押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

136 / 140
第136話 今なら見える

 

 リュシア商会の裏手には、まだ蒲焼きの匂いが残っていた。

 

 炭は落とされ、赤かった火は灰の下で鈍く眠っている。皿は少しずつ片づけられ、空になった杯は端へ寄せられていた。けれど、醤油の焦げた香りと、蜂蜜の甘さと、焼酎の匂いだけは、夜気に薄められながらも、しぶとくそこに居座っている。

 

 その真ん中で、ヴァルトは机に突っ伏していた。

 

 背筋を伸ばしていた商人の姿はどこにもない。肩は落ち、髪は少し乱れ、片腕だけがやけにしっかりと机の上へ伸びている。その手の中には、醤油の小瓶があった。眠っているのに、そこだけは離さない。指先が瓶の胴を包み、まるで最後の砦でも守っているようだった。

 

 澪は、それを見ていた。

 

 さっきまで、あの人は蒲焼きを焼いていた。火の加減を見て、タレの粘りを確かめて、真壁の「米が欲しい」に反応していた。丁寧に礼を言い、杯を受け、少しずつほどけて、最後には「死んだ者でも、腹は減るんです」と言った。

 

 いまは、醤油を抱えて眠っている。

 

 おかしい。

 

 おかしいのに、澪は笑いきれなかった。

 

 リュシアは、ヴァルトの寝息が完全に安定していることを確認すると、腕を組んだ。外向きの商会主の顔はもう解けている。さっきまでの「ヴァルトさん」と呼ぶ声ではなく、いつもの、少し面倒見のいい姉さんの声に戻っていた。

 

「このまま宿に戻す?」

 

 真壁は、ヴァルトの背と、机の上の醤油の小瓶を見比べてから、首を横に振った。

 

「この状態の元王都魔術院を、町の宿へ戻すのは避けた方がいい」

 

「まあ、そうだよね」

 

 リュシアはすぐに納得した。酔い潰れた商人を宿に戻すだけなら、店員を二人つければ済む。だが相手はただの商人ではない。鑑定十で真壁を見返し、マールヴェインの森を抜け、王都魔術院にいた男だ。寝ぼけて魔術を使われても困るし、誰かに余計なところを見られても困る。

 

 何より、ヴァルト本人にとって危ない。

 

 真壁は決めた声で言った。

 

「孤児院の離れへ運ぶ。あそこなら今夜は作業場を閉めている。目も少ない」

 

「分かった。マルテ、裏を開けて。表には、商談相手が飲み過ぎたから押入家具の作業場で休ませるって言っておいて。余計なことは言わなくていい」

 

「はい」

 

 マルテは帳面を抱えたまま、すぐに動いた。だが一歩進んでから、ちらりとヴァルトの手元を見た。帳面の端が、少しだけ揺れる。たぶん「醤油を抱えて眠る商人」と書きたいのだろう。リュシアが目で止めた。マルテは残念そうに頷き、何も書かずに裏口へ向かった。

 

 澪は、ヴァルトの手から醤油の小瓶をそっと外そうとした。

 

 指を一本ずつ緩めようとする。すると、眠っているはずのヴァルトの眉間に、くっと皺が寄った。手に力が戻る。瓶が逃げないよう、抱え直すように握り込む。

 

「真壁さん、これ、どうしましょう」

 

 真壁は真剣に瓶を見た。

 

「商材保護意識が高い」

 

「そういう問題じゃないよ」

 

 リュシアが即座に言った。

 

 澪も頷きたかったが、ヴァルトの寝顔を見ると頷ききれなかった。醤油を奪うのは、なんだかひどいことのような気がしたのだ。結局、小瓶は手元に持たせたまま運ぶことになった。真壁がヴァルトの体を支え、澪が横から瓶と腕の位置を確かめる。醤油を守るための運搬になっている気がしたが、誰もそれを強く否定できなかった。

 

 裏口が開くと、冷えた夜気が入ってきた。

 

 

 

 

 

 夜の侯爵領は、昼間とまるで違っていた。

 

 昼には人の声と荷車の音と、商人たちの呼び込みが重なっていた道も、今は石畳を踏む音がよく響く。遠くの灯りは小さく、店の戸は閉まり、空気には冬の手前の冷たさが混じっていた。さっきまでの商会裏の熱が、一歩ごとに剥がれていく。

 

 真壁は、ヴァルトをほとんど苦もなく支えて歩いていた。片腕を肩に回させ、体重を受けているのに、足取りは変わらない。澪はその横を歩き、時々ヴァルトの顔を見上げた。

 

 ヴァルトの口が、少し動いた。

 

「……母さん」

 

 澪は足を止めかけた。

 

 真壁は歩みを緩めただけで、止まらなかった。

 

「……晴れ着……」

 

 今度は、澪の胸の奥が痛くなった。宴会の明るさが、急に遠くなる。ヴァルトは酔って、眠って、何も分かっていない顔をしている。それなのに、出てくる言葉は、ずっと昔に置いてきた家の中からこぼれたもののようだった。

 

「……ご飯……」

 

 澪は、醤油の小瓶を見た。

 

 あの黒い液体は、ただの調味料ではないのだろう。味噌も、白いご飯も、蒲焼きも、ヴァルトの中ではどこかの家につながっている。帰れない場所の、食卓の真ん中につながっている。

 

「真壁さん。やっぱり、ただの商人さんじゃないですよね」

 

 澪が小さく言うと、真壁は前を向いたまま答えた。

 

「ただの商人なら、鑑定十で見返してこない」

 

「ですよね」

 

「それに、あの言葉だ。死んだ者でも腹は減る、か」

 

 澪は、真壁に支えられて眠るヴァルトを見た。

 

「冗談じゃ、なさそうでした」

 

「冗談で言うには、声が重すぎた」

 

 それきり、しばらく二人は黙って歩いた。

 

 孤児院の離れが見えてくる。昼間なら、親方たちの声や、木材を運ぶ音がする場所だ。今は灯りが小さく落とされ、静かだった。あの場所なら、酔い潰れた元王都魔術院を寝かせても、少なくとも町の宿よりは目が届く。

 

 

 

 

 

 孤児院の離れには、木材の匂いが残っていた。

 

 昼間に切った板、削った木屑、金具、油、少しだけ鉄の匂い。作業台の上には片づけられた部品が整然と置かれ、壁際には二段ベッドの柵に使う木材が立てかけられている。昼の仕事の気配だけが残り、人の声はない。

 

 真壁は作業台の横に簡易寝台を整えた。澪は毛布を取り、埃を払ってから広げる。ヴァルトを横にすると、彼は一度だけ眉を寄せたが、すぐに深い寝息へ戻った。

 

 真壁は、ヴァルトの外套の留め具を緩め、腰回りの魔術具を目で確認した。荷物を漁るような手つきではない。危険なものが暴発しないか、寝返りで壊れないかを見るだけだ。澪はその線引きを見て、少し安心した。

 

 醤油の小瓶だけは、枕元に置くことになった。

 

 手から外すと、ヴァルトの眉間に皺が寄る。瓶を枕元へ置くと、表情が少し緩む。眠っているのに、そこだけ反応が分かりやすい。

 

「そばに置いておきましょう」

 

「うむ。起きて醤油がない方が危険かもしれん」

 

 澪は笑いそうになったが、笑えなかった。

 

 ヴァルトは静かに眠っている。寝息は深い。焼酎がかなり効いているのだろう。起きていた時に張り詰めていた魔力の揺れも、今はずいぶん穏やかに見えた。

 

 真壁が、眠るヴァルトをじっと見た。

 

「どうしました?」

 

 澪が聞くと、真壁は低く言った。

 

「澪君、今なら見える」

 

「今なら?」

 

「起きている時は、身分秘匿と鑑定への抵抗が働いていた。今は酔いと睡眠で緩んでいる」

 

 澪は、すぐには頷けなかった。

 

 眠っている人を鑑定する。言葉だけなら、あまり気持ちのいいものではない。本人が隠しているものを、本人が眠っている間に見ることになる。

 

 だが相手は、元王都魔術院で、味噌と醤油と透明容器に反応し、鑑定十で真壁を見返してきた人物だ。しかも今は、自分たちの管理する作業場に眠っている。安全確認は、必要だった。

 

 真壁は、澪の迷いを見て言った。

 

「趣味で覗くわけではない。こちらの安全確認だ」

 

 澪は小さく頷いた。

 

 真壁の視線が、静かにヴァルトへ向く。

 

 鑑定がかかった。

 

名前:オスヴァルト・クライン

対外名:ヴァルト

種族:人族

魂質:転生者

現在職:商人

前職:王国国家魔術師/王都魔術院境界課

状態:睡眠中/酩酊中/身分秘匿緩和/前世記憶浮上/日本由来記憶保持/家族記憶反応/醤油執着中

技能:鑑定10/収納10/商才4/交渉2/加工4/保存判断6/素材選別7/解体4/試作品作成3/野営3/護身2/危険地帯仕入れ5

維持技能:境界魔術10/収納魔術9/結界魔術10/転移陣解析10/魔術式解析10/魔力操作10/封印術8/結界札作成7/追跡回避4/身分秘匿3

前世情報:日本出身/東京都内記憶あり/死亡後転生/家族記憶強反応

備考:現代日本由来の調味料・容器・食文化に強い反応あり/連れてこられた魂の痕跡あり

 

 澪は息を呑んだ。

 

「転生者……」

 

 声に出した瞬間、その言葉が離れの空気を変えた気がした。

 

 さっきまで酔って蒲焼きを食べていた商人が、急に遠い存在に見える。けれど同時に、ただ遠いだけではなかった。家族記憶反応。醤油執着中。その二つが、妙に人間らしくて、澪の胸を締めつけた。

 

 転生者。

 

 日本出身。

 

 家族記憶強反応。

 

 醤油執着中。

 

「醤油執着中って……」

 

 澪が呟くと、真壁は真顔のまま言った。

 

「深刻だ」

 

 笑いそうになる。けれど、笑えなかった。

 

 澪は枕元の醤油の小瓶を見た。ヴァルトの指は、眠っていても瓶の方へ少し伸びている。本人は何も知らずに眠っているのに、鑑定欄だけが、抱えているものを遠慮なく並べてしまった。

 

 真壁はしばらく黙っていた。

 

「真壁さん?」

 

 澪が呼ぶと、真壁はヴァルトではなく、離れの小さな窓を見た。外は暗い。向こうにあるのは異世界の夜だ。それでも真壁の目は、もっと別の夜を見ているようだった。

 

「澪君。私も、死んでから向こうの江古田の町を彷徨っていた気がするんだ」

 

「江古田……?」

 

 澪は思わず聞き返した。

 

 真壁はゆっくりと言葉を選んだ。

 

「駅前の灯り。夜の商店街。大学の近くの道。雨に濡れた舗道。誰にも見られず、誰にも触れられず、ただ歩いていたような感覚がある」

 

 澪は黙って聞いた。

 

「夢だったのか、死後の記憶なのか、私にも断言はできん。だが、六畳間と押入れに関わってから、その断片が戻ることがある」

 

 真壁の声は、いつもと変わらない。だが、言葉の底に、普段は沈めているものが見えた。真壁は、自分のことを多く語らない。必要なことだけを言い、危ないことは先に片づけ、澪が転ばないように手を出す。その人が、死後に町を彷徨っていたと言う。

 

 澪は、何を言っていいか分からなかった。

 

 真壁は続けた。

 

「私もこの彼も、ただ偶然こちらへ来たとは思えん」

 

 澪は、眠るヴァルトを見た。

 

 そして、六畳間の本棚の上にある古い燭台を思い浮かべた。

 

「神さま……ですか」

 

 真壁は頷いた。

 

「少なくとも、問い詰める価値はある」

 

 澪は、ヴァルトの枕元に醤油の小瓶があることを確認した。毛布をそっとかけ直すと、ヴァルトの手が小瓶の方へ少しだけ動いた。

 

 その動きだけで、胸が痛くなる。

 

 真壁は見守り札を作業場の入口と窓際へ置いた。拘束ではない。眠っている間に外へ出ないようにし、外から余計な者が入らないようにするためのものだ。

 

「閉じ込めるんじゃないですよね」

 

「客人を寝かせるだけだ。だが、元王都魔術院が寝ぼけて町へ出るのは困る」

 

 澪は頷いた。

 

 二人は、孤児院の離れを出た。

 

 

 

 

 

 六畳間に戻ると、空気が急に軽くなったようで、逆に足元が揺れた。

 

 畳。机。押入れ。本棚。蛍光灯の白い光。さっきまで異世界の夜道を歩き、孤児院の離れで転生者の鑑定を見ていたのに、ここにはいつもの六畳間がある。あまりにも普通で、澪は一瞬、自分の方がおかしくなったような気がした。

 

 本棚の上には、古い燭台があった。

 

 茶碗の水も供えられている。何も知らない顔で、いつも通りそこにある。

 

 澪は本棚の前に立った。

 

「神さま、少し聞きたいことがあります」

 

 横に立った真壁が、すぐに言った。

 

「少しではない」

 

 澪は真壁を見た。

 

「真壁さん、怒ってます?」

 

「怒ってはいない」

 

 少し間があった。

 

「まだな」

 

 澪は、これは怒っているやつだと思った。

 

 真壁が古い燭台を鑑定する。

 

----------------------------------

【現状確認】古い燭台について【本棚上】

001:燭台

 現在地、本棚最上段。

002:燭台

 状態、暫定安置。

003:燭台

 供え、水。

004:燭台

 水交換、済。

005:燭台

 平穏希望。

----------------------------------

 

 真壁は静かに言った。

 

「深く見る」

 

 鑑定欄が更新される。

 

----------------------------------

【照会確認】真壁からの鑑定について【圧力発生】

001:燭台

 照会を確認。

002:燭台

 照会者、真壁。

003:燭台

 質問内容を確認中。

004:燭台

 平穏希望。

005:真壁

 却下。

006:燭台

 強い態度を確認。

----------------------------------

 

 澪は小声で呟いた。

 

「掲示板みたいな返事、久しぶりですね……」

 

 真壁は返事をしなかった。古い燭台を見たまま、問いを置く。

 

「神さま。真壁の魂誘導とは何か」

 

 鑑定欄が更新された。

 

----------------------------------

【魂誘導照会】真壁について【説明要求】

001:燭台

 対象、真壁。

002:燭台

 死後境界滞留の痕跡あり。

003:燭台

 江古田周辺の現世残響を確認。

004:燭台

 魂の行き先が定まらぬ状態であった。

005:燭台

 六畳間および押入境界との相性、高。

006:燭台

 澪の通路保持には、強い補助者が必要であった。

007:燭台

 真壁の魂誘導に関与あり。

008:燭台

 ただし、強制連行ではない。

009:燭台

 消えかけた魂を、境界に結び直した。

----------------------------------

 

 真壁は、古い燭台を見下ろしたまま動かなかった。

 

「結び直した、か。便利な言葉だな」

 

 澪は黙っていた。

 

 真壁は怒鳴らない。声も荒げない。だから余計に怖かった。怒りを外へ撒き散らすのではなく、言葉の刃先だけを静かに研いでいるようだった。

 

「私を澪君のために使った、ということか」

 

 鑑定欄が少し遅れて更新された。

 

----------------------------------

【補足説明】真壁の役割について【表現訂正】

001:燭台

 使った、という表現は不適切。

002:燭台

 結び直した。

003:燭台

 相互補助である。

004:燭台

 澪は真壁に助けられた。

005:燭台

 真壁もまた、消滅を免れた。

006:燭台

 双方に利あり。

----------------------------------

 

 真壁は少しだけ目を細めた。

 

「私が消えずに済んだ。それは感謝すべきことだろうな」

 

 澪は真壁を見た。

 

 真壁は続ける。

 

「だが、それを事前に説明しなかった理由にはならん」

 

 鑑定欄は止まった。

 

 六畳間の空気も、少し止まったように感じた。古い燭台はもちろん何も言わない。ただ、少ししてから、また文字が出る。

 

----------------------------------

【説明遅延】初期段階について【選択肢不足】

001:燭台

 説明すれば、澪が動けなくなる可能性があった。

002:燭台

 真壁が役割を拒む可能性があった。

003:燭台

 押入境界は不安定であった。

004:燭台

 初期段階では、選択肢を増やす余裕がなかった。

005:燭台

 そのため、黙った。

----------------------------------

 

 澪は、最後の一文を見て胸が詰まった。

 

 神さまは悪意でやったわけではない。

 

 それは分かる。分かるから、余計に困る。真壁を消さず、澪を助け、六畳間と押入れをつないだ。澪はそのおかげで、今ここにいる。異世界へ行ける。真壁にも、リュシアにも、孤児院の子どもたちにも出会った。

 

 けれど、黙っていた。

 

 選ばせなかった。

 

 真壁は、そこを見逃していない。

 

「黙ったことは認めるんだな」

 

----------------------------------

【返答】黙秘について【認定】

001:燭台

 はい。

002:燭台

 黙っていた。

003:燭台

 必要と判断した。

----------------------------------

 

「必要だったかどうかは、後で判断する」

 

 真壁は静かに言った。

 

「今決めるのは、今後だ」

 

 その言葉で、澪は背筋を伸ばした。

 

 真壁は次の問いを出す。

 

「オスヴァルト・クライン。今はヴァルトと名乗っている彼についてだ。彼も同じか」

 

----------------------------------

【転生経路照会】オスヴァルト・クラインについて【ヴァルト】

001:燭台

 対象、オスヴァルト・クライン。

002:燭台

 対外名、ヴァルト。

003:燭台

 魂質、転生者。

004:燭台

 前世、日本出身。

005:燭台

 東京都内記憶あり。

006:燭台

 死亡後、この世界の輪廻に接触。

007:燭台

 神性依代の関与は、魂の消失防止と経路接触。

008:燭台

 器の作成には非関与。

009:燭台

 この世界の理に従い、オスヴァルト・クラインとして出生。

010:燭台

 完全な無関係ではない。

----------------------------------

 

 真壁は、その一文を静かに読み上げた。

 

「完全な無関係ではない」

 

 古い燭台は黙っている。鑑定欄だけが、また続く。

 

----------------------------------

【補足説明】善意について【弁明】

001:燭台

 善意である。

002:燭台

 危険は避けた。

003:燭台

 魂の消失を防いだ。

004:燭台

 澪の通路保持を優先した。

005:燭台

 真壁の存在は、澪にとって有用。

006:燭台

 ヴァルトの転生は、救済に近い。

007:燭台

 説明は、適切な時期に行う予定であった。

008:燭台

 現在、強い圧を確認。

----------------------------------

 

 澪は、表示を見て思わず言った。

 

「最後の一行、いります?」

 

 真壁は答えなかった。

 

「善意、補助、救済。神さま、便利な言葉を並べたな」

 

 鑑定欄が少し止まる。

 

----------------------------------

【返答】表現再検討中【沈黙短縮】

001:燭台

 表現を再検討中。

002:燭台

 強制連行ではない。

003:燭台

 境界に触れた魂を、消えぬよう支えた。

004:燭台

 本人の魂が、こちらへ触れる余地を持っていた。

005:燭台

 縁があった。

----------------------------------

 

「縁という言葉も便利だ」

 

----------------------------------

【返答】反論困難【追加説明準備】

001:燭台

 反論困難。

002:燭台

 説明不足を認める。

----------------------------------

 

 澪は、神さまが詰まっているのだと分かった。

 

 少しだけ、気の毒になる。けれど、止めることはできない。自分も関係者だ。知らないまま助けられることと、知らないまま使われることは、たぶん紙一重なのだ。

 

 澪は、ふとヴァルトの寝顔を思い出した。醤油の小瓶を枕元に置いて眠る、酔い潰れた商人。あの人は、帰りたいのだろうか。

 

「ヴァルトさんは、帰りたいんでしょうか」

 

 真壁は答えなかった。代わりに、鑑定欄が更新される。

 

----------------------------------

【心理推定】ヴァルトの帰還願望について【混在】

001:燭台

 不明。

002:燭台

 帰りたい心と、帰れぬと知る心が混在。

003:燭台

 家族記憶反応が強い。

004:燭台

 現代日本由来物品への接触で記憶浮上が増加。

005:燭台

 急な接触は危険。

006:燭台

 家族情報への接触は慎重に行うべき。

007:燭台

 本人の選択が必要。

----------------------------------

 

 澪は黙った。

 

 やはり、すぐに現代へ連れて行く話ではない。家族を探すかどうかも、こちらから押しつける話ではない。

 

 知りたいか。

 

 知りたくないか。

 

 会いたいか。

 

 会えないままでいたいか。

 

 それは、ヴァルト本人が決めることなのだろう。

 

 真壁も同じ結論に至ったようだった。

 

「神さま。彼に現代側のことを知らせるかどうかは、こちらで決めることではないな」

 

----------------------------------

【返答】本人選択について【同意】

001:燭台

 はい。

002:燭台

 本人の選択が必要。

003:燭台

 急がせるべきではない。

004:燭台

 六畳間への直接案内は、現時点では非推奨。

005:燭台

 味噌、醤油、食文化への反応を経て、段階的説明が望ましい。

----------------------------------

 

 澪は少しだけ安心した。

 

 今日、六畳間へ連れてこなくてよかった。寝ている間に鑑定しただけでも、明日の朝は重い話になる。そこへ現代側の部屋まで見せていたら、重さで全員が潰れていたかもしれない。

 

 真壁はさらに問う。

 

「彼をこちらの協力者として迎えるのは危険か」

 

----------------------------------

【危険評価】ヴァルト協力について【有用性高】

001:燭台

 危険あり。

002:燭台

 有用性高。

003:燭台

 王都魔術院への追跡危険あり。

004:燭台

 境界魔術知識による通路解析危険あり。

005:燭台

 結界、収納魔術、転移陣解析において極めて有用。

006:燭台

 誠実性は高い。

007:燭台

 情緒不安定要素あり。

008:燭台

 醤油による行動誘導に注意。

----------------------------------

 

 澪は最後の一行を二度見した。

 

「醤油による行動誘導って何ですか」

 

 真壁は真顔で答えた。

 

「昨夜、実証された」

 

 澪は反論できなかった。

 

 少しだけ、空気が緩む。

 

 鑑定欄が、さらに更新された。

 

----------------------------------

【供物候補】蒲焼きについて【確認】

001:燭台

 蒲焼きは強かった。

002:燭台

 匂いの影響範囲に注意。

003:燭台

 供物としての可能性あり。

004:燭台

 米との組み合わせに期待。

----------------------------------

 

「神さま、見てたんですね」

 

 澪が言うと、鑑定欄は少し遅れて更新された。

 

----------------------------------

【返答】観測について【供物研究】

001:燭台

 観測していた。

002:燭台

 供物研究の一環である。

003:燭台

 食べたかっただけ、という表現は不正確。

004:燭台

 ただし否定困難。

----------------------------------

 

 澪は少し笑ってしまった。

 

 笑ってから、やはり胸が痛くなる。

 

 笑える。けれど重い。この六畳間はいつもそうだ。押入れの向こう側から、商売も料理も孤児院も神さまも、死んだ人の記憶まで流れ込んでくる。

 

 真壁は、もう一度古い燭台を見た。

 

「方針を決める」

 

 澪は背筋を伸ばした。

 

「ヴァルト殿は、しばらく商人として扱う。元王都魔術院、転生者、前世日本出身という情報は伏せる」

 

「はい」

 

「六畳間には入れない。現代側の物品供給も、リュシア商会と押入商会の商談の範囲に留める」

 

「はい」

 

「味噌、醤油、容器、食文化については、段階的に共有する。ただし、家族を探すかどうか、現代側を知りたいかどうかは、本人が望むまで踏み込まない」

 

 澪は少し迷ってから、頷いた。

 

「……はい」

 

 本当は聞きたい。

 

 ヴァルトの家族がどうなったのか。妹は成人式を迎えたのか。今も生きているのか。

 

 けれど、それを知ることが救いになるとは限らない。知らない方が、まだ生きられることもある。澪はその可能性を、今夜初めて本当に考えた。

 

 真壁は鑑定欄へ向かって言う。

 

「神さま。今後、同種の魂に関与する場合は、事後でも説明を入れたまえ」

 

----------------------------------

【条件受領】魂関与時の説明について【改善】

001:燭台

 条件として受領。

002:燭台

 説明機会を設ける。

003:燭台

 重要情報の秘匿を減らす。

004:燭台

 備考欄での緩衝表現は継続希望。

----------------------------------

 

「備考欄でふざけるのも控えたまえ」

 

----------------------------------

【備考欄】運用方針について【抵抗】

001:燭台

 備考欄は重要な緩衝材である。

002:燭台

 完全廃止は非推奨。

003:燭台

 精神的負荷の軽減に寄与。

----------------------------------

 

「控えたまえ」

 

----------------------------------

【備考欄】再検討について【圧力確認】

001:燭台

 強い圧を確認。

002:燭台

 備考欄の表現を改善する。

003:燭台

 ふざけすぎない。

----------------------------------

 

 澪は、ようやく少しだけ笑った。

 

 真壁はまだ笑わない。

 

「それと、神さま」

 

----------------------------------

【返答待機】追加要求について【警戒】

001:燭台

 はい。

002:燭台

 追加要求を警戒中。

----------------------------------

 

「次に重要なことを隠していたら、蒲焼きは供えない」

 

 鑑定欄が長く止まった。

 

 澪は思わず真壁を見る。

 

「真壁さん、それ効くんですか」

 

「効く相手には効く」

 

 少しして、古い燭台の鑑定欄が更新された。

 

----------------------------------

【重要通知】情報開示について【供物保全】

001:燭台

 情報開示に努める。

002:燭台

 蒲焼き供物の可能性は維持希望。

003:燭台

 米の確保も期待。

----------------------------------

 

 澪は、やっぱり効いたんだ、と思った。

 

 六畳間で、二人は翌朝の対応を確認した。

 

 ヴァルトが目を覚ましたら、まず水を出す。薄い味噌汁も出す。二日酔い対策だ。昨夜はリュシア商会で飲み潰れたため、町の宿ではなく孤児院の離れで休ませたと説明する。

 

 そして、鑑定したことは隠さない。

 

 安全確認のために鑑定したと、真壁が本人に告げる。ただし、前世の細部にはこちらから踏み込まない。転生者という表示が見えたことも、ヴァルトの反応を見ながら慎重に扱う。

 

 澪は不安になった。

 

「怒りますよね」

 

「怒るだろうな」

 

「ですよね……」

 

「怒る権利はある」

 

 澪は真壁を見た。

 

 真壁は淡々としているが、逃げるつもりはない顔だった。

 

「だが、こちらも確認する必要があった。そこは謝る部分と、譲らない部分を分ける」

 

 澪は頷いた。

 

 ヴァルトは怒る。たぶん当然だ。寝ている間に鑑定されたのだから。

 

 でも、もし自分がヴァルトならどうだろう。知らない場所で酔い潰れて、目覚めたら知らない作業場。目の前に、現代を知っているかもしれない人たちがいる。そして、自分の隠していたものを見られている。

 

 怖いに決まっている。

 

 だから、朝は責めない。追い詰めない。味噌汁を出す。水を出す。謝るべきところは謝る。

 

 澪はそう決めた。

 

 真壁は最後に、古い燭台へもう一度視線を向ける。

 

「神さま」

 

----------------------------------

【返答】呼びかけについて【即応】

001:燭台

 はい。

----------------------------------

 

「今夜の話は終わりではない。保留だ」

 

----------------------------------

【返答】保留について【承知】

001:燭台

 承知。

002:燭台

 追加説明に備える。

----------------------------------

 

 澪は茶碗の水を足した。

 

----------------------------------

【供え確認】水の追加について【感謝】

001:燭台

 水の追加を確認。

002:燭台

 感謝。

----------------------------------

 

「感謝はするんですね」

 

----------------------------------

【返答】感謝について【当然】

001:燭台

 する。

----------------------------------

 

 真壁が言う。

 

「説明も同じくらい早くしたまえ」

 

----------------------------------

【返答】説明速度について【改善】

001:燭台

 善処する。

----------------------------------

 

 真壁は黙って燭台を見た。

 

----------------------------------

【返答】説明速度について【訂正】

001:燭台

 説明する。

----------------------------------

 

 澪は少しだけ笑った。

 

 六畳間の本棚の上で、古い燭台はいつもと同じように黙っていた。ただ、鑑定欄だけが、さっきより少しだけ素直になっていた。

 

 真壁は押入れの方を見る。

 

 向こう側では、酔い潰れた転生者が、醤油の小瓶を枕元に置いて眠っている。こちら側では、古い燭台の神さまが、鑑定欄で言い訳をしている。そして澪は、その間に立っている。

 

 澪は深く息を吸った。

 

 明日の朝、また面倒な話になる。

 

 きっとヴァルトは頭を抱える。自分も頭を抱える。真壁は平然としている顔で、ちゃんと火種を抱えている。

 

 それでも、味噌汁くらいは出そうと思った。

 

 食事くらいは楽しみたい。

 

 ヴァルトが言ったその言葉が、六畳間の静けさの中で、もう一度澪の胸に戻ってきた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。