押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第140話 約束の熟成酒

 

 真壁に居酒屋の話を切り出すのは、澪が思っていたよりもずっと簡単だった。

 

 六畳間の机にスマートフォンを置き、修さんから届いた日程候補を見せると、真壁は画面を少し眺めただけで、そのうちの一つを指で示した。

 

「ここなら空けられる」

 

「本当に行くんですね」

 

「誘われたからな」

 

「修さん、すごく楽しみにしてましたよ」

 

「それなら、なおさら断る理由はない」

 

 真壁はいつもの顔でそう言った。あまりにも平然としていたので、澪の方が少し拍子抜けした。修さんが喜ぶだろうという安心はあった。あの人は、真壁と酒を飲みながら、金属や石やよく分からない素材の話をすることを本当に楽しみにしていた。けれど、真壁と修さんが同じ卓についた時、話がどこまで深く潜っていくのかは、澪には想像がつかなかった。

 

 もう一つ、妙子も来る。

 

 そのことを思うと、澪の胸の奥に、前回の工房で見た妙子の笑顔が浮かんだ。穏やかで、こちらを急かさず、けれど手元や表情をよく見ている人だった。成人式の話をした時、一瞬だけ遠くを見るような目をしたことも覚えている。あの目の奥に何があったのか、澪には分からない。ただ、分からないままで接することも必要なのだと、最近少しだけ思うようになっていた。

 

 机の隅には、まだ本留めしていないガーネットの指輪が置かれている。赤い石は、銀の枠の中で光を受けるたびに少しずつ違って見えた。完成していないものを完成していないまま置いておくのは、以前の澪なら落ち着かなかったかもしれない。けれど今は、待つことにも意味があるのだと、修さんの工房で少しだけ教えられた気がしていた。

 

「澪君」

 

「はい」

 

「修殿に、承知したと返しておいてくれ」

 

「はい。あと、真壁さんが何か持っていくかもって、修さんがすでに読んでる気がします」

 

「ほう」

 

「ほう、じゃないです。持っていくんですか」

 

「手ぶらでは失礼だろう」

 

 真壁はそれだけ言って、六畳間の奥へ目を向けた。澪はその横顔を見ながら、手ぶらでは失礼という言葉が、真壁の場合どこまで広がるのかを考えた。芋、大豆、塩、麹、樽、瓶、倉庫、商会の段取りまで、必要と言えば当然のように動かす人である。居酒屋への手土産が本当に普通の範囲に収まるのかどうか、澪にはまったく分からなかった。

 

 

 

 

 

 待ち合わせの店は、駅から少し歩いたところにある、小さな居酒屋だった。

 

 表に大きな看板は出ていない。木の引き戸の横に小さな灯りがつき、落ち着いた色の暖簾が夜の風に少しだけ揺れている。入口の周りはきちんと掃かれていて、古い店なのに清潔な印象があった。外へ漏れる焼き鳥の匂いを吸い込んだ時、澪はようやく、自分が思ったより肩に力を入れていたことに気づいた。

 

 今日は現代側の居酒屋だ。大学帰りに通る駅前の通りと、少しだけ外れた店の灯りと、焼き鳥の匂い。そういう普通の夜の気配が胸に入ってくると、最近ずっと抱えていた大きすぎるものが、ほんの少しだけ遠ざかる気がした。

 

 隣を歩く真壁は、細長い包みを片手に持っていた。

 

「真壁さん、それは何ですか」

 

「手土産だ」

 

「普通の手土産ですか」

 

「もちろんだ」

 

 真壁の「もちろん」は、聞くたびに信用していいのか迷う。澪がそう思ったところで、木の引き戸が開いた。

 

「澪ちゃん、真壁さん」

 

 中から修さんが手を振った。まだ何も飲んでいないはずなのに、すでに顔が楽しそうだった。工房で居酒屋の話をした時と同じで、真壁と話すこと自体を心待ちにしていたのだと分かる顔だった。

 

 その隣で、妙子が穏やかに笑っている。

 

「こんばんは、澪さん。真壁さんも、今日はありがとうございます」

 

「こちらこそ、お招きいただき感謝します」

 

 真壁が丁寧に頭を下げると、妙子は少しだけ目を細めた。その視線は、値踏みではなく、相手の立ち方や声の調子を静かに受け取るようなものだった。澪は前回の工房で、妙子が自分の手元をよく見ていたことを思い出す。あの時も、妙子は澪の失敗しそうな場所を大声で止めるのではなく、そっと近くに立ってくれていた。

 

「奥、取ってあるよ。ここ、持ち込みも相談すれば大丈夫なんだ。今日は真壁さんが何か持ってくるかもしれないって言っておいた」

 

 修さんが当然のように言った。

 

「修さん、読んでたんですか」

 

「いや、真壁さんなら何か面白いものを持ってくるかなって」

 

「あなた」

 

 妙子が、修さんを軽くたしなめる。

 

「人を期待で追い詰めないの」

 

「でも、当たったみたいだよ」

 

 修さんの視線は、すでに真壁の包みに向いていた。真壁は特に困った様子もなく、包みを少し持ち上げる。

 

「以前の約束の品です」

 

 その一言で、修さんの顔がぱっと変わった。

 

「あの芋焼酎?」

 

「うむ」

 

「完成したんですか」

 

「完成というより、比較用の試作品ですな」

 

 澪は、そこで以前のことを思い出した。白金の相談に行った時、真壁はまだ若い芋焼酎を修さんへの手土産にしていた。修さんはそれを気に入り、完成したら一本譲ってほしいと言っていた。真壁は、その約束を忘れていなかったのだ。

 

 真壁は時々、とても変なことをする。澪が止める暇もなく、話を大きくすることもある。けれど、相手が本当に興味を持ったものや、何気なく口にした約束を、案外きちんと覚えている。そういうところがあるから、澪は困らされながらも、真壁の隣に立っていられるのだと思った。

 

 

 

 

 

 席に着くと、店員が飲み物と料理を聞きに来た。

 

 修さんは生ビール、妙子は梅酒を薄めで、真壁は日本酒、澪は烏龍茶にした。明日も大学があるし、そもそも今日は飲むつもりではない。妙子が「無理しなくていいのよ」と笑ってくれたので、澪は少し安心した。

 

「じゃあ、まずは乾杯だね」

 

 修さんが杯を持ち上げる。

 

「今日は飲みすぎないでね」

 

 妙子が言うと、修さんはすぐに頷いた。

 

「分かってる、分かってる」

 

「その顔は分かってない顔よ」

 

 修さんが肩をすくめるのを見て、澪は思わず笑った。乾杯の音が小さく鳴り、焼き鳥、刺身、煮込み、だし巻き卵が少しずつ運ばれてくる。店の中は賑やかすぎず、隣の席の声も遠かった。食器の当たる音と、炭火の匂いと、店員の控えめな声が混ざり合って、落ち着いて話すにはちょうどいい空気を作っている。

 

 少し料理をつまんだところで、修さんの視線が真壁の包みに戻った。待ちきれないというより、仕事の前に素材を確認する職人の顔になっている。

 

「それで、真壁さん」

 

「うむ」

 

「約束の品って」

 

「こちらです」

 

 真壁が包みをほどくと、小さな瓶が三本出てきた。それぞれの瓶には、オーク樽、楢樽、杉樽と簡単なラベルが貼ってある。

 

「芋焼酎を、それぞれの樽で熟成させたものです。一年分ほど変化を進めた試作品です」

 

 澪は、思わず真壁を見た。一年分ほど変化を進めた、という言い方は、普通の居酒屋でさらっと出していい言葉ではない。けれど、修さんは細かい方法より、三本の瓶そのものに意識を奪われていた。

 

「オーク、楢、杉……同じ酒を樽だけ変えたんですか」

 

「元の酒は同じです」

 

「それは面白いなあ」

 

 修さんの声が明らかに変わった。飲む前から、すでに味を想像している顔だった。

 

 妙子が小さくため息をつく。

 

「ほら、飲み比べを始める顔になった」

 

「これは仕方ないだろう。素材違いだよ」

 

「お酒でしょう」

 

「酒でもあるけど、素材の違いでもある」

 

 修さんは真剣だった。澪は烏龍茶のグラスを持ったまま、こういうところが真壁と合うのかもしれないと思った。修さんにとって酒は、ただ酔うためのものではない。木の種類や、時間のかかり方や、素材が中身に与える変化を確かめるものでもあるのだ。

 

 店員に小さなグラスを頼み、三種類が少しずつ注がれる。

 

 最初はオーク樽だった。修さんはグラスを持つと、すぐには口をつけず、香りを確かめるように少し傾けた。

 

「甘いですね。芋焼酎だけど、少し洋酒っぽい。バニラみたいな感じが出てる」

 

 真壁が頷く。

 

「オークは香りが強く出る」

 

 妙子も少しだけ香りを見た。

 

「本当。丸くて分かりやすいわね」

 

 澪も香りだけかがせてもらった。アルコールの匂いの奥に、甘い木の香りがあった。焼酎なのに、どこか洋菓子の箱を開けた時のような柔らかさがある。飲まなくても違いが分かるくらいで、澪は少し驚いた。

 

 次は楢樽だった。

 

 修さんは、今度は少し長く香りを見た。

 

「これは落ち着いてる。木の匂いはあるけど、オークほど甘くない。渋みもあるけど、嫌じゃないな。和食に合わせるなら、僕はこっちも好きです」

 

「楢は安定していますな」

 

「安定。うん、分かる。石枠で言うと、主張しすぎないけど全体を締める感じだ」

 

 石枠という言葉に、澪の耳が反応した。修さんは酒の話をしているのに、もう彫金の話をしている。同じものを飲んでいても、修さんの中では木の香りと銀の枠がつながっているのだ。

 

 最後は杉樽だった。

 

 小さなグラスに注がれた時点で、香りがふわりと立った。修さんが思わず声を出す。

 

「これは強い。杉ですね。分かりやすい。焼き魚とか、脂のあるものに合わせたくなるな」

 

 妙子は少し笑った。

 

「もう料理との相性まで考えているのね」

 

「合わせたくなるよ、これは」

 

 真壁がだし巻き卵を一切れ取りながら言う。

 

「杉は香りが立つが、使いすぎると中身を支配する」

 

 修さんがすぐに顔を上げた。

 

「それ、石でもありますね。石がきれいだからって枠を強くしすぎると、石も人も負ける。逆に弱すぎると支えられない。ちょうどいいところが難しいんです」

 

 その言葉に、妙子が澪を見た。

 

「澪さんのガーネットもそうね」

 

 澪は少し背筋を伸ばした。

 

「私のですか」

 

「あのガーネットは明るくて強い石だから、枠が強すぎると石ばかりが前に出るし、枠が弱すぎると落ち着かないと思うの。澪さんの手には、少し逃げのある枠の方が合うんじゃないかしら」

 

 修さんが頷く。

 

「石を留める時ってね、力で押さえればいいわけじゃないんだ。爪で締めすぎると欠けるし、ゆるすぎると外れる。留めるっていうのは、押さえ込むことじゃなくて、動かないだけの余裕を残して収めることなんだよ」

 

 澪は、前回の彫金教室で銀の枠を見つめていた自分を思い出した。早く完成させたい気持ちはあった。けれど、修さんも妙子も本留めを急がなかった。怖いから止めたのではなく、ちゃんと留めるために待ったのだと、今なら少し分かる。澪は、自分の指先にまだ残っているような銀の感触を、無意識に握りしめた。

 

「構造物も同じですな」

 

 真壁が静かに言った。

 

 澪は烏龍茶を飲みかけて、少しだけ手を止めた。真壁の言う構造物が、どの規模を指しているのか分からなかったからだ。澪の知っている範囲だけでも、真壁は必要と言いながら、芋や大豆や塩や麹を動かし、樽や瓶や倉庫の段取りを当然のように増やしてきた。真壁の「必要」は、普通の人の「必要」よりずいぶん大きい。だから構造物も同じですな、と言われても、澪にはその言葉の大きさを測れなかった。

 

「真壁さんも、構造を作る人なんですか」

 

 修さんが興味深そうに聞く。

 

「必要があれば」

 

「必要があれば、って言う人は大抵、普通の人が必要だと思わないものまで作るんですよ」

 

 澪は危うく烏龍茶を吹きそうになった。

 

「なるほど」

 

 真壁は、なぜか感心したように頷く。

 

「職人の観察ですな」

 

「ええ。経験上、そうです」

 

「否定はしない」

 

「否定しないんだ」

 

 修さんは嬉しそうに笑った。妙子は澪の反応を見て、声を立てずに笑っている。

 

「真壁さんって、いつもあんな感じなの?」

 

 妙子が小さく聞いた。

 

 澪は少し考えた。

 

「だいたい、あんな感じです」

 

「澪さん、大変ね」

 

「はい」

 

 即答した澪に、修さんと妙子が笑った。真壁は少し不満そうに澪を見る。澪はその視線を受けながら、事実です、と心の中でそっと付け足した。

 

 

 

 

 

 酒が進むと、修さんと真壁の話は、少しずつ濃くなっていった。

 

 樽の木目が香りにどう出るかという話から、金属を熱した時にどこまで色を見るかに移り、銀と白金でロウ付けの感覚がどう違うのか、石の硬さだけでなく割れ方を見る必要があること、研磨は削る作業ではなく面を整える作業であることへと、話題は自然につながっていった。澪には半分くらいしか分からなかったが、二人が本当に楽しんでいることは分かった。

 

 真壁は職人ではないはずなのに、妙に話が通じている。修さんは専門用語を出しすぎたと思うとすぐに補い、真壁は知らない言葉には無理に知った顔をせず、別の角度から返す。そのやり取りは、酒の席なのに工房のようでもあり、商談のようでもあった。

 

「同じ酒なのに、樽でここまで変わるんですね」

 

 修さんが楢樽のグラスを見ながら言った。

 

「受ける側で変わるものは多い。酒も、石も、道具も」

 

 真壁はそこで止めた。

 

 澪は、少しだけ考えた。受ける側で変わるものは、人にもあるのかもしれない。けれど、その考えはすぐに深く追わず、目の前のグラスと、修さんの指先に戻した。今は、酒と石と道具の話をしているのだ。澪はそう思い直し、烏龍茶の氷が小さく鳴るのを聞いた。

 

 妙子は、梅酒のグラスを両手で持っていた。

 

「受ける場所で変わる、か」

 

 その声が静かだったので、澪は少しだけ顔を向けた。

 

「私、成人式の前に、急に何かを自分で作りたくなった時期があったの。着物に合わせる小物とか、手元に残るものとか、そういうものに妙に惹かれてね」

 

 澪は、何も言わずに聞いた。

 

 妙子の思い出話は、前回の工房でも少しだけ聞いている。今日もそれは、妙子自身の昔の話として語られていた。澪の胸の奥にほんのわずかに引っかかるものはあったが、それを誰かと結びつけようとはしなかった。妙子が話しているのは、妙子の家族のことなのだ。

 

「父が余計なことを言ったのよ。似合わない色を選ぶなとか、派手すぎるとか。本人はたぶん悪気がなかったんだけど、あの時は腹が立ってね」

 

 修さんが小さく笑う。

 

「妙子、あの話になると今でも少し怒るからね」

 

「怒るわよ。でも、そういう余計な声も、時間が経つと残るのよね」

 

 妙子は笑っていた。けれど、その声の奥には少しだけ遠さがあった。澪は、その言葉を聞いて胸の奥が静かになるのを感じた。誰かの記憶に残る声というものを、自分はまだよく知らない。けれど、妙子がその声を嫌なものとしてだけではなく、時間が経っても残るものとして話していることは分かった。

 

 真壁は、妙子を探るようなことをしなかった。ただ、酒の杯を置いて静かに言った。

 

「残る声があるのは、悪いことではありませんな」

 

 妙子は少し驚いたように真壁を見て、それから柔らかく笑った。

 

「そうですね。残るうちは、まだ少し一緒にいるのかもしれません」

 

 澪は、その会話を聞きながら、踏み込まない優しさもあるのだと思った。聞けば何かが分かるのかもしれない。けれど、分かることと、相手の心に踏み込んでよいことは同じではない。今日の席では、その境目を誰も乱さなかった。

 

 

 

 

 

 話題が澪の指輪に戻ったのは、杉樽の焼酎が焼き鳥と合うという話からだった。

 

「澪ちゃん」

 

 修さんが、急に少し真面目な顔をした。

 

「はい」

 

「そろそろ、自分の道具を少し持ってもいいと思う」

 

「道具、ですか」

 

「高いものじゃなくていい。練習用のヤスリ、ピンセット、ルーペ、簡単な作業板、銀材を少し。家で火を使う必要はないけど、見たり、測ったり、軽く形を考えたりする道具はあってもいいと思う。自分の道具があると、見る目が変わるから」

 

 澪は少し慌てた。

 

「でも、家でバーナーとかは無理ですし」

 

「危ない作業は工房でやればいいよ。家で全部やれって話じゃない。手元で考えるための道具を持つってこと」

 

 妙子が頷く。

 

「自分の道具を持つと、手が育つわよ」

 

 手が育つ、という言い方が、澪の中にすっと入ってきた。

 

 自分の手は、異世界側で荷物を出したり、商会の帳面を見たり、鑑定を使ったりする手になっていた。けれど、ガーネットを触った時の手は、それとは違っていた。銀の端を見て、石の向きを考えて、ほんの少し削るだけで怖くなる手。けれど、その怖さの中に、逃げたいだけではない何かがあった。道具を持つというのは、自分の手が戻る場所を持つことなのかもしれない。

 

 真壁が、あっさりと言った。

 

「修殿、見繕っていただけるか」

 

「もちろん」

 

 修さんは嬉しそうに答えた。

 

「真壁さん、早いです」

 

「必要なものは早めに揃えた方がよい」

 

「まだ私、持つって決めたわけじゃ」

 

「嫌かね」

 

 聞かれて、澪は言葉に詰まった。

 

 嫌ではない。むしろ少し楽しみだった。自分のルーペ、自分のヤスリ、自分のピンセット、自分の作業板。そういうものが部屋にあるところを想像すると、前回ガーネットを見つめていた時の緊張が、少しだけ違う形に変わる気がした。

 

「嫌じゃ、ないです」

 

 澪がそう言うと、妙子が笑った。

 

「じゃあ、決まりね」

 

 修さんも頷く。

 

「最初は使いやすいもので揃えよう。高いものより、手に合うものがいい」

 

「よろしくお願いします」

 

 真壁が静かに頭を下げる。

 

 澪はまた話が大きくなったと思ったが、今回は嫌ではなかった。自分の手が少しずつ変わっていくなら、その変化を見てみたいという気持ちの方が強かった。

 

 

 

 

 

 店を出る頃、修さんはすっかり満足した顔になっていた。

 

「いやあ、面白かった。真壁さん、これは本当に勉強になりました」

 

「こちらこそ」

 

「個人的には楢が好きですね。杉は料理に合わせると面白いし、オークは単独で楽しむなら分かりやすい。いや、同じ酒でもここまで変わるんだなあ」

 

「杉は扱いが難しい」

 

「そこが面白いんですよ」

 

 修さんはにこにこしている。妙子は、その横で少し呆れたように、けれど楽しそうに笑っていた。

 

「次は、真壁さんの持っている変わった素材も見たいですね」

 

 修さんが言った。

 

 澪はすぐに真壁を見る。

 

 真壁は、何も悪いことをしていない顔で答えた。

 

「善処します」

 

 澪は、その言葉をあまり信用してはいけないと思った。

 

 妙子が澪の顔を見て笑う。

 

「澪さん、今すごく分かりやすい顔をしたわよ」

 

「えっ」

 

「真壁さんを止める係なのね」

 

 澪は少し考えてから答えた。

 

「止められているかは、分かりません」

 

 修さんが笑う。

 

「大変だ」

 

「はい」

 

 澪が素直に返事をすると、真壁が少しだけ不満そうに見る。

 

「澪君」

 

「事実です」

 

 妙子が、また柔らかく笑った。駅の方へ歩きながら、澪はその笑顔を見た。やはりこの人は優しい。けれど、その優しさを何か特別な意味に急いで結びつける必要はないのだと思った。今夜の妙子は、修さんの奥さんで、澪に道具の話をしてくれて、家族の声が残ると話した人だった。

 

 澪は、妙子をそういう人として受け止めていたかった。

 

 

 

 

 

 六畳間に戻ってから、澪は未完成の指輪を机の上に置いた。

 

 銀の石枠に、赤いガーネットはまだ留まっていない。その横に、真壁が持ち帰った三本の小瓶が並んでいる。オーク、楢、杉と書かれたラベルの下で、それぞれ中身は少しずつ減っていた。

 

 澪は机の前に座ったまま、小瓶と指輪をしばらく見比べた。同じ芋焼酎なのに、樽で香りが変わった。同じ赤い石なのに、銀の枠に置かれると表情が変わった。修さんの言葉や妙子の言葉も、工房で聞く時と居酒屋で聞く時では、胸に残る形が違った。

 

 妙子の話に少し引っかかったことも、澪の中には残っている。けれど、それを誰かと結びつけようとはしなかった。まだ分からないものを、分からないまま置いておくことも必要なのだと、今日の酒と石の話を聞いた後では、少しだけ思えた。

 

 修さんは、石を留める時は力で押さえればいいわけではなく、逃げ場がいると言った。妙子は、自分の道具を持つと手が育つと言った。澪は、酒も、石も、自分の手も、時間をかけて変わるものなのだと思った。急いで完成させるより、変わっていく途中を見ている時間が必要なのかもしれない。

 

 真壁が横から静かに言う。

 

「考え込んでいるな」

 

「はい」

 

「急ぐ必要はない」

 

「分かってます。でも、急がないでいるのも、難しいですね」

 

「うむ」

 

 真壁はそれ以上何も言わなかった。その沈黙が、今の澪にはありがたかった。答えを出されるより、隣で待たれる方が、少し息がしやすい。

 

 澪は、机の上の三本の小瓶と、まだ石を留めていない指輪をもう一度見比べた。オーク、楢、杉と書かれたラベルの下で、同じ酒は違う香りを得ている。銀の枠に仮置きされた赤い石も、裸のままケースに入っていた時とは違って見えた。今日の居酒屋で交わされた言葉も、すぐに答えになるものではなく、あとから少しずつ効いてくるものなのだろう。

 

 酒が熟成するには時間がいるし、石を留めるには逃げ場がいる。自分の手が育つにも、たぶん道具に触れる時間がいるのだと考えた時、澪はようやく少しだけ肩の力を抜けた。

 

 机の上で、ガーネットが小さく光る。

 

 まだ完成ではないけれど、少しずつ変わっているものが、確かにある。

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