押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第137話 二日酔いの転生者

 

 ヴァルトは、頭の内側を小さな槌で叩かれているような痛みで目を覚ました。

 

 舌が乾いている。

 

 喉は砂を詰められたように重く、胃の底には昨夜飲んだものの名残が沈んでいた。魔力の流れも悪い。いつもなら呼吸に合わせて薄く巡るものが、今朝は淀んだ水路のように引っかかる。

 

 二日酔いだ。

 

 それだけは、考えるまでもなく分かった。

 

 ヴァルトは目を閉じたまま、昨夜の記憶を探ろうとした。醤油の焦げる匂い。脂の落ちる音。蒲焼き。芋焼酎。澪の声。リュシアの笑いをこらえる気配。真壁の、やたら落ち着いた声。

 

 そして、自分が何かを言った気がする。

 

 人を帰れなくする。

 

 その言葉だけが、二日酔いの頭の底で、沈んだ石のように残っていた。

 

 目を開ける。

 

 その瞬間、ヴァルトの意識は酒から離れた。

 

 天井が、異常だった。

 

 知らない部屋で目覚めたこと自体は、まだいい。商人として旅をしていれば、知らない宿で朝を迎えることもある。野営の天幕で目覚めることもある。王都魔術院にいた頃なら、研究棟の仮眠室で意識を取り戻すことも珍しくなかった。

 

 だが、この天井は違った。

 

 灰色だった。

 

 木の梁がない。板の継ぎ目もない。石積みの荒さも、煉瓦の目地も見えない。漆喰を厚く塗った壁とも違っていた。表面は妙に平らで、均一で、湿気にも火にも強そうな重さがある。

 

 ヴァルトは、ゆっくりと視線を横へ動かした。

 

 壁も同じだった。

 

 灰色の面が、継ぎ目らしい継ぎ目も見せずに続いている。床は妙に水平で、長く使われた木床のような沈みがない。石床の冷たさとも違う。窓枠の収まりも整いすぎていた。歪んでいない。建てつけが、異様に正確だ。

 

 耳を澄ませる。

 

 下から、かすかに人の気配がした。遠い声。足音。階段を伝う振動。自分のいる部屋は一階ではない。上にも空間があるような響きがある。二階建て、いや、三階建てに近い。

 

 ヴァルトは、痛む頭で王都の建物を思い浮かべた。

 

 王都魔術院の石造保管棟。貴族家の防火庫。砦の倉庫。結界を組み込んだ地下記録室。魔術で補強した古い塔。

 

 どれとも違う。

 

 この建物の作りを、ヴァルトは知らなかった。

 

 木でもない。石でもない。煉瓦でもない。魔術で石材を固めたものとも違う。どこに継ぎ目があり、どこで重さを受け、どうやって上の階の荷重を逃がしているのか、見ただけでは読めない。

 

 だからこそ、危険だった。

 

 分からない建物なのに、強い。

 

 分からない建物なのに、整っている。

 

 分からない建物なのに、人が普通に使っている気配がある。

 

 ヴァルトは、ゆっくり息を吐いた。

 

 ここが宿であれ、商会の客間であれ、貴族家の離れであれ、ただの休憩所では済まない。王都の建築官が見れば、壁を削りたがる。魔術院の構造解析班が見れば、床を叩き、天井を測り、魔術反応がないと知った瞬間に目の色を変える。軍に知られれば、砦に使えないかと考える。貴族に知られれば、自邸に欲しがる。

 

 これは小砦なのではない。

 

 王都魔術院の重要保管棟なのでもない。

 

 ただ、そういうものとして扱われてしまう建物だった。

 

 ヴァルトは、そこで自分の右手が何かに触れていることに気づいた。

 

 小瓶だった。

 

 枕元に、醤油の小瓶が置かれていた。

 

 指先に触れた冷たい感触で、胸の奥が少しだけ緩む。

 

 なくなっていない。

 

 そう思った直後、ヴァルトは自分に呆れた。

 

 元王都魔術院境界課の魔術師が、見知らぬ異常建築の中で目覚め、最初に安心した理由が醤油の小瓶である。

 

 情けない。

 

 情けないが、安心してしまったものは仕方がなかった。

 

 ヴァルトは小瓶から手を離し、ゆっくり息を吐いた。味噌と醤油は危険だ。人の心を、帰れない場所へ引きずり戻す。だが、この建物は違う。これは心ではなく、権力者を呼ぶ。軍を呼ぶ。魔術院を呼ぶ。貴族を呼ぶ。

 

 この世界では、そちらの方が、たぶん危険だった。

 

 

 

 扉の向こうで足音が止まった。

 

 ヴァルトは身を起こそうとして、こめかみの痛みに顔をしかめた。体が鈍い。魔力の巡りも悪い。だが、横になったまま迎えるほど、相手を信用しているわけではない。

 

 扉が開く。

 

 真壁が、水差しと木の杯を持って入ってきた。

 

 背が高い。動きは静かで、朝だというのに乱れがない。昨夜、焼酎を勧めた男と同じ顔をしている。つまり、反省している顔ではない。

 

「起きたか、ヴァルト殿」

 

 ヴァルトは返事の前に、喉の乾きを一度飲み込んだ。飲み込むものなどないはずなのに、喉が痛んだ。

 

「……ここは」

 

「孤児院の離れだ。押入家具の作業場でもある」

 

 真壁は何でもないことのように言って、水を差し出した。

 

 ヴァルトは水ではなく、その男の顔を見た。

 

「真壁さん」

 

「うむ」

 

「ここを、孤児院の離れと仰いましたか」

 

「そうだ」

 

 ヴァルトは、もう一度、灰色の壁を見た。

 

 均一すぎる壁面。歪みのない床。上の階の重さを当たり前のように受け止めている構造。木でも石でも煉瓦でもない、見たことのない建物。

 

「……この建物を?」

 

 真壁は否定しなかった。

 

 ごまかしもしなかった。ただ、杯を差し出したまま、ヴァルトを見る。

 

「君には、ここがどう見える」

 

 問い返された。

 

 ヴァルトは短く息を吸った。水を飲む前に、考えなければならないらしい。いや、真壁は水を先に飲ませるつもりだったのかもしれない。だが、こちらの疑問をあえて先に拾った。

 

 そういう男だ。

 

 ヴァルトは改めて部屋を見た。天井。壁。窓。床。扉の収まり。足音の反響。階下の気配。建物全体の重さ。

 

「小砦です」

 

 声に、乾きが混じった。

 

「あるいは、王都魔術院の重要保管棟として扱われるでしょう。少なくとも、孤児院の離れと聞いて納得できる建物ではありません」

 

「用途は孤児院の離れだ」

 

「用途の話をしているのではありません」

 

 即座に返してから、ヴァルトは軽く目を閉じた。頭痛に声が響いた。怒鳴ってはいない。だが、二日酔いの頭には、自分の声ですら少しうるさい。

 

 真壁は、水の杯をもう一度差し出した。

 

「まず飲みたまえ」

 

 ヴァルトは杯を見た。

 

 受け取ることに、少し抵抗があった。毒を疑っているわけではない。この男がそんな雑なことをするなら、昨夜のうちにどうとでもできたはずだ。抵抗があるのは、世話になったと認めることになるからだった。

 

 けれど喉は乾いている。

 

 頭も痛い。

 

 ヴァルトは負けた。

 

「いただきます」

 

 水は、腹が立つほどありがたかった。

 

 喉を通った瞬間、体の中の砂が少しだけ湿る。胃の重さが消えるわけではない。それでも、人間は水を飲まなければ話もできないのだと、嫌になるほど実感する。

 

 杯を返す時、指先が少しだけ震えた。

 

「私は、どこまで失礼を」

 

 真壁は水差しを置き、椅子を一つ引いた。

 

「蒲焼きを焼いた」

 

「それは覚えています」

 

「焼酎を飲んだ」

 

「……量は」

 

「少しだけ、という言葉は途中で行方不明になった」

 

 ヴァルトは目を閉じた。

 

 やはりか。

 

「それから、醤油を危険な商材と評した」

 

 その記憶はあった。小瓶を抱えていた記憶も、うっすらある。なぜ抱えたのかは分からない。分からないが、抱えた理由を深く考えたくもなかった。

 

「ほかには」

 

 真壁の返事が、わずかに遅れた。

 

「人を帰れなくすると言っていた」

 

 部屋が静かになった。

 

 遠くで子どもたちの声がした。朝の声だ。何かを運ぶ音。誰かを呼ぶ声。こちらの世界の孤児院の朝。自分が知る日本の朝ではない。

 

 ヴァルトは、膝の上で指を組んだ。

 

 醤油の焦げる匂い。蒲焼き。白いご飯。母が味噌汁をよそう音。父が新聞をめくる音。妹が成人式の晴れ着のことで母と話していた声。二〇〇〇年の年明け。あの先を見る前に、途切れた時間。

 

 こぼれたのだ。

 

 昨夜、自分の中から。

 

「リュシア商会には、迷惑をかけましたね」

 

「かけたな」

 

 遠慮のない返事だった。

 

 ヴァルトは少しだけ目を伏せた。慰められるより、その方がよかった。

 

「後で謝罪します」

 

「そうしたまえ」

 

 真壁はそこで終わらせなかった。

 

 水差しの横に置いた指が、軽く机を叩く。音は小さい。だが、続きを告げるには十分だった。

 

「それだけではないようですね」

 

「ない」

 

 真壁はヴァルトをまっすぐ見た。

 

「眠っている間に、君を鑑定した」

 

 ヴァルトの中で、酒の鈍さが一瞬で引いた。

 

 体は動かない。頭も痛い。胃も重い。だが、意識だけが研がれる。王都魔術院にいた頃、境界の裂け目を覗き込む前の感覚が、二日酔いの底から顔を出した。

 

「寝ている者を、ですか」

 

「そうだ」

 

「良い趣味ではありませんね」

 

「同意する」

 

 真壁は、言い訳をしなかった。

 

 それが余計に腹立たしかった。言い訳をしてくれれば、こちらは怒りやすい。誤魔化してくれれば、責めやすい。だが、この男は悪いところを悪いと認めた上で、判断を引っ込める顔をしていない。

 

「謝罪は」

 

「眠っている者を鑑定したことには謝罪する。すまなかった」

 

「ですが、安全確認を行った判断は撤回しない、ですか」

 

「うむ」

 

 ヴァルトは笑いそうになった。

 

 もちろん、楽しいからではない。自分が真壁の立場でも同じことをしただろうと、分かってしまったからだ。

 

 元王都魔術院。鑑定十。酔って押入商会の品に反応した身元不明の男。しかも、孤児院の離れに寝かせている。子どもたちの声が聞こえる場所に。

 

 調べない方が無責任だ。

 

 分かる。

 

 分かるから、腹が立つ。

 

「本当に、嫌な人ですね」

 

「よく言われる」

 

「でしょうね」

 

 ヴァルトは水の杯をもう一度手に取った。少し残っていた水を飲む。怒りで乾いた喉を、水で押さえた。

 

「何が見えましたか」

 

 真壁は、少しだけ間を置いた。

 

「必要な範囲だけ言う。名は、オスヴァルト・クライン。対外名はヴァルト。前職は王国国家魔術師。王都魔術院境界課。魂質は転生者」

 

 ヴァルトは黙った。

 

 その並びは、自分を剥がした札のようだった。今の名。隠していた本名。捨てた職。逃げた場所。魂の出自。

 

「前の名は」

 

「必要範囲では見ていない。見えかけたが、踏み込まなかった」

 

「家族は」

 

 自分の声が細くなったのを、ヴァルトは自覚した。

 

 情けない。

 

 だが、その言葉だけは、どうしても細くなる。

 

 真壁は、すぐには答えなかった。隠しているのではない。言葉を選んでいる。ヴァルトにはそう見えた。

 

「詳細は見ていない。ただ、家族記憶反応が強いことは出た」

 

 家族記憶反応。

 

 ヴァルトは、その言葉の冷たさに、喉の奥が詰まるのを感じた。

 

 母も、父も、妹も、晴れ着も、朝食の湯気も、新聞の紙音も、ドライヤーの音も、全部まとめてそんな言葉になるのか。

 

 鑑定とはそういうものだ。

 

 ヴァルトは知っている。鑑定は、世界を項目に分ける。名を拾い、技能を拾い、状態を拾う。人の痛みや後悔を、短い表示にする。便利で、残酷な技術だ。

 

 自分も使ってきた。

 

 それを、今度は自分に向けられた。

 

「そこには踏み込まない」

 

 真壁が言った。

 

 ヴァルトは顔を上げた。

 

「本当に?」

 

「本人が望むまで、こちらから家族を探す話はしない。現代側についても、急に見せない」

 

 現代側。

 

 その言葉を、真壁は避けなかった。

 

 澪は現在進行形で大学へ通っている。味噌も醤油もある。透明な容器もある。真壁は現代の構造を理解している。そしてこの建物。灰色の、三階建ての、孤児院には似合わない建物。

 

 ヴァルトは、ほぼ確信していた。

 

 この人たちは、この世界の外と接点を持っている。

 

 澪は、戻れる。

 

 自分が死んだあとも続いた世界へ。

 

 ヴァルトは、聞かなかった。

 

 今は聞かない。

 

 聞けば、今ここに座っている自分が、崩れるかもしれないから。

 

 

 

 

 

「君には、我々がどう見える」

 

 真壁の問いは、唐突ではなかった。むしろ、ヴァルトの沈黙を待ってから置かれた。

 

 ヴァルトは、窓の外へ視線を逃がさず、真壁を見た。逃げれば負ける気がした。何に負けるのかは分からない。たぶん、自分の中の何かにだ。

 

「澪さんは、現在進行形で向こうの大学に通っている」

 

 真壁は何も言わない。

 

「味噌と醤油は、この世界ではあり得ない完成度で再現されている。透明容器、ねじ蓋、金属加工、保存技術も同じです。そしてこの建物。石でも煉瓦でも木造でもない。魔術補強でもない。孤児院の離れという用途に対して、構造が異常すぎる」

 

 ヴァルトは一度、枕元の醤油を見た。

 

「真壁さん、あなたは日本人には見えない。少なくとも、私の知る日本の男とは違う。ですが、向こうの知識と構造を理解している。」

 

 真壁の表情は変わらない。

 

 それが、逆に答えだった。

 

「あなた方は、この世界の外と接点を持っている」

 

 ヴァルトは、言葉を切った。

 

「澪さんは、少なくともその外へ戻れる。味噌と醤油も、この建物も、その知識から来ている。そして」

 

 そこで、少しだけ声を低くした。

 

「それを、隠しきれていない」

 

 真壁は、しばらく黙っていた。

 

 部屋の外で、誰かが階段を駆ける音がした。子どもだろう。叱る声が続き、足音が少し大人しくなる。

 

「近い」

 

 真壁は言った。

 

「だが、そこまでだ」

 

 ヴァルトは、肩の力をわずかに抜いた。

 

 全部は言わない。

 

 だが、否定もしない。

 

 なるほど、とヴァルトは思った。説明するつもりはないが、こちらに考えさせるつもりはある。一方的に秘密を与えられるよりは、まだいい。少なくとも、こちらの頭を飾りとして扱っていない。

 

「味噌と醤油より、この建物の方が危険です」

 

「分かっている」

 

 即答だった。

 

 ヴァルトは、今度こそ真壁を睨んだ。

 

「分かっている人間のやることですか」

 

「必要だった」

 

「その言葉は、王都魔術院でもよく聞きました」

 

「耳が痛いな」

 

「痛めてください」

 

「うむ」

 

 真壁が素直に頷くので、ヴァルトは怒る角度を一つ失った。

 

 やはり、嫌な人だ。

 

 その時、扉の外で小さな足音が止まった。

 

「入っても、大丈夫ですか」

 

 澪の声だった。

 

 ヴァルトの指が、膝の上でわずかに動いた。

 

 大学。

 

 二十歳。

 

 ミオ。

 

 妹の成人式。

 

 思考が勝手に繋がろうとするのを、ヴァルトは押しとどめた。

 

 真壁が答える。

 

「入りたまえ」

 

 澪は、盆を持って入ってきた。水の入った器と、湯気の立つ椀がある。朝の光の中で、彼女は昨夜より少しだけ学生に見えた。緊張しているからだろうか。商談の席の顔ではなく、何かを謝りに来た若い女性の顔をしていた。

 

 椀から、味噌の匂いがした。

 

 ヴァルトは、動けなくなった。

 

 若い味噌だ。完成しきった深みではない。まだ角があり、香りも軽い。だが、二日酔いの体には優しすぎた。朝に出される味噌汁の湯気というだけで、彼の中の閉じた扉が音もなく開きかける。

 

 澪は盆を置き、少し頭を下げた。

 

「昨日、年齢とか大学の話、普通に答えてしまって……それで、何か思い出させたなら、すみません」

 

 ヴァルトは、椀ではなく、澪を見た。

 

 彼女は何も知らない。

 

 いや、もう少しは察しているのだろう。それでも、父や母や妹のことを直接聞かない。帰りたいのかとも聞かない。日本人ですか、とも言わない。

 

 それがありがたく、怖かった。

 

「澪さんが悪いのではありません」

 

 ヴァルトは、ゆっくり言った。

 

「私が、勝手に見たかったものを見ただけです」

 

 澪は何かを言いかけて、やめた。

 

 その判断が、また若いのに妙にまっすぐで、ヴァルトの胸に刺さった。

 

 彼は味噌汁の椀を持った。

 

 一口飲む。

 

 塩気は薄い。二日酔いの胃に合わせたのだろう。具も少ない。だが、温かい。喉を通り、胃に落ち、体の中でゆっくり広がる。

 

 母が味噌汁をよそう音がした気がした。

 

 父が新聞をめくる音。

 

 妹が、成人式の髪型をどうするかで母に相談している声。

 

 炊飯器の蓋を開けた時の湯気。

 

 テレビの朝の音。

 

 危ない。

 

 ヴァルトは、椀をそっと置いた。

 

「濃かったですか」

 

 澪が心配そうに聞いた。

 

「ちょうどよいです」

 

 自分でも驚くほど、普通の声が出た。

 

 真壁が横から言う。

 

「二日酔いには薄い方がよい」

 

 ヴァルトは真壁を見た。

 

「昨夜飲ませた方が言うことですか」

 

「飲んだのは君だ」

 

「蒲焼きの横に出された焼酎を断るのは、人として難しい」

 

 澪が、小さく笑った。

 

 その笑いで、部屋の空気が少しだけ緩んだ。ヴァルトも、自分が馬鹿な言い訳をしたことは分かっていた。だが、馬鹿な言い訳を言える程度には、味噌汁が効いていた。

 

 

 

 

 

 ヴァルトは、椀を置いたまま姿勢を正した。

 

 頭痛はまだある。胃も重い。だが、これ以上、寝台の上で話す内容ではなかった。

 

「条件があります」

 

 澪が背筋を伸ばす。真壁は、最初からその言葉を待っていたように頷いた。

 

「聞こう」

 

「本名と前職は伏せてください。王都魔術院に居場所が漏れれば、面倒になります」

 

「当然だ」

 

「転生者という情報もです」

 

「うむ」

 

「現代側については、今は聞きません」

 

 澪の指が、盆の端で止まった。

 

 ヴァルトはその動きを見たが、見なかったことにした。

 

「ただし、味噌と醤油は商談として扱ってください。施しでは困ります。私は商人です。取引として続けたい」

 

 澪が、少しだけ表情を緩めた。

 

「そこは、ちゃんと商人なんですね」

 

「昨日の醤油の件は忘れてください」

 

「無理だと思います」

 

「即答ですか」

 

 真壁が淡々と言う。

 

「醤油による行動誘導だな」

 

 ヴァルトは眉を寄せた。

 

「何ですか、それは」

 

「神さまの評価だ」

 

 ヴァルトは一瞬、言葉を失った。

 

 神。

 

 醤油。

 

 行動誘導。

 

 並べてはいけない言葉が、涼しい顔で並べられている。

 

「神に、醤油で評価されたくはありませんでした」

 

「評価は高かった」

 

「慰めになっていません」

 

 澪がまた笑いそうになり、今度はこらえた。こらえきれてはいなかったが、ヴァルトは追及しなかった。こちらにも、醤油を抱えて寝たという弱みがある。

 

 だから話を戻す。

 

「それと、私はここに長くいるべきではありません」

 

 澪の笑いが消えた。

 

「ここに、ですか」

 

「ええ」

 

 ヴァルトは窓の外へ目を向けた。子どもたちの声が遠くで聞こえる。孤児院の朝。小さな足音。誰かが笑う声。誰かを呼ぶ声。

 

 この建物は強い。

 

 けれど、ここにいる者たちは強くない。

 

「私は王都魔術院を辞めた者です。向こうが私を追えば、ここに火がつきます。孤児院に火種を置くのは間違いです」

 

 真壁は黙って聞いている。

 

「リュシア商会も人が多すぎる。侯爵家に置けば政治案件になる。なら、森へ戻るのが一番いい」

 

 澪が不安そうに言った。

 

「森って、あの危ない森ですか」

 

「ええ。ですが、あそこなら人目が少ない。結界も張れます。王都魔術院の探査を誤魔化す程度なら、まだできます」

 

 真壁が聞く。

 

「住むつもりか」

 

「小屋を一つ。外からは猟師小屋に見える程度でよいです。中を整えるのは、私の結界と収納でどうにかなります」

 

 ヴァルトは、言いながら自分の頭の中で図を組み立てていた。森の縁では目立つ。少し奥。水場に近すぎると獣道が重なる。岩場を背にし、視線を切る。外見は粗末でいい。結界は二重。外は獣避けと人払い。内側に探査ずらし。収納で寝具と食料を守り、保存魔術を併用する。

 

 逃げ場ではない。

 

 拠点だ。

 

「逃げるのではありません」

 

 ヴァルトは、澪の不安に答えるように言った。

 

「距離を取るのです。孤児院と商会を巻き込まないために」

 

 真壁は小さく頷いた。

 

「悪くない」

 

「上からですね」

 

「癖だ」

 

「直した方がいいです」

 

「よく言われる」

 

 ヴァルトは、もう一度「でしょうね」と言いかけて、やめた。頭が痛い時に同じやり取りを繰り返すのは、自分の損だった。

 

 

 

 

 

 リュシア商会へ戻る頃には、ヴァルトの頭痛は多少ましになっていた。

 

 多少、である。

 

 完全ではない。

 

 光はまだ少し眩しいし、焼酎という単語を思い出すだけで胃が抗議する。それでも、歩ける。礼を言える。商談もできる。元王都魔術院の魔術師としては情けないが、商人としては最低限復帰したと言ってよかった。

 

 リュシアは店の奥で待っていた。

 

 彼女はヴァルトの顔を見るなり、にこりと笑った。商会主としての笑みだった。だが、その奥に、昨夜の醤油小瓶事件を覚えている人間の目があった。

 

「醤油を抱えて寝る商人は初めて見たよ」

 

 ヴァルトは深く頭を下げた。

 

「忘れていただけると助かります」

 

「無理だね」

 

 即答だった。

 

 澪も真壁も黙っている。助ける気はないらしい。マルテに至っては、帳面を持ったまま、書いていいのかどうか迷っている顔をしていた。

 

「マルテさん」

 

 ヴァルトは静かに言った。

 

「帳面には残さないでください」

 

 マルテは、リュシアを見た。

 

 リュシアは少し考えた。

 

「商談記録には残さない」

 

「ありがとうございます」

 

「商会内の笑い話としては残る」

 

「それは、もう少しご慈悲を」

 

「無理だね」

 

 同じ言葉を二度言われた。

 

 ヴァルトは諦めた。

 

 その後のリュシアは、きちんと商会主だった。昨夜の失態でからかいはしたが、取引は取引として扱う。ヴァルトが収納から出したオオウナギの残り、森で得た食材、薬草、獣素材、危険地帯由来の小物を確認し、マルテへ指示を出す。

 

「オオウナギは料理用。ただし匂いが強いから、扱い場所を限定。厨房裏か、外の炭火場。店頭には出さない。昨夜の蒲焼きは人を集めすぎる」

 

 マルテが頷きながら書く。

 

 ヴァルトはその横顔を見て、少しだけ感心した。昨夜、蒲焼きの匂いに負けていた顔と、今の実務の顔が違う。リュシア商会は若いが、ただの若い店ではない。

 

 精算は、現金だけでは終わらなかった。

 

 ヴァルトは現金に加え、味噌、醤油、保存食、塩、干し肉、布、簡単な鍋、火打ち道具、作業用の刃物、縄、釘、油紙を求めた。森で小屋を構えるなら、必要なものはいくらでもある。

 

 リュシアは、味噌と醤油の量を確認しながら、ちらりとヴァルトを見た。

 

「これ、商材としての確認だよね?」

 

「もちろんです」

 

 ヴァルトは即答した。

 

 即答しすぎたかもしれない。

 

 澪が横から言う。

 

「そこは嬉しそうですね」

 

「商材の確認です」

 

 真壁が荷物を見ながら言った。

 

「管理という名の確保だな」

 

「商取引です」

 

「うむ。言い換えは大事だ」

 

「言い換えていません」

 

 リュシアが笑った。昨夜より軽い笑いだった。

 

 ヴァルトは少しだけ救われた気がした。醤油の小瓶を抱えて寝た男にも、まだ商人として座る席はあるらしい。

 

 だが、長居はできない。

 

 澪が鞄を持ち直したのは、精算が終わる頃だった。大学帰りではなく、今度は大学へ向かう姿だった。こちらの世界の商会に立っているのに、肩にかけた鞄だけが、別の時間に属しているように見える。

 

「すみません。私は大学があるので、ここまでです」

 

 大学。

 

 その言葉だけで、ヴァルトの胸の奥に手が入った。

 

 聞きたい。

 

 どこの駅を使うのか。今の東京はどうなっているのか。大学生はどんな服を着ているのか。携帯電話はどうなったのか。家には、まだ固定電話があるのか。父は。母は。妹は。

 

 妹は、成人式に行ったのか。

 

 だが、ヴァルトは聞かなかった。

 

 今は聞かない。

 

 そう決めたばかりだった。

 

「ええ。お気をつけて」

 

 普通の挨拶に、全力で自制を詰めた。

 

 澪は少しだけ目を伏せ、それから頷いた。

 

「はい。ヴァルトさんも」

 

 彼女が鞄を抱えて離れていく。

 

 ヴァルトは、その後ろ姿を見送った。聞けば、澪は答えてしまうかもしれない。だからこそ、今は聞けない。若い親切は、時に刃物より深く刺さる。

 

 

 

 

 

 真壁がハイエースを出したのは、人目の少ない搬入口だった。

 

 町中で堂々と見せるつもりはないらしい。リュシア商会の裏手、荷の積み下ろしに使う場所をさらに布と木箱で目隠しし、その奥に白い商用バンが停まっていた。

 

 ヴァルトは、それを見て固まった。

 

 知らないからではない。

 

 知っているから、固まった。

 

「……ハイエース、ですか」

 

 真壁は運転席の扉に手をかけたまま、一拍置いた。

 

「知っているのか」

 

「ええ。私の時代にもありました」

 

 ヴァルトは車体を見た。形は分かる。商用バンだ。工事業者、配送業者、職人、引っ越し、駅前の道路。日本で暮らしていた頃、いくらでも見た。だが、目の前のそれは、自分の知っているものより新しい。車体の線も、硝子の大きさも、樹脂の質感も、どこか未来側へ進んでいる。

 

「ですが、なぜここにあるのかは説明していただきたい」

 

 真壁は、荷台の扉を開けた。

 

「行商人の荷に必要なものは、行商人と車だ」

 

 ヴァルトは黙った。

 

 味噌。醤油。保存食。縄。布。工具。木材。結界用に使えそうな金具。荷台には、森で小屋を作るための品が整然と積まれている。

 

 確かに、車だ。

 

 行商人にとって、荷を運べる足は命だ。馬車より速く、雨風を避け、人も荷も一緒に運べるなら、理想に近い。

 

 だが、そういう話ではない。

 

「答えになっていません」

 

「実務上は十分な答えだ」

 

「真壁さん」

 

「荷を運ぶ。人も運ぶ。雨風を避ける。行商には理想的だ」

 

「そういう話ではありません」

 

「そういう話にしておきたまえ」

 

 ヴァルトは、運転席側の扉を開ける真壁を見た。

 

 嘘は言っていない。

 

 だが、核心には一歩も入っていない。

 

 リュシアが、少し離れた場所から言った。

 

「ヴァルトさん。森に着いたら、まず隠すことを考えて」

 

 ヴァルトはハイエースを見た。

 

 白い車体。大きな硝子。馬のいない荷車。異世界の町に置いておけば、説明不可能な実用品。

 

「ええ。これは隠すべきものが多すぎます」

 

 助手席に乗り込む時、ヴァルトは懐かしさと違和感を同時に覚えた。

 

 座席の高さ。扉の重さ。車内の匂い。樹脂と布と金属が混ざった匂い。日本で見たことのある空間に似ている。だが、細部が違う。自分の知っている九〇年代の商用車より、静かで、密閉されていて、整いすぎている。

 

 真壁は当然のように運転席へ座った。

 

 その動作が、またヴァルトの胸をざわつかせた。こちらの世界の人間が、馬に乗るように車へ乗っている。その自然さが、異常だった。

 

 足元に、書類が挟まっていた。

 

 ヴァルトは、視線だけを落とした。

 

 車検証。

 

 その文字には、かすかな覚えがあった。

 

 車を持つ者が避けて通れない、面倒な紙。父が車のことで何か言っていた記憶がある。整備工場。期限。税金。保険。面倒だとぼやく声。ヴァルト自身が詳しかったわけではない。だが、日本にいた者なら、知らない言葉ではなかった。

 

 意味を一つ一つ追う余裕はなかった。

 

 目に入ったのは、日付だった。

 

 登録年月。

 

 二〇二六年八月。

 

 次回車検。

 

 二〇二八年八月。

 

 ヴァルトの指が、そこで止まった。

 

 二〇二六年。

 

 自分が死んだのは、二〇〇〇年の年明けだった。妹の成人式を見る前に死んだ。その先の時間が、二十六年も進んでいる。

 

 二〇二八年は、今ではない。次に来る検査の年だ。それでも、その数字が紙の上に普通に印刷されているだけで、胸の奥が冷えた。

 

 この世界の外では、そこまで先の予定を、当たり前のように書類へ載せる時間が流れている。

 

 父は。

 

 母は。

 

 妹は。

 

 聞きたい。

 

 だが、ヴァルトは聞かなかった。

 

 今は聞かないと、自分で決めたばかりだった。

 

 彼は書類から目を離し、荷台の味噌と醤油を確認するふりをした。薄い布に包まれた小瓶と壺。森へ持っていく食料と道具。その中に目を落としていれば、二〇二六年八月という数字を見なかったことにできる気がした。

 

 できるはずがなかった。

 

 数字だけが、視界の奥に残った。

 

 真壁は、何も言わなかった。

 

 気づいている。

 

 ヴァルトには分かった。

 

 それでも真壁は、エンジンをかける動作だけをした。深く聞かない。慰めない。説明しない。聞かれるまで答えないという、先ほどの約束を守っている。

 

 ヴァルトも聞かなかった。

 

 

 

 

 

 ハイエースが動き出す。

 

 澪は大学へ向かった。

 

 真壁とヴァルトは、異世界の森へ向かった。

 

 同じ朝なのに、二つの方向はあまりにも違っていた。片方では、二十歳の大学生が鞄を肩にかけて講義へ行く。もう片方では、二日酔いの転生者と、分類不能の男が、味噌と醤油と小屋の資材を積んで危険な森へ向かう。

 

 ヴァルトは、荷台の味噌と醤油を一度だけ確認した。

 

 それから、遠ざかる孤児院の灰色の三階建てを思い出した。

 

 味噌と醤油は、人を帰りたくさせる。

 

 だが、あの建物は、人を集めてしまう。

 

 王都魔術院。貴族。軍。建築に関わる者たち。あれを見れば、誰も放っておかない。見た者は測り、削り、真似ようとし、奪おうとする。人の善意や支援だけで守れるものではない。

 

 だから自分は、森へ戻る。

 

 逃げるためではない。

 

 距離を取るために。

 

 孤児院とリュシア商会を巻き込まないために。

 

 そして、見てしまったものを隠す側に回るために。

 

 ヴァルトは、味噌と醤油の荷から目を離し、前方の森を見た。

 

 そこに作るのは、ただの小屋ではない。

 

 自分が逃げ込む場所であり、押入商会の異常を隠すための、最初の結界だった。

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