押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第15話 姫様、フタを締める

 

 篠原澪は、ノートパソコンの画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。

 

 提出完了。

 

 その四文字を見た瞬間、肩から力が抜けた。机の上には、講義ノート、在庫表、ペットボトルのフタ、黒砂糖のレシート、洗い終えたタオルが混じっている。大学の課題をやっていたはずなのに、どうしてフタが画面の横にあるのか、自分でもよく分からない。

 

 目が乾いていた。

 

 肩も重い。

 

 だが、課題は終わった。終わったのだ。終わった以上、異世界へ行ける。リュシアの屋台裏で、その後どうなったか見たい。トトたちが赤い紐の箱に触っていないか気になる。エレナが黒砂糖を増やしていないかも、かなり気になる。

 

 澪は椅子から立ち上がりかけて、膝に力が入らないことに気づいた。

 

「……今行ったら、絶対に変な判断する」

 

 自分の声が、六畳間の中で妙にまともに聞こえた。

 

 眠い商人は危ない。

 

 計量を教えた人間が、睡眠時間を測り損ねてどうするのか。洗浄用と飲み物用を分けろと言った人間が、自分の体調と商売を分けられないのはまずい。

 

 澪はスマホのアラームを切った。通知をいくつか消し、部屋の電気を落とし、布団へ倒れ込む。

 

 次に目を開けた時、窓の外は明るかった。

 

 スマホを見ると、昼を少し過ぎている。半日近く眠っていたらしい。頭痛は消えていた。目の奥の重さも軽い。喉が渇いているので、台所で水を飲み、冷蔵庫の残り物で簡単に食事を済ませた。

 

 机の上は散らかったままだったが、提出完了の画面はまだ開いている。

 

「終わった」

 

 今度の声には、少しだけ達成感があった。

 

 澪はペットボトルのフタを一つ摘まみ、指先で転がした。小さい。軽い。現代日本では、なくしても困るだけの部品だ。だが異世界では、これ一つでも騒ぎになりそうな気がする。

 

 その予感を、澪はまだ甘く見ていた。

 

 

 

 

 

 押し入れを抜けると、リュシアの屋台裏は昼前の熱で温まっていた。

 

 石畳には日差しが落ち、屋台の鉄板から脂の匂いが漂っている。香草を刻む音、木箱を動かす音、客を呼ぶ声が混じり、澪がいない間も市場がちゃんと動いていたことを知らせてくる。

 

 壁際には、赤い紐を結んだ箱が残っていた。

 

 澪はそれを見て、少しほっとした。

 

 箱の前では、トトが年下の子の手首をつかんでいた。

 

「そっちは触るな。澪姉ちゃんの顔が怖くなる」

 

「顔?」

 

「すごく怖くなる。あと、リュシア姉ちゃんの声も低くなる」

 

 澪は足を止めた。

 

 言い方はひどい。だが、大事なところは守られている。

 

「トト」

 

 澪が呼ぶと、トトはぱっと振り返った。

 

「澪姉ちゃん、来た!」

 

「顔が怖くなるって何」

 

「え、違うの?」

 

「違わないけど、そこだけ覚えないで」

 

 トトは首を傾げた。年下の子は赤い紐の箱から手を引っ込めている。結果だけ見れば、ちゃんと効いていた。

 

 リュシアが屋台の奥から出てきた。袖をまくり、手には小皿を持っている。

 

「澪、課題は終わった?」

 

「終わりました。寝ました」

 

「それはよかった。じゃあ、こっちの話だね」

 

 リュシアは小皿を作業台に置いた。

 

 皿の上には、ペットボトルのフタが三つ並んでいた。

 

 澪はそれを見下ろし、ゆっくり瞬きをした。

 

「……帰っていいですか」

 

「だめ」

 

「まだ何も聞いてないのに」

 

「聞いたらもっと帰れないよ」

 

 リュシアは皿の縁を指で叩いた。

 

「本体じゃない。揉めたのはこっち」

 

 澪はフタを見た。

 

 白いフタが二つ。青いフタが一つ。

 

 どれも、現代側なら何でもない物に見える。

 

 けれどリュシアの顔は、屋台の売上を数える時の顔だった。笑っているが、目は笑っていない。面倒な物を見つけた商人の顔である。

 

 

 

 

 

「澪がいない間に、あの子たちが飲み物を入れて持って歩いただろ」

 

 リュシアは、屋台裏の端に置いたペットボトルを一本取った。中には少しだけ水が残っている。

 

「最初は、透明で軽いことを面白がられた。そこまでは予想してた。でも、大人たちが見たのは別のところだったんだよ」

 

 トトが得意げに前へ出た。

 

「俺が見せた」

 

「何を」

 

「これ」

 

 トトはフタをつまみ、ねじって締めた。きゅっと小さな音がする。今度は逆にねじって、ゆるめて外す。

 

「こうすると閉まる。こうすると開く」

 

「うん、それはそう」

 

「で、こうしてもすぐには出ない」

 

 トトがボトルを傾けようとしたので、澪は慌てて手を伸ばした。

 

「傾けない。振らない。試験品だから」

 

「ちょっとだけ」

 

「そのちょっとで漏れたら、私が泣く」

 

 トトは不満そうにボトルを戻した。リュシアは横から淡々と言う。

 

「その手元を、周りの大人たちが見たんだよ。水を持ち歩けるだけじゃない。開けて、締めて、また開けられる。しかも子供がやってる」

 

 澪はフタをもう一度見た。

 

 リュシアは屋台の棚から、古い木栓を一つ取った。

 

「液体を少しだけ持たせるのは、どこの商売でも面倒なんだ。木栓は緩む。布を詰めれば染みる。革袋は匂いが残る。陶器は割れる。蝋で封じると、開けたあとが面倒になる」

 

「だからフタが……」

 

「私は便利だと思ってた。でも屋台の外の連中は、もっと別の目で見たんだよ」

 

 リュシアはペットボトルの口元を指した。

 

「水筒じゃない。液体を売る口だね」

 

 澪は背筋が少し冷えた。

 

 ペットボトル本体ではない。

 

 フタだ。

 

 何度も締められること。そこそこ漏れにくいこと。同じ形のフタが複数あること。

 

 現代では当たり前すぎて、価値の重さを見落としていた。

 

「容器より、ここ。ここが何度も締まるのが面倒なんだ」

 

「面倒?」

 

「便利すぎて、見に来る人間が増えた」

 

 リュシアは皿のフタを指で軽く寄せた。

 

「澪、これ、少ないんだろ?」

 

「はい。替えはありますけど、多くはないです」

 

「じゃあ、なおさら揉める」

 

 澪は、皿の上の三つのフタが急に貴重品に見えてきた。

 

 

 

 

 

 リュシアは屋台の奥から、いくつかの容器を持ってきた。

 

 小さな壺、革袋、木栓つきの瓶、蝋で口を固めた細い薬瓶。どれも市場で見かける物で、異世界側の暮らしにちゃんと根づいている道具だった。

 

「似た物はあるよ」

 

 リュシアは小さな壺を台に置いた。

 

「油を入れるなら、こういう壺がある。重いけどね」

 

 壺を横へ傾けると、口元から油の匂いがした。栓をしても、完全には安心できないらしい。リュシアはすぐに戻し、次に革袋を手に取った。

 

「水なら革袋でもいい。でも香草酢や石鹸液を入れると匂いが残る。次に別のものを入れた時、困る」

 

 木栓つきの瓶をトトへ渡す。

 

「抜いてごらん」

 

 トトは木栓をつかんで引いた。抜けない。

 

 さらに力を入れる。

 

 抜けない。

 

「トト、さっき誰が押し込んだ?」

 

「俺」

 

「抜けないね」

 

「うん」

 

「それが困るんだよ」

 

 子供たちが笑う。トトは真剣な顔で木栓をねじったり引いたりしていたが、びくともしない。

 

 澪はペットボトルのフタを外し、また締めた。

 

 トトがすぐに言う。

 

「こっちは子供でも開く」

 

「締めすぎなければね」

 

 澪が釘を刺すと、トトは目をそらした。何かやった顔だった。

 

 リュシアは蝋封の薬瓶を持ち上げた。

 

「薬師の瓶や香油の瓶には、よく閉まるものもある。でも高い。割れる。揃わない。子供が腰に下げて走る物じゃない」

 

「じゃあ、完全に新しいわけじゃないんですね」

 

「新しいのは、安物みたいな顔をしてるのに、何度も締まるところだよ」

 

 安物みたいな顔。

 

 澪はその言い方に少し笑いそうになった。たしかにペットボトルは、豪華な瓶でも、職人が飾りを彫った器でもない。軽く、透明で、薄い。異世界側の高級品とは逆の見た目をしている。

 

 けれど、同じ形で何本もある。

 

 同じフタが合う。

 

 そこが、こちらでは珍しい。

 

 澪は、ペットボトルがすごいのではなく、現代日本の同じ物を大量に揃える力がすごいのだと、遅れて理解した。

 

 トトが木栓をまだ抜こうとしている。

 

「リュシア姉ちゃん、抜けない」

 

「押し込んだ本人が言うことじゃないね」

 

 リュシアは木栓の瓶を取り上げ、横に置いた。

 

 

 

 

 

 騒ぎの中心は、昼過ぎにやって来た。

 

 少年服の裾を揺らし、帽子の下から赤い髪を少しこぼして、エレナ・ヴァルディスが屋台裏へ顔を出した。護衛はその後ろで、すでに警戒している。

 

「今日は何をしている」

 

 トトが胸を張った。

 

「フタ」

 

「フタ?」

 

 エレナの目が、皿の上のフタへ吸い寄せられた。

 

 護衛がすぐに一歩前へ出る。

 

「エレナ様、前回は黒砂糖でした」

 

「今日は黒砂糖ではない。フタだ」

 

「つまり別の危険です」

 

「フタが何をする」

 

「エレナ様が何かをします」

 

 護衛の返事が早すぎた。

 

 エレナはむっとしたが、すぐにトトへ手を出した。

 

「見せろ」

 

「こうやって締めるんだよ」

 

 トトは得意げにペットボトルのフタを締め、ゆるめて外した。エレナは同じようにやろうとして、最初に逆へねじった。

 

「開かぬ」

 

「そっちじゃない」

 

 トトが言うと、エレナは眉を寄せた。

 

「知っていた」

 

「今、開かぬって言った」

 

「確認だ」

 

 澪は口を挟まないことにした。護衛も同じ判断をしたらしく、黙っている。ただし、手はいつでも伸ばせる位置にあった。

 

 エレナは向きを変えて、ようやくフタを開けた。

 

 ぱっと顔が明るくなる。

 

「開いた」

 

「はい。では、締める時は軽くで」

 

 澪が言い終わる前に、エレナはきゅうっと強く締めた。

 

「エレナ様、締めすぎです」

 

「漏れぬようにした」

 

「開かなくなります」

 

「開く」

 

 エレナは自分でゆるめようとした。

 

 開かない。

 

 少し力を入れる。

 

 開かない。

 

 トトが目を輝かせた。

 

「姫様の力で封印された」

 

 エレナは得意げになった。

 

「そうか」

 

「そうか、ではありません」

 

 澪は頭を抱えた。

 

 護衛が申し訳なさそうに手を出した。

 

「お貸しください」

 

 護衛はフタをつかみ、慎重に力を入れた。最初は動かない。次にもう少し力を入れる。ぎち、と小さな音がして、フタがゆるんだ。

 

 その瞬間、ぽん、とフタが指から飛んだ。

 

 小さな白いフタは作業台に当たり、跳ねて、木箱の後ろへ消えた。

 

「フタ!」

 

 澪の声に、トトたちが一斉に動いた。木箱の下をのぞき、作業台の裏を見る。エレナも探そうとしてしゃがみかけたが、護衛に止められた。

 

「エレナ様、そこは油の壺があります」

 

「私は探せる」

 

「探す前に別の物を倒します」

 

 リュシアは無言で澪を見た。

 

 その目は、ほらね、と言っていた。

 

 澪は小さく息を吐いた。

 

 本体より、フタの管理の方が難しいかもしれない。

 

 フタは、しばらくしてトトが木箱の足元から見つけた。トトは勝ち誇った顔で掲げる。

 

「見つけた!」

 

「えらい。けど、飛ばさない方がもっとえらい」

 

 トトは少し考えてから、うなずいた。

 

「次は飛ばさない」

 

 澪は、その言葉をどこまで信じるべきか悩んだ。

 

 

 

 

 

 屋台の表側には、少しずつ大人たちが寄ってきていた。

 

 最初は客のふりをしていたが、目は明らかにペットボトルの口元を見ている。リュシアが追い払わないので、彼らは遠慮なく口を開いた。

 

「それに油は入るか」

 

「石鹸水なら漏れないか」

 

「香草を漬けた酢はどうだ」

 

「薬師の薬液を小分けにできるか」

 

「染料を入れたら、運びやすいんじゃないか」

 

 澪の顔から血の気が引いた。

 

 油。

 

 石鹸。

 

 酢。

 

 薬液。

 

 染料。

 

 全部、同じ容器で使ってはいけないものばかりだった。飲み物に使った物へ石鹸を入れるのもだめだし、薬液を入れたものを水入れに戻すのもだめだ。まして、染料など考えるだけで怖い。

 

「全部同じ容器で使っちゃだめです!」

 

 思わず声が大きくなった。

 

 周りの大人たちが黙った。エレナも、トトも、護衛も、リュシアも澪を見る。

 

 澪は自分の声に驚き、すぐに言い直した。

 

「油を入れたものを飲み物に使うのはだめです。石鹸を入れたものもだめです。薬はもっとだめです。何を入れるか、最初に決めて、混ぜないでください」

 

 リュシアがすぐにうなずいた。

 

「澪の言う通り。これは便利だけど、何でも入れていいわけじゃない。入れた物を決めておかないと危ない」

 

 屋台の大人たちは、少し残念そうな顔をした。だが、納得していない顔ではなかった。市場で商売をしている者たちだ。油壺に酢を入れたら匂いが移ることくらい知っている。ただ、目の前の軽い容器に欲が出て、先に用途を口にしてしまっただけなのだろう。

 

 エレナがフタを手に取った。

 

「つまり、容器ごとに役目を決めるのだな」

 

「はい」

 

「なら印が要る」

 

 澪ははっとした。

 

 リュシアも同じところへ目を向けていた。飲み物用。石鹸用。油用。薬用。見た目が同じなら、何かを結ぶか、何かを描くか、置き場所を分ける必要がある。

 

 エレナは得意げに続けた。

 

「私なら、すぐ分かるようにする」

 

 護衛が少し不安そうな顔をした。

 

「エレナ様がすぐ分かるものは、他の方にも分かりますか」

 

「分かるようにする」

 

「その前に、フタを締めすぎない練習をお願いします」

 

 エレナは聞こえないふりをした。

 

 

 

 

 

 屋台裏へ戻ると、エレナはフタを指先でつまみ、じっと見つめていた。

 

「これと同じものは、こちらで作れぬのか」

 

 澪は返事に詰まった。

 

 作れるかどうか、という質問に、簡単には答えられない。プラスチックを成形する、同じ口径にする、ねじの細かい凹凸を合わせる。そんな説明を、澪自身がきちんとできるわけではない。

 

 リュシアが代わりに口を開いた。

 

「似たものは作れるだろうね。金物職人なら金属の蓋を作る。木工職人なら木で合わせる。薬師の瓶にも、よく閉まるものはある」

 

 エレナは黙って聞いている。

 

「でも、一本ずつ合わせることになる。重い。高い。割れ物ならもっと扱いが難しい。子供が腰に下げて走る物じゃない」

 

「同じ形でたくさんあることが珍しいのか」

 

 エレナの言葉に、澪は小さく息を止めた。

 

 そこだった。

 

 現代日本では、同じ口のペットボトルが何本も並ぶ。フタも同じように締まる。多少違いはあっても、澪はそれを当たり前だと思っていた。

 

 だが、ここでは違う。

 

 一つ一つの瓶に、一つ一つの蓋を合わせる。職人の手で作る。壊れたら代わりがすぐ合うとは限らない。

 

 価値があるのは、フタ単体ではない。

 

 同じフタが何個もあることだ。

 

 トトが横から聞いた。

 

「じゃあ、フタだけ売れる?」

 

 澪は即答できなかった。

 

 リュシアが木栓の瓶を持ち上げた。

 

「本体と合わなきゃ意味がないよ。この瓶にそのフタは締まらない」

 

 トトはむっとして、ペットボトルのフタを見た。

 

「面倒なフタだな」

 

「だからなくさないで」

 

 澪が言うと、トトは真面目な顔でフタを皿へ戻した。

 

 その動作だけは、少し信用できた。

 

 

 

 

 

 リュシアは屋台の奥から紐を持ってきた。

 

「フタだけを別に置くと、絶対になくなる」

 

「はい」

 

「なら、首に紐を結ぶ」

 

 リュシアはペットボトルの首元へ紐を当てた。手つきは早い。屋台仕事で紐を扱い慣れているのだろう。

 

「フタにも穴を……」

 

「開けたら漏れます!」

 

 澪は反射で止めた。

 

 リュシアは少し考え、フタを見た。

 

「じゃあ、外したフタは皿へ入れる」

 

「皿ごとなくしたら?」

 

 トトが聞く。

 

「その日は貸さない」

 

 リュシアの返事に、トトは口を閉じた。かなり効いたらしい。

 

 エレナが胸を張った。

 

「私ならなくさない」

 

 護衛、トト、リュシア、澪が黙った。

 

 エレナの眉が寄る。

 

「なぜ黙る」

 

「説得力が……」

 

「最後まで言え」

 

 澪は目をそらした。

 

 リュシアは笑わずに作業台を指した。

 

「飲み物用には青い紐。石鹸や洗浄に使うものは別の紐。薬師に渡すなら、さらに別にする。フタを外したら小皿。フタだけ持ち歩かない。持ち帰らない。使う時は、誰が持ったか書く」

 

 澪は頭の中で在庫表を開いた。

 

 飲み物用。

 

 石鹸用。

 

 油用。

 

 薬用。

 

 フタは本体と一緒に管理。

 

 紐も登録。

 

 小皿も登録。

 

 持ち出した子供の名前も記録。

 

 項目が増えていく気配がした。

 

「また在庫表が増える……」

 

 思わずつぶやくと、リュシアがうなずいた。

 

「増やさないと、フタがなくなるよ」

 

 トトが小さく手を上げた。

 

「俺、なくさない」

 

「さっき飛んだフタを見失ったよね」

 

「見つけた」

 

「飛ばしたのは護衛さんだけど、原因は姫様の締めすぎだよね」

 

 トトはエレナを見た。

 

 エレナはそっぽを向いた。

 

「封印が強かっただけだ」

 

 護衛が頭を抱えた。

 

 

 

 

 

 子供たちとエレナがフタと紐で騒いでいる横で、リュシアは澪を屋台裏の隅へ呼んだ。

 

「澪、これは水筒で終わらないよ」

 

 澪は顔を上げた。

 

 リュシアの声は低かった。さっきまでの騒ぎを見て笑っていた顔ではない。商売人の顔だった。

 

「油、石鹸液、香草酢、調味液、薬液。少しだけ売りたいものは多い。今まで容器が高いから、壺ごと、瓶ごとになっていたものもある」

 

「でも、同じ容器に入れたら危ないです」

 

「だから、先に分ける。飲み物に使ったもの、石鹸に使ったもの、油に使ったもの。全部別にする」

 

 リュシアは澪の胸元あたりを指した。そこに在庫表が見えているわけではない。けれど澪には、言いたいことが分かった。

 

「澪の収納と同じだよ。名前と数と使い道を間違えたら、便利な物ほど面倒になる」

 

 澪は黙った。

 

 大鍋を収納した時もそうだった。飲料作成用。洗浄済み。火にかけない。洗浄剤を入れない。そう決めたから、ちゃんと扱えた。

 

 ペットボトルも同じなのだ。

 

 飲み物用なのか、石鹸用なのか、油用なのか。フタはどれか。紐は何か。誰が持っているか。全部決めないと、便利な物が面倒な物に変わる。

 

「物より管理が先……」

 

 澪がつぶやくと、リュシアは少し笑った。

 

「そういう顔をするようになったね」

 

「どんな顔ですか」

 

「商売を始めて後悔している顔」

 

「否定しにくいです」

 

 リュシアは肩をすくめた。

 

「でも、悪い顔じゃないよ」

 

 その言葉は、妙に胸に残った。

 

 屋台裏では、エレナが青い紐を手に取り、ボトルの首に結ぼうとしている。護衛が横で手を出しかけ、トトが得意げに結び方を教えようとして、リュシアに「まず自分が結べるようになってから」と言われていた。

 

 澪は、フタ一つでここまで騒ぎになるのかと、半分あきれ、半分怖くなった。

 

 そして少しだけ、面白いと思ってしまった。

 

 

 

 

 

 現代側へ戻ると、六畳間は眠る前より片づいて見えた。

 

 実際には、散らかった物の種類が変わっただけだった。机の上には、ペットボトル本体、フタ、青い紐、赤い紐、細い布、在庫表、ボールペンが並んでいる。

 

 大学課題は終わっている。

 

 睡眠も取った。

 

 体調は悪くない。

 

 なのに、机の上には新しいメモが増えていく。

 

 澪は在庫表へ書き足した。

 

 飲み物用、石鹸用、油用、薬用は混ぜない。

 

 フタは本体と一緒に管理。

 

 用途別に印をつける。

 

 紐の種類を決める。

 

 持ち帰り禁止。

 

 子供に貸す時は番号を控える。

 

 書けば書くほど、フタが小さく見えなくなった。むしろ、本体より存在感がある。ペットボトルは容器で、フタは商売を変える部品なのかもしれない。

 

 澪は息を吐き、鑑定を使った。

 

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篠原澪

 体力:42

 筋力:28

 集中:45

 睡眠:回復

 栄養:改善中

 鑑定:3

 収納:2

 商才:芽あり

 衛生管理:上昇中

 計量:学習中

 在庫管理:上昇中

 容器管理:発生

 課題進捗:完了

----------------------------------

 

「容器管理……」

 

 澪は項目を見て、しばらく黙った。

 

 課題進捗は完了になっている。睡眠も回復している。そこは素直に喜んでいいはずだった。

 

 だが、その上に新しい項目が増えている。

 

 容器管理。

 

 澪は机の上のフタを見た。

 

 小さい。軽い。何の変哲もない。現代側なら、飲み終えたペットボトルと一緒に捨てられてしまうことも多い。

 

 それが異世界では、油や石鹸液や薬液や香草酢の話まで呼んでくる。

 

「課題は終わったのに、考えることは増えるんだ……」

 

 六畳間に、澪の声だけが落ちた。

 

 大学の提出画面は、もう閉じている。

 

 代わりに、机の上では三つのフタが、妙に偉そうな顔で並んでいた。

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