押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第142話 道中も行商のうち

 

 ヴァルトは、走る箱の中で、道を見ていた。

 

 馬車ではない。

 

 そのことは、もう分かっている。これは車だ。彼の記憶の中では、道路を走り、信号で止まり、駐車場に入り、ガソリンの匂いをまとっていたものに近い。もっとも、目の前のこれは、二十六年前に彼が知っていた車とは、ところどころ違っていた。

 

 だが、今日はそこを見ているのではなかった。

 

 運転席にいる澪の手元を、ヴァルトは見ていた。

 

 澪は急がなかった。前の轍が黒く沈んでいるところでは、早めに速度を落とす。道端の小石を避ける時も、車体の揺れだけでなく、後ろの荷の重さまで考えているようにハンドルを切る。水車町リーデンへ向かう道は、彼女と真壁にとって既に通った道だと聞いている。だが、既に通った道だからといって、彼女は油断しない。

 

 ヴァルトは、商人の目でそれを見ていた。

 

 荷を運ぶ時、荷だけを見ていては足りない。道が悪ければ、良い荷も悪い荷になる。水で湿れば、粉は傷む。揺れれば、瓶は割れる。遅れれば、相場が変わる。そんなことは、商人であった自分なら知っていたはずだった。

 

 だが、行商人として見ると、少し違う。

 

 道そのものが、荷の一部に見える。

 

「澪さん、道の見方が運転に出ますね」

 

 ヴァルトがそう言うと、澪はハンドルを握ったまま、少しだけ目を瞬いた。

 

「え、そうですか」

 

「轍へ入る前に速度を落としている。石を避ける時も、車だけでなく荷の揺れを見ている」

 

「荷台に神さまが乗ってますから」

 

 澪は、当然のように言った。

 

 ヴァルトは、後ろへ視線を向けた。荷台側には、古い燭台が固定されている。布と木枠と革帯で動かないようにされ、いかにも実務的に収まっている。高価な荷なのか、壊れ物なのか、神具なのか。分類しようとして、ヴァルトはすぐにやめた。

 

 全部だ。

 

 たぶん、全部である。

 

「固定はしてある」

 

 真壁が言った。

 

「固定してあればいい話じゃないです」

 

「揺れは少ないはずだ」

 

「そういう問題じゃないんです」

 

 ヴァルトは、澪の言うことがよく分かった。

 

 そういう問題ではない。

 

 だが、真壁の言うことも、実務としては間違っていない。揺れが少なく、固定され、安全に運べている。神さまを荷台に積むという問題が、真壁の中では、すでに固定具と走行安定性の問題に変換されている。

 

 ヴァルトは、行商人一として最初に学んだことを心の中で記録した。

 

 行商の荷は、品物だけとは限らない。

 

 時には、燭台の神さまも含まれる。

 

 そして真壁と一緒にいる時、その異常は、なぜか実務上の問題として処理される。

 

 この知見をどこかに書き留めるべきかどうか、ヴァルトは少し迷った。書いたところで、誰が信じるのかという問題が残る。

 

 

 

 

 

 ヴァルトは、自分の内側へ意識を向けた。

 

 行商人一。

 

 教会で得たばかりの職業の感覚は、まだ薄い。だが、まったく何もないわけではなかった。ハイエースが進むたび、道の線が細く残る。車に乗っているだけなのに、自分が移動しているという実感がある。徒歩ではない。だが、移動ではある。

 

 道を読み、荷を守り、目的地へ向かう。

 

 その一連が、地図の中へ細く沈んでいくようだった。

 

「車での移動でも、地図に反応があります」

 

 ヴァルトが言うと、真壁は驚かなかった。

 

「やはりな」

 

「やはり、なんですか」

 

 澪の声が、少しだけ警戒を含む。

 

「移動は足だけではない。荷を運び、道を読み、目的地へ向かえば移動だ」

 

「言い方は正しいんですけど、真壁さんが言うと何か増えそうです」

 

「増やすために確認している」

 

「ほら」

 

 ヴァルトは、そこで少しだけ納得した。

 

 真壁は隠していない。

 

 増やすために確認している、と、堂々と言っている。行商人一になったばかりの自分は、たぶん今、移動スキルの実地確認に使われている。

 

 だが、不快ではなかった。

 

 道は確かに残っている。移動の感覚もある。そして澪が隣で、真壁の言葉を一つずつ人間が理解できる形に戻してくれる。

 

 ヴァルトは、今日の行商に必要なものを一つ理解した。

 

 荷。道。地図。移動。

 

 そして、澪のツッコミ。

 

 最後の一つは、思ったより重要そうだった。

 

 

 

 

 

 しばらく走ったところで、真壁が道の先を見た。

 

「澪君、その先で止めてくれ」

 

「コンビニやSAに止めるみたいに言わないで下さい」

 

 澪は反射的に返した。

 

 ヴァルトは、その言葉に一瞬だけ引かれた。

 

 コンビニ。

 

 SA。

 

 二十六年前の記憶が、胸の奥で小さく音を立てる。夜の道路。高速道路の灯り。サービスエリアの自販機。缶コーヒーの熱さ。眠気覚ましに窓を開けた時の冷たい風。

 

 だが、目の前にあるのは異世界の土道だった。

 

 湿った轍があり、低い草があり、荷台には古い燭台が固定され、真壁が雑木林を見ている。言葉だけが現代で、状況は完全に異世界だった。

 

 懐かしいですね、と言いかけて、ヴァルトは飲み込んだ。

 

 ここで言えば、澪は気づく。真壁はもっと気づく。そして話は、行商から別の深いところへ落ちる。

 

 今日は、行商人一としての実地訓練のはずだ。

 

 少なくとも、ヴァルトはそう思っていた。

 

 だが真壁が道端の雑木林を見ている時点で、その実地訓練はもう普通の行商から横へ伸び始めている。

 

 

 

 

 

 ハイエースを止め、三人は道から少し外れた雑木林へ入った。

 

 そこは、かつては人の手が入っていたのだろう。木の間隔は不自然なほど均一で、切り株も古く残っている。だが今は、手入れが途切れて久しい。倒木が湿った土に沈み、枯れ枝が折り重なり、朽木には小さな穴が並んでいた。伸びすぎた下草が道端まで迫り、低い場所には水が残っている。

 

 風が抜けない。

 

 ヴァルトは、その場に立った瞬間、そう感じた。

 

 湿気がこもり、虫や小動物が増えそうな気配がある。魔物の気配はない。少なくとも、澪の様子にも警戒は出ていない。だが、放置してよい場所にも見えなかった。

 

「このままでは、また病の温床になる恐れがある。掃除していくか」

 

 真壁は淡々と言った。

 

 ヴァルトは、一度は素直に受け取った。

 

 水車町リーデンの穀物倉で、鼠害対策をした話は聞いている。倉に穴があれば鼠が入り、鼠が入れば粉が傷み、病も入る。ならば、道沿いのこうした場所を放置しないことにも意味があるのだろう。

 

「これは、道を保つための作業ですか」

 

「道が荒れれば、荷は届かん」

 

「なるほど。行商人は、品だけでなく道も見る」

 

 ヴァルトが納得しかけたところで、澪が横から真壁を見た。

 

「真壁さん、今の答え、だいぶ綺麗に言いましたよね」

 

「道中整備だ」

 

「資材回収ですよね」

 

「兼ねている」

 

「主従が逆です」

 

 ヴァルトは、危うく感心した自分を、心の中で少しだけ横へ置いた。

 

 真壁の答えは、間違っていない。道が荒れれば荷は届かない。病の温床になれば、人も荷も通りにくくなる。

 

 だが、澪の言う通り、真壁の目は善意の道路整備員の目ではなかった。

 

 資材を見ている。

 

 倒木の太さ、乾き具合、朽ち方。小石の大きさ。下草の量。真壁は道を見ているが、同時に、それらが何に使えるかも見ている。

 

 そして厄介なことに、結果として道も本当に良くなる。

 

 嘘ではない建前ほど、見破るのが難しい。

 

 澪がいなければ、ヴァルトはもう少し美しい行商論として受け取っていたかもしれない。

 

 

 

 

 

 真壁は、まず倒木へ近づいた。

 

 生きている木には手を出さない。根のある木、誰かが管理しているように見える木、共有林として使われていそうな場所には触れない。見るのは、すでに倒れている木、道へ倒れかけている枝、湿気を抱えた朽木、虫が湧きそうな腐った幹だ。

 

 彼は、手で触れ、少しだけ動かし、状態を見てから収納へ入れた。

 

 消えた。

 

 ただ消えたように見える。

 

 だが、ヴァルトにはそう見えなかった。真壁の目と手の動きは、荷をしまう者のそれではない。材を見て、状態を読み、後で使う形へ分けている。倉へ放り込んでいるのではなく、見えない作業場へ送っているようだった。

 

「収納内で、今の木を分けているのですか」

 

「分けておけば、後で使いやすい」

 

「収納って、ただ入れるだけじゃないんです」

 

 澪が言った。

 

 ヴァルトが視線を向けると、澪は少し考えてから、言葉を選ぶように続けた。

 

「私は前に、白い重砂を収納の中で分けました。白金粒、砂金、砂鉄、小石みたいに、混ざっているものを分離する感じです」

 

「物理的な混合物の分離」

 

「それだけじゃなくて、古いガラス片を収納の中で溶かして、混ぜて、形を整えて、杯にしたこともあります」

 

「溶解、融合、整形、固形化までですか」

 

「はい。あと、大学の資料や本を収納に入れて、重要なところを拾って、収納内ノートにまとめたこともあります」

 

「資料整理まで」

 

 ヴァルトは、反射的にそう返していた。

 

 白い重砂の分離。ガラスの溶解と整形。資料の読解と要約。別々の魔術体系なら、研究室が三つ必要になりそうな内容が、澪の口から同じ「収納」の中の話として出てくる。

 

 澪は、収納へ消えていく倒木を見た。

 

「なので、収納の中で工程を進めること自体は分かるんです。ただ」

 

「ただ?」

 

 真壁が返す。

 

「道端の倒木を見た瞬間に、用途別に分けて持ち帰るのは、だいぶ真壁さんです」

 

「使える」

 

「倒木を見た瞬間に用途を考えてますよね」

 

「確認は必要だ」

 

「否定はしないんですね」

 

 ヴァルトは、収納という言葉の範囲をまた少し書き換えた。

 

 荷物入れではない。

 

 倉でもない。

 

 分類場であり、加工場であり、作業場であり、場合によっては書斎にもなる。

 

 しかも真壁の場合は、それが道端の朽木にまで及ぶ。王都魔術院でこれを研究材料にしたなら、論文が何本も書ける。術式分類、空間保持、内部工程、時間感覚、物質状態の変化。議論だけで数日が消えるだろう。

 

 しかし真壁は、議論しない。

 

 倒木を分けている。

 

 理論より先に実務がある。魔術院とは、順番が逆だった。

 

 そして澪は、その順番にだいぶ慣れている。慣れているからこそ、驚かずに突っ込む。

 

 ヴァルトは、そのことの方に少し感心した。

 

 

 

 

 

 倒木を収納した後、真壁は下草を見た。

 

「ついでに刈る。二人とも見ておけ」

 

 鎌は出なかった。

 

 草刈り機も出なかった。

 

 真壁が取り出したのは、道具ではない。収納の口を細く絞るようにして、そこから水を出す構えだった。

 

 澪の顔に、見覚えのある嫌な予感が浮かんだ。

 

「池の時にやった高圧水ですね」

 

「うむ。今回は道端用に弱める」

 

「弱める前提がすでに怖いです」

 

 ヴァルトも、森の隠れ家で見た光景を思い出していた。あの時、真壁は収納から水を出し、草を刈り、泥を流し、小石を敷いた。魔術ではなく、収納からの出力を制御する作業だった。

 

 ただ、あれは拠点造成だった。

 

 今回は行商の道中である。

 

「森の隠れ家でも見ました。今回は、草の根元だけを狙うのですね」

 

「土を削るのではない。草を刈る。目的を間違えるな」

 

 真壁の声は平坦だった。

 

 ヴァルトは、妙な説得力を感じた。

 

 確かに、これは掘削ではない。草刈りである。だが、出力を少し間違えれば、草刈りが掘削に変わる時点で、普通の草刈りとは違う。

 

 王都魔術院で同じことを学生にやらせたら、必ず一人は地面に溝を作る。もう一人は、なぜか威力を競い始める。

 

 真壁が淡々としている分だけ、危険が日常の顔をしているように見えた。

 

 真壁はまず、広く水を出して見せた。草が濡れ、葉が伏せる。次に、水の出口を絞るようにして細くした。音が変わった。空気を裂くような、白い線の水が地面近くを走る。

 

「広く出せば撒くだけだ。細くすれば圧が集まる」

 

 水の線が下草の根元より少し上を横へ払った。草が一拍遅れて倒れ、湿った青い匂いが立つ。土は大きく削れていない。

 

「強すぎれば土を削る。弱ければ草が寝るだけだ。上から当てるな。横から浅く払え。距離を一定にする」

 

 真壁は、水の線を止めて三人の位置を確認した。

 

「人、荷、車、燭台には向けるな」

 

 その言い方があまりに実務的だったので、ヴァルトは逆に背筋を伸ばした。

 

 澪も真顔で頷いている。どうやら、この注意は笑うところではないらしい。

 

「真壁さん、これ、行商ですよね」

 

「行商だ」

 

「今やってること、高圧洗浄と資材回収と道路整備です」

 

「道がなければ行商はできん」

 

「正論で資材回収を包まないでください」

 

 ヴァルトは、行商という言葉の輪郭がまた広がるのを感じた。

 

 商人なら、売る品と買う客を見る。行商人なら、品が通る道を見る。そこまでは理解できる。

 

 だが真壁は、道の脇の草を見て、水で刈り、乾かして、束ねて、使える資材にする。これは行商なのか。土木なのか。採取なのか。物流なのか。

 

 ヴァルトは一度分類を試み、途中でやめた。

 

 真壁という分類で処理した方が早そうだった。

 

 

 

 

 

 次に澪が試した。

 

 彼女は初見ではない。少なくとも、真壁の動きに対する驚きはなかった。だが、自分でやるとなると勝手が違うのだろう。最初の水は少し広く、下草は切れずに寝ただけだった。

 

「もう少し細く。角度を下げろ。根元を見るな、草の流れを見ろ」

 

 真壁が言う。

 

 澪は口を結び、もう一度水を出した。今度は白い線が草の根元近くを走り、低い下草が同じ高さで倒れていく。濡れた草の匂いが、さっきより強くなった。

 

「切れました」

 

「うむ。だが少し水が多い」

 

「褒める前に調整点が来るんですね」

 

「次が良くなる」

 

「そうですけど」

 

 ヴァルトは、澪の水の線を見ながら、彼女がただの学生ではないことを改めて思った。

 

 二十歳の大学生。

 

 鞄を持ち、講義に通い、ゼミで悩む少女。

 

 その同じ手が、収納から水を出し、異世界の雑木林で下草を刈っている。しかも真壁に調整点を指摘され、普通に受け止めている。

 

 人は環境で変わる。

 

 しかし、これは少し変わりすぎではないか。

 

 ヴァルトは心の中でそう思ったが、口には出さなかった。

 

 たぶん、澪本人が一番困っている。

 

 

 

 

 

 次はヴァルトの番だった。

 

 見たことはある。

 

 だが、見るのとやるのは違う。

 

 ヴァルトは収納から水を出す感覚を探った。魔力操作十の感覚が、無意識に似た道を探そうとする。だが、これは魔術式ではない。水属性魔術でも、水刃でもない。収納から水を出す時の条件を整える作業である。

 

 短い範囲だけ、試す。

 

 白い線が走った。

 

 草は切れたが、その下の土も少し削れた。

 

「強い。草刈りだ。掘削ではない」

 

 真壁が止めた。

 

 ヴァルトは、少しだけ表情を引き締める。

 

「なるほど。結果ではなく、用途に合わせて出力を決めるのですね」

 

「使う場所が決める」

 

 真壁の言葉は短い。

 

 ヴァルトは、もう一度試した。今度は水の線を低く、浅く、短く払う。下草だけが倒れ、土はほとんど削れない。

 

 失敗の跡として、少し削れた土が残っていた。

 

 ほんのわずかな溝。

 

 王都魔術院なら、これを解析誤差と呼ぶ。真壁なら、用途違いと言う。澪なら、たぶん「危ないです」と言う。

 

 三者の言葉の違いが、そのまま立場の違いだった。

 

 ヴァルトは、行商人としてこの作業を覚えるべきなのだろうと思った。

 

 ただし、行商人一で最初に教わる実技が高圧水草刈りでよいのかは、いまだに判断がつかなかった。

 

 

 

 

 

 刈った草は、その場に残さなかった。

 

 真壁が収納へ入れていく。

 

 濡れた草、根元近くで切られた茎、風を通すために払った下草。それらが次々に消える。倒木、枯れ枝、朽木、小石も同じように収納へ入った。小石は、車輪や荷車の邪魔になりそうなもの、足を取られそうなもの、排水や敷材に使えそうなものを選んでいる。

 

「真壁さん、刈った草まで収納するんですか」

 

「使える」

 

「やっぱり資材回収ですよね」

 

「道も綺麗になった」

 

「副産物を主目的みたいに言わないでください」

 

 ヴァルトは、刈った草まで収納へ消えるのを見て、真壁の行商の正体を少し理解した。

 

 道中で目に入るものを、不要物ではなく未処理資材として見る。

 

 倒木は燃料や材木候補。

 

 草は敷草や梱包材。

 

 小石は排水材や敷材。

 

 つまり真壁にとって、世界はかなりの部分が材料でできている。

 

 商人としては恐ろしく合理的だ。

 

 隣人としては、少し落ち着かない。

 

 自分もいつか「使える」と判断されないよう、ヴァルトはほんの少し姿勢を正した。

 

 

 

 

 

 雑木林の端は、短い時間で見違えるほどすっきりした。

 

 下草が刈られ、風が通る。湿った土の匂い、水で流れた泥の匂い、刈られた草の青い匂いが混じっている。道端から見ても、視界が抜けたことが分かった。

 

 見た目には、ハイエースの荷は増えていない。

 

 だが、真壁の収納の中には、倒木、枝、草、小石が増えている。

 

「行こう」

 

 真壁は、何事もなかったように言った。

 

 澪は運転席へ戻りながら、まだ濡れた草の匂いが残る手元を見た。

 

「真壁さん、行商って、町に着く前から始まるんですね」

 

「道中も行商のうちだ」

 

「資材回収も、ですよね」

 

「兼ねている」

 

「やっぱり主目的ですよね」

 

 真壁は答えなかった。

 

 澪は、答えないことが答えだと思ったような顔をした。

 

 ヴァルトは、沈黙の使い方にも商人の技があるのだと知る。

 

 真壁は否定しない。肯定もしない。ただ黙る。すると、道中整備という建前と資材回収という本音が、同じ収納の中へきれいに収まる。

 

 澪だけが、それを許さないように言葉で引っ張り出す。

 

 この二人の関係は、なかなか高度だった。

 

 たぶん澪がいなければ、真壁の行商は、もっと静かに、もっと広範囲の資材回収へ発展していた。

 

 

 

 

 

 ハイエースは再び水車町リーデンへ向かった。

 

 既に通った道だと、澪は言っていた。ヴァルトの地図一にも、細い線が少しずつ残り始めている。リュシアの店のある町からここまで、道の感覚が続いている。途中の雑木林も、ただの風景ではなく、手を入れた場所として残っていた。

 

 あそこには倒木があった。

 

 あそこには下草が茂っていた。

 

 あそこには小石が散っていた。

 

 それを処理したことで、道の輪郭が変わった。

 

 地図とは、単に場所を覚えるだけではないのかもしれない。通れる条件を覚えるものでもあるのかもしれない。

 

 やがて、湿った川の匂いが濃くなった。水の音が混じり、遠くで水車の回る音が聞こえ始める。粉と木材と濡れた土の匂い。水車町リーデンが近いのだと、ヴァルトにも分かった。

 

 町に入ると、道端の人々が顔を上げた。

 

 完全な初見の驚きではない。

 

 だが、見慣れているわけでもない。

 

「あの時の車だ」

 

「前に倉を見ていった人たちだ」

 

「エレナ様と一緒だった人たちか」

 

「真壁さんと、あの若い娘さんだ」

 

「今度は知らない紳士もいるぞ」

 

 視線のいくつかが、ヴァルトへ向いた。

 

 ヴァルトは、町の視線を受けながら、行商の再訪というものを理解する。

 

 初めて来た者は、名前で呼ばれない。前回残した出来事で呼ばれる。商人としてなら、看板や店名を先に出したくなる。だが、行商人は違う。

 

 道を通り、町に入り、何かをして去る。

 

 次に来た時、その記憶が看板の代わりになる。

 

 今回の看板は、「前に倉を見ていった人」と「あの時の車」だった。それで十分通じてしまうことに、ヴァルトは少し納得し、少しだけ笑いそうになった。

 

 

 

 

 

 ベルントは、前回のことをよく覚えていた。

 

 穀物倉の近くで三人を迎えると、真壁を見て、すぐに倉の方へ視線をやった。粉の匂いが薄く漂っている。前に見たという倉の壁際には、風を通すために荷の置き方が変えられているらしい。湿った麻袋が隅に詰め込まれるような置き方ではなくなっていた。

 

「前に見ていただいた倉ですが、あれから鼠の出方が変わりました」

 

「穴は増えていないか」

 

「今のところは。袋の置き方も少し変えています」

 

 ベルントは、少し誇らしそうに言った。

 

「よかったです」

 

 澪が胸を撫で下ろす。

 

「おかげで、粉の損が減りました」

 

 ヴァルトは、前回の仕事の跡を見る。

 

 真壁と澪は、ただ売って去ったのではない。倉を見て、鼠害を見て、保管を変えた。その結果が町に残っている。

 

 これが再訪の強さなのだろう。

 

 一度目の行商は品を置く。

 

 二度目の行商は、前回置いたものの結果を受け取る。

 

 ヴァルトは、商人十として分かっていたはずのことを、行商人一として少し違う角度から見ていた。

 

 

 

 

 

 そこで真壁が、収納から干し草の束を出した。

 

 紐で結わえられた、乾いた干し草の束だった。

 

 先ほどの雑木林の下草だと、言われなければ分からない。濡れ草ではない。余分な湿気は抜け、土もほとんど混じっていない。束ね方も雑ではなく、馬小屋の敷草にも、荷の緩衝材にも使えそうな形になっている。

 

 ベルントが目を丸くした。

 

「これは……干し草ですか」

 

「道中で刈ったものだ。乾かしておいた」

 

「先ほどまで、雑木林の下草でした」

 

 澪が横から補足した。

 

 ここで、澪は収納内工程の説明を繰り返さなかった。ヴァルトはすでに、雑木林で説明を聞いている。収納内で乾かせること自体は、もう驚きの中心ではない。

 

 問題は、それが今、干し草の束として、ベルントの前に出ていることだった。

 

 ベルントは束を手に取り、乾き具合を確かめた。

 

「これは使えますな。馬小屋にも、荷の隙間にも入れられる」

 

「では、受け取っていただきたい」

 

 真壁が言う。

 

 澪が小さく横目で見た。

 

「真壁さん、やっぱり資材回収ですよね」

 

「道も綺麗になった」

 

「そこを先に言うから、道中整備みたいに聞こえるんです」

 

 ヴァルトは、干し草の束を見て、軽い眩暈を覚えた。

 

 収納内で工程を進めることは、先ほど説明された。分離もできる。ものづくりもできる。資料整理までできる。そこまでは理解した。

 

 だが、理解したことと、目の前でそれが商売の流れに組み込まれることは別だった。

 

 草を刈る。収納へ入れる。乾かす。束ねる。町に着いたら、使える形で相手に渡す。

 

 文字にすれば単純だ。

 

 しかし、そのすべてが、リーデンへ到着するまでの短い時間で終わっている。しかも真壁は、それを特別な顔で出さない。

 

 道端で拾ったものを、使える形に整え、相手の前に置く。

 

 商人としては、非常にうまい。

 

 ただし、道端の草まで会話の入口にされると、世界中の草が油断できない。

 

 これは贈り物というより、会話の橋だった。

 

 水車町リーデンから灰橋町へ向かう前に、橋を渡すための小さな橋。

 

 ただし、その橋の材料は数十分前まで雑木林の草だった。

 

 

 

 

 

「ベルント殿。灰橋町について聞きたい」

 

 真壁が本題に入った。

 

 ベルントは、干し草の束を脇へ置き、少し考えた。すぐに答えないところに、慎重さがある。聞きかじりをそのまま断定する男ではないのだろう。

 

「灰橋町なら、橋市があります。川沿いの町で、魚の燻製や葦籠がよく出ますな。女房連中は、青縞の麻布を買ってくる者もいます」

 

「青縞の麻布、ですか」

 

 澪が帳面を開く。

 

「水辺で染める布です。高い品ではありませんが、丈夫で乾きが早い。荷を包むにも使えます」

 

 ヴァルトは、布を名物としてではなく用途で見た。

 

 丈夫で乾きが早いなら、旅人向けにも荷馬車向けにも使える。川沿いの町らしい品だ。水辺で染め、水辺を通る荷を包み、また別の町へ運ばれる。

 

 品の性格に、土地の性格が出ている。

 

 行商人が土地を見るとは、こういうことでもあるのだろう。

 

「それと、青灰色の砥石もあります。質はまちまちですが、刃物を使う者は見ます。橋市へ行くなら、値を比べる価値はあります」

 

「道はどうだ」

 

 真壁が聞くと、ベルントの顔が少し曇った。

 

「秋雨の後はよくありません。リーデンから灰橋町へ行く途中に、車輪が沈む泥場があります。道の端へ寄ると、草に隠れた石で軸を痛めることもある。荷馬車組は嫌がっています」

 

 ヴァルトは、先ほど真壁が雑木林で小石を収納していたことを思い出す。

 

 道の端に隠れた石。

 

 泥場。

 

 車輪の軸。

 

 それらは、単なる旅の不便ではない。品の到着を遅らせ、修理費を生み、価格を上げ、時に取引そのものを細らせる。

 

 商人なら、到着後の値を見る。

 

 行商人なら、値が上がる前の泥を見る。

 

 ヴァルトは、そう理解しかけたところで、真壁が泥場をどう見るのかを想像してしまった。

 

 たぶん、道だけでなく、泥そのものも何かに分類する。

 

 その予感は、あまり外れてほしくなかった。

 

「それから、橋の通行料でもめていると聞きます」

 

「橋守と渡し守ですか」

 

 ヴァルトが言うと、ベルントは頷いた。

 

「ええ。橋守は修理費だと言う。渡し守は、橋ばかりが金を取ると不満を言う。通る商人によって話が違うので、どちらが悪いとは私には言えません。ただ、荷を運ぶ者は、二度払う羽目になるのを嫌がっています」

 

「通行の不安は、品の値に乗ります。灰橋町で物が高くなっている可能性がありますね」

 

「その見立ては近いと思います。旅人も荷馬車組も、橋市では大きな買い物をしません。必要なものを小さく買う」

 

 ヴァルトは、ようやく商人として扱いやすい話題に戻ってきたと感じた。

 

 通行料。橋守。渡し守。価格への転嫁。小口需要。

 

 これは分かる。

 

 非常に分かる。

 

 高圧水で草を刈り、道端の下草が干し草束になる流れより、ずっと分類しやすい。

 

 ただし、その情報を聞き出す入口になったのが、その干し草束であることを忘れてはいけない。

 

 真壁の行商は、情報収集の前からすでに始まっていた。

 

「石場町方面は」

 

 真壁が聞いた。

 

 ベルントは、すぐには答えなかった。店の外を一度見てから、声を少し落とす。

 

「灰橋町の先へ向かう荷が減っています。荷が消える、という話もある。ただ、盗賊なのか、魔物なのか、泥場で荷を捨てた話が膨らんだのか、そこまでは分かりません」

 

 澪の筆が止まった。

 

 ヴァルトは、その沈黙の重さを見る。

 

 ベルントは断定していない。

 

 断定しない情報は、商人にとっても行商人にとっても重要だ。噂は噂として持ち、現地で確かめる必要がある。

 

「確認しよう」

 

 真壁が言った。

 

「確認する方向なんですね」

 

 澪が少しだけ肩を落とす。

 

「行くのだからな」

 

「そうでした」

 

 ヴァルトは、ベルントの「分からない」という言葉を重く受け取った。

 

 分からない情報は、危険の種であり、商機の種でもある。盗賊かもしれない。魔物かもしれない。泥場で起きた事故が膨らんだだけかもしれない。どれであっても、荷が減っているなら道の価値は変わっている。

 

 真壁は確認すると言った。

 

 澪は、その言い方に少しだけ肩を落とした。

 

 たぶん彼女は、真壁の確認がただの確認で終わらないことを知っている。ヴァルトも今日一日で、それをかなり理解し始めていた。

 

 確認とは、見ること。

 

 見るとは、必要なら手を入れること。

 

 そして真壁の場合、手を入れるとは、かなりの確率で収納が開くことだった。

 

 

 

 

 

 ベルントの話を、澪は帳面へ書き留めていく。

 

 ヴァルトは、自分の地図一の感覚を確かめた。リーデンまでは細く残った。その先はまだ薄い。だが、ベルントの言葉によって、まだ見えない道に輪郭が生まれ始めている。

 

 灰橋町。

 

 まだ行ったことのない町。

 

 まだ地図に乗っていない道。

 

 けれど、すでにそこには橋市があり、泥場があり、橋守と渡し守の言い分があり、荷が消えるという噂がある。

 

 水車の音が、町の奥で変わらず回っていた。

 

 行商人とは、荷を持って歩く商人だと聞いた。

 

 だが今日見たものは、それよりずっと幅が広かった。

 

 車を走らせ、道を見て、雑木林を刈り、草を干し、手土産にして、情報を得る。

 

 そして、その半分くらいは真壁の資材回収だった。

 

 ヴァルトは、干し草を受け取って喜ぶベルントを見た。確かに役に立っている。道も少し良くなった。情報も得られた。だから、真壁のやり方は間違っていない。

 

 間違っていないのに、何かがおかしい。

 

 澪が隣で、同じことを考えているような顔をしていた。

 

 ヴァルトはそれを見て、少し安心した。

 

 この違和感を一人で抱えなくていいのは、行商人一になって最初の収穫かもしれなかった。

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