代官所の正面には、途切れることなく人が出入りしていた。
橋の通行許可を求める荷主、書付を抱えた町役人、徴収額への不満を訴えに来たらしい商人が石段の下で順番を待ち、扉が開くたびに中の声が外へ漏れている。荷車の車輪が石畳の窪みを越える音まで重なり、町の役所としては不自然なところのない忙しさだった。
その一方で、建物の裏手は静まり返っている。
屋根を越えた小型ドローンの映像には、雨水の流れる細い路地と、濡れて黒ずんだ石壁が映っていた。裏口の前には荷も積まれておらず、用事を待つ者もいない。先ほど黒い外套の男を通した扉は、何事もなかったように閉じている。
真壁は路地の陰に立ち、端末を両手で保持した。軒先から落ちる水が地面の溝へ細い筋を作り、橋市の方角から流れてくる燻製魚の匂いが、湿った木箱と古い油の匂いへ薄く混じっている。
男を鑑定した結果は、黒鎖商会の交渉役、ニコラウス・ゼーマンと出ていた。
交渉役が代官所へ入ること自体は罪ではない。運送、倉庫、融資を扱う商会なら、役所へ書類を持ち込む機会はいくらでもある。正面ではなく裏口を使ったことは怪しいが、怪しいという言葉は証拠の代わりにはならなかった。
真壁はドローンを上昇させ、代官所の屋根へ寄せた。
濡れた瓦が灰色の空を鈍く映している。屋根の縁を越えて上階を探ると、裏庭に面した窓の一つが、指二本ほど開いていた。秋の湿気を含んだ風に押され、薄いカーテンが内側でわずかに揺れている。
回転翼の音が窓へ届かない距離を保ち、機体を屋根の影へ置く。望遠を上げると、窓の向こうに二人の男が見えた。
机の奥にいるのが代官クラウス・ベーレンだった。整えられた髪には白いものが混じり、頬は肖像画で見る役人よりも痩せている。机上に積まれた書類は乱れていないが、右手だけが落ち着かず、同じ紙の端を何度も押さえていた。
向かいに立つニコラウスは、外套を脱いでも姿勢を崩さなかった。商人として過不足のない身なりを整え、声を荒らげる様子もない。黒い鎖を刻んだ書類筒を机へ置く動作さえ、予定された取引を一つずつ処理しているように見えた。
ニコラウスが筒から羊皮紙を出した。
真壁は映像を拡大した。上部に橋の印があり、その下には日ごとの通行量と徴収予定額が記されている。人、荷車、重量物、収納持ち。橋守小屋で見た料金区分と同じだった。
クラウスは机の引き出しから別の記録を取り出した。こちらは実際に徴収した金額らしい。ニコラウスは二枚を並べ、予定額と実績を指で照合していく。
橋の修理費を代官所だけで管理しているのではない。黒鎖商会が、橋で幾ら集まったかまで把握している。
真壁は録画を続けながら、拙速な結論を避けた。商会が徴収業務を委託されている可能性は、まだ消えていない。領主の許可があるのなら、表から入れない理由は薄いが、説明を作ることはできる。
ニコラウスは数字の確認を終えると、外套の内側から革袋を取り出した。
机へ置かれた袋が、重い音を立てる。
クラウスの手は動かなかった。
「もう十分だ」
開いた窓から入った音を、端末のマイクがかろうじて拾った。
クラウスは椅子を押して立ち上がった。机を挟んでニコラウスを睨んでいるが、怒りを相手へぶつける者の立ち方ではない。両手を机へ置き、震えを押さえ込むように指を開いている。
「約束が違う。これ以上は、町が……」
声の後半は、通りを走った荷車の音に消された。
ニコラウスは革袋を引き戻さなかった。反論する代わりに、クラウスが言い終えるのを待っている。相手の怒りが自分へ届かないと知っている者の静けさだった。
やがて彼は、外套の内側へもう一度手を入れた。
掌に載せて出したのは、硬貨でも書状でもない。銀色の小さな髪留めだった。青い石が一粒だけ留められ、少女が使うには少し上等だが、貴族の宝飾品と呼ぶほど高価ではない。
ニコラウスは髪留めを机へ置いた。
放り投げもせず、見せつけるように掲げもしない。荷物の受領印でも差し出すような、平坦な手つきだった。
クラウスの顔から怒りが消えた。
正確には、消したのだと真壁には見えた。目を見開き、机上の髪留めへ手を伸ばす。その指は革袋を拒んだ時よりもはっきり震えていた。髪留めを握り込んだ後、何かを問いかけたが、声が低すぎてドローンまでは届かない。
ニコラウスが短く答える。
クラウスは目を閉じ、椅子へ戻った。机の脇に置かれていた書付を引き寄せ、署名欄へペンを置く。すぐには書かなかった。紙を見下ろしたまま、呼吸を整えようとしている。
ニコラウスは急かさない。
沈黙に耐えられなくなるのが自分ではないと知っている。
クラウスは署名を終え、書付を机の向こうへ押し出した。
窓際の棚に、小さな肖像が飾られていた。クラウスと、隣に立つ女性、その前で笑う少女。少女の髪には、青い石を留めた同じ形の髪留めが二つ付いている。
真壁は映像を静止させ、机上の髪留めと肖像を見比べた。
金で動いた代官が、報酬を受け取ったようには見えない。少なくとも、革袋より髪留めの方が、クラウスを従わせていた。
だが、髪留め一つで人質と断定することもできない。家族の品を盗み、所在を知っていると仄めかしているだけかもしれなかった。真壁は結論を一段手前で止め、画面の中の二人を見続けた。
ニコラウスは署名済みの書付を筒へ戻した。革袋は机へ残す。
クラウスは袋へ目も向けない。
賄賂を受け取ったという形だけを、後に残すつもりか。
その考えが浮かんでも、真壁はまだ推定の側へ置いた。袋の中身も、誰の金かも確認できていない。映像に映った物へ、都合のよい意味を先回りして与えるべきではなかった。
ニコラウスが部屋を出る。
真壁はドローンを屋根から上げ、代官所の裏口を見下ろせる位置へ移動させた。
ほどなく扉が開き、ニコラウスが細い路地へ出てきた。来た時と同じ歩調で、書類筒を脇へ抱えている。後ろめたさから急ぐ様子も、仕事を終えた満足もなかった。
真壁は一定の距離を保って追跡した。
ニコラウスは橋市に近い黒鎖商会の事務所を通り過ぎた。表には運送依頼や倉庫貸しの札が出され、客らしい商人が数人待っている。そこへは目も向けず、荷馬車置き場の裏を抜け、町外れへ続く道へ入った。
道の先には、大きな倉庫があった。
石の基礎に太い木材を組み、周囲を高い塀で囲んでいる。表門には黒い鎖の印を付けた荷車が並び、帳面を持つ係が荷札を確認していた。商会の正規倉庫として見れば、不自然なところのない風景だった。
だが、建物の裏側には、印を付けていない荷車の轍が何本も残っている。
真壁はドローンを高い位置へ残し、自分も倉庫を見通せる場所まで移動した。
町外れは橋市よりも風が強かった。倉庫の塀に沿って流れる風が、濡れた麻布と油、木箱に染み込んだ古い穀物の匂いを運んでくる。近くの荷車置き場では、馬が地面を蹴る音と、金具が触れ合う乾いた音が続いていた。
崩れかけた石壁の陰から倉庫裏を覗く。
作業員が数人、木箱を開けていた。
荷を検品しているようにも見えたが、彼らが手にしているのは計量器ではない。薄い刃物と焼き印だった。
一人が木箱に貼られた荷札を剥がす。別の者が側面の工房印へ刃を当て、木の表面ごと削り取る。印が消えると、黒い鎖を刻んだ焼き鏝が押し当てられ、焦げた煙が細く上がった。
箱の中には青灰色の砥石が並んでいる。
橋市で澪が買った物と、色も形も同じだった。別の木枠には農具や荷車の修理に使う金具が入り、その隣には麻布の束が積まれている。奥の荷車には切り出した石材まで載っていた。
真壁は見通せる荷へ鑑定を向けた。
石場町の工房で作られ、灰橋町の仲買人へ送られた砥石。代金の一部はすでに支払われ、荷受け先も決まっている。それにもかかわらず、記録上は輸送中の紛失となっていた。
箱に泥は付いているが、事故で転倒した跡はない。砥石も割れていない。魔物に襲われた痕跡も、盗賊が乱暴に奪った形跡もなかった。
荷車ごと計画的に運び込み、元の荷主を示す物だけを消している。
作業員は箱から砥石を出し、数量を書いた札まで交換していた。奪った品をすぐに売らず、由来を消した上で倉庫へ積み直している。
橋市の棚が空き、職人や仲買人が資金に詰まるまで待つつもりなのだろう。その後で黒鎖商会が護衛や融資を売り、隠していた品を値上げして市場へ戻せば、荷も金も商権も同じ商会へ集まっていく。
真壁の指が、端末の縁をゆっくり押さえた。
腹立たしさはあった。
ただ荷を奪うよりも、品不足そのものを商売へ変える手口が気に入らない。商人が必要とする道、倉庫、信用を、すべて首へ掛ける鎖として使っている。
それでも、今すぐ塀を越える理由にはしなかった。
ここにある荷を収納へ入れ、元の持ち主へ返すだけなら難しくはない。作業員と見張りも、真壁一人で排除できる可能性が高い。
だが荷が消えれば、黒鎖商会は調査を察知する。帳簿を焼き、関係者を逃がし、代官所との書状を処分するだろう。目の前の荷を救うことで、同じ手口を繰り返す者を逃がしては意味がない。
真壁は録画位置を調整し、荷札を剥がす手元と、削られていく工房印を確実に残した。
ニコラウスは倉庫の中へ入ったまま出てこない。
監視を続けていると、裏口から別の男が現れた。
手に木製の盆を持っている。載っているのはパン、スープ、水で、食器は二組に分けられていた。
作業員の食事なら、表側の休憩所へ運ぶはずだった。ところが男は裏庭を横切り、積まれた空箱の間へ入っていく。
ドローンを横へ回すと、物置の陰に低い扉が見えた。
男は腰の鍵束から一本を選び、外側の錠を外した。扉の近くには、短剣を下げた見張りが立っている。食事を運ぶだけなら、不釣り合いな警戒だった。
扉の内側には、取っ手が見えない。
男が盆を持って地下へ降りる。見張りは扉を開けたままにせず、男が入ると一度閉じた。
真壁は倉庫の裏壁へ沿ってドローンを下ろした。
石の基礎には空気を通すための小さな穴が幾つかある。そのうち一つだけ、内側に布を詰めた跡があった。布は完全には塞ぎきっておらず、端に指一本ほどの隙間が残っている。
機体を格子へ近づけ、カメラの明度を上げた。
最初に見えたのは、地下室の床だった。湿気を含んだ石の上に薄い藁が敷かれ、壁際には水差しと毛布がある。その隣に、二人の人影が座っていた。
成人女性と、まだ幼さの残る少女だった。
女性の服は汚れ、頬も痩せている。髪は後ろでまとめているが、何本もほつれて顔へ掛かっていた。扉の向こうで足音がすると、女性はすぐに立ち上がろうとした。長く座っていたためか足元が揺れ、それでも少女を自分の背後へ庇う位置へ移る。
少女は女性の服を握っていた。
泣いてはいない。泣けば何が起こるかを覚えてしまった子供のように、唇を閉じ、廊下の音へ肩を強張らせている。
食事を運んできた男が扉を開けた。
「下がれ」
男の声が地下室へ響いた。
女性は返事をせず、少女の前から動かなかった。男は盆を床へ置き、空になった前の食器を足で寄せる。二人を殴る様子はないが、人として話しかける気もない。用事を終えると、そのまま扉を閉めた。
外側で錠が掛かる音がした。
女性はすぐには動かなかった。足音が階段を上がりきるまで少女を背後へ置き、物音が遠ざかってから、ようやく膝をついた。
少女の髪に、青い光があった。
銀色の金具に青い石を一つ留めた髪留め。右側だけに付いている。
代官所でニコラウスがクラウスへ見せた物と、対になる品だった。
真壁は録画した家族肖像を呼び出し、地下室の二人と見比べた。女性の目元、少女の髪と顔立ちが一致する。服装と年齢の違いはあっても、別人とは考えにくい。
クラウスの妻と娘。
まだ公的な身分記録で確定したわけではない。しかし、肖像、髪留め、クラウスの反応、地下へ監禁された二人を重ねれば、推定は十分に強かった。
真壁は画面から目を離さなかった。
女性はパンを半分に分け、大きい方を少女へ渡している。少女はすぐには食べず、女性の分を見てから、少しだけパンを戻そうとした。女性は首を横に振り、笑おうとする。頬は上がったが、目元の恐怖までは隠せていない。
今ここで救い出すことはできる。
地下扉を収納へ入れ、見張りを排除し、二人を連れ出すだけなら、長い時間はかからない。
だが扉が消えた時点で、倉庫中が動く。ニコラウスは代官所へ知らせ、帳簿を焼かせるだろう。灰橋町以外にいる黒鎖商会の者も、証拠と人を逃がす。
人質の救出を遅らせる判断が、正しいから軽くなるわけではなかった。
少女がパンを口へ運ぶ姿を見ながら待つ時間は、橋の補修を後回しにした時よりも重い。
真壁はその重さを、急ぐ理由ではなく、失敗しない理由として受け止めた。
救うならば二人だけでは足りない。妻と娘を救い、代官所の書類を押さえ、倉庫の荷と帳簿を保全し、黒鎖商会の者を同時に拘束する。どれか一つを先に動かせば、残りが失われる。
クラウスについても同じだった。
人質を取られていたからといって、橋守へ不正な徴収を命じ、領民の訴えを止めた責任が消えるわけではない。町の商人や職人は実際に損害を受けている。
しかし金欲しさに領主を裏切った者と、家族の命を握られて従った者を、同じ手順で扱うべきでもなかった。
クラウスだけを先に拘束すれば、人質が殺される。倉庫だけを押さえれば、代官所の書状が消える。調査官を通常の手続きで送れば、黒鎖商会に準備する時間を与える。
領主家の権限で、同時に踏み込む必要がある。
真壁はドローンを通気口から離し、屋根の影まで戻した。
録画を巻き戻す。
裏口へ入るニコラウス、机上で照合される徴収記録、革袋を拒んだクラウスの手、青い髪留め、削られる石場町の工房印、地下へ運ばれる二人分の食事、少女の髪に残ったもう一つの青い石。それぞれを見直し、確認した事実と、そこから導いた推定を混ぜないよう、頭の中で位置を分けていく。
映像だけで裁くことはできない。
だが、侯爵家を今夜動かすには十分だった。
真壁は最後に地下室の通気口と、見張りの位置を記録した。救出する者が、暗い倉庫の中で地下扉を探す時間を使わずに済む。
それからドローンを高く上げ、黒鎖商会の倉庫全体と代官所までの道を一つの画面へ収めた。
踏み込む場所は見えた。
次に必要なのは、踏み込む権限だった。
橋市へ戻ると、押入商会の棚の前には、離れる前よりも多くの人がいた。
橋の方から吹く風に布屋根が揺れ、燻製魚の煙が低く流れている。客の声、硬貨の触れる音、荷車が泥を踏む音が混じり、倉庫裏の張り詰めた静けさから、急に人の暮らしへ戻ったように感じられた。
真壁はすぐに二人へ声を掛けず、少し離れた位置から棚を見た。
ヴァルトが作った太針の区画には空きがある。商品一覧の残数も書き換えられ、補充した品には新しい包み紙が使われていた。売れた物を渡しただけではなく、在庫を数え、次の客が選べる状態を保っている。
澪は硬貨を受け取り、客へ釣銭を渡していた。
「石鹸は一個ずつでも買えます。三個組の方が少し安くなりますけど、初めてなら一個でも大丈夫です」
澪が説明すると、客の女は安心したように一個だけ選んだ。無理にまとめ買いさせず、使う者の都合を先に見ている。真壁が離れていても、澪は澪の商売を続けていた。
ヴァルトは漁師の持つ網糸を指で確かめている。
「この太さなら、今の針では少し大きいですね。次回までに一段細いものを用意します」
ヴァルトの声には、売れなかったことを惜しむ響きがなかった。今ある品を無理に勧めず、次に必要な形を聞いている。その横には仕入帳も開かれ、売る仕事と買う仕事が同じ机の上で進んでいた。
真壁は、胸の奥に残っていた硬さがわずかに緩むのを感じた。
二人を残した判断は、間違っていなかった。
危険から遠ざけるためだけに置いてきたのではない。橋市の売買を任せられると考えたから任せた。その考えに、棚と帳簿が答えている。
客が途切れたところで、澪が真壁に気づいた。
「お帰りなさい」
声はいつもどおりだったが、真壁の顔を見た後、澪の表情から少しだけ笑みが引いた。調査へ出る前と同じ顔ではないと察したらしい。
「何か、ありましたか」
澪は売上帳を閉じずに尋ねた。すぐに話を聞く準備をしながらも、店を投げ出すつもりはない。その落ち着きに、以前の路地で震えていた澪の面影は薄かった。
「その前に、こちらを聞こう。帰りの荷はできたかね」
真壁が棚の脇へ目を向けると、澪は一瞬だけ戸惑った。だが、調査結果を急いで話さないことにも理由があると理解し、仕入帳を開いた。
「はい。燻製川魚を三種類、灰橋編みの荷締め縄を太さ別に三種類、油引き麻布を寸法違いで数枚。それから、石場町産の青灰色砥石です」
澪は帳面の欄を指で追った。生産地と購入地、売り手、品質が分けて記録されている。声に少し緊張は残っていたが、自分の仕事を報告することで呼吸を整えているようだった。
「砥石は灰橋町の品ではないので、生産地は石場町、購入地は灰橋町橋市と書きました。粗目と中目だけです。仕上げ用は荷が届いていません」
真壁は帳面を受け取り、記載を確かめた。
「よい。売り場と産地を混ぜていない」
評価を返すと、澪の肩から少し力が抜けた。調査の報告を待つ間にも、自分の仕事が正しく進んでいたと分かることが、彼女にとって支えになる。
「ただ、売った金額より、仕入れた金額の方が多いです」
澪は控えめに付け加えた。帳面上の差額が気になっているらしい。
「次に売る荷と、次に買う場所を得た。初回の仕入れなら問題ない」
真壁が答えると、澪は帳面を見下ろした。赤字か黒字かだけではなく、次の往復まで含めて見る。理解しようとするように、仕入品の欄をもう一度なぞった。
ヴァルトも商品一覧を持ってきた。
「太針は二本組の方がよく売れました。大魚用には現在の太さが合いますが、小魚用の網には太すぎます。次回は用途を二つに分けるべきでしょう」
報告しながらも、ヴァルトの目は太針の空いた棚へ向いていた。自分の作った品が売れた満足を隠そうとしているが、残数を書き換えた文字だけが、普段より少し丁寧だった。
「作って終わりではなかったようだね」
「ええ。使う者に渡って初めて、足りない部分が見えました」
ヴァルトは素直に認めた。元国家魔術師としての分析ではなく、行商人として得た実感が言葉に残っていた。
真壁は二人の報告を聞き終えると、橋市の人通りを見た。黒鎖商会の者が近くにいないことを確かめ、声を落とす。
「代官所と黒鎖は、つながっていた」
澪の指が売上帳の上で止まった。
真壁は、ニコラウスが裏口から入り、徴収記録を照合していたことを伝えた。石場町から消えた荷が倉庫にあり、元の荷札と工房印が消されていることも話す。
ヴァルトの表情から、太針を売った時の柔らかさが消えた。
「では、荷消えは事故ではないのですね」
低くなった声の奥に、かつて境界課で不正な術式や記録を見てきた者の警戒が戻っている。
「少なくとも、倉庫にあった荷は違う。事故で失われた品を、由来だけ消して積み直す必要はない」
真壁は断定できる範囲だけを答えた。黒鎖商会がすべての荷消えに関わっているかまでは、まだ分からない。
「それから、倉庫の地下に女性と少女が監禁されている」
その言葉を受けた澪が、息を止めた。
「人質、ですか」
橋市のざわめきが続く中で、澪の声だけが小さく沈んだ。目の前では客が燻製魚を選び、子供が縄屋の軒先を走っている。同じ町の倉庫地下に閉じ込められた親子がいることが、すぐには重ならないのだろう。
「クラウスの家族の肖像と容姿が一致する。少女の髪には、ニコラウスがクラウスへ見せた物と対になる髪留めが残っていた」
真壁は、二人が妻と娘である可能性が高いこと、その一方で身分記録まで確認したわけではないことも伝えた。
「クラウスも、黒鎖商会の仲間ではなかったんですか」
澪は戸惑いながら尋ねた。橋の徴収命令にはクラウスの印があった。不正を行った側の人物だと思っていたのだろう。
「命令を出した事実は変わらん。領民へ損害を出した責任も残る」
真壁は澪の目を見て答えた。事情があればすべて許されると受け取らせるつもりはなかった。
「だが、金を得るために協力した者と、家族を殺すと脅されて従った者を、同じものとして扱うべきでもない。そこは拘束した後、領主家が調べることだ」
澪はすぐには頷かなかった。クラウスの責任と、家族を救いたい気持ちを、どう並べればよいのか考えている。やがて売上帳を閉じ、両手で抱えた。
「先にクラウスを捕まえたら、人質が危ないんですね」
「ええ。倉庫だけを押さえれば、代官所の帳簿が消える」
真壁が答えると、ヴァルトが倉庫と代官所の方角を順に見た。
「同時に動ける人数と、領主家の命令が必要です」
ヴァルトは感情より先に条件を整理した。その声には、人質を見つけてもすぐ救い出さなかった真壁の判断を責める響きはない。むしろ一人で踏み込まなかった理由を理解している。
「そのとおりだ。私は領都へ戻る」
真壁が告げると、澪は反射的に町の外へ目を向けた。灰橋町から領都まで普通に戻る時間を考えたのだろう。
だが、その目がすぐ真壁へ戻る。彼が登録拠点への帰還を持っていることを思い出したらしい。
「私たちは、ここに残るんですね」
澪の声に不安はあったが、置いていかれることへの反発はなかった。自分たちが残る理由を先に理解しようとしている。
「橋市は通常どおり店仕舞いする。その後、二人で宿へ入ってもらう」
真壁は橋市の人の流れを見ながら答えた。急に棚を消し、町を出れば、監視している者がいなくても噂になる。
「黒鎖の倉庫、代官所、橋守へは近づかない。ヴァルト殿には宿へ結界を頼みたい」
「承知しました」
ヴァルトは迷わず答えた後、澪の側へ半歩寄った。大げさに守る姿勢を取らず、それでも何かあればすぐ動ける位置だった。
「澪さんと記録を整理しながら待ちます。黒鎖側から接触があれば、外へ出ずに対応します」
その言葉を聞き、真壁はわずかに安堵した。
澪を危険な町へ残すことが軽くなるわけではない。だが、澪一人ではなく、境界と結界を扱えるヴァルトがいる。二人を信じず、何もさせずに連れ回す方が、これまで積み上げてきたものを否定することになる。
「私は売上と仕入れをまとめます」
澪は自分の役目を確認するように言った。抱えていた帳面へ視線を落とし、次に真壁を見上げる。
「戻ってきた時、すぐ報告できるようにしておきます。ですから真壁さんも、勝手に全部終わらせないでください」
真壁が一人で解決して戻ることを心配しているのだろう。敬語の中に、澪らしい釘の刺し方が残っている。
「領主家の仕事まで奪うほど、品のないことはせんよ」
真壁が穏やかに返すと、澪は完全には信用していない顔をした。それでも、先ほどより表情は少し和らいだ。
店仕舞いは、周囲の商人と同じ速さで進めた。
澪とヴァルトが売上と残数を照合し、売れ残った商品を元の区画へ戻す。真壁は棚札の向きと包装の崩れを確認した。燻製川魚、荷締め縄、油引き麻布、青灰色砥石は、品目と生産地を混ぜず、仕入帳の番号に合わせて収納へ入れる。
最後の客を見送り、商品一覧を外した後、真壁は棚を丸ごと収納した。
地面には、棚脚の跡が四つ残っただけだった。澪が包み紙を拾い、ヴァルトが借りた区画の縄を元へ戻す。来た時より散らかして帰らない。その小さな撤収作業まで二人が自然に分担していることを、真壁は黙って見ていた。
三人は橋市近くの宿へ向かった。
宿は大通りに面していたが、黒鎖商会の倉庫からは離れている。石壁の一階には食堂があり、二階の窓からは通りと裏庭の両方を確認できた。
真壁は二人分の部屋を取り、廊下と階段、裏口の位置を確かめた。ヴァルトも部屋へ入る前に壁と窓を見ており、説明しなくても結界を置く場所を選んでいる。
「戻るまで、宿から出ないでください」
真壁が改めて告げると、澪は荷を机へ置きながら頷いた。
「はい。黒鎖商会にも、代官所にも、橋守さんのところにも行きません」
言葉を繰り返すことで、自分自身にも行動範囲を確認しているようだった。
「異変があれば、まず結界です。調べに出ようとはしません」
ヴァルトは窓枠へ指を添え、外から見えない形で術式を置き始めた。元国家魔術師としての手つきには迷いがなく、淡い反応もすぐに木材へ沈んで消える。
「よろしい」
真壁は二人の顔を見た。
澪は不安を隠しきれていない。それでも、自分が残ることで足を引っ張るとは考えていない。ヴァルトも調査へ同行できないことを不満にせず、ここで必要な仕事へ意識を切り替えている。
任せるに足る二人だった。
だからこそ、早く戻らねばならない。
真壁は部屋を出た。
灰橋町の門を抜ける頃には、空の色がさらに暗くなっていた。
橋市の布屋根は次々に畳まれ、川沿いでは夜の冷気が地面へ降り始めている。燻製小屋の煙は昼より細く、濡れた道の上に町の灯りが揺れていた。
真壁は町道を外れ、ハイエースを隠した林のさらに奥へ進んだ。
地図を重ね、人の反応を確かめる。街道には帰宅を急ぐ荷馬車が一台いるが、林へ入る者はいない。背後から追ってくる足音も、黒鎖商会の見張りらしい反応もなかった。
木々の間で足を止め、もう一度周囲を鑑定する。
ドローン、記録端末、橋の受領札、ハイエースはすべて収納内にある。同行者はおらず、周囲にも赤い反応はない。
真壁は登録した拠点を意識した。
灰橋町から領都へ飛ぶことはできない。侯爵家へ直接現れることもできない。彼の転移は、どこへでも通じる穴ではなく、歩いて確かめた道から、正式に登録した採石場秘密基地へ戻るための細い帰路だった。
視界が切り替わった。
川の湿った匂いと、遠くに残っていた橋市の声が消える。
代わりに、冷えた岩肌と水路の音が現れた。採石場秘密基地の空気は灰橋町より乾いており、暗い岩壁の間を流れる水が規則正しく響いている。
登録拠点へ戻った安心はあった。
だが、澪とヴァルトは灰橋町に残っている。倉庫地下では、今も母親と少女が外側から鍵を掛けられている。帰還できたことを味わっている時間はなかった。
真壁は収納からワッパを出した。
細身の機体が地面へ触れる直前で止まり、低い浮上音とともにわずかに持ち上がる。真壁が動力を起こすと、機体の下から押し出された風が砂と枯れ草を円形に払い、採石場の岩壁へ乾いた音を返した。
端末と記録を固定し、真壁はワッパへ跨がった。
領都へ続く街道をたどれば、採石場を大きく回り込むことになる。真壁は地図に残る地形を重ね、岩場と林を避けながら領都へ直線的に近づける経路を選んだ。
ワッパが浮いたまま前へ滑り出す。
前照灯の中へ、背の低い草地と浅い窪地が次々に現れた。機体は地面へ触れず、濡れた草の上を滑るように越えていく。ホバーの風圧を受けた草が左右へ伏せ、通過した後からゆっくり起き上がった。
小石の多い場所でも速度は大きく落ちない。真壁が避けるのは、進路を塞ぐ岩、倒木、急な崖だけだった。機体をわずかに傾けて岩の脇を抜け、林の切れ目へ進路を通す。地面の凹凸を一つずつ拾わない分、街道を走る車よりはるかに短い線を選べる。
浮上機構の低い唸りが夜の草地を走り、押し分けられた風が外套を後ろへ引いた。灰橋町でまとった燻製魚と油の匂いも、冷たい風の中へ薄れていく。
真壁は進路を選びながら、侯爵家へ伝える順番を整えた。
ニコラウスが代官所裏口から入ったこと、橋の徴収記録を黒鎖商会の予定表と照合していたこと、石場町から消えた荷が倉庫にあり、荷主印が削られていたこと、倉庫地下に女性と少女が監禁されていることは、映像と鑑定で確認している。
女性と少女がクラウスの妻子であることは、肖像と髪留めを重ねれば、ほぼ間違いない。クラウスが人質によって従わされている可能性も高いが、脅迫が始まった時期や、彼が密告を試みたかまでは分からなかった。
事実と推定を混ぜれば、侯爵家の判断を誤らせる。
クラウスを救うための報告でも、罰するための報告でもない。人質を救出し、証拠を押さえ、関係者を拘束した後で、何をしたかを調べられる状態へ戻すための報告だった。
黒鎖商会本体の所在地も、荷を奪った実行部隊も不明である。代官所内に、ほかの内通者がいる可能性も残っている。
だからこそ、通常の調査では遅い。
代官所、倉庫、人質を同時に押さえ、帳簿と書状を動かす時間を与えない。レオンハルトなら、その必要性を理解するだろう。
前方の低い丘を越えると、領都の灯りが見えた。
採石場秘密基地を出てから、まだ十分ほどしか経っていない。
真壁は領都の手前で速度を落とした。浮上音が低くなり、機体が草地の上で静止する。周囲に人影がないことを確かめてから動力を止めると、ワッパはゆっくり高度を下げ、地面へ収まった。
真壁はワッパを収納し、外套を整えた。
そこからは徒歩で領都へ入る。
門を抜けた先では、夜番の兵が通りを見回り、閉店した商店の軒先に小さな灯りが残っていた。昼間の賑わいは消えているが、侯爵家へ続く大通りにはまだ人の気配がある。
真壁は足を緩めなかった。
侯爵家の正門は、夜の中でも明るかった。
門柱の灯りが石壁を照らし、二人の門衛が槍を持って立っている。昼間の訪問とは違い、門扉は半分閉じられ、出入りする者を一人ずつ確認していた。
真壁が近づくと、門衛の一人が姿勢を正した。
「夜分に、どのようなご用件でしょう」
門衛は真壁の顔を知っているようだったが、それでも確認を省かなかった。その慎重さは、今夜の報告を預ける領主家の門として好ましかった。
真壁は身分を示し、門衛の目を見た。
「アルベルト様へ、急ぎの領内報告がある。灰橋町で代官所と商会が結び、人質を取っております」
言葉を受けた門衛の表情が変わった。
驚いて声を上げるのではなく、隣の門衛と一度だけ視線を交わす。一人が門内へ走り、もう一人は真壁へ門前で待つよう告げた。
閉じかけていた屋敷の夜が、奥から目を覚まし始める。
廊下を急ぐ足音が聞こえ、遠くの部屋へ灯りが増えた。門の内側では、呼び出された使用人が上着を整えながら走り、警備の者が別の詰所へ向かっている。
真壁は収納内に置いた記録を確かめた。
橋の受領札、ニコラウスとクラウスを記録した映像、石場町の荷札が剥がされる場面、地下室の女性と少女。今あるのは、処罰を決めるための完成した証拠ではない。今夜、侯爵家を動かし、人質と原本を失わないための道だった。
やがて門内から、真壁を案内する者が駆けてくる。
ここから先は、押入商会の私的な制裁ではない。
領主家の権限で、代官所と黒鎖商会を同時に押さえる。
真壁は開かれた門をくぐり、慌ただしく灯り始めた侯爵家の中へ入った。