リュシア商会の奥から戻ってきた店員は、手にした革袋を両手で抱えていた。
革袋である。
革袋なのだが、見慣れた革袋ではない。
口のところに白っぽい骨の輪がはまり、その上に同じ骨で作られた蓋がついている。店員はそれを恐る恐る回し、外し、また回して閉めてから、もう一度首をかしげた。
「店主。これです」
リュシアは受け取った。
まず重さを見る。軽い。次に縫い目を見る。雑ではないが、職人の工房品というほど整ってはいない。旅先で急いで作ったような荒さがある。けれど、口金と蓋だけは妙に理屈が通っていた。
指先で蓋を回すと、硬い音を立てて閉まった。逆に回せば外れる。もう一度閉めると、今度は最初より少し滑らかに入った。動きそのものに、どこか覚えがある。
リュシアは店の表へ視線を向けた。
客席で待っている男は、背筋を伸ばして座っている。小商人にしては姿勢がよすぎる。旅人にしては荷物の置き方が整いすぎている。外套には森の泥が残り、袖には新しい繕いがあった。汚れてはいるが、だらしなくはない。
泥をかぶって逃げてきた者ではない。
森を抜けてきた者の汚れ方だった。
「お待たせしました」
リュシアは革袋を持ったまま、客席へ出た。
男は立ち上がり、丁寧に頭を下げる。
「ヴァルトと申します」
「リュシア商会のリュシアです。珍しい品をお持ちいただいたそうですね」
「珍しいかどうかは、使う方次第かと」
声は落ち着いていた。
商人らしい柔らかさはある。だが、余計な愛想はない。売り込みに来たというより、必要な手順を済ませに来たような雰囲気だった。
リュシアは笑顔を作る。
「では、見せていただいても?」
「もちろんです」
ヴァルトは荷を開いた。
机の上に、品が順に並ぶ。小瓶に入れられた蜂蜜、薄く包まれた燻製肉、骨の口金をつけた革袋が数点、乾燥薬草、香りのよい木片、小さな魔物素材らしきもの。どれも派手ではないが、品ごとの間隔がきちんと空いている。
置き方が綺麗だった。
値を釣り上げるための飾りではない。どこに何があるか、自分で把握している者の置き方だ。取り出す順番にも意味がある。
リュシアはまず、蜂蜜の小瓶を手に取った。
蓋を開けると、甘い香りがすぐに立ち上がった。花の匂いの奥に、青い森の匂いがある。わずかに土の湿り気も混じっている。濁りは少ないが、完全に澄んでいるわけではない。精製しすぎていない、採れた場所の気配を残した蜂蜜だった。
「いい香りですね。料理にも、薬湯にも使えそうです」
「森で採れたものです」
「どちらの森ですか?」
ヴァルトは、ほんの少し間を置いた。
その間は短い。会話として不自然ではない。だが、リュシアはその沈黙を聞いた。
「道中の森です」
「道中」
「ええ。少々、遠回りをしました」
遠回り。
リュシアは瓶を机に戻した。
マールヴェイン森林を抜けた者が、そう言うのかもしれない。普通の旅商人なら、あの森を道中とは呼ばない。そもそも通らない。
だが、ここで問い詰める理由はない。
「こちらの燻製肉も?」
「はい。保存のために処理しました」
「少し切っても?」
「どうぞ」
リュシアは店員に目を向ける。店員は小刀と皿を持ってきて、燻製肉を薄く切った。切り口に脂が少し光る。乾きすぎていない。保存食としては柔らかい方だ。
リュシアは小さく口に入れた。
塩は強すぎない。煙もきつくない。舌に残る旨味が濃い。普通の獣肉より、肉の奥に力がある。
厨房の者にも渡すと、奥から低い声がした。
「これ、ただの鹿じゃありませんね」
リュシアはヴァルトを見る。
「魔物肉ですか?」
ヴァルトは即答しなかった。
嘘を考える間ではない。
言葉を選ぶ間だった。
「獣と魔物の境目は、森の中では曖昧でした」
リュシアは微笑んだ。
「商人さんの答えではありませんね」
「そうでしょうか」
「狩った方の答えです」
「成り行きです」
「森で成り行き」
「よくあることです」
「私はあまり聞きません」
ヴァルトは困ったように沈黙した。
リュシアは追わない。
追えば逃げる。
それよりも、次だ。
リュシアは革袋を机の中央に置いた。
「こちらを試しても?」
「もちろんです」
店員が水差しを持ってくる。
革袋に水を注ぐ。リュシアは蓋をはめ、回す。骨同士がこすれる硬い音がした。精度はまだ荒い。だが、閉まる。
逆さにする。
店員が一歩下がった。
水は落ちない。
軽く振ると、縫い目の近くが少し湿った。けれど、口からは漏れない。
「革袋なのに、紐で縛らなくていいんですか」
店員が思わず声を出した。
ヴァルトはその反応に少しだけ肩の力を抜いた。
「紐は手がふさがるので」
「旅先で作ったにしては、考え方が実用的ですね」
リュシアが言うと、ヴァルトは静かに答えた。
「旅先だからこそ、手間は減らしたいものです」
正しい。
正しすぎる。
リュシアは革袋の口をじっと見た。骨の蓋は均一ではない。手作業の癖がある。だが、蓋を回して閉めるという発想そのものが、こちらでは出にくい。
透明な容器の蓋。
あれを見た者なら、思いつくかもしれない。
ただし、見ただけで構造を理解できる者でなければならない。
この革袋は欲しい。
小分けの醤油に使える。味噌だれにも使える。油や薬草液にも使える。厨房で使う調味料入れにも、孤児院で水や薬湯を配る容器にもなる。陶器の瓶より軽く、木栓より扱いやすい。
欲しい。
だが、客としては危うい。
「面白い品です。継続して作れますか?」
「材料と時間があれば」
「量は?」
「今のところ、数は多くありません」
「型は?」
「まだ試作です」
「試作」
リュシアは小さく繰り返した。
この男は、商人として売りに来たというより、試作品を見せに来ている。本人がそう自覚しているかは別として。
ヴァルトは、机の端に置かれた小さな陶器の瓶へ視線を向けた。
リュシアは気づいた。
醤油の小瓶だ。
「味噌と醤油にご興味があると聞きました」
「はい。珍しい品ですので」
「商材として?」
「もちろんです」
もちろん、と言うには、少し遅かった。
リュシアは微笑んだまま、座り直した。
「では、どういう点が気になりますか」
普通の商人なら、値段を聞く。量を聞く。納期を聞く。どこで売れるかを聞く。
ヴァルトは違った。
「味噌は、どの程度寝かせたものですか」
リュシアは、内心で一つ数えた。
「塩は強めでしょうか」
二つ。
「香りは、若いですか。それとも深いですか」
三つ。
「醤油は料理用ですか。卓上用ですか」
四つ。
「保存は、どのくらい持ちますか」
五つ。
「樽での扱いですか。小分けですか」
六つ。
これは、買うだけの商人の聞き方ではない。
使う者の聞き方だ。
作ろうとしたことがある者の聞き方だ。
「製法に関わるところは、商会の機密です」
リュシアは声を柔らかくしたまま、はっきり線を引いた。
ヴァルトはすぐに頭を下げた。
「失礼しました。買う側として、保存性が気になっただけです」
引きが早い。
早すぎる。
知らない者が遠慮したのではない。踏み込みすぎたと分かった者の引き方だ。
リュシアは醤油の小瓶を取り、小皿を一枚出した。ほんの一滴だけ垂らす。黒い液が皿の白さに広がる。
「香りだけでも」
「よろしいのですか」
「商談ですから」
ヴァルトは小皿を受け取った。
顔は変わらない。
だが、匂いを嗅いだ瞬間、指が止まった。
本当に一瞬だけ。
普通なら見逃すほど小さな停止だった。
けれど、商会の店主は客の指を見る。口よりも先に、指が本音を出すことを知っている。
ヴァルトは小皿を傾け、舌に乗せた。
目が伏せられる。
「……近い」
「近い?」
リュシアはすぐに拾った。
ヴァルトは小皿を置き、静かに頭を下げた。
「よい品です」
「ありがとうございます」
訂正が早い。
早すぎる。
続いてリュシアは豆の味噌を少量出した。小さな木匙で皿に取る。色は濃く、香りはまだ若さを残しながらも、豆と塩と発酵の丸みがある。
ヴァルトはそれを見た。
今度は、手を止めなかった。
止めなかったが、目が変わった。
懐かしむ者の目だった。
初めて見る商材ではない。
知っていて、遠いところから見ている顔だった。
「こちらも、よい香りですね」
「ええ。まだ量は多くありませんが」
「でしょうね」
でしょうね。
リュシアは、また一つ拾った。
知っている者の納得だった。
味噌を知らない商人なら、量が少ない理由を聞く。どうしてでしょうか、と尋ねる。だがヴァルトは納得した。発酵に時間がかかることを知っている。
味噌と醤油を知っている。
透明な容器にも反応している。
さらに、透明な容器の蓋に似た仕組みを、革と骨で作ってきた。
偶然ではない。
リュシアは、自分一人でこの客を扱ってはいけないと判断した。
危険かどうかは分からない。敵意は見えない。むしろ本人は、静かに商談を済ませて帰りたがっているように見える。
問題は、知っていることだ。
澪はいない。
今は現代側の大学に行っている時間だ。戻ってくるにはまだ早い。真壁も六畳間にはいない。押入家具の件で、孤児院の離れへ行っているはずだった。
リュシアは店員へ視線を送った。
「食品工房に、この燻製肉を少し回してください。味の確認を。マルテにも帳面を持ってくるように伝えて」
「はい」
店員は頷いた。
声は普通だった。
動きも普通だった。
商会で働く者は、表の言葉と裏の意味を少しずつ覚える。食品工房へ確認。マルテに帳面。つまり、伝言を回す。
リュシアはヴァルトへ向き直る。
「お待たせしてしまいますが、よろしいですか。味の確認をしてから、買い取り価格を決めたいので」
「もちろんです」
ヴァルトは頷いた。
その目が、一瞬だけ店員の背を追った。
気づいているかもしれない。
だが、表情には出さない。
リュシアも、気づかないふりをした。
孤児院の離れでは、木の匂いが濃かった。
板材が壁際に立てかけられ、床には削り屑が薄く積もっている。親方たちが木材を並べ、二段ベッドの枠を仮組みしていた。子どもたちが使う寝台である。普通の寝台より、考えることが多い。
親方の一人が、上段になる横木を押さえながら眉を寄せた。
「柵は、もう少し高い方がいいですな。寝返りだけならこれで足りますが、あいつらは寝返り以外もします」
「梯子の位置も悩みますね。端に寄せると部屋は広く使えますが、子どもが横からよじ登りそうです」
「床板も詰めすぎると重くなる。空けすぎると布団が落ち着かない」
職人たちの声が、木槌の音に混じる。
真壁は作業台の横で、その会話を聞きながら小さな金具を削っていた。木を切る主役は親方たちだ。組むのも、削るのも、手触りを見るのも彼らの仕事である。真壁はそこへ割り込まない。
彼が作っているのは、木工そのものではなく、木工を支える部品だった。
親方が、真壁の前に並んだ金具の一つをつまみ上げる。細い溝の入った、釘にしては妙な形の金具だった。
「これは、釘とは違うんですか」
「違う。釘は打てば早いが、抜くと木を傷める。これは締める。緩んだら締め直せる」
真壁は短い木片を引き寄せ、金具をゆっくりねじ込んで見せた。金属の溝が木に食い込み、最後にきゅっと止まる。
親方が目を細める。
「修理がしやすい」
「子ども用の家具は、修理できる方がいい。丈夫に作っても、予想外の壊し方をする」
「それは、分かりますな」
別の親方が、薄い金属板を二枚手に取った。片方は角を押さえるための板で、もう片方には小さな穴がいくつも開いている。
「こっちは角用ですか」
「そうだ。枠の角を押さえる。こちらは梯子の留め具だ。外したい時に外せるが、子どもが触っただけでは抜けないようにする」
「上段の柵にも使えますか」
「使える。だが柵は、抜け止めを別に入れた方がいい」
真壁は、さらに小さな金具を一つ置いた。見た目は地味だが、引っかかりがついている。
「子どもは柵を柵として使わない。手すりにする。梯子にする。物を掛ける。たぶん揺らす」
「揺らしますな」
親方たちは、揃って頷いた。
説得力がありすぎた。
別の親方が、小さなバネを指で押した。くに、と沈み、指を離すと戻る。
「これは何のためで?」
「揺れを殺すための小細工だ」
「揺れを」
「上の段で子どもが動くと、下にも響く。完全には無理だが、少し逃がせる」
親方たちは半信半疑だった。
真壁は小さな試験枠を作り、片側へバネを噛ませた。片方を揺らす。何もない方は素直に揺れが伝わる。バネを入れた方は、少し遅れて動き、揺れが丸く逃げた。
「おお」
「妙なものを考えますね」
「妙ではない。よくある部品だ」
「よくある?」
「私のいたところではな」
親方たちは、その言い方にはもう慣れていた。
真壁が時々、どこの話か分からないことを言う。だが、それで出来上がる物は役に立つ。ならば細かいことは後でいい。職人は、目の前で役に立つものに弱い。
「この抜け止めは、上段の柵ですか」
「そうだ。子どもは柵を持って登ろうとする」
「梯子があるのに?」
「梯子があるから、別の場所から登る」
親方の一人が、しみじみと頷いた。
「やりますな」
「やるだろう」
真壁は淡々と答え、次の金具に手を伸ばした。
そこへ、離れの入口から足音がした。
マルテの使いだった。若い店員が息を整え、作業場の中を見回す。木材、親方、金具、真壁。場違いなものは何もないはずなのに、妙に緊張している。
「真壁様。リュシア商会からです」
真壁は手を止めなかった。
ねじ山を指先で確認しながら言う。
「聞こう」
「リュシア商会に、ヴァルトという商人が来ました」
真壁の指が、わずかに止まった。
店員は続ける。
「味噌と醤油と透明容器に反応したそうです。ねじ式の革袋を持ち込んだそうです。マールヴェインの森から来た可能性があります」
作業場の音が小さくなった。
親方たちも、空気が変わったことに気づいた。
真壁は金具を台に置いた。
「名は」
「ヴァルトです」
「姓は」
「聞いていません」
「持ち込み品は」
「蜂蜜、燻製肉、革袋。蓋が回るそうです」
「透明容器に反応したのだな」
「はい」
「味噌と醤油にも」
「はい」
真壁は黙った。
ただの商人ではない。
だが、何者かはまだ分からない。日本を知る者。転生者。転移者。現代品を見た者。あるいは、魔術師崩れの観察者。そうした可能性が、真壁の頭の中で順に並び、すぐに消されず残った。
澪は大学だ。
今ここにはいない。
すぐに本人へ確認させることはできない。
「少し商会の用件だ。作業は続けてくれたまえ」
真壁が親方たちへ言うと、親方の一人が眉を寄せた。
「急ぎですか」
「少々、妙な客が来た」
「危ない客で?」
「危ないかどうかはまだ分からん。だが、逃がすと面倒になる可能性がある」
親方たちはそれ以上聞かなかった。
真壁は使いへ向き直る。
「マルテ君へ伝えたまえ。リュシア君に、帰さず、刺激せず、商談として引き留めるように」
「はい」
「澪君が戻るまで、相手にこちらの事情を悟らせない。こちらからすぐ押しかけるな。相手が逃げる」
「はい」
「味噌と醤油で足を止めたまえ。透明容器の話は、こちらから広げない」
店員は短く復唱した。
マルテに鍛えられているのだろう。余計な質問はしない。必要な言葉だけを拾い、すぐに走っていった。
真壁は作業台へ戻った。
親方が、恐る恐る聞く。
「続けていいんですか」
「当然だ。子どもたちの寝台も急ぎだ」
「妙な客より?」
「妙な客は、リュシア君が足を止めている。ならば、こちらは手を止めすぎない方がいい」
真壁は新しいネジを一本取り、木片に合わせた。
「それに、考えるには手を動かす方がよい」
リュシア商会では、商談が静かに長引いていた。
ヴァルトは、それに気づいている。
蜂蜜の買い取り価格を詰める。燻製肉を厨房へ回す。革袋に水を入れ、油を入れ、薄い醤油を入れたらどうなるか試したいと言う。味噌だれに使えるかもしれないと言う。量産するなら口金の精度を上げたいと言う。
どれも商談としては正当だった。
正当だからこそ、帰る理由が作りにくい。
「継続して作るなら、蓋の形を揃えた方がよいですね」
リュシアは革袋を手にしながら言った。
「そうですね。手作業では、どうしてもばらつきます」
「型を作れば?」
「素材次第です」
「骨より木の方が扱いやすいかもしれません」
「木は水で膨らみます」
「では、焼き締めた陶器?」
「割れます」
「金属は?」
「高くなります」
「では、骨で試作して、用途ごとに変えるのがよさそうですね」
リュシアが言うと、ヴァルトは静かに頷いた。
「……商会の方は、判断が早いですね」
「商売ですから」
「なるほど」
ヴァルトは納得したように見せた。
だが、目は何度も醤油の小瓶へ戻る。
リュシアは気づいている。
彼は帰りたがっている。だが、醤油から目が離れない。味噌にも反応する。透明容器にも反応した。さらに、本人の荷のどこかには、きっと醤油を使いたいものがある。
リュシアは、何気ない声で言った。
「この醤油、脂のある魚にも合いますよ」
ヴァルトの口が、考えるより先に動いた。
「蜂蜜を少し足すと、照りが出ます」
言った瞬間、ヴァルトは止まった。
リュシアは笑顔のまま、何も言わない。
ヴァルトも何も言わない。
店員だけが、不思議そうに二人を見た。
リュシアは小皿を一つ取り、醤油をほんの少し垂らした。
「なるほど。蜂蜜を少し」
「一般的な、甘辛い味付けの発想です」
「一般的」
「ええ」
「どちらの一般でしょう」
ヴァルトは沈黙した。
リュシアは追わない。
追い詰めると逃げる。
真壁からの返事はまだ戻っていない。ならば、ここでは逃げ道を塞がず、座っていたい理由を増やす。
「厨房で試してみましょうか。燻製肉にも合うかもしれません」
「いえ、そこまでしていただかなくても」
「商談ですから」
リュシアは同じ言葉を返した。
ヴァルトは、ほんの少し目を細めた。
この店主は、分かってやっている。
たぶん。
いや、確実に。
だが、机の上には醤油がある。
そして、味噌もある。
ヴァルトは静かに背筋を伸ばした。
「では、少量だけ」
リュシアは、勝ったとは思わなかった。
ただ、逃げる足は少し止まった。
そこへマルテが戻ってきた。
表向きは帳面を持っているだけだった。いつもの顔で、いつもの歩き方で、客席の横へ立つ。
「店主、帳面です」
「ありがとう」
リュシアは帳面を受け取る。
マルテの視線が、ほんの一瞬だけ動いた。
伝わった。
真壁へ話が通った。
澪は不在。
引き留め継続。
リュシアは小さく頷いた。ヴァルトには見せない。
「ヴァルトさん」
「はい」
「もう少しだけ、お話を伺っても?」
ヴァルトは入口を見た。
窓を見た。
店員の位置を見た。
リュシアの手元を見た。
醤油の小瓶を見た。
味噌の皿を見た。
最後に、追加で出された小皿を見た。
逃げることはできる。
だが、逃げる理由がない。
そして、残る理由がある。
「商談は、静かな方が好きです」
リュシアは微笑んだ。
「では、静かに」
マルテは帳面を開いた。
店員は厨房へ戻った。
小皿には、醤油が一滴、黒く光っていた。
孤児院の離れでは、二段ベッドの枠が仮組みされていた。
上段の柵はまだ片側だけだが、全体の形は見え始めている。梯子をどちらにつけるかで親方たちが話し合い、床板の間隔をどうするかで木片を並べ替えている。
真壁は作業台で、小さなバネを指先で弾いた。
高い音ではない。
鈍く、短い音だった。
「さっきの客は、大丈夫なんですか」
親方の一人が聞いた。
真壁はすぐには答えなかった。
ねじを一本、木材に締め込む。最後に金具が止まる感触を確かめてから、ようやく口を開いた。
「大丈夫かどうかは、まだ分からん」
親方の顔が少し曇る。
真壁は続けた。
「ただ、逃がすと面倒になる可能性は高い」
「そんな客が、商会に?」
「商会には、いろいろ来るものだ」
真壁は二段ベッドの上段の柵を見て、固定具を渡した。
「ここは抜け止めを入れたまえ。子どもは、予想より動く」
親方は苦笑した。
「それは、よく分かります」
真壁は視線を作業台へ戻した。
彼の中で、伝言の中身がもう一度組み上がる。味噌と醤油に反応した商人が、透明容器にも反応し、自分でねじ式の革袋まで作ってきた。そこへマールヴェインの森を抜けたらしいという話が重なる。
ただの商人、と片づけるには、部品が揃いすぎていた。
真壁は、次の金具を手に取った。
部品は手の中で形になっていく。だが、頭の中では別の構造が組み上がっていた。
澪が大学から帰るまで、静かな商談は終わらせない。