押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第134話 鑑定十と鑑定十

 

 リュシア商会の客席で、ヴァルトは静かに茶を口へ運んだ。

 

 熱すぎない。香りも悪くない。客に出す茶としては上等で、商談を長引かせるにはちょうどよい温度だった。

 

 そこまで考えて、ヴァルトは内心で苦笑した。

 

 長引かされている。

 

 それはもう、疑う余地がなかった。

 

 机の上には、彼が持ち込んだ品が並んでいる。森で採った蜂蜜、燻製肉、試作の革袋、乾燥薬草、香木の欠片。その横に、リュシア商会側が出した醤油の小瓶と、豆の味噌を少量載せた皿がある。

 

 最初は、こちらが商材を見せる側だった。

 

 だが今は違う。

 

 リュシアという若い店主は、蜂蜜の香りを確かめるふりをして、こちらの指の動きを見ていた。燻製肉の切り口を見るふりをして、こちらがどの言葉で反応するかを測っていた。革袋を試すふりをして、蓋を回す仕組みにこちらがどれほど自信を持っているかを探っていた。

 

 商人として、見る目はよい。

 

 だが、それだけではない。

 

「ヴァルトさん。この革袋ですが、油を入れた場合も、同じように使えますか?」

 

 リュシアが、骨の蓋を指先で回しながら尋ねる。

 

 笑顔は柔らかい。声も穏やかだ。だが、質問の順番が巧すぎる。

 

 水の次に油。油の次は、おそらく醤油か味噌だれ。彼女は革袋そのものだけを見ていない。用途を広げながら、どの段階でこちらが止まるかを見ている。

 

「入れることはできます。ただ、油は匂いが残ります。洗う手間も水より増えるでしょう」

 

「醤油なら?」

 

 来た。

 

 ヴァルトは、表情を変えずに小瓶へ目を向けた。

 

 黒い液体は、白い小皿の中で静かに光っている。香りはすでに確かめた。味も確かめた。似ていた。あまりにも似ていた。違いはある。塩の立ち方も、香りの奥行きも、かつて知っていたものとは完全に同じではない。だが、遠い記憶を引きずり出すには十分だった。

 

「醤油は、革へ匂いが移るでしょう。用途を決めて使うなら問題ありませんが、他の液体と兼用するには向きません」

 

「では、醤油用、油用、薬草液用で分ける方がよいですね」

 

「その方が安全です」

 

 リュシアは頷き、帳面を開いていたマルテへ視線を送った。マルテはすぐに筆を動かす。

 

 その動きも、ただの店員ではない。

 

 帳面を取る速さ。必要な言葉だけ拾う耳。店員へ指示を出す時の間。表の会話とは別に、商会の内側で情報が流れている。

 

 王都魔術院の命令系統とは違う。役職と印章で動く組織ではない。もっと実務的で、もっと早い。誰が何を見て、誰へ渡せばよいかを分かっている者たちの動きだった。

 

 ヴァルトは茶碗を置き、店内をもう一度見る。

 

 入口までの距離。窓の位置。店員の数。荷物の場所。リュシアの座る角度。マルテの立ち位置。

 

 逃げることはできる。

 

 ただし、今逃げれば、あまりにも目立つ。商談相手として来た者が、蜂蜜と燻製肉と革袋を置いたまま、不自然に席を立つことになる。しかも、こちらはまだ醤油を買っていない。

 

 そこまで考えて、ヴァルトは自分に言い聞かせた。

 

 これは商談だ。

 

 醤油のために足を止めているわけではない。味噌の香りに未練を引かれているわけでもない。透明な容器に似たものを持つ商会の正体を探るため、必要な時間を使っているだけだ。

 

 そういうことにしておく。

 

「厨房から戻りました」

 

 店員が奥から顔を出した。

 

 リュシアは振り返る。

 

「燻製肉は?」

 

「塩が強すぎず、香りもよいそうです。薄く切って焼くと、かなり使いやすいと」

 

「ありがとう。少し醤油でも試してもらって」

 

「はい」

 

 店員が戻っていく。

 

 ヴァルトは、その背を見送った。

 

 燻製肉を醤油で試す。

 

 悪いわけがない。

 

 むしろ、悪いわけがないから困る。

 

 リュシアは、机の上の醤油の小瓶を片づけない。小皿もそのままだ。見せ餌のように置いているのか、単に商談の道具として置いているのか。おそらく両方だろう。

 

 そこで、マルテが一度奥へ下がり、しばらくして帳面を持って戻ってきた。

 

 ただ戻ってきただけに見えた。

 

 だが、リュシアの目がほんの少し変わった。

 

 待っていた返事が届いた。

 

 ヴァルトはそう判断した。

 

 この商会は何かを待っていた。リュシアはそれを顔に出さなかったが、マルテの動きと視線で分かる。では、誰を待っているのか。

 

 リュシアが革袋を机へ置いた時、店の扉が開いた。

 

 入ってきた男を見て、ヴァルトは背筋の奥を冷やした。

 

 背が高い。

 

 まず、そこに目がいく。店の扉をくぐる時、少し頭の位置を意識するほどの長身だった。この世界の服を着ている。だが、町人にも商人にも職人にも見えない。騎士の硬さとも違う。魔術師の柔らかさとも違う。

 

 立ち方に、隙が少なかった。

 

 男は店内へ入ると、すぐに周囲を見た。出口。窓。リュシア。マルテ。机の上の品。そしてヴァルト。

 

 順番が速い。

 

 見たのではない。測ったのだ。

 

 リュシアは立ち上がり、いつも通りの声で言った。

 

「ヴァルトさん。こちら、押入家具の仕事で相談に入ってもらっている真壁さんです」

 

 押入家具。

 

 押入商会、とは言わなかった。

 

 ヴァルトはその違いを聞き逃さない。

 

 男は軽く頭を下げた。

 

「真壁だ」

 

「ヴァルトと申します」

 

 ヴァルトも立ち上がり、礼を返した。

 

 それだけの挨拶だった。

 

 だが、礼を交わしただけで分かることがある。真壁という男は、商人の礼を知らないわけではない。けれど商人として身につけたものではない。職人の無骨さでもない。軍人ほど硬くはないが、相手との距離を一瞬で決める者の動きだった。

 

 日本人には見えない。

 

 少なくとも、ヴァルトの記憶にある日本の男とは重ならなかった。会社員でも、研究者でも、役人でも、店主でもない。異国の軍人か、技術者か、あるいはこの世界のどこにも属していない何か。

 

 だからこそ、かえって分からない。

 

 真壁は椅子に座る前に、机の上の革袋を手に取った。

 

「見ても?」

 

「どうぞ」

 

 ヴァルトは頷いた。

 

 真壁は蓋を回した。ゆっくりではない。乱暴でもない。抵抗の具合を確かめる手つきで一度外し、口金を覗き込み、骨の削り跡を指でなぞる。次に革の縫い目を見て、口の近くを軽く押した。

 

 商人の見方ではない。

 

 使う者の見方でもない。

 

 作る者の見方だった。

 

「水は入れたのか」

 

 真壁がリュシアに聞く。

 

「はい。逆さにしても、口からは漏れませんでした。ただ、縫い目の近くが少し湿りました」

 

「縫いの処理だな。口は悪くない」

 

 真壁は蓋をもう一度回した。骨同士がこすれる音が、客席に小さく響いた。

 

「粗いが、構造は正しい」

 

 ヴァルトは、思わず真壁の手元を見た。

 

「旅先の試作です」

 

「試作でここまで行けば十分だ。問題は、ねじ山の摩耗と密閉材だな」

 

 真壁は当然のように言った。

 

 その言葉で、ヴァルトは警戒を一段上げた。

 

 分かっている。

 

 この男は、ただ褒めているのではない。蓋が回ることを珍しがっているのでもない。構造を理解し、その先の不具合まで見ている。ねじ山が削れること、密閉材が必要なこと、使い続けた時の問題を、最初の一目で拾った。

 

「蜜蝋を噛ませれば、しばらくは漏れにくい。だが、洗う時に残る。醤油や油を入れれば匂いもつく。薬草液なら衛生面が問題になる」

 

 真壁は革袋を置き、指先についたわずかな水気を布で拭った。

 

「用途ごとに分けるのが前提だな」

 

 ヴァルトは、穏やかに問いかけた。

 

「真壁さんは、家具の相談役と聞きましたが」

 

 真壁は、まったく動じなかった。

 

「家具にも、部品にも、構造はある」

 

 答えになっているようで、なっていない。

 

 だが、嘘ではない。

 

 ヴァルトは、この男は危険だと思った。

 

 その瞬間、真壁の目がヴァルトを見た。

 

 ヴァルトも、真壁を見た。

 

 ほぼ同時だった。

 

 鑑定が走る。

 

 視界の端に、情報が開く。相手の表層、状態、職能、技能が並び始める。ヴァルトにとって鑑定は、見るための道具であり、隠すための道具でもある。鑑定十に達した者同士が出会う機会など、普通はほとんどない。

 

 だから、見た瞬間に分かった。

 

 見られている。

 

【鑑定結果】

対象:真壁

種族:人族

職能:押入家具技術相談/押入商会関係者

状態:鑑定干渉中/情報防壁あり/技術指導中/リュシア商会臨時対応中/澪後見補助

技能:鑑定10/収納10/加工10/構造理解10/交渉8/危機判断9/異物解析8/部品作成8/戦闘補助7

備考:一部情報読取不能/現代由来技術知識あり/押入商会中核関係者

 

 ヴァルトは、表示の一部が歪むのを見た。

 

 鑑定十で見ているのに、抜けない。名前は見える。役割も見える。技能もいくつか見える。だが、肝心の奥がぼやける。情報そのものがないのではない。何かで押さえられている。

 

 何だ、この男は。

 

 そう思った時、真壁の視線もわずかに深くなった。

 

 おそらく、向こうも見た。

 

【鑑定結果】

名前:ヴァルト

種族:人族

現在職:商人

状態:本名秘匿中/王都魔術院退職済/追跡回避中/マールヴェイン森林踏破/危険地帯素材回収/商人登録済/リュシア商会商談中

技能:鑑定10/収納10/商才4/交渉2/加工4/保存判断6/素材選別7/解体4/試作品作成3/野営3/護身2/危険地帯仕入れ5

維持技能:境界魔術10/収納魔術9/結界魔術10/転移陣解析10/魔術式解析10/魔力操作10/封印術8/結界札作成7/追跡回避4/身分秘匿3

前職:王国国家魔術師/王都魔術院境界課

備考:対外名使用中/本名秘匿中

 

 ヴァルトは、喉の奥がわずかに乾くのを感じた。

 

 見られた。

 

 元王都魔術院。境界課。追跡回避中。マールヴェイン森林踏破。商人ではない部分。隠していたはずの骨格を、真壁はおそらく見た。

 

 だが、こちらも見た。

 

 押入商会関係者。技術相談役。現代由来の技術知識。情報防壁。鑑定十。

 

 互いに、ただの商談相手ではなくなった。

 

「……見ましたね」

 

 ヴァルトは、先に言った。

 

 真壁は平然としていた。

 

「君も見ただろう」

 

 リュシアの笑顔が、そのまま固まった。表情を変えない努力をしているのが分かる。マルテは帳面を持ったまま筆を止めた。店員は何が起きたか分かっていない。ただ、客席の空気が急に冷えたことだけは感じ取ったらしい。

 

 ヴァルトは逃げ道を考えた。

 

 入口は近い。荷物も手の届く範囲にある。だが、真壁は止められると言ったら、本当に止めるだろう。リュシアもマルテも、客として扱っている限り敵ではない。敵ではないうちに、席を立つべきか。

 

 真壁は、そんな思考を読んだように椅子を示した。

 

「座りたまえ。こちらも、今すぐどうこうするつもりはない」

 

「信じろと?」

 

「信じなくていい。商談は続いている」

 

 真壁は自分も椅子に座った。

 

 乱れがない。

 

 ヴァルトは、少しだけ遅れて座り直した。

 

「王都魔術院の方が、商人としてマールヴェインを抜けてきた。興味はある」

 

 真壁の声は低すぎない。問い詰める響きもない。だからこそ、逃げ場を奪われるような圧があった。

 

 ヴァルトは、醤油の小瓶を横目で見る。

 

「押入家具の相談役が、なぜ透明容器の構造を理解しているのか。私にも興味はあります」

 

「では、互いに今日は商談で止めよう」

 

 真壁は、あっさりそう言った。

 

 ヴァルトは、少しだけ目を細めた。

 

 捕らえられると思っていた。尋問されると思っていた。少なくとも、今見えた情報について詰められると思っていた。

 

 だが、真壁は問いを置いただけで、踏み込まない。

 

「君が逃げる気なら止める手段はある。だが、こちらはまだ敵と決めていない」

 

 ヴァルトは、小皿の中の醤油を見た。

 

 黒い液体が、灯りを受けてわずかに揺れている。

 

「敵なら、醤油は出さないでしょうね」

 

 真壁は真顔で頷いた。

 

「うむ。そこはよい判断材料だ」

 

 リュシアの頬が、ほんの少しだけ動いた。

 

 判断材料が醤油なのか、と言いたげだった。だが、彼女は店主である。言わない。マルテも筆を持ったまま、何も聞かなかった。ただ、帳面の端に何かを書き足している。

 

 ヴァルトは、少しだけ肩の力を抜いた。

 

 危険な男だ。

 

 だが、雑に追い詰める男ではない。

 

「では、革袋の買い取りと、次の試作についてお話を進めても?」

 

 リュシアが、場を商談へ戻した。

 

 声はいつも通りだった。

 

 この若い店主も相当だ、とヴァルトは思う。鑑定十同士が互いに見合った直後に、商談の帳面へ戻せる者は多くない。少なくとも王都魔術院には少なかった。

 

「構いません」

 

 ヴァルトは答えた。

 

 真壁も頷く。

 

「骨の口金は悪くない。軽いし、削れる。ただし摩耗は早いだろうな」

 

「木では駄目ですか?」

 

 リュシアが尋ねる。

 

「木は加工しやすいが、水で膨らむ。乾けば痩せる。用途による」

 

「陶器は?」

 

「清潔だが割れる。旅用には向かん」

 

「金属なら丈夫ですね」

 

「高い。量産するなら用途を絞るべきだ」

 

 真壁は革袋を手にし、蓋をもう一度回した。音を聞き、止まる位置を確かめる。

 

「醤油用にするなら、洗って別のものに使う前提は捨てた方がいい。油も同じだ。薬草液を入れるなら、内側の処理を変えた方がいいだろう」

 

 ヴァルトは、その説明を聞きながら、真壁を見直していた。

 

 この男は技術者だ。

 

 少なくとも、構造を見て、用途を考え、失敗した時のことを先に考える。商人の利益より、物として成立するかを見ている。だからこそ厄介だった。

 

 日本人には見えない。

 

 けれど、現代側の構造を知っている。

 

 そして、鑑定十で見返してくる。

 

 この男は、何を知っている。

 

 その問いを飲み込んだところで、真壁が醤油の小瓶を指で軽く叩いた。

 

 こつ、と小さな音がした。

 

「これが目的か」

 

 ヴァルトは少し黙った。

 

 嘘をつくことはできる。だが、鑑定十同士で、ここまで見合った後に雑な嘘をつけば、かえって安く見られる。

 

「目的の一つです」

 

「他には」

 

「味噌。透明容器。それから、それを作った者」

 

「正直だな」

 

「鑑定十相手に、隠しすぎても意味はありません」

 

「すべて話す必要もない」

 

「助かります」

 

 真壁はそれ以上、踏み込まなかった。

 

 ヴァルトも言葉を止めた。

 

 日本という言葉は、まだ口にしない。前の世界の話もしない。帰れない場所の名を、この場に置いてよいかどうかは、まだ分からない。

 

 リュシアは帳面を見ながら、蜂蜜と燻製肉の買い取り量を決めていった。マルテは項目を整理し、革袋試作品については次回相談と書き添える。商談は成立していく。成立してしまえば、今日すぐ逃げる理由はますます薄くなる。

 

 ヴァルトは、醤油の小瓶から目を離した。

 

 商談だ。

 

 これは、あくまで商談だ。

 

 

 

 

 

 澪は、大学帰りの鞄を肩から下ろし、六畳間の畳へ一度置いた。

 

 鞄が重い。

 

 講義の資料とゼミのノートと、帰りに買った小さな文房具が入っているだけのはずなのに、今日は妙に重い。頭の方も重かった。午前の講義で出た課題、ゼミで決める発表資料、来週までに読む論文。現代側だけでも十分に考えることがある。

 

 それなのに、異世界側では冬支度が進んでいる。

 

 孤児院の二段ベッドも見に行くと言ってしまった。自分で言った。誰に強制されたわけでもない。だから行くしかない。

 

「今日は、見るだけ。見るだけだから」

 

 澪は自分に言い聞かせ、鞄から必要なものだけを取り出した。

 

 六畳間は静かだった。

 

 当然、マルテからの伝言など届いていない。リュシア商会の帳面も、孤児院の木屑の匂いも、こちら側には来ない。六畳間は六畳間で、蛍光灯の光と机と押入れがあるだけだった。

 

 澪は押入れを開け、異世界側へ入る。

 

 空気が変わった。

 

 木と土と煙の匂いが混じった、もう一つの日常の匂い。澪は深く息を吸い、孤児院の離れへ向かった。

 

 離れでは、親方たちがまだ作業をしていた。木枠が仮組みされ、上段の柵が片側だけついている。梯子の位置を相談している者もいれば、床板の間隔を測っている者もいる。削り屑が床に散り、道具の音が小さく続いていた。

 

「あ、澪さん」

 

 親方の一人が顔を上げた。

 

「お疲れさまです。真壁さんは?」

 

「リュシア商会へ行かれましたよ」

 

「リュシア商会?」

 

 澪は、そこで足を止めた。

 

 真壁が作業場を離れてリュシア商会へ行く。理由がないわけではない。だが、今は二段ベッドの部品調整の最中だったはずだ。真壁がそれを放って行くなら、何かある。

 

「何かありました?」

 

 親方は少し考えた。

 

「詳しくは聞いてませんが、妙な客が来たとか」

 

「妙な客」

 

 澪は、大学帰りの頭でその言葉を受け止めた。

 

 妙な客。

 

 異世界で妙な客。

 

 真壁が向かった妙な客。

 

 嫌な予感しかしない。

 

「ありがとうございます。ちょっと行ってきます」

 

「はい。こっちは進めておきます」

 

 親方は普通に答えた。

 

 普通に答えられると、逆に澪は不安になる。自分が今から行く先だけ、普通ではない可能性が高いからだ。

 

「今日、もう頭使いたくないんだけどな……」

 

 澪は小さく呟き、リュシア商会へ急いだ。

 

 

 

 

 

 リュシア商会の客席では、商談がまだ続いていた。

 

 ヴァルトは茶を飲みながら、真壁と革袋の改良について話している。リュシアは帳面を開き、マルテが横で数字をまとめている。机の上には蜂蜜、燻製肉、革袋、醤油、味噌が並んでいた。

 

 表向きは穏やかだった。

 

 だが、普通の商談ではない。

 

 鑑定十同士が互いに見合った後の沈黙は、柔らかい茶の香りだけでは薄まらない。真壁はそれを気にしていないように見える。リュシアも店主として平然としている。マルテは帳面に必要なことだけを書く。

 

 この商会は、肝が据わっている。

 

 ヴァルトがそう思った時、扉が開いた。

 

「あ、澪さん。こっちです」

 

 リュシアが顔を上げた。

 

 その声は、貴人を迎えるものではなかった。親しい取引相手を呼ぶ、自然な声だった。だが、商会内の空気がほんの少し変わった。

 

 入ってきたのは、若い少女だった。

 

 息を整えながら、鞄を抱えている。

 

 その鞄を見た瞬間、ヴァルトは礼を返す準備を忘れた。

 

 黒い髪。

 

 小柄な体。

 

 この世界の町娘とも、貴族令嬢とも違う立ち方。

 

 服装の細部は、この世界に合わせているようで、どこか違う。布の扱い、肩の力、鞄を抱える仕草。何より、その疲れ方に覚えがあった。仕事帰りではない。旅帰りでもない。講義と課題を持ち帰る学生の疲れ方だった。

 

 リュシアが、余計な肩書きを足さずに紹介する。

 

「澪さん、こちらがヴァルトさんです。今日、蜂蜜と革袋を持ち込んでくださった商人さんです」

 

 澪。

 

 ミオ。

 

 音が、胸の奥へ落ちた。

 

 真壁を見た時とは違う。

 

 真壁は危険だった。現代の構造を理解し、鑑定十で見返してくる、底の知れない男だった。だが、日本人とは思わなかった。見た目も雰囲気も、記憶の中の日本人とは重ならなかった。

 

 だが、目の前の少女は違う。

 

 黒髪。小柄な体。現代の学生のような鞄。疲れた顔を隠そうとして隠しきれない表情。そして、ミオという名。

 

 ヴァルトの胸の奥で、ずっと押し込めていた言葉が浮かんだ。

 

 日本人か。

 

 口には出さない。

 

 出した瞬間、何かが戻れなくなる気がした。

 

 澪は小さく頭を下げた。

 

「澪です」

 

 その声で、ヴァルトはようやく自分が止まっていたことに気づいた。

 

「ヴァルトと申します」

 

 礼を返す。

 

 商人としては、遅い反応だった。

 

 澪もそれに気づいたらしい。彼女の目が、一瞬だけ揺れた。商人が取引相手を見る目ではない。味噌や醤油を前にした者の反応と同じものを、彼女も見たのだろう。

 

 真壁は、二人を見比べた。

 

 何も言わない。

 

 リュシアも黙っている。

 

 マルテは帳面を開いたまま、筆を止めている。

 

 静かだった。

 

 静かすぎた。

 

 真壁が、ようやく口を開いた。

 

「澪君。こちらは商人ヴァルト殿だ。元王都魔術院の方でもある」

 

 澪は、目だけで真壁を見た。

 

 大学帰りで、二段ベッドの様子を見るだけのつもりだった顔が、一瞬で別の顔になる。情報量が多すぎる、と言いたそうだった。だが、声には出さない。

 

「よろしくお願いします、ヴァルトさん」

 

「こちらこそ、澪さん」

 

 ヴァルトは丁寧に答えた。

 

 その時、自分の発音がほんの少しだけ揺れたことを、ヴァルトは自覚した。長く使っていない音が、名に引っ張られて喉の奥へ戻ってきた。

 

 澪の背筋が、わずかに伸びる。

 

 聞こえたのだ。

 

 真壁も聞いたはずだ。

 

 リュシアは、おそらく意味までは分からない。だが、何かが起きたことは分かっている。マルテは帳面の上で筆を止めたまま、何も書かない。

 

 澪が席についた。

 

 その動きには、疲れが残っていた。鞄を横に置く時、ほんの少し肩が落ちる。だが、目は机の上の品を見た。蜂蜜、燻製肉、革袋、醤油、味噌。それからヴァルトを見る。

 

 そして、小声で真壁に聞いた。

 

「……鑑定しました?」

 

 真壁は淡々と答える。

 

「お互いにな」

 

「お互いに?」

 

「鑑定十同士だ。隠し事には向かん」

 

 澪は固まった。

 

 ヴァルトは茶を飲み、聞こえていないふりをした。

 

 聞こえている。

 

 当然、聞こえている。

 

 真壁は、澪の逃げ場を塞ぐように静かに言った。

 

「さて、澪君。ここからが本当の商談だ」

 

 澪は大学帰りの鞄を横に置いたまま、ひどく逃げ場のない顔をした。

 

「今日、もう頭使いたくなかったんですけど……」

 

 リュシアが、そこで少しだけ笑った。

 

 緊張が、ほんのわずかにほどける。

 

 だが、机の上の醤油の小瓶は黒く光ったままだった。

 

 ヴァルトはその小瓶から目を離し、もう一度、澪を見た。

 

 ミオ。

 

 黒髪の少女。

 

 帰れないほど遠い場所の気配が、そこに立っていた。

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