黒鎖商会の倉庫を出た時、灰橋町の空には夜明けの色が広がり始めていた。
川面を覆っていた朝霧が低い倉庫群の間へ流れ込み、開け放たれた大扉の前を白くかすませている。その霧の中では、領務文官が押収品を一つずつ確かめ、帳簿、借用証書、荷札、革袋に入った硬貨を長机へ並べていた。
直衛たちは拘束した黒鎖商会員を倉庫から連れ出し、二人一組で護送の準備を進めている。誰も足を止めてはいなかったが、夜通しの急襲を終えた顔には疲労がにじんでいた。
レオンハルトだけは背筋を伸ばしたまま、倉庫と代官所へ送る指示を切り替えていた。
「捕縛者は代官所の留置場へ移せ。帳簿と荷札は混ぜるな。倉庫ごとに分けて封印する。奥方と娘は医師に診せた後、別の部屋で保護しろ」
短い命令を受け、直衛と領務文官がそれぞれの持ち場へ散っていく。
真壁は、その動きを倉庫の軒下から見ていた。
人質は救出した。クラウスとニコラウスも拘束され、帳簿を焼かれる前に押さえた。ここから必要になるのは、証拠を整理し、証言を取り、侯爵家の権限で責任を明らかにしていく仕事である。
押入商会が居座る場所ではない。
そう判断できた途端、肩から力が抜けた。
ドローンによる調査を始めてから、採石場への転移、ワッパでの領都移動、アルベルトへの報告、ハイエースでの帰還、そして急襲まで、ほとんど休まずに動いている。張り詰めている間は意識しなかった重さが、今になって瞼と両肩へ落ちてきていた。
真壁は押収品の確認を終えたレオンハルトへ近づいた。
「後はお任せします。私は少し休ませて貰う」
レオンハルトは真壁の目元を見た。引き留める理由を探すのではなく、どれだけ休ませるべきかを測るような視線だった。
「ああ。何か分かれば宿へ知らせる」
「よろしく頼みます」
真壁は倉庫を離れ、川沿いの通りへ出た。
夜露に濡れた石畳へ朝日が届き、屋根から落ちる雫が細い光を引いている。橋市では、早起きの商人が畳んでいた天幕を広げ、木の台を布で拭いていた。黒鎖商会の倉庫が封鎖された話は、すでに町の端まで伝わり始めているらしく、作業をしながら声を潜めて話す者もいる。
灰橋では、エルンストが傷んだ床板の手前に立ち、通行人を片側へ寄せていた。下流へ目を向ければ、マルクが渡し船の綱を引き、船縁に傷みがないかを確かめている。
上乗せされた通行料は止まった。
だが、橋が直ったわけではない。
湿気を吸った支えも、軋む床板も、そのまま残っている。真壁は足を止めずに橋の状態を目へ収め、修理の段取りは町と領主家の判断を聞いてから組むことにした。
疲れた頭で手を出せば、直すべき場所を増やしかねない。
真壁は朝の匂いが満ち始めた通りを抜け、澪とヴァルトが待つ宿へ向かった。
宿の扉が開くたび、澪は白湯の椀から顔を上げていた。
泊まり客が外へ出ていくだけだと分かると、膝の上に置いた手へ視線を戻す。それを何度繰り返したか、もう数えていない。目の前の白湯はとっくに湯気を失い、椀の縁には薄い朝の光が映っていた。
向かいに座るヴァルトも、食事へ手をつけていなかった。窓から通りを確認した後、扉へ視線を移し、また澪の方へ戻す。何も言わないのは、澪と同じく、結果の分からないことを言葉にしても不安が増えるだけだと分かっているからだろう。
再び扉が開いた。
外から差し込んだ光の中に真壁の姿を見つけ、澪は椅子を引いて立ち上がった。
「真壁さん」
呼びかけた声は、自分で思っていたよりも強く出た。
真壁はいつもの外套を着ており、自分の足で歩いている。血の跡も、目立った怪我もない。それを確かめて胸の奥が緩んだ直後、澪は外套の裾に付いた泥と、袖口に残る焦げ跡へ気づいた。
目元にも、普段より濃い影がある。
「戻ったよ、澪君」
声にはいつもの落ち着きがあったが、椅子を引く動きはわずかに重かった。
「代官所と黒鎖の倉庫は押さえた。奥方と娘御も無事です。まずは安心し給え」
「奥さんと娘さんは、無事だったんですね」
澪は胸元へ手を当て、長く息を吐いた。地下室で母親に抱かれていた少女の姿は、真壁から見せられた映像でしか知らない。それでも、二人があの冷たい場所から出られたと聞いただけで、胸の中に残っていた硬いものがほどけていった。
ヴァルトも目を閉じ、わずかに肩を落とした。
「クラウス代官は、どうなるのでしょうか」
「事情は斟酌されましょう。だが、代官の印で出した命令まで消えるわけではない。裁定はアルベルト殿にお任せすべきですな」
真壁は家族を人質に取られていた事情と、代官として町へ与えた被害を混ぜなかった。
家族を守ろうとしたのだから許すとも、命令を出したのだから黒鎖商会と同罪だとも言わない。どちらも事実として残し、その重さを判断できる者へ渡すということなのだろう。
澪には、そのどちらかへ簡単に決めることができなかった。決められないからこそ、証拠を集め、権限を持つ者が時間をかけて判断する必要がある。
「真壁さん、先に荷物だけお願いしてもいいですか。その後は休んでください」
澪が壁際へ目を向けると、真壁も並べられた包みや木箱に気づいた。
「ほう。橋市での仕入れですな」
「はい。売った分と買った分は、こちらにまとめてあります」
部屋へ移ると、澪は机の上へ売上帳と仕入帳を並べた。硬貨は種類ごとに小袋へ分け、売上分と仕入れの釣り銭が混ざらないよう札を付けてある。
昨日の橋市では、組立式の棚と机を出し、太針や縫い針、糸、補修用品、燻製肉の見本を並べた。棚の横へ商品一覧を置いたことで、客は人垣の外からでも商品と値段を確かめられた。
必要な数を聞いてから収納から出せるため、狭い棚へ全在庫を積む必要もなかった。
「太針と補修用の糸が、思っていたより売れました」
澪が帳面の数字を示すと、ヴァルトが隣から補足した。
「荷袋や天幕を直したい方が多かったのです。新しい物を買うより、今ある物を使い続けたいのでしょう」
物流が詰まれば、届かなくなるのは食料や石材だけではない。布も縄も金具も減り、壊れた物を新しく買い替えることが難しくなる。針が売れた数は、この町の人々がどれだけ手持ちの物を直して耐えているかを示していた。
澪は仕入帳をめくり、壁際の荷を指した。
「川魚と、その燻製です。生の魚は女将さんにお願いして、冷暗所を借りました。こちらが麻布で、隣が麻紐です。買い占めにならないよう、店を分けています」
真壁は帳面と品物を順に見比べた。疲れているはずなのに、品名と数量を飛ばして確認することはない。
「結構。買い占めず、売り手も分けた。仕入れとして筋が通っています。では、商品に仕立てよう。」
真壁が生魚へ手を伸ばすと、木箱ごと収納へ消えた。
次に取り出された時には、魚は一尾ずつ空気を抜いた袋へ収まり、ぴたりと密封されていた。袋の表面には、魚の名、灰橋町で仕入れたこと、内容量、保存方法、調理時の注意が記されている。
燻製魚も種類と数量ごとに分けられ、透明な袋へ収まった。麻布は織り方と長さごとに畳まれ、麻紐は太さと長さの違いが一目で分かるようにまとめられていく。
どの商品にも説明ラベルが付き、袋を開けなくても産地や用途を確認できた。
「これなら、次の町ですぐに棚へ並べられますね」
澪は包装された燻製魚を手に取り、仕入帳の該当欄へ保管済みの印を付けた。橋市で買った時には布包みや籠へ入っていた物が、別の町で客へ渡せる商品へ変わっている。
ヴァルトは麻布の説明ラベルへ目を通し、感心したように指で端を押さえた。
「仕入れた町も分かります。客に聞かれても説明できます」
「どこで作られたかも商品の一部です。」
澪が答えると、ヴァルトは納得したようにうなずき、自分の帳面にも包装後の数量を書き加えた。
最後の麻紐が収納へ収まったところで、澪は真壁を見た。作業をしている間は普段と変わらないように見えたが、手を止めた途端、目元へ疲れが戻っている。
「真壁さん、もう休んでください。続きは起きてからで大丈夫です」
「では、お言葉に甘えるとしましょう」
真壁は珍しく反論せず、隣の部屋へ入った。
澪が水差しを持って様子を見に行くと、真壁はすでに寝台へ横になっていた。声をかけるより先に呼吸が深くなり、枕元へ置いた眼鏡にも手を伸ばさない。
澪は音を立てないよう水差しを机へ置き、薄い掛布を真壁の肩まで引き上げた。
昨夜、真壁が何を見て、どのように領都へ戻り、何人を連れて灰橋町へ戻ってきたのか、詳しいことはまだ聞いていない。ただ、今は聞かない方がよいことだけは分かった。
扉を静かに閉めると、廊下の窓から朝の光が差し込んでいた。
真壁が眠ってから数時間後、宿の一階から澪を呼ぶ声がした。
橋市が本格的に開いたらしく、窓の外では客を呼ぶ声と、荷車が石畳を通る音が重なっている。朝霧は消え、向かいの屋根瓦が白い日差しを受けて乾き始めていた。
階段を下りた澪は、食堂の入口に立つレオンハルトを見つけた。
夜明け前には鎧姿だったが、今は厚手の上着へ着替えている。それでも腰の剣は外しておらず、片手には革の書類入れを持っていた。彼も眠っていないはずだが、表情には急襲時と変わらない緊張が残っている。
「真壁殿は休んでいるか」
「はい。今、起こしてきます」
「悪いが、確認してもらいたいものがある」
澪はうなずき、再び階段を上がった。
真壁の部屋を控えめに叩くと、少し間を置いて返事があった。扉越しにレオンハルトの来訪を伝えると、真壁はすぐに起きると答えた。
食堂へ戻ると、ヴァルトも帳面を持って席へ来ていた。
ほどなくして、顔を洗い、髪と服を整えた真壁が下りてくる。数時間の睡眠でも効果はあったらしく、足取りと目の焦点は朝よりもしっかりしていた。
レオンハルトとヴァルトが互いを見る。
二人が会うのは、これが初めてだった。
「紹介しておきましょう」
真壁が二人の間へ立った。
「こちらはヴァルト殿です。今回は澪君とともに行商をしています」
ヴァルトは椅子から立ち上がり、レオンハルトへ一礼した。
「ヴァルトです。よろしくお願いします」
「レオンハルトだ。アルベルト様の命で、灰橋町の捜索を指揮している」
二人は短く手を握った。
レオンハルトの表情に、驚きや疑念は浮かばなかった。澪とともに旅をしている行商人としてヴァルトを見て、そのまま席を勧める。
ヴァルトも自分のことを付け足さず、澪の隣へ座った。
レオンハルトは革の書類入れを開き、押収記録の写しを机へ広げた。
「黒鎖商会の帳簿から、石場町の荷が出てきた」
紙には、青灰色の砥石、石材、修理用金具の名称と数量が細かく書き込まれていた。別の紙には、正規の荷札から写した数字が並んでいる。
レオンハルトが二つの数字を指で追った。
「石場町を出た数と、灰橋町へ着いた数が合わない。途中で消えた分の一部は、黒鎖商会の倉庫にあった」
「残りはどこへ行ったのですか」
澪が尋ねると、レオンハルトは帳簿の端に記された略号を示した。
「石場町方面へ戻されている。受取人は略号だけだ。商人か、工房か、倉庫かも分からない」
石場町から送り出された荷を街道で奪い、その一部を石場町へ戻している。向こう側にも黒鎖商会へ協力する者がいなければ成り立たない流れだった。
「クラウスさんが領都へ送った使者は、どうなりましたか」
澪が尋ねると、レオンハルトは地図上の灰橋町から、真壁たちが来た道へ指を滑らせた。
「領都側へ向かった。今はリーデン方面の道を、別の直衛が捜索している。石場町とは逆だ」
澪は地図を見てうなずいた。
使者が助けを求めた先は領都である。灰橋町から石場町へ進むはずはなく、真壁たちが通ってきた道を戻ったことになる。
「俺が石場町へ行くのは、奪われた荷の行き先を確かめるためだ」
レオンハルトが帳簿へ指を戻した。
「石場町で出荷記録と照合する。荷を受け取った者が向こうにいるなら、黒鎖商会の枝を一つ切れる」
真壁は地図と帳簿を見比べ、わずかに口元を上げた。
「奇遇ですな。こちらの次の目的地も石場町です」
「ならば俺も同行する。黒鎖商会が絡んでいる以上、行商人だけに調べさせるわけにはいかない」
レオンハルトは宿の外へ目を向けた。窓越しに、装備を整えた直衛が一人待っているのが見える。
「大人数では相手を警戒させる。連れていくのは一人だけだ。拘束や捜索に人数が必要なら、現地を確認してから増援を呼ぶ」
澪はヴァルトを見た。
ヴァルトは帳簿の数字を見ながら、顎へ指を当てていた。行商の続きをするだけではなくなる。それでも、引き返そうとする様子はない。
「行きましょう」
澪が言うと、真壁は小さくうなずいた。
宿の裏手へ出ると、真壁が収納から白いハイエースを取り出した。
乗るのは五人である。真壁が運転席、レオンハルトが助手席へ座り、二列目には澪とヴァルトが並ぶ。急襲にも参加した直衛は、周囲を警戒できるよう後部座席へ座った。
武器、食料、野営道具、橋市で仕入れた商品はすべて収納へ入っているため、十人乗りの車内には空席が多く残っていた。
澪は売上帳と仕入帳だけを手元の鞄へ入れ、シートベルトを締めた。隣ではヴァルトが石場町で売る商品の一覧を確認している。
真壁がエンジンをかけると、レオンハルトが振動に合わせて座席を見回した。
「夜明け前は十人で乗ったが、五人だと広いな」
「席は空けてあります。帰りに客が増えても困りませんよ」
真壁が答え、ハイエースを発進させた。
灰橋町を離れると、街道を行き交う荷車は次第に少なくなった。
石場町方面から来る荷車には空いた場所が目立ち、御者は対向車とすれ違うたび、相手の荷台を確かめるように視線を向けている。路肩には青灰色の石片が落ち、車輪の轍が途中で街道脇へ逸れている場所もあった。
「補修用品が売れたのは、荷が止まっているからでしょうか」
澪が窓の外を見ながら言うと、ヴァルトは商品一覧を閉じた。
「おそらく。新しい荷袋や天幕が届かなければ、今ある物を直して使うしかありません。針が売れた数は、物が足りない数でもあります」
橋市では、針が売れることを素直に喜んでいた。
だが、その売れ方にも理由がある。売上の数字だけを見ていれば、町の困窮を商機としか捉えられなくなる。
澪は鞄の中の売上帳へ手を置いた。
「石場町では、何が売れたかだけじゃなくて、どうして必要なのかも聞きましょう」
「はい。その方が、次に何を運ぶべきか分かります」
ヴァルトが答えた時、運転席の真壁が前方へ目を据えたまま、アクセルを緩めた。
車の速度が落ちたことに気づき、澪は前を見る。
「どうしましたか」
「前方に二つ。どうやら、こちらを歓迎する類ではありませんな」
真壁の声から、車内の空気が変わった。
レオンハルトが地図から顔を上げる。
「位置は」
「左の林に一人、右の岩陰に一人。街道を挟んで見張っていますな」
真壁はハイエースを街道脇の窪地へ入れ、木立に隠れる位置で止めた。収納から小型ドローンを出すと、窓を少し開けて飛ばす。
澪は真壁の手元に置かれた画面を、後部座席から覗き込んだ。
林の中では、地味な外套を着た男が木の根元へ座り、膝の上の紙へ何かを書き込んでいた。岩場にいるもう一人も、荷車が通るたびに荷台と御者を確かめ、指を折って数えている。
「荷を見ているのですか」
「商標、積荷、人数。街道を通る荷を値踏みしているようですな」
真壁が画面を拡大した。外套の襟元に隠れた金属札と、腰に下げた短剣が映る。
鑑定を重ねた真壁は、表示を一読すると薄く笑った。
「札も記録紙も黒鎖のものです。ふっ、道そのものを帳場にしたらしい。武器も持っていますぞ」
「拘束する」
レオンハルトの判断は早かった。
ヴァルトは窓越しに林と岩場の距離を確かめた。
「このまま近づけば、どちらかに気づかれます。私の結界で姿と音を隠しましょう」
真壁はドローンを回収し、全員で車を降りた。
ヴァルトが目を閉じ、胸元へ右手を添える。澪の周囲を冷たい膜のような魔力が通り過ぎ、街道を渡る風の音が急に遠くなった。
自分の姿は見えている。足元の小石も、隣に立つ真壁も、普段と変わらない。それでも、結界の外にある草木だけが、薄い膜を一枚隔てた向こうにあるように感じられた。
「これで、結界の外からは気づかれません」
ヴァルトの声は近くにいる澪たちへ届いたが、結界の外へ抜けていく気配がない。
真壁が敵性反応の位置と顔の向きを伝え、五人は林へ近づいた。
乾いた枝を踏んでも音は外へ響かず、腰の剣や拘束具が触れ合う音も結界の内側へ吸い込まれる。監視役の一人は澪たちの方へ顔を向けたが、その視線は何も捉えず、街道へ戻っていった。
二人は離れすぎている。
一人を直衛が押さえても、もう一人が異変を見れば逃げるだろう。真壁とレオンハルトが同時に動くこともできるが、声を上げる余裕を完全に奪えるとは限らない。
澪は自分の指先を見た。
魚へ使った時とは違う。人間へ向けるなら、倒すためではなく、動きを止めるための強さを選ばなければならない。
「私が止めます」
自分の声を聞き、胸の奥が一段強く脈打った。
真壁が澪を振り返る。
「同時に黙らせられますかな」
「はい。威力は抑えます」
澪は手を開き、指先へ集まる力を確かめた。強すぎれば心臓を止める可能性がある。弱すぎれば、叫ばれる。以前、ビッグバスを相手にした時の感覚から、身体を硬直させて意識を失わせる程度まで出力を絞る。
ヴァルトが結界を押し広げ、林と岩場にいる二人を内側へ収めた。
「これで光も音も外へ漏れません」
澪は二人の間に視線を置いた。
呼吸が浅くなり、掌に汗がにじむ。魔物を相手にする時とは違い、これから雷を向けるのは人間である。黒鎖商会の者であっても、その事実は変わらない。
それでも、ここで逃がせば石場町へ知らせが走る。
真壁がマップを見ながら、二人の動きを伝えた。
「右が街道を見た。左も向きを変えますぞ」
澪は指先を二人へ向けた。
「今だ、澪君」
澪が両手をそれぞれの相手に向ける。青白い雷が二筋、結界の内側を走った。
二人の監視役は声を上げる間もなく身体を強張らせ、膝から地面へ崩れ落ちた。放電音も、枝が折れる音も、結界の外へは漏れていない。
澪はすぐに駆け寄り、倒れた男の胸元へ手を当てた。
鑑定を重ねる。
二人とも呼吸がある。心臓も動いており、雷による一時的な麻痺と意識喪失が出ているだけだった。
「二人とも生きています。しばらく動けません」
言葉にした途端、肺に詰まっていた空気が抜けた。
レオンハルトと直衛が二人の武器を取り上げ、両手を後ろへ回して拘束する。その手際を見届けたところで、澪は自分の指が小さく震えていることに気づいた。
ヴァルトが、驚きを隠せない顔で澪を見ていた。
「澪さんは、雷の魔法まで使えるのですか」
澪は指先に残っていた淡い光を消し、手を隠すように両手を重ねた。
「以前、ビッグバスを駆除した時に覚えまして……」
口にした途端、その時の光景まで思い出してしまい、頬が熱くなる。電気漁法で大きな魚を相手に覚えた雷を、人間の監視役へ使うことになるとは考えていなかった。
ヴァルトは拘束された男と澪を見比べた。
「魚を駆除して、雷を?」
「今回は魚の時とは違います。ちゃんと威力を抑えました」
「問題は威力ではなく、魚を駆除して覚えたという部分なのですが……」
ヴァルトは理解しようとするほど困惑しているようだった。
澪は説明を続けようとしたが、雷を人へ向けた感触がまだ手に残っている。笑って済ませてよいのか、自分でも分からなかった。
真壁は澪の顔と重ねた手を見た後、拘束された二人へ向き直った。
「魚の武勇伝は後にし給え。まずは持ち物を改めましょう」
話を切られたことに、澪は少しだけ救われた。
深く息を吸い、レオンハルトたちの作業へ意識を戻した。
二人の外套を調べると、内側から黒鎖商会の金属札が見つかった。
革袋には小銭のほか、石場町へ入った荷車、商人の名、積荷、人数、到着した時刻を書いた紙が入っている。まだ押入商会の名は記されていなかった。
別の紙には、監視役の交代時刻と、記録を持ち込む場所が書かれている。
「町外れの荷車置き場です」
澪が読み上げると、レオンハルトが時刻を確かめた。
「交代まで猶予がある。だが、こいつらが戻らなければ異変は知られる」
「ならば、交代が来る前に受取人を見つけるべきですな」
真壁は二人の武器と所持品を証拠として分け、拘束した監視役をハイエースへ乗せた。
後部座席へ二人を座らせ、直衛が最後列から監視する。もとの五人に捕縛者二人が加わって七人になったが、荷物は収納内にあるため、車内にはまだ三人分の席が残っている。
全員が乗車すると、ヴァルトは二列目の座席で呼吸を整え、両手を組んだ。
「車全体を結界で覆います。石場町の外までは保たせます」
「車ごと包むのだ。無理に保たせる必要はありませんぞ。必要なところだけ隠し給え」
ヴァルトは真壁の言葉にうなずき、魔力を車体へ広げた。
冷たい膜が車内を通り抜け、白い車体の外側まで広がっていく。窓の外で揺れていた草の音が遠ざかり、エンジンの振動さえ、外へ漏れず車内へ沈んでいくように感じられた。
真壁は結界が安定したことを確かめ、ハイエースを発進させた。
街道の先には別の見張りがいたが、こちらへ顔を向ける者はいない。結界に包まれた車体は、交代へ向かう黒鎖商会の男の脇を通り過ぎても気づかれなかった。
石場町へ近づくにつれ、白く削られた山肌が窓の向こうへ広がった。
本来なら石を割る槌の音や、石材を運ぶ荷車の軋みが絶えないはずなのに、町の周囲は不自然なほど静かだった。動いている荷車も少なく、積荷を載せずに町から出てくる車の方が目立つ。
「入口に二つ、荷車置き場に三つ。街道沿いにも目を置いている。なかなか用心深い連中ですな」
真壁がマップを確認しながら、位置を一つずつ伝えていく。
澪には表示そのものは見えない。それでも、真壁が告げる場所へ目を向ければ、通行人を装って動かない男や、荷車へ背を向けながら御者だけを見ている者が見つかった。
町の入口は閉ざされていない。
門も開き、旅人も出入りしている。だが、その一人一人が、誰かの目で確かめられていた。
真壁は街道から外れ、町と道の双方から見えにくい岩陰へハイエースを入れた。
車が止まると、ヴァルトが結界を解いた。
途端に、岩肌を抜ける風の音と、遠くで石を打つ乾いた響きが車内へ戻ってきた。ヴァルトは座席へ背を預け、額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。
「大丈夫ですか」
澪が顔を覗き込むと、ヴァルトは呼吸を整えながら笑みを返した。
「少し疲れただけです。必要なら、もう一度使えます」
「今は休め」
レオンハルトが助手席から振り返った。
「次の結界は、町へ入る者を決めてからだ」
ヴァルトは反論せず、座席へ深く腰を下ろした。
真壁は小型ドローンを取り出し、町の方角へ飛ばす準備を始めている。後部では直衛が捕縛者を監視し、レオンハルトは押収した監視記録と町の地図を照らし合わせていた。
澪は窓越しに石場町を見た。
白く削られた山肌の下に、石造りの建物と倉庫が密集している。人は歩き、荷車も動いているのに、町全体が息を潜めているように見えた。
雷を放った指先には、まだ微かな痺れが残っている。
澪はその手を握り、ゆっくりと息を吐いた。
町は旅人を拒んでいるのではない。
入ってくる荷と人を見張り、選び、必要ならどこかへ消している。
次に動く時は、あの町の中へ入る時だった。