押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第131話 味噌と醤油と退職届

王都魔術院の朝は、鐘の音で始まる。

 

 祈りの鐘ではない。

 時を告げる鐘でもない。

 

 呼び出しの鐘である。

 

 境界課の壁に吊られた青銅の小鐘が、かん、かん、かん、と乾いた音を立てた。鳴らしたのは隣棟の結界管理室だ。音は細いのに、嫌になるほどよく通る。

 

 机に突っ伏していた若い魔術師が、肩をびくりと跳ねさせた。

 

「北門だな」

 

 誰かが言った。

 

「昨日も北門だったぞ」

 

「だから北門だろう」

 

「クラインを呼べ」

 

 返事は自然だった。

 水が低い方へ流れるように、その名が出た。

 

 北門結界の微調整。

 王都地下収納庫の封印札。

 古い転移陣の基準石。

 王城外郭の警報結界。

 王都倉庫の収納札の不具合。

 

 どれも境界課の仕事である。

 どれも面倒である。

 そして、面倒な仕事は、たいていオスヴァルト・クラインの机に積まれた。

 

「おい、クラインは」

 

 係官が書類束を抱えたまま、いつもの席へ顔を向けた。

 

 席は空だった。

 

 そのことに、最初に気づいた者は誰もいない。

 正確に言えば、気づいてはいたが、意味を持たせなかった。

 

 境界課では、誰かの席が空であることなど珍しくない。結界の現場に出ている。倉庫に潜っている。上司に呼ばれている。あるいは、昨夜の緊急案件で仮眠室に沈んでいる。

 

 だが、オスヴァルト・クラインの机は違った。

 

 片付いていた。

 

 不自然なほどに。

 

 魔術院支給の徽章が、机の左上に置かれている。鍵は革紐で束ねられ、借りていた魔術書は背の高さを揃えて積まれていた。書類は案件ごとに分けられ、赤い紐で結ばれている。未処理案件一覧、応急処置一覧、担当部署別の確認表。

 

 そして、中央に一枚の紙。

 

 退職届。

 

 最初にそれを手に取った係官は、声を出して読んだ。

 

「一身上の都合により、国家魔術師の任を辞したく願い出ます。オスヴァルト・クライン」

 

 部屋が、しばらく止まった。

 

 誰かが鼻で笑った。

 

「また面倒なことを」

 

「呼べば来るだろう」

 

「そうだな。クラインは文句を言うが、結局来る」

 

「面倒な男だ」

 

「まったくだ」

 

 誰も、紙の白さを見ていなかった。

 恨み言はなかった。

 抗議の文もなかった。

 誰かを責める言葉もなかった。

 

 ただ、退職届があった。

 

 それだけだった。

 

 だから彼らは、それを軽く見た。

 

 境界課長ラウル・ベッカー子爵が奥の部屋から出てきた。整えられた口髭に、隙のない襟元。朝から疲れた顔の多い境界課で、彼だけがいつも整っている。

 

「何の騒ぎだ」

 

「クラインが退職届を」

 

 ベッカー子爵は紙を受け取り、目を通した。

 片眉がわずかに動く。

 

「使いを出せ」

 

「はい」

 

「本人を連れてこい。今日の北門は待たせられん」

 

 彼は退職届を机に戻した。

 

「まったく。組織人としての自覚に欠ける」

 

 その時、青銅の鐘がまた鳴った。

 

 かん、かん、かん。

 

 誰かが小さく言った。

 

「地下収納庫だ」

 

 また別の者が答えた。

 

「クラインを――」

 

 言いかけて、口を閉じた。

 

 机は空だった。

 

 

 

 使いの者が戻ってきたのは、昼前だった。

 

 若い魔術師は、汗をかいていた。走ったからではない。嫌な報告を持って戻った者特有の、喉の奥が乾いた顔をしていた。

 

「下宿は空でした」

 

 境界課に、今度は本当の沈黙が落ちた。

 

「空、とは」

 

 ベッカー子爵の声が低くなった。

 

「部屋は引き払われていました。支給品は返却済み。借りていた資料も、昨夜のうちに管理室へ戻されています」

 

「荷は」

 

「ほとんどありません。残っていたのは、茶葉の包み紙と、畑の作り方を書いた本の写しだけです」

 

「畑?」

 

 誰かが間の抜けた声を出した。

 

 使いの者は困った顔でうなずいた。

 

「隣人によれば、昨夜出ていったそうです。荷物は少なかった、と。どこへ行くかは言っていないそうです。ただ――」

 

「ただ?」

 

「静かな場所へ行く、と」

 

 境界課の者たちは顔を見合わせた。

 

 静かな場所。

 

 それは、王都魔術院のどこにもないものだった。

 

 ベッカー子爵が指を鳴らした。

 

「捜させろ。門に確認を出せ。魔術師組合にも――」

 

 そこで、また鐘が鳴った。

 

 かん、かん。

 

 今度は二回。

 古い転移陣の呼び出しだった。

 

 ベッカー子爵は舌打ちを飲み込んだ。

 

「先に北門だ。誰か行け」

 

 誰も動かなかった。

 

 北門結界は、面倒だった。

 地下収納庫よりも面倒だった。

 古い転移陣よりはましだが、それでも面倒だった。

 

 そして、いつもなら、こういう時に呼ぶ男がいた。

 

 その男は、いなかった。

 

 

 

 午後には、境界課の空気が変わっていた。

 

 北門結界の不具合は、外部干渉ではなかった。

 三年前の修繕記録の転記ミスだった。

 

 地下収納庫の封印札は、貼り替え時期を二年過ぎていた。

 

 古い転移陣の座標ずれは、座標そのものではなく、基準石の摩耗が原因だった。

 

 王都倉庫の収納札は、古い札の上に新しい札を重ね貼りしたせいで、札同士が干渉していた。

 

 それらは、すべて書いてあった。

 

 オスヴァルト・クラインの引き継ぎ書に。

 

「北門結界。原因、三年前修繕記録の転記ミス。応急処置、第三支柱の符号補正。恒久対応、台帳再確認。責任部署、結界管理室」

 

 若い魔術師が、震える声で読み上げる。

 

「地下収納庫。封印札、交換期限超過。応急処置、第二封印を触らず第一封印のみ再固定。恒久対応、札管理台帳の更新。責任部署、地下倉庫管理局」

 

 別の者が、別の束をめくる。

 

「古い転移陣。基準石摩耗。座標補正では解決しない。基準石交換まで使用制限。責任部署、転移陣保守室」

 

 読み上げるたびに、部屋の温度が下がった。

 

 書いてある。

 

 全部、書いてある。

 

 ただ誰も、読んでいなかった。

 

「クラインに聞けばいい」

 

「クラインに見せればいい」

 

「クラインなら分かる」

 

 そうして、紙を作らせて、紙を読まず、本人を呼んで済ませていた。

 

 ベッカー子爵は、書類束をつかんだまま唇を固く結んでいた。

 

「……引き継ぎが不十分だったのだ」

 

 誰も返事をしなかった。

 

 不十分ではない。

 むしろ、十分すぎた。

 

 ただ、読まれていなかっただけだった。

 

 

 

 そのころ、魔術院上層部の会議室では、オスヴァルト・クラインの評価記録が机に並べられていた。

 

 羊皮紙の端はそろっている。

 書式も同じ。

 評価者の筆跡も同じ。

 

 能力は極めて高い。

 ただし協調性に重大な問題あり。

 

 能力は極めて高い。

 ただし上位者への敬意に欠ける。

 

 能力は極めて高い。

 ただし会議態度に難あり。

 

 能力は極めて高い。

 ただし組織内調整に不安あり。

 

 署名欄には、毎回同じ名があった。

 

 ラウル・ベッカー子爵。

 

「クラインは有能でした」

 

 呼ばれたベッカー子爵は、姿勢を崩さなかった。

 

「しかし、組織人としては問題がありました。私は能力を評価しておりました。ただ、昇進には時期尚早と判断しただけです」

 

 言葉に乱れはない。

 声にも淀みはない。

 

 彼は、よくできた評価者だった。

 

 少なくとも、書類の上では。

 

 能力は認める。

 だが態度で止める。

 あとで問われれば、評価はしていたと言える。

 しかし昇進はさせない。

 

 その結果、オスヴァルト・クラインは境界課に留め置かれ続けた。

 

 北門も。

 地下収納庫も。

 古い転移陣も。

 王都倉庫も。

 

 誰も読みたがらない台帳と、誰も責任を取りたがらない案件の間に、彼は置かれていた。

 

 

 

 記録の中には、会議録も混じっていた。

 

 数年前の境界課会議。

 

「これは緊急案件だ」

 

 上位魔術師が言った。

 

 若いオスヴァルトは、手元の工程表を見て、少しだけ目を細めた。

 

「毎週ある緊急案件は、緊急ではなく習慣です」

 

 その場の空気は凍った。

 

 別の会議。

 

「君なら出来るだろう」

 

 ベッカー子爵が言った。

 

「出来ます」

 

「なら頼む」

 

「引き受けるとは言っていません」

 

 また場が凍った。

 

 さらに別の日。

 

「国家魔術師なら残れ」

 

「国家魔術師は、便利な穴埋め材ではありません」

 

「言葉を慎め、クライン」

 

「慎んだ結果がこれです」

 

 誰も彼を好きにならなかった。

 好かれる言い方ではなかった。

 

 だが、間違ってもいなかった。

 

 ベッカー子爵は、そのたびに評価書へ同じような一文を足した。

 

 協調性に問題あり。

 

 便利な言葉だった。

 

 人の不満も、組織の不備も、管理者の失点も、まとめてその下に押し込められる。

 

 

 

 王国宰相クラウス・ヴァルディスの執務室は、魔術院の会議室より静かだった。

 

 紙の音だけがする。

 

 クラウスは評価書を一枚ずつ読み、並べ、また読み返した。

 銀に近い髪を後ろへ撫でつけ、顔には怒りも驚きもない。

 

 報告官は、その静けさに喉を鳴らした。

 

「国家魔術師が一名、退職届を残して職務を離れました」

 

「名は」

 

「オスヴァルト・クラインです」

 

 クラウスは目線を落としたまま言った。

 

「能力は極めて高い。この一文が何度もある」

 

「しかし、協調性が」

 

 そこで、クラウスは顔を上げた。

 

「協調性という言葉で、何を隠した」

 

 報告官は答えられなかった。

 

 クラウスは評価書の署名欄を指で叩く。

 

「すべて、ベッカー子爵だな」

 

「はい」

 

「能力を認める一文を書き、その次の一文で昇進を止めている。後で問われれば、評価はしていたと言える」

 

 クラウスは紙を机に置いた。

 

「これは評価ではない。留め置きだ」

 

 室内の空気が、硬くなった。

 

「ベッカー子爵を呼べ」

 

 

 

 ベッカー子爵は、整った礼で入室した。

 

 顔色は悪くない。

 むしろ、わずかに不満そうですらあった。

 

「クラインは有能でした。しかし、組織人として問題がありました」

 

 彼は先ほどと同じ説明を始めた。

 

「上位者への敬意を欠き、会議での発言も不穏当で、同僚との軋轢も多く――」

 

「その者が抜けて、なぜ北門結界が止まった」

 

 ベッカー子爵の口が止まった。

 

 クラウスは声を荒げない。

 

「地下収納庫は」

 

「それは、担当部署が」

 

「古い転移陣は」

 

「確認中で」

 

「すべて、クラインの引き継ぎ書に原因が書かれていた」

 

 ベッカー子爵は沈黙した。

 

「読まなかったのは誰だ」

 

 答えはなかった。

 

 クラウスは椅子の背に軽く体を預けた。

 

「貴殿に、境界課を預ける理由はなくなった」

 

 それだけだった。

 

 怒号もない。

 机を叩く音もない。

 だが、その一言でベッカー子爵の顔から血の気が引いた。

 

 境界課長職の解任。

 魔術院中枢からの排除。

 それが意味するものを、彼は理解した。

 

 クラウスは次の書類へ目を移した。

 

 机の端には、領地からの報告も積まれている。

 押入商会。

 リュシア商会。

 味噌と醤油。

 地下食料蔵。

 孤児院雇用。

 冬支度。

 

 クラウスはその表題を一瞥した。

 

「アルベルトは、領地でよくやっている」

 

 呟きは短かった。

 

 そして、その紙は王都魔術院の報告とは別の束へ戻された。

 

 王都の問題は、王都の問題だった。

 

 

 

 オスヴァルト・クラインは、王都を出てすぐ、遠くへ逃げなかった。

 

 まず、消した。

 

 国家魔術師の外套は処分した。

 徽章は机に置いてきた。

 高価な杖は布で巻き、旅杖に見せた。

 魔術書は荷の底へ沈めた。

 

 だが、見た目だけを変えても足りない。

 

 商人として動くなら、先にジョブを変える必要がある。商人組合は商人札を出す場所であって、ジョブを変える場所ではない。そこを間違えると、組合で「魔術師のまま商人登録に来た妙な男」になる。

 

 それは目立つ。

 

 目立つのは、論外である。

 

 王都から二つ離れた宿場町で、彼はまず教会へ向かった。

 

 小さな教会だった。

 

 白い石壁はところどころ煤け、木の扉には何度も塗り直した跡があった。中に入ると、王都魔術院の乾いた書類の匂いではなく、古い木と香油の匂いがした。奥にいた司祭は、旅人の姿をした男を見て、穏やかに顔を上げた。

 

「旅の方ですかな」

 

「はい。ジョブ変更をお願いします」

 

「現在のジョブは」

 

「魔術師です」

 

「変更先は」

 

「商人でお願いします」

 

 司祭の眉が、そこでわずかに動いた。

 

「魔術師から商人へ、ですか」

 

「はい」

 

「理由を伺っても?」

 

「静かに暮らしたいので」

 

 司祭は、少しだけ沈黙した。

 

 理由として正しいかは分からない。だが、本人の顔があまりにも真面目だったので、追及する気を失ったらしい。

 

「商人が静かかどうかは、扱う品と相手によりますな」

 

「できるだけ静かな品を扱います」

 

「静かな品」

 

「針、糸、小瓶、乾燥薬草、紙束、古道具あたりです」

 

「帳面は?」

 

「できれば避けたいです」

 

「商人で?」

 

「はい」

 

 司祭は困ったように笑った。

 

「お名前は」

 

「ヴァルトです」

 

 姓は言わなかった。

 

 司祭も聞かなかった。貴族でも大商会の跡取りでもない旅の小商人なら、名だけで通る。王都魔術院でなら通らない名乗りでも、宿場町の教会ではそれで足りた。

 

「ヴァルト殿。ジョブ変更には寄進が必要です」

 

「用意しています」

 

 オスヴァルトは銀貨を置いた。多すぎず、少なすぎず、急ぎの旅人として不自然でない額にしたつもりだった。

 

 司祭は祭壇の前へ立つよう促した。オスヴァルトは膝をつき、頭を下げる。司祭が短い祈りを唱え、古い印の刻まれた木札を彼の前に置いた。

 

「商人として歩むことを望みますか」

 

「はい」

 

「利を扱い、品を扱い、人と人の間に立つことを望みますか」

 

 少し嫌な言い方だった。

 

 仕事の匂いがする。

 

 だが、ここで引くわけにはいかない。

 

「はい」

 

「では、神の前に認めます。ジョブを商人へ」

 

 胸の奥で、何かが細く切り替わった。

 

 魔術式ではない。契約でもない。だが、世界の側から見られる位置が変わったような感覚がある。魔術師として積み上げてきたものが消えたわけではない。ただ、表に出る札が替わった。

 

 視界の端に、淡い文字が浮かんだ。

 

----------------------------------

ヴァルト

現在ジョブ:商人 Lv1

状態:

本名秘匿中/王都魔術院退職済/追跡回避中/教会にてジョブ変更済/商人登録前/旅商い準備中

----------------------------------

 

 オスヴァルトは、小さく息を吐いた。

 

「弱そうで結構です」

 

 続いて、別の文字が浮かぶ。

 

 商談:芽あり。

 値付け:芽あり。

 仕入れ:芽あり。

 帳簿:芽あり。

 鑑定:芽あり。

 収納:9。

 

 オスヴァルトは黙った。

 

 司祭が首を傾げる。

 

「どうされました」

 

「……収納だけ張り切るな」

 

「収納?」

 

「こちらの話です」

 

 収納魔術は、彼が長年使ってきた技術だ。

 商人ジョブ側に生えた収納の芽が、既存の収納魔術に引っ張られたのだろう。

 

 分かる。

 分かるが、納得はしたくない。

 

 隠れるための商人だぞ。

 

 司祭は祈祷書を閉じた。

 

「商人組合で札を受ければ、商売はできます。うちで変えられるのはジョブだけですからな」

 

「承知しています」

 

「ジョブ変更と組合登録は別です」

 

「はい」

 

「時々、組合で職まで変わると思っている若い者がいますが、そうではありません」

 

「その点は、大丈夫です」

 

 大丈夫ではないことが多すぎるので、せめてそこだけは大丈夫だった。

 

 教会を出た時、空はまだ明るかった。鐘は鳴っていない。誰も彼を呼ばない。北門も、地下収納庫も、古い転移陣も、王都倉庫の収納札もない。

 

 いい町だ。

 

 そう思った直後、彼は考えを止めた。

 

 いい町だと思うと、だいたい仕事が湧く。

 

 

 

 

 

 教会でジョブ変更を済ませてから、オスヴァルトは商人組合の小さな出張所に入った。

 

 受付の男は、眠そうに顔を上げた。

 

「商人登録かい」

 

「はい。小物を少し扱います」

 

「ジョブは」

 

「商人です。教会で変更済みです」

 

「なら話が早い。うちは札を出すだけだからな」

 

「承知しています」

 

「行商か?」

 

「まだ商人で結構です」

 

「妙なこだわりだな」

 

「行商人は、仕事が増えそうな響きなので」

 

 受付は、意味が分からない顔をした。

 

 机の上には、登録用の帳面が開かれている。

 オスヴァルトはそれを見て、ほんの少しだけ眉を寄せた。

 

「帳面は必要ですか」

 

「必要だよ」

 

「商人になってまで帳面ですか」

 

「嫌なら商人になるなよ」

 

「正論です」

 

 扱う品は地味なものにした。

 

 茶葉。

 針。

 糸。

 小瓶。

 乾燥薬草。

 古道具。

 紙束。

 帳面。

 

「帳面も扱うのか」

 

「扱いたくはありません」

 

「なら外せよ」

 

「必要な人はいます」

 

「変な兄さんだな」

 

「よく言われました。主に職場で」

 

 登録名は、ヴァルト。

 

 姓は書かない。大商会の跡取りでも、貴族家の者でも、代々の店を背負う者でもない。ただの旅の小商人なら、それで十分だった。受付も特に不審がらず、帳面に短く名を記した。

 

「ヴァルト、だな」

 

「はい」

 

「商会名は」

 

「ありません」

 

「扱いは小商人。宿場、村、町での小口売買。危険物と禁制品はなし。いいな」

 

「はい」

 

「商人札はなくすなよ。なくしたら再発行で金を取る」

 

「それは困ります」

 

「なら、なくすな」

 

「正論です」

 

 組合札を受け取った。

 

 薄い金属板に、商人組合の印と登録名が刻まれている。そこには、ヴァルトとだけあった。

 

 クラインはない。

 

 オスヴァルトはそれを見て、少しだけ息を吐いた。

 

「軽くなったな」

 

「札がか?」

 

「いえ。名前が」

 

「名前?」

 

「こちらの話です」

 

 受付は首をひねったが、それ以上は聞かなかった。聞かない人間は貴重である。

 

 オスヴァルトは組合札をしまった。

 

「商売の才能が、少し不穏だっただけです」

 

 

 

 商人ヴァルトとして街道を歩くことは、思ったより面倒だった。

 

 小物を売る。

 値を聞かれる。

 品を見られる。

 帳面をつける。

 

 商売を装うために商売をする。

 

 荷を背負い直しながら、オスヴァルトはため息をついた。

 

「すでに矛盾している」

 

 彼が探しているものは、静かな田舎だった。

 

 王都から遠い。

 魔術院の出先がない。

 夜に鐘が鳴らない。

 畑が借りられる。

 茶が飲める。

 できれば風呂がある。

 

 条件は簡単なはずだった。

 

 最初に入った村は、悪くなかった。

 畑があり、井戸があり、鶏が道を歩いていた。昼の光は柔らかく、風は土の匂いがした。

 

 ここなら、と思った。

 

 小瓶と乾燥薬草を並べるまでは。

 

「兄さん、薬師かい」

 

「商人です」

 

「魔術師でもあるのか」

 

「商人です」

 

 念を押したが、村長が来た。

 

 井戸の札を見てほしい。

 獣除けを直してほしい。

 倉庫の封印を確認してほしい。

 隣村との境界杭も見てほしい。

 

 オスヴァルトは茶を飲み終えた。

 

「失礼します」

 

「え、まだ何も」

 

「何もしていないうちに出ます」

 

 村長が目を丸くする。

 

「せめて井戸だけでも」

 

「井戸から始まる仕事は、井戸だけで終わりません」

 

 オスヴァルトは荷をまとめた。

 

 商人になっても、仕事の気配からは逃げられなかった。

 

 

 

 数日後、街道沿いの宿場に着いた。

 

 そこは人と荷で混んでいた。秋の終わりが近く、どの商人も冬前の取引に急いでいる。馬の汗、干し肉、麦粥、安酒、革袋、煙。食堂の空気は重く、ざわめきは途切れない。

 

 オスヴァルトは隅の席に座り、薄い麦粥と茶を頼んだ。

 

 商人たちの声が流れてくる。

 

「南西のヴァルディス領で、妙な調味料が出たらしい」

 

「リュシア商会のやつだろ。味噌とか、醤油とかいう」

 

 木匙が止まった。

 

「……味噌?」

 

 自分でも思ったより低い声だった。

 

 近くの商人が顔を上げる。

 

「知ってるのかい」

 

 オスヴァルトはすぐには答えなかった。

 

 知っている。

 知りすぎている。

 

 だが、この世界で聞くはずのない言葉だった。

 

 彼は一度、作ろうとしたことがある。

 

 大豆は見つからなかった。

 麦はあった。

 塩もあった。

 甕もあった。

 水も火もあった。

 

 だから麦味噌なら、と考えた。

 

 だが、麹がなかった。

 麹菌が見つからなかった。

 

 それらしい白い菌はあった。だが、それが使えるものなのか、毒なのか分からない。蒸した麦は、香りを出さずに酸っぱくなった。別の甕は黒くなった。さらに別の甕は、蓋を開けた瞬間に捨てた。

 

 材料ではなかった。

 菌だった。

 

 その結論だけが残った。

 

 その味噌が、今、商人の口から出た。

 

「その味噌は、麦ですか。豆ですか」

 

 言ってから、少しだけ後悔した。

 

 聞き方が商人ではない。

 作る側の聞き方だった。

 

 商人は首をかしげた。

 

「詳しいな。俺は食っただけだから知らん。リュシア商会の品だ」

 

「リュシア商会」

 

「ヴァルディス領の食品商会だ。醤油って黒い調味料もある。肉にかけるとうまい」

 

 醤油。

 

 味噌だけなら、似た発酵食品かもしれない。

 醤油に似た魚醤や穀物の汁なら、この世界にもあっておかしくない。

 

 だが、味噌と醤油が並んだ。

 

 名前まで、そのまま。

 

 オスヴァルトは商人の顔を作った。

 

「仕入れはできますか」

 

「まだ量は少ない。高いぞ」

 

「構いません」

 

「兄さん、ずいぶん食いつくな」

 

「商人ですから」

 

 少し間を置く。

 

「珍しい商品には、興味があります」

 

 嘘ではなかった。

 

 ただし、興味の種類が違った。

 

 

 

 その時、別の商人が荷から容器を取り出した。

 

 水を飲む。

 

 オスヴァルトは、その手元を見たまま動かなくなった。

 

 透明な容器だった。

 

 ガラスではない。

 陶器ではない。

 革袋でもない。

 

 薄い。

 軽い。

 指で押せば、たぶんへこむ。

 蓋はねじ式。

 底には、規則的な凹み。

 

「それを、見せてください」

 

 声が先に出た。

 

 商人は怪訝な顔をする。

 

「これか? リュシア商会の荷から回ってきた空容器だ。軽いし、割れない」

 

「売ってください」

 

「中身は水だぞ」

 

「容器を買います」

 

「妙なものを欲しがるな」

 

「ええ。妙なものなので」

 

 商人は笑い、少し高めの値を言った。

 オスヴァルトは値切らなかった。

 

 受け取る。

 

 軽い。

 

 指で押す。

 へこむ。

 戻る。

 

 蓋を回す。

 開く。

 閉まる。

 

 底を見る。

 

 息が止まった。

 

「……ペットボトル」

 

「何だって?」

 

「失礼。昔の名前です」

 

 商人には意味が分からない。

 分からなくていい。

 

 オスヴァルトの中で、ずっと奥に沈めていた景色が浮かび上がる。

 

 コンビニ。

 自動販売機。

 電算室の机。

 帳票の山。

 端末の白い画面。

 徹夜明けの茶。

 年越し待機。

 帰ったら風呂に入って寝るつもりだった夜。

 

 帰れなかった夜。

 

 味噌だけなら偶然。

 醤油だけなら似た調味料。

 

 だが、これは違う。

 

 この世界の物ではない。

 

 日本を知る者がいる。

 あるいは、日本の物を持ち込む経路がある。

 

 出所は、ヴァルディス領のリュシア商会。

 

 オスヴァルトは容器を袋にしまった。

 

「リュシア商会の場所を教えてください」

 

 商人は眉を上げた。

 

「本当に行くのか」

 

「仕入れです」

 

「味噌を?」

 

「味噌と醤油です」

 

 少し間を置く。

 

「それと、容器の確認を少し」

 

「妙な商人だな」

 

「よく言われました」

 

 オスヴァルトは茶を飲み干した。

 

「主に職場で」

 

 

 

 その夜、宿場の小部屋は狭かった。

 

 寝台は固く、壁は薄い。隣室のいびきと階下の笑い声が混ざっている。窓の隙間から冷たい風が入った。

 

 机の上には、買い取った空のペットボトルが置かれていた。

 

 味噌。

 醤油。

 ペットボトル。

 

 三つ目で、偶然は死んだ。

 

 オスヴァルトは椅子に座ったまま、透明な容器を見つめた。

 

「帰りたい、とは違う」

 

 小さく言う。

 

「帰る場所は、もうない」

 

 電算室の机に置いていたペットボトル。

 徹夜明けに飲んだぬるい茶。

 表計算ファイル。

 フロッピー。

 日付処理。

 誰が責任者なのか分からないまま増えていった確認表。

 年越し待機。

 

 帰ったら風呂に入って寝る。

 

 そう思っていた。

 

 それだけだった。

 

 オスヴァルトは額に手を当てた。

 

「確認したいだけだ」

 

 少し間が空く。

 

「確認は仕事か」

 

 自分の声に、自分で黙る。

 

 しばらくして、椅子の背にもたれた。

 

「……考えるな」

 

 翌朝。

 

 商人ヴァルトは、ヴァルディス侯爵領へ向かった。

 

 王都を止めた男は、仕事から逃げた。

 そして、味噌と醤油と透明な容器に、あっさり足を止めた。

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