王都魔術院の朝は、鐘の音で始まる。
祈りの鐘ではない。
時を告げる鐘でもない。
呼び出しの鐘である。
境界課の壁に吊られた青銅の小鐘が、かん、かん、かん、と乾いた音を立てた。鳴らしたのは隣棟の結界管理室だ。音は細いのに、嫌になるほどよく通る。
机に突っ伏していた若い魔術師が、肩をびくりと跳ねさせた。
「北門だな」
誰かが言った。
「昨日も北門だったぞ」
「だから北門だろう」
「クラインを呼べ」
返事は自然だった。
水が低い方へ流れるように、その名が出た。
北門結界の微調整。
王都地下収納庫の封印札。
古い転移陣の基準石。
王城外郭の警報結界。
王都倉庫の収納札の不具合。
どれも境界課の仕事である。
どれも面倒である。
そして、面倒な仕事は、たいていオスヴァルト・クラインの机に積まれた。
「おい、クラインは」
係官が書類束を抱えたまま、いつもの席へ顔を向けた。
席は空だった。
そのことに、最初に気づいた者は誰もいない。
正確に言えば、気づいてはいたが、意味を持たせなかった。
境界課では、誰かの席が空であることなど珍しくない。結界の現場に出ている。倉庫に潜っている。上司に呼ばれている。あるいは、昨夜の緊急案件で仮眠室に沈んでいる。
だが、オスヴァルト・クラインの机は違った。
片付いていた。
不自然なほどに。
魔術院支給の徽章が、机の左上に置かれている。鍵は革紐で束ねられ、借りていた魔術書は背の高さを揃えて積まれていた。書類は案件ごとに分けられ、赤い紐で結ばれている。未処理案件一覧、応急処置一覧、担当部署別の確認表。
そして、中央に一枚の紙。
退職届。
最初にそれを手に取った係官は、声を出して読んだ。
「一身上の都合により、国家魔術師の任を辞したく願い出ます。オスヴァルト・クライン」
部屋が、しばらく止まった。
誰かが鼻で笑った。
「また面倒なことを」
「呼べば来るだろう」
「そうだな。クラインは文句を言うが、結局来る」
「面倒な男だ」
「まったくだ」
誰も、紙の白さを見ていなかった。
恨み言はなかった。
抗議の文もなかった。
誰かを責める言葉もなかった。
ただ、退職届があった。
それだけだった。
だから彼らは、それを軽く見た。
境界課長ラウル・ベッカー子爵が奥の部屋から出てきた。整えられた口髭に、隙のない襟元。朝から疲れた顔の多い境界課で、彼だけがいつも整っている。
「何の騒ぎだ」
「クラインが退職届を」
ベッカー子爵は紙を受け取り、目を通した。
片眉がわずかに動く。
「使いを出せ」
「はい」
「本人を連れてこい。今日の北門は待たせられん」
彼は退職届を机に戻した。
「まったく。組織人としての自覚に欠ける」
その時、青銅の鐘がまた鳴った。
かん、かん、かん。
誰かが小さく言った。
「地下収納庫だ」
また別の者が答えた。
「クラインを――」
言いかけて、口を閉じた。
机は空だった。
使いの者が戻ってきたのは、昼前だった。
若い魔術師は、汗をかいていた。走ったからではない。嫌な報告を持って戻った者特有の、喉の奥が乾いた顔をしていた。
「下宿は空でした」
境界課に、今度は本当の沈黙が落ちた。
「空、とは」
ベッカー子爵の声が低くなった。
「部屋は引き払われていました。支給品は返却済み。借りていた資料も、昨夜のうちに管理室へ戻されています」
「荷は」
「ほとんどありません。残っていたのは、茶葉の包み紙と、畑の作り方を書いた本の写しだけです」
「畑?」
誰かが間の抜けた声を出した。
使いの者は困った顔でうなずいた。
「隣人によれば、昨夜出ていったそうです。荷物は少なかった、と。どこへ行くかは言っていないそうです。ただ――」
「ただ?」
「静かな場所へ行く、と」
境界課の者たちは顔を見合わせた。
静かな場所。
それは、王都魔術院のどこにもないものだった。
ベッカー子爵が指を鳴らした。
「捜させろ。門に確認を出せ。魔術師組合にも――」
そこで、また鐘が鳴った。
かん、かん。
今度は二回。
古い転移陣の呼び出しだった。
ベッカー子爵は舌打ちを飲み込んだ。
「先に北門だ。誰か行け」
誰も動かなかった。
北門結界は、面倒だった。
地下収納庫よりも面倒だった。
古い転移陣よりはましだが、それでも面倒だった。
そして、いつもなら、こういう時に呼ぶ男がいた。
その男は、いなかった。
午後には、境界課の空気が変わっていた。
北門結界の不具合は、外部干渉ではなかった。
三年前の修繕記録の転記ミスだった。
地下収納庫の封印札は、貼り替え時期を二年過ぎていた。
古い転移陣の座標ずれは、座標そのものではなく、基準石の摩耗が原因だった。
王都倉庫の収納札は、古い札の上に新しい札を重ね貼りしたせいで、札同士が干渉していた。
それらは、すべて書いてあった。
オスヴァルト・クラインの引き継ぎ書に。
「北門結界。原因、三年前修繕記録の転記ミス。応急処置、第三支柱の符号補正。恒久対応、台帳再確認。責任部署、結界管理室」
若い魔術師が、震える声で読み上げる。
「地下収納庫。封印札、交換期限超過。応急処置、第二封印を触らず第一封印のみ再固定。恒久対応、札管理台帳の更新。責任部署、地下倉庫管理局」
別の者が、別の束をめくる。
「古い転移陣。基準石摩耗。座標補正では解決しない。基準石交換まで使用制限。責任部署、転移陣保守室」
読み上げるたびに、部屋の温度が下がった。
書いてある。
全部、書いてある。
ただ誰も、読んでいなかった。
「クラインに聞けばいい」
「クラインに見せればいい」
「クラインなら分かる」
そうして、紙を作らせて、紙を読まず、本人を呼んで済ませていた。
ベッカー子爵は、書類束をつかんだまま唇を固く結んでいた。
「……引き継ぎが不十分だったのだ」
誰も返事をしなかった。
不十分ではない。
むしろ、十分すぎた。
ただ、読まれていなかっただけだった。
そのころ、魔術院上層部の会議室では、オスヴァルト・クラインの評価記録が机に並べられていた。
羊皮紙の端はそろっている。
書式も同じ。
評価者の筆跡も同じ。
能力は極めて高い。
ただし協調性に重大な問題あり。
能力は極めて高い。
ただし上位者への敬意に欠ける。
能力は極めて高い。
ただし会議態度に難あり。
能力は極めて高い。
ただし組織内調整に不安あり。
署名欄には、毎回同じ名があった。
ラウル・ベッカー子爵。
「クラインは有能でした」
呼ばれたベッカー子爵は、姿勢を崩さなかった。
「しかし、組織人としては問題がありました。私は能力を評価しておりました。ただ、昇進には時期尚早と判断しただけです」
言葉に乱れはない。
声にも淀みはない。
彼は、よくできた評価者だった。
少なくとも、書類の上では。
能力は認める。
だが態度で止める。
あとで問われれば、評価はしていたと言える。
しかし昇進はさせない。
その結果、オスヴァルト・クラインは境界課に留め置かれ続けた。
北門も。
地下収納庫も。
古い転移陣も。
王都倉庫も。
誰も読みたがらない台帳と、誰も責任を取りたがらない案件の間に、彼は置かれていた。
記録の中には、会議録も混じっていた。
数年前の境界課会議。
「これは緊急案件だ」
上位魔術師が言った。
若いオスヴァルトは、手元の工程表を見て、少しだけ目を細めた。
「毎週ある緊急案件は、緊急ではなく習慣です」
その場の空気は凍った。
別の会議。
「君なら出来るだろう」
ベッカー子爵が言った。
「出来ます」
「なら頼む」
「引き受けるとは言っていません」
また場が凍った。
さらに別の日。
「国家魔術師なら残れ」
「国家魔術師は、便利な穴埋め材ではありません」
「言葉を慎め、クライン」
「慎んだ結果がこれです」
誰も彼を好きにならなかった。
好かれる言い方ではなかった。
だが、間違ってもいなかった。
ベッカー子爵は、そのたびに評価書へ同じような一文を足した。
協調性に問題あり。
便利な言葉だった。
人の不満も、組織の不備も、管理者の失点も、まとめてその下に押し込められる。
王国宰相クラウス・ヴァルディスの執務室は、魔術院の会議室より静かだった。
紙の音だけがする。
クラウスは評価書を一枚ずつ読み、並べ、また読み返した。
銀に近い髪を後ろへ撫でつけ、顔には怒りも驚きもない。
報告官は、その静けさに喉を鳴らした。
「国家魔術師が一名、退職届を残して職務を離れました」
「名は」
「オスヴァルト・クラインです」
クラウスは目線を落としたまま言った。
「能力は極めて高い。この一文が何度もある」
「しかし、協調性が」
そこで、クラウスは顔を上げた。
「協調性という言葉で、何を隠した」
報告官は答えられなかった。
クラウスは評価書の署名欄を指で叩く。
「すべて、ベッカー子爵だな」
「はい」
「能力を認める一文を書き、その次の一文で昇進を止めている。後で問われれば、評価はしていたと言える」
クラウスは紙を机に置いた。
「これは評価ではない。留め置きだ」
室内の空気が、硬くなった。
「ベッカー子爵を呼べ」
ベッカー子爵は、整った礼で入室した。
顔色は悪くない。
むしろ、わずかに不満そうですらあった。
「クラインは有能でした。しかし、組織人として問題がありました」
彼は先ほどと同じ説明を始めた。
「上位者への敬意を欠き、会議での発言も不穏当で、同僚との軋轢も多く――」
「その者が抜けて、なぜ北門結界が止まった」
ベッカー子爵の口が止まった。
クラウスは声を荒げない。
「地下収納庫は」
「それは、担当部署が」
「古い転移陣は」
「確認中で」
「すべて、クラインの引き継ぎ書に原因が書かれていた」
ベッカー子爵は沈黙した。
「読まなかったのは誰だ」
答えはなかった。
クラウスは椅子の背に軽く体を預けた。
「貴殿に、境界課を預ける理由はなくなった」
それだけだった。
怒号もない。
机を叩く音もない。
だが、その一言でベッカー子爵の顔から血の気が引いた。
境界課長職の解任。
魔術院中枢からの排除。
それが意味するものを、彼は理解した。
クラウスは次の書類へ目を移した。
机の端には、領地からの報告も積まれている。
押入商会。
リュシア商会。
味噌と醤油。
地下食料蔵。
孤児院雇用。
冬支度。
クラウスはその表題を一瞥した。
「アルベルトは、領地でよくやっている」
呟きは短かった。
そして、その紙は王都魔術院の報告とは別の束へ戻された。
王都の問題は、王都の問題だった。
オスヴァルト・クラインは、王都を出てすぐ、遠くへ逃げなかった。
まず、消した。
国家魔術師の外套は処分した。
徽章は机に置いてきた。
高価な杖は布で巻き、旅杖に見せた。
魔術書は荷の底へ沈めた。
王都から二つ離れた宿場町で、彼は商人組合の小さな出張所に入った。
受付の男は、眠そうに顔を上げた。
「商人登録かい」
「はい。小物を少し扱います」
「行商か?」
「まだ商人で結構です」
「妙なこだわりだな」
「行商人は、仕事が増えそうな響きなので」
受付は、意味が分からない顔をした。
机の上には、登録用の帳面が開かれている。
オスヴァルトはそれを見て、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「帳面は必要ですか」
「必要だよ」
「商人になってまで帳面ですか」
「嫌なら商人になるなよ」
「正論です」
扱う品は地味なものにした。
茶葉。
針。
糸。
小瓶。
乾燥薬草。
古道具。
紙束。
帳面。
「帳面も扱うのか」
「扱いたくはありません」
「なら外せよ」
「必要な人はいます」
「変な兄さんだな」
「よく言われました。主に職場で」
登録名は、ヴァルト・クライン。
完全な偽名ではない。
だが、元国家魔術師オスヴァルト・クラインを探す者が、すぐに拾う名でもない。
組合札を受け取った瞬間、彼の中で何かが切り替わった。
視界の端に、淡い文字が浮かぶ。
----------------------------------
ヴァルト・クライン
現在ジョブ:商人 Lv1
状態:
身分秘匿中/王都魔術院退職済/追跡回避中/商人登録直後/旅商い準備中
----------------------------------
オスヴァルトは、小さく息を吐いた。
「弱そうで結構です」
続いて、別の文字が浮かぶ。
商談:芽あり。
値付け:芽あり。
仕入れ:芽あり。
帳簿:芽あり。
鑑定:芽あり。
収納:9。
オスヴァルトは黙った。
受付が筆を止める。
「どうした」
「……収納だけ張り切るな」
「何の話だ」
「いえ」
収納魔術は、彼が長年使ってきた技術だ。
商人ジョブ側に生えた収納の芽が、既存の収納魔術に引っ張られたのだろう。
分かる。
分かるが、納得はしたくない。
隠れるための商人だぞ。
オスヴァルトは組合札をしまった。
「商売の才能が、少し不穏だっただけです」
商人ヴァルト・クラインとして街道を歩くことは、思ったより面倒だった。
小物を売る。
値を聞かれる。
品を見られる。
帳面をつける。
商売を装うために商売をする。
荷を背負い直しながら、オスヴァルトはため息をついた。
「すでに矛盾している」
彼が探しているものは、静かな田舎だった。
王都から遠い。
魔術院の出先がない。
夜に鐘が鳴らない。
畑が借りられる。
茶が飲める。
できれば風呂がある。
条件は簡単なはずだった。
最初に入った村は、悪くなかった。
畑があり、井戸があり、鶏が道を歩いていた。昼の光は柔らかく、風は土の匂いがした。
ここなら、と思った。
小瓶と乾燥薬草を並べるまでは。
「兄さん、薬師かい」
「商人です」
「魔術師でもあるのか」
「商人です」
念を押したが、村長が来た。
井戸の札を見てほしい。
獣除けを直してほしい。
倉庫の封印を確認してほしい。
隣村との境界杭も見てほしい。
オスヴァルトは茶を飲み終えた。
「失礼します」
「え、まだ何も」
「何もしていないうちに出ます」
村長が目を丸くする。
「せめて井戸だけでも」
「井戸から始まる仕事は、井戸だけで終わりません」
オスヴァルトは荷をまとめた。
商人になっても、仕事の気配からは逃げられなかった。
数日後、街道沿いの宿場に着いた。
そこは人と荷で混んでいた。秋の終わりが近く、どの商人も冬前の取引に急いでいる。馬の汗、干し肉、麦粥、安酒、革袋、煙。食堂の空気は重く、ざわめきは途切れない。
オスヴァルトは隅の席に座り、薄い麦粥と茶を頼んだ。
商人たちの声が流れてくる。
「南西のヴァルディス領で、妙な調味料が出たらしい」
「リュシア商会のやつだろ。味噌とか、醤油とかいう」
木匙が止まった。
「……味噌?」
自分でも思ったより低い声だった。
近くの商人が顔を上げる。
「知ってるのかい」
オスヴァルトはすぐには答えなかった。
知っている。
知りすぎている。
だが、この世界で聞くはずのない言葉だった。
彼は一度、作ろうとしたことがある。
大豆は見つからなかった。
麦はあった。
塩もあった。
甕もあった。
水も火もあった。
だから麦味噌なら、と考えた。
だが、麹がなかった。
麹菌が見つからなかった。
それらしい白い菌はあった。だが、それが使えるものなのか、毒なのか分からない。蒸した麦は、香りを出さずに酸っぱくなった。別の甕は黒くなった。さらに別の甕は、蓋を開けた瞬間に捨てた。
材料ではなかった。
菌だった。
その結論だけが残った。
その味噌が、今、商人の口から出た。
「その味噌は、麦ですか。豆ですか」
言ってから、少しだけ後悔した。
聞き方が商人ではない。
作る側の聞き方だった。
商人は首をかしげた。
「詳しいな。俺は食っただけだから知らん。リュシア商会の品だ」
「リュシア商会」
「ヴァルディス領の食品商会だ。醤油って黒い調味料もある。肉にかけるとうまい」
醤油。
味噌だけなら、似た発酵食品かもしれない。
醤油に似た魚醤や穀物の汁なら、この世界にもあっておかしくない。
だが、味噌と醤油が並んだ。
名前まで、そのまま。
オスヴァルトは商人の顔を作った。
「仕入れはできますか」
「まだ量は少ない。高いぞ」
「構いません」
「兄さん、ずいぶん食いつくな」
「商人ですから」
少し間を置く。
「珍しい商品には、興味があります」
嘘ではなかった。
ただし、興味の種類が違った。
その時、別の商人が荷から容器を取り出した。
水を飲む。
オスヴァルトは、その手元を見たまま動かなくなった。
透明な容器だった。
ガラスではない。
陶器ではない。
革袋でもない。
薄い。
軽い。
指で押せば、たぶんへこむ。
蓋はねじ式。
底には、規則的な凹み。
「それを、見せてください」
声が先に出た。
商人は怪訝な顔をする。
「これか? リュシア商会の荷から回ってきた空容器だ。軽いし、割れない」
「売ってください」
「中身は水だぞ」
「容器を買います」
「妙なものを欲しがるな」
「ええ。妙なものなので」
商人は笑い、少し高めの値を言った。
オスヴァルトは値切らなかった。
受け取る。
軽い。
指で押す。
へこむ。
戻る。
蓋を回す。
開く。
閉まる。
底を見る。
息が止まった。
「……ペットボトル」
「何だって?」
「失礼。昔の名前です」
商人には意味が分からない。
分からなくていい。
オスヴァルトの中で、ずっと奥に沈めていた景色が浮かび上がる。
コンビニ。
自動販売機。
電算室の机。
帳票の山。
端末の白い画面。
徹夜明けの茶。
年越し待機。
帰ったら風呂に入って寝るつもりだった夜。
帰れなかった夜。
味噌だけなら偶然。
醤油だけなら似た調味料。
だが、これは違う。
この世界の物ではない。
日本を知る者がいる。
あるいは、日本の物を持ち込む経路がある。
出所は、ヴァルディス領のリュシア商会。
オスヴァルトは容器を袋にしまった。
「リュシア商会の場所を教えてください」
商人は眉を上げた。
「本当に行くのか」
「仕入れです」
「味噌を?」
「味噌と醤油です」
少し間を置く。
「それと、容器の確認を少し」
「妙な商人だな」
「よく言われました」
オスヴァルトは茶を飲み干した。
「主に職場で」
その夜、宿場の小部屋は狭かった。
寝台は固く、壁は薄い。隣室のいびきと階下の笑い声が混ざっている。窓の隙間から冷たい風が入った。
机の上には、買い取った空のペットボトルが置かれていた。
味噌。
醤油。
ペットボトル。
三つ目で、偶然は死んだ。
オスヴァルトは椅子に座ったまま、透明な容器を見つめた。
「帰りたい、とは違う」
小さく言う。
「帰る場所は、もうない」
電算室の机に置いていたペットボトル。
徹夜明けに飲んだぬるい茶。
表計算ファイル。
フロッピー。
日付処理。
誰が責任者なのか分からないまま増えていった確認表。
年越し待機。
帰ったら風呂に入って寝る。
そう思っていた。
それだけだった。
オスヴァルトは額に手を当てた。
「確認したいだけだ」
少し間が空く。
「確認は仕事か」
自分の声に、自分で黙る。
しばらくして、椅子の背にもたれた。
「……考えるな」
翌朝。
商人ヴァルト・クラインは、ヴァルディス侯爵領へ向かった。
王都を止めた男は、仕事から逃げた。
そして、味噌と醤油と透明な容器に、あっさり足を止めた。