リュシアの食品会社へ入った瞬間、澪は、以前この場所にはなかった匂いに包まれた。
甘いようで、少し重い。豆を煮た匂いと、麹の柔らかい匂いと、木の樽へ染み込んだ水気の匂いが混ざっている。作業場の奥では、職人たちが声を掛け合いながら、樽の蓋を確かめたり、乾燥棚へ薄く切った食材を並べたりしていた。壁際には木箱が積まれ、通路を塞がないように縄でまとめられた袋が寄せられている。
ここに、少し前までなかった仕事が生まれている。
澪は、そのことが単純に嬉しかった。現代側から運び込んだ芋や大豆、塩や麹資材が、ただの荷物で終わらず、この世界の人たちの手で別の形へ変わり始めている。味噌や醤油が、この土地の食べ物になろうとしている。
けれど、リュシアは喜びだけで樽を見てはいなかった。
彼女は樽の蓋へ手を置き、蓋の縁を指でなぞってから、壁際へ積まれた木箱を見た。作業場は広く使えるように片づけられている。それでも、樽と甕と袋が増えれば、通路は自然と狭くなる。乾いた物を置く棚の近くに、湿気を持つ樽を増やすわけにもいかない。
「作れる量は増えたよ」
リュシアは、嬉しそうに言った後で、すぐに眉を寄せた。
「でも、置く場所まで増えたわけじゃない」
澪は、樽と乾燥棚を見比べた。
「ここでは、足りませんか」
「今の量なら何とかなる。でも、もっと作るなら難しいと思う。冬の間ずっと残すなら、作る場所と、保存する場所を分けた方がいい。乾かした物と、湿気があった方がいい物を、同じ場所へ置けないから」
リュシアの手は、樽の蓋から離れない。食品を作る人の手だった。作ることだけではなく、作った物が駄目になる場所も、すでに見ている手だった。
澪は、胸の奥で、小さく息を吸った。
作れるようになれば、それで終わりではない。
食品は、作った後にも時間が続く。今日出来たものが、冬を越え、春まで残るかどうか。そこまで見なければ、食料にはならないのだと、木箱の積まれた壁際を見て思った。
真壁は、樽や袋を黙って見ていた。作業場の床、壁際の影、乾燥棚の位置、木箱の積み方。視線が静かに移っていく。
真壁さんは、今、何を見ているのだろう。
澪がそう思った時、食品会社の扉が開いた。
先に入ってきたのは、エレナだった。その後ろから、いつものようにオスカーが続く。エレナは作業場へ入るなり、発酵の匂いにも、樽の列にも、ほとんど怯まなかった。むしろ、少し目を輝かせている。
「澪。真壁。兄上が、来て欲しいそうだ」
侯爵家から呼ばれる。
澪は、一瞬だけ身構えた。薬師ギルド長の件は終わったはずだ。それでも、侯爵家から急に呼び出されると、また何か大きな問題が動き出したのではないかと思ってしまう。
真壁は、特に驚いた様子もなく、静かに頷いた。
「承知しました」
エレナの視線は、もう作業場の奥へ向いている。樽の蓋、甕、乾燥棚、積まれた木箱。好奇心が、足に出るより先に目へ出ていた。
「これは何だ」
エレナが一番近い樽へ近づこうとしたところで、リュシアが言った。
「味噌。まだ出来上がってないから、開けないで」
「見るだけだ」
「姫様。足元をご確認ください」
オスカーが淡々と声を掛ける。
「見えている」
「樽の方を見ておられました」
「見るだけだ」
「開ける手でした」
エレナの手が、蓋へ伸びる前で止まる。
「まだ触っていない」
「触れる前に済ませます」
「手まで見るな」
「護衛です」
リュシアが、エレナとオスカーを交互に見た。澪は、少しだけ笑いそうになり、口元へ力を入れた。発酵の匂いが広がる作業場で、エレナだけが、まるで新しい遊び場を見つけた子供のように見える。
エレナは不満そうに眉を寄せたが、樽の蓋には触らなかった。
「兄上が待っている。行くぞ」
そう言いながら、もう一度だけ樽へ視線を向ける。
「姫様。扉は、そちらです」
「分かっている」
「樽を見る足でした」
「足を見るな」
「護衛です」
真壁は何も言わなかった。澪も何も言わなかった。リュシアだけが、最後まで不思議そうな顔をしていた。
侯爵家の部屋へ通されると、アルベルトはすでに机の前で待っていた。
机の上には、古い帳面が置かれている。澪は、それを見た瞬間、少しだけ薬師ギルドの帳面を思い出した。紙の厚みも、使い込まれた角の丸まり方も似ている。ただし、今回の帳面からは薬草の匂いはしない。そこに記されているのは、侯爵家が管理する食料庫の出入りだった。
アルベルトは、澪と真壁が席へ着くのを待ってから、帳面へ手を置いた。
「孤児院の隣へ、離れを建てたと聞いた」
「ええ。病人を分ける場所が必要でしたので」
真壁が、いつもの声で答える。
「地下もあるそうだな」
澪は、少しだけ視線を逸らした。
離れ。
確かに、呼び方としては離れである。
けれど、地上三階、地下三階の鉄筋コンクリート造を、ただの離れと言っていいのかは、いまだに澪にも分からない。アルベルトも、おそらく同じことを思っている。目の奥に、少しだけ呆れに似たものがあった。
「同じ物を建てろとは言わない」
アルベルトは、少し間を置いた。
「だが、冬を越す食料を守る蔵を作れないか」
澪は、思わず帳面を見た。
「食料が、足りないんですか」
「秋には、足りている」
アルベルトは帳面を開き、澪にも見えるように向きを変えた。
「だが、春まで残らない」
頁には、秋に運び込まれた量が書かれている。冬の間に出した量も、春に残った量も、倉番から上がった報告もある。澪には一目で全てを読むことは出来ない。それでも、アルベルトの指が止まったいくつかの頁では、数字が気持ち悪いほど合っていなかった。
食べたから減った。
それだけなら、帳面は合うはずだ。
けれど、実際には、齧られた袋の報告がある。湿気で使えなくなった穀物の印がある。根菜の箱ごと駄目にしたという記載があり、さらに、出した覚えがない荷についての走り書きまで残っている。
澪は、紙の上の数字を見ながら、食品会社で見た樽と木箱を思い出した。
作るだけでは足りない。
運び込むだけでも足りない。
「まず、現場を見せていただきたい」
真壁は、帳面を閉じる前に、いくつかの頁へ視線を残した。
「蔵を見れば分かるか」
「鼠に食われた物と、湿気で傷んだ物と、人の手で持ち出された物では、塞ぐべき穴が違います。同じ蔵から失われていても、同じ問題ではありません」
アルベルトは静かに頷いた。
「案内する」
侯爵家が管理する古い蔵は、外から見るだけなら十分に頑丈そうだった。
厚い木製扉には古い金具が付いている。石造りの壁は長い時間を耐えてきたように黒ずみ、軒の下には雨の跡が薄く残っていた。エレナもオスカーも同行している。アルベルトの後ろには、必要な護衛が数名だけ控えていた。
扉が開いた時、澪は最初に匂いを感じた。
乾いた穀物の匂いだけではない。湿った麻袋の匂いと、古い木材の匂いが混じり、その奥に、ほんの少し黴の気配がある。外から見た頑丈さとは違い、中の空気は重かった。澪は、思わず一歩目をゆっくり踏み出した。
袋は、床へ直接積まれていた。壁へ押し付けられたものもある。奥へ入るほど暗く、空気が動かない。通路はあるが、袋の間を確かめながら歩くには狭い場所もあった。
真壁は、すぐには何も言わなかった。
しゃがみ込み、麻袋の底へ指を差し入れる。布へ触れた指を少しだけ動かし、立ち上がらずに壁へ手を当てる。床へ落ちた穀物を拾い上げ、指先で潰すように確かめてから、棚の隙間へ視線を向けた。
澪は、その横顔を見た。
真壁は、鼠だけを見ているのではない。
鼠が入り込める穴。餌になる穀物。湿気が抜けない積み方。人が奥まで確認しにくい通路。問題は、ひとつの場所へ重なっている。
澪が根菜の入った木箱へ手を掛け、少しだけ動かした時だった。
壁際から、小さな影が走った。
「鼠だ」
エレナが、一歩前へ出る。
その足が完全に床へ下りる前に、オスカーが半歩だけ前へ出た。
「姫様。近づきすぎです」
「見ているだけだ」
「追う姿勢でした」
「まだ追っていない」
「追う顔でした」
「顔で止めるな」
「足で止める前に済ませます」
蔵の中の重い空気が、ほんの少し緩んだ。
けれど、真壁は鼠を追わなかった。小さな影が消えた壁際の穴を見て、齧られた袋を見て、床に散った穀物を見た。
「随分と、よく肥えておりますな」
「笑い事ではない」
アルベルトの声は硬い。
「ええ。笑ってはおりません」
真壁は、穏やかなまま答えた。
澪は、木箱の蓋を開けた。
上から見ただけでは、そこまで悪く見えない。けれど、手を差し入れて底の方を探ると、指先に柔らかい感触があった。ひとつ取り出す。表面が少し沈む。まだ完全に腐っているわけではない。けれど、長くは置けない。
澪は、手にした根菜を見つめた。
捨てるには、まだ惜しい。
そのまま戻せば、周りまで悪くする。
先に使うなら、間に合う。
澪は、小さく息を吐き、箱の横へ籠を置いた。
長く置ける物は元の箱へ戻す。表面が柔らかくなり始めた物は別の籠へ。傷が付いていて、今なら加工へ回せそうなものも分ける。明らかに周囲へ広がるものは、離す。
《鑑定》と《分類》の感覚は、声に出すほど大げさなものではなかった。手に取った時、見るべき場所が分かる。匂いと手触りと色の違いが、別々のものとして立ち上がる。澪は、その感覚に従い、籠を変えていった。
「捨てるのか」
エレナが、澪の手元を見ていた。
澪は、少し柔らかくなった根菜を持ち上げた。
「これは、まだ食べられます。でも、長くは置けません。先に使う物へ分けます」
「悪い物だけを捨てるのではないのか」
「はい。今なら食べられる物まで捨てると、冬の途中で困りますから」
澪は、別の根菜を確かめ、籠を変えた。
「長く残す物と、先に食べる物を分けます」
エレナは少し考えるように、澪の手元を見た。
「食料も、分類するのだな」
「はい。分ければ、残せる量が増えます」
エレナが、根菜へ手を伸ばしかける。
「姫様。触れる前に、お確かめください」
「見るだけだ」
「持つ手でした」
「手まで見るのか」
「護衛です」
澪は、今度は少しだけ笑った。
それから、籠の中身を見た。長期保存には向かない。けれど、まだ使えるものがある。今日か明日に食べるだけではなく、加工へ回せば、もう少し残せるかもしれない。
リュシアの食品会社で見た樽と乾燥棚が、頭の中へ浮かぶ。
「この分は、捨てる前に、リュシアさんへ相談してもいいですか」
澪が籠を見ながら言うと、アルベルトがこちらを向いた。
「加工出来るのか」
「全部ではありません。でも、今なら使える物もあります」
真壁が、籠の中を見下ろす。
「長く残せない物を、長く残せる形へ変える。食品会社がある意味は、そこにもありますな」
作る場所。
保存する場所。
傷む前に加工する場所。
別々に動いていたものが、澪の中で少しずつつながった。
蔵の外へ出ると、澪は、ようやく胸の奥へ残っていた湿った匂いから離れられた気がした。
外の空気は冷たいが、軽い。古い蔵の中にいた間、知らないうちに息を浅くしていたのだと分かる。
真壁は、齧られた袋を見せてもらい、湿った袋の底を確かめ、アルベルトの帳面へ指を置いた。動作は静かだが、ひとつずつ違う場所を見ている。
「蔵を建てるだけでは、足りませんな」
「何が必要だ」
アルベルトが尋ねる。
「鼠には、鼠の穴があります」
真壁は齧られた袋へ視線を向けた。
「湿気には、空気の通り道が必要です」
今度は、袋の底へ触れた指先を軽く払う。
「盗難には、誰かを疑う前に、記録を残す仕組みが必要でしょう」
アルベルトの眉がわずかに動く。
「倉番を疑うのか」
「疑わなくて済む形へ直すのです。帳面と現物が合えば、働いている者も疑われません」
澪は、薬師ギルド長の件を思い出した。
帳面があるだけでは足りない。現物と合っていること。誰が扱ったか分かること。悪い人を探す前に、悪いことが起きにくい形にすること。
真壁は、それを長々とは説明しない。
アルベルトは、しばらく帳面を見ていたが、やがて顔を上げた。
「作れるか」
「ええ」
返事が早い。
澪は、孤児院の隣へ建った離れを思い出した。真壁さんへ、普通の蔵かどうかを聞いてはいけない気がする。聞いても、きっと普通の蔵ですな、と返ってくる気がした。
真壁は、紙を取り出し、簡単な線を引き始めた。
澪は、その指先を目で追った。一本の線が、建物を上下に分ける。地上と地下。棚の間には、人が通れる幅が残される。袋は床から離れ、壁へ押し付けられない。奥まで確認出来るように、通路が伸びる。
古い蔵の、空気が止まっていた場所を思い出す。
真壁の線の中では、そこに空気が通る。
「鍵を増やすだけでは駄目なのか」
アルベルトが、図を覗き込んで尋ねる。
「鍵を持つ者だけが疑われます。誰が見ても、帳面と現物が合う形へ直しましょう」
真壁は、入口の近くに小さな四角を書いた。帳面を置く場所なのだろう。区画の前には、封印札の位置が示される。澪には全ての意味が分かったわけではない。それでも、古い蔵で感じた見えにくさが、少しずつ線でほどかれていくのは分かった。
「鼠は、どうする」
アルベルトが言った。
澪は、水車町リーデンの穀物倉を思い出した。鼠害を見つけ、鼠害対策用品を試験的に扱った時のこと。置き場所を間違えてはいけないと、何度も確認した。食べ物や水の近くに置かないこと。子供や家畜が触れない場所へ置くこと。どこへ置いたか記録すること。
「ホウ酸団子を、侯爵領でも作れないでしょうか」
「ホウ酸団子?」
アルベルトが聞き返す。
澪は、具体的な作り方までは話さなかった。現代側で鼠害対策に使われる毒餌の一種であること、ただ置けば終わりではないことだけを説明する。真壁は、古い蔵の壁際へ視線を向け、アルベルトは、しばらく黙ってそれを聞いていた。
「一つの蔵へ置くだけでは、足りませんな」
真壁が言う。
「街にも置くのか」
「市場、穀物倉、宿屋、食料を扱う店。鼠が集まる場所から、順に減らすべきでしょう」
エレナが目を細めた。
「街中の鼠を相手にするのか」
「鼠へ税を納め続ける理由はありませんからな」
エレナは一瞬だけ考え、それから小さく頷いた。
「それは、腹立たしい」
澪は、少しだけ同意した。
セルマの工房では、柳皮薬の試作瓶が作業台の端へ寄せられていた。
薬の話へ戻ったわけではない。けれど、茶色い液の入った小瓶や、札を付けられた小さな容器を見ると、澪は、少し前までここで熱冷ましについて話していたことを思い出す。
セルマは別の作業をしていたが、澪と真壁が入ってくると、手を止めてこちらを見た。
「今度は、何?」
「鼠です」
澪が答えると、セルマは、ゆっくりと瞬きをした。
「薬の次は、鼠?」
「はい」
「錬金術師って、何をする仕事だっけ」
かなり本気で疑問に思っている顔だった。
真壁は、静かに答えた。
「必要な物を、必要な形へ整える仕事でしょう」
セルマは少し考えた。
「鼠も入るのかな」
「腕の見せどころですな」
その言葉で、セルマの表情が少しだけ変わった。
「それなら、やる」
澪は、真壁がセルマの扱い方をすっかり理解していると思った。面倒だと感じている相手に、腕の見せどころと言う。すると、セルマは断りにくくなる。いや、たぶん本人も乗せられていることに気づいている。それでも、やるのだ。
「ホウ酸か、硼砂に近い物はありませんか」
澪が尋ねると、セルマは棚の奥へ向かった。
「硼砂なら、少しあるよ」
「あるんですか」
「あるよ。陶工や金属を扱う人も使うし、錬金術師も少し使う」
セルマは、小さな壺を取り出した。蓋を外すと、中には白い粉が入っている。澪は、その粉へ不用意に近づかないよう、少しだけ身を引いた。
「最初の試しなら、これで足りると思う。でも、街中へ広げるなら、もっといるよ」
「仕入れ先も、確認しておきましょう」
真壁が言うと、セルマは壺を作業台へ置いた。
「団子にすればいいの?」
「鼠が食べるようにして、人間の食料とは間違えない形にしたいです」
澪が言うと、真壁が続ける。
「置いた場所と、交換する日も分かるようにしてください」
セルマは、少し顔をしかめた。
「毒を作るだけじゃ、駄目なんだ」
「毒を作るだけでは、半分ですな」
「面倒だね」
セルマはそう言いながらも、壺を作業台の中央へ寄せた。
「分かった。試す」
小瓶の横へ置かれた白い粉を見ながら、澪は、またひとつ仕事が増えたと思った。薬の次は鼠。セルマが言いたくなる気持ちも、少しだけ分かる。
蔵の設計を詰めている時、真壁は不意に顔を上げた。
「澪君。以前、空気を薄くする感覚を掴んだ娘がいましたな」
澪は、すぐに思い出した。
「ミナさんですか」
「ええ」
ミナ。孤児院で収納実験を手伝っていた子だ。収納の中の空気を少し薄くする感覚を掴み、少量の水や濡れた布に変化を起こしていた。けれど、それは小さな器や少量の処理に向いたものだったはずだ。
「でも、ミナさんは、大きな部屋を乾燥させられるわけではありません」
「承知しております」
真壁は、設計図の一角へ指を置いた。大きな倉庫全体ではなく、小さく区切られた場所だった。
「大きな部屋を、一度に乾燥させる必要もありません。一度に扱える量へ分けます。湿気が残りやすい物だけを、毎日、順番に乾燥させればよい」
澪は、図面を見つめた。
大きな倉庫へ、小さな技能を無理に合わせるのではない。
小さな技能で続けられるように、建物を変えるのだ。
「出来る仕事にするために、蔵の方を合わせればよいのです」
真壁は、当たり前のように言った。
その言葉が、澪の胸に残った。
孤児院でミナを呼ぶと、彼女は少し緊張した顔でやって来た。
澪と真壁が並んでいるだけで、何か大事な話だと分かったのだろう。ミナは、手を前でそろえ、視線を上げたり下げたりしている。
「ミナさん。以前、収納の中の空気を薄くしたことを覚えていますか」
澪が尋ねると、ミナは小さく頷いた。
「はい」
それから、自分の手を見た。
「でも、私、大きな部屋は無理です」
「ええ」
真壁は、否定しなかった。
「ですから、大きな部屋を乾かしていただくつもりはありません」
ミナが顔を上げる。
「蔵を、小さな区画へ分けます。一日一回、決められた順番で、湿気が残りやすい物を乾かしていただきたい」
「毎日、一回ですか」
「ええ。大きな力を、一度使う仕事ではありません。小さな仕事を、毎日続ける仕事です」
ミナは、少し考えた。
「私に、出来ますか」
「出来る仕事にするために、蔵の方を作ります」
澪は、その言葉を聞きながら、ミナの手元を見た。
第70話の時、ミナは自分が起こした霧へ、不安そうな顔をしていた。何かが出来た。でも、それが何の役に立つのか、自分では分かっていなかったのだと思う。
今、その小さな技能に、仕事が付こうとしている。
「侯爵家で、正式に雇っていただくことになります」
真壁が続けると、ミナは固まった。
「私が、侯爵家で働くんですか」
「ええ」
「私、空気を薄くするだけですよ」
「冬の食料を守る仕事です。十分に価値があります」
ミナは、まだ自分の手を見ている。指先が少しだけ握られ、また開いた。
澪は、できるだけ穏やかに言った。
「一度に全部ではなくて、大丈夫です。毎日、一回ずつでいいんです」
ミナは、長く考えなかった。
小さく息を吸い、顔を上げる。
「毎日、乾かします」
真壁は頷いた。
「ええ。続けることが大切です」
侯爵家でミナの雇用について話すと、アルベルトは少し驚いた顔をした。
「魔道具ではないのか」
「人です」
「人?」
真壁は、蔵の設計図を机へ広げた。
「孤児院に、収納内の空気を薄く出来る娘がおります。一度に大きな処理は出来ません。ですが、一日一回、決められた区画を順に乾燥させる仕事ならば出来る」
アルベルトは、図面を見ながら黙って聞いている。
「倉番と一緒に回らせてください。無理な長時間使用はさせない。異常があれば、帳面へ残し、報告する」
「孤児院の娘を、侯爵家で雇うのか」
「仕事があります。働ける者がいます。働いた分を支払う。それだけのことです」
アルベルトは、しばらく設計図を見ていた。
澪は、その沈黙の間、ミナの手を思い出していた。自分の能力に価値があるのか不安そうに見つめていた手。もし侯爵家で正式に雇われれば、ただの手伝いではなくなる。
やがて、アルベルトは静かに頷いた。
「分かった。食料庫管理補助として雇う」
澪は、少しだけ肩の力が抜けた。
孤児院の手伝いだったミナに、侯爵家の仕事が出来た。
数日後、侯爵家の食料庫に隣接する場所へ新しい蔵が建っていた。
澪は、その建物を見上げた。
外観は、西欧風の石造りで、古い蔵と並んでも奇妙には見えない。重い木製扉も、金具も、こちらの世界の建物として通る。けれど、中へ入った瞬間、澪は古い蔵との違いを感じた。
空気が重くない。
穀物袋は、床から離れた台と棚へ載せられていた。壁との間にも隙間があり、棚の間には人が通れる幅が残っている。袋の底まで確かめられる。奥へ進んでも、空気が止まっている感じがない。
古い蔵で、鼻の奥に残った湿った匂いを思い出す。
ここでは、同じ袋が積まれていても、何かが違う。
地下へ降りると、空気は少し冷たかった。根菜を置く区画は、状態によって分けられるようになっている。長く残す物、先に使う物、加工へ回す物。それを札だけでなく、置く場所そのものが示している。
地上階の一角には、小さな乾燥区画があった。
ミナが一日一回、順番に処理出来る広さだ。大きくはない。けれど、だからこそ、無理をしなくて済む。
壁際には、セルマが試作したホウ酸団子が、食料から離して置かれている。子供や家畜が触れないように工夫され、帳面には設置場所と交換の日付を書き込めるようになっていた。出入口のそばには持ち出し用の帳面があり、区画ごとの封印札も並ぶ。
一人だけが全てを抱え込む場所ではない。
澪は、地下へ続く階段を見てから、真壁を見た。
「真壁さん」
「何かな」
「これは、蔵ですか」
「蔵ですな」
予想通りの答えだった。
「普通の蔵ですか」
真壁は、少しだけ考えた。
「普通、の定義によりますな」
澪は、やはり聞くべきではなかったと思った。
夕方、新しい蔵でミナの最初の仕事が始まった。
ミナは、侯爵家の倉番と一緒に地上階を回っている。まだ、侯爵家で働く服装にも、帳面を持つことにも慣れていない。歩くたびに、少し肩へ力が入っているのが分かった。
見守っているのは、必要な者だけだった。
アルベルト、真壁、澪、エレナ、オスカー。それから、実際に蔵を管理する倉番。
ミナは、乾燥用の小区画へ入れる物を確かめた。真壁が作った区画に合わせ、一度に多く運ばない。倉番が横で帳面を開いて待っている。
ミナは目を閉じた。
澪は、無意識に息を止めかけ、すぐに浅く吐いた。
無理をしていないだろうか。
ミナの指先が、少しだけ動く。額へほんのわずかに汗が浮かぶ。けれど、顔色は悪くない。第70話で見た時と同じように、空気をなくすのではなく、すかすかにする感覚を探っているのだろう。澪には、その中身までは分からない。ただ、ミナが急かされていないことだけは分かった。
真壁は何も言わない。
倉番も、帳面を開いたまま待っている。
やがて、ミナが目を開けた。
「終わりました」
倉番が帳面へ記録する。ミナも隣で、小さな印を付けた。
その音を、澪は聞いた。
紙へ筆が触れる、ほんの小さな音だった。
一日一回。
蔵を乾かす。
それが、ミナの仕事になる。
エレナが、乾燥用の小区画へ近づこうとする。
「姫様。順番です」
「見るだけだ」
「入る足でした」
「足を見るな」
「護衛です」
澪は、少しだけ笑った。
アルベルトは、帳面を見ていた。
「これで、春まで残るか」
「今年は、数字で確かめられます」
真壁は、帳面の欄へ指を置きながら答えた。秋に蔵へ入った量。冬に出した量。春まで残った量。鼠に食われた物、傷んだ物、帳面と合わない物。それぞれを同じ数字の中へ押し込まず、分けて残すための欄だった。
「何が、どれだけ失われたのかを分けて残せば、来年は、さらに減らせるでしょう」
アルベルトは静かに頷いた。
ミナは、最初の乾燥作業を終え、少し疲れた顔をしていた。けれど、無理をした様子ではない。
「大丈夫ですか」
澪が声を掛けると、ミナは新しい蔵を見回してから頷いた。
「はい。明日も、一回来ます」
「ええ」
真壁が答える。
「毎日、一回で結構です」
ミナは、もう一度、帳面へ付けた印を見た。
以前は、少し霧を作っただけだった。大きな部屋を冷やすことも出来なかった。けれど、小さな技能でも、使う場所を選び、続けられる仕事へ変えれば、侯爵領の食料を守れる。
孤児院の手伝いだったミナは、その日から、侯爵家の食料庫管理補助になった。
澪は、棚へ並ぶ穀物袋と、地下へ続く階段を見た。
冬支度は、食料を集めれば終わりではない。
春まで残して、初めて意味がある。