押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第14話 姫様、量を測る

 

 篠原澪は、六畳間の床に大鍋を置いて、しばらく黙っていた。

 

 鍋は大きかった。

 

 両手で抱えれば、胸から顎の下まで隠れる。練馬のアパートからどこかへ持っていくには目立ちすぎるし、押し入れをくぐるにも邪魔になる。けれど、今日リュシアの屋台裏で子供たちに飲み物の作り方を教えるなら、この大きさが欲しかった。

 

 小さなボウルでは足りない。

 

 屋台の鍋を借りてもいいが、洗浄用と飲み物用を混ぜないためには、最初から自分で用途を決めた鍋を持ち込んだ方がいい。

 

 澪は鍋の縁に手を置き、目を閉じた。

 

 収納は、ただの袋ではない。

 

 それは第10話のあと、リュシアに教えられてから、澪が何度も意識してきたことだった。何を、いくつ、どんな状態で、何に使うためにしまうのか。そこまで頭の中の在庫表に載せなければ、澪の収納はうまく働かない。

 

 だから今日も、澪は頭の中に一行ずつ書き足すように意識した。

 

 品名、大鍋。

 

 数量、一。

 

 状態、洗浄済み。

 

 用途、飲料作成用。

 

 注意、洗浄剤を入れない。火にかけない。飲み物以外に使わない。

 

 そこまで決めてから、澪は鍋の縁を軽く叩いた。

 

「収納」

 

 大鍋が消えた。

 

 澪は手を伸ばした姿勢のまま、少しだけ息を止めた。

 

「……入った」

 

 小物なら、もう驚かない。カラビナも、タオルも、袋入りの商品も、在庫表に載せれば入る。けれど、大鍋は違う。大きい。重い。邪魔になる。それが、用途と状態を決めた途端に、ちゃんと在庫表の中へ収まった。

 

 便利だと思うより先に、澪は少し怖くなった。

 

 登録を間違えたら、どうなるのだろう。

 

 飲み物用とした鍋に、洗浄剤を入れたことにしてしまったら。洗浄済みとした道具が、本当は洗えていなかったら。収納は荷物を軽くするだけではない。自分の管理の甘さまで、一緒に持ち運んでしまう。

 

 澪は床に並べた荷物を見た。

 

 次亜塩素酸系の洗浄・消毒用品。クエン酸。黒砂糖。塩。秤。柄杓。ブリタの浄水器。

 

 どれも、使い方を間違えると困る。

 

 澪はスマホを見ないようにしながら、買い物袋の口を結んだ。画面には大学の課題提出日の通知が出ているはずだった。見れば現実に戻される。見なくても現実は消えない。

 

「まず、飲み物。課題は帰ってから」

 

 声に出した瞬間、自分でも少し信用できなかった。

 

 

 

 

 

 押し入れを抜けると、熱気と香辛料のにおいが顔にぶつかった。

 

 リュシアの屋台裏は、朝から忙しかった。焼いた肉の脂が鉄板ではね、刻んだ香草の香りが石畳の熱に混じっている。トトたちは木箱を運び、年下の子に「そっちは持つな」と兄貴ぶって指示を出していた。

 

「澪、今日は売る日じゃない顔だね」

 

 リュシアは鍋をかき混ぜながら、肩越しにそう言った。

 

「分かりますか」

 

「売る日より、眉間が寄ってる」

 

 澪は思わず額に触った。

 

「今日は、洗い方と飲み物の作り方を教えたいです。試供品を渡す前に、扱い方を覚えてもらわないと危ないので」

 

「なら、火の近くはやめよう。子供が集まると、絶対に誰かが肘をぶつける」

 

 リュシアはすぐに屋台裏の壁際を指した。そこには木箱が二つ、細い作業台が一つあった。石畳は少し傾いているが、火からは離れている。

 

「トト、そこの箱をこっちへ。小さい子はまだ呼ばない。先に置き場を作る」

 

「はーい!」

 

 トトが返事をして木箱を引っぱった。角が石畳に当たり、ごりっと嫌な音がする。

 

「壊すなよ」

 

「壊してない!」

 

「壊す前の音がしたよ」

 

 リュシアの一言に、周りの子供たちが笑った。

 

 澪は作業台の前にしゃがみ、収納から大鍋を取り出した。

 

 大鍋が石畳の上に現れる。今度は、澪も落ち着いていた。目の前から出てきたことに騒ぐ必要はない。リュシアも驚くより先に、鍋の内側をのぞいた。

 

「大きい物も登録できるようになったんだね」

 

「入ったんですけど、ちょっと怖いです」

 

「登録名は?」

 

 リュシアの確認は早かった。

 

 澪は少し背筋を伸ばした。

 

「大鍋、一つ。洗浄済み。飲料作成用。火にかけない。洗浄剤を入れない。飲み物以外に使わない」

 

「うん。今日はその通りにする」

 

 リュシアはあっさりそう言って、鍋の横に木箱を一つ置いた。

 

 トトが横から大鍋をのぞき込む。

 

「姉ちゃんの収納、袋じゃなくて表なんだよね」

 

「そう。何を入れたか、ちゃんと決めておくやつ」

 

「じゃあ、その鍋は飲み物の表?」

 

「だいたい合ってる。だから洗い物には使わない」

 

「めんどくさい収納だな」

 

「私もそう思う」

 

 澪が本音で答えると、トトはなぜか満足そうにうなずいた。

 

 そこへ、屋台の正面から軽い足音が近づいてきた。少年服の裾を払うようにして、エレナ・ヴァルディスが顔を出す。帽子の下から赤い髪が少しこぼれ、琥珀に似た瞳が大鍋と荷物を順番に見た。

 

「今日は何をする」

 

 護衛が一歩遅れて現れ、すでに疲れた顔をしていた。

 

「エレナ様、屋台裏へ入る時は一声かけてください」

 

「今かけた」

 

「入る前に、です」

 

 エレナは聞いていなかった。大鍋の縁を指で叩こうとして、護衛に手首を止められた。

 

「まだ何もしていない」

 

「何かする前に止めています」

 

 リュシアは笑いもせず、木箱の位置を直した。

 

「姫様、今日は飲み物の作り方です。見るのは構いませんが、澪がいいと言うまで触らないでください」

 

「私は見るだけだ」

 

「前回も、最初は見るだけでした」

 

 エレナは帽子のつばをつまんだ。

 

 扇子を一本壊したことは、本人の中でもまだ消えていないらしい。むっとした顔をしながらも、大鍋から半歩下がった。

 

「分かった。今日は壊さない」

 

「その宣言が少し怖いです」

 

 澪が小さく言うと、トトが吹き出した。

 

 

 

 

 

 澪は買い物袋から、次亜塩素酸系の洗浄・消毒用品とクエン酸を取り出した。周りの子供たちの笑いが、少しだけ静まった。ここからは、笑って済ませてはいけない。

 

 澪は木箱を二つ並べた。

 

 左の箱には洗浄・消毒用品。右の箱にはクエン酸。黒砂糖と塩は別の作業台へ置き、秤と柄杓はそのさらに奥へ置いた。

 

「最初に言います。これは、混ぜたらだめです」

 

 澪は洗浄・消毒用品とクエン酸を順番に指した。

 

 トトが首を傾げる。

 

「混ぜたら強くなる?」

 

「ならない。危ない」

 

 澪の声が硬くなった。

 

 横にいた子が、クエン酸の袋を洗浄用の箱へ寄せようとしていた。澪はとっさにその手を止めた。

 

「そこへ置かないで」

 

 子供の肩がびくっと跳ねた。

 

 澪はすぐに手を離し、息を整えた。怖がらせたいわけではない。けれど、ここで曖昧にすると、あとで誰かが怪我をするかもしれない。

 

「ごめん。びっくりさせた。でも、これは本当にだめ。洗うための物と、飲み物に使う物は、同じ箱に入れない。同じ器にも入れない。間違えたら、今日は作らない」

 

 リュシアが澪の顔を見た。

 

 いつもの澪なら、少し困ったように笑って説明する。けれど今は笑っていない。それを見て、リュシアはすぐに屋台裏から別の箱を持ってきた。

 

「トト、聞いたね。こっちの箱は澪に聞くまで触らない。姫様もです」

 

「私もか」

 

「姫様が一番です」

 

 護衛が深くうなずいた。

 

 エレナは不満そうだったが、澪の顔を見て言い返さなかった。代わりに、遠くから洗浄・消毒用品の容器を観察している。興味はある。だが、触ったら本気で止められると分かった顔だった。

 

「毒なのか」

 

「毒として持ってきたんじゃありません。使い方を間違えると危ないんです」

 

「刃物と同じか」

 

 エレナがそう言うと、トトたちの顔に少し理解が戻った。市場では包丁も針も火も使う。危ないから遠ざけるだけではなく、危ない物ほど約束を守って扱う。

 

 リュシアは布を二枚出した。

 

「洗浄用を触った手で、黒砂糖や塩には触らない。分からなくなったら、手を洗う。返事は?」

 

「はーい」

 

 子供たちの声がそろった。

 

 エレナも、少し遅れて手を上げた。

 

「私は?」

 

「姫様は、まず見ていてください」

 

「つまらん」

 

「つまらないくらいでちょうどいいです」

 

 護衛の声は切実だった。

 

 

 

 

 

 洗浄の手順を見せたあと、澪はブリタの浄水器を出した。

 

 透明な容器を見た瞬間、エレナが目を輝かせた。護衛がすぐ横へ立つ。まるでエレナの手が伸びる場所を先にふさぐ訓練でもしているかのようだった。

 

「これは何だ。硝子ではないな。水差しか」

 

「水を少し飲みやすくする道具です」

 

「魔道具か」

 

「違います」

 

 澪は即答した。

 

 エレナは納得しない顔で、容器の上部を見つめた。澪が上から水を注ぐと、子供たちが一斉にのぞき込む。水はすぐには下へ落ちない。ぽたり、ぽたりと、ゆっくり落ちていく。

 

「遅い」

 

 トトが率直に言った。

 

「そう。遅いです。だから、急ぐ時には向かない」

 

「では、なぜ使う」

 

 エレナが聞いた。

 

「においや、細かい汚れを減らしたいからです。これだけで全部安心、とは言いません。でも、飲み物を作る時に、少しでも変なにおいを減らしたい」

 

 澪は下に落ちた水を小さな器に入れ、リュシアへ渡した。リュシアは少し口に含み、舌で確かめるようにしてから飲み込んだ。

 

「……違うね。井戸の水より、喉に当たる感じが少ない」

 

 リュシアはもう一度、浄水器を見た。珍しいからではない。屋台裏でどこに置くか、何杯分に足りるか、誰が待てるかを考えている顔だった。

 

 エレナも器を受け取り、一口飲んだ。

 

「魔道具ではないと言ったな」

 

「はい」

 

「だが、水が変わった」

 

「魔道具ではないです」

 

「では、魔法ではない道具か」

 

「……それなら、近いかもしれません」

 

「やはり怪しい」

 

 エレナは満足げだった。澪は否定する気力を少し失った。

 

 

 

 

 

 次は大鍋の番だった。

 

 澪は浄水した水を大鍋へ入れ、柄杓をトトに渡した。トトは背筋を伸ばした。道具を任されると、子供は急に真面目な顔になる。

 

「この柄杓で、同じ量を入れて」

 

「同じ量ね。分かった」

 

 トトは柄杓いっぱいに水をすくい、大鍋へ注いだ。二杯目は少し少ない。三杯目は多すぎて、縁からこぼれた。

 

「トト」

 

「同じにした!」

 

「今こぼれた分は?」

 

「地面」

 

「じゃあ同じじゃない」

 

 トトは濡れた石畳を見下ろした。心底納得できない顔をしている。

 

「地面も飲む?」

 

「飲まない」

 

 子供たちが笑い、リュシアが額を押さえた。

 

 澪は秤を出した。作業台の上に置くと、エレナが素早く近づいた。今度は護衛が半歩遅れ、エレナの指が秤の皿に触れる。

 

「これは何をする」

 

「量を測る道具です」

 

「重さか」

 

「はい」

 

 エレナの目がさらに輝いた。

 

「黒砂糖を測るのだな」

 

 正解だった。

 

 澪は黒砂糖の袋を開けた。甘い香りがふわっと広がる。トトたちの視線が一斉に袋へ集まった。リュシアの屋台には甘い物もあるが、子供たちが好きなだけ口にできる物ではない。

 

「まず、これくらい」

 

 澪が秤の上に黒砂糖を少しずつ乗せると、トトが不満そうな声を出した。

 

「少ない」

 

「飲み物だから」

 

「甘い方が元気が出る」

 

「出るけど、これはおやつじゃないの」

 

 横からエレナの手が伸びた。澪が振り向くと、エレナは何食わぬ顔で黒砂糖のかけらをひとつ追加しようとしていた。

 

「エレナ様」

 

「少しだ」

 

「その少しを全員がやったら、甘い鍋になります」

 

「甘い鍋は悪くない」

 

「暑さ対策から離れます」

 

 エレナは黒砂糖を見つめ、澪を見て、もう一度黒砂糖を見た。護衛が後ろで、どうか戻してください、という目をしている。

 

 リュシアが横から言った。

 

「姫様、甘くしすぎると、次も同じ味を欲しがります。市場の子が毎日それだけ黒砂糖を使えると思いますか」

 

 エレナの手が止まった。

 

 市場の子供たちも黙った。甘い物はうれしい。けれど、毎日作れないほど高くなったら、自分たちのための飲み物ではなくなる。

 

 エレナは黒砂糖を皿から戻した。

 

「……なら、測る」

 

 澪は少し驚いた。前回扇子を壊した時の勢いから考えると、もっと粘ると思っていた。エレナは騒ぐが、ただ自分の望みを通したいだけではないらしい。

 

 次に塩を出すと、子供たちの反応は黒砂糖とは違った。

 

「塩も入れるの?」

 

 トトが目を丸くした。

 

「少しだけ」

 

「甘いのに?」

 

「汗をかくと、身体から塩も出るから」

 

 澪が小さな匙で塩を取ると、横にいた子が慌てた。

 

「そんな高いの、入れていいの?」

 

 その声には嫌がる響きではなく、心配があった。塩は毎日の食事に必要だが、安いものではない。まして甘い飲み物に入れるとなると、子供たちには贅沢に見えるのだろう。

 

 リュシアがうなずいた。

 

「荷を運んで汗をかく子なら、塩は要る。薄いスープを飲ませるのと同じだよ。ただし、入れすぎたら飲めない」

 

「贅沢な飲み物だな」

 

 エレナがつぶやいた。

 

「贅沢にしないために、少しだけです」

 

 澪は塩を鍋へ入れた。

 

 クエン酸はさらに少量。酸味が強すぎると飲みにくい。澪が袋を開けた瞬間、エレナがまたのぞこうとしたので、護衛が今度は完璧に止めた。

 

「エレナ様、それは先ほど澪様が真剣な顔をした品の近くにありました」

 

「これは飲み物用だろう」

 

「それでも、まず澪様の手元を見てください」

 

 護衛が必死だった。エレナは少し不服そうにしながらも、両手を後ろで組んだ。

 

 澪は大鍋を柄杓でゆっくり混ぜた。甘い香りに、ほんの少し酸味のあるにおいが混じる。屋台の肉や香草の強いにおいの中で、その飲み物は妙に現代寄りで、けれど黒砂糖の香りだけはこの市場によくなじんでいた。

 

 

 

 

 

「味見します。少しずつです」

 

 澪は小さな器を並べた。トトたちが手を伸ばそうとして、リュシアに手首を軽く叩かれる。

 

「順番。熱い鍋じゃないけど、こぼしたら終わり」

 

「はい」

 

 最初にリュシアが飲んだ。表情はあまり変わらない。次にトト。トトは一口飲み、眉を寄せた。

 

「薄い」

 

「うん。お菓子じゃないから」

 

「でも、もう一口」

 

 トトは器を見た。残りが少ないことに気づき、ちびちび飲み始める。横の子も飲み、首を傾げた。

 

「甘いけど、すっぱい」

 

「塩もいる」

 

「変なのに、喉が楽」

 

 子供たちの反応は、どれも正直だった。おいしい、と飛びつくほどではない。けれど、暑い石畳を歩いてきた身体には、ただの水より少し長く残るらしい。

 

 エレナは器を両手で受け取った。護衛がすぐ横に立つ。毒見が必要なのでは、という顔をしていたが、リュシアも子供たちも飲んでいるので口には出さない。

 

 エレナは一口飲んだ。

 

 しばらく黙る。

 

「……菓子ではないな」

 

「はい」

 

「祭りの飲み物でもない」

 

「はい」

 

「これは、倒れないための飲み物なのだな」

 

 澪は少しだけ息をのんだ。

 

 エレナの声には、いつもの好奇心だけではないものがあった。市場を歩き、子供たちを見て、暑い日に荷を運ぶ姿を知っているから出た言葉だった。

 

「そうです。おいしく作りすぎると、たくさん飲みたくなるし、高くなります。だから、毎日作れる味にしたいんです」

 

 エレナは器の底を見つめた。

 

「なら、黒砂糖を増やしてはならんな」

 

 護衛が感動したように小さくうなずいた。

 

 しかし次の瞬間、エレナは顔を上げた。

 

「だが、私が量るなら、少し多くてもばれないのではないか」

 

「ばれます」

 

 澪、リュシア、護衛、トトの声がほぼ同時に重なった。

 

 エレナはむっとした。

 

「なぜ全員で言う」

 

「前科があるからです」

 

 リュシアが容赦なく言い、エレナは壊れた扇子のことを思い出したのか、帽子のつばを引き下げた。

 

 

 

 

 

 飲み物ができたあとも、片付けの方が大変だった。

 

 リュシアは木箱を三つに分けた。壁際の箱には洗浄に使う物だけ。作業台の上には黒砂糖、塩、クエン酸。大鍋の近くには柄杓、秤、器。子供たちの手が届きすぎる位置に置いたものは、すぐにリュシアが直した。

 

「トトは器を並べる。こっちの子は飲み終わった器を洗い場へ持っていく。小さい子には洗浄の箱を触らせない。澪がいない時は、飲み物を作らない」

 

「リュシア姉ちゃん、俺、測るのは?」

 

「今日は水だけ。黒砂糖は澪か私が見る」

 

「えー」

 

「えー、じゃない。さっき地面に飲ませただろう」

 

 トトは石畳を見て、今度こそ言い返せなかった。

 

 澪は手順メモを取り出し、屋台裏の台に置いた。濡れた手で触られないように、少し高い木箱の上に広げる。字が読めない子もいるので、リュシアと相談して、器の形と置き場所を絵で描いた。

 

 洗浄用の箱には、触る前に澪かリュシアへ聞く印として、赤い紐を結んだ。飲み物用の台には、黒砂糖の袋を奥へ置き、手前に秤を置く。塩は小さな容器へ移し、蓋をきつく閉めた。

 

 エレナは秤の前から動かなかった。

 

「次は私が量る」

 

 護衛の顔が白くなった。

 

「エレナ様、刃物ではありませんが、黒砂糖が増えます」

 

「増やさない」

 

「先ほど増やそうとしました」

 

「あれは増やす前だ。未遂だ」

 

 澪は笑いそうになって、口元を押さえた。笑うとエレナが本気で怒りそうだった。

 

 リュシアは秤を軽く叩いた。

 

「姫様、黒砂糖を増やさないなら、次に一度だけ。澪が横にいる時です」

 

「一度だけか」

 

「一度だけです」

 

「では、完璧に量る」

 

 エレナは胸を張った。護衛はまったく安心していない顔だった。

 

 トトが小声で澪に聞いた。

 

「姫様が量ったら、甘くなる?」

 

「……見張ります」

 

「俺も見る」

 

「お願い」

 

 市場の子供に監視される侯爵令嬢という絵面に、澪は少しだけ目眩がした。けれど、悪くない目眩だった。子供たちは楽しそうで、リュシアは忙しそうで、エレナは騒がしい。大鍋の中には、甘すぎない飲み物がまだ残っている。

 

 澪は、売る前に教えなければいけないのだと、ようやく身体で分かった。

 

 ペットボトルも、扇子も、タオルも、ただ渡せば終わりではない。洗う手、測る目、置く場所、触ってはいけない物を分ける判断。そういうものがあって、初めて道具になる。

 

 リュシアは澪のメモを見て、ふっと笑った。

 

「品物だけじゃないね」

 

「え?」

 

「澪が持ってくるのは、物だけじゃない。こうやって使う手順も一緒に来る。そっちの方が高くつくかもしれない」

 

 澪は返事に詰まった。

 

 高くつくと言われると怖い。だが、リュシアの声は責めていなかった。むしろ、商人として値段をつけるなら見落とすな、と言っているようだった。

 

「手順にも値段……」

 

「少なくとも、黒砂糖を山盛りにされないだけの価値はあるよ」

 

「それは大きいです」

 

 エレナが不満そうにこちらを見た。

 

「聞こえているぞ」

 

「聞こえるように言いました」

 

 リュシアがさらっと返し、子供たちがまた笑った。

 

 

 

 

 

 その日の帰り、澪は屋台裏を何度も振り返った。

 

 大鍋はリュシアの屋台に預けず、収納に戻した。飲料作成用、洗浄済み、使用後は持ち帰り。登録を直す時、澪は前よりもはっきり用途を意識した。洗浄・消毒用品とクエン酸も、まだ澪が持ち帰る。置きっぱなしにするには早い。

 

 トトたちは残念そうだったが、リュシアが「次に澪が来た時にまたやる」と言うと、すぐに次の役を取り合い始めた。

 

 エレナは最後まで秤を見ていた。

 

「次は私が量る」

 

「黒砂糖を増やさないなら」

 

「しつこいぞ、澪」

 

「大事なので」

 

 護衛が深く深く頭を下げた。澪は、あの人は毎日大変なんだろうなと思った。

 

 

 

 

 

 押し入れを抜けて六畳間に戻ると、現代日本の部屋はやけに静かだった。市場の熱気も、屋台の匂いも、子供たちの声もない。畳の上には、朝見なかったことにしたスマホがある。

 

 澪は座り込み、鞄から手順メモと在庫表を取り出した。今日使った黒砂糖の量、塩の量、クエン酸の量。洗浄・消毒用品は持ち帰り。大鍋も持ち帰り。秤と柄杓は次回も持参。

 

 そこまで書いてから、ふと鑑定を使った。

 

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篠原澪

 体力:37

 筋力:28

 集中:43

 睡眠:不足

 栄養:改善中

 鑑定:3

 収納:2

 商才:芽あり

 衛生管理:上昇中

 計量:学習中

 在庫管理:上昇中

 課題進捗:危険

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「収納、上がってる」

 

 澪は思わず声を出した。

 

 大鍋を持ち込んだおかげだろうか。ただ大きな物を入れたからではない。飲み物用、洗浄剤を入れない、使用後は持ち帰る。そこまで決めて出し入れしたから、収納が少しだけ澪の商売に合わせてくれた気がした。

 

 澪は少しだけ嬉しくなった。

 

 そして、そのすぐ下の文字を見た。

 

 課題進捗:危険。

 

 澪はスマホを手に取った。通知は増えていた。大学の課題提出日までの残り時間は、黒砂糖の量よりずっと正確に減っている。

 

「……人に量を測れとか言ってる場合じゃなかった」

 

 六畳間に、澪の声だけが落ちた。

 

 市場ではトトが柄杓の水をこぼし、エレナが黒砂糖を増やそうとした。

 

 現代では、澪が自分の残り時間を完全に測り損ねていた。

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