押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第145話 黒鎖の名

 

 湿った草地が途切れた先で、空が急に広くなった。

 

 低い雲を映した川が、灰色の帯となって左右へ延びている。その流れを跨ぐように、古い石橋が架かっていた。橋脚は長い年月を水に洗われ、下部ほど黒く濡れている。対岸には灰色の屋根が重なり、その手前の河原には、赤や黄土色の布屋根がいくつも並んでいた。橋市だろう。風に乗って、燻した魚と湿った麻縄の匂いが、わずかに車内まで入り込んできた。

 

「見えてきました。あれが灰橋町ですね」

 

 澪はハンドルを握り直しながら、前方の景色と地図に浮かび始めた線を重ねた。初めて見る町でありながら、川と橋の位置が地図の中へ沈んでいくにつれ、まったく知らない場所ではなくなっていく。その感覚にも少しずつ慣れてきたが、慣れたと思った時ほど見落としが増える気がして、澪は速度を落とした。

 

 橋へ続く道には、荷馬車が長い列を作っていた。

 

 ただ待っているだけの列ではない。御者台から降りて橋の方を見に行く者がいれば、苛立つ馬の首を撫でながら仲間と相談している者もいる。石材を積んだ一台は、料金表らしい板を振り返りながら列を外れた。別の商人は荷台の縄をほどき、木箱を三つだけ人足へ渡している。荷を減らしてから橋を渡るつもりらしい。

 

 下流には渡し場があった。岸へ寄せられた平底船へ麻袋や樽が積み込まれ、船頭が身振りを交えて積みすぎを止めている。橋が使えないわけではない。それでも、手間をかけて渡し船へ回る者がいる。

 

「橋があるのに、ずいぶん渡し船へ流れていますね」

 

 後部座席から窓外を見ていたヴァルトが、考えを確かめるように言った。目は橋そのものではなく、列を外れていく商人たちを追っている。王都魔術院にいた頃なら術式の乱れを探していたはずの視線が、今は荷と人の動きを読もうとしていた。

 

「渡れないのか、渡らないのか。橋へ近づく前に、それを見ておくべきですな」

 

 真壁は助手席で腕を組み、石材を積んだ荷車が引き返していく様子を見送った。声は穏やかだったが、橋市へ着いた喜びより、流れが滞っている理由への興味が勝っている。その横顔を見て、澪は予定どおり買い物だけで終わることはないのだろうと、早くも諦めに近い予感を抱いた。

 

 澪は橋へ続く道を外れ、木々の陰へハイエースを入れた。雨を含んだ土がタイヤの下で柔らかく沈み、低い枝が車体の上を擦る。橋の列からは林に隠れ、町からも見通せない位置まで進んでから停車した。

 

 三人が降りると、真壁は車内と周囲を順に確かめた。澪が古い燭台を包んだ荷を自分の収納へ移し、ヴァルトも橋市で扱う品を受け取る。荷室が空になったところで、真壁はハイエースそのものを収納へ入れた。

 

 先ほどまで大きな車体があった場所には、二本の轍と雨に濡れた落ち葉だけが残った。

 

「何度見ても、車一台が消えるのは慣れません」

 

 澪は空いた場所を見ながら、小さく息を吐いた。収納を使う自分も似たことをしているはずなのに、車ほど大きな物が音もなく消えると、現実の方が一瞬だけ抜け落ちたように感じる。

 

「残しておけば、慣れるより先に人が集まる」

 

 真壁は外套の裾を整え、すでに橋へ向かって歩き出していた。その切り替えの早さに置いていかれないよう、澪は足元の泥を避けて後を追った。

 

 橋へ近づくにつれ、列が止まっている理由が見えてきた。

 

 入口の脇に小さな橋守小屋があり、その前に大きな料金板が立てられている。人一人、手押し車、二輪荷車、四輪荷馬車と料金が分かれ、さらに石材、木材、金具、樽物と、積んでいる荷によって金額が加算される仕組みだった。

 

 板の上部には、比較的新しい文字で「橋梁修理負担金」と書かれている。

 

「次。徒歩三人、荷は?」

 

 橋守の男が、三人を順に見た。

 

 四十を少し過ぎた頃だろう。日に焼けた頬には疲労が刻まれ、目の下に薄い隈が残っている。腰から下げた革袋は硬貨の重みで膨らんでいたが、その顔に儲けを喜んでいる様子はない。背後では若い手伝いが、通行人へ渡す木札を黙々と揃えていた。

 

「行商の荷を、それぞれの収納へ入れております」

 

 真壁が答えると、男は料金板の下部を指した。爪の間には木屑が入り、指先には古い傷がいくつもある。机に座って金だけを数えてきた手ではなかった。

 

「収納持ちは、一人につき追加だ」

 

 澪は示された金額を目で追い、思わずもう一度見直した。三人分を合わせれば、徒歩で橋を渡るだけとは思えない額になる。

 

「収納の荷は、橋へ重さをかけませんよね。それでも荷馬車より高くなるんですか」

 

 問いかけた後で、少し責めるような口調になったかもしれないと気づき、澪は男の顔を窺った。だが男は怒らなかった。同じ質問を何度も受けてきたのだろう。うんざりしたように息を吐き、料金板を指で叩いた。

 

「収納なら、荷馬車何台分でも運べる。収納持ちは一律で取れと、代官所から命じられている」

 

 言いながらも、男自身がその理屈を信じているようには見えなかった。視線は澪ではなく、後ろに並ぶ荷馬車へ向いている。列を滞らせれば、また怒鳴られる。その焦りの方が強いらしい。

 

「見えない荷で橋が沈むのか、エルンスト!」

 

 下流から響いた太い声に、橋守の男が露骨に顔をしかめた。

 

 船着き場から一人の男が坂を上がってくる。濡れた長靴を履き、肩には太い縄を掛けていた。川風に晒された髪は硬く乱れ、腕まくりした袖の下には、舟を操る者らしい筋肉が浮いている。

 

「修理費なら、橋を傷める荷車から取れ。収納に入った荷まで数えるから、客がこっちへ押し寄せるんだ」

 

 マルクと呼ばれた男は、エルンストの前まで来ると、料金板を睨んだ。その怒りは客を奪われた者のものには見えない。むしろ渡し船へ客が集中し、事故が起きることを恐れているようだった。

 

「マルク、お前は黙っていろ。料金を決めたのは俺じゃない」

 

 エルンストは革袋へ添えた手に力を入れた。言葉は強いが、マルクへ向ける目には敵意より疲れが濃い。

 

「だが取ってるのはお前だ。昨日も、払えない商人が樽を全部こっちの船へ積もうとした。あと一つ載せていたら、川の真ん中でひっくり返っていたぞ」

 

 マルクが肩の縄を地面へ落とすと、湿った土が鈍く鳴った。背後の渡し場では、今も荷主と船頭が積荷の量を巡って揉めている。

 

「なら断れ」

 

 エルンストは吐き出すように言った後、わずかに目を伏せた。自分でも無理な言い分だと分かっているのだろう。

 

「橋を渡れない値にしておいて、船でも断れと言うのか」

 

 マルクの声が低くなる。怒鳴り声よりも、その低さの方が、積み重なった苛立ちを伝えていた。

 

「取らなければ橋守を替えられる。お前が代わるか」

 

 エルンストが顔を上げる。日に焼けた頬の筋肉が硬くなり、腰の革袋が急に重い物に見えた。

 

 マルクはすぐには答えなかった。視線を橋へ向け、それから川辺に係留された自分の船を振り返る。

 

「船を捨てて橋の番などするか」

 

「なら、仕事の邪魔をするな」

 

 二人の間に険悪な沈黙が落ちた。

 

 それでも、殴り合いになる気配はなかった。互いの仕事を知り、互いが逃げられない立場にいることまで分かった上で、それでも文句を言わずにはいられない。何度も繰り返してきた口論なのだろう。

 

 真壁は二人を止めず、石橋を見上げていた。

 

 橋脚の石組みには苔が張りついているが、大きなずれや亀裂は見えない。問題は上に渡された板と欄干だった。車輪が繰り返し通る中央部は表面が削れ、端には水を吸って黒ずんだ部分もある。風が吹くたび、古い木と川泥の匂いが混じった。

 

 真壁の視線が、入口から橋の中央、対岸へゆっくり動く。鑑定で得た結果だけを見るのではなく、実際に荷車が通った時の沈み方や、橋板が返す音まで確かめている。

 

「エルンスト殿。石材を積んだ荷車は、同時に何台通している?」

 

 真壁に名を呼ばれ、エルンストは少し意外そうに目を向けた。先ほどマルクが呼んだ名を覚えていたことに気づいたらしい。

 

「一台ずつだ。普通の荷車も二台までにしている」

 

 答える間にも、エルンストは橋へ入ろうとした荷馬車を手で止め、対岸から来る一台を先に通した。橋板が低く鳴る。彼は音を聞き、車輪が渡りきるまで視線を外さなかった。

 

「それは代官所の指示かね」

 

「俺の判断だ。毎日ここにいれば、板の鳴り方くらい分かる」

 

 エルンストの声には、先ほどまでとは違う張りがあった。料金については言い訳を重ねていた男が、橋を守る仕事については迷わず答えた。

 

 真壁はわずかに目を細めた。

 

「修理は、いつ行った?」

 

「先月、入口側の板を替えた」

 

「何枚だ」

 

「……四枚だ」

 

 答えるまでの短い間を、マルクは聞き逃さなかった。

 

「三枚だ。四枚目は古い板を裏返して、打ち直しただけだろう」

 

 マルクが鼻を鳴らす。エルンストは反論しかけたが、真壁が橋板へ目を向けたのを見て言葉を止めた。

 

「使える板を使って何が悪い。腐ってはいなかった」

 

 やがて出てきた言葉には、金をごまかした者の後ろめたさではなく、足りない資材で修理を続けてきた者の意地が混じっていた。

 

「悪いとは言ってない。あれだけ修理費を取って、それしか材が来ないから言ってるんだ」

 

 マルクの声からも、エルンスト個人を責める響きが少し薄れた。

 

 真壁は交換された板を確かめた。新しい材は三枚。その隣の一枚は、確かに裏返して固定し直されている。橋は傷んでおり、計画的な修理が必要だった。しかし橋脚は安定し、エルンストが重量物の通行を制限している限り、今日明日に崩れ落ちる状態ではない。

 

 徴収されている金額と、橋へ戻された資材の差だけが、ひどく不自然だった。

 

 ヴァルトが料金板へ近づいた。

 

「橋梁修理負担金を定めた書付を、拝見してもよろしいでしょうか」

 

 穏やかな口調だったが、その姿勢には王都魔術院で記録を確認してきた者の癖が残っていた。相手を責める前に、文書の形式、署名、記載順を確かめようとしている。

 

「代官所の印ならある」

 

 エルンストは橋守小屋へ入り、丸めた羊皮紙を持ってきた。

 

 紙の下部には、代官クラウス・ベーレンの印が押されている。ところがヴァルトは、印より先に料金区分へ目を止めた。荷の種類、重量、収納の有無だけでなく、支払いが遅れた場合の加算まで記されている。

 

「役所が作る徴収表というより、運送商会の料金表に近いですね」

 

 ヴァルトが静かに指摘すると、エルンストの指が羊皮紙の端を強く押さえた。表情は変わらなかったが、指先だけが先に動揺を示している。

 

「誰が、この区分を作ったのですか」

 

 ヴァルトは追及する調子を避けた。それでもエルンストの視線は、反射的に橋守小屋の奥へ向いた。

 

「代官様のご指示だ。黒鎖の者が持ってきた……」

 

 言葉が途中で途切れた。

 

 マルクの眉が動く。澪も、聞き慣れない名を胸の内で繰り返した。

 

 黒鎖。

 

「いや、代官所から回された書付だ」

 

 エルンストは羊皮紙を巻き直した。先ほどより手つきが速く、紙の端がわずかに折れた。

 

 ヴァルトは何も言わなかった。真壁も追及せず、三人分の通行料と負担金を支払った。ここでエルンストを問い詰めれば、彼は自分を守るために代官所へ知らせるだろう。名を一つ拾っただけで、道を閉ざす必要はない。

 

 硬貨が革袋へ落ち、鈍い音を立てた。

 

 エルンストは手伝いから木札を三枚受け取り、真壁へ渡した。表面には橋を模した焼き印がある。

 

「町を出るまで持っていろ。戻る時にも確かめる」

 

 仕事へ戻ろうとするエルンストの声には、先ほど口を滑らせた焦りが残っていた。

 

 真壁は受け取った木札を指でなぞった。裏側の端が、不自然に深く削られている。削り残された黒い焦げ跡が、短い曲線となって続いていた。橋の印とは異なる。幾つか並べれば、鎖の輪になる形だった。

 

 三人が橋へ進むと、背後でエルンストが次の荷車を止める声がした。先ほどまで怒鳴っていたマルクは渡し場へ戻り、積みすぎた樽を船から降ろしている。

 

 石橋の上では、川風が一段強くなった。欄干の隙間から見える水面に白い波が立ち、下流の船が縄に引かれて岸を離れる。橋板は足元で乾いた音を返したが、真壁の歩みは変わらなかった。

 

 橋を渡りきったところで、澪は振り返った。

 

 真壁は橋を見ていたが、収納を開こうとはしない。泥場や宿場なら、問題を見つけた瞬間に資材を取り出していた男である。その真壁が何もしないことの方が、澪には不自然だった。

 

「橋、直さないんですか」

 

 澪が尋ねると、真壁は手の中の木札から視線を上げた。

 

「今はな」

 

 短い返事だったが、放置する者の声ではなかった。橋の状態も、直す工程もすでに見えている。その上で順番を変えたのだと、澪には分かった。

 

「傷んでいるんですよね」

 

「修理は要る。ただ、エルンスト殿が重量物を一台ずつ通している限り、今日落ちる橋ではない」

 

 真壁は対岸の橋守小屋を見た。エルンストはまた橋板の音を聞きながら、荷車を一台ずつ送り出している。

 

「では、先に何をするんですか」

 

 澪は木札の裏に残る焦げ跡を思い出した。問いながら、答えの一部はもう分かっていた。

 

「修理費を、橋へ届かせていない者を外す」

 

 真壁の声は穏やかだった。しかし、橋を直す時よりも先を見ている目だった。

 

「黒鎖、ですか」

 

「今あるのは、橋守が口にした名と、削られた印だけだ。名だけで商会は潰せん」

 

 真壁は木札を収納へ入れ、橋市へ顔を向けた。

 

 色の違う布屋根の下で、商人の声と硬貨の音が混じっている。燻製魚の煙、油、濡れた縄、馬と川泥の匂いが、橋の上より濃く漂っていた。売り手と買い手が行き交う場所なら、役所の書付には残らない流れも見える。

 

「だから、まず商人として町を見る」

 

 真壁が歩き出すと、ヴァルトも羊皮紙の料金区分を思い返すように一度橋を振り返り、その後へ続いた。

 

 

 

 

 橋市の管理人は、三人の荷姿を見てから場所代を提示した。

 

 年配の男の前には、区画ごとの木札が並んでいる。朝から何人もの商人を相手にしてきたのだろう。声は少しかすれていたが、通路の幅や火の扱いについて説明する時は厳しかった。

 

「そこの空いた区画なら使っていい。通路へ荷を出さないこと。火は使わないこと。終わったら縄も包み紙も残さないこと」

 

「承知した」

 

 真壁は場所代を支払い、示された区画の幅を一度見た。

 

 次の瞬間、何もなかった地面へ木製棚が現れた。

 

 周囲で値段を呼び上げていた声が、一瞬だけ小さくなる。箱や袋ではない。商品を載せた棚そのものが、最初からそこに店を構えていたように立っている。

 

 上段には縫い針、漁網修理用の太針、糸、炭筆、小さな紙束が並び、中段には靴紐、荷締め紐、刃物の手入れ油、小釘、修理用金具が収められている。下段には小分けの石鹸、乾燥食、塩、油紙、荷包み用の布が、取り出しやすい単位に分けられていた。

 

 どの商品にも小さな札が付いている。品名だけではない。販売単位、品質、用途、扱う際の注意まで、読みやすい文字で揃えられていた。

 

「また棚ごと出すんですか」

 

 澪は周囲から集まる視線を感じながら、声を抑えた。以前にも見たはずなのに、知らない町の市場へ突然店一軒分が現れる光景は、やはり普通ではない。

 

「棚ごとの方が、並べ間違いがない」

 

 真壁は当然のように棚の傾きを直した。地面がわずかに沈んでいる箇所へ薄い板を噛ませ、商品が片側へ寄らないようにする。収納から出せば終わりではなく、置いた場所に合わせるところまでが彼の中では一つの作業らしい。

 

「灰橋町へ着く前から、収納の中に店があったんですね」

 

「リュシア君から必要品を聞いた時に組んだ」

 

 真壁は棚の横へ、商品一覧を書いた大きな板を置いた。そこには商品名、販売単位、価格、現在数、主な用途が並び、追加在庫がある品には印まで付いている。

 

 澪は板と真壁を交互に見た。

 

「準備が商品だけで終わらないんですよね、真壁さんは」

 

「売り場も荷の一部だ。品があっても、客が見つけられなければ収納の中にあるのと変わらん」

 

 言われてみれば正しい。正しいからこそ、澪は反論しづらかった。大学のゼミで考えている、商品があっても用途や導線が見えなければ店へ入りにくいという話まで思い出し、真壁の影響がまた一つ増えた気がして複雑になる。

 

 真壁は予備在庫を澪とヴァルトの収納へ分けた。

 

 澪には会計用の小銭、包み紙、売上帳。ヴァルトには補充商品と、一覧の残数を書き換える炭筆が渡される。

 

「私たちだけで店を回せるようにしていますよね」

 

 澪は受け取った売上帳を開きながら、真壁の横顔を窺った。橋を渡った時から、彼が別のことを考えているのは分かっていた。

 

「そのために分けた」

 

 真壁は隠そうともせず答えた。その率直さに、澪は問い詰める気を少し失った。

 

 棚を出した時から、近くの客は様子を窺っていた。

 

 最初に近づいてきたのは、川魚の匂いが染みついた上着を着た男だった。指先には網糸で擦れた細かな傷があり、腰には太い麻糸が巻かれている。

 

「太針ってのは、これか」

 

 男はヴァルトが作った針を一本持ち上げた。

 

 商品札や価格より先に針穴を覗き、爪で先端を撫でる。道具を長く使ってきた者らしい手つきだった。ヴァルトは説明を始めかけたが、真壁の視線に気づいて口を止めた。

 

「普段お使いのものより、細く見えますか」

 

 代わりにそう尋ねると、男は針を横から眺めた。

 

「見た目はな。細い針は曲がる」

 

 声には、初めて見る品を簡単には信用しない慎重さがあった。

 

「どのような網に使われますか」

 

「川底へ掛ける大魚用だ。糸が太いから、服を縫う針じゃ通らん」

 

 男は腰の袋から、途中まで補修した網を取り出した。太い麻糸が幾重にも結ばれ、切れた箇所だけが大きく開いている。

 

「試しても?」

 

「そのために持ってきた」

 

 男が網を広げると、湿った麻の匂いが濃くなった。

 

 ヴァルトは四本組の包みを開き、一本を渡した。男は太糸を針穴へ通し、切れた網目へ差し込む。先端が結び目へ触れたが、糸を裂くことなく抜けた。今度は少し強く引く。針は曲がらず、太糸だけが網目の間を滑った。

 

 男の眉間から、わずかに力が抜ける。

 

「悪くない。錆びるか」

 

「錆びにくい素材にはしてあります。ただ、使った後は水分を拭き取ってください。濡れることと、濡れたまま置くことは別です」

 

 ヴァルトは自分の作った品を過剰に褒めず、分かっている範囲だけを答えた。男はもう一度針を網へ通し、その言葉と手の中の感触を比べている。

 

「川道具に濡らすなと言わないだけ、話は分かるな。四本もらう」

 

 男が硬貨を置く。

 

 澪は金額を確かめ、売上帳へ品名と数量を書いた。ヴァルトは針を包んで渡し、商品一覧の残数を一つ減らす。

 

 自分の手で形にした品が棚から消え、その代わりに硬貨が残った。

 

 ヴァルトは立ち去る男の背中を、少し長く見送った。王都魔術院で術式や道具を完成させた時とは違う。評価表でも上官の承認でもなく、使う者が自分の金を払って持ち帰った。その事実が、静かに胸へ残っている。

 

「売れましたね」

 

 澪が声を掛けると、ヴァルトは一覧へ向き直った。

 

「ええ。ですが、まだ一組です」

 

 表情は平静に戻していたが、炭筆を持つ指には先ほどまでとは違う力が入っている。

 

「だから、最初の一組ですよ」

 

 澪が笑うと、ヴァルトは返事の代わりに、残数の数字を丁寧に書き直した。その横顔には、隠しきれない満足がわずかに残っていた。

 

 真壁は二人のやり取りを見届けてから、薄い帳面を取り出した。

 

「次はこちらだ」

 

「売上帳なら、澪さんが持っています」

 

 ヴァルトが不思議そうに見ると、真壁は帳面を彼へ渡した。

 

「仕入帳だ」

 

 ヴァルトは表紙を開いた。品名、生産地、売り手、数量、仕入値、品質、用途、次回仕入れの可否。その欄の多さに、先ほど売れた喜びが少しだけ実務へ引き戻される。

 

「販売を始めたばかりですが」

 

「売って荷を軽くするだけでは、帰りが空になる。この町から持ち帰る品を見給え」

 

 真壁は橋市を見渡した。燻製魚を並べる店、縄を吊るした店、麻布を積み上げた店。そのどれもが、押入商会の棚を見る客であると同時に、こちらが買い手になる相手でもあった。

 

「売りながら買うんですね」

 

 澪は会計用の硬貨を整えながら、橋市へ来た意味がようやく一往復の形になったことに気づいた。商品を届けるだけでは、帰り道がただの移動になる。町の品を持ち帰れば、次の商売へ道が続く。

 

「橋市だ。片方だけでは半分しか見えん」

 

 真壁の言葉を受け、ヴァルトは仕入帳を持って市場の奥へ入っていった。

 

 澪は棚の前へ残り、石鹸の用途を尋ねる客に説明しながら、ときどきヴァルトの姿を追った。彼は燻製魚を手に取り、売り手へ魚の名と加工場所を聞いている。次の縄屋では乾いた縄だけでなく、水桶へ入れられた見本まで引かせてもらい、結び目の締まり方を確かめていた。

 

 しばらくして戻ってきたヴァルトの腕には、布包みと三種類の縄が抱えられていた。

 

「燻製川魚を三種類買いました。魚種と燻煙時間が異なりますが、すべて灰橋町で獲れた魚を、町の燻製小屋で加工したものです」

 

 ヴァルトは一つずつ包みを開き、澪と真壁へ断面を見せた。煙が深く入ったものは身が締まり、別の一つはわずかに柔らかさが残っている。

 

「こちらは水分が多めです。保存食として遠くへ運ぶより、数日以内に食べた方がよいでしょう。残り二種類は行商にも使えます」

 

 鑑定結果だけを読み上げるのではなく、何に向くかまで自分で分けている。澪は売上帳の空いた場所へ、試食後に用途を決めると書き添えた。

 

「縄は、灰橋編みと呼ばれていました。川沿いで採れた麻を使い、濡れた時に結び目が締まりやすくなるよう編んであります。細、中、荷馬車用の太縄を一束ずつです」

 

「全部、少量ですね」

 

 澪が縄の撚りを指先で確かめると、ヴァルトは当然のように頷いた。

 

「使いもせずに大量購入する理由がありません。耐久性を確かめ、必要な太さが分かってから次を買います」

 

 以前なら理論と数値を揃えてから実地へ移ったはずの人物が、今は商品を少量仕入れ、使った結果を次の取引へつなげようとしている。その変化を感じ、澪は少し嬉しくなった。

 

「真壁さんの教え方、もう効いてますね」

 

「商人として普通の判断です」

 

 ヴァルトは否定したが、真壁が満足そうに目を細めたことには気づかなかったふりをした。

 

 油引き麻布も、寸法の違うものを数枚だけ買っていた。油の匂いが強い品は避け、荷へ触れる面が乾いているものを選んでいる。

 

「次は澪さんが見てきてください。こちらは私が見ます」

 

 ヴァルトから言われ、澪は売上帳を預けた。

 

 橋市を歩くと、売り手の声が四方から重なった。燻製魚の煙が低く漂い、縄屋の軒先では湿らせた麻が風に揺れている。川に近い側ほど、船具や荷包みを扱う店が多かった。町の暮らしが川と橋の両方へ結びついていることが、並ぶ品から伝わってくる。

 

 燻製魚を売る店の先で、青灰色の細長い石を並べた棚が目に入った。

 

「砥石ですか」

 

 澪が尋ねると、棚の奥にいた仲買人が顔を上げた。

 

「石場町の青砥だ。刃物なら大抵これでいける」

 

 男はそう言ったが、棚の半分以上が空いている。残っている砥石も、置かれてから日が経っているのか、薄く埃を被っていた。

 

「灰橋町で採れる石ではないんですね」

 

「ここじゃ採れない。石場町から運んで、橋市で売ってる」

 

 澪は仕入帳へ、生産地と購入地を分けて書いた。

 

「粗さの違うものはありますか」

 

「本当なら粗目、中目、仕上げ用まである。今あるのは粗目が二本と、中目が一本だけだ」

 

 男は空いた棚へ目をやった。売る品がない苛立ちより、次の荷が来るか分からない不安の方が強く見える。

 

「仕上げ用は売り切れたんですか」

 

「売り切れたまま、次が来ない。石場町を出た荷が途中で遅れる。遅れるだけならまだいい。荷車ごと戻らないこともある」

 

「盗賊ですか」

 

 澪が声を落とすと、男は周囲を確かめてから肩をすくめた。

 

「泥場で車輪を取られたとも、魔物にやられたとも、盗賊が出たとも聞く。話が毎回違うんだ。ただ、黒鎖の護衛を付けた荷だけは、妙にきちんと届く」

 

 男の口から出た名に、澪の指が仕入帳の上で止まった。橋守が口を滑らせた名と同じだった。

 

「護衛を頼まなかったんですか」

 

「頼めと言われたよ。金が足りなければ貸すともな」

 

 男は乾いた笑いを漏らしたが、目は笑っていなかった。

 

「借りる前に、売る砥石の方がなくなった。金を借りても、返す品が来なけりゃ同じだ」

 

 澪は粗目と中目を一本ずつ購入した。売り手、産地、購入地を記録し、次回仕入れについては荷が届けば可能と書く。帳面の一行が埋まるほど、棚の空白が重く感じられた。

 

 店へ戻る途中でも、似た話が耳へ入った。

 

 修理金具が届かない。麻布の荷が途中で減った。金を借りた商人が荷車を取られた。川船を担保にした漁師が、返済期限を延ばす代わりに漁獲を安く渡している。

 

 原因は一つだと断言する者はいない。橋が悪いと言う者も、泥場が悪いと言う者も、魔物や盗賊を疑う者もいる。しかし護衛、倉庫、融資の話へ進むと、黒鎖という名が近くに現れた。

 

 澪は店へ戻り、買った砥石をヴァルトへ見せた。

 

「石場町産です。灰橋町の特産物ではないので、購入地と生産地を分けました」

 

 説明しながら、澪は仕入帳の該当欄を指した。ヴァルトは記録を読み、静かに頷く。

 

「仕上げ用がないのですね」

 

「届いていないそうです。黒鎖商会の護衛を付けた荷だけは届く、とも言っていました」

 

 澪は収納内ノートへ意識を向けた。

 

 橋の通行料と、行われていない修理。石場町から消える荷。黒鎖商会の護衛。資金を失った商人への融資。倉庫や荷車、船を担保にした契約。

 

 すぐに一つの答えへまとめず、それぞれを別の場所へ置く。だが分けて並べるほど、互いが近い場所にあることも見えてきた。

 

「真壁さん」

 

 澪が顔を上げると、真壁は橋市の外を見ていた。

 

 黒い幌を掛けた荷車が、町の奥へ進んでいる。荷台に商会名はない。だが御者の胸元には、小さな鎖を象った留め具が光っていた。

 

「通行料を取るだけなら、代官の蓄財で済む」

 

 真壁の声は低く、橋市のざわめきに紛れる程度だった。視線は黒い幌の荷車から動かない。

 

「だが、荷を止めた後で護衛を売り、倉庫を貸し、金を貸す。返せぬ者から荷車と商権を取るなら、目的は橋の修理費ではない」

 

 澪は先ほどの空いた砥石棚を思い出した。売る品が届かず、金を借りても返せない。困った者へ手を差し出す顔をしながら、その困りごと自体を作っている。

 

「自分たちで困らせて、自分たちの商品を買わせているんですね」

 

 口にした瞬間、嫌悪がはっきりした形を持った。商売の姿をしている分だけ、ただ奪うより質が悪い。

 

「そう見える。だが、まだ見えるだけだ」

 

 真壁は断定を避けた。怒りで先へ進むのではなく、確かめてから動く。その慎重さが、かえって彼がすでに動くと決めていることを示していた。

 

 ヴァルトも黒い幌の荷車を追い、その先にある大きな倉庫へ目を細めた。

 

「橋を直しても、次は道か倉庫を使うでしょう」

 

「ええ。橋は症状だ」

 

 真壁は棚の残数と、二人の収納へ分けた在庫を確かめた。売り場は動いている。澪とヴァルトだけでも、販売と仕入れを続けられる。

 

「二人は、ここで売買を続け給え」

 

 その言葉を待っていたように、澪は真壁を見た。

 

「真壁さんは?」

 

「町の荷の流れを見てくる」

 

「黒鎖商会を調べるんですか」

 

 澪は声を抑えながらも、胸の奥に緊張が広がるのを感じた。真壁が一人で動くこと自体には慣れてきた。それでも、相手が組織的に商人を追い詰めていると分かった後では、ただの町歩きとは思えない。

 

「まだ名だけだ。ゆえに確かめる」

 

 真壁は澪の売上帳と、ヴァルトの仕入帳へ順に目を向けた。

 

「澪君は会計と購入品の確認。ヴァルト殿は接客と補充、それから売り手に次回の仕入れ条件を聞いておいてくれ。二人とも、黒鎖の倉庫と代官所へは近づかぬこと」

 

 役割を具体的に言われると、澪の不安は少しだけ形を変えた。待つのではなく、自分たちの仕事を続ける。真壁が戻った時、橋市で何が売れ、何が足りず、何を買えたかを渡せるようにしておく。

 

「私も境界と結界は見られますが」

 

 ヴァルトが申し出た。声は落ち着いていたが、元国家魔術師として調査へ同行すべきだという意識が、姿勢に表れている。

 

「だから残ってもらう」

 

 真壁は即座に答えた後、澪の方へ目を向けた。

 

「澪君一人をここへ置き、私と君が同じ場所を見る必要はない。こちらにも、目と手は要る」

 

 ヴァルトは一度だけ黙った。

 

 調査へ行く者だけが役に立つのではない。売り場を守り、客の口から町の事情を拾い、帰りの荷を作ることも、今の自分の仕事である。そう理解したのだろう。肩に入っていた力を抜き、仕入帳を閉じた。

 

「承知しました。こちらを止めません」

 

 返事には、置いていかれる者の不満ではなく、自分の役目を引き受けた者の落ち着きがあった。

 

 澪は、それでも真壁の顔を見た。

 

「危ないことをする顔ではありませんよね」

 

「調べるだけだ」

 

 真壁はいつもの穏やかな表情で答えた。その表情が一番信用できない時もあることを、澪はよく知っている。

 

「真壁さんの『だけ』は、範囲が広いんです」

 

「今日は橋より狭い」

 

 真壁がわずかに笑う。

 

 澪は橋の長さを思い浮かべ、比較対象がおかしいと言いかけた。だが、その間にも客が棚の前へ来て、荷締め紐を手に取っている。

 

「もう。帰ってきたら、ちゃんと説明してください」

 

 澪は売上帳を開き直した。真壁を止めるのではなく、戻ってくることを前提に送り出す。その言い方ができた自分に、少しだけ驚く。

 

「無論だ」

 

 真壁は短く答え、人の流れへ入っていった。

 

 その背中はすぐに橋市の布屋根と行き交う人々へ紛れた。それでも澪には、どちらへ進んだかがしばらく分かった。迷わず町の奥へ向かう歩き方だけが、周囲の買い物客とは違って見えた。

 

 

 

 

 橋市の声が遠くなる路地まで来ると、真壁は足を止めた。

 

 両側には古い倉庫と商家の裏壁が続き、庇から落ちる水が細い溝を流れている。川から吹き込む風は建物に遮られ、燻製魚の煙もここまでは届かない。代わりに、濡れた木箱と古い油の匂いが路地へ籠もっていた。

 

 真壁は窓と屋根を順に確かめた。

 

 開いた窓はない。路地を通る人影も、こちらへ向く視線もない。

 

 収納から小型ドローンを出し、端末を開く。

 

 回転翼が低い音を立て、機体が壁に沿って上昇した。屋根より高い場所へ出ると、画面の中で灰橋町の形がつながっていく。

 

 川を跨ぐ石橋。その下流の渡し場。色の違う布屋根が並ぶ橋市。荷馬車置き場。町の中央にある代官所。そして、黒い幌の荷車が入っていった大きな倉庫。

 

 倉庫の裏から細い道が延び、代官所の裏手へ近づいている。

 

 真壁は、まず代官所へ機体を向けた。

 

 正面では町人と役人が出入りしている。荷の許可を求める者、書付を抱えた者、門前で順番を待つ者。そこだけを見れば、地方の代官所として不自然なところはない。

 

 裏口は静かだった。

 

 ドローンを高い屋根の影へ寄せ、待つ。

 

 やがて、黒い外套を着た男が細道から現れた。

 

 周囲を歩く商人とは違い、荷を持っていない。手にしているのは、革張りの書類筒だけだった。筒の留め具には、離れた位置からでも分かる黒い鎖が刻まれている。

 

 男は正面入口へ回らなかった。

 

 歩調を緩め、背後を一度確かめてから、代官所の裏扉を決まった回数で叩く。

 

 間を置かず、扉が内側から開いた。

 

 迎えた役人は男の顔を確かめようともしない。来ることを知っていた者の動きだった。

 

 男が中へ入り、扉が閉じる。

 

 黒い鎖の印が、木の扉の向こうへ消えた。

 

 真壁は端末の画面を見つめたまま、ドローンの高度を少し上げた。橋守の失言、削られた倉庫印、橋市で聞いた護衛と融資の話。それらが、代官所の裏口へ一本の線を引き始めている。

 

「橋を直すより先に、こちらだな」

 

 真壁の声は、濡れた路地へ静かに落ちた。

 

 小さな機体が高度を上げ、代官所の屋根を越えていった。

 

 

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