押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第139話 赤い石の指輪

 

 澪は、鞄の中身をもう一度確認した。

 

 ノート。筆記用具。前に修さんからもらった作業メモ。小さなハンカチ。スマホ。財布。いつものものが、いつものように入っている。

 

 それなのに、今日は少し落ち着かなかった。

 

 異世界側のことが、ずっと頭の奥に残っている。

 

 森の中にできてしまった、真壁さん曰く小屋。地下室があって、二階があって、屋上があって、雨水を集めて、太陽の光で何かをして、空調までついている小屋。どう考えても小屋ではないのに、真壁さんは外見は小屋だと言い切った。

 

 ヴァルトさんのことも残っている。

 

 醤油の小瓶を抱えて眠っていた人。味噌汁を飲んで、どこか遠いところを見ていた人。死んだ者でも腹は減る、と言った人。森の中に、自分の逃げ場であり、押入商会の活動拠点にもなる場所を持つことになった人。

 

 いろいろなことが、大きすぎた。

 

 だからだろうか。

 

 澪は、今日は何か小さいものを作りたかった。

 

 商談でもない。支援でもない。冬支度でもない。森の拠点でもない。目の前の材料を見て、手を動かして、失敗しそうになりながら、少しずつ形にしていくようなことがしたかった。

 

 修さんの彫金教室へ行く日でよかった、と澪は思った。

 

 鞄を閉じようとしたところで、後ろから声がかかった。

 

「澪君」

 

「はい?」

 

 振り向くと、真壁さんが小さなケースを持っていた。

 

 黒い、指輪の箱より少し大きいくらいのケースだった。見た目は普通なのに、真壁さんが持っていると、普通ではないものが入っている気がしてしまう。実際、真壁さんが普通のものだけを渡してきたことは、あまりない。

 

「白金を集めた折に残ったガーネット素材を固めたものだ。良かったら使うと良い」

 

「ガーネット素材を……固めたもの?」

 

 澪はケースを受け取った。

 

 軽い。

 

 けれど、蓋を開けた瞬間、呼吸が止まった。

 

 赤い石が入っていた。

 

 丸ではない。楕円だった。オーバル、と言うのだろうか。表面は細かくカットされていて、光を受けるたびに、赤が小さく跳ねる。暗く沈んだ赤ではない。明るい赤だ。けれど軽い色でもない。内側に少しだけ深い影があり、その奥から光が返ってくる。

 

 澪は、ケースを持ったまま真壁さんを見た。

 

「これ、私が使っていいんですか」

 

「使わなければ石のままだ。使えば経験になる」

 

 真壁さんは当然のように言った。

 

 そういう言い方をされると、たしかに正しい気がしてしまう。石は石のまま置いておけばきれいなだけだ。でも、指輪になれば、身につけるものになる。作った経験にもなる。

 

 けれど、きれいすぎる。

 

「失敗したらどうしようって思うんですけど」

 

「失敗してもよい。素材はまた出る」

 

 澪は少しだけむっとした。

 

 真壁さんに悪気がないのは分かる。むしろ安心させようとしてくれているのだと思う。でも、目の前の石がきれいすぎて、失敗してもいいとは思えなかった。

 

 失敗してもいい。

 

 でも、失敗したくない。

 

 その二つが、胸の中で同時に立った。

 

 澪はケースを閉じた。

 

「持っていきます」

 

「うむ」

 

「でも、ちゃんと修さんに相談してからにします」

 

「それがいい」

 

 真壁さんはそこで、少しだけ満足そうに頷いた。

 

 澪はケースを鞄にしまった。

 

 鞄が少しだけ重くなった気がした。

 

 実際には、石一つ分だ。重いはずがない。けれど、今日の鞄には、新しいものに挑戦する怖さが入った。

 

 

 

 

 

 修さんの工房に入ると、金属の匂いがした。

 

 澪は、その匂いだけで少し落ち着いた。

 

 工具の並ぶ棚。作業台についた細かな傷。ヤスリ。ピンセット。銀板。小さなバーナー。石枠用の道具。窓から差し込む光が、作業台の上の細かな金属粉を薄く照らしている。

 

 ここは、異世界の商談の席ではない。

 

 森の中でもない。

 

 孤児院でも、リュシア商会でも、六畳間でもない。

 

 目の前のものを、目で見て、手で触って、少しずつ形にする場所だった。

 

「お、澪ちゃん」

 

 奥から修さんが顔を出した。

 

 いつもの柔らかい笑顔だったが、澪の顔を見ると、少し目を細めた。

 

「今日は顔つきが違うね」

 

「そうですか?」

 

「何か作りたい顔してる」

 

 澪は思わず笑った。

 

 図星だった。

 

「今日は、新しいものに挑戦したくて」

 

「いいね」

 

 修さんは嬉しそうに頷いた。

 

「そういう時が一番伸びるよ」

 

 その言葉で、澪の肩の力が少し抜けた。

 

 澪は鞄からケースを出した。

 

「あの、実は石を持ってきたんです」

 

「へえ。どれどれ」

 

 修さんは気軽な調子でケースを受け取った。

 

 だが、蓋を開けた瞬間、顔つきが変わった。

 

 笑顔が消えたわけではない。ただ、目が変わった。先生の目から、職人の目になった。

 

「ガーネットかい?」

 

「たぶん、そうです」

 

「たぶん?」

 

「いただき物で……」

 

 澪は少し言葉を濁した。

 

 異世界の白金を集めた時のガーネット素材を固めたものです、と説明するわけにはいかない。説明したところで、たぶん修さんは困る。澪も困る。

 

 修さんは、それ以上の出どころを聞かなかった。

 

 石をピンセットでつまみ、ルーペを目に当てる。赤い光が、レンズの下で揺れた。澪にはただきれいに見える石が、修さんの目には、厚みや角度や硬さや、扱いの難しさを持ったものとして見えているのだと思った。

 

「これは……パイロープにしては大きな石だなぁ」

 

「大丈夫ですか?」

 

 澪の声は、自分でも少し緊張していた。

 

 修さんはルーペを外して笑った。

 

「大丈夫かどうかで言うと、慎重にやる石だね。安い練習石じゃない。でも、悪くないよ。ちゃんとした石を一度扱うのは勉強になる」

 

 勉強になる。

 

 真壁さんと同じような意味の言葉なのに、修さんが言うと少し違って聞こえた。真壁さんは結果を見ている。修さんは手順を見ている。そんな感じがした。

 

 澪は石を見た。

 

 自分がこれを指輪にする。

 

 そう思った瞬間、指先に小さな緊張が来た。

 

 怖い。

 

 でも、やりたい。

 

 その怖さは、逃げたい怖さではなかった。

 

「妙子、ちょっと来てくれる?」

 

 修さんが奥へ声をかけた。

 

 澪は顔を上げた。

 

「妙子さん?」

 

「今日はうちの奥さんも参加するんだよ。前から澪ちゃんの話はしてたからね」

 

 奥の部屋から、女性が出てきた。

 

 四十代半ばくらいだろうか。落ち着いた雰囲気の人だった。派手な感じはない。髪はきちんと手入れされていて、目元が穏やかだった。工房に慣れているのか、工具の位置や、作業台の狭さを自然に避けて歩いてくる。

 

 修さんの隣に立つと、二人の間に、長く一緒にいる人たちの空気があった。

 

 女性は、澪を見て柔らかく笑った。

 

「飯島妙子です。よろしくね、澪さん」

 

 澪は慌てて頭を下げた。

 

「よろしくお願いします。澪です」

 

 妙子さんは、澪の名前を聞いた時、ほんの一瞬だけ目を細めた。

 

 気のせいかもしれない。

 

 名前を覚えようとしてくれたのかもしれない。

 

 そう思って、澪はその小さな変化を深く考えなかった。

 

「妙子もたまに石留めを見るんだ。細かいところ、僕より容赦ないよ」

 

 修さんがそう言うと、妙子さんは笑った。

 

「容赦がないんじゃなくて、曲がってるものを曲がってるって言うだけ」

 

「それを容赦がないと言うんだよ」

 

 二人のやり取りに、澪は少し笑った。

 

 工房の空気が柔らかくなる。

 

 修さん一人の時は、教室という感じが強かった。妙子さんがいると、少し生活に近づく。作るものが、作業台の上のものではなく、誰かが身につけるものになる気がした。

 

 

 

 

 

 三人で石を見た。

 

 修さんは、石の形や厚み、カット、テーブル面、爪の位置、石座の高さを見ていた。光がどこから入って、どこで返るかを考えているらしい。

 

 妙子さんは、別の見方をしていた。

 

 澪の手を見て、石を見て、もう一度、澪の手を見る。指輪にした時、強すぎないか。日常で身につけられるか。横から見た時に浮きすぎないか。そういうことを見ているのだと思った。

 

「丸線で軽く作るより、石座をきちんと作った方がいいかな」

 

 修さんが言った。

 

 妙子さんが、石を横から見ながら首を少し傾ける。

 

「でも重すぎると澪さんには強いわ。横から見た時に、少し低めの方がいいんじゃない?」

 

「低くしすぎると光が入らない」

 

「そこは先生が頑張るところでしょ」

 

「はいはい」

 

 修さんは苦笑した。

 

 澪は、そのやり取りを見ているだけで少し安心した。

 

 自分一人で考えたら、たぶん「きれいに作る」ことだけで頭がいっぱいになっていた。でも、修さんは作る側の目で見て、妙子さんは使う側の目で見ている。どちらも大事なのだと分かる。

 

「あの」

 

 澪は、ケースの中の石を見ながら言った。

 

「全部きれいに作れる自信はないんですけど、できるところは自分でやりたいです」

 

 修さんは嬉しそうに頷いた。

 

「いいね。じゃあ今日は、石枠の考え方からやろう」

 

 妙子さんが、穏やかに言った。

 

「怖がりすぎなくて大丈夫。石を大事にするのと、触れないのは違うから」

 

 澪は、その言葉に少し刺された。

 

 彫金の話だ。

 

 石の話だ。

 

 でも、自分の今にも重なった。

 

 大事だから、怖い。

 

 失敗したくないから、触らない。

 

 でも、触らなければ覚えられない。

 

 異世界側のことも、そうかもしれなかった。孤児院のことも、商会のことも、冬支度も、ヴァルトさんのことも。大事に思うだけでは、何も進まない。

 

 澪は小さく頷いた。

 

「やってみます」

 

 

 

 

 

 修さんは銀材を出した。

 

「今回は銀で作ろう。白金は難しいし、練習には向かない。銀なら加工しやすいし、修正も効くから」

 

 白金。

 

 その言葉に、澪は一瞬だけ真壁さんの顔を思い出した。白金を集めた折に残った素材、というあの説明。あれを普通の会話のように言う真壁さんは、やっぱりどこかおかしい。

 

 修さんは銀の帯を手に取り、石の横へ置いた。

 

「いきなり本番の石に合わせるけど、石枠は一回で完璧にしようと思わなくていいよ。大事なのは、石の形をちゃんと見ること」

 

 澪はルーペを借りて、ガーネットを見た。

 

 楕円だ。

 

 でも、ただの楕円ではなかった。

 

 厚みがある。カットの角度がある。正面から見る赤と、斜めにした時の赤が違う。明るい赤の奥に、少し深い影がある。光は表面だけで跳ねるのではなく、中を通って返ってくる。

 

 鑑定を使いたくなった。

 

 けれど、ここは現代側だ。修さんの工房だ。鑑定します、と言って目を凝らす場所ではない。

 

 だから澪は、ただ見ることにした。

 

 見て、考えて、もう一度見る。

 

 サイズ。厚み。石座に乗る角度。爪がかかる位置。

 

 見ているうちに、石が少しだけ情報を持ち始める。ただのきれいな赤ではなく、作るために必要な形として見えてくる。

 

「澪ちゃん、見る時間が長くなったね」

 

 修さんに言われ、澪はルーペから目を離した。

 

「前より、ちゃんと見ないと怖いなって思うようになりました」

 

 妙子さんが微笑む。

 

「いい怖がり方ね」

 

 その言葉で、澪は少しだけ胸を張れた気がした。

 

 銀の帯を切る。

 

 曲げる。

 

 石に合わせる。

 

 最初は少し大きかった。

 

「ここを少し詰めようか」

 

 修さんが指先で示す。澪は頷いて、もう一度、銀を合わせた。ヤスリの音が小さく鳴る。銀の粉が作業台に落ちる。ピンセットで石を仮置きするたびに、少し手が緊張した。

 

 妙子さんは、横から石と澪の手を見ていた。

 

「向きは、こっちの方が澪さんの手には合いそう」

 

「そうですね。縦長に見えすぎると強いですか?」

 

「そう。石はきれいだけど、澪さんより前に出すぎると、指輪が勝っちゃう」

 

 指輪が勝つ。

 

 面白い言い方だと思った。

 

 作るものは、ただ目立てばいいわけではない。身につける人と一緒に見えるものなのだ。

 

 バーナーの準備に入ると、澪は少し息を整えた。

 

 ロウ付けは、まだ緊張する。

 

 合わせ目を確認し、銀ロウを置く。火が近づく。銀が熱を持つ。小さな銀ロウが、ふっと光って、吸い込まれるように合わせ目へ流れた。

 

 澪は、思わず息を止めた。

 

「今の見えた?」

 

 修さんが聞いた。

 

「はい。吸い込まれるみたいでした」

 

「それが見えるようになると、だいぶ違うよ」

 

 妙子さんが横から言う。

 

「怖がってるけど、ちゃんと手は止まってないわね」

 

 澪は少し照れた。

 

 怖い。

 

 でも、止まっていない。

 

 それが少し嬉しかった。

 

 

 

 

 

 休憩になった。

 

 妙子さんがお茶を出してくれた。

 

 工房の奥の小さな休憩スペースで、澪は湯呑みを両手で持った。作業台の音が止まると、急に自分の手の疲れが分かる。指先が少し熱い。肩にも力が入っていたらしい。

 

「学生さんなんでしょう?」

 

 妙子さんが柔らかく聞いた。

 

「はい。大学で経済学を勉強してます」

 

「経済学。難しそうね」

 

「難しいです。最近はゼミもあって、ちょっと忙しくて」

 

 商会のことは、もちろん言えない。

 

 異世界で味噌を作っています、とも言えないし、森の中に地下室付き二階建て屋上付きの小屋ができました、とも言えない。言えたところで、説明できない。

 

 修さんが笑う。

 

「澪ちゃん、最近忙しそうだもんね。前より目がしっかりしてきたけど、そのぶん疲れてる顔もする」

 

「そんなに出てますか」

 

「出てる出てる。手仕事は顔に出るよ」

 

 妙子さんは、湯呑みに視線を落としてから、少し懐かしそうに言った。

 

「私もそのくらいの頃、何か作ることに憧れてたのよ。成人式の前って、変にいろいろ始めたくなるのよね」

 

 成人式。

 

 澪は普通に聞いた。

 

 けれど、その言葉はどこかで引っかかった。

 

 どこで、とはすぐに分からない。

 

 修さんが軽い調子で言う。

 

「妙子は成人式の着物で家族ともめたんだっけ?」

 

「もめたんじゃなくて、父が余計なことを言っただけ」

 

「どこの家も父親は余計なことを言うんだな」

 

 妙子さんは笑った。

 

 柔らかい笑い方だった。

 

 でも、ほんの一瞬だけ、遠くを見るような目をした。

 

「でも、そういう余計なことも、残るのよね」

 

 澪は湯呑みを持ったまま、妙子さんを見た。

 

 その声には、温かさと、少しの寂しさがあった。

 

 家族の話なのだと思った。

 

 ただ、それ以上は聞かなかった。

 

 工房の休憩時間に、いきなり踏み込む話ではない。澪も、踏み込まれたくないものがたくさんある。だから、妙子さんの言葉をただ受け取るだけにした。

 

「そういうの、ありますよね」

 

 澪が言うと、妙子さんは少しだけ目を細めて頷いた。

 

「あるわね」

 

 その顔が、不思議とやさしかった。

 

 

 

 

 

 作業に戻ると、銀の石枠は少しずつ指輪らしくなっていった。

 

 整えて、石を置いて、また外して、少し削る。修さんが見る。妙子さんが横から向きを見る。澪がもう一度合わせる。

 

 その繰り返しだった。

 

 ガーネットを仮置きすると、銀の上で赤が明るく見えた。石単体で見た時より、少し表情が変わる。銀が赤を受けて、赤が銀を引き締める。

 

 澪は息を止めた。

 

 自分が作った枠に、石が乗っている。

 

 まだ完成していない。

 

 爪も整っていないし、本留めもしていない。

 

 それなのに、急に指輪らしくなった。

 

 小さい。

 

 指輪は小さい。

 

 味噌や醤油を作った時にも、形になった瞬間があった。冬支度の道具を並べた時も、孤児院に物資を届けた時も、何かが形になった感覚はあった。

 

 でも、指輪は逃げ場がない。

 

 少しの歪みが見える。少しの曲がりも、少しの高さの違いも、目の前に出る。小さいからこそ、誤魔化せない。

 

 その代わり、うまくいった時の嬉しさも近かった。

 

 自分の手の中にある。

 

 そう思えた。

 

 修さんが、石を外してから言った。

 

「今日はここまででもいいよ。焦って留めるより、一晩置いて見た方がいい」

 

 澪は迷った。

 

 早く完成させたい。

 

 石が入ったところを見たい。

 

 でも、怖い。

 

 ここで焦って、取り返しのつかない傷をつけたくない。石がきれいだからこそ、急ぎたくない。

 

 妙子さんが、澪の迷いを見て言った。

 

「新しいものを作る時って、進む勇気と止まる勇気、両方いるのよ」

 

 澪は銀の枠を見た。

 

 そして、ガーネットを見た。

 

 赤い石は、まだ留まっていない。けれど、ちゃんとそこへ入る形になり始めている。

 

「今日は、ここまでにします」

 

 澪は言った。

 

「ちゃんと見直してから留めたいです」

 

 修さんは頷いた。

 

「いい判断」

 

 妙子さんも微笑んだ。

 

「うん。似合う指輪になりそう」

 

 澪は、まだ完成していない指輪を見た。

 

 未完成なのに、何かが始まっている形をしていた。

 

 

 

 

 

 片づけに入った頃、修さんが少しそわそわし始めた。

 

 最初、澪はガーネットの出来を気にしているのかと思った。けれど違った。修さんの視線は、未完成の指輪ではなく、澪の方へ何度か向いている。

 

 何か言いたそうだった。

 

 でも、工房の先生として少し言い出しにくそうな顔だった。

 

「そういえば澪ちゃん」

 

「はい?」

 

 修さんはヤスリを棚へ戻しながら、何気ない調子を装って聞いた。

 

「真壁さんって、最近忙しい?」

 

「忙しいと思いますけど……どうしてですか?」

 

 修さんは照れ隠しのように笑った。

 

「いや、この前の話が面白かったからさ。あの人、妙に話が合うんだよ。普通の人じゃ出てこない角度から物を見るっていうか」

 

 妙子さんが横から穏やかに言った。

 

「あなた、居酒屋に誘いたいんでしょう」

 

 修さんは咳払いした。

 

「まあ、そうとも言う」

 

 澪は思わず笑った。

 

 修さんは、もう頭の中で居酒屋の席を想像している顔をしていた。カウンターなのか、奥の小上がりなのか。焼き鳥か、刺身か、煮込みか。お酒を飲みながら、金属の話、道具の話、変わった素材の話をする。隣で真壁さんが淡々と妙なことを言い、修さんがそれに食いつく。

 

 まだ誘ってもいないのに、修さんの中ではかなり楽しそうな会になっているらしい。

 

「真壁さん、飲むの好きなんですか?」

 

 澪が聞くと、修さんは嬉しそうに肩をすくめた。

 

「好きかどうかは分からないけど、飲み屋で話したら絶対面白い人だよ。ああいう人はね、作業台の前で話すより、少し酒が入った方が変な話が出る」

 

 妙子さんが笑う。

 

「あなたが変な話を聞きたいだけでしょう」

 

「職人は変な話から学ぶんだよ」

 

「便利な言い方ね」

 

 澪は、その言い方に少しだけ真壁さんを思い出した。

 

 実務上は十分だ、とか、役割分担だ、とか、サービスだ、とか。

 

 便利な言葉を便利に使う人は、現代側にもいるらしい。

 

 修さんは、片づけたヤスリを棚に戻しながら言った。

 

「澪ちゃん、真壁さんに聞いてみてくれないかな。無理なら無理でいいんだけど。今度、三人でも四人でもいいから、軽く居酒屋でもどうですかって」

 

「四人?」

 

 妙子さんが自分を指して笑った。

 

「私も行くわよ。夫を放っておくと、変な素材の話で帰ってこなくなるから」

 

「信用ないなぁ」

 

「あるから見張るの」

 

 修さんは笑っていた。

 

 けれど、本当に楽しみにしている顔だった。

 

 澪は、未完成の指輪をケースにしまいながら頷いた。

 

「分かりました。真壁さんに聞いてみます」

 

「ありがとう。いやあ、楽しみだな」

 

「まだ聞くだけですよ?」

 

「分かってる、分かってる」

 

 分かっている顔ではなかった。

 

 澪は少し困ったように笑った。断られたらどう説明しよう。真壁さんは行くと言うだろうか。真壁さんと修さんが居酒屋で話したら、どんなことになるのだろう。

 

 想像すると、少し怖くて、少し楽しみだった。

 

 妙子さんが、そんな澪を見て柔らかく笑う。

 

「無理しなくていいのよ。聞くだけで」

 

「はい」

 

 澪は頷いた。

 

 工房を出る時、鞄の中には、未完成の指輪が入っていた。

 

 銀の石枠。

 

 まだ留まっていない赤いガーネット。

 

 そして、まだ決まっていない居酒屋の約束。

 

 どれも、途中だった。

 

 けれど、途中だからこそ、少し楽しみだった。

 

 

 

 

 

 帰り道、澪はケースの入った鞄をそっと押さえた。

 

 新しいものに挑戦したかった。

 

 その気持ちは間違っていなかったと思う。

 

 怖かった。

 

 でも、怖いから触らないのではなく、怖いまま触ってみることが大事だった。

 

 真壁さんがくれた赤い石は、まだ指輪になっていない。けれど、もうただの石ではなくなっていた。自分の手で、少しだけ形を作った。その事実が、思っていたより嬉しい。

 

 修さんが楽しみにしていた居酒屋の話も、頭に残っている。

 

 修さんの嬉しそうな顔。

 

 妙子さんの柔らかな笑顔。

 

 工房の金属の匂い。

 

 ガーネットの赤。

 

 それは、異世界の商談でも、森の隠れ家でも、孤児院の冬支度でもなかった。

 

 現代側の、ただの夜の約束。

 

 澪は、そういう約束が少し楽しみだと思った。

 

 

 

 

 

 六畳間に戻ると、畳の匂いがした。

 

 低い机。本棚。押入れ。蛍光灯の白い光。修さんの工房にあった金属の匂いも、バーナーの熱も、ヤスリの音も、ここにはない。

 

 けれど、鞄の中には今日作ったものがある。

 

 澪は机の前に座り、ケースをそっと置いた。

 

 真壁さんがいた。

 

 いつものように、畳の部屋に自然に座っている。異世界にハイエースを持ち込み、森に小屋ではない小屋を作り、ロードバイクを置いて帰ってくる人なのに、六畳間では妙に収まりがいい。

 

 ケースを開けると、銀の石枠と、まだ留めていない赤いガーネットが見えた。

 

 真壁さんがそれを見る。

 

「悪くない」

 

「まだ完成してません。今日は石座までです」

 

「始まった形だな」

 

 澪は少し照れた。

 

 その言い方は、少し嬉しかった。

 

「あ、そうだ」

 

 澪は思い出して顔を上げた。

 

「修さんが、真壁さんも誘って居酒屋に行きたいって言ってました」

 

「居酒屋か」

 

「はい。妙子さんも一緒にって」

 

 真壁さんの手が、ほんの少し止まった。

 

 澪はそれに気づきかけた。

 

 けれど、先に本棚の上の古い燭台の火が揺れた。

 

 いつもの揺れではなかった。

 

 小さな炎の芯が、細く伸びる。風もないのに、左右に揺れる。まるで、見えない糸を探っているようだった。

 

「神様?」

 

 澪が声をかける。

 

 真壁さんが本棚の前に立った。

 

「見る」

 

 真壁さんが古い燭台を鑑定した。

 

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【照会確認】現代側接触について【縁線反応】

 

001:燭台

 照会を確認。

 

002:燭台

 対象、オスヴァルト・クライン。

 

003:燭台

 前世縁、微弱揺らぎ。

 

004:燭台

 輪廻関係、現代側に反応あり。

 

005:燭台

 血縁記憶線、接触未満。

 

006:燭台

 同定、未確定。

 

007:燭台

 干渉、非推奨。

 

008:燭台

 平穏希望。

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 澪は、表示を見つめた。

 

「オスヴァルト……ヴァルトさん、ですよね?」

 

「うむ」

 

 真壁さんは即答した。

 

 けれど、それ以上は言わなかった。

 

 澪はもう一度、表示を見る。

 

 前世縁。

 

 輪廻関係。

 

 現代側に反応。

 

 血縁記憶線。

 

 言葉の意味は分かるようで、分からない。けれど、胸の奥が少し冷える。今日、自分が会った誰かが、ヴァルトさんの前世と関係しているかもしれない。

 

 頭に浮かんだのは、修さんだった。

 

 そして、飯島妙子という、柔らかく笑う女性だった。

 

「これ、ヴァルトさんに言った方がいいんですか?」

 

 燭台の火が、すぐに揺れた。

 

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【回答】告知可否について【慎重推奨】

 

001:燭台

 今はならぬ。

 

002:燭台

 本人、現代側家族照会を保留中。

 

003:燭台

 外部刺激による記憶線急揺れ、危険。

 

004:燭台

 縁は急がせるものではない。

 

005:燭台

 平穏希望。

 

006:真壁

 同意。

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「まだ早い、ということですか」

 

「うむ」

 

 真壁さんの声は静かだった。

 

「ヴァルト殿は、まだ現代側の家族について聞かないと決めている。こちらから揺らすべきではない」

 

 澪は、ヴァルトさんの顔を思い出した。

 

 二十歳と聞いた時に、何かをこらえていた顔。

 

 味噌汁を飲んだ時に、椀を置いた手。

 

 醤油の小瓶を抱えて眠っていた姿。

 

 死んだ者でも腹は減る、と言った声。

 

 知っているかもしれない。

 

 けれど、言ってはいけないかもしれない。

 

 その二つが、六畳間の空気の中で静かにぶつかった。

 

「……分かりました」

 

 澪は小さく頷いた。

 

 燭台の火が、少しだけ柔らかくなる。

 

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【補足】縁について【低声】

 

001:燭台

 縁は触れた。

 

002:燭台

 名を結ぶ段階にあらず。

 

003:燭台

 結ぶ時は、向こうからもこちらからも近づくもの。

 

004:燭台

 赤い石、縁を呼ぶ色。

 

005:燭台

 ただし、急ぐな。

 

006:真壁

 心得た。

 

007:燭台

 平穏希望。

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 澪は机の上のケースを見た。

 

 赤いガーネットは、銀の枠に仮置きされたまま、小さく光っている。今日は完成させなかった。怖いから止めたのではない。ちゃんと留めるために、止まった。

 

 たぶん、この話も同じなのだ。

 

 触れたからといって、すぐに留めていいわけではない。

 

 真壁さんがケースを見て言った。

 

「その石も、急がずに留めた方がよい」

 

「はい。修さんにも、そう言われました」

 

 澪はケースの蓋を閉じた。

 

 小さな音が、六畳間に響く。

 

 真壁さんは、しばらく古い燭台を見ていた。

 

 燭台の火は、もう大きく揺れてはいない。ただ、いつもの炎より少し細く見えた。まるで、言いたいことは言った、あとは人間が考えろ、とでも言っているようだった。

 

 澪は閉じたケースから手を離せなかった。

 

 妙子さん。

 

 修さんの奥さん。

 

 柔らかく笑って、お茶を出してくれて、石を見る時には少しだけ厳しくて、修さんのことをよく分かっている人。

 

 その人が、ヴァルトさんの前世と関係しているかもしれない。

 

 そう思うだけで、工房で感じた温かさが、少し違う色に見えた。

 

「澪君」

 

「はい」

 

 真壁さんの声で、澪は顔を上げた。

 

「今見たものは、まだ誰にも話さない方がいい」

 

「リュシアさんにも、ですか?」

 

「今はな」

 

 真壁さんは短く答えた。

 

 それは、リュシアさんを信用していないという意味ではないのだと思う。むしろ逆だ。リュシアさんなら、知ってしまえば動いてしまう。商会主としても、友人としても、きっと何かを考える。

 

 そして、その何かがヴァルトさんに届いてしまうかもしれない。

 

「ヴァルトさんは、自分で聞かないって決めたんですよね」

 

「うむ」

 

「……じゃあ、私たちが先に知っているのも、変ですよね」

 

「変ではある」

 

 真壁さんは、そこで少しだけ視線を落とした。

 

「だが、世界の境目に関わっている以上、知ってしまうことはある。問題は、それをどう扱うかだ」

 

 どう扱うか。

 

 澪は、その言葉を胸の中で繰り返した。

 

 異世界のものを扱う。

 

 白金を扱う。

 

 味噌や醤油を扱う。

 

 魔獣素材を扱う。

 

 ガーネットを扱う。

 

 人の縁を扱う。

 

 扱うものが、だんだん重くなっている気がした。

 

 澪はケースを見た。

 

「修さんには、普通に聞けばいいんですよね」

 

「居酒屋の件か」

 

「はい」

 

「聞いて構わない」

 

 真壁さんは、何事もなかったように言った。

 

 澪は少し驚いた。

 

「行くんですか?」

 

「誘われたなら、断る理由はない」

 

「忙しいのに?」

 

「時間は作るものだ」

 

「修さん、すごく楽しみにしてましたよ」

 

「なら、なおさら断る理由はない」

 

 真壁さんの言い方は淡々としていた。

 

 でも、澪は少し安心した。

 

 六畳間に漂っていた重い空気が、ほんの少しだけ薄くなる。修さんが嬉しそうにしていた顔を思い出す。居酒屋で真壁さんと話したら絶対に面白い、と言っていた顔。

 

 澪は、スマホを取り出した。

 

「今、連絡してもいいですか?」

 

「構わん」

 

 修さんにメッセージを打つ。

 

 真壁さんに聞いてみました。

 予定が合えば、居酒屋ご一緒できそうです。

 妙子さんもご一緒とのこと、真壁さんも大丈夫そうです。

 

 送信してから、澪は少しだけ息を吐いた。

 

 すぐに既読がついた。

 

 早い。

 

 さらに、すぐ返事が来た。

 

 やった!

 ありがとう澪ちゃん!

 日程いくつか出すね。

 妙子も喜ぶと思う。

 真壁さんによろしく!

 

 文面がもう嬉しそうだった。

 

 澪は思わず笑った。

 

「修さん、すごく喜んでます」

 

「そうか」

 

「本当に行くんですよね?」

 

「うむ」

 

「変な素材の話、しすぎないでくださいね」

 

 真壁さんは、少しだけ考えるように目を伏せた。

 

「善処する」

 

 その瞬間、燭台の火が小さく揺れた。

 

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【警告】善処について【信頼度低】

 

001:燭台

 善処は便利な言葉。

 

002:燭台

 真壁使用時、実効性低。

 

003:真壁

 異議あり。

 

004:燭台

 却下。

----------------------------------

 

 澪は吹き出した。

 

「神様、そこは即答なんですね」

 

「不当な評価だ」

 

 真壁さんは真顔で言った。

 

「でも、少し分かります」

 

「澪君」

 

「はい」

 

「君までそちらにつくのは感心しない」

 

 澪は笑いながら、スマホを鞄の横に置いた。

 

 笑えたことに、少しほっとした。

 

 ヴァルトさんの縁の話は重い。

 

 妙子さんの名前を聞いただけで、古い燭台が反応した。

 

 でも、その直後に修さんから楽しそうな返信が来て、燭台が真壁さんの「善処」を信用しないと言った。

 

 六畳間は、そういう場所だった。

 

 世界の境目にあって、重い話も、くだらないやり取りも、同じ机の上に並んでしまう。

 

 澪は、ケースをもう一度そっと撫でた。

 

 赤い石は、まだ留まっていない。

 

 妙子さんのことも、まだ分からない。

 

 ヴァルトさんには、まだ言えない。

 

 でも、修さんとの居酒屋の約束は、少しずつ形になり始めている。

 

 途中のものばかりだ。

 

 指輪も。

 

 縁も。

 

 約束も。

 

 それでも、途中だから悪いわけではないのだと思った。

 

 修さんは、焦って留めるより一晩置いて見た方がいいと言った。

 

 妙子さんは、進む勇気と止まる勇気の両方がいると言った。

 

 古い燭台は、急ぐなと言った。

 

 真壁さんは、何も急かさなかった。

 

 澪はケースを鞄から出し、机の上に置いたままにした。

 

「真壁さん」

 

「何だね」

 

「この指輪、完成したら、ちゃんと見てください」

 

「もちろんだ」

 

「変な素材評価じゃなくて、普通に」

 

「善処する」

 

 燭台の火が、また小さく揺れた。

 

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【再警告】善処について【信用不可】

 

001:燭台

 繰り返す。

 

002:燭台

 善処は信用不可。

 

003:真壁

 不服。

 

004:燭台

 却下。

 

005:澪

 同意します。

 

006:真壁

 澪君。

----------------------------------

 

 澪は笑った。

 

 今度は、さっきより自然に笑えた。

 

 六畳間の机の上で、赤い石が小さく光っている。

 

 まだ完成ではない。

 

 けれど、確かに始まっていた。

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