押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第135話 食事くらいは楽しみたい

 

 ヴァルトは、茶碗を指先で支えたまま、目の前の少女を見ていた。

 

 さきほどまで、彼の警戒は真壁へ向いていた。

 

 あの男は危険だった。背が高く、この世界の服を着ていても町人にも商人にも職人にも見えない。立ち方は静かで、視線はものを測る者のそれだった。しかも、革袋の蓋を一目で理解し、鑑定十でこちらを見返してきた。

 

 ただ、真壁を見ても、ヴァルトは故郷を思い出さなかった。

 

 あの男は、日本人には見えない。

 

 少なくとも、ヴァルトの記憶にある日本の男とは重ならなかった。会社員でも、大学の研究者でも、役所の人間でも、駅前で肩をすぼめて歩いていた男たちでもない。もっと別の、どこにも分類できないものだった。

 

 だが、澪は違った。

 

 彼女は、大学帰りの鞄を横に置いて座っていた。まだ息が少し整いきっていない。店に入ってきたばかりの疲れが肩に残っている。黒い髪は派手に飾られていないのに、こちらの町娘とは違う柔らかさがあり、腰を下ろす時の膝の揃え方も、鞄を脇へ寄せる仕草も、ヴァルトの記憶の奥にあるものを乱暴に叩いた。

 

 けれど、それは彼が知っている九〇年代の女子大生ではなかった。

 

 ヴァルトの記憶にある女子大生は、もっと時代の熱をまとっていた。雑誌の表紙、駅前の歩道、成人式の貸衣装の広告。色はもっと強く、髪も服も靴も、流行に押し出されるように外へ向かっていた。

 

 目の前の澪は違う。

 

 古いのではない。

 

 新しい。

 

 彼が死んだ時代より先にある日本の匂いがした。

 

 そして名は、澪。

 

 ミオ。

 

 ヴァルトは、喉まで上がった言葉を飲み込んだ。

 

 日本人か。

 

 口に出した瞬間、何かが戻れなくなる気がした。言葉は便利だ。だが便利な言葉ほど、口にした途端に扉を開けてしまう。開けた先を閉じる方法を、ヴァルトはまだ知らない。

 

 だから、商人として聞けることから始めた。

 

「澪さん。女性に年齢をうかがうのは失礼と思いますが……」

 

 自分でも、いささか遠回りな聞き方だと思った。

 

 澪は瞬きをした。年齢を聞かれることよりも、その聞き方に戸惑ったらしい。現代の学生らしい表情が、ほんの一瞬出る。異世界の商談の席にいながら、大学の教室で急に予想外の質問を振られた学生のような顔だった。

 

「え? あ、二十歳です」

 

 ヴァルトは、茶碗の縁に添えていた指を動かさなかった。

 

「二十歳……」

 

 その数字は、音ではなく扉だった。

 

 開けるつもりのない扉が、胸の奥で勝手に開いた。

 

 妹が、成人式の直前だった。

 

 晴れ着をどうするかで、母と何度も話していた。最初は淡い色がいいと言い、次には赤もいいと言い、それを横で聞いていた父が余計なことを言って、妹が本気で怒った。けれど、怒りながらも笑っていた。母も笑っていた。父は怒られながらも、どこか嬉しそうだった。

 

 あの時、家の中には当たり前の声があった。

 

 朝の味噌汁の匂い、炊飯器の湯気、新聞をめくる音、妹が髪を整える時のドライヤーの音。何も特別ではなかった。特別ではなかったから、失うとは思わなかった。

 

 ヴァルトは、その成人式を見ていない。

 

 見る前に、死んだ。

 

 目の前の澪は妹ではない。顔も違う。声も違う。笑い方も、たぶん違う。

 

 それでも、二十歳の女子大生というだけで、見られなかった未来が椅子に座っているように見えた。

 

 目の奥が熱くなる。

 

 ヴァルトは、茶碗を置く動作に意識を集中した。音を立てない。指を震わせない。商人として、元王都魔術院の魔術師として、ここで崩れるわけにはいかない。

 

 リュシアが、彼を見ていた。

 

 若い店主の目は、先ほどより柔らかい。だが、その柔らかさの奥で、沈黙の深さを測っている。真壁は何も言わない。言わないが、気づいている。あの男は、気づいてもすぐに刃を入れない。

 

 澪も、理由までは分かっていないだろう。けれど、自分の年齢が何かに触れたことだけは感じたようだった。

 

 ヴァルトは、息を整えた。

 

 もう一つ、確認しなければならない。

 

「その若さで商会に関わっておられるとは、素晴らしいですね。学校はどちらに?」

 

 澪は少しだけ困った顔をした。

 

 商会に関わっていると言われると、まだ体に合わないのだろう。肩のあたりに、照れと困惑が同時に出る。けれど、学校の話なら答えやすいらしい。彼女は自分の鞄を一度見てから、素直に答えた。

 

「武指大学で、経済学を学んでいるところです」

 

 ヴァルトは、今度こそ表情を動かさなかった。

 

 武指大学。

 

 経済学。

 

 二十歳。

 

 大学生。

 

 そして、学んでいるところ。

 

 過去形ではない。

 

 学んでいた、ではない。通っていた、でもない。今も、学んでいる。

 

 この少女は、こちらの世界に落ちて、帰れなくなった者ではない。少なくとも、その可能性は低い。彼女は向こうの大学に現在進行形で通っている。こちらの世界と向こうの世界を、何らかの形で行き来している。

 

 東京から来ている。

 

 いや、来たのではない。

 

 行き来している。

 

 その理解が胸に落ちた瞬間、ヴァルトは醤油の香りよりも強いものに殴られた。

 

 父はどうしているだろう。

 

 母は。

 

 妹は。

 

 元気だろうか。生きているだろうか。あの成人式はどうなったのだろう。妹は晴れ着を着ただろうか。写真は残っているだろうか。父は相変わらず余計なことを言って、母にたしなめられただろうか。

 

 だが、会いに行けるわけがない。

 

 自分は死んだ身だ。

 

 今さら顔を出して、何を言う。誰の前で、どの顔をして、どの名前を名乗る。ヴァルトと名乗るのか。前の名を名乗るのか。そもそも、名乗ったところで、それは誰なのか。

 

 ただいま、と言うのか。

 

 死んだはずの息子が。

 

 死んだはずの兄が。

 

 ヴァルトは、茶碗を持つ指に力が入りすぎていることに気づき、意識して緩めた。陶器はこの世界の品だ。落とせば割れる。割れた茶碗に逃げ込めるほど、今の沈黙は安くない。

 

 真壁の視線が一度だけ動いた。

 

 拾われた。

 

 そう思った。

 

 リュシアも、ヴァルトの問いが雑談ではないことに気づいている。澪だけが、まだ自分の言葉の重さを正確には分かっていない。だが、それでいい。その方が、救いがある。

 

 ヴァルトは、自分の中で開きかけた扉を、無理やり別の話題で押さえた。

 

「私は、王都魔術院を辞めました」

 

 澪が少し背筋を伸ばした。

 

 リュシアは黙って聞く姿勢を取る。真壁は湯飲みへ視線を落としただけだった。すでに鑑定で知っている男の反応だった。

 

「今は、商人として静かに生きたいのです。大した趣味もありません。せめて、食事くらいは楽しみたい」

 

 ヴァルトは、机の上の醤油の小瓶と味噌の皿を見た。

 

 黒い醤油は、こちらの光の下でも、記憶の中と似た沈み方をする。味噌の香りはまだ若い。だが、確かにそこにある。

 

「味噌と醤油があれば、食卓は豊かになる。だから探していました」

 

 言い終えて、ヴァルトは自分の言葉の形を確かめた。

 

 嘘だ。

 

 少なくとも、全部ではない。

 

 食事を楽しみたいのは本当だ。味噌と醤油に惹かれているのも本当だ。魔術院を離れ、静かに生きたいという気持ちも本当の中にある。

 

 だが、探していた理由は、それだけではない。

 

 味噌と醤油の向こうに、故郷の手がかりを見たからだ。透明な容器の向こうに、死んだはずの時間の続きが見えたからだ。

 

 リュシアは、その嘘を見抜いただろう。

 

 商人として聞けば、整いすぎている。味噌と醤油を求め、透明容器に反応し、ねじ式の革袋を作り、マールヴェインを抜けてきた男の理由としては、あまりにも綺麗だ。けれど彼女は、それを潰さない。商談の理由として成立している限り、潰す必要はないと判断したのだろう。

 

 真壁も、嘘だと分かっている。

 

 ただ、あの男の目は、嘘の中に混じった本音だけを拾っていた。食事くらいは楽しみたい。その部分だけは、たぶん見逃してくれた。

 

 澪だけが、まっすぐ受け取った。

 

「食卓を豊かに……」

 

 彼女は小さく繰り返した。

 

 その声に、ヴァルトはわずかに罪悪感を覚えた。

 

 澪の目は、疑う目ではない。商談の利を見る目でもない。自分たちの作ったものが、誰かの毎日の食事に届いたのだと、素直に喜ぶ目だった。孤児院のため、領地のため、商会のために始めたことが、目の前の一人の食卓を変える。そう受け取っている。

 

 違う、と言うことはできた。

 

 だが、完全に違うわけではない。

 

 だからヴァルトは、代わりに実物を出すことにした。

 

「実は、試してみたいものがあります」

 

 収納から取り出した包みを開くと、リュシアの目が少し変わった。マルテは閉じかけていた帳面をもう一度開く。真壁は、包みの中身を見てすぐに言った。

 

「蒲焼きか」

 

 澪の顔が一気に明るくなる。

 

「蒲焼き……!」

 

 ヴァルトは、思わずその反応を見た。

 

 さきほどまで警戒と緊張の中にいた少女が、食べ物の名前一つで目を輝かせている。日本人か、という疑問がまた胸の奥で起き上がる。だが今は、それよりも目の前のオオウナギだ。

 

「似たものです」

 

 ヴァルトはそう答え、下処理を済ませたオオウナギを広げた。

 

 森を抜ける途中で仕留め、血抜きし、臭みを取り、収納で状態を保っていたものだ。完璧ではない。鰻ではない。味醂もない。山椒もない。米もない。

 

 それでも、醤油がある。

 

 蜂蜜がある。

 

 火がある。

 

 ならば、近づけることはできる。

 

 

 

 

 

 澪は、ヴァルトの手つきが変わったことに気づいた。

 

 さっきまでの彼は、静かな商人だった。言葉を選び、目を伏せ、必要なことだけを机に置く人だった。だが、オオウナギを前にした瞬間、少しだけ違う人になる。商材を見る手ではない。懐かしい料理を、どうにかこちらの材料で再現しようとする手だった。

 

 リュシア商会の裏手に炭火が用意される。

 

 真壁が炭の位置を調整し、火の強さを見た。ヴァルトは醤油を小皿に取り、蜂蜜を少しずつ混ぜる。そこへ真壁が出した酒をほんの少し加え、香りを見てから、また醤油を足した。

 

 味醂がないのだと、澪はすぐに分かった。

 

 蜂蜜で照りを出そうとしている。

 

 ヴァルトは、調味料の器を持つ時も慎重だった。少量ずつ混ぜ、匂いを確かめ、色を見て、指先で粘りを読む。派手な調理ではない。けれど一つ一つが、覚えている味へ近づけようとする動きだった。

 

 オオウナギが炭火に乗る。

 

 最初に脂が落ちた時、じゅ、と音がした。

 

 澪はその音だけで、もう負けかけた。

 

 そこへ、ヴァルトがタレを塗る。

 

 醤油と蜂蜜の混ざったタレが、熱で一瞬だけ光り、端から小さく泡を吹く。次の瞬間、余ったタレが炭へ落ちた。

 

 匂いが変わった。

 

 醤油が焦げる匂い。

 

 蜂蜜の甘さ。

 

 オオウナギの脂。

 

 炭火の香ばしさ。

 

 それらが一つになって、商会裏の空気を完全に支配した。

 

 澪は、最初の一息で負けた。

 

「……これ、白いご飯が欲しいです」

 

 言ってから、今が商談中であることを思い出した。相手は元王都魔術院で、鑑定十で、現代側の気配に反応していて、たぶんものすごく重い事情を抱えている。だが、それでも白いご飯は欲しい。

 

 真壁は当然のように頷いた。

 

「うむ」

 

 その一言に、ヴァルトの手がわずかに止まった。

 

 澪はそれを見逃さなかった。

 

 白いご飯。

 

 それはただの主食の話ではないのだろう。ヴァルトにとって、醤油や味噌と同じ場所につながっている。帰れない場所の、食卓の真ん中にあるもの。

 

 マルテは帳面を持ったまま、裏口の近くで固まっていた。店員が顔を出し、厨房担当が仕事の手を止める。リュシアは商会主の顔で耐えていたが、二度目にタレが炭へ落ちた時、目だけが完全に負けた。

 

 真壁が、リュシアにだけ聞こえる声で言う。

 

「リュシア君。これはもう隠せん」

 

「ですよね」

 

 リュシアは即答した。

 

「試食会ということにしたまえ。人数は絞れ。だが、匂いを嗅がせて食わせないのは暴動の種だ」

 

「了解」

 

 リュシアはすぐに顔を上げた。さっきまで匂いに負けていた目が、商会主の目に戻る。

 

「マルテ、皿を小さめに。厨房から二人だけ呼んで。表の店員には、仕事を止めないように言って。味見は交代で少しずつ。これは新しい調味料と商材の試験ってことにする」

 

「はい」

 

 マルテが動き出す。

 

 匂いには負けているのに、仕事は速い。澪はその切り替えに少し感心した。リュシアは頼れる姉さんで、同時に商会主だった。食欲に負けても采配は負けない。

 

 焼き上がったオオウナギが、細く切り分けられる。

 

 最初の一切れを受け取った澪は、ほんの少しだけためらった。いい匂いすぎるものは、食べる前に少し怖い。期待しすぎているかもしれない。味醂もない。米もない。山椒もない。これは鰻ではなく、異世界のオオウナギだ。

 

 けれど、口へ入れた瞬間、その考えは炭火の煙と一緒にどこかへ消えた。

 

 醤油の香ばしさが先に来た。

 

 すぐに蜂蜜の照りと甘さが追いつき、脂の重さを包む。炭火の焦げ目が端で少し苦く、その苦さが甘辛さを締める。完璧な蒲焼きではない。だが、ちゃんと近い。かなり近い。白いご飯がないことが、罪に思えるほど近い。

 

「……おいしい」

 

 澪は、思わずそう言った。

 

 味噌と醤油を作ってよかった。

 

 心から思った。

 

 孤児院や領地のためだけではない。商会のためだけでもない。自分たちが作ったものが、誰かの記憶を戻し、誰かの食卓を豊かにする。ヴァルトが言った言葉が本当か建前か、澪にはまだ分からない。けれど、この味だけは本当だった。

 

 リュシアも一口食べて、しばらく黙った。

 

「これは……人を呼ぶね」

 

 商会主の声だった。

 

 ただ美味しいというだけではない。匂いが人を引き寄せる。だが、屋台で気軽に出すには強すぎる。場所を選ぶ。煙を逃がせる場所がいる。近くに腹を空かせた人間を置きすぎると危険だ。

 

 その判断まで、一口の間にしている顔だった。

 

 マルテは無言で二口目の位置を目で探していた。

 

 帳面には「オオウナギ、醤油、蜂蜜、炭火、匂い強い」と書かれている。だが本人も「匂い強い」では足りないと思ったのだろう。筆が止まっている。

 

 真壁は一口食べて、淡々と言った。

 

「米が欲しい」

 

 少し間を置いて、さらに小さく付け加える。

 

「山椒があればなおよい」

 

 ヴァルトが反応した。

 

 ほんの一瞬だ。

 

 だが澪には分かった。ヴァルトの中に、自分たちと同じ食卓の記憶がある。白いご飯と、蒲焼きと、山椒と、醤油の焦げる匂い。その一つ一つが、彼の中で何かを開けている。

 

 その時、真壁が収納から小さな瓶を出した。

 

 澪は嫌な予感がした。

 

 リュシアも同じ顔をした。

 

 真壁は、澪とリュシアにだけ聞こえる声で言った。

 

「澪君、リュシア君」

 

「はい?」

 

「何?」

 

「酒を勧め給え」

 

 澪は瞬きをした。

 

「え、お酒を、ですか?」

 

「うむ。商談相手をもてなすのも、商会の仕事だ」

 

 リュシアが真壁を見る。

 

「真壁さん、酔わせる気ですね?」

 

「場を和ませるだけだ」

 

「同じ意味に聞こえます」

 

「似ているが、違う」

 

 澪は小さな杯を見た。

 

 ヴァルトはずっと緊張していた。澪を見た時、泣きそうだった。白いご飯という言葉にも反応した。いまも、蒲焼きを焼いた本人なのに、どこか遠い場所を見ている。

 

 少し場を和ませるのは、悪くないのかもしれない。

 

 澪は杯をヴァルトの前へ置いた。

 

「よかったら、少しだけ」

 

 リュシアも商会主らしい笑顔を作る。

 

「今日の商談成立祝いです。ヴァルトさん、いかがですか」

 

 ヴァルトは断ろうとした。

 

 澪にも分かった。断ろうとしたのだ。礼を言って、遠慮して、商人としての線を保つつもりだった。

 

 だが、目の前には蒲焼きがある。

 

 醤油と蜂蜜のタレが照り、焼けた脂が端で光っている。その横に、真壁が出した芋焼酎の杯が置かれた。

 

 香りが合っていた。

 

 あまりにも合っていた。

 

「……少しだけ、いただきます」

 

 真壁は静かに頷いた。

 

「うむ。少しだけだ」

 

 その後、少しだけ、という言葉は商会裏で行方不明になった。

 

 最初の杯を飲む時、ヴァルトの背筋はまだ伸びていた。杯を持つ指も慎重で、口元も崩れない。元王都魔術院の人間としての矜持なのか、商人としての癖なのか、澪には分からない。

 

 けれど、蒲焼きを一口食べ、焼酎を少し含むたびに、彼の目元の緊張がほどけていった。

 

 言葉は丁寧なままだった。

 

 ただ、間が長くなる。

 

 醤油の小瓶を見る目が、少し危なくなる。

 

 澪がお酌をすると、ヴァルトは律儀に礼を言う。リュシアがお酌をしても、同じように礼を言う。真壁が横で瓶を傾けると、なぜか自然に杯が満ちている。誰も無理に飲ませてはいないはずなのに、杯は空になり、また満ちる。

 

 やがて、ヴァルトがぽつりと言った。

 

「食事くらいは……楽しんでも、いいでしょう」

 

 場が少し静かになった。

 

 ヴァルトは、笑っていなかった。

 

 酔っているのに、笑っていなかった。むしろ、何かをこらえている顔だった。声は丁寧で、崩れてはいない。けれど、その奥にあるものが、少しだけ滲んでいた。

 

「死んだ者でも、腹は減るんです」

 

 澪は、その意味を完全には理解できなかった。

 

 でも、冗談ではないことは分かった。

 

 死んだ者。

 

 その言葉が、ただの比喩ではないように聞こえた。ヴァルトの中には、帰れない場所がある。会えない人がいる。味噌と醤油と白いご飯と蒲焼きが、その場所の扉を開けてしまった。

 

 真壁は聞こえているはずなのに、何も聞かなかった。

 

 リュシアも踏み込まない。

 

 マルテは帳面に書くべきか迷うように筆を持っていたが、結局、書かなかった。

 

 澪は、ヴァルトが本当に食事を楽しみたかったのだと思った。

 

 それは建前だったかもしれない。

 

 けれど、本音でもあった。

 

 焼酎は、さらに回った。

 

 ヴァルトの姿勢は、本人の努力に反して少しずつ崩れていく。背筋を保とうとしているのに、肩が落ちる。丁寧な口調は残っているのに、言っていることが少しずつおかしくなる。

 

 そして最後に、ヴァルトは醤油の小瓶を抱えた。

 

「これは……危険な商材です」

 

 澪は困った。

 

「危険、ですか?」

 

 ヴァルトは真剣に頷いた。酔っているのに、そこだけ真剣だった。

 

「人を、帰れなくする……」

 

 リュシアは笑いをこらえた。

 

 マルテが帳面に「醤油、危険」と書きかける。リュシアが素早く目で止めた。マルテは少し残念そうに筆を止める。

 

 真壁は淡々と言った。

 

「うむ。酒量の管理も商談の一部だな」

 

 澪は真壁を見た。

 

「真壁さんが飲ませましたよね?」

 

「勧めたのは君たちだ」

 

「言い出したのは真壁さんです」

 

「場は和んだ」

 

「沈みましたよね?」

 

 リュシアが、ついに小さく笑った。

 

 ヴァルトは机に突っ伏した。

 

 片手だけは、醤油の小瓶を抱えたまま離さない。

 

 しばらくして、彼の呼吸が完全に寝息へ変わった。

 

 リュシアはそれを確認すると、肩から力を抜いた。さっきまでの外向きの商会主の顔が、ふっとほどける。声も、いつもの調子に戻った。

 

「……澪」

 

「はい」

 

「この人、相当重いよ」

 

 澪は、酔い潰れたヴァルトと醤油の小瓶を見比べた。

 

「ですよね……」

 

 リュシアは今度は真壁を見る。

 

「真壁。あんた、飲ませすぎ」

 

 真壁は平然と杯を片づけた。

 

「勧めたのは澪君とリュシア君だ」

 

「言い出したのはあんたでしょう」

 

「場は和んだ」

 

「沈んだのよ」

 

 リュシアはため息をつき、それでもヴァルトの肩に薄い布をかけた。

 

「まったく。静かに生きたいって顔じゃないね、この人」

 

 澪は少し笑いかけて、すぐに笑えなくなった。

 

 ヴァルトの寝顔は、酔い潰れた商人のものだった。元王都魔術院で、鑑定十で、マールヴェインを抜けてきた人。その人が蒲焼きを焼き、芋焼酎に負け、醤油の小瓶を抱えて眠っている。

 

 おかしい。

 

 おかしいはずなのに、胸の奥が少し痛い。

 

 味噌と醤油は、人の食卓を豊かにする。

 

 けれど同時に、帰れない場所の扉も開けてしまう。

 

 澪は、ヴァルトの寝顔を見ながら、笑っていいのか、泣いていいのか、少しだけ分からなくなった。

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