押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第144話 橋市へ持っていくもの

 ハイエースが泥場を抜けると、車内に残っていた緊張が、少し遅れてほどけた。

 

 澪はハンドルを握ったまま、息を一つ吐いた。タイヤの下で、応急補修された道が低く鳴る。砂利を足され、干し草を噛まされ、泥の逃げ道を作られたそこは、さっきまでマッドビッグブルが落ちた穴だったとは思えない顔をしていた。

 

 思えないだけで、事実は消えない。

 

 地面を抜いた。魔物を落とした。土を分けた。鉄を取り出した。道を戻した。荷馬車を助けた。

 

 その全部を、真壁はほとんど同じ作業の流れで済ませた。

 

「……慣れちゃ駄目な気がします」

 

 澪が前方の轍を見ながら呟くと、助手席の真壁が静かに答えた。

 

「慣れは重要だ」

 

「その慣れではありません」

 

 後部座席で、ヴァルトが小さく咳をした。笑いをこらえたのか、疲れが出たのか、澪にはバックミラー越しでは判別できなかった。

 

 道はまだ未踏だった。水車町リーデンまでとは違い、澪の地図には灰橋町へ向かう線が薄くしかない。前方には湿った草地が続き、低い窪地には雨の名残が光っていた。道の脇に水の気配が増え、遠くで鳥が鳴く声も、少し湿り気を含んで聞こえる。

 

 赤い反応はない。

 

 けれど、ないからといって、安心して手を緩められる道ではなかった。澪は速度を落としたまま、轍の深さと草に隠れた石の影を見ていた。

 

 後ろでは、かすかに金属が触れる音がした。

 

 澪がバックミラーをちらりと見ると、真壁が収納から小さな黒灰色の塊を取り出していた。さっき泥場で、落とし穴の土から分けた鉄インゴットである。その横には、青灰色の石材と粘土塊も控えている。ヴァルトは膝の上に布を広げ、教材を受け取る学生のように姿勢を正していた。

 

 ただし、教材の出どころは落とし穴の土である。

 

 澪は前を見ながら、そこを考えないようにした。

 

「リュシアさん、言ってましたね」

 

 澪の口から、自然に言葉が出た。

 

「漁網修理用の太針、丈夫な縄、刃物の手入れ油、針と糸、鍋や農具の修理金具、塩、小分けの石鹸、旅人向けの乾燥食。濡れた荷を包む油紙か、防水布の代わりになるものも少し欲しいね。靴紐、荷紐、炭筆と小さな紙束も持っていって、って」

 

 言いながら、澪は改めてその並びの的確さに気づいた。

 

 灰橋町は橋市がある。川があり、荷が通り、漁に関わる者もいる。荷馬車は濡れる。縄は切れる。靴紐は泥で弱る。刃物は水気で傷む。漁網を直す太針など、今から向かう町で必要にならない方がおかしい。

 

 リュシアは、まだ灰橋町の泥場を見ていない。

 

 それでも、町の性質と行き交う荷から、必要なものを読んでいた。

 

「読みが良いな」

 

 真壁が言った。

 

「良すぎて、今さらちょっと怖いです」

 

「商人だ」

 

「商人って、怖いですね」

 

「怖いだけでは足りん。役に立つ」

 

「真壁さんが言うと、だいぶ実感があります」

 

 真壁は否定しなかった。否定しないまま、鉄インゴットをヴァルトへ差し出す。

 

「ヴァルト殿、これは君が作るとよい」

 

 ヴァルトは、差し出された鉄と真壁の顔を見比べた。

 

「私が、ですか」

 

「行商人Lv2になった。次は、売る物がどの工程で品になるかを見る段階だ」

 

 澪は、思わずミラー越しに真壁を見た。

 

「真壁さんが作った方が早いですよね」

 

「早い」

 

「そこは否定しないんですね」

 

「だが、それではヴァルト殿の経験にならん」

 

 ヴァルトは、鉄を受け取った。小さい塊だが、しっかりと重い。さっきまで泥場の地面だったものだ。マッドビッグブルの突進線上にあり、真壁の収納に抜かれ、分類され、固定化され、今は自分の手の中にある。

 

 王都魔術院なら、試料には札が付く。

 

 由来、採取地、純度、担当者、保管番号。

 

 だが、これは違う。

 

 由来を札にするなら、泥場、落とし穴、魔物突進直前、真壁収納内分類済み、とでも書くことになる。

 

 ヴァルトは、その札を想像して、すぐに想像をやめた。試料管理官に見せてはいけない種類の札である。

 

 真壁が、さらに小さな銀灰色の粒を取り出した。

 

「クロムだ」

 

「混ぜるのですか」

 

「川沿いで使う針だ。錆びにくい方がよい」

 

 澪が前方を見たまま、肩だけで反応した。

 

「さらっと耐錆鋼を作り始めないでください」

 

「針だ」

 

「針だから気軽、みたいな顔をしないでください」

 

 真壁は、気軽な顔のままヴァルトの手元を示した。

 

「鉄十に対し、クロムを一より少し多く見る」

 

「一割では足りませんか」

 

「錆びにくさを持たせるなら、少し足りん」

 

 ヴァルトは、手元の鉄とクロムを見つめた。合金を作ること自体は理解できる。魔術院でも、金属の性質を変える実験はあった。問題は、ハイエースの後部座席で、走行中に、落とし穴由来の鉄を使って、次の町の漁網修理用太針を作ろうとしていることである。

 

 理解できる。

 

 理解できるのが困る。

 

「溶かしすぎるな」

 

 真壁の声が、余計な迷いを切った。

 

「混ぜる前に偏りを見る。固める時は針の用途を思え。漁網用の太針は、細すぎると折れる。針穴は糸の太さを先に決める。高級品ではなく、現場で使える品にせよ」

 

 ヴァルトは頷いた。

 

 言葉だけなら、真っ当な指導だった。あまりに真っ当なので、材料の出どころと場所さえ忘れれば、王都魔術院の実習室でも通りそうである。

 

 だが、真壁は最後に、穏やかに笑った。

 

「気楽に作り給え。どうせ現地取得の材料だ。足りなければまた調達すればいい。」

 

 ヴァルトは、手の中の鉄を落としかけた。

 

 気楽に。

 

 現地取得の材料。

 

 足りなければまた調達。

 

 王都魔術院でそれを言えば、試料管理官が三日は口をきいてくれない。採取記録、保管記録、使用目的、再取得可能性、それらを整えてからようやく使用許可が出る。それが試料というものだった。

 

 だが、真壁は本気で言っている。

 

 泥場から鉄を取り、魔物を落とし、道を直し、そのついでに教材を作った男にとって、これは本当に気楽な実習なのだ。

 

 澪が、前を見たまま静かに言った。

 

「ヴァルトさん、気楽に聞こえないと思います」

 

「気楽だ」

 

「材料の取得方法が気楽じゃないんです」

 

 真壁は、その点については答えなかった。答えないまま、ヴァルトの手元に視線を落とす。もう作業へ入れ、という合図だった。

 

 ヴァルトは息を整えた。

 

 収納内へ意識を伸ばす。鑑定で鉄の状態を見る。黒い鉄分の偏り、わずかな不純物、真壁が固定化した時の密度。そこへクロムを加える。溶解。合成。固形化。

 

 魔術式なら、数値で固定できる。

 

 だが、真壁は針の用途を思えと言った。

 

 漁網修理用の太針。川の町。濡れた手。太い糸。急いで直す網。高級品ではなく、使われる道具。

 

 ヴァルトは、鉄を細く伸ばそうとして、すぐに止めた。細すぎる。普通の針ならよいが、漁網には弱い。太くすれば強くなるが、網目を傷める。先端を鋭くしすぎれば糸を裂く。丸めすぎれば通らない。

 

 試料ではない。

 

 道具だ。

 

 

 

 

 

 

 

 澪はハンドルを握ったまま、バックミラーをちらりと見た。

 

 後部座席では、ヴァルトの表情がいつもより少し険しい。王都魔術院の国家魔術師で、鑑定10で、収納10で、魔術式解析10を持つ人物が、漁網修理用の太針一本に真剣になっている。

 

 変な光景だった。

 

 けれど、必要な光景でもあった。

 

 自分が作った方がよかったのだろうか、と澪は思った。

 

 澪にも鑑定と収納がある。細かい形を作るだけなら、たぶんできる。少なくとも、ヴァルトが行商人として初めて商品を作るよりは、失敗は少ないかもしれない。

 

 けれど、ハンドルから手は離せない。

 

 ここは未踏道だ。地図はまだ薄く、灰橋町のまとまりもはっきりしない。前方から次の赤い反応が出る可能性もある。車を走らせ、道を読み、危険を拾う役を外すことはできなかった。

 

 真壁が作れば、もっと早い。

 

 漁網修理用の太針くらいなら、たぶん会話の合間に作ってしまう。鉄を分け、クロムを混ぜ、溶かし、固め、磨き、針穴を整えて、何事もなかったように収納から出すだろう。

 

 しかし、それではヴァルトの経験にならない。

 

 澪は、前方の轍を見た。湿った道の上に、荷馬車の跡が薄く残っている。そこを通る荷があり、町があり、人がいる。漁網を直す人がいて、濡れた手で太針を持つ人がいる。

 

 これは、針作りではない。

 

 行商人が、道で得た材料を、次の町で必要とされる品に変える練習なのだ。

 

 そう考えた時、後部座席の方で、かすかな光が揺れた。

 

 澪はミラー越しにそれを見て、喉の奥で変な声を飲み込んだ。

 

「……あ、光りました」

 

 ヴァルトが顔を上げた。

 

「光りました、とは」

 

「ヴァルトさん、燭台を鑑定してみてください」

 

「燭台を、ですか」

 

「たぶん、何か言ってます」

 

「燭台が、何かを言うのですか」

 

「言う」

 

 真壁が当然のように答えた。

 

 澪は、前方から目を離さずに眉を寄せた。

 

「真壁さんも普通に受け入れないでください」

 

 古い燭台は、後部座席の荷の間に置かれていた。派手な光ではない。金属の古びた肌の奥から、ほのかに火が入ったような光だった。

 

 ヴァルトは、針作りの手を止め、燭台へ鑑定を向けた。

 

 次の瞬間、彼の顔から表情が一つ消えた。

 

----------------------------------

【現地素材】橋市へ持っていく実用品【錆びにくく】

 

001:燭台

 見習い行商人、作れ。

 

002:燭台

 川の町で使う針だ。

 

003:燭台

 錆びにくくせよ。

 

004:燭台

 高級品に寄せすぎるな。

 

005:燭台

 網を直せる形にせよ。

 

006:燭台

 由来を盛るな。

 

007:燭台

 使えるように磨け。

----------------------------------

 

 ヴァルトは、黙った。

 

 古い燭台。

 

 分類は、ただの古物ではない。魔道具でも、聖別品でも、古代遺物でもない。鑑定10が示すものは、もっと重い。

 

 神様。

 

 その神様が、番号付きで書き込んでいる。

 

 ヴァルトは、鑑定結果の下に並ぶ短文を見ながら、ゆっくり瞬きをした。見覚えがある。王都魔術院の書式ではない。古代魔術文明の碑文でもない。聖典の注釈でもない。商会の帳簿でもない。

 

 自分がまだ日本にいた頃、画面の向こうにあった匿名の言葉の並び。番号が振られ、短く、時に妙に実用的で、時に無責任なあの空気に似ている。

 

 ただし、ヴァルトが知っているのは二十六年前までだ。

 

 その後、その場所がどうなったのかは知らない。

 

「……澪さん」

 

「はい」

 

「これは、私が知っている時代の匿名掲示板に似ています」

 

「分かりますか」

 

「分かります。分かるのが困ります。ただ、私の知っているのは、二十六年前までです。その後のことは分かりません」

 

 澪は前方を見たまま、少しだけ言いにくそうに息を整えた。

 

「もう〇ちゃんねるはないんですが、神さまがうちの六畳間で異世界小説にはまり込んださいに、小説に時折出てくるネット掲示板に影響を受けたようで、こんなコミュニケーションをとることになりました」

 

 車内が、少しだけ静かになった。

 

 ヴァルトは、手元の太針と、光っている古い燭台を順番に見た。

 

「……神様が、六畳間で異世界小説を読み、そこに出てくるネット掲示板の形式に影響を受けた」

 

「はい」

 

「それで、燭台越しに、現地素材の実用品について助言している」

 

「はい」

 

「理解できるのが困ります」

 

「私もです」

 

「読みやすい」

 

 真壁が言った。

 

「評価するところ、そこですか」

 

 澪の声は、怒ってはいない。ただ、現実を支えるための突っ込みだった。ヴァルトには、それが少し分かってきた。

 

 王都魔術院の分類では、この現象は扱いに困る。

 

 神託と呼ぶには軽い。魔道具の反応と呼ぶには格が重い。掲示板の書き込みと呼ぶには、書き込んでいる相手が重すぎる。

 

 だが、内容は実用的だった。

 

 川の町で使う針だ。錆びにくくせよ。高級品に寄せすぎるな。網を直せる形にせよ。由来を盛るな。使えるように磨け。

 

 そこが、いちばん困る。

 

 神様のコメントとしては軽いのに、行商人の指示としては正しい。

 

 ヴァルトは、手元の作りかけの太針を見た。

 

 マッドビッグブルの突進線から採れた鉄。

 

 そう言えば、由来としては派手だ。聞く者によっては面白がるだろう。値を上げる理由にもできるかもしれない。だが、それは違う。

 

 これは、川の町で網を直す針だ。

 

 由来を盛るための品ではない。

 

 使えるように磨く品だ。

 

 

 

 

 

 

 

 ヴァルトは、もう一度工程へ戻った。

 

 今度は、針先だけを見なかった。持つ部分を見る。濡れた指でつまんだ時、滑りすぎないか。太糸を通す針穴の大きさは足りるか。漁網用として、曲がりにくい厚みがあるか。普通の針は小束にできるよう、細さと長さを揃える。

 

 最初の一本は、少し太すぎた。

 

 次の一本は、針穴が端に寄った。

 

 さらに次は、先端が鋭くなりすぎた。

 

 真壁は責めなかった。失敗作を見て、ただ短く言う。

 

「太すぎれば網目を傷める。細すぎれば折れる」

 

「魔術式なら、数値を固定できますが」

 

「使う者の手は、数値通りではない」

 

 ヴァルトは、その言葉を受け止めた。

 

 魔術式は、条件を整えれば同じ結果を返す。だが、人の手は違う。漁師の手、荷運びの手、濡れた指、寒い朝、急いで直す網。道具は、数値だけで使われるわけではない。

 

 澪がミラー越しにちらりと見た。

 

「真壁さんが普通に先生してます」

 

「訓練だからな」

 

「教材の出どころを忘れそうになります」

 

「忘れる必要はない」

 

「忘れさせてください」

 

 ヴァルトは、思わず小さく笑った。手元の太針は、まだ完璧ではない。だが、笑ったことで肩の力が少し抜けた。

 

 収納内で、鉄とクロムの混ざりをもう一度見る。硬さと粘りの均衡を少し変える。漁網用の太針は数本。普通の針は、小束にできる程度。仕上げは粗い。だが、形は使えるものになっていく。

 

 最後の一本を固めた時、ヴァルトは手の中に重みを感じた。

 

 ただの試料ではない。

 

 売り物になる前の品だった。

 

 真壁が鑑定する。目は短く動き、すぐに頷いた。

 

「実用品としては十分だ」

 

 ヴァルトは息を吐いた。

 

「仕上げは、まだ粗いですね」

 

「そこを磨くのも経験だ」

 

 燭台の光はもう弱くなっていた。だが、先ほどの文字はヴァルトの中に残っている。

 

 由来を盛るな。

 

 使えるように磨け。

 

 それは、神様の書き込みとしては妙に地味で、行商人の助言としては妙に重かった。

 

 澪は運転しながら、少しだけ口元を緩めた。

 

「リュシアさんが見たら、値段と売り方まで考えそうですね」

 

「考えるだろう」

 

 真壁は当然のように言い、次の作業へ移った。

 

「次は肉だ」

 

 澪の口元が止まった。

 

「肉」

 

「マッドビッグブルだ」

 

「討伐が旅人向け乾燥食に変わるんですね」

 

「リュシア君のリストにある」

 

「ありますけど、材料名が強すぎます」

 

 真壁は、収納内でマッドビッグブルの肉を取り出した。実際に車内へ血のついた塊を出すわけではない。収納内で解体し、部位を分け、使う分だけを工程に回していく。澪は前を見ているのに、真壁が何をしているのか、会話と気配だけでだいたい分かってしまう自分が少し嫌だった。

 

 筋。脂。赤身。硬い部位。

 

 硬い部位は燻製肉向き。脂は手入れ油や石鹸材料へ回せる可能性がある。赤身は乾燥食にできる。骨や角は、今回は本格加工しないが、留め具や柄材の試作素材にはなる。

 

 真壁は塩を使い、収納内で下処理を進めた。燻煙材は、前に回収した木材のうち香りの悪くないものを選ぶ。高級燻製を作るのではない。旅人が持ち歩ける保存食にする。

 

 ヴァルトは、針を布に並べたまま、その工程を見ていた。

 

 素材を得る。用途を決める。保存性を持たせる。持ち運びやすくする。値を付ける。

 

 行商人の仕事は、荷を運んで売るだけではない。現場で品の形を整え、次の町へ持っていけるものに変えることでもある。

 

「また兼ねてますね」

 

 澪が言った。

 

「兼ねている」

 

「マッドビッグブル討伐が、旅人向け乾燥食に変わりました」

 

「道で得たものは、道で使える」

 

 ヴァルトは、その言葉に一瞬だけ頷きかけた。

 

「……その言葉だけなら、商人の格言のようです」

 

「問題は、実例が落とし穴の魔物肉なんですよね」

 

 澪の指摘で、ヴァルトは頷くのをやめた。

 

 危なかった。

 

 納得しかけた。

 

 だが、納得してしまうと、落とし穴の土から太針を作り、魔物肉を燻製にして、神様の番号付きの言葉を実用助言として受け取る現場を、そのまま普通の行商として認めることになる。

 

 それは、まだ少し早い。

 

 少しで済むかは、分からない。

 

 

 

 

 

 

 

 道の先に、水面の光が見え始めた。

 

 澪は、自然に速度を落とした。地図の先に、町らしいまとまりが薄く浮かんでいる。まだ完全ではない。だが、これまでの湿地と草の道とは違う。人の気配があり、荷の流れがあり、橋へ向かう線がある。

 

 遠くに、橋の影が見えた。

 

 川幅はまだ分からない。ただ、橋の手前に荷馬車らしい影がいくつかあり、人が集まっている気配がある。声もかすかに聞こえた。怒鳴り声ではないが、穏やかな市の声とも少し違う。

 

 橋守か、渡し守か。

 

 澪はハンドルを握り直した。

 

「見えてきました」

 

 真壁は前方を見た。

 

「灰橋町だな」

 

 ハイエースの中には、橋市へ持っていくものが増えていた。リュシアのリストをもとに用意された小物類。ヴァルトが作った漁網修理用の太針と普通の針。真壁が仕込んだマッドビッグブルの燻製肉。まだ粗いが、使える品。由来を盛るためではなく、次の町で役に立つための品。

 

 ヴァルトは、自分の作った太針をもう一度見た。

 

 形は完璧ではない。磨きもまだ甘い。だが、灰橋町で誰かの漁網を直す役には立つかもしれない。自分が作ったものが、次の町で値を持つ。その感覚は、魔術院の試料にも、商館の帳簿にもなかった。

 

 澪は前方の橋を見ながら、次は橋守と渡し守の話になるのだろうと感じていた。

 

 通行料の揉め事。

 

 橋市の品。

 

 石場町方面へ消えた荷。

 

 その入口が、もう目の前にある。

 

 水の匂いが、少し濃くなった。

 

 灰橋町の橋が、はっきりと見え始めた。

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