押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

132 / 134
第132話 森を抜けた商人

 

 マールヴェインの森林を抜けた先で、空は急に広くなった。

 

 数日ぶりに見たまともな空の下で、オスヴァルト・クラインは倒れた古木に腰を下ろした。腰を下ろしたというより、そこで一度止まらなければ足が次の動作を拒む、という方が近い。膝まで跳ねた泥、裂けた袖、牙か枝か分からないもので削られた外套の端が、森の中で過ごした時間を余計なほど正直に語っている。肩口には枯れ葉が刺さり、髪には本人がまだ気づいていない小枝まで絡んでいた。

 

 大きな怪我はない。

 

 それが幸運なのか、単に面倒を避け続けた結果なのかは、判断しないことにした。判断すると、何をどう避け、何をどう仕留め、どの素材をどの順で処理したかまで思い出すことになる。思い出すと疲れる。疲れている時に疲れる記憶を開くのは、仕事である。

 

 森の奥で、何か大きなものが木を押し分ける音がした。

 

 オスヴァルトは振り向かなかった。もう戻る気はない。戻る理由がない。仮に理由ができても、今日は絶対にない。

 

 革袋の水を一口飲み、息を整える。ぬるい水だったが、飲めるだけで十分だった。目に見える荷は軽い。背負い袋は潰れており、肩に掛けた布包みも薄い。外から見れば、道に迷った哀れな小商人で済む。

 

 外から見れば、である。

 

 視界の端に、淡い枠が開いた。

 

----------------------------------

ヴァルト

現在ジョブ:商人 Lv1 → Lv10

状態:本名秘匿中/王都魔術院退職済/追跡回避中/マールヴェイン森林踏破/危険地帯素材回収/獲物解体加工/保存食作成/ボトルキャップ付き革袋試作/リュシア商会接触準備

----------------------------------

自動成長

鑑定:芽あり → 10

収納:9 → 10

商才:芽あり → 4

交渉:芽あり → 2

加工:芽あり → 4

保存判断:芽あり → 6

素材選別:芽あり → 7

解体:芽あり → 4

試作品作成:芽あり → 3

野営:芽あり → 3

護身:芽あり → 2

危険地帯仕入れ:芽あり → 5

----------------------------------

維持

境界魔術:10

収納魔術:9

結界魔術:10

転移陣解析:10

魔術式解析:10

魔力操作:10

封印術:8

結界札作成:7

追跡回避:4

身分秘匿:3

----------------------------------

前職経験

前職:王国国家魔術師

所属:王都魔術院境界課

担当経験:境界魔術/収納魔術/結界魔術/転移陣解析/封印札管理

状態:退職済

本名:秘匿中

----------------------------------

スキルポイント

現在ポイント:24

取得方式:レベル到達報酬

蓄積:スキルツリー未開放中の取得分を一括表示

内訳:レベル2到達:1

内訳:レベル3到達:1

内訳:レベル4到達:1

内訳:レベル5到達:3

内訳:レベル6到達:2

内訳:レベル7到達:2

内訳:レベル8到達:2

内訳:レベル9到達:2

内訳:レベル10到達:5

内訳:初回スキルツリー解放ボーナス:5

注意:ポイントだけでは条件未達の技能は取得不可

注意:既得スキルは実践でも成長します

----------------------------------

ジョブツリー表示

現在ジョブ:商人

選択可能:行商人

選択可能:鑑定士

選択可能:道具使い

選択可能:細工師

選択可能:工匠見習い

選択可能:保存食職人見習い

選択可能:革細工師見習い

選択可能:素材商

選択可能:探索者見習い

未開放系統:あり

注意:ジョブ変更はこの場ではできません

変更場所:神殿/司祭の認証が必要

----------------------------------

スキルツリー表示

現在ジョブ:商人

レベル:10

スキルポイント:24

表示形式:ジョブ系統別

商人系スキル +

職人系スキル +

魔術師系スキル +

特殊スキル +

注意:系統名の+で詳細を開けます

注意:スキル名の+で強化または取得できます

注意:表示される取得可能スキルは、現在取得条件を満たしているものだけです

注意:未達スキルと未開放スキルの詳細は表示されません

注意:強化できるのは既得スキルのみです

注意:ジョブ変更は神殿/司祭の認証が必要です

----------------------------------

 

 オスヴァルトは表示を見た。

 

 黙って見た。

 

 もう少し見た。

 

「上限まで行ったか」

 

 森は返事をしなかった。湿った葉が風に鳴るだけで、誰も反論してくれない。

 

「鑑定と収納が十。商人としては便利だな」

 

 便利。

 

 それが一番よくない。

 

「隠れるための商人だぞ」

 

 表示は消えない。

 

 維持欄に並ぶ魔術系スキルはすべて十以下に収まっていたが、それで薄まるものではなかった。前職経験の欄には、王国国家魔術師、王都魔術院境界課、退職済の文字が残っている。隠れたい人間に対して、非常に配慮がない。

 

 オスヴァルトは目を細めた。

 

「そこは隠せ」

 

 もちろん、聞かなかった。

 

 彼はしばらく表示を見つめ、それから収納の中へ意識を向けた。乾燥肉と燻製肉は束ごとに分けられ、魔物の皮や牙、角、骨、魔石は種類別に並んでいる。薬草と香りの強い木片は湿気を避けてまとめられ、蜂蜜と蜜蝋は封をした壺に収まり、その奥には加工済みのオオウナギと、妙に数の多い革袋が整然と積まれていた。

 

「商売をした覚えはない」

 

 言い終えた瞬間、自分の言葉が少し無理をしていることに気づいた。

 

「いや、しているな」

 

 肉は、ただ収納へ放り込んだものではない。食べられる部位は切り分け、塩を当て、余計な水分を抜いてある。保存に向く部位は収納内工房で燻製にしており、煙を外へ出さないために熱と湿気を細かく逃がしながら、香りの強い木片を少しずつ足した。売り物向き、自分用、保存食向き、味見用と分けた時点で、もはや言い訳の余地はかなり減っている。

 

 オスヴァルトは額に指を当てた。

 

「手際が良すぎる」

 

 やったのは自分だ。それが一番よくない。

 

 皮も同じだった。使える部分は仮なめしを済ませ、薄いものは小袋用、厚いものは水袋用、傷の多いものは継ぎ当て用として分けてある。骨と角は棒状、輪状、板状に削られ、その一部は口金と蓋になっていた。蜜蝋は蜂蜜の封だけでなく、革袋の防水と口金の隙間を塞ぐためにも使われている。

 

 森を抜けただけ。

 

 そう言い張るには、収納の中が整いすぎていた。

 

「森を抜けただけのはずなんだが」

 

 誰も聞いていない。聞いていないので、否定もしてくれない。

 

 オスヴァルトは収納から革袋を一つ取り出した。見た目は少し上等な革の水袋だが、口の形だけがこの世界の普通と違う。削った骨の口金に、同じく骨で作った蓋が噛み合うようになっており、どちらにも浅く細い溝が刻まれていた。

 

 宿場で手に入れた透明な容器。その蓋を見本にした。

 

 透明な容器そのものは作れない。素材がない。設備もない。作る気もない。だが、蓋の考え方なら別だった。回せば締まり、逆へ回せば開く。何度も使え、木栓より早く、革紐で縛るより確実で、揺れても漏れにくい。

 

 仕組みだけなら、骨と革と蜜蝋で真似できる。

 

 気づいたのがよくなかった。収納内工房があったのもよくなかった。獣の皮があり、骨があり、蜜蝋があり、夜の見張り中に手だけが空いていたことが、特によくなかった。

 

 革袋に少し水を入れ、骨製の蓋を乗せて回す。溝が噛み合い、きゅ、と小さな手応えを残して止まった。袋を逆さにしても、水は一滴も落ちない。

 

 オスヴァルトは、その革袋をしばらく見つめた。

 

「……作れてしまった」

 

 鳥が一羽、森の上を横切る。

 

「大量生産ではない」

 

 少し間を置く。

 

「試作の数が多いだけだ」

 

 収納の中には、同じ仕組みの革袋が何種類も並んでいる。水袋用、油用、酒用、小型、中型、肩掛け紐付き、予備口金付き。少なくはない。少なくはない、という言い方で誤魔化せる数でもない。

 

 彼はそれらを見て、低く言った。

 

「商売だな」

 

 しばらく考える。

 

「まずい」

 

 隠れるために商人になったはずだった。今は、危険な森の出口で商品を作った事実を確認している。方向が違う。違うはずなのに、成果物だけはやけに正しい。

 

 革袋を収納へ戻すと、その奥で別の存在感があった。

 

 オオウナギである。

 

 この世界の鰻は、前世の鰻と同じ名前で呼ぶには少し無理があった。太く、長く、重い。丸太と呼ぶ方が近いが、丸太は泥の中から跳ね上がって噛みついてこない。その点で、丸太の方がまだ礼儀正しい。

 

 すでに〆てあり、血抜きも内臓処理も済ませてある。泥臭さが出ないよう、使えない部分は取り除き、身は大きく切り分け、脂の多い部位と身の厚い部位に分けて保存した。そこまでやってしまったからこそ、収納の奥にあるそれは、危険な獲物ではなく食材に見える。

 

 厚い身には脂が乗り、焼けば十分食べられるはずだった。ただ、焼くだけでは惜しいと思った瞬間、前世の記憶が勝手に湯気を立てた。白い飯に乗った焦げ目のある身、甘辛いタレ、箸で割れる柔らかさ。山椒はない。だが、蜂蜜はある。収納の小壺には、濃い琥珀色の蜜が蜜蝋で封をされていた。

 

「……醤油だな」

 

 言った直後、目を閉じる。

 

「違う」

 

 誰もいない森の出口で、自分に言った。

 

「鰻を食べるためにヴァルディス領へ行くわけではない」

 

 少し間が空く。

 

「半分は違う」

 

 半分と言った時点で、だいぶ負けていた。

 

 蜂蜜がある。醤油があれば甘辛いタレに近づく。味噌があれば燻製肉の漬け床にも使える。革袋が売れれば旅費も増える。透明な容器の出所も探れる。日本確認、醤油確認、味噌確認、容器確認、鰻のタレ、商品売り込み。目的が増え、互いに絡まり、商人としては正しいが逃亡者としてはよくない方向へ育っている。

 

 オスヴァルトは額を押さえた。

 

「動機が増えている」

 

 湿った風だけが返事をした。

 

 立ち上がると、膝が少し笑った。それを見なかったことにして、彼は外套の泥を払った。肩の葉は二枚落ちたが、一枚だけしぶとく残る。髪の小枝には、まだ気づかない。

 

 彼は森を背に、ヴァルディス侯爵領側の細道へ歩き出した。

 

 

 

 

 

 正規の街道ではなかった。

 

 道と呼ぶには細く、草に負けかけている。車輪の跡は浅く、通るのは荷馬車ではなく、炭焼きや木こりや猟師だろう。しばらく歩くと、湿った土の匂いに炭の匂いが混ざり、木立の間に煤で黒ずんだ小屋が見えた。

 

 軒先では、腕の太い男が薪を割っていた。斧が薪を割る乾いた音がして、次の一撃の前に男が顔を上げる。

 

 泥だらけの若い男。裂けた袖。葉のついた外套。軽すぎる荷。疲れているのに妙に冷静な目。炭焼きの男は斧を下ろさず、柄を握ったまま短く聞いた。

 

「どこから来た」

 

 オスヴァルトは森の方を指した。

 

「向こうから」

 

 男の眉が上がる。

 

「マールヴェインからか?」

 

「名前は、そう書いてありました」

 

「書いてありました、じゃねえ。あそこは通る場所じゃねえ」

 

「道ではありませんでした」

 

「そういう意味じゃねえ」

 

「同感です」

 

 炭焼きは口を開け、閉じた。斧を持つ手に少し力が入る。

 

「何者だ」

 

 オスヴァルトは懐から商人札を出した。泥で少し汚れているが、刻印は読める。

 

「商人です。ヴァルトと申します」

 

 炭焼きは、商人札と本人の泥と背後の森を順番に見た。

 

「商人は森から出てこねえ」

 

「今後はそうします」

 

「今後じゃねえ」

 

 男はようやく斧を下ろしたが、手放しはしなかった。

 

「怪我は」

 

「大きなものはありません」

 

「小さいのはあるんだな」

 

「森でしたので」

 

「だから森は通る場所じゃねえって言ってんだ」

 

「同感です」

 

「同感なら通るな」

 

「次からは」

 

 炭焼きは目を細めた。

 

「お前、話が通じてるのか通じてねえのか、分かりづれえな」

 

「よく言われます」

 

「誰に」

 

「前職で」

 

「前職?」

 

 オスヴァルトは少しだけ黙った。

 

「聞くと面倒になります」

 

 炭焼きは斧を肩に担ぎ直した。

 

「聞かねえ」

 

「助かります」

 

「水はいるか」

 

「いただけると助かります」

 

 男は小屋の横の樽を指した。

 

「飲め。腹壊しても知らん」

 

「森の水よりは安全でしょう」

 

「何飲んできたんだ、お前」

 

「選別はしました」

 

「選別で済む話じゃねえ」

 

 樽の水を革袋へ移し、オスヴァルトは一口飲んだ。礼を言うだけでは弱いかと思い、背負い袋を開けるふりをして、試作品の一つを取り出す。

 

「礼に、これを」

 

「何だ」

 

「水袋です」

 

「革袋なら持ってる」

 

「これは、蓋が回ります」

 

「蓋が?」

 

 炭焼きの顔に、疑いがそのまま出た。

 

 オスヴァルトは骨製の蓋を外し、水を少し入れてから締め直した。蓋が口金に噛み合って止まると、袋を逆さにして見せる。水は落ちない。

 

 炭焼きの表情から、疑いが一つ消えた。

 

「……漏れねえな」

 

「完全ではありません。長く揺らせば少し滲みます」

 

「いや、普通はもっと漏れる」

 

「でしょうね」

 

 炭焼きは革袋を受け取り、蓋を何度も回した。斧を握っていた手が、今度は骨の溝を真剣に確かめている。指が止まらない。

 

「これ、山仕事の連中は欲しがるぞ。木栓より早いし、紐で縛らなくていい。水場が遠いところじゃ助かるし、酒を入れてもこぼれにくい」

 

「そうですか」

 

「そうですか、じゃねえ。お前、売る気で作ったんだろ」

 

「作った時点ではありませんでした」

 

「今は」

 

「売れそうで困っています」

 

「商人だろうが」

 

「そうでした」

 

 オスヴァルトは炭焼きの目を見る。視線は蓋から離れず、指は溝を確かめ、顔はすでに値を考えている。需要はある。鑑定は、相手の手つきまで見せてくる。

 

 彼は嫌な顔をした。

 

「どうした」

 

「いえ。商売になっていると思いまして」

 

「商人だろうが」

 

「そうでした」

 

 炭焼きは革袋を掲げた。

 

「これ、どこで買った」

 

「作りました」

 

「商人が?」

 

「森で」

 

「森は店じゃねえ」

 

「同感です」

 

 炭焼きはしばらく革袋を見たあと、オスヴァルトを見た。

 

「お前、森で何をしてきた」

 

「通過です」

 

「通過の成果じゃねえ」

 

「私もそう思います」

 

 会話が詰まった。

 

 炭焼きは、諦めたように軒先の丸太を顎で示した。

 

「飯くらい食ってけ。その格好で町に入ったら門で止められるぞ」

 

「助かります」

 

「礼はその袋でいい」

 

「試作品です」

 

「売りもんにしろ」

 

「したくなってきたので困っています」

 

「商人だろ」

 

「そうでした」

 

 同じ会話を二度している気がしたが、オスヴァルトは気にしないことにした。

 

 

 

 

 

 炭焼きの食事は、硬い黒パンと薄い豆の煮込みだった。

 

 空腹には十分である。

 

 オスヴァルトは礼として、燻製肉の包みを一つ出した。収納から直接出したとは見せず、背負い袋の奥から取り出したように手を動かす。包みを開いた瞬間、煤の匂いに柔らかい煙の香りが混ざり、炭焼きの目が少し変わった。

 

「うまそうだな」

 

「保存食です。煙は強すぎないようにしてあります」

 

「食っていいのか」

 

「どうぞ」

 

 炭焼きは小さく切って口に入れ、噛みしめた。二度、三度と顎が動き、顔から警戒が少しだけ抜ける。

 

「うまいな」

 

「保存も利きます」

 

「どこの品だ」

 

「森で作りました」

 

「だから森は店じゃねえ」

 

「今回は工房でした」

 

「森は工房でもねえ」

 

「同感です」

 

「同感するな」

 

 否定する口と、もう一切れへ伸びる手が一致していない。オスヴァルトはそこを指摘しなかった。商談では、相手が自分の行動で答えている時に余計なことを言うべきではない。

 

 次に、小さな壺を出す。蜜蝋の封を切ると、濃い甘い香りが広がり、炭焼きの手が止まった。

 

「それ、マールヴェイン大蜂の蜜か」

 

「たぶん」

 

「たぶんで取れる蜜じゃねえ」

 

「取れてしまいました」

 

「巣はどうした」

 

「残っていると思います」

 

「戻るなよ」

 

「戻りません」

 

「絶対だぞ」

 

「今のところ、戻る利益がありません」

 

「利益で考えるな」

 

「商人なので」

 

「急に商人になるな」

 

 炭焼きは壺を覗き込んだ。蜂蜜の表面はとろりと光り、安物の蜜ではないことを匂いだけで告げている。

 

「お前、商人じゃねえだろ」

 

 オスヴァルトは豆の煮込みを一口飲んだ。

 

「今は商人です」

 

「今は、って何だ」

 

「聞くと面倒になります」

 

 炭焼きはオスヴァルトの顔を見た。裂けた袖、泥、妙に整った手つき、森で作ったという革袋、森で燻したという肉、たぶんで取ったという蜂蜜。斧を握って魔物と向き合ってきた男の顔から、好奇心が消えた。

 

「聞かねえ」

 

「助かります」

 

「代わりに教えてやる。町へ行くなら、この下の炭焼き道を使え。南門に出る」

 

「正規街道ではないのですね」

 

「街道に出たいのか」

 

「出たくありません」

 

「なら南門だ。大門よりはうるさくねえ。猟師や炭焼きも使う」

 

「助かります」

 

 炭焼きは気に入ったらしい革袋の蓋をまた回した。

 

「リュシア商会へ行くなら、南門から入って食品工房の方だ」

 

 オスヴァルトの手が止まりかけた。止まりかけただけで、止めない。

 

「ご存じなのですか」

 

「最近、あそこへ行く商人が多い。味噌と醤油だろ」

 

「はい」

 

「まだ量は少ないらしいぞ。料理人や貴族家の厨房が欲しがってる。外の商人が買い占めようとして、何度か揉めたとも聞く」

 

「揉める予定はありません」

 

「その言い方がもう怪しい」

 

「商談は静かな方が好きです」

 

「ならいい。あと、透明な容器もあそこから流れてきたって話だ」

 

 オスヴァルトは、蜂蜜の壺に蓋を戻した。

 

「透明な容器を、リュシア商会が作っているのですか」

 

「そこまでは知らん。だが、あそこから出た」

 

「なるほど」

 

「欲しいのか」

 

「確認したいだけです」

 

「買う気は」

 

「値段次第です」

 

「商人だな」

 

「今は」

 

「だから、その今はをやめろ」

 

 炭焼きは半分呆れ、半分諦めた顔で笑った。その笑いに敵意はない。

 

 オスヴァルトは、燻製肉を少し余分に置いた。

 

「道代です」

 

「革袋で足りてる」

 

「では、口止め料です」

 

 炭焼きの笑いが止まった。

 

「何を見なかったことにすりゃいい」

 

「森から商人が出てきたことを」

 

「そんなもん、話したら俺の頭がおかしいと思われる」

 

「では、問題ありません」

 

「あるだろ」

 

「ない方でお願いします」

 

 炭焼きは、面倒そうに手を振った。

 

「行け。日が傾く前に小川で泥を落とせ。その小枝も取れ」

 

「小枝?」

 

 オスヴァルトは髪に手をやった。指に、小枝が引っかかる。

 

 彼はしばらくそれを見た。

 

「いつからだ」

 

「森からだろ」

 

「森は多すぎる」

 

「だろうな」

 

 炭焼きは、もう聞かない顔で斧を持ち直した。

 

 

 

 

 

 小川の水は冷たかった。

 

 オスヴァルトは膝をつき、袖と靴に残った泥を落とした。破れた布を洗い、乾いた糸で簡単に縫い合わせる。前職では、布を縫うことなど仕事ではなかった。今はやっている。しかも手早い。

 

「手際が良すぎる」

 

 また同じ言葉が出た。

 

 外套についた葉を払い、商人札を拭き、靴底の泥を落とす。水面に映った顔は疲れているのに、目だけがまだ何かを処理しようとしていた。

 

 収納内の商品も整える。表に出すのは、ボトルキャップ付き革袋を三つ、燻製肉を少量、蜂蜜の小壺を一つ、蜜蝋を少し、それから安価に見える牙と角だけにした。高価な魔石や魔術師だと分かる道具は奥へ回す。ペットボトル本体は出さない。あれは、こちらが見せる品ではなく、向こうがどう反応するかを見るための基準である。

 

 オオウナギも、まだ出さない。

 

 醤油を確認するまで。

 

 そこで思考が止まった。

 

「また醤油だ」

 

 水面の男は、反論しなかった。

 

「違う。確認だ」

 

 水面の男は、信じていない顔をしていた。

 

「確認は仕事か」

 

 しばらく沈黙する。

 

「考えるな」

 

 考えるのをやめた。やめたことにした。

 

 服装は、どうにか小商人に見える程度になった。豪華ではなく、貧しすぎもせず、炭焼き道を通った者として多少の泥が許される範囲に収まっている。

 

 彼は荷を背負い、南門へ向かった。

 

 

 

 

 

 ヴァルディス侯爵領の南門は、王都の門ほど威圧的ではなかった。

 

 石造りではあるが、高さより実用を優先している。横には薪を積んだ荷車が並び、猟師らしい男が鳥を吊るして待っていた。農夫は野菜籠を抱え、門番と短く言葉を交わして通っていく。記録はあるが、王都街道の関所ほど細かくはない。

 

 門番はオスヴァルトを見ると、手を出した。

 

「名は」

 

「ヴァルト」

 

「商人か」

 

「はい。小物と保存食を少し」

 

「札を」

 

 商人札を受け取った門番は刻印を確認し、頷いた。

 

「どこから来た」

 

 来た。

 

 オスヴァルトは息を変えずに答える。

 

「北西の炭焼き道から」

 

 嘘ではない。森とは言っていない。

 

 門番は彼の袖を見た。縫い目が新しい。靴にはまだ泥が残っている。

 

「ずいぶん汚れてるな」

 

「道が悪かったので」

 

 これも嘘ではない。

 

「マールヴェインから来たんじゃないだろうな」

 

 門番の目が細くなる。

 

 オスヴァルトは少しだけ首を傾げた。

 

「通る場所ではありませんね」

 

「そうだ。通るなよ」

 

「次からは」

 

「次から?」

 

「いえ」

 

 門番はしばらく見たが、荷は薄い。危険物らしいものはない。商人札も通っている。森を抜けたと言うには本人が妙に平然としており、平然としすぎていて逆に判断に困る顔だった。

 

「何を売る」

 

「保存食と水袋、それから少し蜂蜜を」

 

「水袋?」

 

「蓋が閉まるものです」

 

「普通、蓋は閉まる」

 

「普通より少し閉まります」

 

「何だそれは」

 

「見れば分かります」

 

「見せるな。門で商売を始めるな」

 

「失礼しました」

 

 門番は札を返した。

 

「リュシア商会へ行くのか」

 

 オスヴァルトは札を受け取りながら、目だけを上げた。

 

「分かりますか」

 

「最近、外から来る商人はだいたいそこだ。味噌か醤油だろ」

 

「はい」

 

「量は少ないぞ」

 

「聞いています」

 

「揉めるなよ」

 

「商談は静かな方が好きです」

 

 門番は鼻で笑った。

 

「ならいい。食品工房の方だ。南通りをまっすぐ行って、湯気が見えたら右」

 

「ありがとうございます」

 

「あと」

 

「はい」

 

「マールヴェインには入るな」

 

 オスヴァルトは一拍置いた。

 

「次からは」

 

「だから次からって何だ」

 

「いえ」

 

 門番の視線を背中に受けながら、オスヴァルトは南門を抜けた。

 

 

 

 

 

 ヴァルディス侯爵領の町は、王都より空が広かった。

 

 建物は高すぎず、道は荷車が通りやすい幅で整えられている。舗装は粗いが、必要な場所には石が敷かれ、ぬかるむ所には板が渡してあった。通りには薪を積んだ荷車が並び、軒先には干し野菜と布が吊られ、塩漬けの樽から立つ匂いに食品工房の煙と湯気が混ざっている。

 

 王都のような圧迫感はない。

 

 ただ、動いている。荷を運ぶ者、値を聞く者、布を広げる者、樽を転がす者、子どもを叱る女、小銭を数える老人。生活の音が、そこら中にあった。

 

 オスヴァルトは歩調を少し落とした。

 

 商売の匂いがする。

 

 そう思って、顔をしかめる。

 

「商人の感想だな」

 

 食品工房の方から、発酵した匂いが漂ってきた。味噌か、醤油か、それとも似た別物か。彼の足が、一度だけ止まる。

 

「近いな」

 

 何に近いのかは言わない。言えば、また動機が増える。

 

 通りの店先で、透明な容器が使われていた。ある店では水が入れられ、別の店では油らしいものが少量入っている。薬草屋の軒先には濁った緑の汁が保管され、子どもが空の容器を転がして叱られていた。

 

 珍しいものではある。

 

 しかし、神棚に上げるものではない。すでに実用品として町へ入り始めている。

 

 オスヴァルトの目が細くなる。

 

 やはり、ここだ。

 

 リュシア商会の看板は、南通りから一本入ったところにあった。大店というほどではないが、人の出入りは多い。荷運びが樽を運び、料理人らしい男が小瓶の入った箱を受け取り、別の小商人が帳面を抱えて待っている。

 

 看板には、食品商会らしい文字が並んでいた。

 

 味噌と醤油。

 

 その二つを見て、オスヴァルトは呼吸を一度だけ浅くした。

 

「味噌」

 

 少し間を置く。

 

「醤油」

 

 さらに間が空く。

 

「……本当に書いてある」

 

 声は小さい。だが、喉の奥で何かが引っかかった。それを飲み込み、商人札を確認する。袖の泥、収納内の革袋、蜂蜜の小壺、燻製肉の包み、安価に見える牙と角。ペットボトルは出さない。

 

 まずは商談。

 

 商談だ。

 

「確認だ」

 

 小さく言い直してから、店に入った。

 

 

 

 

 

 店内は思ったより暖かかった。

 

 人の出入りと奥の工房から来る湯気のせいだろう。煮た豆の匂いと、塩気のある発酵臭が奥から流れてくる。棚には小分けの瓶、木箱、乾燥野菜、干し肉、紙に包まれた調味料が並び、奥の樽には太い字で味噌と書かれていた。

 

 別の棚には、濃い液体の入った小瓶が並んでいる。

 

 醤油。

 

 見すぎないようにした。見すぎると、ただの商人ではなくなる。

 

 受付の若い店員が顔を上げた。

 

「いらっしゃいませ。仕入れですか、納品ですか」

 

「両方になるかもしれません」

 

「両方?」

 

「味噌と醤油の取引について伺いたい。それから、保存容器の試作品があります」

 

 店員は、最初に商人札を見た。次に服の縫い目と外套の擦れ、靴の泥を見て、最後に顔を見る。普通の小商人ではないと判断したのか、それとも面倒な客だと判断したのか、笑顔が少し業務用になった。

 

「お名前を伺っても?」

 

「ヴァルトです」

 

 店員は帳面に名前を書いた。姓を聞かない。商人相手としては、それで十分なのだろう。

 

「品を拝見しても?」

 

「もちろん」

 

 オスヴァルトは背負い袋を開けるふりをして、小壺を一つ出した。

 

「森の蜂蜜です。香りは強い。料理向きです」

 

 店員は壺を受け取り、蜜蝋の封を見た。

 

「封がきれいですね」

 

「漏れると困りますので」

 

 蓋を開けると、濃い甘い香りが広がった。近くにいた料理人らしい男が、ふとこちらを見る。店員の目も少し変わった。

 

「濃いですね」

 

「強い肉にも負けにくいと思います」

 

「肉料理向き、ですか」

 

「はい。たぶん」

 

「たぶん?」

 

「試す前に森を出ました」

 

 店員は一瞬止まったが、聞かなかった。賢明である。

 

 次に、燻製肉の包みを出す。

 

「保存食です。煙は強すぎないようにしてあります」

 

 店員が包みを開けると、柔らかい煙の香りが立った。塩はきつすぎず、脂も抜けすぎていない。店員は蜂蜜の小壺と燻製肉を並べて見て、受付係から商会の人間の顔になる。

 

「これは、どちらの工房で?」

 

「森で」

 

 店員の手が止まった。

 

「森で?」

 

「はい」

 

「どちらの森でしょう」

 

「マールヴェインです」

 

 店内の近くにいた男が、小さく咳き込んだ。店員の笑顔が固まる。

 

「マールヴェインの森林、ですか」

 

「はい」

 

「通る場所ではないと聞いていますが」

 

「同感です」

 

「同感……」

 

「次からは避けます」

 

「次があるのですか」

 

「ない方がいいです」

 

 店員は、聞いてよい範囲を探す顔をした。探して、やめた。

 

「保存容器というのは?」

 

「こちらです」

 

 オスヴァルトは革袋を出した。

 

 魔物皮の袋に骨製の口金と蓋が付いたそれを見て、店員は少しだけ肩の力を抜いた。

 

「革袋ですか」

 

「蓋が回ります」

 

「蓋が?」

 

 オスヴァルトは口金を指で押さえ、蓋を回した。外した蓋を戻し、水を少し入れてから締め直し、袋を逆さにする。水は落ちない。

 

 店員の目が変わった。

 

「これ、どうやって閉まっているんですか」

 

「回します」

 

「それは見れば分かります」

 

「では、見れば分かるところまでが長所です」

 

 店員は困った顔をした。困った顔のまま革袋を受け取り、自分でも蓋を回してみる。骨の溝が噛み合う手応えを確かめ、軽く揺らし、逆さにしても水が落ちないことを確かめると、その視線が店内の小瓶へ動いた。

 

 醤油を小分けにできる。

 味噌だれを持ち運べる。

 油も入る。

 水も酒も入る。

 木栓より早い。

 革紐より楽。

 陶器より割れにくい。

 

 店員の顔に、そこまでの計算が順に出た。

 

 オスヴァルトはそれを見た。

 

 需要あり。

 

 鑑定は、相手の顔にも出る。

 

「少々お待ちください」

 

 店員は革袋を持ったまま奥へ向かった。その途中でも蓋を回している。歩きながらすることではないが、したくなる気持ちは分かる。

 

「仕組みは触ると理解が早い」

 

 小さく言ってから、オスヴァルトは店内へ目を向けた。

 

 味噌樽、醤油の瓶、乾燥食品、保存食、小分けの調味料、厨房へ出す注文票、商人の帳面、店員の動線。無駄が少ない。食品商会として機能している。

 

 そして、奥の棚に透明な容器があった。

 

 軽そうで、薄く、ねじ式の蓋を持つ容器。

 

 ペットボトル。

 

 宿場で見たものと同じ系統だ。完全に商品棚の主役ではないが、隠されてもいない。実用品として、そこにある。

 

 オスヴァルトの指が、膝の上で一度だけ止まった。

 

 顔には出さない。

 

 ここが出所ではない。少なくとも、ここが流通の口だ。リュシア商会の背後に何かがある。あるいは、誰かがいる。急いで聞くと怪しい。まずは商談。

 

 商談、という言葉に、収納の中のオオウナギが反応した気がした。

 

 気のせいである。

 

 気のせいにした。

 

 

 

 

 

 店員が戻ってきた。

 

 手には、先ほどの革袋がある。まだ蓋を回していた。開け、締め、軽く逆さにして、漏れないことをまた確かめている。顔は先ほどより真剣だった。

 

「店主を呼びます」

 

「お願いします」

 

「これは、うちで使えます。たぶん、かなり」

 

「それは良かった」

 

 店員は革袋を見たまま聞いた。

 

「どこで作ったんですか」

 

 オスヴァルトは少し考えた。嘘をつく必要はない。ただし、全部を言う必要もない。

 

「森で」

 

 店員が固まる。

 

「森で?」

 

「素材がありました」

 

「素材があれば作れるものなんですか」

 

「道具も必要です」

 

「道具も森に?」

 

「持っていました」

 

「森へ?」

 

「結果的に」

 

 店員は、理解したい顔をした。しかし、奥から誰かの声がして振り返る。

 

「すぐに参ります。少々お待ちください」

 

「はい」

 

 店員は奥へ消えた。

 

 革袋の蓋を、まだ回している。

 

 オスヴァルトは、その動きを見ながら店内の奥へ目を向けた。棚の上には透明な容器がある。味噌があり、醤油があり、透明な容器がある。森を抜けた価値は、あった。

 

 ただ、収納の中では加工済みのオオウナギが静かに眠っている。

 

 蜂蜜もある。

 

 声には出さない。出すと、目的がずれる。

 

 だが、内心では一つだけ言葉が浮かんでいた。

 

 醤油。

 

 商人ヴァルトは、リュシア商会の店主を待った。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。