江古田の六畳間で、篠原澪は大鍋を前にして腕を組んでいた。
大きい。
両手で抱えれば、胸から顎の下まで隠れてしまう。
これを普通に抱えて外を歩くのは目立ちすぎるし、押し入れをくぐるにも邪魔になる。
けれど、今日リュシアの屋台裏で子供たちに飲み物の作り方を教えるなら、これくらいの大きさは欲しかった。
小さなボウルでは足りない。
屋台の鍋を借りる手もあるが、洗浄に使う物と飲み物に使う物は、最初から分けておいた方がいい。
なら、自分で用途を決めた鍋を持っていく。
問題は、どうやって持っていくかだった。
「……入るかな」
澪は大鍋の縁に手を置いた。
収納は、ただ物を放り込めばいい袋ではない。
少なくとも、澪の収納はそうだった。
何を入れるのか。
いくつあるのか。
どんな状態なのか。
何に使うのか。
リュシアに教えられてから、澪はそこを意識するようになった。
頭の中にある在庫表へ、ひとつずつ載せていくような感覚だ。
澪は目を閉じた。
品名、大鍋。
数量、1。
状態、洗浄済み。
用途、飲料作成用。
さらに、今日の使い方も意識する。
洗浄剤を入れない。
火にかけない。
飲み物以外には使わない。
そこまで決めてから、大鍋の縁を軽く叩いた。
「収納」
大鍋が消えた。
澪の手だけが、その場に残る。
「……入った」
カラビナやタオルなら、もうそれほど驚かない。
けれど今回は大鍋だ。
六畳間に置いてあるだけでも存在感があった物が、跡形もなく消えている。
「便利……」
思わず口から出た。
その直後、別の考えが浮かぶ。
「これ、登録を間違えたら怖いな……」
飲み物用の鍋なのに、洗浄用として扱ってしまったら。
洗浄済みだと思っていた物が、本当はきちんと洗えていなかったら。
収納が勝手に間違えるわけではない。
間違えるとしたら、自分の方だ。
澪は床に並べてある荷物へ目を向けた。
次亜塩素酸系の洗浄・消毒用品とクエン酸。
それとは離して、黒砂糖と塩。
秤、柄杓、ポット型の浄水器もある。
今日は、使い方だけでなく置き場所まで気をつけた方がよさそうだった。
その横で、スマホの画面が光った。
大学からの通知だった。
澪は見なかった。
正確には、見えたけれど読まなかった。
「まず飲み物。課題は帰ってから」
口に出してみる。
自分でも、あまり信用できない宣言だった。
◇ ◇ ◇
押し入れを抜けると、熱気と香辛料の匂いが顔にぶつかった。
リュシアの屋台裏は、朝から忙しい。
肉を焼く脂の匂いに香草の香りが混じり、トトたちは木箱を運びながら、年下の子供たちへ声を飛ばしていた。
「そっち持つなよ。こっち!」
すっかり兄貴分である。
リュシアが鍋をかき混ぜながら振り返った。
「澪、今日は売る日じゃない顔だね」
「分かりますか?」
「売る日より眉間が寄ってる」
澪は思わず額へ手を当てた。
「今日は、洗い方と飲み物の作り方を教えたいんです。試供品を渡す前に、扱い方を覚えてもらわないと危ないので」
「なら、火の近くはやめよう。子供が集まると、絶対に誰かが肘をぶつける」
リュシアは迷わず屋台裏の壁際を指した。
細い作業台と木箱があり、火からも離れている。
「トト、そこの箱をこっちへ。小さい子はまだ呼ばないよ。先に置き場を作る」
「はーい!」
トトが木箱を引っぱった。
ごりっ、と石畳に嫌な音が響く。
「壊すなよ」
「壊してない!」
「壊す前の音がしたよ」
子供たちが笑った。
澪も昨日の扇子を思い出した。
どうして最近、壊す話ばかりなのだろう。
作業台の前へしゃがみ、収納から大鍋を取り出す。
石畳の上に、大鍋が現れた。
リュシアは驚くより先に中をのぞいた。
「大きい物も登録できるようになったんだね」
「入ったんですけど、ちょっと怖くて」
「登録は?」
確認が早い。
「大鍋、1。洗浄済み。飲料作成用。火にかけない。洗浄剤を入れない。飲み物以外には使わない」
「うん。今日はその通りに使おう」
リュシアはそれだけ言って、鍋の横へ木箱を置いた。
トトが大鍋をのぞき込む。
「澪姉ちゃんの収納って、袋じゃなくて棚みたいなんだよね」
「そう。どこに何があるか、分けて入れる感じ」
「じゃあ、この鍋は飲み物の棚?」
「だいたい合ってる。だから洗い物には使わない」
「めんどくさい収納だな」
「私もそう思う」
即答すると、トトはなぜか満足そうにうなずいた。
そこへ、屋台の表から軽い足音が近づいてきた。
「今日は何をする」
少年服姿のエレナ・ヴァルディスが顔を出す。
その少し後ろから、オスカーも入ってきた。
すでに疲れている。
「エレナ様。屋台裏へ入られる時は、一声おかけください」
「今かけた」
「入る前に、です」
エレナは聞いていなかった。
大鍋へ近づき、縁を指で叩こうとする。
その手首をオスカーが止めた。
「まだ何もしていない」
「何かなさる前に止めております」
昨日も似たようなものを見た気がする。
たぶん、毎日こうなのだろう。
リュシアは平然と木箱の位置を直した。
「姫様、今日は飲み物の作り方です。見るのは構いませんが、澪がいいと言うまで触らないでください」
「私は見るだけだ」
「昨日も、最初は見るだけでした」
エレナの眉が寄った。
しばらく考えてから、大鍋より半歩下がる。
「分かった。今日は壊さない」
「その宣言が少し怖いです」
澪が漏らすと、トトが吹き出した。
エレナが睨む。
トトはすぐ大鍋の陰へ逃げた。
澪は買い物袋を開いた。
ここからは、笑って済ませるわけにはいかない。
洗浄・消毒用品を左の木箱へ。
クエン酸は右の木箱へ。
黒砂糖と塩は作業台の反対側へ置く。
秤と柄杓も洗浄用品から離した。
「最初に言います。これは、混ぜたら駄目です」
澪は洗浄・消毒用品とクエン酸を順番に指した。
トトが首を傾げる。
「混ぜたら強くなる?」
「ならない。危ない」
横にいた子が、クエン酸の袋を洗浄用品の箱へ寄せようとした。
「そこへ置かないで」
澪はすぐに手を止めた。
子供の肩がびくっと動く。
少し強く言いすぎた。
「ごめん。でも、これは本当に駄目。洗うための物と、飲み物に使う物は同じ箱へ入れない。同じ器にも入れない。どっちか分からなくなったら、その日は使わないで」
リュシアが澪の顔を見る。
すぐに別の箱を持ってきた。
「トト、聞いたね。この箱は、澪か私に聞くまで触らない。姫様もですよ」
「私もか」
「姫様が一番です」
オスカーが深くうなずいた。
そこは迷わないらしい。
エレナは不満そうだったが、今度は手を出さなかった。
「毒なのか?」
「毒として持ってきた物じゃありません。使い方を間違えると危ない物です」
「刃物と同じか」
「それに近いです」
市場では包丁も針も火も使う。
その例なら、子供たちにも分かりやすかったらしい。
リュシアが布を2枚出した。
「洗浄用を触った手で、黒砂糖や塩には触らない。分からなくなったら手を洗う。返事は?」
「はーい!」
声が揃った。
少し遅れて、エレナも手を上げる。
「私は?」
「姫様は、まず見ていてください」
「つまらん」
「つまらないくらいでちょうどいいです」
オスカーの声には妙な実感があった。
次に、澪はポット型の浄水器を取り出した。
透明な容器を見た瞬間、エレナの目が輝く。
同時にオスカーが半歩前へ出た。
完全に手が伸びる場所を読んでいる。
「これは何だ。硝子ではないな。水差しか?」
「水を少し飲みやすくする道具です」
「魔道具か」
「違います」
そこだけは即答した。
澪が上から水を注ぐ。
子供たちが一斉にのぞき込んだ。
ぽたり、ぽたりと、水がゆっくり下へ落ちていく。
「遅い」
トトが言った。
「そう。遅いです。だから、急いで水が欲しい時には向きません」
「では、なぜ使う?」
「水の匂いや、細かい汚れを減らしたいからです。これを通せば何でも安全、という道具じゃありませんけど、飲み物なら少しでも飲みやすい方がいいので」
澪は下にたまった水を小さな器へ入れ、リュシアへ渡した。
リュシアは一口含む。
「……違うね。井戸の水より、喉に引っかかる感じが少ない」
そのまま浄水器を見る。
珍しい物を見る顔ではない。
どこへ置くか。
何人分に使えるか。
この遅さで屋台に使えるのか。
もう、そちらを考えている。
エレナも一口飲んだ。
「魔道具ではないと言ったな」
「はい」
「だが、水が変わった」
「魔道具ではないです」
「では、魔法ではない道具か」
「……それなら、まあ」
「やはり怪しい」
なぜそこで納得するのだろう。
澪は否定する気力を少し失った。
次は大鍋だ。
澪はトトへ柄杓を渡した。
「同じ量ずつ、水を入れてみて」
「同じ量ね。分かった」
トトが胸を張った。
1杯目。
柄杓いっぱい。
2杯目は、少し少ない。
3杯目は多すぎて、縁から水がこぼれた。
「トト」
「同じにした!」
「今こぼれた分は?」
「地面」
「じゃあ同じじゃない」
トトは濡れた石畳を見る。
まだ納得していない。
「地面も飲む?」
「飲まない」
子供たちが笑った。
リュシアは額を押さえている。
「だから今日は、こっちで量ります」
澪はゲンダイから持ってきた1Lの容器を作業台へ置いた。
「これ1杯で1Lです。まず、水を1L」
容器の線まで水を入れ、大鍋へ移す。
エレナが身を乗り出した。
「毎回そこまで入れるのか?」
「はい。同じ物を作るなら、水の量も同じにします」
「柄杓では駄目なのか」
「トトが今、地面にも飲ませたので」
「飲ませてない!」
トトが抗議した。
濡れた石畳が、何も言わずに証拠になっていた。
澪はスマホを取り出した。
六畳間で調べておいた数字を確認する。
水、1L。
黒砂糖、30g。
塩、1.5g。
クエン酸、1g。
「今日は、この量で作ります」
エレナが画面をのぞこうとした。
「数字がある」
「あります」
「なぜ黒砂糖は30なのだ?」
「まずこの量で作って、飲める味か確かめるためです。途中で勝手に増やしたら、次に同じ物が作れなくなるので」
「増やすとは言っていない」
澪は返事をしなかった。
オスカーも何も言わなかった。
エレナが2人を見る。
「何だ、その顔は」
澪は秤を作業台へ置いた。
小さな器を載せ、表示を0に戻す。
「今、数字が消えたぞ」
「器の重さを数えないようにしました」
「便利だな」
「便利です」
黒砂糖を少しずつ載せていく。
18g。
23g。
27g。
小さな欠片を足して、29g。
「あと1だ」
トトが言った。
「そう」
もうひと欠片。
30g。
「ここで止めます」
「少ない」
トトがすぐに言った。
「1Lに30gだからね」
「もっと甘い方がいい」
横から手が伸びた。
エレナだった。
黒砂糖の欠片を1つつまんでいる。
「エレナ様」
「少しだ」
「載せてみます?」
エレナが目を瞬いた。
澪はその欠片を受け取り、秤へ載せた。
表示が変わる。
34g。
「4も増えた」
トトが目を丸くした。
エレナも秤を見る。
「……小さいぞ」
「見た目だけじゃ、重さは分からないんです」
澪は欠片を外した。
30gへ戻る。
「だから測ります」
エレナは少し黙った。
それから黒砂糖の袋から手を離す。
「……なら、測る」
もっと粘るかと思った。
理由が数字で見えれば、引く時は引くらしい。
リュシアが黒砂糖を見ながら言った。
「それに、甘くしすぎれば次も同じ味を欲しがるよ。市場の子が毎日、黒砂糖を好きなだけ使えると思う?」
エレナの顔から不満が消えた。
周りの子供たちも静かになる。
甘い方がいい。
でも、高くて続かなければ意味がない。
「30だな」
「30です」
澪は黒砂糖を大鍋へ入れた。
次は塩。
別の小皿を載せ、もう一度0へ戻す。
「塩も入れるの?」
トトが驚いた。
「少しだけ。1.5g」
「甘いのに?」
「汗をたくさんかくと、身体から塩も出るから」
小さな匙で塩を入れる。
1.1g。
もう少し。
1.4g。
ほんの少しだけ足して、1.5g。
横にいた子が心配そうに見ていた。
「そんな高いの、入れていいの?」
嫌なのではない。
もったいないのだ。
リュシアがうなずいた。
「荷を運んで汗をかく子なら、塩は要るよ。薄いスープを飲ませるのと同じだね。ただし、入れすぎたら飲めない」
「贅沢な飲み物だな」
エレナが言う。
「贅沢にしないために、1.5gです」
澪は塩を鍋へ入れた。
最後に、クエン酸。
新しい小皿へ替える。
「これは1gです」
「また少ないな」
「酸っぱいので」
慎重に入れていく。
0.6g。
0.9g。
少し足したら、1.1gになった。
「あ」
トトが言った。
「超えた」
「超えたね」
澪は匙の先で少し戻す。
1.0g。
エレナが秤をじっと見ていた。
「増えたら戻すのか」
「数字に合わせます」
「黒砂糖も?」
「黒砂糖もです」
エレナは口を閉じた。
オスカーがほんの少し安心した顔をした。
澪はクエン酸を大鍋へ入れ、柄杓で混ぜる。
「水1L、黒砂糖30g、塩1.5g、クエン酸1g。今日はこれで味を見ます」
リュシアが大鍋をのぞく。
「次も同じ数字?」
「まずは同じです。味を変えるなら、次に数字を変えます。途中で適当に足すのはなしです」
「なるほどね」
リュシアは秤を指で軽く叩いた。
「昨日は甘かった、今日は塩辛かった、じゃ売り物にならないからね」
「そういうことです」
エレナが秤を見る。
「次は私が30にする」
「黒砂糖を増やさないなら」
「30にするのだから増やさない」
「31になったら戻してください」
「分かっている」
オスカーが横から口を挟む。
「エレナ様。先ほど34になりました」
「あれは澪が載せたのだ」
「エレナ様がお渡しになった黒砂糖です」
「細かいぞ、オスカー」
「量を測るお話ですので」
澪は横を向いた。
笑ったら怒られそうだった。
大鍋をゆっくり混ぜる。
黒砂糖の甘い香りに、わずかな酸味が混じった。
「味見します。少しずつですよ」
小さな器を並べた。
トトたちの手が一斉に伸びる。
ぺしっ。
リュシアに止められた。
「順番。こぼしたら終わりだよ」
「はーい」
最初はリュシア。
次にトト。
一口飲んだトトが、微妙な顔をする。
「薄い」
「お菓子じゃないから」
「でも、もう一口」
残りが少ないと気づくと、急にちびちび飲み始めた。
横の子も口をつける。
「甘いけど、すっぱい」
「塩もいる」
「変なのに、喉が楽」
褒めているのかどうかは、よく分からない。
でも、飲めない味ではないらしい。
最後にエレナが器を受け取った。
オスカーがすぐ横に立つ。
エレナは一口飲んだ。
少し黙る。
「……菓子ではないな」
「はい」
「祭りの飲み物でもない」
「はい」
エレナは器の中を見た。
「これは、倒れないための飲み物なのだな」
澪はエレナを見る。
市場を歩き、荷を運ぶ子供たちを見てきたから出た言葉なのだろう。
「そうです。毎日作れる物にしたいんです。甘くしすぎて高くなったら、必要な人が飲めなくなりますから」
「なら、黒砂糖を増やしてはならんな」
オスカーが感動したようにうなずいた。
教育の成果が出た。
そう思ったのかもしれない。
「だが」
エレナが顔を上げる。
「私が量るなら、少し多くてもばれないのではないか」
「ばれます」
澪、リュシア、オスカー、トト。
ほぼ同時だった。
エレナがむっとする。
「なぜ全員で言う」
「前科があるからです」
リュシアが容赦なく返した。
エレナは黙って帽子のつばを下げた。
昨日の扇子を思い出したらしい。
飲み物ができても、それで終わりではない。
リュシアは木箱を3つに分けた。
洗浄に使う物。
飲み物に使う材料。
柄杓や秤、器。
子供の手が届きすぎる物は奥へ動かす。
「トトは器を並べる。そっちの子は飲み終わった器を洗い場へ。小さい子には洗浄の箱を触らせない。澪がいない時は勝手に作らない」
「リュシア姉ちゃん、俺、測るのは?」
「今日は水だけ」
「黒砂糖は?」
「澪か私が見る」
「えー」
「えー、じゃない。さっき地面に飲ませただろう」
トトが石畳を見た。
今度は反論できなかった。
澪は用意してきた手順メモを広げた。
字が読めない子もいる。
器の形と置き場所を簡単な絵にする。
洗浄用品の箱には赤い紐を結んだ。
「この赤い紐がついていたら、勝手に触らないでください」
子供たちがうなずく。
黒砂糖は奥。
秤は手前。
塩は小さな容器へ移して蓋をする。
飲み物1つなのに、やることが多い。
「次は私が量る」
エレナはまだ秤の前にいた。
オスカーの顔が引きつる。
「エレナ様。刃物ではありませんが、黒砂糖が増えます」
「増やさない」
「先ほど増やそうとなさいました」
「あれは増やす前だ。未遂だ」
澪は口元を押さえた。
笑ったら絶対に怒られる。
リュシアが秤を軽く叩いた。
「姫様。黒砂糖を増やさないなら、次に1度だけ。澪が横にいる時です」
「1度だけか」
「1度だけです」
「では、完璧に量る」
エレナは胸を張った。
オスカーはまったく安心していない。
トトが澪へ顔を寄せる。
「姫様が量ったら、甘くなる?」
「……見張ります」
「俺も見る」
「お願い」
市場の子供に監視されながら黒砂糖を量る侯爵令嬢。
昨日までは想像もしなかった。
リュシアが澪の手順メモをのぞいた。
「品物だけじゃないね」
「え?」
「澪が持ってくるのはさ。物だけじゃない。こうやって使うやり方まで一緒に来る」
赤い紐の箱を指す。
「そっちの方が高くつくこともあるかもしれないね」
「手順にも値段……」
物なら仕入れ値がある。
売値も決められる。
けれど、使い方を教える時間にいくら付けるのか。
考え込みかけた澪の横で、リュシアが笑った。
「少なくとも、黒砂糖を山盛りにされないだけの価値はあるよ」
「それは大きいです」
「聞こえているぞ」
エレナがこちらを睨んでいる。
「聞こえるように言いました」
リュシアは平然としていた。
子供たちがまた笑った。
帰る前に、澪は大鍋を収納へ戻した。
飲料作成用。
洗浄済み。
使用後は持ち帰り。
洗浄・消毒用品も持って帰る。
クエン酸も、まだ置いていかない。
子供たちは残念そうだったが、リュシアが「次に澪が来た時にまたやるよ」と言えば、すぐ誰が何をやるかで揉め始めた。
エレナは最後まで秤から離れなかった。
「次は私が量る」
「黒砂糖を増やさないなら」
「しつこいぞ、澪」
「大事なので」
オスカーが澪へ深く頭を下げた。
たぶん感謝されている。
何に対する感謝なのかは、考えないことにした。
◇ ◇ ◇
押し入れを抜けると、六畳間は驚くほど静かだった。
市場の声もない。
肉の焼ける匂いもない。
畳の上には、朝から見ないことにしていたスマホがある。
澪はちゃぶ台の前へ座った。
手順メモと在庫表を広げる。
今日使った黒砂糖は30g。
塩は1.5g。
クエン酸は1g。
洗浄・消毒用品と大鍋は持ち帰り。秤と柄杓も次回持参。
そこまで確認したところで、ふと思い立った。
「鑑定」
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篠原 澪
分類:人間/異界渡航者
役割:押入商会代表
現在ジョブ:商人
状態:睡眠不足/軽度疲労
疲労度:22%
身体異常:なし
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基礎能力値
体力:37
筋力:28
器用:49
知力:66
判断:51
精神:54
集中:43
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既得スキル
鑑定:3
収納:2
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成長傾向
商才:芽あり
危機回避:学習中
在庫管理:上昇中
----------------------------------
「……収納、上がってる」
1だった収納が、2になっている。
澪はもう一度、その数字を見た。
大鍋を入れたからだろうか。
ただ大きな物を入れただけではなく、飲み物用と決め、使い方まで分けて出し入れした。
その辺りが関係しているのかもしれない。
少し嬉しい。
そこで、スマホが光った。
大学からの通知だった。
「…………」
今度は逃げずに見る。
提出期限までの残り時間が表示されていた。
黒砂糖は30g。
塩は1.5g。
クエン酸は1g。
今日は散々、きちんと量れと言ってきた。
「……人に量を測れとか言ってる場合じゃなかった」
スマホの時計だけは正確だった。
提出期限も、きっちり近づいている。
澪は無言でノートパソコンを開いた。