押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第143話 狂牛の角

 

 ベルントは、話し終えてからも少しだけ口を閉ざしていた。

 

 水車の音が、広場の向こうでゆっくり回っている。麦を挽く重い音と、水が板を叩く音が重なり、昼前の水車町リーデンには、荷車の軋みや人の声が低く流れていた。だが、ベルントの顔には、市の値段を話す時の明るさはなかった。

 

「……まあ、聞いた話でございます。灰橋町へ行った者が、皆そう言うわけではありません。泥にはまった、車軸を傷めた、通行料でもめた、荷が消えた。そういう話が、別々に流れているだけで」

 

 彼は、念を押すようにそう言った。

 

 商人の顔だった。知らないことを、知っているようには言わない。噂を噂のまま出し、そこから先は相手に預ける。澪は、その慎重さに少しだけ安心し、同時に少しだけ嫌な予感を強めた。

 

 真壁が、湯呑みを置くほどの軽さで言った。

 

「確認しよう」

 

 澪は、肩の力を抜く前に、首だけでそちらを見た。

 

「確認、で済みますか」

 

「済ませる」

 

「真壁さんの済ませるは、たぶん普通の済ませるじゃないです」

 

 真壁は否定しなかった。否定してくれないところが、澪にはいちばん困る。

 

 ヴァルトは、ベルントの言葉と真壁の短い返事を、しばらく頭の中で並べていた。王都魔術院にいた頃なら、情報は報告書に整理され、危険度が付けられ、確認班が組まれる。境界課であれば、線を引く。どこまでが確定で、どこからが推測か。そうやって扱う。

 

 だが、行商の場では、噂は紙の上だけで終わらない。

 

 泥場があるという話は、道へ入れば轍になる。通行料でもめているという話は、橋の前で人の顔になる。荷が消えるという噂は、戻らない荷馬車の空白になる。

 

 ベルントが話したことは、まだ噂だった。

 

 真壁が確認しようと言った瞬間、それは道の上で確かめるものになった。

 

 ヴァルトは、手の中のカップの重みを感じながら、小さく息を吐いた。

 

「……情報が、道に出るのですね」

 

 澪が、少し意外そうに振り向いた。

 

「道に出る?」

 

「聞いた話のままでは、噂です。道へ入れば、跡になります。人に会えば、証言になります。荷があれば、損失になります」

 

 真壁が、わずかに頷いた。

 

「よい見方だ」

 

 褒められたはずなのに、ヴァルトは素直に喜べなかった。真壁が褒める時は、そのまま次の実地へ放り込まれる気配がある。王都魔術院で上司に褒められた時より、ずっと落ち着かない。

 

 ベルントは、三人を見て、もう一度だけ声を低めた。

 

「お気をつけください。橋市は面白い場所です。青縞の麻布も、魚の燻製も、葦籠も、青灰色の砥石も、見れば欲しくなる品でございます。ただ、あそこへ行く道は、今は少し気が重い」

 

「助かる」

 

 真壁が礼を言うと、ベルントは深く頭を下げた。澪も礼を言い、ヴァルトもそれにならった。

 

 店を出ると、外の空気は湿っていた。秋の雨が上がってしばらく経つはずなのに、道の隅にはまだ水が残っている。ハイエースの白い車体に、薄い雲の光がぼんやり映っていた。

 

 澪は運転席のドアに手をかけ、真壁を見た。

 

「見るだけ、ですよね」

 

「まず見る」

 

「まず、が付きました」

 

「見てから決める」

 

「それがいちばん不安なんです」

 

 真壁は、特に困った様子もなく助手席へ回った。ヴァルトは後部座席の扉に手をかけながら、そのやり取りを聞いていた。澪の声は怒っているというより、現実を確認するために打ち込む杭に近い。真壁はその杭を見て、地盤を確かめ、必要なら杭ごと道具にするような顔をしている。

 

 この二人の呼吸は、まだ読み切れない。

 

 だが、少なくとも一つ分かる。

 

 澪の不安は、おそらく正しい。

 

 

 

 

 

 

 

 水車町リーデンを出るまでは、ハイエースの走りは滑らかだった。

 

 澪の中の地図には、ここまでの道が線として残っている。村の外れの水路、干し草を積んだ小屋、前話で通った道端の雑木林。既に踏んだ場所は、頭の中で淡く光るように形を取っていた。

 

 だが、リーデンの先で道が緩く曲がると、その線の先は急に薄くなった。

 

「ここから先、地図が薄いです」

 

 澪が速度を落として言う。

 

 真壁は、前を見たまま答えた。

 

「未踏だからな」

 

「未踏の道をハイエースで行くの、だいぶ慣れてきたのが嫌です」

 

「慣れは重要だ」

 

「そういう意味ではありません」

 

 ヴァルトは、後部座席で自分の内側に意識を向けた。地図。第142話で、車に乗っていても反応があることは確認した。馬車ではなく、この異様に滑らかな白い箱で移動していても、道は道として残る。

 

 今も、リーデンまでの線は細く残っていた。

 

 ただ、澪の言う「薄い」とは違う。ヴァルトの地図は、まだ道をなぞるものだった。ここを通った。ここで曲がった。ここで水音がした。そういう痕跡を、後から糸で縫うように残している。

 

 澪は、おそらく道の先の変化まで触っている。

 

 その差を感じて、ヴァルトはわずかに苦笑した。

 

 商人として長く生きた自負はある。王都魔術院の国家魔術師として、術式も境界も見てきた。だが、行商人としては、まだ道を覚え始めたばかりなのだ。

 

「ヴァルト殿」

 

 真壁が声をかけた。

 

「はい」

 

「右の轍を見るとよい」

 

 ヴァルトは窓の外を見た。道は土で、ところどころに細い草が混じっている。二本の轍のうち、右側だけが少し深い。底に水が残り、光を鈍く返していた。

 

「重い荷が、右へ寄って通った跡ですか」

 

「それもある。だが、左を避けている」

 

 真壁の指が、前方の道端を示した。左側の草が、ところどころ不自然に倒れている。道を外れて逃げようとした跡のように見えた。だが、その奥に、草に隠れた小さな灰色の角が見えた。

 

「石ですか」

 

「草が隠している。車輪が逃げると、軸を傷める」

 

 澪が小さく息を吸った。

 

「ベルントさんの話、そのままですね」

 

「話が跡になった」

 

 真壁がそう言うと、ヴァルトは先ほど自分が考えた言葉を思い出した。

 

 噂が、道に出ている。

 

 澪はハンドルを握る手に少し力を入れた。彼女は地図を見る。真壁は地面を見る。ヴァルトは荷が通れるかを見る。三人とも同じ道を見ているはずなのに、見ているものが違う。

 

 澪は、線と反応で危険を拾う。

 

 真壁は、傾き、轍、土、水、石、草の倒れ方を読む。

 

 ヴァルトは、そこを荷が通った時、何が損なわれるかを考える。

 

 道は、ただの土ではなかった。商いの前に横たわる、最初の帳簿だった。

 

 

 

 

 

 

 

 進むにつれて、草の色が濃くなった。

 

 雨上がりの緑ではない。水を吸いすぎた草の、重く沈んだ緑だった。道の片側は腰ほどの草が続き、もう片側は低く広がる湿地のように見える。轍の底には水がたまり、ハイエースのタイヤが通るたびに、鈍い音を立てて泥が押し出された。

 

 澪はさらに速度を落とした。

 

「ここ、かなり嫌です」

 

「泥場が近い」

 

 真壁は窓の外ではなく、前方の道全体を見ていた。地面の色、草の寝方、水の逃げ道。視線だけが静かに動き、手は膝の上に置かれている。

 

 ヴァルトは、自分の地図に意識を向けた。

 

 リーデンから続く線は、ここで少し太くなっている。道が悪いから記憶に残るのか、それとも行商人として必要な場所だから刻まれるのかは、まだ分からない。ただ、車輪が沈みそうな場所、草へ逃げると危ない場所、その二つが自分の中で印のように残り始めていた。

 

 それでも、澪には及ばない。

 

「赤、入ってます」

 

 澪の声が低くなった。

 

 ヴァルトは背筋を伸ばした。

 

「魔物ですか」

 

「まだ分かりません。薄いです。遠い、と思います。でも、こっちに寄ってる感じがします」

 

 ヴァルトの地図には、まだ赤はない。白い先に、ただ道の感触が伸びているだけだ。澪が見ているものを、自分はまだ見られない。その事実は悔しいというより、納得に近かった。

 

 行商人Lv1。

 

 自分は、まだ道をなぞっている。

 

 澪は、その先の変化を読み始めている。

 

 そう思った時、前方に小さな声が聞こえた。馬のいななきと、人の焦った声が、湿った空気の中で潰れながら届く。

 

 真壁が言った。

 

「止めよう」

 

 澪はすぐにハイエースを減速させた。

 

 道の先で、一台の荷馬車が傾いていた。

 

 右の車輪が泥に半分沈み、左側は草の方へ逃げようとしていたらしい。轍を外れた跡があり、その草の下から灰色の石が覗いている。車軸はわずかに斜めになり、馬は不安そうに脚を踏み替えていた。

 

 御者らしい男が綱を握り、荷主らしい男が後ろから押している。だが、車輪は泥の中で空回りし、重い音を立てるだけだった。

 

「ベルントさんの話、全部乗せじゃないですか」

 

 澪が思わず呟いた。

 

「全部ではない」

 

 真壁が扉を開ける。

 

「赤が濃くなりました」

 

 澪の声が、それまでより硬くなった。

 

 真壁は、荷馬車へ歩き出す前に、泥場の奥を見た。

 

 草が揺れている。

 

 風ではない。低い湿地の奥で、重いものが草を押し分けていた。まだ姿は見えない。だが、泥の底を踏む音が、確かに近づいてくる。

 

 ヴァルトは、荷馬車を見た。荷の重み。車輪の沈み方。馬の位置。御者と荷主の逃げ道。もし突進が来るなら、馬車は盾にはならない。むしろ人を巻き込む障害になる。

 

 魔術院での戦闘なら、まず敵を見る。

 

 だが、ここでは違う。

 

 敵だけを見ていては、荷を失う。荷だけを見ていては、人が死ぬ。人だけを見ていては、道が塞がる。

 

 行商の現場では、危険は一つではない。

 

 真壁が短く指示した。

 

「澪君、車を少し下げ、逃げ道を空ける。御者と荷主は右へ。馬を突進線から外す。ヴァルト殿、荷と車輪を見てくれ」

 

「承知しました」

 

 ヴァルトの返事は、自分でも驚くほど早かった。

 

 戦闘要員として命じられてはいない。だが、何を見ればいいかは分かる。荷の重さ、濡れた箱、車輪の沈み、馬の綱、人の立ち位置。魔術師としてではなく、行商人として現場の一部を預けられている。

 

 御者が、真壁たちに気づいて叫んだ。

 

「来るな! 奥に何かいる!」

 

「こちらへ。荷は後だ」

 

 真壁の声は大きくないのに、泥場の上で妙に通った。御者と荷主は一瞬迷ったが、澪がハイエースを下げ、逃げる場所を作ると、ようやく動いた。

 

 その時、草の奥から黒い泥の塊のようなものが現れた。

 

 牛だった。

 

 ただし、普通の牛ではない。肩が荷馬車の荷台ほどもあり、太い首の上に、短く曲がった角が二本突き出ている。脚は短く太く、泥を踏むたびに地面が震えた。体表には泥がこびりつき、それが乾きかけて鎧のように固まっている。泥場に慣れた、怒り狂った巨大な牛。

 

 マッドビッグブル。

 

 澪の地図の赤が、一気に濃くなった。

 

「突進線、荷馬車と人の方です!」

 

 御者の顔から血の気が引いた。馬が怯えて横へ跳ねようとし、荷馬車の車輪がさらに泥へ沈む。

 

 真壁は、マッドビッグブルと自分たちの間に立った。

 

 澪が息を呑む。

 

「真壁さん!」

 

 真壁は、マッドビッグブルではなく、地面を見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ヴァルトは、その視線に気づいた瞬間、背筋に奇妙な冷たさを覚えた。

 

 敵を見ていない。

 

 いや、見ている。突進線も、角の高さも、巨体の重さも、すべて見ているはずだ。だが、真壁の目が最も長く留まっているのは、敵そのものではなかった。

 

 地面だ。

 

 表面の泥。下の粘土層。水を含んだ柔らかい部分。砂利の混じった硬い層。草の根が抱えている土。どこまで抜けば周囲が崩れず、どこまで抜けば巨体を落とせるか。

 

 ヴァルトには、鑑定10を持つ者の視線が分かる。分かってしまう。

 

 王都魔術院にも、足場を崩す術式はあった。対大型魔物用に、地盤を緩める魔術式も研究されていた。だが、それには詠唱が要る。術式の展開が要る。範囲指定と固定が要る。

 

 真壁は詠唱していない。

 

 魔術式も見えない。

 

 ただ、地面を見ている。

 

 マッドビッグブルが、前脚で泥を掻いた。低い唸りが、腹の底に響く。次の瞬間、巨体が突進を始めた。泥場なのに、速い。短く太い脚が、泥を蹴り飛ばしながら真っ直ぐ進んでくる。

 

 真壁が言った。

 

「陸上の敵はこうすると有効だ。見ておき給え」

 

 澪が、何か言いかけて止まった。

 

 ヴァルトも、息を止めた。

 

 衝突の直前、真壁が静かに言った。

 

「収納」

 

 地面が消えた。

 

 マッドビッグブルと真壁の間、八メートルほどの地面が、ごっそりと抜けた。泥も、粘土も、砂利も、草の根ごと、まるで最初からそこだけ切り取られていたように消えた。

 

 前脚が空を踏む。

 

 怒り狂った巨体は止まれない。角が下がり、肩が沈み、泥をまとった身体がそのまま穴へ落ちた。重い音が底から響き、水と泥が跳ね上がる。太い角が一瞬だけ穴の縁に見え、すぐに沈んだ。

 

 澪が、ぽつりと言った。

 

「……落とし穴」

 

「即席だ」

 

「即席で八メートルの地面を抜かないでください」

 

 真壁は、穴の縁に立ったまま、底を見下ろしていた。

 

 ヴァルトは、喉の奥が少し乾くのを感じた。

 

 理解できる。

 

 地面を収納しただけだ。鑑定で土壌を読み、崩落範囲を見て、突進線を合わせ、巨体の重さに足場を失わせた。術式ではない。収納だ。だから、魔術式の気配がないのは当然である。

 

 理解できる。

 

 理解できるのが困る。

 

 これは戦闘というより、足場の処理だった。敵を止めたのではない。敵が使っている地面を、敵の前から消したのだ。

 

 真壁は、落ちたマッドビッグブルへすぐに止めを刺しに行かなかった。

 

 彼は、自分の収納内へ意識を向けていた。

 

 ヴァルトには、その意味も分かってしまった。今、真壁は落とし穴を作るために抜いた土を、収納内で鑑定している。

 

 泥。水分。砂利。粘土質の土。黒い鉄分を含む砂。青灰色の硬い石質部分。腐植を含む土。

 

 分類している。

 

 それも、戦闘中に。

 

 真壁の手元に、まず小さな黒灰色の塊が現れた。次に、青灰色の硬い石の塊。それから、水分をほどよく含んだ粘土の塊。どれも、ついさっきまでマッドビッグブルの突進線上にあった地面の一部だった。

 

 真壁は、それらをヴァルトへ差し出した。

 

「これを使って工程の訓練をすると良い」

 

 ヴァルトは、両手を出して受け取った。

 

 鉄のインゴットは、小さいが重かった。青灰色の石材は、硬く、目が詰まっている。ベルントが言っていた灰橋町の青灰色の砥石と、同じ系統かもしれない。粘土の塊は、水を含んでいるのに崩れすぎず、手の中で形を保っていた。

 

 教材。

 

 そう呼べば、確かに教材だった。

 

 魔術院では、教材は棚から出された。鉱石には札が付いていた。粘土には産地が書かれていた。試料は箱に入っていて、実験台の上で順番に配られた。

 

 真壁は違う。

 

 敵が走ってくる。地面を見る。地面を抜く。敵を落とす。抜いた地面を鑑定する。鉄を分ける。青灰色の石を取り出す。粘土を固める。そして、それを課題として渡す。

 

 合理的だった。

 

 あまりにも合理的だった。

 

 だからこそ、何かがおかしい。

 

 澪が、穴とヴァルトの手元を交互に見た。

 

「真壁さん。今、魔物を落とした直後ですよね」

 

「だからこそ、現地の材料がある」

 

「だからこそ、じゃないです」

 

「工程は、材料がある時に見るのがよい」

 

「言ってることは正しいんですけど、教材の出どころが落とし穴の土です」

 

「現地教材だ」

 

「名前だけ整えないでください」

 

 ヴァルトは、粘土の感触を確かめながら、その会話を聞いていた。澪のツッコミはもっともだ。真壁の説明も、もっともだ。両方が成立しているせいで、どちらに頷けばいいのか分からない。

 

 ただ、一つだけ分かる。

 

 この教材を無駄にはできない。

 

 自分は今、行商人として初めて、道から課題を渡されたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 穴の底で、マッドビッグブルが暴れていた。

 

 泥をまとった巨体が、穴の壁にぶつかるたびに、地面が鈍く震える。だが、穴は深く、壁は垂直に近い。前脚がかかっても、巨体を引き上げるだけの足場がない。

 

 真壁は、ヴァルトへ教材を渡し終えると、もう一度穴を見た。

 

「開けたままにはできんな」

 

 澪が警戒するように眉を寄せた。

 

「何をする気ですか」

 

「戻す」

 

「何をですか」

 

「残りの土だ」

 

 澪が口を開いたが、その前に真壁が手をかざした。

 

 収納内に残っていた土砂が、穴へ戻り始めた。泥、湿った土、砂利、水を含んだ重い粘土。選別で有用物を抜いた残りが、落ちたマッドビッグブルの上へ降っていく。

 

 巨体が暴れた。太い角が泥を弾き、鼻先が一瞬見えた。だが、上から落ちる土砂は重い。泥場の土は粘り、脚を取る。マッドビッグブルは穴の底で身をよじったが、足場がないまま、さらに沈んだ。

 

 鼻と口が塞がる。

 

 音が変わった。

 

 怒りの唸りが、泥の奥で鈍く潰れる。激しい震えが少しずつ小さくなり、最後に、地面の下で重い何かが止まった。

 

 澪はしばらく言葉を失っていた。

 

「……埋めました?」

 

「落とし穴は、開けたままにしておくと危険だ」

 

「そこじゃないです」

 

 真壁は、地面の下をしばらく見ていた。鑑定しているのだと、ヴァルトには分かった。生死、位置、周囲の土の詰まり方、道として戻せるかどうか。

 

 やがて、真壁がもう一度手をかざした。

 

「収納」

 

 地面は大きく崩れなかった。土の下で動かなくなったマッドビッグブルだけが、そこから抜き取られたように消えた。穴だった場所は、まだ少し沈んでいるが、巨大な死骸は残っていない。

 

 澪が、慎重に尋ねた。

 

「今、何を収納したんですか」

 

「マッドビッグブルだ」

 

「ですよね」

 

「道に死骸を残すと、別の獣を呼ぶ」

 

「それは正しいですけど、落として、埋めて、窒息させて、回収して、道まで戻すのを一連の作業みたいにしないでください」

 

「一連の作業だ」

 

「言うと思いました」

 

 ヴァルトは、手元の鉄インゴット、青灰色の石材、粘土塊を見下ろした。

 

 真壁は、魔物を倒した。地面を抜いた。土を鑑定した。教材を作った。残りの土で魔物を封じた。死骸を収納した。道を戻した。

 

 無駄がない。

 

 無駄がなさすぎる。

 

 王都魔術院なら、魔物討伐班、素材回収班、地質調査班、道路補修班、報告書作成者がそれぞれ必要になる。それを真壁は、ほとんど同じ呼吸の中で済ませた。

 

 理解できる。

 

 理解できるのが、やはり困る。

 

 真壁は穴跡の周囲を見回した。終わりではなかったらしい。彼は収納から、前話で回収していた小石や砂利、乾いた土を取り出し始めた。さらに、荷台に積んでいた干し草束の一部をほどく。

 

「まだやるんですか」

 

 澪の声には、諦めと確認が半分ずつ混じっていた。

 

「泥場を少し直す」

 

 真壁は、深く沈む部分に砂利を入れ、車輪が噛む位置へ乾いた土を戻した。泥が道の中央に溜まらないよう、浅い水の逃げ道を作る。草と干し草を一部敷き、滑り止めにした。草に隠れていた大きな石は収納で抜き、荷車が通る線から外す。

 

 先ほどまで、荷馬車が泥に捕まっていた場所が、少しだけ道らしくなった。

 

 澪は、手を腰に当てた。

 

「落とし穴の後始末まで道路整備にしないでください」

 

「危険を除いた」

 

「素材も取りましたよね」

 

「兼ねている」

 

「また兼ねている」

 

 ヴァルトは、その言葉の重さを理解した。

 

 兼ねている。

 

 真壁の行動は、戦闘、素材採取、教育、道路整備、救助、情報収集を本当に兼ねている。だから反論しにくい。反論しにくいのが困る。澪が毎回そこで引っかかる理由が、少し分かった気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 荷馬車の救助は、道路の補修が済んでから始まった。

 

 御者と荷主は、まだ顔色が悪かった。マッドビッグブルが現れ、地面が消え、魔物が落ち、埋まり、消えたのだから、無理もない。礼を言うにも、何へ礼を言えばいいのか迷っているようだった。

 

 真壁は、まず荷を軽くすることを提案した。

 

「一時的に預かる。数はここで確認する」

 

 荷主は一瞬ためらった。商人としては当然の反応だった。荷を預けるとは、信用を預けることでもある。澪はすぐに帳面を取り出した。

 

「品名と数、こちらで控えます。戻す時も確認してください」

 

 その言い方で、荷主の肩が少し下がった。

 

 ヴァルトは、荷台を見た。濡れた箱、乾いた袋、泥が跳ねた包み、角が潰れた木箱。急いで動かすべきものと、後で乾かせば済むものがある。泥で傷む麻布らしき包みは、先に上げた方がいい。魚の燻製が入っているらしい樽は、外側は汚れていても中が無事ならまだ持つ。葦籠は水を吸うが、乾かせば戻る。砥石らしき重い箱は、荷台の底にあり、車輪を沈める原因にもなっていた。

 

「重い箱を先に抜くと、車輪の負担が減ります。濡れた麻布は泥が移る前に離した方がよいでしょう。燻製の樽は封が生きているか確認を」

 

 荷主が、はっとしてヴァルトを見た。

 

「あ、ああ。そうだ。砥石が重い。下に入れたのが悪かったか」

 

「道が良ければ悪くありません。ただ、この泥場では沈みます」

 

 言ってから、ヴァルトは自分の言葉を噛みしめた。

 

 助けるだけではない。

 

 荷の状態を見る。濡れたもの、傷むもの、重いもの、後回しにできるもの。危険地帯では、荷の順番も命に関わる。

 

 真壁が収納で重い箱を一時的に預かり、澪が一つずつ帳面に記す。ヴァルトは荷主と確認しながら、濡れた包みを分けた。御者は馬を落ち着かせ、綱を取り直した。

 

 荷が軽くなると、真壁はハイエースの位置を調整した。馬車そのものを壊さないよう、沈んだ車輪の周りの泥を抜き、砂利を噛ませ、車軸に無理が出ない角度を見た。

 

 馬が一歩、前に出た。

 

 車輪が泥を噛み、ぐっと持ち上がる。御者が綱を引き、真壁が横から力を合わせる。澪が息を詰め、ヴァルトは車輪の歪みを見た。

 

 ぎしり、と音がして、荷馬車が泥から抜けた。

 

 御者がその場に座り込んだ。

 

「助かった……本当に、助かった」

 

 荷主も深く頭を下げた。

 

「礼を。荷まで見てもらって、何と言えばいいか」

 

「灰橋町へ向かう途中か」

 

 真壁が尋ねると、荷主は頷いた。

 

「ああ。橋市へ。青縞の麻布と、燻製の樽、砥石を少し。だが最近、この泥場で立ち往生する荷馬車が増えている。遠回りする者もいるが、そうすると日数がかかる」

 

 ベルントの話が、また一つ現場の声になった。

 

 澪は帳面を閉じず、続けて聞いた。

 

「橋守さんと渡し守さんの通行料でもめているって聞いたんですが」

 

 御者が嫌そうな顔をした。

 

「橋守は、橋の修理費がかかると言って通行料を上げたがってる。渡し守は、橋に客を取られていると言ってる。どちらも言い分はあるんだろうが、通る方はたまらない」

 

 荷主が、泥のついた袖を払った。

 

「橋市自体は悪くない。青縞の麻布も、魚の燻製も、葦籠も、青灰色の砥石も出る。品はいい。ただ、大きな荷は減っている。石場町方面へ行った荷が戻らないという話もある」

 

「盗賊ですか」

 

 ヴァルトが尋ねると、荷主は首を横に振った。

 

「分からない。魔物かもしれないし、泥場で遅れているだけかもしれない。今日のあのマッドビッグブルだって、荷が減っている原因の一つだったかもしれない」

 

 ヴァルトは、手の中に残る粘土の感触を思い出した。

 

 ベルントから聞いた噂。

 

 道中で見た轍。

 

 泥にはまった荷馬車。

 

 実際に現れたマッドビッグブル。

 

 助けた荷主からの追加証言。

 

 情報には段階がある。王都魔術院でも、その考え方は叩き込まれた。だが、机の上で整理するのと、泥の匂いの中で積み上がっていくのとでは、重さが違った。

 

 行商人は、話を聞くだけではない。

 

 道の上で、情報の重さを確かめる。

 

 

 

 

 

 

 

 荷を戻し、数を確認し、馬が落ち着くのを待つと、泥場はようやく静かになった。

 

 応急補修された道の上を、荷馬車がゆっくり進んでいく。車輪はまだ泥を跳ねたが、先ほどのように沈み込むことはなかった。御者と荷主は何度も礼を言い、灰橋町へ向かっていった。

 

 澪は帳面を閉じ、肩を回した。

 

「道で一件落着、という感じではありますけど、情報が増えましたね」

 

「灰橋町で確認する」

 

 真壁は、補修した泥場を見ながら言った。

 

 ヴァルトは答えようとして、視界の端に光が走るのを見た。

 

 文字が開いた。

 

 澪と真壁は何も反応していない。表示は、自分だけに出ている。

 

 ヴァルトは、泥の匂いと、手元の鉄インゴットの重みを感じながら、その文字を読んだ。

 

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ヴァルト

現在ジョブ:行商人 Lv2

状態:工程訓練材料受領

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基礎能力値

体力:74→75

筋力:57→58

器用:90→91

知力:99→100

判断:100→101

精神:100→101

集中:98→99

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スキル一覧

鑑定:10

収納:10

商才:4

交渉:2

地図:2

移動加速:2

境界魔術:10

収納魔術:9

結界魔術:10

転移陣解析:10

魔術式解析:10

魔力操作:10

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取得スキルポイント:35

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 ヴァルトは、しばらく黙った。

 

 商人としてそれなりに長く生きた。王都魔術院では、国家魔術師として境界課にいた。鑑定10も、収納10も、魔術式解析10もある。だが、行商人としては、今ようやくLv2になっただけだった。

 

 その事実が、妙におかしく、妙に正しかった。

 

 澪が、ヴァルトの顔を覗き込む。

 

「表示、出ました?」

 

「はい。行商人Lv2です」

 

「おめでとうございます」

 

「ありがとうございます」

 

 素直に礼を返したところで、ヴァルトはもう一度表示の状態欄を見た。

 

「……工程訓練材料受領」

 

 澪が瞬きをした。

 

「そこ、表示されるんですね」

 

 真壁が、当然のように言った。

 

「課題だからな」

 

「課題にすると表示されるんですか」

 

「使えば伸びる」

 

「言ってることは正しいんですけど、教材の出どころが落とし穴の土です」

 

「現地教材だ」

 

「名前を整えないでください」

 

 ヴァルトは、手元の鉄インゴット、青灰色石材、粘土塊を見た。

 

 これらは、ただの素材ではない。収納内で分け、保存し、加工し、試し、工程を見るための材料だ。自分が次に扱うべき課題である。

 

 そしてそれは、先ほどまでマッドビッグブルが突進していた地面である。

 

 ヴァルトは自分の中の地図を感じた。

 

 泥場が、以前よりはっきり残っている。荷馬車がはまっていた位置。草に隠れた石。真壁が地面を抜いた場所。土を戻し、砂利を入れ、車輪が通りやすくした線。マッドビッグブルが現れた湿地の奥。

 

 それらが、薄いが確かな線として残っていた。

 

 行商人は、荷を売る者だと思っていた。

 

 だが、どうやら道に起こったことまで持ち帰る者らしい。

 

 それも、時には地面ごと。

 

 澪が運転席へ戻りながら、真壁へ釘を刺した。

 

「全部兼ねているって言わないでくださいね」

 

 真壁は少しだけ間を置いた。

 

 ヴァルトには分かった。

 

 今、言うつもりだった。

 

 その沈黙が妙におかしくて、ヴァルトは小さく笑った。自分の違和感は、どうやら間違っていない。真壁の合理性は正しい。澪のツッコミも正しい。そして、自分がそこに困っていることも、たぶん正しい。

 

 ハイエースは、応急補修された泥場をゆっくり抜けた。

 

 後ろを振り返ると、そこにはもう大穴はなかった。少しだけ砂利が入り、車輪が通りやすくなった泥場があるだけだ。マッドビッグブルの死骸も、教材の出どころも、知らない者には分からない。

 

 道の先が、わずかに開けた。

 

 低い湿地の向こうに、水面の光が見えた。さらにその先、遠くに細い橋の影がかかっている。灰橋町は、まだ少し先だ。

 

 ヴァルトは、膝の上の三つの材料を見た。

 

 鉄。青灰色の石。粘土。

 

 道は、噂を現場に変えた。

 

 現場は、教材を渡してきた。

 

 行商人Lv2になったばかりの自分は、その重みを両手で受け止めながら、次の橋へ向かっていた。

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