押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第138話 森の隠れ家

 

 ハイエースの窓の外で、町の石畳がゆっくりと土の色へ変わっていった。

 

 リュシア商会の裏手を出た時には、まだ人の声があった。荷を運ぶ者の掛け声、馬の蹄、木箱を置く音、朝の商会が持つ忙しさの気配。そのざわめきは、車が進むにつれて薄くなり、やがて車輪の下を流れる道の音と、車内の低い振動だけが残った。

 

 ヴァルトは助手席で黙っていた。

 

 馬車ではない。

 

 それは分かっている。彼の前世にも、こうした商用車はあった。駅前の工事現場、商店の搬入口、引っ越し、配送、朝の道路。ハイエースという名は、記憶のどこかに普通にあった。

 

 だからこそ、今この場所でそれに乗っていることが、ひどくおかしかった。

 

 窓の外には、こちらの世界の畑が広がっている。低い石垣、畝、遠くで鍬を振るう農夫、荷車を引く痩せた馬、街道沿いの雑木。そこを、現代の商用バンが静かに走っている。車内には、味噌と醤油、保存食、工具、縄、布、金具、寝具、よく分からない現代側の道具が積まれている。

 

 ヴァルトは、荷台を振り返った。

 

 揺れは少ない。荷も人も雨風から守られている。速度も馬車より速く、疲れも少ない。商人として見れば、これほど便利なものはない。荷の量、移動距離、時間、護衛の負担、雨の日の商談、すべてが変わる。

 

 便利すぎる。

 

 それだけで、危険だった。

 

 胸の奥には、まだ別の数字も残っている。

 

 二〇二六年八月。

 

 車検証に印刷されていたその日付が、今も視界の隅に貼りついている。二〇〇〇年の年明けに死んだ自分の時間から、二十六年以上が過ぎている。父は、母は、妹は。成人式の晴れ着は。あの日の朝の家は、その後どうなったのか。

 

 聞きたい。

 

 だが、聞かない。

 

 そう決めたばかりだ。

 

 ヴァルトは、代わりに荷台の味噌と醤油を見た。考えないために見るには、あまりにも考えさせる品だった。だが、そこにある。壺と瓶は確かに荷台にあり、彼はそれを森へ持って行こうとしている。

 

 こちらで生きる場所を作る。

 

 その事実が、ハイエースの振動に合わせて、少しずつ体に沈んでいった。

 

 運転席の真壁は、相変わらず平然としていた。

 

 背筋はまっすぐで、視線は前方と周囲へ自然に流れる。手の位置にも無駄がない。異世界の道を現代の車で走っているというのに、驚きも緊張もない。まるで、境界の上を歩いているのではなく、境界そのものを日常の道として使っているようだった。

 

「この道を、車で通るのは危険ではありませんか」

 

 ヴァルトは、窓の外を見たまま言った。

 

「危険だな」

 

 真壁はあっさり認めた。

 

「認めるのですね」

 

「だから人目の少ない道を選んでいる」

 

「問題の解決ではなく、問題の先送りに聞こえます」

 

「移動とは、たいてい先送りの連続だ」

 

「哲学に逃げないでください」

 

「実務だ」

 

 実務という言葉を、この男は盾にも槍にもする。

 

 ヴァルトはため息を飲み込んだ。飲み込んだところで、胃の底にまだ昨夜の焼酎が残っている気がした。

 

 

 

 

 

 森の手前に、炭焼き小屋が見えてきた。

 

 細い煙が、斜めに空へ上がっている。湿った木と炭の匂いが、窓を閉めていてもかすかに入り込んでくるような気がした。町から離れた空気は軽いはずなのに、マールヴェインの森の入口に近づくにつれ、重くなる。

 

 森は、そこに立っていた。

 

 ただ木が並んでいるのではない。幹の奥が暗い。日が差しているはずなのに、葉の重なりの向こう側は沈んでいる。風はある。手前の枝は揺れている。だが、奥の葉は動かない場所がある。鳥の声も、手前と奥で違う。

 

 生活圏と、そうでない場所。

 

 王都魔術院の境界課にいたヴァルトには、その差が妙に分かった。

 

 炭焼き小屋の横で、男がこちらを見て固まっていた。

 

 バンデだった。

 

 日に焼けた顔。煙にいぶされた服。太い腕。炭の粉が入り込んだ爪。口元には、いつものようにどこか緩い気配がある。だが目だけは、森を背にした男の目だった。

 

 ハイエースが止まると、バンデは車体を見上げ、口を開けた。

 

「……なんだぁ、それは」

 

「荷車だ」

 

 真壁は平然と言った。

 

 バンデは車体を見た。車輪を見た。窓を見た。運転席を見た。どこをどう見ても、彼の知る荷車ではないはずだった。

 

 それでも、彼は一度、真壁の顔を見た。

 

 そして、深く聞くことをやめた。

 

 賢い、とヴァルトは思った。

 

 森で生き残る者は、分からないものへ無闇に手を突っ込まない。

 

 真壁は車を降り、周囲を確認してからハイエースに触れた。次の瞬間、白い商用バンが消えた。

 

 大きな車体が、音もなく収納に呑まれる。

 

 バンデの口が、さきほどより大きく開いた。

 

 ヴァルトも、内心では同じ顔をしていた。

 

 現代の車が異世界にあるだけでもおかしい。それを、荷物の一つのように収納へしまうのはさらにおかしい。真壁は何でもない顔をしている。まるで濡れた傘を玄関脇に立てかけた程度の自然さだった。

 

「……今のは、見なかったことにしていいのか」

 

 バンデが低く聞いた。

 

「そうしてくれると助かる」

 

 真壁が答える。

 

「助かるとか、そういう話かぁ?」

 

「実務上はそういう話だ」

 

 また実務だ。

 

 ヴァルトは頭痛を覚えた。今朝よりは軽い。だが、真壁と話していると別の種類の頭痛が来る。

 

 やがて話は、本題へ進んだ。

 

 ヴァルトが森の中に拠点を作ると聞いた瞬間、バンデの顔から酒好きの緩みが消えた。

 

「あんたら、気が狂ってんのか」

 

 声は大きくなかった。

 

 だが、本気だった。

 

「気は確かです」

 

 ヴァルトは答えた。

 

「確かな奴は、森の中に住むなんて言わねえんだよ」

 

「一理ある」

 

 真壁が横で頷く。

 

「そこで同意しないでください」

 

 ヴァルトは思わず真壁を見た。

 

 バンデは森を指さした。

 

「あそこはな、炭焼きの俺でも奥には入らねえ。木があるから森なんじゃねえ。戻ってこられねえ場所だから森なんだ」

 

 その声には、怒りがあった。

 

 臆病ではない。

 

 ヴァルトは、それを間違えなかった。バンデは怖がっているのではない。怖さを知っている。だから、知らない者が踏み込もうとするのを怒っているのだ。

 

「結界は張れます」

 

 ヴァルトは説明しようとした。

 

「探査もずらせます。獣避けもできます。水場から距離を取り、高所を選べば、防衛も」

 

「そういうのをできる奴ほど、だいたい森で死ぬんだよ」

 

 バンデが遮った。

 

 ヴァルトは言葉を止めた。

 

 王都魔術院にもいた。理屈を積み上げ、準備を整え、危険を分類し、そして帰ってこなかった者たち。自分がそれと同じだと言われたようで、少しだけ胸が痛んだ。

 

 真壁が前に出た。

 

「バンデ殿」

 

「なんだよ」

 

「森が危険なのは分かっている」

 

「分かってて入るのが一番たち悪いんだよ」

 

「君に頼みたいのは、案内ではない」

 

 バンデの眉が動いた。

 

「案内じゃねえ?」

 

「うむ。奥へ入らなくてよい。ヴァルト殿の拠点を人に話さないこと。リュシア商会から合図が来た時だけ、森の手前で知らせること。異常があれば、無理に入らず炭焼き小屋の煙で合図すること。危険なら逃げること」

 

 バンデの怒りが、少しだけ形を変えた。

 

 森の奥へ入らなくていい。

 

 その条件は、彼の中の危険の線を越えなかったらしい。怒鳴る相手から、面倒な依頼を持ってきた相手を見る目に変わっていく。

 

「……俺は奥には行かねえぞ」

 

「行かなくていい」

 

「何かあっても、助けに行かねえぞ」

 

「行かなくていい」

 

「死んだら知らねえぞ」

 

「それは困るが、君の責任ではない」

 

 バンデは口を曲げた。

 

「で、依頼料は」

 

 真壁は収納から一本の瓶を出した。

 

 光を受けて、透明な液体がゆらりと揺れる。炭の匂いが漂う小屋の前に、ふわりと芋焼酎の香りが混ざった。

 

 バンデの顔が変わった。

 

 森の男の目が、一瞬で酒を見つけた男の目になった。真顔を保とうとしている。だが鼻が負けている。視線が瓶から離れない。手が伸びそうになって、かろうじて膝の横で止まる。

 

「……それは?」

 

「連絡口の依頼料だ」

 

「中身は」

 

「芋焼酎だ」

 

 バンデは瓶を受け取った。

 

 栓の近くに鼻を寄せる。

 

 次の瞬間、口元がだらしなく緩んだ。

 

「グヘヘヘ。お安い御用だぁ」

 

 ヴァルトは真壁を見た。

 

「真壁さん」

 

「うむ」

 

「この方で大丈夫なのですか」

 

「信頼できる」

 

「今の笑い声で、信頼という言葉が森の奥へ逃げました」

 

「欲に正直な者は扱いやすい」

 

「聞こえてるぞ」

 

 バンデは言った。

 

 だが、瓶は離さなかった。

 

 真壁は小さく頷いた。

 

「聞こえるように言った」

 

「いい性格してんなぁ、あんた」

 

「よく言われる」

 

 そのやり取りのあと、バンデは瓶を小屋の中へ大事そうに置いた。そして、もう一度森を見た。

 

 酒の顔ではなかった。

 

 炭焼きの男の顔だった。

 

「奥で変な音がしたら戻れ」

 

 低い声だった。

 

「鳥が一斉に黙ったら戻れ。甘い匂いがしたら戻れ。戻れねえと思ったら、最初から入るな」

 

 ヴァルトは、笑わなかった。

 

 真壁も笑わなかった。

 

 森から吹いてきた風に、湿った土と葉の匂いが混じった。

 

「覚えておきます」

 

 ヴァルトは言った。

 

 バンデは顎を引いた。

 

「あんた、頭は良さそうだ。だから言っとく。頭のいい奴ほど、森の中で自分の考えを信じて死ぬ」

 

 その言葉は、先ほどの焼酎より重かった。

 

 

 

 

 

 森へ入ると、空気が変わった。

 

 道という言葉は、すぐに頼りなくなった。足元には腐葉土が厚く積もり、湿った土の匂いが立つ。苔が石を覆い、太い根が地面を押し上げている。枝の重なりで日差しは細く裂け、地面に落ちる光はまだらだった。

 

 遠くで水音がする。

 

 だが、姿は見えない。

 

 虫の羽音が耳元をかすめた。鳥は鳴いている。鳴いてはいるが、町の近くで聞く声とは違う。短く、間があり、どこか警戒しているように聞こえる。

 

 ヴァルトは森を見た。

 

 ここなら隠れられる。

 

 そう思った。

 

 同時に、ここは人が住む場所ではない、とも思った。

 

 どちらも正しい。人が住まない場所だから隠れるには向いている。向いているということは、快適ではないということだ。

 

 真壁は前を歩いていた。

 

 迷いがない。木々の間、足元の根、ぬかるみ、視界の悪い場所。それらを見ているようで、別のものも見ている。地図だろう。ヴァルトには見えない情報が、真壁には見えている。

 

 森を読んでいるのではない。

 

 森を画面として見ている。

 

 その感覚が、ヴァルトには不気味だった。

 

 しばらく進んだところで、真壁が立ち止まった。

 

「ここから整える」

 

「整える?」

 

 ヴァルトが聞き返す前に、真壁は収納から水を出した。

 

 ただの水ではなかった。

 

 細く絞られた白い水流が、森の暗がりを裂いた。草の根元が切れ、低木の枝が弾け、泥が押し流される。濡れた土の匂いが一気に濃くなった。苔むした石が洗われ、緑の下から灰色の肌を見せる。小さな虫が逃げ、鳥の声が一瞬だけ止まる。

 

 ヴァルトは、目の前の光景をしばらく理解できなかった。

 

「それは水ですか」

 

「水だ」

 

「水の使い方ではありません」

 

「草刈りだ」

 

「草刈りの定義を広げすぎです」

 

 真壁は気にしない。

 

 水流で開けた細い道へ、今度は収納から小石や砕石を出した。ざらざらと音を立て、土の上に敷かれていく。さらに水で均し、踏み固める。ぬかるみが抑えられ、足場ができる。

 

 森の中に、簡易の道が生まれていく。

 

 魔術ではない。

 

 だが、魔術より乱暴で、魔術より効率がいい。

 

 収納を、荷物入れではなく土木道具として使っている。水で草を刈り、泥を流し、小石で舗装する。真壁はそれを特別なことのように扱わない。ただ前に進むための手順としてこなしている。

 

 この男にとって、森は恐れるものではなく、整備するものなのか。

 

 ヴァルトは、そう思った。

 

 そして、その考え方こそが一番危険なのではないかとも思った。

 

「後で通るためですか」

 

「うむ」

 

「荷を運ぶため?」

 

「それもある。バンデ殿の小屋までの連絡にも使える。徒歩より速い足を置くつもりだ」

 

 徒歩より速い足。

 

 ヴァルトは嫌な予感を覚えた。

 

 聞かないことにした。

 

 少し進むと、真壁がまた止まった。

 

 視線が、空中の一点を追う。いや、空中ではない。彼にだけ見えている地図の上なのだろう。

 

「右前方」

 

 真壁がつぶやいた。

 

 ヴァルトは魔力を薄く広げた。確かに、茂みの奥に何かいる。獣より重い。魔獣の気配がある。

 

 警戒を強めた時には、真壁がすでに収納から石を出していた。

 

 次の瞬間、音がした。

 

 鈍い衝撃音。

 

 茂みの奥で何かが崩れた。姿を見せる前に、敵性反応は沈んだ。

 

 ヴァルトは、真壁を見た。

 

「今のは魔獣では」

 

「進路上の障害だ」

 

「言い方」

 

「障害は除去する」

 

「森の魔獣を道端の石のように扱わないでください」

 

 真壁は平然としている。

 

 危険を軽く見ているわけではない。むしろ逆だ。危険を見つけ、距離を取り、先に潰す。怖がって動けなくなるのではなく、処理手順に落とし込んでいる。

 

 王都魔術院にも、こういう人間はいた。

 

 ただし、真壁は彼らよりずっと無造作だった。

 

 ヴァルトも、ただ見ているだけではいられなかった。

 

 指先に魔力を集める。薄い膜を広げ、水音と草の匂いが外へ広がりすぎないよう押さえる。魔獣の注意を少しずらし、探索のような感覚をぼかす。真壁の高圧水が作る不自然な音を、森のざわめきに紛れさせる。

 

 真壁は道を開く。

 

 自分は痕跡を隠す。

 

 不本意ではあるが、役割は噛み合っていた。

 

「助かる」

 

 真壁が短く言った。

 

 ヴァルトは少しだけ目を細めた。

 

「礼を言われると、余計に逃げ場がなくなりますね」

 

「役割分担だ」

 

「その言葉を便利に使い始めましたね」

 

「便利な言葉だ」

 

「でしょうね」

 

 

 

 

 

 やがて、水音が近くなった。

 

 木々の向こうに、細い流れが見える。小川というほど大きくはないが、湧き水が集まって流れているのだろう。湿った石があり、泥の上に獣の足跡が残っている。草が踏み倒され、低い枝が折れている。

 

 真壁がそちらへ進もうとしたので、ヴァルトは止めた。

 

「水に近すぎます」

 

「水が使える」

 

「獣も使います。虫も来ます。増水もあります。水を使える距離で、少し高い場所がいい」

 

 真壁は地図を見るように視線を動かした。

 

 ヴァルトは、森を見た。

 

 水場から少し離れたところに、緩やかな丘がある。背後に大きな岩。周囲には太い木があり、外からの視線を切っている。地面は比較的固い。湿気はあるが、風が完全には止まっていない。木々の隙間から、午後の光が斜めに入っている。

 

 ここなら、できる。

 

 水場へ行ける。

 高低差がある。

 結界を張りやすい。

 背後の岩を使える。

 外からは見つかりにくい。

 

 安全ではない。

 

 だが、自分にはこの程度の距離が必要なのかもしれない。

 

 孤児院でもない。

 リュシア商会でもない。

 侯爵家でもない。

 

 誰かの屋根の下ではない場所。

 

 ヴァルトは丘の土を靴の底で確かめた。

 

「ここなら、できます」

 

 真壁は頷いた。

 

「では、建てよう」

 

 ヴァルトは、その言葉を普通に受け取った。

 

 木を切る。柱を立てる。周囲を払う。何日かかけて、小屋を整える。自分は結界を張り、真壁は材料を出す。そういうものだと思った。

 

 次の瞬間、真壁は収納から型枠材を出した。

 

 続いて鉄筋。

 

 砂利。

 

 砂。

 

 灰色の粉袋。

 

 工具。

 

 水。

 

 森の湿った空気の中に、突然、現代の土木現場の匂いが混ざった気がした。

 

「真壁さん」

 

「うむ」

 

「何を作るつもりですか」

 

「小屋だ」

 

「今、鉄筋が見えました」

 

「丈夫な小屋だ」

 

「その言い方は危険です」

 

 真壁は聞いていない。

 

 地面を確認し、地図で地中を見ているらしい。大きな石や空洞を避ける位置を決めると、収納で土を取り込み始めた。地面が削れる。穴ができる。穴というより、地下空間が形を持ち始める。

 

 ヴァルトは黙って見た。

 

 黙るしかなかった。

 

「地下を掘りましたよね」

 

「地下室だ」

 

「小屋とは」

 

「小屋にも貯蔵場所は必要だ」

 

「小屋の定義が壊れています」

 

「保存食と危険素材を置く」

 

「実務上は正しいのが腹立たしいですね」

 

 正しい。

 

 本当に正しい。

 

 味噌や醤油、保存食、魔獣素材、危険な魔術素材を置くなら、温度変化の少ない場所がいる。非常時の退避場所にもなる。森で暮らすなら、地上だけに物を置くよりはるかに安全だ。

 

 正しいから腹が立つ。

 

 真壁は地盤を固め、砕石を敷き、型枠を組み、鉄筋を入れた。流し込まれた灰色の材料が、通常なら時間をかけて固まるはずのものを、収納と錬成らしき処理で強引に次の工程へ進めていく。

 

 ヴァルトは、建築魔術を見ているのか、土木作業を見ているのか分からなくなった。

 

 やがて地下室ができた。

 

 さらにその上に、一階が立ち上がる。

 

 二階ができる。

 

 屋上ができる。

 

 外側には木材が張られ、色味が抑えられ、森の小屋らしく見えるよう偽装されていく。窓は小さい。壁は粗く見える。少し大きな猟師小屋、あるいは上等な森番小屋と言い張れないこともない。

 

 だが、ヴァルトは知っている。

 

 地下室がある。

 地上二階がある。

 屋上がある。

 芯には鉄筋が入っている。

 火にも水にも強い。

 魔獣の突進にも耐えそうだ。

 

 小屋ではない。

 

 真壁は作業の手を止め、建物を一度見上げた。

 

「私も慣れたなぁ」

 

 ヴァルトは静かに振り向いた。

 

「慣れてはいけない種類の作業だと思います」

 

「孤児院で一度やっている」

 

「だから、あの建物があったのですね」

 

「うむ」

 

「うむ、ではありません」

 

 真壁は汗も大してかいていなかった。

 

 異常なものを作ったという顔ではない。必要な作業を終えたという顔だ。その自然さが、ヴァルトにはますます怖い。

 

 

 

 

 

 それで終わりではなかった。

 

 真壁が屋上へ上がった。

 

 ヴァルトは嫌な予感を覚えた。

 

「真壁さん」

 

「うむ」

 

「まだ何かするのですか」

 

「屋上を整える」

 

「小屋に屋上がある時点で、すでに小屋ではありません」

 

 真壁は聞いていない。

 

 屋上に浅い集水面が作られた。落ち葉を避ける網。簡易ろ過に使うらしい砂利、炭、布。水を流す管。水槽へ落とす仕組み。雨水回収設備だと、説明されなくても分かった。

 

 森で水場へ行く回数が減る。

 

 それは大きい。獣と遭遇する機会も減る。水の確保は生活の基本だ。理解できる。実務として正しい。

 

 だから腹が立つ。

 

 次に、真壁は黒い板を出した。

 

 金属の枠。黒く滑らかな面。細い線。

 

 屋上に並べられるそれは、森の光の中で、明らかにこの世界のものではなかった。

 

「それは何ですか」

 

「太陽の光を使う板だ」

 

「説明が短すぎます」

 

「長く説明すると面倒になる」

 

「短く説明しても面倒です」

 

 真壁は角度を調整した。木々の隙間から光を拾える位置。反射が外へ漏れにくい向き。隠すことを考えているのは分かる。

 

 分かるが、そもそも置かないでほしい。

 

 ヴァルトはその言葉を飲み込んだ。

 

 灯りが使える。道具が使える。これから真壁が何か置くつもりなら、その力が必要なのだろう。生活は楽になる。保存にも役立つ。

 

 真壁は危険を増やしているのではない。

 

 生活を成立させようとしている。

 

 ただし、その生活の成立方法が、この世界ではあまりにも異常なのだ。

 

 屋内へ入ると、一階奥の小部屋に黒い箱が置かれた。床を少し上げ、湿気を避け、通気を取る。配線が壁の中へ収められていく。扉は二重になり、外からはただの収納棚にしか見えないようにされる。

 

「これも隠す必要がありますね」

 

「うむ」

 

「うむ、ではありません」

 

 さらに真壁は、壁に白い箱を取り付けた。

 

 外にも別の機械が置かれた。管、配線、排水。見たことはないが、ヴァルトにも大体の役割は分かる。空気を整える道具だ。

 

 真壁が動作を確認する。

 

 風が出た。

 

 森の湿気を含んだ空気の中で、室内だけが少しずつ乾いていく。温度が安定し、むっとした木々の匂いが薄くなる。壁の内側に、快適な空気が生まれる。

 

 ヴァルトは黙った。

 

 快適だった。

 

 腹立たしいほど快適だった。

 

「これは、森の隠れ家ですか」

 

「そうだ」

 

「それとも、貴族の保養施設ですか」

 

「小屋だ」

 

「小屋という言葉に謝ってください」

 

 真壁は空調の風を確認し、満足そうに頷いた。

 

「サービスだ」

 

 ヴァルトは、しばらく返事をしなかった。

 

 雨水回収は正しい。

 蓄電も正しい。

 空調も正しい。

 地下室も正しい。

 保存庫も正しい。

 非常時の退避場所も正しい。

 

 全部、正しい。

 

 だから腹が立つ。

 

「真壁さん」

 

「うむ」

 

「あなたは、正しいことを積み重ねて、最終的にとんでもないものを作る癖があります」

 

「よく言われる」

 

「でしょうね」

 

 

 

 

 

 今度はヴァルトの番だった。

 

 建物はできた。

 

 できてしまった。

 

 なら、隠さなければならない。

 

 ヴァルトは丘の上に立ち、森の気配を吸い込んだ。湿った土、苔、水音、木々の影、岩の重さ、獣道の方向、風の抜け方。真壁が力で場所を作ったなら、自分はその場所を森へ戻さなければならない。

 

 指先に魔力を集める。

 

 薄い膜が、足元から広がった。

 

 まず外側に人払いを置く。森を歩く者が、無意識に別の方向へ進むように。強すぎれば不自然になる。だから、わずかな違和感だけを置く。

 

 次に獣避け。魔獣が嫌う気配を薄く流す。強くすれば逆に注意を引く。広く、弱く、森の匂いに紛れさせる。

 

 探査ずらし。

 

 王都魔術院系の遠隔探査が来た場合、ここはただの岩場と古い木立に見えるようにする。地下室の輪郭は岩の影に。地上の建物は古い小屋の残骸のように。屋上は視線の焦点から外す。

 

 印象を薄くする。

 

 見えているのに、詳しく見ようと思わなければ記憶に残らないように。

 

 屋上の黒い板には、木漏れ日と葉擦れの影を重ねる。焼けた古い屋根板に見えるよう、認識をずらす。雨水設備は、古い樋と水桶に。空調の外側機械は、薪乾燥用の箱に。バッテリー室は、魔術具用の倉庫に。

 

 建物の硬い輪郭が、少しずつ森の影へ沈んでいく。

 

 真壁が作った異常な構造そのものは消えない。消せるはずもない。だが、見た者の目に、最初からそういう古い小屋があったのだと思わせる程度にはできる。

 

 風が一度流れた。

 

 建物の存在感が、薄くなった。

 

 ヴァルトはゆっくり息を吐いた。

 

 この瞬間の彼は、二日酔いの転生者でも、醤油の小瓶を抱えて寝た商人でもなかった。王都魔術院境界課にいた魔術師だった。裂け目を隠し、歪みをそらし、見えてはいけないものの輪郭を消す者。

 

 真壁が見ていた。

 

「見事だな」

 

「あなたが見事に隠しにくいものを作ったからです」

 

「役割分担だ」

 

「その言葉は今日で禁止にしたいです」

 

「便利な言葉なのだが」

 

「だからです」

 

 真壁は少しだけ笑ったように見えた。

 

 見えただけかもしれない。

 

 

 

 

 

 室内が整えられていく。

 

 一階には作業台が置かれ、簡易台所が作られ、保存食と工具が並んだ。水回りもある。外から人が来た時に、ぎりぎり見せられる程度の表向きの部屋になった。森の小屋としては上等すぎるが、そこは結界で押し切るしかない。

 

 二階には寝床、書き物机、記録用の棚、結界制御のための小部屋が作られた。小さな窓から、森が見える。木々の間に、水場へ向かう斜面が少しだけ見えた。

 

 地下室には保存庫、危険素材用の棚、非常時の退避場所が整った。温度は安定しており、湿気も地上より読みやすい。魔術具を置くには悪くない。腹立たしいことに、かなり良い。

 

 ヴァルトは味噌と醤油を受け取った。

 

 一階の棚に置くべきだろう。

 

 商材としてなら。

 

 しかし、彼は少し迷ったあと、二階へ運んだ。寝床に近い、小さな棚。空調の風が直接当たらず、湿気も少ない場所。

 

 真壁が見ていた。

 

「そこが定位置か」

 

 ヴァルトは咳払いした。

 

「温度と湿度の管理です」

 

「空調が役に立ったな」

 

「腹立たしいことに」

 

「サービスだ」

 

「あなたのサービスは、いつも隠す物を増やしますね」

 

「便利だ」

 

「便利と秘匿性は、しばしば敵対します」

 

「君が隠す」

 

「また役割分担ですか」

 

「うむ」

 

 ヴァルトは、もう反論を諦めかけた。

 

 その時、真壁が収納から細い車体を出した。

 

 ヴァルトは、本当にしばらく何も言えなかった。

 

 森の中の新しい隠れ家。湿った土。木々の匂い。そこに、軽そうなフレームと、曲がったハンドルと、細いタイヤを持つ自転車が置かれている。

 

 自転車は知っている。

 

 前世にもあった。通学用、買い物用、駅前の駐輪場に並ぶもの。だが、目の前のそれは違う。細く、軽く、速そうで、森の空気からあまりにも浮いている。

 

「……今度は何ですか」

 

「ロードバイクだ」

 

「それは見れば分かります」

 

「分かるのか」

 

「私の時代にも自転車はありました。ただ、森の隠れ家に渡される物としては理解が追いつきません」

 

 真壁は、当然のように空気入れを出した。予備チューブ、鍵、工具箱も並べる。

 

「バンデ殿の炭焼き小屋や、森の入口まで移動する足だ。先ほど道は作った。小石で固めたから走れる」

 

 ヴァルトは窓の外を見た。

 

 高圧水で草を刈り、小石で均した道。確かに、歩くより速い。軽い荷なら移動できる。バンデへの連絡にも使える。

 

 便利だ。

 

 また便利だ。

 

 便利すぎて、反論が難しい。

 

「真壁さん」

 

「うむ」

 

「森の中に地下室付き二階建ての建物を作り、屋上に黒い板を並べ、屋内に見知らぬ箱を置き、空調を付け、最後にロードバイクを渡す。これを何と呼ぶのですか」

 

 真壁は少し考えた。

 

 本当に少し考えた。

 

「スローライフだ」

 

 ヴァルトは黙った。

 

「今、何と」

 

「スローライフを頑張り給え」

 

「その言葉の使い方は、おそらく間違っています」

 

「慣れる」

 

「慣れたくありません」

 

 真壁は周囲を確認した。

 

 建物。屋上設備。雨水回収。ソーラーパネル。バッテリー。空調。地下室。ロードバイク。結界。二階の棚の味噌と醤油。

 

 満足したように頷く。

 

「では、私は戻る」

 

「戻る?」

 

 一瞬、車で戻るのかと思った。

 

 だが、ハイエースは収納の中だ。

 

 次の瞬間、真壁の周囲の空気がわずかに変わった。ヴァルトの張った結界が、外から破られるのではなく、内側から通路を避けるように震える。危険な揺れではない。だが、異常ではある。

 

 真壁は平然としていた。

 

 荷物を運び、森を切り開き、地下室付き二階建て屋上付きの建物を作り、雨水と光と風を整え、ロードバイクを置き、帰る。

 

 まるで近所に荷物を届けただけの顔だった。

 

「真壁さん」

 

「うむ」

 

「最後に一つだけ」

 

「何かね」

 

「これは本当に、小屋ですか」

 

 真壁の姿が薄くなる。

 

 消えかけた声が、いつもの調子で答えた。

 

「外見は小屋だ」

 

 そのまま、真壁はいなくなった。

 

 

 

 

 

 森の音だけが残った。

 

 風が木々を揺らす。遠くで水場の音がする。虫の羽音が小さく流れる。鳥が、少し離れた場所で鳴いた。

 

 屋内では、空調の低い音がかすかに続いていた。

 

 屋上では、雨水設備とソーラーパネルが結界の下で静かに隠れている。一階奥にはバッテリー。地下には保存庫。入口近くにはロードバイク。二階の棚には味噌と醤油。

 

 外は森。

 

 ヴァルトは、しばらく何も言わなかった。

 

 真壁がいなくなったことで、急に森の広さを感じた。さっきまで真壁の異常な実務が空間を押し広げていたのだと、いなくなってから分かる。森は広い。深い。暗い。人が住むためにある場所ではない。

 

 だが、建物の中だけは不自然に静かで、快適だった。

 

 孤独ではある。

 

 しかし、野ざらしではない。

 

 逃げ場ではある。

 

 しかし、ただ逃げるためだけの場所ではない。

 

 自分はここで、もう一度暮らすのかもしれない。

 

 商人として。

 

 結界魔術師として。

 

 転生者として。

 

 そして、まだ聞かないと決めた現代の話を、いつか聞く者として。

 

 ヴァルトは、二階へ上がった。

 

 棚に置いた味噌と醤油を見る。

 

 少し迷って、位置を直した。直す必要はなかった。だが、直したかった。壺と瓶が、寝床から見える位置に並ぶ。商材の管理である。温度と湿度の管理である。そういうことにする。

 

 窓の外には森があった。

 

 入口の近くにはロードバイクが見える。

 

 ヴァルトは、口の中でつぶやいた。

 

「スローライフ……」

 

 口にしてみても、まったく納得できなかった。

 

 森の中。

 

 地下室付き。

 

 地上二階。

 

 屋上設備付き。

 

 雨水回収。

 

 蓄電。

 

 空調完備。

 

 結界多重。

 

 ロードバイク付き。

 

 これをスローライフと呼ぶなら、王都魔術院の境界課は牧歌的な職場だったことになる。

 

 ヴァルトは深く息を吐いた。

 

 ここが、自分の新しい拠点だった。

 

 逃げ場であり、隠れ家であり、研究小屋であり、押入商会の異常を森の中で受け止めるための蓋でもある。

 

 そして、どういうわけか。

 

 スローライフを頑張る場所でもあるらしい。

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