押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第13話 姫様、扇子を壊す

 朝の六畳間で、篠原澪は冷蔵庫から小さなボトルを取り出した。

 

 手作り補水飲料は、前日の夜に作った分だけだった。クエン酸と黒砂糖と塩と水を混ぜ、何度も味見して、ようやく飲める濃さにしたものだ。冷蔵庫から出したばかりのボトルは指先に冷たく、澪はそれをリュックに入れる前に、キャップがきちんと閉まっているかをもう一度確認した。

 

 ちゃぶ台の上には、今日持っていく試作品が並んでいる。再利用ペットボトルが二本、薄手のタオルが三枚、百円ショップの扇子が二本、手作り補水飲料が小ボトル一本。それから、リュシアに説明するための注意書きメモ。澪はメモの一枚を手に取り、「薬ではない」と書いた行を見つめた。

 

 もう少し大きく書いた方がいいだろうか。

 

 そう思ってペンを持ったところで、澪は手を止めた。大きく書けば書くほど、逆に薬っぽく見える。現代でも「これは怪しくありません」と何度も書かれた商品は、だいたい怪しく見える。異世界ならなおさらだ。

 

 澪はペンを置き、代わりに「暑い日に少しずつ飲む」と書き足した。薬ではないと直接叫ぶより、使い方を書いた方がまだましな気がした。

 

 透明盾は玄関脇に立てかけたままにする。今日は市場へ行くが、試作品を見せるだけだ。盾を持っていけば安全かもしれないが、目立ちすぎる。澪は一度だけ透明な板を見て、それから視線を外した。

 

 収納スキルも使わない。補水飲料は時間が止まらない収納に入れるのが怖いし、扇子やタオルは説明のためにすぐ取り出せる方がいい。澪はリュックの中でボトルが倒れないよう、タオルで包み、扇子を折らない位置へ差し込んだ。

 

 リュックを背負うと、肩にいつもの重みがかかった。小さな品ばかりなのに、注意書きと管理メモが増えると、荷物は物理的にも精神的にも重くなる。澪は玄関で靴を履きながら、今日の目的を心の中で確認した。

 

 少量試験。

 

 大きく売らない。

 

 目立ちすぎない。

 

 そして、できれば何も壊れない。

 

 最後の一つだけ、あとで一番難しい願いだったことを、澪はまだ知らなかった。

 

 

 

 

 

 市場の入口には、いつもより長い荷車の列ができていた。

 

 澪はリュシアと並んで歩きながら、荷を積んだ商人が警備の男に木札を見せる様子を見ていた。別の商人は小さな卓の前で銅貨を数え、帳面を持った男がそれを確認している。場所代なのか、通行の確認なのか、澪には分からない。だが、これまで自分がただ「市場」と呼んでいた場所が、勝手に屋台と人が集まっているだけではないことは分かった。

 

 門の横には、紋章入りの木板が掲げられていた。澪には文字は読めないが、彫られた紋章は目立つ。二頭の獣が盾のようなものを支えている図柄で、その下にいくつかの文字が並んでいる。

 

「あれ、何ですか」

 

 澪が木板を指さすと、リュシアは一度だけ視線を向けた。

 

「ヴァルディス侯爵家の市場札よ。ここが侯爵家の公認市場だって示しているの」

 

「侯爵家」

 

 澪は声を小さくした。王家ではない。公爵でも伯爵でもなく、侯爵家。日本の大学生としての感覚では、それでも十分に大きい響きだった。

 

「王家直轄ではないわ。そこまで大きな場所じゃない。でも、ただの町市でもない。場所代、警備、荷車の通行、水場、火を使う屋台の位置、倉庫区画。そのあたりは、侯爵家の代官と市場組合が決めている」

 

 リュシアは、荷車の隙間を歩きながら淡々と言った。澪は、入口で銅貨を渡す商人の手元を見た。水売りの革袋も、火を使う屋台の煙も、荷運びの子供たちが通る幅も、誰かが決まりを作り、誰かが見ている。

 

「じゃあ、暑さ対策セットを広げるなら……」

 

「水売り、市場組合、薬師、神殿。考える相手が増えるわね」

 

 リュシアは澪の方を見ずに言った。澪はリュックの肩紐を握り直した。補水飲料を一本持ってきただけなのに、急に周囲の建物が大きく見えてくる。

 

「扇子とタオルは雑貨で済むかもしれない。でも、水入れは水売りと関係する。飲み物は薬師や神殿に誤解されると面倒。いきなり大きく売ろうとしないことね」

 

「しません。少量試験です」

 

「その言葉、今日は何度も使うことになると思うわ」

 

 リュシアの声に少しだけ笑いが混じっていた。澪は笑えなかった。市場入口の紋章を見ただけで、すでに胃のあたりが重い。侯爵家、公認市場、代官、市場組合。昨日までの「タオルを売るかどうか」とは、話の広がり方が違う。

 

 それでも、澪は門をくぐった。石畳の照り返しが足元から上がり、屋台の火と人の熱気が顔に当たる。今日も暑かった。

 

 

 

 

 

 リュシアの倉庫では、トトと荷運びの子供たちがすでに待っていた。

 

 澪が木箱の上にタオルを広げると、子供たちの目がすぐに集まった。再利用ペットボトルは二本だけ。タオルは三枚。扇子は二本。補水飲料は小さなボトル一本。市場全体をどうにかする数ではない。けれど、使い方を確かめるには十分だった。

 

「これは新品の水筒じゃありません。再利用水入れです」

 

 澪はペットボトルを手に取って、まずそこから説明した。熱い湯を入れない。長く使い続けない。使ったら洗って乾かす。においが残ったもの、潰れたもの、傷があるものは外す。トトは透明な容器を光に透かして、中を覗き込んでいる。

 

「中が見える」

 

「だから、どれくらい水が残っているか分かります」

 

「水がなくなったら?」

 

「水売りさんから買って入れてください。勝手にどこかの水を入れるのは、場所によって危ないです」

 

 トトは分かったような顔をしたが、すぐにペットボトルを軽く振った。澪は反射的に手を伸ばす。

 

「振り回さないでください。遊び道具ではないです」

 

「水が入ってないから平気」

 

「入ってなくても、商品としては平気じゃないです」

 

 リュシアが横で笑いをこらえている。澪は次にタオルを広げた。汗を拭く。首に巻く。水で濡らして首元に当てる。日差しが強ければ頭や首にかける。澪がひとつずつ動作で見せると、トトはすぐ真似をして、タオルを頭からかぶった。

 

「見えない」

 

「それは使い方が違います。少しずらしてください」

 

 トトはタオルの下から顔だけ出した。荷運びの子供たちが笑う。リュシアは「でも、日よけにはなるわね」と言った。澪は反論しようとして、たしかに日よけではあると思い直す。子供の使い方は雑だが、現場の工夫でもある。

 

 最後に澪は扇子を手に取った。

 

「これは、ゆっくり開いてください。骨が細いので、強く開くと折れます。水に濡らさないでください。振り回さないでください」

 

 澪は自分でも、注意事項が多いと思った。けれど、壊れやすいものは先に言わなければならない。トトが興味津々で近づいてきたので、澪は扇子をゆっくり開いて見せた。薄い風が、倉庫の中に少しだけ流れる。

 

 その時、荷運びの子供たちの後ろから、ひょいと別の顔が出た。

 

 少年服の子だった。

 

 帽子の下に押し込めた髪は隠しきれておらず、こめかみのあたりから、熟したチェリーみたいな赤毛がこぼれている。市場の土埃が頬についていたが、その色だけは妙に目を引いた。

 

 服は地味だった。麻のシャツに膝丈のズボン、薄い上着。ぱっと見れば市場の子供に混じれそうな格好だ。だが、靴だけが違った。革の質も縫い目も、荷運びの子供たちのものとは明らかに違う。何より、立っているだけで背筋がすっと通っていて、雑踏の中にいても育ちの良さが消えていなかった。

 

 澪は、裕福な商家の子だろうかと思った。

 

 リュシアの表情が、ほんの少し変わった。倉庫の外にいた大人たちも、妙に静かになる。だがトトだけは普通だった。

 

「また来たの?」

 

「見に来ただけだ。今日は、暑さで倒れない道具があると聞いた」

 

 少年服の子は、胸を張って答えた。言葉遣いは子供にしては整っていて、しかも情報が早い。澪はリュシアを見たが、リュシアはまだ何も言わない。

 

 少年服の子の琥珀色の目は、すでに扇子へ吸い寄せられていた。珍しいものを見つけた子猫みたいな目だった。澪は嫌な予感がして、扇子を持つ手に力を入れる。

 

「これは、ゆっくり開いてください。勢いよく開くと――」

 

 言い終わる前だった。

 

 少年服の子は、好奇心に負けた手つきで扇子を受け取り、ぱっと勢いよく開いた。

 

 ぱき、と小さな音がした。

 

 細い骨が一本、折れていた。

 

 澪は息を止めた。喉まで出かかった言葉がある。

 

 だからゆっくりって。

 

 けれど、そこまで言いかけたところで、倉庫の空気がおかしいことに気づいた。荷運びの子供たちは固まっている。外の大人たちは青ざめている。リュシアは片手で額を押さえ、遠くから駆け込んできた護衛らしき男たちは、折れた扇子と少年服の子を見て顔色を変えていた。

 

 少年服の子本人は、折れた扇子を見て唇を結んだ。

 

「壊れた」

 

 澪の背中が、暑さとは別の理由で冷えた。

 

 リュシアが一歩寄り、澪の耳元に小声で言う。

 

「ミオ。その子、ヴァルディス侯爵家のエレナ様よ」

 

 澪は折れた扇子より先に、自分の心が折れそうになった。

 

 姫様、と市場の子供たちは呼んでいるらしい。けれど王女ではない。この市場を管理するヴァルディス侯爵家の末娘、エレナ・ヴァルディス。市場の人たちは、親しみと困惑を込めて、彼女を姫様と呼んでいるのだという。

 

 護衛の一人が息を切らして入ってきた。

 

「エレナ様、お屋敷を抜け出されては困ります」

 

「抜け出してなどいない。市場を見に来ただけだ」

 

「それを抜け出したと言います」

 

 護衛の声は低いが、怒鳴れない相手なのが分かる。エレナはむっとしているが、扇子を壊した手元を見て、少しだけ気まずそうでもあった。

 

 澪は扇子をどう受け取ればいいのか分からず、半端に手を伸ばしたまま固まっていた。

 

 

 

 

 

 エレナは、折れた扇子を両手で持ったまま、倉庫の木箱に腰を下ろした。

 

 護衛は近くに立ち、リュシアは澪の横に控えている。トトはなぜかあまり緊張していない。市場の子供たちにとっての姫様は、近寄れない王女ではなく、時々現れては大人を困らせる上等な靴の子供らしい。

 

「暑さで荷運びの子がふらついたと聞いた」

 

 エレナは折れた扇子の骨を見ながら言った。

 

「屋敷では、水もすぐ出る。日陰もある。侍女が扇いでくれる。でも、市場ではそうではないのだろう。見なければ分からない」

 

 澪は少し驚いた。護衛を困らせて少年服で抜け出してくる時点で十分お転婆だが、理由はただの遊びではなかった。市場の暑さを、自分の目で知りたいと思っている。

 

 エレナは扇子の折れた部分を指で押さえ、顔をしかめた。

 

「これは、乱暴に扱うと壊れるのだな」

 

「はい。軽くて風は作れますが、骨が細いので、強く開くと折れます」

 

 澪は言葉を慎重に選んだ。相手は侯爵令嬢だ。普通に注意していいのか、丁寧に言い換えるべきか、頭の中で言葉が渋滞する。

 

「壊れるのに売るのか」

 

 エレナがまっすぐ聞いてきた。

 

 澪は一瞬詰まった。壊れるから売らない、というわけではない。壊れやすいことを説明し、使い方を守れる相手に売る。危ないものは売らない。壊れやすいものは説明して売る。使い方を間違えると危ないものは、相手を選ぶ。第九話で作った販売禁止品リストの考え方が、ここで頭に浮かぶ。

 

「壊れやすいことを隠して売るのは駄目です。でも、壊れやすいと説明して、丁寧に使える人に売るなら、役に立つこともあります」

 

 澪がそう答えると、エレナは少し考えた。トトが扇子を覗き込もうとして、護衛に視線で止められる。リュシアは黙って澪を見ていた。

 

「では、これは説明が足りなかったのか」

 

 エレナが言った。

 

 澪は慌てた。

 

「いえ、私が説明している途中で……」

 

「私が先に開いた」

 

 エレナはむっとしながらも、自分で言った。唇を少し結び、逃げずに澪を見る。澪は、その反応に少しだけ好感を持った。失敗したことをごまかさない子だ。

 

 そこで、エレナの視線が小さなボトルに移った。

 

「その色のついた水は何だ」

 

 護衛がすぐ警戒した。澪も緊張する。黒砂糖のせいで、補水飲料はほんのり色づいている。薬液に見えないか不安だったものだ。

 

「これは薬ではありません。暑い日に、汗をかいた人が少しずつ飲むための水です。甘みと塩気と酸味があります。病気を治すものではありませんし、意識がない人に飲ませるものでもありません。作り置きもできません」

 

 言いながら、説明が長いと自分でも思った。けれど、ここは短くしすぎる方が危ない。エレナは真剣に聞いていたが、護衛はまだ疑っている。

 

 リュシアが先に小さな器へ注ぎ、自分が一口味を見せた。

 

「さっき私も見たわ。暑い日の飲み物として、少量だけ試しているところです」

 

 エレナは護衛を見た。護衛は明らかに止めたい顔をしたが、エレナは器を受け取った。

 

「市場を見るなら、味も知る」

 

「少しだけです。一気に飲まないでください」

 

 澪は思わず言った。侯爵令嬢相手に「一気飲みしないでください」と言う日が来るとは思わなかった。

 

 エレナは少しだけ口に含み、目を丸くした。

 

「水より飲みやすい。甘いが、甘いだけではない」

 

「汗をかいた時向けです。飲みやすいからといって、たくさん飲むものではありません」

 

「これを侯爵家で――」

 

「まだ試験中です」

 

 澪とリュシアの声が重なった。

 

 エレナは不満そうに眉を寄せた。澪はリュックの肩紐を握っていないのに、なぜか手のひらに汗が出てくる。侯爵家で支援、という言葉は大きすぎる。昨日まで空ペットボトルを洗っていた話が、いきなり市場政策になりかけている。

 

 リュシアが一歩前に出た。

 

「エレナ様。まずは市場組合の範囲で小さく試させてください。水場、日陰、休憩場所の改善は、侯爵家へ話を上げる価値があります。でも、この飲み物や水入れは、使い方と管理を確かめる必要があります」

 

「なぜだ。役に立つなら広めればよい」

 

「水売り、薬師、神殿、倉庫、水場。関係する者が多いからです。良い品でも、広め方を間違えると揉めます」

 

 エレナは黙った。市場が好きだからこそ、その言葉は届いたらしい。屋敷から見る市場ではなく、人と商売が詰まった場所として見ているのだろう。

 

「では、小さく試す。その代わり、日陰と水場の話は私が聞いたと言ってよいな」

 

 リュシアは少し考え、うなずいた。

 

「市場の暑さをご覧になったこととしてなら」

 

 澪はその横で、ただうなずくしかなかった。小さく試す。今日の大事な言葉である。

 

 

 

 

 

 壊れた扇子の扱いは、思ったより大きな問題にならなかった。

 

 エレナは折れた扇子を見つめ、少しだけ顎を上げた。

 

「弁償する」

 

 澪は慌てた。侯爵令嬢から百円ショップの扇子代をもらう絵面が、すでにおかしい。だが断り方も分からない。

 

「いえ、これは試験品なので……」

 

 リュシアがすぐ間に入った。

 

「エレナ様。これは試験品です。壊れ方を見るのも試験のうちです。強く開くと骨が折れる。それが分かったなら、商品としては大事な情報です」

 

 エレナの目が少し戻った。

 

「では、私は試験に役立ったのだな」

 

 澪は言葉に困った。間違ってはいない。かなり分かりやすく役立った。だが、そのまま言うのは危険な気がする。

 

「はい。かなり、分かりやすく」

 

 言ってから、これでよかったのか分からなくなる。リュシアが笑いをこらえて口元を押さえた。トトは横から無邪気に口を開いた。

 

「姫様、壊す係?」

 

 護衛が目をむいた。

 

「トト」

 

 リュシアが低く呼ぶと、トトは口を閉じた。エレナは一瞬むっとしたが、本気では怒らなかった。自分が乱暴に扱ったことは分かっているらしい。

 

 澪は折れた扇子を回収し、指先で骨の折れた部分を押さえた。細くて軽い。安い。風は出る。でも、子供の好奇心には弱い。鑑定を向けると、見慣れた注意が浮かんだ。

 

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百円ショップの扇子

 用途:手で風を送る道具

 利点:軽い、畳める、持ち運びやすい

 注意:強く開くと骨が折れる、水濡れ注意

 販売区分:扱い説明必須

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 澪は注意書きの文字を、頭の中で少し大きくした。強く開かない。子供には先に説明。試用品は壊れる前提で数を用意。扇子は便利だが、説明なしでは危ない。今日、それを侯爵令嬢が全力で証明してくれた。

 

 エレナは折れた扇子をちらっと見てから、澪を見上げた。

 

「次は壊さない」

 

「次は、ゆっくり開いてください」

 

「分かった」

 

 素直な返事だった。護衛が少しだけ安堵した顔をした。澪も安堵したかったが、侯爵家、市場組合、水売り、薬師、神殿、日陰、水場という単語が頭の中で回っていて、安堵の場所がなかった。

 

 

 

 

 

 夜、江古田の六畳間で、澪はちゃぶ台に紙を広げた。

 

 今日のメモは、いつもより大きな単語が多かった。侯爵家。代官。市場組合。水売り。荷運び。倉庫。リュシア。エレナ。澪はそれぞれを線でつなぎ、どこに話を通すべきか、どこまでならリュシアの倉庫内で試せるのかを考えた。

 

 最初に「姫様」と書いてから、澪はペンを止めた。

 

 王女ではない。

 

 市場の人たちは姫様と呼んでいるが、正式には侯爵令嬢だ。澪は「姫様」に二重線を引き、その横に「エレナ・ヴァルディス侯爵令嬢」と書き直した。名前が長くなっただけで、紙の上の圧が増した気がする。

 

 次に、扇子の注意欄を開く。

 

 強く開かない。

 

 水に濡らさない。

 

 振り回さない。

 

 子供には先に説明。

 

 澪はうっかり「姫様には先に説明」と書きかけて、手を止めた。誰が見るか分からないメモに、それはだめだ。慌てて線を引き、「子供には先に説明」と書き直す。範囲は広くなったが、安全な表現になった。

 

 ちゃぶ台の上には、折れた扇子が置いてある。

 

 侯爵家、市場組合、水売り、薬師、神殿。今日増えた言葉はどれも大きかった。けれど、目の前で一番はっきり壊れているのは、百円ショップで買った扇子の細い骨だった。

 

 澪は折れた部分を指先でそっと持ち上げた。修理できるのか、試験品として廃棄するのか、同じものをもう一本仕入れるのか。在庫表には、扇子二本のうち一本破損と書かなければならない。

 

 領主家との関係より先に、明日の試験用扇子が一つ減った。

 

 澪はペンを握り直し、在庫表の扇子の行に、小さく「一本破損」と書き込んだ。

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