行くだけだ。
一瞬だけそちらを見たが、持っていくのはやめた。
タオルと扇子を見せに行くのに、透明盾まで背負う必要はない。
澪は補水飲料が倒れないようタオルで包み、扇子は折れない位置へ差し込んだ。
収納にも入れない。
今日は普通にリュックへ入れて、自分で持っていく。
昨夜、自分用の暑さ対策まで作ったのだから、まず自分で使うところからである。
「少量試験」
口にしてからリュックを背負った。
小さな品ばかりなのに、注意書きと管理メモが増えると、肩の重みまで増した気がする。
◇ ◇ ◇
市場へ入る前、澪は門の横で足を緩めた。
紋章の彫られた木板が掛かっている。
二頭の獣が盾のようなものを支え、その下には澪には読めない文字が並んでいた。
「あれ、何ですか?」
隣を歩くリュシアが木板を見る。
「ヴァルディス侯爵家の市場札だよ。ここが侯爵家の公認市場だって示してる」
「侯爵家」
澪の声が少し小さくなった。
王家ではない。
それでも、これまで単に『市場』と呼んで出入りしていた場所の後ろに侯爵家がいると知れば、十分に大きな話だった。
入口では、荷を積んだ商人が警備の男へ木札を見せ、その横では別の商人が銅貨を渡していた。
「王家直轄じゃないよ。そこまで大きな市場じゃない。でも、ただ人が勝手に集まって商売してる場所でもないんだ」
リュシアは荷車を避けながら歩く。
「場所代に警備、荷車を通す場所、水場、火を使う屋台の位置、倉庫の区画。その辺りは侯爵家の代官と市場組合が決めてる」
澪は周囲を見回した。
水売りの革袋も、煙を上げる屋台も、荷を抱えた子供たちが通る幅も、誰かが決め、誰かが見ている。
「じゃあ、暑さ対策セットを広げるなら……」
「扇子とタオルなら、雑貨で済むかもしれないね」
リュシアは指を折る。
「でも、水入れは水売りと関係する。飲み物は薬師や神殿に変な物だと思われても面倒だよ」
「同じセットなのに?」
「中身が違えば、関わる相手も違うよ」
リュシアはもう一度指を折った。
「水売り、市場組合、薬師、神殿。考える相手が増えるね」
澪はリュックの肩紐を握り直した。
補水飲料を1本持ってきただけなのに、周囲の建物までさっきより大きく見えた。
「いきなり大きく売るのはなしだよ」
「しません。少量試験です」
リュシアの口元が少し緩んだ。
「その言葉、今日は何度も使うことになりそうだね」
澪は何も答えず、そのままリュシアの倉庫へ向かった。
倉庫ではトトたちが荷運びの合間に待っていた。
澪はまず空のペットボトルを取り出す。
「水を入れるなら、水売りさんから買った水を入れてください。どこの水か分からない物を勝手に入れるのは駄目です」
「空なら平気?」
トトがペットボトルを持ち上げた。
「空なら飲めませんから、そういう意味では平気です」
トトは分かったような顔をして、次の瞬間にはペットボトルを軽く振った。
「振り回さないでください。遊び道具じゃありません」
「水、入ってないよ」
「入ってなくても商品としては平気じゃないです」
澪が手を伸ばすと、トトは素直に返した。
次にタオルを出すと、またすぐ寄ってくる。
「汗を拭く。首に掛ける。水で濡らして首元に当てる。日差しが強い時は頭や首に掛けてもいいです」
澪は自分の首へ巻き、次に頭へ軽く掛けて見せた。
トトも真似したが、顔まで全部覆った。
「見えない」
「それは使い方が違います。少しずらしてください」
周りの子供たちが笑う。
トトがタオルをずらすと、片目だけ出た。
「もう少しです」
「これなら見える」
「見えるかどうかだけを基準にしないでください」
リュシアが横で笑う。
「でも、日よけにはなってるね」
澪はトトの頭を見てから、反論するのをやめた。
「次が扇子です」
澪は1本取り出した。
「これは、ゆっくり開いてください。骨が細いので、強く開くと折れます。水にも濡らさないでください」
自分でゆっくり開いて見せる。
ぱたぱたとあおぐと、倉庫の中に風が流れた。
トトの目がすぐ扇子へ向く。
「昨日も言いましたけど、勢いよく開かないでくださいね」
「分かってる」
その時、荷運びの子供たちの後ろから、ひょいと別の顔が出た。
少年服の子だった。
麻のシャツに膝丈のズボン、薄い上着。
服だけなら市場の子供たちに混ざれそうだが、靴の革も縫い目も周囲の物より明らかに良い。
頬には、市場を歩いてきたのだろう土埃が薄くついていた。
それでも背筋の伸びた立ち方までは、周囲の子供たちと同じにならない。
帽子の下へ押し込めた赤毛が、こめかみから少しこぼれていた。
琥珀色の目が、まっすぐこちらを見ている。
澪は、裕福な商家の子供だろうかと思った。
「また来たの?」
トトが普通に声をかけた。
リュシアの表情が、ほんの少し変わる。
倉庫の外にいた大人たちも、急に静かになった。
少年服の子は胸を張った。
「見に来ただけだ。今日は、暑さで倒れない道具があると聞いた」
澪はリュシアを見たが、リュシアはまだ何も言わない。
「これですか?」
澪が扇子を見せると、琥珀色の目がそちらへ向いた。
「これは、ゆっくり開いてください。勢いよく開くと――」
言い終わる前だった。
少年服の子が扇子を受け取り、ぱっと開いた。
ぱき。
小さな音がした。
澪は扇子を見る。
細い骨が1本、折れている。
少年服の子も見る。
「壊れた」
だからゆっくりって。
そこまで出かかって、澪は周囲を見た。
荷運びの子供たちは固まり、外にいた大人たちは青ざめている。
リュシアは片手で額を押さえていた。
遠くから走ってきた護衛らしき男たちまで、折れた扇子と少年服の子を見て顔色を変える。
リュシアが一歩寄り、耳元へ声を落とした。
「澪。その子、ヴァルディス侯爵家のエレナ様だよ」
「……え」
澪は折れた扇子より先に、自分の心が折れそうになった。
その間にも、護衛の1人が息を切らして倉庫へ入ってきた。
「エレナ様、お屋敷を抜け出されては困ります」
「抜け出してなどいない。オスカー、市場を見に来ただけだ」
「それを抜け出したと言います」
オスカーと呼ばれた護衛は、声こそ抑えているが、かなり疲れて見えた。
エレナはむっとした顔をする。
けれど折れた扇子へ目を落とすと、少しだけ気まずそうに唇を結んだ。
澪は扇子を受け取るべきなのか迷い、半端に手を伸ばしたまま止まった。
エレナはそのまま木箱へ腰を下ろした。
オスカーはすぐ後ろに立つ。
リュシアは澪の隣。
トトだけは、折れた扇子の方を気にしていた。
少なくともトトにとっては、遠くから頭を下げるだけの『姫様』ではないらしい。
「暑さで荷運びの子がふらついたと聞いた」
エレナが言った。
「それで来たんですか?」
「屋敷では、水もすぐ出る。日陰もある。侍女が扇いでくれる。でも、市場ではそうではないのだろう」
エレナが顔を上げる。
「見なければ分からない」
澪は黙って聞いた。
エレナは折れた骨を指で押さえた。
「これは、乱暴に扱うと壊れるのだな」
「はい。軽くて風は作れますけど、骨が細いので、強く開くと折れます」
「壊れるのに売るのか」
「ええと……」
相手は侯爵令嬢だ。
普通に注意していいのか、丁寧に言い換えるべきか、澪の頭の中で言葉が渋滞する。
「壊れやすいことを隠して売るのは駄目です。でも、壊れやすいと先に説明して、丁寧に使える人に売るなら、役に立つこともあります」
トトが折れた扇子を横から覗き込もうとした。
オスカーが見る。
トトの頭が元の位置へ戻った。
「危ない物なら売りません。使い方を間違えると危ない物なら、誰に渡すかも考えます。でも、これは扱い方を守れば風を作れますから」
エレナはしばらく扇子を見た。
「では、これは説明が足りなかったのか」
「いえ、私が説明している途中で……」
澪はそこで止めた。
エレナの眉が寄る。
「私が先に開いた」
エレナは唇を少し結び、澪から目をそらさなかった。
「弁償する」
澪の肩から、少しだけ力が抜けた。
「いえ、これは試験品なので……」
澪は慌てた。
侯爵令嬢から百円ショップの扇子代を受け取るとなると、今度は100円とは何かという説明まで必要になる。
リュシアがすぐ間へ入った。
「エレナ様、これは試験品だよ。壊れ方を見るのも試験のうちさ。強く開けば骨が折れる。それが分かったなら、売る前の情報としては役に立ってる」
「では、私は試験に役立ったのだな」
澪は一瞬迷った。
「はい。かなり、分かりやすく」
リュシアが口元を押さえる。
オスカーは何も言わなかった。
エレナは少しだけ胸を張った。
そこへ、エレナの視線が小さなボトルへ移った。
「その色のついた水は何だ」
オスカーの表情がすぐ変わる。
「危険はありませんか」
問いかけは早かった。
黒砂糖のせいで、補水飲料には薄く色がついていた。
澪はその色を見て、司祭様のところへ持っていったスポーツ飲料を思い出した。
「これは薬ではありません」
言ってから、澪は朝の注意書きを思い出した。
「暑い日に、汗をかいた人が少しずつ飲むための水です。甘みと塩気と酸味があります。病気を治す物ではありませんし、意識がない人に飲ませる物でもありません。作り置きもしません」
「さっき私も味を見たよ。暑い日の飲み物として、少しだけ試してるところだね」
リュシアが小さな器へ注ぎ、自分で先に一口飲んだ。
それを見てから、エレナが手を出す。
オスカーは器とエレナの手元を見ていた。
「市場を見るなら、味も知る」
エレナは言い切った。
澪は器を渡す。
「少しだけです。一気に飲まないでください」
侯爵令嬢に一気飲みを止める日が来るとは思わなかった。
エレナは一口だけ飲んだ。
琥珀色の目が少し大きくなる。
「水より飲みやすい。甘いが、甘いだけではない」
「汗をかいた時向けです。飲みやすいからって、たくさん飲めばいい物ではありません」
「持ち帰りはできますか」
オスカーが澪へ聞いた。
「今日はだめです。まだ試験中です」
「これを侯爵家で――」
「まだ試験中です」
「まだ試験中だよ」
澪とリュシアの声が重なった。
昨日まで空のペットボトルを洗っていた話が、いきなり侯爵家まで届きかけていた。
エレナが不満そうに眉を寄せる。
「なぜだ。役に立つなら広めればよい」
リュシアが一歩前へ出た。
「エレナ様。まずは市場組合の範囲で小さく試させてください。日陰や水場、休める場所を良くする話なら、侯爵家へ上げる価値はあるよ。でも、この飲み物や水入れは、使い方と管理を確かめないといけない」
「なぜだ」
「水売り、薬師、神殿、倉庫、水場。関係する人が多いからだよ。品が良くても、広め方を間違えれば揉める」
エレナは黙り、倉庫の外へ目を向けた。
水を売る者、荷を運ぶ子供たち、火を使う屋台。
人と品物が狭い通路を行き交っている。
「では、小さく試す」
やがてエレナが言った。
「その代わり、日陰と水場の話は私が聞いたと言ってよいな」
リュシアは少し考えた。
「市場の暑さをご覧になったこととしてなら、いいと思うよ」
エレナはうなずいた。
澪は折れた扇子を回収し、骨の部分を指先で押さえる。
細くて軽く、安い。
それでもちゃんと風は出るが、強く開けば簡単に折れる。
澪は鑑定を向けた。
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百円ショップの扇子
用途:手で風を送る道具
利点:軽い、畳める、持ち運びやすい
注意:強く開くと骨が折れる、水濡れ注意
販売区分:扱い説明必須
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「やっぱり、扱い説明必須……」
澪は『強く開かない』『子供には先に説明』と頭の中で注意を足した。
試用品も、壊れることを考えて数を用意した方がいい。
今日、その必要性を侯爵令嬢が全力で証明してくれた。
エレナは折れた扇子をちらっと見てから、澪を見上げた。
「次は壊さない」
「次は、ゆっくり開いてください」
「分かった」
オスカーがほんの少しだけ安堵した顔をした。
「姫様、壊す係?」
トトが横から聞いた。
オスカーの目が見開かれた。
「トト」
リュシアが低く呼ぶ。
トトは口を閉じた。
エレナは一瞬むっとしたが、言い返さなかった。
澪は折れた扇子をリュックへ戻した。
朝は2本あった。
使える物は、あと1本だった。
◇ ◇ ◇
夜。
六畳間のミニテーブルには、折れた扇子が置かれていた。
澪はその横へ今日のメモを広げる。
今日のメモには、侯爵家、代官、市場組合、水売り、荷運び、倉庫、それにリュシアとエレナの名前まで並んだ。
澪は、どこへ話を通す必要があるのかを考えながら、紙の上に線を引いていく。
最初に、
『姫様』
と書いたところでペンが止まった。
「王女じゃない」
市場では姫様と呼ばれているが、正式には侯爵令嬢だ。
澪は『姫様』へ二重線を引き、その横へ書き直す。
『エレナ・ヴァルディス侯爵令嬢』
長くなった。
名前が長くなっただけなのに、紙の上の圧まで増した気がする。
「……こっちの方が怖い」
次に扇子の注意欄を見る。
強く開かない。
水に濡らさない。
振り回さない。
子供には先に説明。
そこまで書いて、澪は別の行へペンを走らせた。
『姫様には先に説明』
手が止まる。
「駄目だ」
誰が見るか分からないメモに、それはまずい。
線を引いて、
『子供には先に説明』
と書き直した。
範囲は広くなったが、これなら普通の注意書きで済む。
澪はペンを置き、折れた扇子を見る。
侯爵家、市場組合、水売り、薬師、神殿。
今日増えた言葉はどれも大きいのに、目の前で一番はっきり壊れているのは、百円ショップで買った扇子の細い骨だった。
澪は折れた部分を指先で持ち上げた。
修理できるのか、試験品として使えなくするのか、同じ物をもう1本仕入れるのか。
それはまだ決めない。
ただし在庫は決めなければならない。
朝は2本。
使える扇子は、今は1本。
領主家との関係より先に、明日の試験用扇子が1つ減った。
澪はペンを握り直し、在庫表の扇子の行へ小さく書き込んだ。
『1本破損』