押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第141話 行商に出発

 

 大学の予定表は、思っていたよりも白かった。

 

 澪は六畳間の机にノートパソコンを置き、画面に表示された十月中旬のカレンダーを見ていた。講義名が並ぶはずの欄に、四大学運動競技大会の文字が入り、その下に休講の印がいくつも続いている。競技大会に出るわけではない。応援に駆り出される予定もない。ただ、大学の通常授業とゼミが止まり、ぽっかりと数日分の時間が空いていた。

 

 その空白を見ているだけなら、普通の大学生としては嬉しいはずだった。遅れている講義資料を整理し、ゼミのメモを読み直し、修さんのところで教わったガーネットの指輪のことを考える余裕もできる。自分の道具を持つという話も、まだ胸の奥に残っていた。小さなヤスリやルーペやピンセットを想像すると、指先が少しだけむずむずする。

 

 けれど、澪の机の上には大学の資料だけがあるわけではなかった。

 

 講義ノートの横には、異世界側の帳面が置かれている。リュシア商会の売上メモ、調味料の納品予定、行商で使った時の控え、そして六畳間の隅には、古い燭台が静かに立っていた。火は小さく、いつものように揺れているだけに見える。だが、澪はもう知っている。あの火がただの火ではないことも、時々こちらの心臓に悪い表示を出すことも。

 

「四大学運動競技大会の期間、ゼミも授業もないみたいです」

 

 澪は画面を真壁へ向けた。

 

 真壁は卓袱台の向こう側で、いつものように姿勢よく座っていた。湯飲みに手を添えながら画面を見て、すぐに視線を澪へ戻す。その反応の早さに、澪は少しだけ嫌な予感を覚えた。真壁さんがこういう顔をする時は、たいてい何かを思いついている。

 

「数日、動けるということだな」

 

「まあ、大学側だけで言えば、そうですね」

 

 澪は自分で言ってから、少しだけ言葉を足したくなった。休みだからといって、全部を異世界側に使うと決めたわけではない。ゼミの資料もあるし、現代側の生活もあるし、眠る時間も必要だ。そう言おうとしたが、真壁はその前に静かに頷いた。

 

「ならば、行商に出るにはよい」

 

 あまりにも自然に言われたので、澪は反射的に画面を自分の方へ戻した。カレンダーの白い空欄が、急に道に見えた。何も書かれていない日は、何もしなくてよい日ではなく、何かを入れられる日なのだと、真壁の一言で意味が変わってしまう。

 

「行商、ですか」

 

「うむ。水車町リーデンまでは、すでに見ている。今回はその先だ」

 

 澪は、ノートパソコンの横に置いた帳面へ視線を落とした。水車町リーデンの名前は、そこにも残っている。以前の巡見行商で訪れた町。水車の音、粉の匂い、樽職人、売れたものと売れなかったもの、町の人の反応。行商人として町を見て、荷を売り、道を覚えた。あの時、自分がただ商品を持って歩くだけでは済まないのだと知った。

 

 だからこそ、真壁の「その先」という言葉は、軽く聞こえなかった。

 

「未踏の町へ、行くんですね」

 

「行商人の地図は、歩かねば伸びん。車で走っても伸びるかどうかは、試す価値があるがな」

 

 真壁は淡々としている。けれど、澪の方はその一言でさらに身構えた。徒歩ではなく車。つまりハイエースが出る。ハイエースが出るということは、荷物も増える。真壁の収納も当然使われる。行商のはずなのに、どこか搬出作業や現地調査の匂いが混じり始めている。

 

 その時、六畳間の隅で、古い燭台の火がふっと揺れた。

 

 窓は閉まっている。誰も触れていない。澪は思わず背筋を伸ばした。第百四十話の後、あの燭台が妙子さんとヴァルトさんの前世縁に反応した時のことが、胸の奥に戻ってくる。急がない方がよい。平穏希望。あの表示は、今も澪の中に残っている。

 

 だが、今回は違う気配だった。火の揺れは重い神託というより、横から話に割り込む時のそれに近かった。

 

「……鑑定、した方がいいですよね」

 

「うむ」

 

 真壁は反対しない。反対しないどころか、すでに読む気でいる顔だった。

 

 澪は古い燭台へ鑑定を向けた。いつもの鑑定結果とは違う、掲示板のような表示が視界の内側に開く。

 

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【同行要求】行商について【未踏道確認】

001:燭台

 今回の行商、同行を希望。

 

002:澪

 同行って、燭台ごとですか。

 

003:燭台

 ほかに方法なし。

 

004:燭台

 未踏道、古い石場、人の寄らぬ場所に反応あり。

 

005:燭台

 現地確認を推奨。

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 澪は三番目の表示で手を止めた。

 

 同行を希望、という言い方は丁寧だった。けれど内容はほぼ「連れて行け」である。しかも「ほかに方法なし」と続くあたり、神さま側も自分が燭台であることをまったく遠慮していない。神様なのに、物理的な運搬方法については非常に現実的だった。

 

「神様を、荷台に積むって、いいんでしょうか」

 

 口に出してから、澪は自分がかなり妙な心配をしていることに気づいた。普通なら、神様が同行したいという時点で身構える。未踏道、古い石場、人の寄らぬ場所に反応あり、という表示は十分に不穏だ。なのに、今の自分は真っ先に固定方法を考えている。

 

 真壁は古い燭台本体を見た。

 

「固定具を用意しよう」

 

「真壁さん、そういう問題ですか」

 

「倒れぬことは重要だ」

 

「それはそうですけど」

 

 澪は反論しようとして、反論しきれなかった。神様であっても燭台は燭台で、車で運ぶなら倒れないようにした方がいい。理屈は合っている。合っているのに、何か大事な段階が省略されている気がする。

 

 古い燭台の火は、小さく揺れただけだった。追加の表示はない。どうやら、置いていかれないなら文句はないらしい。

 

 澪は帳面を閉じ、六畳間の押し入れへ視線を向けた。水車町リーデンの先、まだ地図に入っていない町。古い石場、人の寄らない場所。神様を固定してハイエースに積む相談。出発前の話をしているだけなのに、もう自分の中で荷物が一つ増えた気がした。

 

 

 

 

 

 リュシア商会に着くと、店の中は午前の仕事で少しざわついていた。

 

 入口近くには布袋が積まれ、奥の棚には小瓶や紙束、紐の束が並んでいる。油と木箱と乾いた布の匂いが混ざり、誰かが帳面をめくる音と、倉庫側で荷を下ろす小さな音が聞こえていた。澪はこの商会の空気にずいぶん慣れたと思っていたが、今日はいつもより品物が目に入る。縄、針、布切れ、油、紙。これから行商に持っていくかもしれないものとして見ると、棚の一つ一つが、別の意味を持ち始める。

 

「澪、真壁。ちょうどよかった」

 

 リュシアの声が店の奥からした。

 

 澪はそちらを見て、少し足を止めた。リュシアの前には帳面が広がっており、その向かいにヴァルトが座っていた。醤油の小瓶と、小さな味噌樽の納期を確認していたらしい。マルテが横で控え、別の帳面に数字を書きつけている。

 

 ヴァルトは、澪たちに気づくと静かに立ち上がった。

 

「澪さん、真壁さん」

 

「ヴァルトさん。来ていたんですね」

 

「ええ。味噌と醤油の追加分について、少し相談を」

 

 その声は落ち着いていた。以前、蒲焼きと芋焼酎の前で重いものを滲ませた人と同じ人物なのに、今は商人として整っている。帳面を見て、納期を確認し、必要な数量を考えている顔だった。澪はその切り替えに少しだけ安心し、同時に、切り替えられるほど抱えているものが深いのかもしれないとも思った。

 

 リュシアは澪の顔を見ると、すぐに何かを察したように帳面を閉じた。

 

「それで、今日は何の相談?」

 

「大学が数日休みになるので、その間に行商へ出ようという話になりまして」

 

「行商?」

 

 リュシアの目が商会主のものに変わる。澪が説明しきる前に、真壁が静かに補った。

 

「水車町リーデンの先へ道を伸ばしたい。既踏の町をなぞるだけではなく、未踏の町を見に行く」

 

 その言葉に、ヴァルトの視線がわずかに動いた。未踏の町、行商、道。どれか一つではなく、その三つが並んだことで反応したのだろう。商人として興味を持った顔だった。

 

 真壁はそれを見逃さなかった。

 

「ちょうどよい。ヴァルト殿にも聞いていただきたい話がある」

 

 ヴァルトは一瞬だけ瞬きをした。明らかに、味噌と醤油の相談をしていただけのはずだった。そこへ突然、未踏町への行商と自分の名が並んだ。それでも彼は席を戻し、聞く姿勢を取った。商人の顔に戻るのが早い。

 

「私にも、ですか」

 

「うむ。同行を願いたい」

 

 澪は、真壁さんは本当に巻き込む時の迷いが少ないと思った。けれど、ヴァルトはすぐに断らなかった。視線を帳面から真壁へ移し、話の重さを測っている。

 

「行商の同行でしたら、商人としてお役に立てることもあるでしょう。ただ、未踏の町へ向かうのであれば、道の危険も増えます」

 

「そのためにも、行商人を取るとよい」

 

 ヴァルトの手が止まった。

 

 澪も、リュシアも、マルテも、一瞬だけ真壁を見た。行商人を取る。言葉としては簡単だが、職業を変える話である。しかも、ヴァルトは商人十だ。商人としてすでに高いところにいる人が、行商人一から始める意味を、普通なら測りかねる。

 

 ヴァルトは静かに言った。

 

「私は商人としては十に到達しています。そこから行商人一へ、ですか」

 

 疑いではなく、確認だった。自分の持つ商人十の意味と、行商人一の価値を秤にかけている。その声を聞いた澪は、自分が商人十から行商人一になった時のことを思い出した。あの時は、自分が何を得たのかをすべて理解していたわけではない。地図が見え、移動の経験が入り、行商人という職がただの商人の下位ではないと、後から少しずつ分かっていった。

 

 真壁は湯飲みを持つような落ち着きで、話を続けた。

 

「商人と行商人は、上下ではない。商人は取引を見る。行商人は道を見る。商人は人と品を結ぶ。行商人は土地と土地を結ぶ」

 

 ヴァルトは黙って聞いていた。言葉そのものは難しくない。だが、彼の中でその言葉が置かれる場所を探しているのが分かった。商人十として築いてきたものを否定されているのではない。別の方向へ進めと言われているのだと、彼は受け止めている。

 

「澪君も商人十から行商人一になった。その後、水車町リーデンへの巡見行商で地図を伸ばした。私も同じ系統の経験を積んでいる。未踏の道を踏むなら、行商人の職は持っていた方がよい」

 

「地図と、移動ですか」

 

 ヴァルトの声に、わずかな熱が混じった。商人としてではなく、魔術師としての耳が開いたようだった。

 

「うむ。地図と移動が育った先に、転移の芽が出る可能性がある」

 

 その瞬間、ヴァルトの目が変わった。

 

 表情は大きく動かなかった。けれど、澪にも分かった。今の言葉は、ヴァルトの中の別の場所に刺さった。味噌や醤油の話をしていた商人ではなく、転移陣解析十、魔術式解析十、魔力操作十を持つ元王都魔術院の魔術師が、真壁を見ている。

 

「森で見せていただいたあの移動は、転移陣ではありませんでした」

 

 ヴァルトはゆっくりと言った。

 

 澪は、その言葉で思い出した。森から戻る時、真壁はヴァルトの前で転移を使っている。だからヴァルトは、真壁が転移できること自体は知っている。けれど、その意味を今、別の形で受け取り直しているのだ。

 

「術式の立ち上がりも、座標固定の揺れも、私の知るものとは違っていた。あれが、行商人の地図と移動の先にあるものだと?」

 

「少なくとも、魔術式だけではない」

 

 真壁の返答は短かった。だが、その短さがかえって重い。すべてを説明する気はない。けれど、嘘でもない。ヴァルトはその余白を見ているようだった。

 

 澪は、自分の胸のあたりが少し落ち着かなくなるのを感じた。真壁の転移は、澪にとっては真壁さんのすごい能力、という受け取り方がまだ強い。けれどヴァルトにとっては、体系が違う。魔術の常識から見て、ありえないものなのだ。自分が行商人になった時に得た地図も、その先にあるかもしれない転移も、思っていたよりずっと大きな意味を持っている。

 

「澪さん」

 

 ヴァルトの声が、澪へ向いた。

 

「あなたの地図は、どのように見えるのですか」

 

「え、私の、ですか」

 

 急に聞かれて、澪は背筋を伸ばした。自分では何となく使っているものを、魔術式解析十の人へ説明するのは、少し恥ずかしい。大学のゼミで発表する時の緊張とはまた違う。相手が本気で解析しようとしているからこそ、曖昧に言えない気がした。

 

「私の場合は、通った場所が少しずつ地図みたいに残っていく感じです。最初から全部見えるわけじゃなくて、自分が移動した場所が増えていくんです。レベルが上がると、見える範囲も広くなって、道や地形のつながりも分かりやすくなります」

 

 言いながら、澪は自分の中の地図を思い浮かべた。六畳間とリュシア商会、町の道、水車町リーデンへ向かう道、黒鷺川の曲がり瀬。歩いた場所、見た場所、危ないと感じた場所。そこには、自分の足と経験が薄く積み重なっている。

 

「それから、仲間は青、モンスターは赤で見えます。ただ、何でも見えるわけじゃなくて、距離とか、遮るものとか、相手の気配とか、スキルレベルで限界があります」

 

 説明し終えると、澪は少しだけ息を吐いた。自分の感覚を言葉にすると、急に頼りなく聞こえる。けれどヴァルトは笑わなかった。むしろ、目がさらに真剣になった。

 

「探知ではなく、分類済みの地図ですか。なるほど、それは魔術師の感覚とはかなり違う」

 

 ヴァルトは、言葉をゆっくり選んでいた。魔力を探るのではない。術式で座標を固定するのでもない。職能が、歩いた場所と周囲の危険を整理し、敵味方を分類する。そう受け止めているのだろう。

 

 澪は、少し気恥ずかしくなった。自分が何となく頼ってきた地図スキルが、ヴァルトの中で研究対象のようになっている。けれど同時に、その真剣さのおかげで、自分の持つものがただ便利な表示ではないのだと、改めて思えた。

 

「ならば、確かめる価値はあります」

 

 ヴァルトは静かに言った。

 

 商人十の男が、行商人一へ進むことを決めた声だった。

 

 

 

 

 

 教会の石床は、外より少し冷たかった。

 

 澪は何度か来ている場所なのに、職業変更の場面になると、空気が違って感じる。高い窓から入る光が薄く床に落ち、司祭様の衣の擦れる音が静かに響く。リュシア商会の木箱や帳面の匂いとは違い、ここには古い石と灯火の匂いがあった。

 

 ヴァルトは司祭様の前に立っていた。

 

 彼の背筋は伸びている。商会で帳面を見ていた時と同じように落ち着いているのに、どこか一歩分だけ静かだった。商人としての取引ではなく、自分の職を変える場所にいる。その重さを、彼は正面から受けているように見えた。

 

 司祭様は、ヴァルトを見て少し目を細めた。

 

「本当によろしいのですか」

 

 その問いには、余計な詮索がなかった。名を暴くための声ではない。過去を掘り返すためのものでもない。ただ、本人の意思を確認するための声だった。澪はそのことに少し安心した。ヴァルトには、まだ不用意に触れてはいけないものがある。

 

 ヴァルトはすぐには答えなかった。

 

 商人十として積んできたものが消えるわけではない。それでも、行商人一という別の道へ足を置く。彼の中で、その意味を一度確かめているようだった。魔術院を離れ、商人として静かに生きたいと言った人が、今度は道を学ぶと言おうとしている。

 

「はい」

 

 ヴァルトは、静かに答えた。

 

「道を学び直します」

 

 澪は、その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ重くなるのを感じた。学び直す、という言葉は前向きなのに、そこには戻れない場所の影もある。二十六年前の日本、王都魔術院、商人としての現在。その全部を捨てるのではなく、持ったまま別の道へ進む声だった。

 

 司祭様は頷き、祈りの言葉を低く唱えた。

 

 教会の光が、ほんの少し揺れたように見えた。派手な光ではない。けれど、空気の中に一本、見えない線が引かれたような感覚があった。

 

 ヴァルトは目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。

 

 鑑定の表示は、必要なものだけが整って現れた。

 

名前:オスヴァルト・クライン

職業:行商人 Lv1

追加スキル:地図:1 移動:1

既存技能:商人 Lv10

補助技能:転移陣解析:10 魔術式解析:10 魔力操作:10

 

 ヴァルトは、その表示を見た瞬間、声を出さなかった。

 

 地図一。移動一。数字だけなら小さい。だが、彼にとってはただの初級技能ではなかった。森で見た真壁の転移。魔術式に乗らない移動。歩いた場所が地図として残るという澪の説明。赤と青に分類される危険と仲間。今、その入り口が自分にも開いた。

 

 教会を出ると、石畳の道が商会の方へ続いていた。

 

 ヴァルトは数歩歩き、足を止めた。澪は横からそれを見て、何かに気づいたのだと分かった。ヴァルトは振り返り、教会の扉と今歩いた道を見比べている。

 

「なるほど」

 

 彼の声は小さかった。

 

「地図とは、紙の上のものではないのですね」

 

 澪は、その言葉に自分の初めての頃を思い出した。最初は便利な表示だと思った。迷いにくくなる力だと思った。けれど、今のヴァルトは、教会から商会までのほんの短い距離の中に、紙ではない地図の始まりを見ている。

 

「どんな感じですか?」

 

 澪が聞くと、ヴァルトは少し考えた。

 

「座標ではありません。点でもない。今、どちらから来たか、どちらへ戻れるかが、細い線のように残ります。魔術で場所を固定する感覚とは、まるで違う」

 

 彼は自分の足元を見た。石畳の継ぎ目、道の傾き、商会へ向かう角。普段なら見過ごすものが、今は別の意味を持っているのだろう。

 

「移動の方は?」

 

「足の置き方と距離の読み方が、少し変わります。大きな変化ではありませんが、身体の側に記録が入るような感覚があります」

 

 ヴァルトは淡々と話しているが、その目は静かに熱を帯びていた。派手な魔術ではなく、地味な職能の始まりに、本気で興味を持っている。澪はそれを見て、行商人という職がまた少し違って見えた。

 

 リュシア商会へ戻る短い道が、ただの帰り道ではなくなっていた。

 

 

 

 

 

 リュシア商会へ戻ると、リュシアはすでに大きめの帳面と、古い地図の写しを広げて待っていた。

 

 地図は、澪の見ているスキル地図とは違う。紙の上に町と川と道が描かれ、余白に商会の書き込みがいくつも入っている。水車町リーデンの横には樽職人、粉屋、荷馬車組と書かれており、その先へ伸びる道は、急に線が細くなる。灰橋町という名は、その細い線の先に小さく置かれていた。さらにその向こう、山際へ向かう道の横に、石場町、あるいは山際の小町とリュシアの字で書かれている。

 

 澪は地図を見て、胸の奥で自分の地図がまだそこまで届いていないことを感じた。紙にはある。人の話にもある。だが、自分の地図にはまだない。行商人としてそこへ行くというのは、この紙の細い線を、自分の中の地図へ移すことなのだと思った。

 

「まず、水車町リーデンまでは澪たちも行ってるよね」

 

 リュシアは指で地図を叩いた。

 

「ここは最初の宿泊地と情報取り。前の巡見行商の縁もあるから、挨拶しておくといい。今回は大きく売る場所っていうより、先へ進むための足場にする」

 

 澪は頷いた。リーデンの水車の音が、頭の中でかすかに鳴る。水の流れ、粉の匂い、樽材の乾いた匂い。そこまではまだ、記憶の中に道がある。

 

「問題は、その先。灰橋町」

 

 リュシアの指が、細い線の先へ進んだ。

 

「川沿いの橋を中心にした小さな町。橋市が立つ。橋守、渡し守、漁師、荷馬車組、旅人、行商人が出入りする。うちの直営圏じゃないけど、リーデンの荷馬車組や樽職人から噂は入ってる」

 

 リュシアが話すにつれて、紙の上の名が少しずつ風景になっていく。灰色の橋、川の湿った匂い、魚を干す小屋、葦の束、橋市に並ぶ小さな品。澪は実際に見ていないのに、頭の中に町の輪郭が作られていくのを感じた。

 

「名物は、川魚の燻製、葦を編んだ籠や敷物、青灰色の砥石。あと橋市の薄焼き麦菓子。青縞の麻布も少し出るって聞いてる」

 

 マルテが横で別の紙に品目を書き出していく。川魚の燻製、葦籠、砥石、麦菓子、青縞麻布。聞いただけなら名物だが、行商人としては買えるか、持ち帰れるか、保存がきくか、次に売れるかを見なければならない。

 

「需要は?」

 

 真壁が聞いた。

 

「川と橋の町だから、濡れる、錆びる、切れる、結ぶ、直す。このへんが多いはず」

 

 リュシアは、今度は商品箱の方を見た。

 

「漁網修理用の太針、丈夫な縄、刃物の手入れ油、針と糸、鍋や農具の修理金具、塩、小分けの石鹸、旅人向けの乾燥食。濡れた荷を包む油紙か、防水布の代わりになるものも少し欲しいね。靴紐、荷紐、炭筆と小さな紙束も持っていって」

 

 澪は帳面に書きながら、品物がだんだん町の暮らしに結びついていくのを感じた。川沿いで濡れる。刃物が錆びる。網が破れる。荷紐が切れる。旅人が小物をなくす。そこへ持っていく品は、派手なものではない。小さくて、地味で、けれどないと困るものばかりだった。

 

「初めて行く町で、いきなり目立つものを売ろうとしない方がいいよ。まずは、困っている人が本当に買えるもの。次も来てほしいって思われるもの」

 

 リュシアの言葉に、澪は手を止めた。

 

 大学のゼミで考えていた、小規模店舗の初回来店や、店に入る前の理由が、ふっと頭をかすめた。異世界の橋市と、大学の教室で考えているテーマが、こんなところでつながるとは思わなかった。人が店に入る理由。人が行商人から買う理由。どちらも、目立つからだけではない。自分が困っていることを、相手が分かってくれていると感じるからだ。

 

「行商は、驚かせる商いではありません。次に扉を開けてもらう商いです」

 

 ヴァルトが静かに言った。

 

 その声には、商人十の重みがあった。行商人としては一になったばかりでも、商人として見てきたものは消えない。澪はその言葉を聞いて、ヴァルトが同行する意味を少し理解した。地図と移動は澪や真壁が先に進んでいるかもしれない。けれど、信用の積み方はヴァルトが持っている。

 

 リュシアは満足そうに頷き、今度は別の欄を示した。

 

「買ってくるものもあるよ。良質な青灰色の砥石。品質差と価格帯。葦籠の見本。青縞の麻布の見本。川魚の燻製は保存性確認用に少し。橋市の相場情報。石場町方面の石材見本。あと、荷馬車組や宿屋からの道中情報」

 

「情報も買い付け品なんですね」

 

「もちろん。売った数だけじゃなくて、誰が何を欲しがったかも書いてきて。買わなかった人の話も大事だから」

 

 澪は帳面へ大きめに書いた。買わなかった人の話。前なら、売れたか売れなかったかだけを見ていたかもしれない。けれど今は、買わなかった理由が次の荷物になるのだと分かる。行商人の帳面は、売上表ではなく、次に道を通るための地図でもあるのだと思った。

 

 リュシアは、地図のさらに先へ指を滑らせた。

 

「それと、灰橋町の先。石場町、または山際の小町って呼ばれてるあたり。石材、砥石、石工、山際の薪や木材が関係する町なんだけど、最近は灰橋町から先へ行く荷馬車が減ってる」

 

 その言葉に、古い燭台の表示が澪の中で再び浮かんだ。未踏道、古い石場、人の寄らぬ場所。リュシアの指が地図の細い線をなぞるたび、燭台の火の揺れと重なる。

 

「減ってる理由は?」

 

 真壁が聞いた。

 

「はっきりしない。リーデンから灰橋町へ向かう泥の旧道では、秋雨のあと荷車が壊れることが増えたって話がある。大きな獣の跡を見たって人もいる。荷の一部が消えていたって話もあるけど、壊れた拍子に流れたのか、誰かが拾ったのかは分からない」

 

 リュシアの声が少し低くなった。商会主として、噂と事実を分けようとしている声だった。

 

「灰橋町から石場町の間は、もっと曖昧。古い石場に人が寄らなくなった。夜に火が見える。荷札だけが見つかった。空に大きな影を見たって話もある。でも、どれも人づて。名前をつけられるほど確かな情報じゃない」

 

 澪は、噂だけを帳面に書いた。大きな獣の跡。荷が消える。夜の火。空の影。名前がない方が、かえって怖い。けれど、名前をつけるのは現地を見てからなのだろう。

 

「町の中より、町と町の間が問題なんだよ」

 

 リュシアは地図から顔を上げた。

 

「リーデンまではまだいい。問題はその先。無理はしないで」

 

 真壁は、地図を見たまま頷いた。

 

「無理をするつもりはない。ただ、道中の危険は確認する」

 

 澪は、その「確認」という言葉がかなり広い意味を持っていることを知っている。真壁さんの確認は、見るだけで済む時もあるが、邪魔なものを片づけるところまで含まれることがある。今回は古い燭台も同行を要求している。放置林や石場も見る。どう考えても、ただの見学では終わらない。

 

「商品を運ぶ道は、危険も含めて道なのですね」

 

 ヴァルトが言った。

 

 教会から戻る短い道で、地図一の感覚を確かめていた人の言葉だった。今の彼には、紙の地図の細い線だけでなく、その周囲の泥や石場や噂まで、道として見え始めているのかもしれない。

 

 真壁は静かに返した。

 

「荷だけ見ていては、荷を失う」

 

 その言葉に、澪は帳面を握る手に少し力を入れた。行商人は商品を見る。客を見る。町を見る。けれど、それだけでは足りない。町と町の間の道を見なければ、商品は届かない。今回の行商は、出発前からもう道の危険を抱え込んでいた。

 

 

 

 

 

 ハイエースは、商会の裏手に置かれていた。

 

 何度見ても、異世界側の町にこの車体がある光景は少し変だった。木箱や荷車や樽の間に、白い現代車が収まっている。金属の車体は洗われているが、足回りには真壁が手を入れた跡があり、普通のハイエースよりも妙に頼もしい。澪は詳しい構造を知らない。それでも、車体の沈み方が違うこと、荷を積んでも姿勢が崩れにくいこと、下回りが少しだけ現代のものから外れていることは分かった。

 

 リュシア商会の店員たちは、もう驚くのを少し諦めた顔で見ていた。初めて見た時ほど騒がない。だが、誰も完全には慣れていない。異世界の裏庭に現代のハイエースがあり、そこに針や縄や油や修理金具の箱を積み、さらに神様入りの古い燭台を固定する相談をしているのだから、慣れろという方が無理だと思う。

 

 真壁は荷台を開け、商品箱の配置を確認していた。見せる荷は表に積む。重い予備品や危険物、回収した資材は真壁の収納で管理する。全部を収納に入れてしまえば簡単だが、それでは行商に見えない。町へ入る時、何を持ってきたかが見えることにも意味があるらしい。

 

「今回はこれで移動する」

 

 真壁が言った。

 

「ハイエース、ですね」

 

「うむ。澪君とヴァルト殿で交代運転だ」

 

 澪は、分かっていたはずなのに少し固まった。ヴァルトが横で車体を見ている。知らないものを見る顔ではない。むしろ、知っているもののはずなのに、細部が違うものを見ている顔だった。

 

「この車、足が普通ではありませんね」

 

 ヴァルトは静かに言った。

 

 その一言に、澪はやっぱり気づくんだと思った。二十六年前の日本で車を運転していた人なら、足回りの違和感も分かるのだろう。自分はただ、揺れが少ないとか安定しているとかしか言えないが、ヴァルトの目はもう少し細かいところを見ている。

 

「少し手を入れた」

 

 真壁は平然と答えた。

 

 澪は、少しで済む改造ではないと思った。けれど、ここで詳しく聞くと、たぶんサスペンションだの強化だの、異世界側の悪路だの、長い話になる。しかもその説明の半分以上は理解できない気がする。澪は口を閉じた。

 

「移動スキルのアップ狙い、ですよね」

 

「うむ。移動とは歩くことだけではない。道を読み、速度を制御し、荷を守り、目的地へ安全に到達する経験だ。車の運転も、移動系の経験になる可能性は高い」

 

 真壁がそう言うと、ヴァルトの視線が車体から真壁へ戻った。

 

「車を運転する経験が、職能としての移動に入る可能性がある、ということですか」

 

「試す価値はある」

 

 澪は、その言葉を聞いて、いつもの実験の始まりだと思いかけた。けれど、ヴァルトの目がまた解析者のものへ変わっていたので、今の話が単なる運転練習ではないのだと分かった。現代の車を運転する。異世界の道を読む。行商人の移動スキルへ経験を入れる。その全部が、ヴァルトにとっては未知の職能体系を調べる材料になる。

 

「そういえば、ヴァルトさんは昔の日本の人なんだから、車を知っているんですよね」

 

 澪が言うと、ヴァルトは少しだけ視線を落とした。

 

「ええ。二十六年前の話ですが、運転はしていました」

 

 二十六年前。

 

 車を運転できるかどうかより、その時間の長さが澪の胸に残った。二十六年前にハンドルを握っていた人が、今は異世界の身体で、真壁の改造したハイエースを見ている。懐かしいと言えば簡単だが、それだけで済むはずがない。澪は、そこを掘る場ではないと分かっていたので、視線を荷台へ戻した。

 

「真壁さん、二十六年ぶりの運転を異世界の悪路で再開するの、普通に怖いです」

 

「最初から悪路には出さん」

 

「最後には出す予定ですよね」

 

「必要なら」

 

 澪は、その必要が来ないことを少しだけ祈った。だが、リュシアが先ほど話した泥の旧道や古い石場道を考えると、祈りだけでどうにかなる気はしなかった。

 

 真壁は荷台の一角に古い燭台用の固定具を置いた。布を巻いた金具と、揺れ止めの木枠が用意されている。いつの間に作ったのか、見た目は妙に丁寧だった。澪は、神様を固定する道具がこんなに実務的でいいのかと少し悩んだが、古い燭台の火は特に不満そうには揺れていない。

 

「燭台は、移動中はここだ」

 

「本当に荷台なんですね」

 

「町中では目立たせん。必要なら収納内で保護する」

 

「神様の扱いが、すごく実務的です」

 

「本人が同行を希望している」

 

「本人って言っていいんでしょうか」

 

 答えはなかった。真壁は固定具の角度を確認し、古い燭台を載せる位置を決めている。澪は、もう深く考えないことにした。神様側も「ほかに方法なし」と言っていた。ならば仕方ない。

 

 次に真壁は、道中資材回収の話をした。

 

「町と町の間で、放置された雑木林、倒木、枯れ木、使われなくなった石場、崩れた石垣、古い採石跡、道を塞ぐ浮き石を確認する。所有と危険性を見たうえで、収納へ取り込む」

 

「行商ですよね?」

 

「行商だ」

 

 真壁は一切迷わない。

 

 リュシアが横から釘を刺す。

 

「人が手入れしてる林には入らないでよ。村の共有林も勝手に触らない。石場も所有者がいるなら駄目。崩落石とか道を塞ぐ倒木なら、記録しておけば後で説明できるから、動かしたものは帰ってから帳面に残して」

 

「了解した」

 

 真壁は頷いた。返事だけなら非常に真面目だが、澪は真壁の収納を知っている。見つけた時の回収速度も知っている。リュシアが帳面を重視する理由がよく分かった。あとで説明できる形にしておかないと、道中整備なのか、ただの大規模回収なのか分からなくなる。

 

 澪は商品箱、固定された古い燭台、真壁の収納、ハイエースの足回り、リュシアの帳面を順に見た。今回の行商は、商売だけではない。地図、移動、運転、資材回収、道中の危険確認まで含んでいる。出発前からすでに荷が重い。実際の荷が重いのは、たぶん真壁の収納なのだけれど。

 

 

 

 

 

 夕方が近づく頃、リュシア商会の裏手には、明日の荷が整っていた。

 

 木箱には針、縄、刃物油、小さな修理金具、小分けの塩と石鹸、乾燥食、炭筆と紙束が分けて入っている。リュシアが書いた町情報の紙は、澪の帳面に挟まれていた。水車町リーデン、灰橋町、石場町。売るもの、聞くこと、買ってくるもの、道中の注意。紙の上ではまだ細い線にすぎない旅程が、箱と帳面と車の匂いを持ち始めている。

 

 ヴァルトは、少し離れた場所でハイエースを見ていた。教会から戻る道で得た地図一の感覚と、二十六年前の車の記憶と、これから運転する異世界の道を、頭の中で重ねているのかもしれない。澪視点ではその内心までは分からない。ただ、彼の指先が一度だけ空中で止まり、目に見えない線をなぞるように動いたのが見えた。

 

 リュシアは帳面を閉じ、澪を見た。

 

「今回は、売上だけ見なくていいよ。道と町を見てきて。次に行けるかどうかが大事だから」

 

「はい」

 

 澪は素直に頷いた。

 

 売ることだけなら、まだ分かりやすい。売れた、売れなかった、利益が出た、出なかった。けれど今回持って帰るべきものは、それだけではない。泥の旧道が本当に危ないのか。灰橋町の橋市では何が足りないのか。石場町へ向かう荷馬車がなぜ減っているのか。古い石場に人が寄らない理由は何か。燭台が反応した未踏道とは、どういう場所なのか。

 

 澪は帳面を閉じ、明日ハイエースに積む商品箱を見た。

 

 箱の中にあるのは、針や縄や油や修理金具のような小さな品ばかりだった。派手な商品ではない。けれど、それを必要とする町へ届けるには、知っている道の先へ進まなければならない。水車町リーデンの向こう、まだ自分の地図に入っていない灰橋町と、その先にある石場町へ向かう道が、明日の朝から少しずつ開いていく。

 

 そう思うと、胸の奥に緊張と期待が同時に残った。

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