澪は、鞄の中身をもう一度確認した。
ノート。筆記用具。前に修さんからもらった作業メモ。小さなハンカチ。スマホ。財布。いつものものが、いつものように入っている。
それなのに、今日は少し落ち着かなかった。
異世界側のことが、ずっと頭の奥に残っている。
森の中にできてしまった、真壁さん曰く小屋。地下室があって、二階があって、屋上があって、雨水を集めて、太陽の光で何かをして、空調までついている小屋。どう考えても小屋ではないのに、真壁さんは外見は小屋だと言い切った。
ヴァルトさんのことも残っている。
醤油の小瓶を抱えて眠っていた人。味噌汁を飲んで、どこか遠いところを見ていた人。死んだ者でも腹は減る、と言った人。森の中に、自分の逃げ場であり、押入商会の活動拠点にもなる場所を持つことになった人。
いろいろなことが、大きすぎた。
だからだろうか。
澪は、今日は何か小さいものを作りたかった。
商談でもない。支援でもない。冬支度でもない。森の拠点でもない。目の前の材料を見て、手を動かして、失敗しそうになりながら、少しずつ形にしていくようなことがしたかった。
修さんの彫金教室へ行く日でよかった、と澪は思った。
鞄を閉じようとしたところで、後ろから声がかかった。
「澪君」
「はい?」
振り向くと、真壁さんが小さなケースを持っていた。
黒い、指輪の箱より少し大きいくらいのケースだった。見た目は普通なのに、真壁さんが持っていると、普通ではないものが入っている気がしてしまう。実際、真壁さんが普通のものだけを渡してきたことは、あまりない。
「白金を集めた折に残ったガーネット素材を固めたものだ。良かったら使うと良い」
「ガーネット素材を……固めたもの?」
澪はケースを受け取った。
軽い。
けれど、蓋を開けた瞬間、呼吸が止まった。
赤い石が入っていた。
丸ではない。楕円だった。オーバル、と言うのだろうか。表面は細かくカットされていて、光を受けるたびに、赤が小さく跳ねる。暗く沈んだ赤ではない。明るい赤だ。けれど軽い色でもない。内側に少しだけ深い影があり、その奥から光が返ってくる。
澪は、ケースを持ったまま真壁さんを見た。
「これ、私が使っていいんですか」
「使わなければ石のままだ。使えば経験になる」
真壁さんは当然のように言った。
そういう言い方をされると、たしかに正しい気がしてしまう。石は石のまま置いておけばきれいなだけだ。でも、指輪になれば、身につけるものになる。作った経験にもなる。
けれど、きれいすぎる。
「失敗したらどうしようって思うんですけど」
「失敗してもよい。素材はまた出る」
澪は少しだけむっとした。
真壁さんに悪気がないのは分かる。むしろ安心させようとしてくれているのだと思う。でも、目の前の石がきれいすぎて、失敗してもいいとは思えなかった。
失敗してもいい。
でも、失敗したくない。
その二つが、胸の中で同時に立った。
澪はケースを閉じた。
「持っていきます」
「うむ」
「でも、ちゃんと修さんに相談してからにします」
「それがいい」
真壁さんはそこで、少しだけ満足そうに頷いた。
澪はケースを鞄にしまった。
鞄が少しだけ重くなった気がした。
実際には、石一つ分だ。重いはずがない。けれど、今日の鞄には、新しいものに挑戦する怖さが入った。
修さんの工房に入ると、金属の匂いがした。
澪は、その匂いだけで少し落ち着いた。
工具の並ぶ棚。作業台についた細かな傷。ヤスリ。ピンセット。銀板。小さなバーナー。石枠用の道具。窓から差し込む光が、作業台の上の細かな金属粉を薄く照らしている。
ここは、異世界の商談の席ではない。
森の中でもない。
孤児院でも、リュシア商会でも、六畳間でもない。
目の前のものを、目で見て、手で触って、少しずつ形にする場所だった。
「お、澪ちゃん」
奥から修さんが顔を出した。
いつもの柔らかい笑顔だったが、澪の顔を見ると、少し目を細めた。
「今日は顔つきが違うね」
「そうですか?」
「何か作りたい顔してる」
澪は思わず笑った。
図星だった。
「今日は、新しいものに挑戦したくて」
「いいね」
修さんは嬉しそうに頷いた。
「そういう時が一番伸びるよ」
その言葉で、澪の肩の力が少し抜けた。
澪は鞄からケースを出した。
「あの、実は石を持ってきたんです」
「へえ。どれどれ」
修さんは気軽な調子でケースを受け取った。
だが、蓋を開けた瞬間、顔つきが変わった。
笑顔が消えたわけではない。ただ、目が変わった。先生の目から、職人の目になった。
「ガーネットかい?」
「たぶん、そうです」
「たぶん?」
「いただき物で……」
澪は少し言葉を濁した。
異世界の白金を集めた時のガーネット素材を固めたものです、と説明するわけにはいかない。説明したところで、たぶん修さんは困る。澪も困る。
修さんは、それ以上の出どころを聞かなかった。
石をピンセットでつまみ、ルーペを目に当てる。赤い光が、レンズの下で揺れた。澪にはただきれいに見える石が、修さんの目には、厚みや角度や硬さや、扱いの難しさを持ったものとして見えているのだと思った。
「これは……パイロープにしては大きな石だなぁ」
「大丈夫ですか?」
澪の声は、自分でも少し緊張していた。
修さんはルーペを外して笑った。
「大丈夫かどうかで言うと、慎重にやる石だね。安い練習石じゃない。でも、悪くないよ。ちゃんとした石を一度扱うのは勉強になる」
勉強になる。
真壁さんと同じような意味の言葉なのに、修さんが言うと少し違って聞こえた。真壁さんは結果を見ている。修さんは手順を見ている。そんな感じがした。
澪は石を見た。
自分がこれを指輪にする。
そう思った瞬間、指先に小さな緊張が来た。
怖い。
でも、やりたい。
その怖さは、逃げたい怖さではなかった。
「妙子、ちょっと来てくれる?」
修さんが奥へ声をかけた。
澪は顔を上げた。
「妙子さん?」
「今日はうちの奥さんも参加するんだよ。前から澪ちゃんの話はしてたからね」
奥の部屋から、女性が出てきた。
四十代半ばくらいだろうか。落ち着いた雰囲気の人だった。派手な感じはない。髪はきちんと手入れされていて、目元が穏やかだった。工房に慣れているのか、工具の位置や、作業台の狭さを自然に避けて歩いてくる。
修さんの隣に立つと、二人の間に、長く一緒にいる人たちの空気があった。
女性は、澪を見て柔らかく笑った。
「飯島妙子です。よろしくね、澪さん」
澪は慌てて頭を下げた。
「よろしくお願いします。澪です」
妙子さんは、澪の名前を聞いた時、ほんの一瞬だけ目を細めた。
気のせいかもしれない。
名前を覚えようとしてくれたのかもしれない。
そう思って、澪はその小さな変化を深く考えなかった。
「妙子もたまに石留めを見るんだ。細かいところ、僕より容赦ないよ」
修さんがそう言うと、妙子さんは笑った。
「容赦がないんじゃなくて、曲がってるものを曲がってるって言うだけ」
「それを容赦がないと言うんだよ」
二人のやり取りに、澪は少し笑った。
工房の空気が柔らかくなる。
修さん一人の時は、教室という感じが強かった。妙子さんがいると、少し生活に近づく。作るものが、作業台の上のものではなく、誰かが身につけるものになる気がした。
三人で石を見た。
修さんは、石の形や厚み、カット、テーブル面、爪の位置、石座の高さを見ていた。光がどこから入って、どこで返るかを考えているらしい。
妙子さんは、別の見方をしていた。
澪の手を見て、石を見て、もう一度、澪の手を見る。指輪にした時、強すぎないか。日常で身につけられるか。横から見た時に浮きすぎないか。そういうことを見ているのだと思った。
「丸線で軽く作るより、石座をきちんと作った方がいいかな」
修さんが言った。
妙子さんが、石を横から見ながら首を少し傾ける。
「でも重すぎると澪さんには強いわ。横から見た時に、少し低めの方がいいんじゃない?」
「低くしすぎると光が入らない」
「そこは先生が頑張るところでしょ」
「はいはい」
修さんは苦笑した。
澪は、そのやり取りを見ているだけで少し安心した。
自分一人で考えたら、たぶん「きれいに作る」ことだけで頭がいっぱいになっていた。でも、修さんは作る側の目で見て、妙子さんは使う側の目で見ている。どちらも大事なのだと分かる。
「あの」
澪は、ケースの中の石を見ながら言った。
「全部きれいに作れる自信はないんですけど、できるところは自分でやりたいです」
修さんは嬉しそうに頷いた。
「いいね。じゃあ今日は、石枠の考え方からやろう」
妙子さんが、穏やかに言った。
「怖がりすぎなくて大丈夫。石を大事にするのと、触れないのは違うから」
澪は、その言葉に少し刺された。
彫金の話だ。
石の話だ。
でも、自分の今にも重なった。
大事だから、怖い。
失敗したくないから、触らない。
でも、触らなければ覚えられない。
異世界側のことも、そうかもしれなかった。孤児院のことも、商会のことも、冬支度も、ヴァルトさんのことも。大事に思うだけでは、何も進まない。
澪は小さく頷いた。
「やってみます」
修さんは銀材を出した。
「今回は銀で作ろう。白金は難しいし、練習には向かない。銀なら加工しやすいし、修正も効くから」
白金。
その言葉に、澪は一瞬だけ真壁さんの顔を思い出した。白金を集めた折に残った素材、というあの説明。あれを普通の会話のように言う真壁さんは、やっぱりどこかおかしい。
修さんは銀の帯を手に取り、石の横へ置いた。
「いきなり本番の石に合わせるけど、石枠は一回で完璧にしようと思わなくていいよ。大事なのは、石の形をちゃんと見ること」
澪はルーペを借りて、ガーネットを見た。
楕円だ。
でも、ただの楕円ではなかった。
厚みがある。カットの角度がある。正面から見る赤と、斜めにした時の赤が違う。明るい赤の奥に、少し深い影がある。光は表面だけで跳ねるのではなく、中を通って返ってくる。
鑑定を使いたくなった。
けれど、ここは現代側だ。修さんの工房だ。鑑定します、と言って目を凝らす場所ではない。
だから澪は、ただ見ることにした。
見て、考えて、もう一度見る。
サイズ。厚み。石座に乗る角度。爪がかかる位置。
見ているうちに、石が少しだけ情報を持ち始める。ただのきれいな赤ではなく、作るために必要な形として見えてくる。
「澪ちゃん、見る時間が長くなったね」
修さんに言われ、澪はルーペから目を離した。
「前より、ちゃんと見ないと怖いなって思うようになりました」
妙子さんが微笑む。
「いい怖がり方ね」
その言葉で、澪は少しだけ胸を張れた気がした。
銀の帯を切る。
曲げる。
石に合わせる。
最初は少し大きかった。
「ここを少し詰めようか」
修さんが指先で示す。澪は頷いて、もう一度、銀を合わせた。ヤスリの音が小さく鳴る。銀の粉が作業台に落ちる。ピンセットで石を仮置きするたびに、少し手が緊張した。
妙子さんは、横から石と澪の手を見ていた。
「向きは、こっちの方が澪さんの手には合いそう」
「そうですね。縦長に見えすぎると強いですか?」
「そう。石はきれいだけど、澪さんより前に出すぎると、指輪が勝っちゃう」
指輪が勝つ。
面白い言い方だと思った。
作るものは、ただ目立てばいいわけではない。身につける人と一緒に見えるものなのだ。
バーナーの準備に入ると、澪は少し息を整えた。
ロウ付けは、まだ緊張する。
合わせ目を確認し、銀ロウを置く。火が近づく。銀が熱を持つ。小さな銀ロウが、ふっと光って、吸い込まれるように合わせ目へ流れた。
澪は、思わず息を止めた。
「今の見えた?」
修さんが聞いた。
「はい。吸い込まれるみたいでした」
「それが見えるようになると、だいぶ違うよ」
妙子さんが横から言う。
「怖がってるけど、ちゃんと手は止まってないわね」
澪は少し照れた。
怖い。
でも、止まっていない。
それが少し嬉しかった。
休憩になった。
妙子さんがお茶を出してくれた。
工房の奥の小さな休憩スペースで、澪は湯呑みを両手で持った。作業台の音が止まると、急に自分の手の疲れが分かる。指先が少し熱い。肩にも力が入っていたらしい。
「学生さんなんでしょう?」
妙子さんが柔らかく聞いた。
「はい。大学で経済学を勉強してます」
「経済学。難しそうね」
「難しいです。最近はゼミもあって、ちょっと忙しくて」
商会のことは、もちろん言えない。
異世界で味噌を作っています、とも言えないし、森の中に地下室付き二階建て屋上付きの小屋ができました、とも言えない。言えたところで、説明できない。
修さんが笑う。
「澪ちゃん、最近忙しそうだもんね。前より目がしっかりしてきたけど、そのぶん疲れてる顔もする」
「そんなに出てますか」
「出てる出てる。手仕事は顔に出るよ」
妙子さんは、湯呑みに視線を落としてから、少し懐かしそうに言った。
「私もそのくらいの頃、何か作ることに憧れてたのよ。成人式の前って、変にいろいろ始めたくなるのよね」
成人式。
澪は普通に聞いた。
けれど、その言葉はどこかで引っかかった。
どこで、とはすぐに分からない。
修さんが軽い調子で言う。
「妙子は成人式の着物で家族ともめたんだっけ?」
「もめたんじゃなくて、父が余計なことを言っただけ」
「どこの家も父親は余計なことを言うんだな」
妙子さんは笑った。
柔らかい笑い方だった。
でも、ほんの一瞬だけ、遠くを見るような目をした。
「でも、そういう余計なことも、残るのよね」
澪は湯呑みを持ったまま、妙子さんを見た。
その声には、温かさと、少しの寂しさがあった。
家族の話なのだと思った。
ただ、それ以上は聞かなかった。
工房の休憩時間に、いきなり踏み込む話ではない。澪も、踏み込まれたくないものがたくさんある。だから、妙子さんの言葉をただ受け取るだけにした。
「そういうの、ありますよね」
澪が言うと、妙子さんは少しだけ目を細めて頷いた。
「あるわね」
その顔が、不思議とやさしかった。
作業に戻ると、銀の石枠は少しずつ指輪らしくなっていった。
整えて、石を置いて、また外して、少し削る。修さんが見る。妙子さんが横から向きを見る。澪がもう一度合わせる。
その繰り返しだった。
ガーネットを仮置きすると、銀の上で赤が明るく見えた。石単体で見た時より、少し表情が変わる。銀が赤を受けて、赤が銀を引き締める。
澪は息を止めた。
自分が作った枠に、石が乗っている。
まだ完成していない。
爪も整っていないし、本留めもしていない。
それなのに、急に指輪らしくなった。
小さい。
指輪は小さい。
味噌や醤油を作った時にも、形になった瞬間があった。冬支度の道具を並べた時も、孤児院に物資を届けた時も、何かが形になった感覚はあった。
でも、指輪は逃げ場がない。
少しの歪みが見える。少しの曲がりも、少しの高さの違いも、目の前に出る。小さいからこそ、誤魔化せない。
その代わり、うまくいった時の嬉しさも近かった。
自分の手の中にある。
そう思えた。
修さんが、石を外してから言った。
「今日はここまででもいいよ。焦って留めるより、一晩置いて見た方がいい」
澪は迷った。
早く完成させたい。
石が入ったところを見たい。
でも、怖い。
ここで焦って、取り返しのつかない傷をつけたくない。石がきれいだからこそ、急ぎたくない。
妙子さんが、澪の迷いを見て言った。
「新しいものを作る時って、進む勇気と止まる勇気、両方いるのよ」
澪は銀の枠を見た。
そして、ガーネットを見た。
赤い石は、まだ留まっていない。けれど、ちゃんとそこへ入る形になり始めている。
「今日は、ここまでにします」
澪は言った。
「ちゃんと見直してから留めたいです」
修さんは頷いた。
「いい判断」
妙子さんも微笑んだ。
「うん。似合う指輪になりそう」
澪は、まだ完成していない指輪を見た。
未完成なのに、何かが始まっている形をしていた。
片づけに入った頃、修さんが少しそわそわし始めた。
最初、澪はガーネットの出来を気にしているのかと思った。けれど違った。修さんの視線は、未完成の指輪ではなく、澪の方へ何度か向いている。
何か言いたそうだった。
でも、工房の先生として少し言い出しにくそうな顔だった。
「そういえば澪ちゃん」
「はい?」
修さんはヤスリを棚へ戻しながら、何気ない調子を装って聞いた。
「真壁さんって、最近忙しい?」
「忙しいと思いますけど……どうしてですか?」
修さんは照れ隠しのように笑った。
「いや、この前の話が面白かったからさ。あの人、妙に話が合うんだよ。普通の人じゃ出てこない角度から物を見るっていうか」
妙子さんが横から穏やかに言った。
「あなた、居酒屋に誘いたいんでしょう」
修さんは咳払いした。
「まあ、そうとも言う」
澪は思わず笑った。
修さんは、もう頭の中で居酒屋の席を想像している顔をしていた。カウンターなのか、奥の小上がりなのか。焼き鳥か、刺身か、煮込みか。お酒を飲みながら、金属の話、道具の話、変わった素材の話をする。隣で真壁さんが淡々と妙なことを言い、修さんがそれに食いつく。
まだ誘ってもいないのに、修さんの中ではかなり楽しそうな会になっているらしい。
「真壁さん、飲むの好きなんですか?」
澪が聞くと、修さんは嬉しそうに肩をすくめた。
「好きかどうかは分からないけど、飲み屋で話したら絶対面白い人だよ。ああいう人はね、作業台の前で話すより、少し酒が入った方が変な話が出る」
妙子さんが笑う。
「あなたが変な話を聞きたいだけでしょう」
「職人は変な話から学ぶんだよ」
「便利な言い方ね」
澪は、その言い方に少しだけ真壁さんを思い出した。
実務上は十分だ、とか、役割分担だ、とか、サービスだ、とか。
便利な言葉を便利に使う人は、現代側にもいるらしい。
修さんは、片づけたヤスリを棚に戻しながら言った。
「澪ちゃん、真壁さんに聞いてみてくれないかな。無理なら無理でいいんだけど。今度、三人でも四人でもいいから、軽く居酒屋でもどうですかって」
「四人?」
妙子さんが自分を指して笑った。
「私も行くわよ。夫を放っておくと、変な素材の話で帰ってこなくなるから」
「信用ないなぁ」
「あるから見張るの」
修さんは笑っていた。
けれど、本当に楽しみにしている顔だった。
澪は、未完成の指輪をケースにしまいながら頷いた。
「分かりました。真壁さんに聞いてみます」
「ありがとう。いやあ、楽しみだな」
「まだ聞くだけですよ?」
「分かってる、分かってる」
分かっている顔ではなかった。
澪は少し困ったように笑った。断られたらどう説明しよう。真壁さんは行くと言うだろうか。真壁さんと修さんが居酒屋で話したら、どんなことになるのだろう。
想像すると、少し怖くて、少し楽しみだった。
妙子さんが、そんな澪を見て柔らかく笑う。
「無理しなくていいのよ。聞くだけで」
「はい」
澪は頷いた。
工房を出る時、鞄の中には、未完成の指輪が入っていた。
銀の石枠。
まだ留まっていない赤いガーネット。
そして、まだ決まっていない居酒屋の約束。
どれも、途中だった。
けれど、途中だからこそ、少し楽しみだった。
帰り道、澪はケースの入った鞄をそっと押さえた。
新しいものに挑戦したかった。
その気持ちは間違っていなかったと思う。
怖かった。
でも、怖いから触らないのではなく、怖いまま触ってみることが大事だった。
真壁さんがくれた赤い石は、まだ指輪になっていない。けれど、もうただの石ではなくなっていた。自分の手で、少しだけ形を作った。その事実が、思っていたより嬉しい。
修さんが楽しみにしていた居酒屋の話も、頭に残っている。
修さんの嬉しそうな顔。
妙子さんの柔らかな笑顔。
工房の金属の匂い。
ガーネットの赤。
それは、異世界の商談でも、森の隠れ家でも、孤児院の冬支度でもなかった。
現代側の、ただの夜の約束。
澪は、そういう約束が少し楽しみだと思った。
六畳間に戻ると、畳の匂いがした。
低い机。本棚。押入れ。蛍光灯の白い光。修さんの工房にあった金属の匂いも、バーナーの熱も、ヤスリの音も、ここにはない。
けれど、鞄の中には今日作ったものがある。
澪は机の前に座り、ケースをそっと置いた。
真壁さんがいた。
いつものように、畳の部屋に自然に座っている。異世界にハイエースを持ち込み、森に小屋ではない小屋を作り、ロードバイクを置いて帰ってくる人なのに、六畳間では妙に収まりがいい。
ケースを開けると、銀の石枠と、まだ留めていない赤いガーネットが見えた。
真壁さんがそれを見る。
「悪くない」
「まだ完成してません。今日は石座までです」
「始まった形だな」
澪は少し照れた。
その言い方は、少し嬉しかった。
「あ、そうだ」
澪は思い出して顔を上げた。
「修さんが、真壁さんも誘って居酒屋に行きたいって言ってました」
「居酒屋か」
「はい。妙子さんも一緒にって」
真壁さんの手が、ほんの少し止まった。
澪はそれに気づきかけた。
けれど、先に本棚の上の古い燭台の火が揺れた。
いつもの揺れではなかった。
小さな炎の芯が、細く伸びる。風もないのに、左右に揺れる。まるで、見えない糸を探っているようだった。
「神様?」
澪が声をかける。
真壁さんが本棚の前に立った。
「見る」
真壁さんが古い燭台を鑑定した。
----------------------------------
【照会確認】現代側接触について【縁線反応】
001:燭台
照会を確認。
002:燭台
対象、オスヴァルト・クライン。
003:燭台
前世縁、微弱揺らぎ。
004:燭台
輪廻関係、現代側に反応あり。
005:燭台
血縁記憶線、接触未満。
006:燭台
同定、未確定。
007:燭台
干渉、非推奨。
008:燭台
平穏希望。
----------------------------------
澪は、表示を見つめた。
「オスヴァルト……ヴァルトさん、ですよね?」
「うむ」
真壁さんは即答した。
けれど、それ以上は言わなかった。
澪はもう一度、表示を見る。
前世縁。
輪廻関係。
現代側に反応。
血縁記憶線。
言葉の意味は分かるようで、分からない。けれど、胸の奥が少し冷える。今日、自分が会った誰かが、ヴァルトさんの前世と関係しているかもしれない。
頭に浮かんだのは、修さんだった。
そして、飯島妙子という、柔らかく笑う女性だった。
「これ、ヴァルトさんに言った方がいいんですか?」
燭台の火が、すぐに揺れた。
----------------------------------
【回答】告知可否について【慎重推奨】
001:燭台
今はならぬ。
002:燭台
本人、現代側家族照会を保留中。
003:燭台
外部刺激による記憶線急揺れ、危険。
004:燭台
縁は急がせるものではない。
005:燭台
平穏希望。
006:真壁
同意。
----------------------------------
「まだ早い、ということですか」
「うむ」
真壁さんの声は静かだった。
「ヴァルト殿は、まだ現代側の家族について聞かないと決めている。こちらから揺らすべきではない」
澪は、ヴァルトさんの顔を思い出した。
二十歳と聞いた時に、何かをこらえていた顔。
味噌汁を飲んだ時に、椀を置いた手。
醤油の小瓶を抱えて眠っていた姿。
死んだ者でも腹は減る、と言った声。
知っているかもしれない。
けれど、言ってはいけないかもしれない。
その二つが、六畳間の空気の中で静かにぶつかった。
「……分かりました」
澪は小さく頷いた。
燭台の火が、少しだけ柔らかくなる。
----------------------------------
【補足】縁について【低声】
001:燭台
縁は触れた。
002:燭台
名を結ぶ段階にあらず。
003:燭台
結ぶ時は、向こうからもこちらからも近づくもの。
004:燭台
赤い石、縁を呼ぶ色。
005:燭台
ただし、急ぐな。
006:真壁
心得た。
007:燭台
平穏希望。
----------------------------------
澪は机の上のケースを見た。
赤いガーネットは、銀の枠に仮置きされたまま、小さく光っている。今日は完成させなかった。怖いから止めたのではない。ちゃんと留めるために、止まった。
たぶん、この話も同じなのだ。
触れたからといって、すぐに留めていいわけではない。
真壁さんがケースを見て言った。
「その石も、急がずに留めた方がよい」
「はい。修さんにも、そう言われました」
澪はケースの蓋を閉じた。
小さな音が、六畳間に響く。
真壁さんは、しばらく古い燭台を見ていた。
燭台の火は、もう大きく揺れてはいない。ただ、いつもの炎より少し細く見えた。まるで、言いたいことは言った、あとは人間が考えろ、とでも言っているようだった。
澪は閉じたケースから手を離せなかった。
妙子さん。
修さんの奥さん。
柔らかく笑って、お茶を出してくれて、石を見る時には少しだけ厳しくて、修さんのことをよく分かっている人。
その人が、ヴァルトさんの前世と関係しているかもしれない。
そう思うだけで、工房で感じた温かさが、少し違う色に見えた。
「澪君」
「はい」
真壁さんの声で、澪は顔を上げた。
「今見たものは、まだ誰にも話さない方がいい」
「リュシアさんにも、ですか?」
「今はな」
真壁さんは短く答えた。
それは、リュシアさんを信用していないという意味ではないのだと思う。むしろ逆だ。リュシアさんなら、知ってしまえば動いてしまう。商会主としても、友人としても、きっと何かを考える。
そして、その何かがヴァルトさんに届いてしまうかもしれない。
「ヴァルトさんは、自分で聞かないって決めたんですよね」
「うむ」
「……じゃあ、私たちが先に知っているのも、変ですよね」
「変ではある」
真壁さんは、そこで少しだけ視線を落とした。
「だが、世界の境目に関わっている以上、知ってしまうことはある。問題は、それをどう扱うかだ」
どう扱うか。
澪は、その言葉を胸の中で繰り返した。
異世界のものを扱う。
白金を扱う。
味噌や醤油を扱う。
魔獣素材を扱う。
ガーネットを扱う。
人の縁を扱う。
扱うものが、だんだん重くなっている気がした。
澪はケースを見た。
「修さんには、普通に聞けばいいんですよね」
「居酒屋の件か」
「はい」
「聞いて構わない」
真壁さんは、何事もなかったように言った。
澪は少し驚いた。
「行くんですか?」
「誘われたなら、断る理由はない」
「忙しいのに?」
「時間は作るものだ」
「修さん、すごく楽しみにしてましたよ」
「なら、なおさら断る理由はない」
真壁さんの言い方は淡々としていた。
でも、澪は少し安心した。
六畳間に漂っていた重い空気が、ほんの少しだけ薄くなる。修さんが嬉しそうにしていた顔を思い出す。居酒屋で真壁さんと話したら絶対に面白い、と言っていた顔。
澪は、スマホを取り出した。
「今、連絡してもいいですか?」
「構わん」
修さんにメッセージを打つ。
真壁さんに聞いてみました。
予定が合えば、居酒屋ご一緒できそうです。
妙子さんもご一緒とのこと、真壁さんも大丈夫そうです。
送信してから、澪は少しだけ息を吐いた。
すぐに既読がついた。
早い。
さらに、すぐ返事が来た。
やった!
ありがとう澪ちゃん!
日程いくつか出すね。
妙子も喜ぶと思う。
真壁さんによろしく!
文面がもう嬉しそうだった。
澪は思わず笑った。
「修さん、すごく喜んでます」
「そうか」
「本当に行くんですよね?」
「うむ」
「変な素材の話、しすぎないでくださいね」
真壁さんは、少しだけ考えるように目を伏せた。
「善処する」
その瞬間、燭台の火が小さく揺れた。
----------------------------------
【警告】善処について【信頼度低】
001:燭台
善処は便利な言葉。
002:燭台
真壁使用時、実効性低。
003:真壁
異議あり。
004:燭台
却下。
----------------------------------
澪は吹き出した。
「神様、そこは即答なんですね」
「不当な評価だ」
真壁さんは真顔で言った。
「でも、少し分かります」
「澪君」
「はい」
「君までそちらにつくのは感心しない」
澪は笑いながら、スマホを鞄の横に置いた。
笑えたことに、少しほっとした。
ヴァルトさんの縁の話は重い。
妙子さんの名前を聞いただけで、古い燭台が反応した。
でも、その直後に修さんから楽しそうな返信が来て、燭台が真壁さんの「善処」を信用しないと言った。
六畳間は、そういう場所だった。
世界の境目にあって、重い話も、くだらないやり取りも、同じ机の上に並んでしまう。
澪は、ケースをもう一度そっと撫でた。
赤い石は、まだ留まっていない。
妙子さんのことも、まだ分からない。
ヴァルトさんには、まだ言えない。
でも、修さんとの居酒屋の約束は、少しずつ形になり始めている。
途中のものばかりだ。
指輪も。
縁も。
約束も。
それでも、途中だから悪いわけではないのだと思った。
修さんは、焦って留めるより一晩置いて見た方がいいと言った。
妙子さんは、進む勇気と止まる勇気の両方がいると言った。
古い燭台は、急ぐなと言った。
真壁さんは、何も急かさなかった。
澪はケースを鞄から出し、机の上に置いたままにした。
「真壁さん」
「何だね」
「この指輪、完成したら、ちゃんと見てください」
「もちろんだ」
「変な素材評価じゃなくて、普通に」
「善処する」
燭台の火が、また小さく揺れた。
----------------------------------
【再警告】善処について【信用不可】
001:燭台
繰り返す。
002:燭台
善処は信用不可。
003:真壁
不服。
004:燭台
却下。
005:澪
同意します。
006:真壁
澪君。
----------------------------------
澪は笑った。
今度は、さっきより自然に笑えた。
六畳間の机の上で、赤い石が小さく光っている。
まだ完成ではない。
けれど、確かに始まっていた。