押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第133話 静かな商談は終わらない

 

 リュシア商会の奥から戻ってきた店員は、手にした革袋を両手で抱えていた。

 

 革袋である。

 

 革袋なのだが、見慣れた革袋ではない。

 

 口のところに白っぽい骨の輪がはまり、その上に同じ骨で作られた蓋がついている。店員はそれを恐る恐る回し、外し、また回して閉めてから、もう一度首をかしげた。

 

「店主。これです」

 

 リュシアは受け取った。

 

 まず重さを見る。軽い。次に縫い目を見る。雑ではないが、職人の工房品というほど整ってはいない。旅先で急いで作ったような荒さがある。けれど、口金と蓋だけは妙に理屈が通っていた。

 

 指先で蓋を回すと、硬い音を立てて閉まった。逆に回せば外れる。もう一度閉めると、今度は最初より少し滑らかに入った。動きそのものに、どこか覚えがある。

 

 リュシアは店の表へ視線を向けた。

 

 客席で待っている男は、背筋を伸ばして座っている。小商人にしては姿勢がよすぎる。旅人にしては荷物の置き方が整いすぎている。外套には森の泥が残り、袖には新しい繕いがあった。汚れてはいるが、だらしなくはない。

 

 泥をかぶって逃げてきた者ではない。

 

 森を抜けてきた者の汚れ方だった。

 

「お待たせしました」

 

 リュシアは革袋を持ったまま、客席へ出た。

 

 男は立ち上がり、丁寧に頭を下げる。

 

「ヴァルトと申します」

 

「リュシア商会のリュシアです。珍しい品をお持ちいただいたそうですね」

 

「珍しいかどうかは、使う方次第かと」

 

 声は落ち着いていた。

 

 商人らしい柔らかさはある。だが、余計な愛想はない。売り込みに来たというより、必要な手順を済ませに来たような雰囲気だった。

 

 リュシアは笑顔を作る。

 

「では、見せていただいても?」

 

「もちろんです」

 

 ヴァルトは荷を開いた。

 

 机の上に、品が順に並ぶ。小瓶に入れられた蜂蜜、薄く包まれた燻製肉、骨の口金をつけた革袋が数点、乾燥薬草、香りのよい木片、小さな魔物素材らしきもの。どれも派手ではないが、品ごとの間隔がきちんと空いている。

 

 置き方が綺麗だった。

 

 値を釣り上げるための飾りではない。どこに何があるか、自分で把握している者の置き方だ。取り出す順番にも意味がある。

 

 リュシアはまず、蜂蜜の小瓶を手に取った。

 

 蓋を開けると、甘い香りがすぐに立ち上がった。花の匂いの奥に、青い森の匂いがある。わずかに土の湿り気も混じっている。濁りは少ないが、完全に澄んでいるわけではない。精製しすぎていない、採れた場所の気配を残した蜂蜜だった。

 

「いい香りですね。料理にも、薬湯にも使えそうです」

 

「森で採れたものです」

 

「どちらの森ですか?」

 

 ヴァルトは、ほんの少し間を置いた。

 

 その間は短い。会話として不自然ではない。だが、リュシアはその沈黙を聞いた。

 

「道中の森です」

 

「道中」

 

「ええ。少々、遠回りをしました」

 

 遠回り。

 

 リュシアは瓶を机に戻した。

 

 マールヴェイン森林を抜けた者が、そう言うのかもしれない。普通の旅商人なら、あの森を道中とは呼ばない。そもそも通らない。

 

 だが、ここで問い詰める理由はない。

 

「こちらの燻製肉も?」

 

「はい。保存のために処理しました」

 

「少し切っても?」

 

「どうぞ」

 

 リュシアは店員に目を向ける。店員は小刀と皿を持ってきて、燻製肉を薄く切った。切り口に脂が少し光る。乾きすぎていない。保存食としては柔らかい方だ。

 

 リュシアは小さく口に入れた。

 

 塩は強すぎない。煙もきつくない。舌に残る旨味が濃い。普通の獣肉より、肉の奥に力がある。

 

 厨房の者にも渡すと、奥から低い声がした。

 

「これ、ただの鹿じゃありませんね」

 

 リュシアはヴァルトを見る。

 

「魔物肉ですか?」

 

 ヴァルトは即答しなかった。

 

 嘘を考える間ではない。

 

 言葉を選ぶ間だった。

 

「獣と魔物の境目は、森の中では曖昧でした」

 

 リュシアは微笑んだ。

 

「商人さんの答えではありませんね」

 

「そうでしょうか」

 

「狩った方の答えです」

 

「成り行きです」

 

「森で成り行き」

 

「よくあることです」

 

「私はあまり聞きません」

 

 ヴァルトは困ったように沈黙した。

 

 リュシアは追わない。

 

 追えば逃げる。

 

 それよりも、次だ。

 

 リュシアは革袋を机の中央に置いた。

 

「こちらを試しても?」

 

「もちろんです」

 

 店員が水差しを持ってくる。

 

 革袋に水を注ぐ。リュシアは蓋をはめ、回す。骨同士がこすれる硬い音がした。精度はまだ荒い。だが、閉まる。

 

 逆さにする。

 

 店員が一歩下がった。

 

 水は落ちない。

 

 軽く振ると、縫い目の近くが少し湿った。けれど、口からは漏れない。

 

「革袋なのに、紐で縛らなくていいんですか」

 

 店員が思わず声を出した。

 

 ヴァルトはその反応に少しだけ肩の力を抜いた。

 

「紐は手がふさがるので」

 

「旅先で作ったにしては、考え方が実用的ですね」

 

 リュシアが言うと、ヴァルトは静かに答えた。

 

「旅先だからこそ、手間は減らしたいものです」

 

 正しい。

 

 正しすぎる。

 

 リュシアは革袋の口をじっと見た。骨の蓋は均一ではない。手作業の癖がある。だが、蓋を回して閉めるという発想そのものが、こちらでは出にくい。

 

 透明な容器の蓋。

 

 あれを見た者なら、思いつくかもしれない。

 

 ただし、見ただけで構造を理解できる者でなければならない。

 

 この革袋は欲しい。

 

 小分けの醤油に使える。味噌だれにも使える。油や薬草液にも使える。厨房で使う調味料入れにも、孤児院で水や薬湯を配る容器にもなる。陶器の瓶より軽く、木栓より扱いやすい。

 

 欲しい。

 

 だが、客としては危うい。

 

「面白い品です。継続して作れますか?」

 

「材料と時間があれば」

 

「量は?」

 

「今のところ、数は多くありません」

 

「型は?」

 

「まだ試作です」

 

「試作」

 

 リュシアは小さく繰り返した。

 

 この男は、商人として売りに来たというより、試作品を見せに来ている。本人がそう自覚しているかは別として。

 

 ヴァルトは、机の端に置かれた小さな陶器の瓶へ視線を向けた。

 

 リュシアは気づいた。

 

 醤油の小瓶だ。

 

「味噌と醤油にご興味があると聞きました」

 

「はい。珍しい品ですので」

 

「商材として?」

 

「もちろんです」

 

 もちろん、と言うには、少し遅かった。

 

 リュシアは微笑んだまま、座り直した。

 

「では、どういう点が気になりますか」

 

 普通の商人なら、値段を聞く。量を聞く。納期を聞く。どこで売れるかを聞く。

 

 ヴァルトは違った。

 

「味噌は、どの程度寝かせたものですか」

 

 リュシアは、内心で一つ数えた。

 

「塩は強めでしょうか」

 

 二つ。

 

「香りは、若いですか。それとも深いですか」

 

 三つ。

 

「醤油は料理用ですか。卓上用ですか」

 

 四つ。

 

「保存は、どのくらい持ちますか」

 

 五つ。

 

「樽での扱いですか。小分けですか」

 

 六つ。

 

 これは、買うだけの商人の聞き方ではない。

 

 使う者の聞き方だ。

 

 作ろうとしたことがある者の聞き方だ。

 

「製法に関わるところは、商会の機密です」

 

 リュシアは声を柔らかくしたまま、はっきり線を引いた。

 

 ヴァルトはすぐに頭を下げた。

 

「失礼しました。買う側として、保存性が気になっただけです」

 

 引きが早い。

 

 早すぎる。

 

 知らない者が遠慮したのではない。踏み込みすぎたと分かった者の引き方だ。

 

 リュシアは醤油の小瓶を取り、小皿を一枚出した。ほんの一滴だけ垂らす。黒い液が皿の白さに広がる。

 

「香りだけでも」

 

「よろしいのですか」

 

「商談ですから」

 

 ヴァルトは小皿を受け取った。

 

 顔は変わらない。

 

 だが、匂いを嗅いだ瞬間、指が止まった。

 

 本当に一瞬だけ。

 

 普通なら見逃すほど小さな停止だった。

 

 けれど、商会の店主は客の指を見る。口よりも先に、指が本音を出すことを知っている。

 

 ヴァルトは小皿を傾け、舌に乗せた。

 

 目が伏せられる。

 

「……近い」

 

「近い?」

 

 リュシアはすぐに拾った。

 

 ヴァルトは小皿を置き、静かに頭を下げた。

 

「よい品です」

 

「ありがとうございます」

 

 訂正が早い。

 

 早すぎる。

 

 続いてリュシアは豆の味噌を少量出した。小さな木匙で皿に取る。色は濃く、香りはまだ若さを残しながらも、豆と塩と発酵の丸みがある。

 

 ヴァルトはそれを見た。

 

 今度は、手を止めなかった。

 

 止めなかったが、目が変わった。

 

 懐かしむ者の目だった。

 

 初めて見る商材ではない。

 

 知っていて、遠いところから見ている顔だった。

 

「こちらも、よい香りですね」

 

「ええ。まだ量は多くありませんが」

 

「でしょうね」

 

 でしょうね。

 

 リュシアは、また一つ拾った。

 

 知っている者の納得だった。

 

 味噌を知らない商人なら、量が少ない理由を聞く。どうしてでしょうか、と尋ねる。だがヴァルトは納得した。発酵に時間がかかることを知っている。

 

 味噌と醤油を知っている。

 

 透明な容器にも反応している。

 

 さらに、透明な容器の蓋に似た仕組みを、革と骨で作ってきた。

 

 偶然ではない。

 

 リュシアは、自分一人でこの客を扱ってはいけないと判断した。

 

 危険かどうかは分からない。敵意は見えない。むしろ本人は、静かに商談を済ませて帰りたがっているように見える。

 

 問題は、知っていることだ。

 

 澪はいない。

 

 今は現代側の大学に行っている時間だ。戻ってくるにはまだ早い。真壁も六畳間にはいない。押入家具の件で、孤児院の離れへ行っているはずだった。

 

 リュシアは店員へ視線を送った。

 

「食品工房に、この燻製肉を少し回してください。味の確認を。マルテにも帳面を持ってくるように伝えて」

 

「はい」

 

 店員は頷いた。

 

 声は普通だった。

 

 動きも普通だった。

 

 商会で働く者は、表の言葉と裏の意味を少しずつ覚える。食品工房へ確認。マルテに帳面。つまり、伝言を回す。

 

 リュシアはヴァルトへ向き直る。

 

「お待たせしてしまいますが、よろしいですか。味の確認をしてから、買い取り価格を決めたいので」

 

「もちろんです」

 

 ヴァルトは頷いた。

 

 その目が、一瞬だけ店員の背を追った。

 

 気づいているかもしれない。

 

 だが、表情には出さない。

 

 リュシアも、気づかないふりをした。

 

 

 

 

 

 孤児院の離れでは、木の匂いが濃かった。

 

 板材が壁際に立てかけられ、床には削り屑が薄く積もっている。親方たちが木材を並べ、二段ベッドの枠を仮組みしていた。子どもたちが使う寝台である。普通の寝台より、考えることが多い。

 

 親方の一人が、上段になる横木を押さえながら眉を寄せた。

 

「柵は、もう少し高い方がいいですな。寝返りだけならこれで足りますが、あいつらは寝返り以外もします」

 

「梯子の位置も悩みますね。端に寄せると部屋は広く使えますが、子どもが横からよじ登りそうです」

 

「床板も詰めすぎると重くなる。空けすぎると布団が落ち着かない」

 

 職人たちの声が、木槌の音に混じる。

 

 真壁は作業台の横で、その会話を聞きながら小さな金具を削っていた。木を切る主役は親方たちだ。組むのも、削るのも、手触りを見るのも彼らの仕事である。真壁はそこへ割り込まない。

 

 彼が作っているのは、木工そのものではなく、木工を支える部品だった。

 

 親方が、真壁の前に並んだ金具の一つをつまみ上げる。細い溝の入った、釘にしては妙な形の金具だった。

 

「これは、釘とは違うんですか」

 

「違う。釘は打てば早いが、抜くと木を傷める。これは締める。緩んだら締め直せる」

 

 真壁は短い木片を引き寄せ、金具をゆっくりねじ込んで見せた。金属の溝が木に食い込み、最後にきゅっと止まる。

 

 親方が目を細める。

 

「修理がしやすい」

 

「子ども用の家具は、修理できる方がいい。丈夫に作っても、予想外の壊し方をする」

 

「それは、分かりますな」

 

 別の親方が、薄い金属板を二枚手に取った。片方は角を押さえるための板で、もう片方には小さな穴がいくつも開いている。

 

「こっちは角用ですか」

 

「そうだ。枠の角を押さえる。こちらは梯子の留め具だ。外したい時に外せるが、子どもが触っただけでは抜けないようにする」

 

「上段の柵にも使えますか」

 

「使える。だが柵は、抜け止めを別に入れた方がいい」

 

 真壁は、さらに小さな金具を一つ置いた。見た目は地味だが、引っかかりがついている。

 

「子どもは柵を柵として使わない。手すりにする。梯子にする。物を掛ける。たぶん揺らす」

 

「揺らしますな」

 

 親方たちは、揃って頷いた。

 

 説得力がありすぎた。

 

 別の親方が、小さなバネを指で押した。くに、と沈み、指を離すと戻る。

 

「これは何のためで?」

 

「揺れを殺すための小細工だ」

 

「揺れを」

 

「上の段で子どもが動くと、下にも響く。完全には無理だが、少し逃がせる」

 

 親方たちは半信半疑だった。

 

 真壁は小さな試験枠を作り、片側へバネを噛ませた。片方を揺らす。何もない方は素直に揺れが伝わる。バネを入れた方は、少し遅れて動き、揺れが丸く逃げた。

 

「おお」

 

「妙なものを考えますね」

 

「妙ではない。よくある部品だ」

 

「よくある?」

 

「私のいたところではな」

 

 親方たちは、その言い方にはもう慣れていた。

 

 真壁が時々、どこの話か分からないことを言う。だが、それで出来上がる物は役に立つ。ならば細かいことは後でいい。職人は、目の前で役に立つものに弱い。

 

「この抜け止めは、上段の柵ですか」

 

「そうだ。子どもは柵を持って登ろうとする」

 

「梯子があるのに?」

 

「梯子があるから、別の場所から登る」

 

 親方の一人が、しみじみと頷いた。

 

「やりますな」

 

「やるだろう」

 

 真壁は淡々と答え、次の金具に手を伸ばした。

 

 そこへ、離れの入口から足音がした。

 

 マルテの使いだった。若い店員が息を整え、作業場の中を見回す。木材、親方、金具、真壁。場違いなものは何もないはずなのに、妙に緊張している。

 

「真壁様。リュシア商会からです」

 

 真壁は手を止めなかった。

 

 ねじ山を指先で確認しながら言う。

 

「聞こう」

 

「リュシア商会に、ヴァルトという商人が来ました」

 

 真壁の指が、わずかに止まった。

 

 店員は続ける。

 

「味噌と醤油と透明容器に反応したそうです。ねじ式の革袋を持ち込んだそうです。マールヴェインの森から来た可能性があります」

 

 作業場の音が小さくなった。

 

 親方たちも、空気が変わったことに気づいた。

 

 真壁は金具を台に置いた。

 

「名は」

 

「ヴァルトです」

 

「姓は」

 

「聞いていません」

 

「持ち込み品は」

 

「蜂蜜、燻製肉、革袋。蓋が回るそうです」

 

「透明容器に反応したのだな」

 

「はい」

 

「味噌と醤油にも」

 

「はい」

 

 真壁は黙った。

 

 ただの商人ではない。

 

 だが、何者かはまだ分からない。日本を知る者。転生者。転移者。現代品を見た者。あるいは、魔術師崩れの観察者。そうした可能性が、真壁の頭の中で順に並び、すぐに消されず残った。

 

 澪は大学だ。

 

 今ここにはいない。

 

 すぐに本人へ確認させることはできない。

 

「少し商会の用件だ。作業は続けてくれたまえ」

 

 真壁が親方たちへ言うと、親方の一人が眉を寄せた。

 

「急ぎですか」

 

「少々、妙な客が来た」

 

「危ない客で?」

 

「危ないかどうかはまだ分からん。だが、逃がすと面倒になる可能性がある」

 

 親方たちはそれ以上聞かなかった。

 

 真壁は使いへ向き直る。

 

「マルテ君へ伝えたまえ。リュシア君に、帰さず、刺激せず、商談として引き留めるように」

 

「はい」

 

「澪君が戻るまで、相手にこちらの事情を悟らせない。こちらからすぐ押しかけるな。相手が逃げる」

 

「はい」

 

「味噌と醤油で足を止めたまえ。透明容器の話は、こちらから広げない」

 

 店員は短く復唱した。

 

 マルテに鍛えられているのだろう。余計な質問はしない。必要な言葉だけを拾い、すぐに走っていった。

 

 真壁は作業台へ戻った。

 

 親方が、恐る恐る聞く。

 

「続けていいんですか」

 

「当然だ。子どもたちの寝台も急ぎだ」

 

「妙な客より?」

 

「妙な客は、リュシア君が足を止めている。ならば、こちらは手を止めすぎない方がいい」

 

 真壁は新しいネジを一本取り、木片に合わせた。

 

「それに、考えるには手を動かす方がよい」

 

 

 

 

 

 リュシア商会では、商談が静かに長引いていた。

 

 ヴァルトは、それに気づいている。

 

 蜂蜜の買い取り価格を詰める。燻製肉を厨房へ回す。革袋に水を入れ、油を入れ、薄い醤油を入れたらどうなるか試したいと言う。味噌だれに使えるかもしれないと言う。量産するなら口金の精度を上げたいと言う。

 

 どれも商談としては正当だった。

 

 正当だからこそ、帰る理由が作りにくい。

 

「継続して作るなら、蓋の形を揃えた方がよいですね」

 

 リュシアは革袋を手にしながら言った。

 

「そうですね。手作業では、どうしてもばらつきます」

 

「型を作れば?」

 

「素材次第です」

 

「骨より木の方が扱いやすいかもしれません」

 

「木は水で膨らみます」

 

「では、焼き締めた陶器?」

 

「割れます」

 

「金属は?」

 

「高くなります」

 

「では、骨で試作して、用途ごとに変えるのがよさそうですね」

 

 リュシアが言うと、ヴァルトは静かに頷いた。

 

「……商会の方は、判断が早いですね」

 

「商売ですから」

 

「なるほど」

 

 ヴァルトは納得したように見せた。

 

 だが、目は何度も醤油の小瓶へ戻る。

 

 リュシアは気づいている。

 

 彼は帰りたがっている。だが、醤油から目が離れない。味噌にも反応する。透明容器にも反応した。さらに、本人の荷のどこかには、きっと醤油を使いたいものがある。

 

 リュシアは、何気ない声で言った。

 

「この醤油、脂のある魚にも合いますよ」

 

 ヴァルトの口が、考えるより先に動いた。

 

「蜂蜜を少し足すと、照りが出ます」

 

 言った瞬間、ヴァルトは止まった。

 

 リュシアは笑顔のまま、何も言わない。

 

 ヴァルトも何も言わない。

 

 店員だけが、不思議そうに二人を見た。

 

 リュシアは小皿を一つ取り、醤油をほんの少し垂らした。

 

「なるほど。蜂蜜を少し」

 

「一般的な、甘辛い味付けの発想です」

 

「一般的」

 

「ええ」

 

「どちらの一般でしょう」

 

 ヴァルトは沈黙した。

 

 リュシアは追わない。

 

 追い詰めると逃げる。

 

 真壁からの返事はまだ戻っていない。ならば、ここでは逃げ道を塞がず、座っていたい理由を増やす。

 

「厨房で試してみましょうか。燻製肉にも合うかもしれません」

 

「いえ、そこまでしていただかなくても」

 

「商談ですから」

 

 リュシアは同じ言葉を返した。

 

 ヴァルトは、ほんの少し目を細めた。

 

 この店主は、分かってやっている。

 

 たぶん。

 

 いや、確実に。

 

 だが、机の上には醤油がある。

 

 そして、味噌もある。

 

 ヴァルトは静かに背筋を伸ばした。

 

「では、少量だけ」

 

 リュシアは、勝ったとは思わなかった。

 

 ただ、逃げる足は少し止まった。

 

 そこへマルテが戻ってきた。

 

 表向きは帳面を持っているだけだった。いつもの顔で、いつもの歩き方で、客席の横へ立つ。

 

「店主、帳面です」

 

「ありがとう」

 

 リュシアは帳面を受け取る。

 

 マルテの視線が、ほんの一瞬だけ動いた。

 

 伝わった。

 

 真壁へ話が通った。

 

 澪は不在。

 

 引き留め継続。

 

 リュシアは小さく頷いた。ヴァルトには見せない。

 

「ヴァルトさん」

 

「はい」

 

「もう少しだけ、お話を伺っても?」

 

 ヴァルトは入口を見た。

 

 窓を見た。

 

 店員の位置を見た。

 

 リュシアの手元を見た。

 

 醤油の小瓶を見た。

 

 味噌の皿を見た。

 

 最後に、追加で出された小皿を見た。

 

 逃げることはできる。

 

 だが、逃げる理由がない。

 

 そして、残る理由がある。

 

「商談は、静かな方が好きです」

 

 リュシアは微笑んだ。

 

「では、静かに」

 

 マルテは帳面を開いた。

 

 店員は厨房へ戻った。

 

 小皿には、醤油が一滴、黒く光っていた。

 

 

 

 

 

 孤児院の離れでは、二段ベッドの枠が仮組みされていた。

 

 上段の柵はまだ片側だけだが、全体の形は見え始めている。梯子をどちらにつけるかで親方たちが話し合い、床板の間隔をどうするかで木片を並べ替えている。

 

 真壁は作業台で、小さなバネを指先で弾いた。

 

 高い音ではない。

 

 鈍く、短い音だった。

 

「さっきの客は、大丈夫なんですか」

 

 親方の一人が聞いた。

 

 真壁はすぐには答えなかった。

 

 ねじを一本、木材に締め込む。最後に金具が止まる感触を確かめてから、ようやく口を開いた。

 

「大丈夫かどうかは、まだ分からん」

 

 親方の顔が少し曇る。

 

 真壁は続けた。

 

「ただ、逃がすと面倒になる可能性は高い」

 

「そんな客が、商会に?」

 

「商会には、いろいろ来るものだ」

 

 真壁は二段ベッドの上段の柵を見て、固定具を渡した。

 

「ここは抜け止めを入れたまえ。子どもは、予想より動く」

 

 親方は苦笑した。

 

「それは、よく分かります」

 

 真壁は視線を作業台へ戻した。

 

 彼の中で、伝言の中身がもう一度組み上がる。味噌と醤油に反応した商人が、透明容器にも反応し、自分でねじ式の革袋まで作ってきた。そこへマールヴェインの森を抜けたらしいという話が重なる。

 

 ただの商人、と片づけるには、部品が揃いすぎていた。

 

 真壁は、次の金具を手に取った。

 

 部品は手の中で形になっていく。だが、頭の中では別の構造が組み上がっていた。

 

 澪が大学から帰るまで、静かな商談は終わらせない。

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