押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第130話 春まで残す蔵

 

 リュシアの食品会社へ入った瞬間、澪は、以前この場所にはなかった匂いに包まれた。

 

 甘いようで、少し重い。豆を煮た匂いと、麹の柔らかい匂いと、木の樽へ染み込んだ水気の匂いが混ざっている。作業場の奥では、職人たちが声を掛け合いながら、樽の蓋を確かめたり、乾燥棚へ薄く切った食材を並べたりしていた。壁際には木箱が積まれ、通路を塞がないように縄でまとめられた袋が寄せられている。

 

 ここに、少し前までなかった仕事が生まれている。

 

 澪は、そのことが単純に嬉しかった。現代側から運び込んだ芋や大豆、塩や麹資材が、ただの荷物で終わらず、この世界の人たちの手で別の形へ変わり始めている。味噌や醤油が、この土地の食べ物になろうとしている。

 

 けれど、リュシアは喜びだけで樽を見てはいなかった。

 

 彼女は樽の蓋へ手を置き、蓋の縁を指でなぞってから、壁際へ積まれた木箱を見た。作業場は広く使えるように片づけられている。それでも、樽と甕と袋が増えれば、通路は自然と狭くなる。乾いた物を置く棚の近くに、湿気を持つ樽を増やすわけにもいかない。

 

「作れる量は増えたよ」

 

 リュシアは、嬉しそうに言った後で、すぐに眉を寄せた。

 

「でも、置く場所まで増えたわけじゃない」

 

 澪は、樽と乾燥棚を見比べた。

 

「ここでは、足りませんか」

 

「今の量なら何とかなる。でも、もっと作るなら難しいと思う。冬の間ずっと残すなら、作る場所と、保存する場所を分けた方がいい。乾かした物と、湿気があった方がいい物を、同じ場所へ置けないから」

 

 リュシアの手は、樽の蓋から離れない。食品を作る人の手だった。作ることだけではなく、作った物が駄目になる場所も、すでに見ている手だった。

 

 澪は、胸の奥で、小さく息を吸った。

 

 作れるようになれば、それで終わりではない。

 

 食品は、作った後にも時間が続く。今日出来たものが、冬を越え、春まで残るかどうか。そこまで見なければ、食料にはならないのだと、木箱の積まれた壁際を見て思った。

 

 真壁は、樽や袋を黙って見ていた。作業場の床、壁際の影、乾燥棚の位置、木箱の積み方。視線が静かに移っていく。

 

 真壁さんは、今、何を見ているのだろう。

 

 澪がそう思った時、食品会社の扉が開いた。

 

 先に入ってきたのは、エレナだった。その後ろから、いつものようにオスカーが続く。エレナは作業場へ入るなり、発酵の匂いにも、樽の列にも、ほとんど怯まなかった。むしろ、少し目を輝かせている。

 

「澪。真壁。兄上が、来て欲しいそうだ」

 

 侯爵家から呼ばれる。

 

 澪は、一瞬だけ身構えた。薬師ギルド長の件は終わったはずだ。それでも、侯爵家から急に呼び出されると、また何か大きな問題が動き出したのではないかと思ってしまう。

 

 真壁は、特に驚いた様子もなく、静かに頷いた。

 

「承知しました」

 

 エレナの視線は、もう作業場の奥へ向いている。樽の蓋、甕、乾燥棚、積まれた木箱。好奇心が、足に出るより先に目へ出ていた。

 

「これは何だ」

 

 エレナが一番近い樽へ近づこうとしたところで、リュシアが言った。

 

「味噌。まだ出来上がってないから、開けないで」

 

「見るだけだ」

 

「姫様。足元をご確認ください」

 

 オスカーが淡々と声を掛ける。

 

「見えている」

 

「樽の方を見ておられました」

 

「見るだけだ」

 

「開ける手でした」

 

 エレナの手が、蓋へ伸びる前で止まる。

 

「まだ触っていない」

 

「触れる前に済ませます」

 

「手まで見るな」

 

「護衛です」

 

 リュシアが、エレナとオスカーを交互に見た。澪は、少しだけ笑いそうになり、口元へ力を入れた。発酵の匂いが広がる作業場で、エレナだけが、まるで新しい遊び場を見つけた子供のように見える。

 

 エレナは不満そうに眉を寄せたが、樽の蓋には触らなかった。

 

「兄上が待っている。行くぞ」

 

 そう言いながら、もう一度だけ樽へ視線を向ける。

 

「姫様。扉は、そちらです」

 

「分かっている」

 

「樽を見る足でした」

 

「足を見るな」

 

「護衛です」

 

 真壁は何も言わなかった。澪も何も言わなかった。リュシアだけが、最後まで不思議そうな顔をしていた。

 

 

 

 

 

 侯爵家の部屋へ通されると、アルベルトはすでに机の前で待っていた。

 

 机の上には、古い帳面が置かれている。澪は、それを見た瞬間、少しだけ薬師ギルドの帳面を思い出した。紙の厚みも、使い込まれた角の丸まり方も似ている。ただし、今回の帳面からは薬草の匂いはしない。そこに記されているのは、侯爵家が管理する食料庫の出入りだった。

 

 アルベルトは、澪と真壁が席へ着くのを待ってから、帳面へ手を置いた。

 

「孤児院の隣へ、離れを建てたと聞いた」

 

「ええ。病人を分ける場所が必要でしたので」

 

 真壁が、いつもの声で答える。

 

「地下もあるそうだな」

 

 澪は、少しだけ視線を逸らした。

 

 離れ。

 

 確かに、呼び方としては離れである。

 

 けれど、地上三階、地下三階の鉄筋コンクリート造を、ただの離れと言っていいのかは、いまだに澪にも分からない。アルベルトも、おそらく同じことを思っている。目の奥に、少しだけ呆れに似たものがあった。

 

「同じ物を建てろとは言わない」

 

 アルベルトは、少し間を置いた。

 

「だが、冬を越す食料を守る蔵を作れないか」

 

 澪は、思わず帳面を見た。

 

「食料が、足りないんですか」

 

「秋には、足りている」

 

 アルベルトは帳面を開き、澪にも見えるように向きを変えた。

 

「だが、春まで残らない」

 

 頁には、秋に運び込まれた量が書かれている。冬の間に出した量も、春に残った量も、倉番から上がった報告もある。澪には一目で全てを読むことは出来ない。それでも、アルベルトの指が止まったいくつかの頁では、数字が気持ち悪いほど合っていなかった。

 

 食べたから減った。

 

 それだけなら、帳面は合うはずだ。

 

 けれど、実際には、齧られた袋の報告がある。湿気で使えなくなった穀物の印がある。根菜の箱ごと駄目にしたという記載があり、さらに、出した覚えがない荷についての走り書きまで残っている。

 

 澪は、紙の上の数字を見ながら、食品会社で見た樽と木箱を思い出した。

 

 作るだけでは足りない。

 

 運び込むだけでも足りない。

 

「まず、現場を見せていただきたい」

 

 真壁は、帳面を閉じる前に、いくつかの頁へ視線を残した。

 

「蔵を見れば分かるか」

 

「鼠に食われた物と、湿気で傷んだ物と、人の手で持ち出された物では、塞ぐべき穴が違います。同じ蔵から失われていても、同じ問題ではありません」

 

 アルベルトは静かに頷いた。

 

「案内する」

 

 

 

 

 

 侯爵家が管理する古い蔵は、外から見るだけなら十分に頑丈そうだった。

 

 厚い木製扉には古い金具が付いている。石造りの壁は長い時間を耐えてきたように黒ずみ、軒の下には雨の跡が薄く残っていた。エレナもオスカーも同行している。アルベルトの後ろには、必要な護衛が数名だけ控えていた。

 

 扉が開いた時、澪は最初に匂いを感じた。

 

 乾いた穀物の匂いだけではない。湿った麻袋の匂いと、古い木材の匂いが混じり、その奥に、ほんの少し黴の気配がある。外から見た頑丈さとは違い、中の空気は重かった。澪は、思わず一歩目をゆっくり踏み出した。

 

 袋は、床へ直接積まれていた。壁へ押し付けられたものもある。奥へ入るほど暗く、空気が動かない。通路はあるが、袋の間を確かめながら歩くには狭い場所もあった。

 

 真壁は、すぐには何も言わなかった。

 

 しゃがみ込み、麻袋の底へ指を差し入れる。布へ触れた指を少しだけ動かし、立ち上がらずに壁へ手を当てる。床へ落ちた穀物を拾い上げ、指先で潰すように確かめてから、棚の隙間へ視線を向けた。

 

 澪は、その横顔を見た。

 

 真壁は、鼠だけを見ているのではない。

 

 鼠が入り込める穴。餌になる穀物。湿気が抜けない積み方。人が奥まで確認しにくい通路。問題は、ひとつの場所へ重なっている。

 

 澪が根菜の入った木箱へ手を掛け、少しだけ動かした時だった。

 

 壁際から、小さな影が走った。

 

「鼠だ」

 

 エレナが、一歩前へ出る。

 

 その足が完全に床へ下りる前に、オスカーが半歩だけ前へ出た。

 

「姫様。近づきすぎです」

 

「見ているだけだ」

 

「追う姿勢でした」

 

「まだ追っていない」

 

「追う顔でした」

 

「顔で止めるな」

 

「足で止める前に済ませます」

 

 蔵の中の重い空気が、ほんの少し緩んだ。

 

 けれど、真壁は鼠を追わなかった。小さな影が消えた壁際の穴を見て、齧られた袋を見て、床に散った穀物を見た。

 

「随分と、よく肥えておりますな」

 

「笑い事ではない」

 

 アルベルトの声は硬い。

 

「ええ。笑ってはおりません」

 

 真壁は、穏やかなまま答えた。

 

 澪は、木箱の蓋を開けた。

 

 上から見ただけでは、そこまで悪く見えない。けれど、手を差し入れて底の方を探ると、指先に柔らかい感触があった。ひとつ取り出す。表面が少し沈む。まだ完全に腐っているわけではない。けれど、長くは置けない。

 

 澪は、手にした根菜を見つめた。

 

 捨てるには、まだ惜しい。

 

 そのまま戻せば、周りまで悪くする。

 

 先に使うなら、間に合う。

 

 澪は、小さく息を吐き、箱の横へ籠を置いた。

 

 長く置ける物は元の箱へ戻す。表面が柔らかくなり始めた物は別の籠へ。傷が付いていて、今なら加工へ回せそうなものも分ける。明らかに周囲へ広がるものは、離す。

 

 《鑑定》と《分類》の感覚は、声に出すほど大げさなものではなかった。手に取った時、見るべき場所が分かる。匂いと手触りと色の違いが、別々のものとして立ち上がる。澪は、その感覚に従い、籠を変えていった。

 

「捨てるのか」

 

 エレナが、澪の手元を見ていた。

 

 澪は、少し柔らかくなった根菜を持ち上げた。

 

「これは、まだ食べられます。でも、長くは置けません。先に使う物へ分けます」

 

「悪い物だけを捨てるのではないのか」

 

「はい。今なら食べられる物まで捨てると、冬の途中で困りますから」

 

 澪は、別の根菜を確かめ、籠を変えた。

 

「長く残す物と、先に食べる物を分けます」

 

 エレナは少し考えるように、澪の手元を見た。

 

「食料も、分類するのだな」

 

「はい。分ければ、残せる量が増えます」

 

 エレナが、根菜へ手を伸ばしかける。

 

「姫様。触れる前に、お確かめください」

 

「見るだけだ」

 

「持つ手でした」

 

「手まで見るのか」

 

「護衛です」

 

 澪は、今度は少しだけ笑った。

 

 それから、籠の中身を見た。長期保存には向かない。けれど、まだ使えるものがある。今日か明日に食べるだけではなく、加工へ回せば、もう少し残せるかもしれない。

 

 リュシアの食品会社で見た樽と乾燥棚が、頭の中へ浮かぶ。

 

「この分は、捨てる前に、リュシアさんへ相談してもいいですか」

 

 澪が籠を見ながら言うと、アルベルトがこちらを向いた。

 

「加工出来るのか」

 

「全部ではありません。でも、今なら使える物もあります」

 

 真壁が、籠の中を見下ろす。

 

「長く残せない物を、長く残せる形へ変える。食品会社がある意味は、そこにもありますな」

 

 作る場所。

 

 保存する場所。

 

 傷む前に加工する場所。

 

 別々に動いていたものが、澪の中で少しずつつながった。

 

 

 

 

 

 蔵の外へ出ると、澪は、ようやく胸の奥へ残っていた湿った匂いから離れられた気がした。

 

 外の空気は冷たいが、軽い。古い蔵の中にいた間、知らないうちに息を浅くしていたのだと分かる。

 

 真壁は、齧られた袋を見せてもらい、湿った袋の底を確かめ、アルベルトの帳面へ指を置いた。動作は静かだが、ひとつずつ違う場所を見ている。

 

「蔵を建てるだけでは、足りませんな」

 

「何が必要だ」

 

 アルベルトが尋ねる。

 

「鼠には、鼠の穴があります」

 

 真壁は齧られた袋へ視線を向けた。

 

「湿気には、空気の通り道が必要です」

 

 今度は、袋の底へ触れた指先を軽く払う。

 

「盗難には、誰かを疑う前に、記録を残す仕組みが必要でしょう」

 

 アルベルトの眉がわずかに動く。

 

「倉番を疑うのか」

 

「疑わなくて済む形へ直すのです。帳面と現物が合えば、働いている者も疑われません」

 

 澪は、薬師ギルド長の件を思い出した。

 

 帳面があるだけでは足りない。現物と合っていること。誰が扱ったか分かること。悪い人を探す前に、悪いことが起きにくい形にすること。

 

 真壁は、それを長々とは説明しない。

 

 アルベルトは、しばらく帳面を見ていたが、やがて顔を上げた。

 

「作れるか」

 

「ええ」

 

 返事が早い。

 

 澪は、孤児院の隣へ建った離れを思い出した。真壁さんへ、普通の蔵かどうかを聞いてはいけない気がする。聞いても、きっと普通の蔵ですな、と返ってくる気がした。

 

 真壁は、紙を取り出し、簡単な線を引き始めた。

 

 澪は、その指先を目で追った。一本の線が、建物を上下に分ける。地上と地下。棚の間には、人が通れる幅が残される。袋は床から離れ、壁へ押し付けられない。奥まで確認出来るように、通路が伸びる。

 

 古い蔵の、空気が止まっていた場所を思い出す。

 

 真壁の線の中では、そこに空気が通る。

 

「鍵を増やすだけでは駄目なのか」

 

 アルベルトが、図を覗き込んで尋ねる。

 

「鍵を持つ者だけが疑われます。誰が見ても、帳面と現物が合う形へ直しましょう」

 

 真壁は、入口の近くに小さな四角を書いた。帳面を置く場所なのだろう。区画の前には、封印札の位置が示される。澪には全ての意味が分かったわけではない。それでも、古い蔵で感じた見えにくさが、少しずつ線でほどかれていくのは分かった。

 

「鼠は、どうする」

 

 アルベルトが言った。

 

 澪は、水車町リーデンの穀物倉を思い出した。鼠害を見つけ、鼠害対策用品を試験的に扱った時のこと。置き場所を間違えてはいけないと、何度も確認した。食べ物や水の近くに置かないこと。子供や家畜が触れない場所へ置くこと。どこへ置いたか記録すること。

 

「ホウ酸団子を、侯爵領でも作れないでしょうか」

 

「ホウ酸団子?」

 

 アルベルトが聞き返す。

 

 澪は、具体的な作り方までは話さなかった。現代側で鼠害対策に使われる毒餌の一種であること、ただ置けば終わりではないことだけを説明する。真壁は、古い蔵の壁際へ視線を向け、アルベルトは、しばらく黙ってそれを聞いていた。

 

「一つの蔵へ置くだけでは、足りませんな」

 

 真壁が言う。

 

「街にも置くのか」

 

「市場、穀物倉、宿屋、食料を扱う店。鼠が集まる場所から、順に減らすべきでしょう」

 

 エレナが目を細めた。

 

「街中の鼠を相手にするのか」

 

「鼠へ税を納め続ける理由はありませんからな」

 

 エレナは一瞬だけ考え、それから小さく頷いた。

 

「それは、腹立たしい」

 

 澪は、少しだけ同意した。

 

 

 

 

 

 セルマの工房では、柳皮薬の試作瓶が作業台の端へ寄せられていた。

 

 薬の話へ戻ったわけではない。けれど、茶色い液の入った小瓶や、札を付けられた小さな容器を見ると、澪は、少し前までここで熱冷ましについて話していたことを思い出す。

 

 セルマは別の作業をしていたが、澪と真壁が入ってくると、手を止めてこちらを見た。

 

「今度は、何?」

 

「鼠です」

 

 澪が答えると、セルマは、ゆっくりと瞬きをした。

 

「薬の次は、鼠?」

 

「はい」

 

「錬金術師って、何をする仕事だっけ」

 

 かなり本気で疑問に思っている顔だった。

 

 真壁は、静かに答えた。

 

「必要な物を、必要な形へ整える仕事でしょう」

 

 セルマは少し考えた。

 

「鼠も入るのかな」

 

「腕の見せどころですな」

 

 その言葉で、セルマの表情が少しだけ変わった。

 

「それなら、やる」

 

 澪は、真壁がセルマの扱い方をすっかり理解していると思った。面倒だと感じている相手に、腕の見せどころと言う。すると、セルマは断りにくくなる。いや、たぶん本人も乗せられていることに気づいている。それでも、やるのだ。

 

「ホウ酸か、硼砂に近い物はありませんか」

 

 澪が尋ねると、セルマは棚の奥へ向かった。

 

「硼砂なら、少しあるよ」

 

「あるんですか」

 

「あるよ。陶工や金属を扱う人も使うし、錬金術師も少し使う」

 

 セルマは、小さな壺を取り出した。蓋を外すと、中には白い粉が入っている。澪は、その粉へ不用意に近づかないよう、少しだけ身を引いた。

 

「最初の試しなら、これで足りると思う。でも、街中へ広げるなら、もっといるよ」

 

「仕入れ先も、確認しておきましょう」

 

 真壁が言うと、セルマは壺を作業台へ置いた。

 

「団子にすればいいの?」

 

「鼠が食べるようにして、人間の食料とは間違えない形にしたいです」

 

 澪が言うと、真壁が続ける。

 

「置いた場所と、交換する日も分かるようにしてください」

 

 セルマは、少し顔をしかめた。

 

「毒を作るだけじゃ、駄目なんだ」

 

「毒を作るだけでは、半分ですな」

 

「面倒だね」

 

 セルマはそう言いながらも、壺を作業台の中央へ寄せた。

 

「分かった。試す」

 

 小瓶の横へ置かれた白い粉を見ながら、澪は、またひとつ仕事が増えたと思った。薬の次は鼠。セルマが言いたくなる気持ちも、少しだけ分かる。

 

 

 

 

 

 蔵の設計を詰めている時、真壁は不意に顔を上げた。

 

「澪君。以前、空気を薄くする感覚を掴んだ娘がいましたな」

 

 澪は、すぐに思い出した。

 

「ミナさんですか」

 

「ええ」

 

 ミナ。孤児院で収納実験を手伝っていた子だ。収納の中の空気を少し薄くする感覚を掴み、少量の水や濡れた布に変化を起こしていた。けれど、それは小さな器や少量の処理に向いたものだったはずだ。

 

「でも、ミナさんは、大きな部屋を乾燥させられるわけではありません」

 

「承知しております」

 

 真壁は、設計図の一角へ指を置いた。大きな倉庫全体ではなく、小さく区切られた場所だった。

 

「大きな部屋を、一度に乾燥させる必要もありません。一度に扱える量へ分けます。湿気が残りやすい物だけを、毎日、順番に乾燥させればよい」

 

 澪は、図面を見つめた。

 

 大きな倉庫へ、小さな技能を無理に合わせるのではない。

 

 小さな技能で続けられるように、建物を変えるのだ。

 

「出来る仕事にするために、蔵の方を合わせればよいのです」

 

 真壁は、当たり前のように言った。

 

 その言葉が、澪の胸に残った。

 

 

 

 

 

 孤児院でミナを呼ぶと、彼女は少し緊張した顔でやって来た。

 

 澪と真壁が並んでいるだけで、何か大事な話だと分かったのだろう。ミナは、手を前でそろえ、視線を上げたり下げたりしている。

 

「ミナさん。以前、収納の中の空気を薄くしたことを覚えていますか」

 

 澪が尋ねると、ミナは小さく頷いた。

 

「はい」

 

 それから、自分の手を見た。

 

「でも、私、大きな部屋は無理です」

 

「ええ」

 

 真壁は、否定しなかった。

 

「ですから、大きな部屋を乾かしていただくつもりはありません」

 

 ミナが顔を上げる。

 

「蔵を、小さな区画へ分けます。一日一回、決められた順番で、湿気が残りやすい物を乾かしていただきたい」

 

「毎日、一回ですか」

 

「ええ。大きな力を、一度使う仕事ではありません。小さな仕事を、毎日続ける仕事です」

 

 ミナは、少し考えた。

 

「私に、出来ますか」

 

「出来る仕事にするために、蔵の方を作ります」

 

 澪は、その言葉を聞きながら、ミナの手元を見た。

 

 第70話の時、ミナは自分が起こした霧へ、不安そうな顔をしていた。何かが出来た。でも、それが何の役に立つのか、自分では分かっていなかったのだと思う。

 

 今、その小さな技能に、仕事が付こうとしている。

 

「侯爵家で、正式に雇っていただくことになります」

 

 真壁が続けると、ミナは固まった。

 

「私が、侯爵家で働くんですか」

 

「ええ」

 

「私、空気を薄くするだけですよ」

 

「冬の食料を守る仕事です。十分に価値があります」

 

 ミナは、まだ自分の手を見ている。指先が少しだけ握られ、また開いた。

 

 澪は、できるだけ穏やかに言った。

 

「一度に全部ではなくて、大丈夫です。毎日、一回ずつでいいんです」

 

 ミナは、長く考えなかった。

 

 小さく息を吸い、顔を上げる。

 

「毎日、乾かします」

 

 真壁は頷いた。

 

「ええ。続けることが大切です」

 

 

 

 

 

 侯爵家でミナの雇用について話すと、アルベルトは少し驚いた顔をした。

 

「魔道具ではないのか」

 

「人です」

 

「人?」

 

 真壁は、蔵の設計図を机へ広げた。

 

「孤児院に、収納内の空気を薄く出来る娘がおります。一度に大きな処理は出来ません。ですが、一日一回、決められた区画を順に乾燥させる仕事ならば出来る」

 

 アルベルトは、図面を見ながら黙って聞いている。

 

「倉番と一緒に回らせてください。無理な長時間使用はさせない。異常があれば、帳面へ残し、報告する」

 

「孤児院の娘を、侯爵家で雇うのか」

 

「仕事があります。働ける者がいます。働いた分を支払う。それだけのことです」

 

 アルベルトは、しばらく設計図を見ていた。

 

 澪は、その沈黙の間、ミナの手を思い出していた。自分の能力に価値があるのか不安そうに見つめていた手。もし侯爵家で正式に雇われれば、ただの手伝いではなくなる。

 

 やがて、アルベルトは静かに頷いた。

 

「分かった。食料庫管理補助として雇う」

 

 澪は、少しだけ肩の力が抜けた。

 

 孤児院の手伝いだったミナに、侯爵家の仕事が出来た。

 

 

 

 

 

 数日後、侯爵家の食料庫に隣接する場所へ新しい蔵が建っていた。

 

 澪は、その建物を見上げた。

 

 外観は、西欧風の石造りで、古い蔵と並んでも奇妙には見えない。重い木製扉も、金具も、こちらの世界の建物として通る。けれど、中へ入った瞬間、澪は古い蔵との違いを感じた。

 

 空気が重くない。

 

 穀物袋は、床から離れた台と棚へ載せられていた。壁との間にも隙間があり、棚の間には人が通れる幅が残っている。袋の底まで確かめられる。奥へ進んでも、空気が止まっている感じがない。

 

 古い蔵で、鼻の奥に残った湿った匂いを思い出す。

 

 ここでは、同じ袋が積まれていても、何かが違う。

 

 地下へ降りると、空気は少し冷たかった。根菜を置く区画は、状態によって分けられるようになっている。長く残す物、先に使う物、加工へ回す物。それを札だけでなく、置く場所そのものが示している。

 

 地上階の一角には、小さな乾燥区画があった。

 

 ミナが一日一回、順番に処理出来る広さだ。大きくはない。けれど、だからこそ、無理をしなくて済む。

 

 壁際には、セルマが試作したホウ酸団子が、食料から離して置かれている。子供や家畜が触れないように工夫され、帳面には設置場所と交換の日付を書き込めるようになっていた。出入口のそばには持ち出し用の帳面があり、区画ごとの封印札も並ぶ。

 

 一人だけが全てを抱え込む場所ではない。

 

 澪は、地下へ続く階段を見てから、真壁を見た。

 

「真壁さん」

 

「何かな」

 

「これは、蔵ですか」

 

「蔵ですな」

 

 予想通りの答えだった。

 

「普通の蔵ですか」

 

 真壁は、少しだけ考えた。

 

「普通、の定義によりますな」

 

 澪は、やはり聞くべきではなかったと思った。

 

 

 

 

 

 夕方、新しい蔵でミナの最初の仕事が始まった。

 

 ミナは、侯爵家の倉番と一緒に地上階を回っている。まだ、侯爵家で働く服装にも、帳面を持つことにも慣れていない。歩くたびに、少し肩へ力が入っているのが分かった。

 

 見守っているのは、必要な者だけだった。

 

 アルベルト、真壁、澪、エレナ、オスカー。それから、実際に蔵を管理する倉番。

 

 ミナは、乾燥用の小区画へ入れる物を確かめた。真壁が作った区画に合わせ、一度に多く運ばない。倉番が横で帳面を開いて待っている。

 

 ミナは目を閉じた。

 

 澪は、無意識に息を止めかけ、すぐに浅く吐いた。

 

 無理をしていないだろうか。

 

 ミナの指先が、少しだけ動く。額へほんのわずかに汗が浮かぶ。けれど、顔色は悪くない。第70話で見た時と同じように、空気をなくすのではなく、すかすかにする感覚を探っているのだろう。澪には、その中身までは分からない。ただ、ミナが急かされていないことだけは分かった。

 

 真壁は何も言わない。

 

 倉番も、帳面を開いたまま待っている。

 

 やがて、ミナが目を開けた。

 

「終わりました」

 

 倉番が帳面へ記録する。ミナも隣で、小さな印を付けた。

 

 その音を、澪は聞いた。

 

 紙へ筆が触れる、ほんの小さな音だった。

 

 一日一回。

 

 蔵を乾かす。

 

 それが、ミナの仕事になる。

 

 エレナが、乾燥用の小区画へ近づこうとする。

 

「姫様。順番です」

 

「見るだけだ」

 

「入る足でした」

 

「足を見るな」

 

「護衛です」

 

 澪は、少しだけ笑った。

 

 アルベルトは、帳面を見ていた。

 

「これで、春まで残るか」

 

「今年は、数字で確かめられます」

 

 真壁は、帳面の欄へ指を置きながら答えた。秋に蔵へ入った量。冬に出した量。春まで残った量。鼠に食われた物、傷んだ物、帳面と合わない物。それぞれを同じ数字の中へ押し込まず、分けて残すための欄だった。

 

「何が、どれだけ失われたのかを分けて残せば、来年は、さらに減らせるでしょう」

 

 アルベルトは静かに頷いた。

 

 ミナは、最初の乾燥作業を終え、少し疲れた顔をしていた。けれど、無理をした様子ではない。

 

「大丈夫ですか」

 

 澪が声を掛けると、ミナは新しい蔵を見回してから頷いた。

 

「はい。明日も、一回来ます」

 

「ええ」

 

 真壁が答える。

 

「毎日、一回で結構です」

 

 ミナは、もう一度、帳面へ付けた印を見た。

 

 以前は、少し霧を作っただけだった。大きな部屋を冷やすことも出来なかった。けれど、小さな技能でも、使う場所を選び、続けられる仕事へ変えれば、侯爵領の食料を守れる。

 

 孤児院の手伝いだったミナは、その日から、侯爵家の食料庫管理補助になった。

 

 澪は、棚へ並ぶ穀物袋と、地下へ続く階段を見た。

 

 冬支度は、食料を集めれば終わりではない。

 

 春まで残して、初めて意味がある。

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三十五歳、売れないフリーライターの久世恒一は、親に頼まれて東京にある祖父・久世宗玄の家を整理することになる。▼変人扱いされていた祖父の家で彼が見つけたのは、封印された異星文明の管理AI《イヴ》と、現代ではチート級の価値を持つ超技術だった。▼最初の遺産《セル・チューナー》は、地球のバッテリーを桁違いの高性能品へ変質させる基幹技術。▼スマホは一ヶ月充電不要。死に…


総合評価:2425/評価:7.88/連載:49話/更新日時:2026年05月26日(火) 21:44 小説情報

異界転生譚 シールド・アンド・マジック(作者:長串望)(オリジナルファンタジー/冒険・バトル)

「異界転生譚 ゴースト・アンド・リリィ」公式スピンオフ!▼ 異界転生譚シリーズ第二段、堂々開始!▼  古槍 紙月(ふるやり しづき)二十二歳。男性。大学生。趣味は資格取得とMMORPG。そんなどこにでもいそうな経歴の持ち主である紙月は、ある日突然、見知らぬ世界で目覚めるや化け物に襲われることに。▼ MMO内の相棒であったMETOの助けもあり、ゲームの魔法を使…


総合評価:1412/評価:8.42/連載:240話/更新日時:2026年04月01日(水) 18:00 小説情報

自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~ (作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル現代/冒険・バトル)

システムエンジニア、工藤創一(30代・独身)。 彼の仕事は、誰が作ったかも分からない継ぎ接ぎだらけのシステムを延命させる「運用保守」。創造性のかけらもない、謝罪と徹夜の日々だった。▼ある夜、帰宅した彼のもとに謎の荷物が届く。 送り主は『賢者・猫とKAMI』。中に入っていたのは、異惑星『テラ・ノヴァ』へと繋がるゲート・キューブだった。▼「鉄鉱石の埋蔵量、480…


総合評価:18310/評価:8.81/連載:247話/更新日時:2026年06月13日(土) 16:53 小説情報

現代に帰還したら、災厄級の従魔たちまで付いてきた~俺を溺愛するヤンデレ従魔たちの無双が晒された結果、魔王だと勘違いされて大バズりしています~(作者:むらくも航@書籍&コミカライズ発売中)(オリジナル現代/冒険・バトル)

少年『久遠カナタ』は転移した異世界から現代日本に帰還した。だが、現代では一日しか時間が経っておらず、色々と不思議な事が起こっていた。▼ダンジョンが出現していたこと。▼ダンジョン配信が流行していたこと。▼そして何より、異世界から従魔達が付いてきたこと。▼現代の魔物に比べ、最強の従魔達は明らかに過剰な戦力だ。従魔が暴走する度、主のカナタは勝手に崇められ、大きな注…


総合評価:245/評価:6/連載:57話/更新日時:2026年04月08日(水) 07:06 小説情報

元ITエンジニアの俺、祖先の召喚術から召喚プログラムを組み上げて神も悪魔も従える(作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル現代/冒険・バトル)

祖父の死に際、元ITエンジニアの御門悠真は、自分が「召喚師の家系」の末裔だと知らされる。▼御門家は、かつて神も悪魔も妖も精霊も呼び出した、万能召喚術の本家本元だった。▼だが、万能であるがゆえに術式はあまりにも複雑化し、始祖以降は衰退の一途を辿る。▼火だけを呼ぶ家、水神だけを祀る家、鬼だけを使う家――分家たちは属性や対象を絞ることで生き残った。▼一方、万能に固…


総合評価:1485/評価:8.51/連載:15話/更新日時:2026年05月28日(木) 21:53 小説情報


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