篠原澪は、ノートパソコンの画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
提出完了。
その四文字を見た瞬間、肩から力が抜けた。机の上には、講義ノート、在庫表、ペットボトルのフタ、黒砂糖のレシート、洗い終えたタオルが混じっている。大学の課題をやっていたはずなのに、どうしてフタが画面の横にあるのか、自分でもよく分からない。
目が乾いていた。
肩も重い。
だが、課題は終わった。終わったのだ。終わった以上、異世界へ行ける。リュシアの屋台裏で、その後どうなったか見たい。トトたちが赤い紐の箱に触っていないか気になる。エレナが黒砂糖を増やしていないかも、かなり気になる。
澪は椅子から立ち上がりかけて、膝に力が入らないことに気づいた。
「……今行ったら、絶対に変な判断する」
自分の声が、六畳間の中で妙にまともに聞こえた。
眠い商人は危ない。
計量を教えた人間が、睡眠時間を測り損ねてどうするのか。洗浄用と飲み物用を分けろと言った人間が、自分の体調と商売を分けられないのはまずい。
澪はスマホのアラームを切った。通知をいくつか消し、部屋の電気を落とし、布団へ倒れ込む。
次に目を開けた時、窓の外は明るかった。
スマホを見ると、昼を少し過ぎている。半日近く眠っていたらしい。頭痛は消えていた。目の奥の重さも軽い。喉が渇いているので、台所で水を飲み、冷蔵庫の残り物で簡単に食事を済ませた。
机の上は散らかったままだったが、提出完了の画面はまだ開いている。
「終わった」
今度の声には、少しだけ達成感があった。
澪はペットボトルのフタを一つ摘まみ、指先で転がした。小さい。軽い。現代日本では、なくしても困るだけの部品だ。だが異世界では、これ一つでも騒ぎになりそうな気がする。
その予感を、澪はまだ甘く見ていた。
押し入れを抜けると、リュシアの屋台裏は昼前の熱で温まっていた。
石畳には日差しが落ち、屋台の鉄板から脂の匂いが漂っている。香草を刻む音、木箱を動かす音、客を呼ぶ声が混じり、澪がいない間も市場がちゃんと動いていたことを知らせてくる。
壁際には、赤い紐を結んだ箱が残っていた。
澪はそれを見て、少しほっとした。
箱の前では、トトが年下の子の手首をつかんでいた。
「そっちは触るな。澪姉ちゃんの顔が怖くなる」
「顔?」
「すごく怖くなる。あと、リュシア姉ちゃんの声も低くなる」
澪は足を止めた。
言い方はひどい。だが、大事なところは守られている。
「トト」
澪が呼ぶと、トトはぱっと振り返った。
「澪姉ちゃん、来た!」
「顔が怖くなるって何」
「え、違うの?」
「違わないけど、そこだけ覚えないで」
トトは首を傾げた。年下の子は赤い紐の箱から手を引っ込めている。結果だけ見れば、ちゃんと効いていた。
リュシアが屋台の奥から出てきた。袖をまくり、手には小皿を持っている。
「澪、課題は終わった?」
「終わりました。寝ました」
「それはよかった。じゃあ、こっちの話だね」
リュシアは小皿を作業台に置いた。
皿の上には、ペットボトルのフタが三つ並んでいた。
澪はそれを見下ろし、ゆっくり瞬きをした。
「……帰っていいですか」
「だめ」
「まだ何も聞いてないのに」
「聞いたらもっと帰れないよ」
リュシアは皿の縁を指で叩いた。
「本体じゃない。揉めたのはこっち」
澪はフタを見た。
白いフタが二つ。青いフタが一つ。
どれも、現代側なら何でもない物に見える。
けれどリュシアの顔は、屋台の売上を数える時の顔だった。笑っているが、目は笑っていない。面倒な物を見つけた商人の顔である。
「澪がいない間に、あの子たちが飲み物を入れて持って歩いただろ」
リュシアは、屋台裏の端に置いたペットボトルを一本取った。中には少しだけ水が残っている。
「最初は、透明で軽いことを面白がられた。そこまでは予想してた。でも、大人たちが見たのは別のところだったんだよ」
トトが得意げに前へ出た。
「俺が見せた」
「何を」
「これ」
トトはフタをつまみ、ねじって締めた。きゅっと小さな音がする。今度は逆にねじって、ゆるめて外す。
「こうすると閉まる。こうすると開く」
「うん、それはそう」
「で、こうしてもすぐには出ない」
トトがボトルを傾けようとしたので、澪は慌てて手を伸ばした。
「傾けない。振らない。試験品だから」
「ちょっとだけ」
「そのちょっとで漏れたら、私が泣く」
トトは不満そうにボトルを戻した。リュシアは横から淡々と言う。
「その手元を、周りの大人たちが見たんだよ。水を持ち歩けるだけじゃない。開けて、締めて、また開けられる。しかも子供がやってる」
澪はフタをもう一度見た。
リュシアは屋台の棚から、古い木栓を一つ取った。
「液体を少しだけ持たせるのは、どこの商売でも面倒なんだ。木栓は緩む。布を詰めれば染みる。革袋は匂いが残る。陶器は割れる。蝋で封じると、開けたあとが面倒になる」
「だからフタが……」
「私は便利だと思ってた。でも屋台の外の連中は、もっと別の目で見たんだよ」
リュシアはペットボトルの口元を指した。
「水筒じゃない。液体を売る口だね」
澪は背筋が少し冷えた。
ペットボトル本体ではない。
フタだ。
何度も締められること。そこそこ漏れにくいこと。同じ形のフタが複数あること。
現代では当たり前すぎて、価値の重さを見落としていた。
「容器より、ここ。ここが何度も締まるのが面倒なんだ」
「面倒?」
「便利すぎて、見に来る人間が増えた」
リュシアは皿のフタを指で軽く寄せた。
「澪、これ、少ないんだろ?」
「はい。替えはありますけど、多くはないです」
「じゃあ、なおさら揉める」
澪は、皿の上の三つのフタが急に貴重品に見えてきた。
リュシアは屋台の奥から、いくつかの容器を持ってきた。
小さな壺、革袋、木栓つきの瓶、蝋で口を固めた細い薬瓶。どれも市場で見かける物で、異世界側の暮らしにちゃんと根づいている道具だった。
「似た物はあるよ」
リュシアは小さな壺を台に置いた。
「油を入れるなら、こういう壺がある。重いけどね」
壺を横へ傾けると、口元から油の匂いがした。栓をしても、完全には安心できないらしい。リュシアはすぐに戻し、次に革袋を手に取った。
「水なら革袋でもいい。でも香草酢や石鹸液を入れると匂いが残る。次に別のものを入れた時、困る」
木栓つきの瓶をトトへ渡す。
「抜いてごらん」
トトは木栓をつかんで引いた。抜けない。
さらに力を入れる。
抜けない。
「トト、さっき誰が押し込んだ?」
「俺」
「抜けないね」
「うん」
「それが困るんだよ」
子供たちが笑う。トトは真剣な顔で木栓をねじったり引いたりしていたが、びくともしない。
澪はペットボトルのフタを外し、また締めた。
トトがすぐに言う。
「こっちは子供でも開く」
「締めすぎなければね」
澪が釘を刺すと、トトは目をそらした。何かやった顔だった。
リュシアは蝋封の薬瓶を持ち上げた。
「薬師の瓶や香油の瓶には、よく閉まるものもある。でも高い。割れる。揃わない。子供が腰に下げて走る物じゃない」
「じゃあ、完全に新しいわけじゃないんですね」
「新しいのは、安物みたいな顔をしてるのに、何度も締まるところだよ」
安物みたいな顔。
澪はその言い方に少し笑いそうになった。たしかにペットボトルは、豪華な瓶でも、職人が飾りを彫った器でもない。軽く、透明で、薄い。異世界側の高級品とは逆の見た目をしている。
けれど、同じ形で何本もある。
同じフタが合う。
そこが、こちらでは珍しい。
澪は、ペットボトルがすごいのではなく、現代日本の同じ物を大量に揃える力がすごいのだと、遅れて理解した。
トトが木栓をまだ抜こうとしている。
「リュシア姉ちゃん、抜けない」
「押し込んだ本人が言うことじゃないね」
リュシアは木栓の瓶を取り上げ、横に置いた。
騒ぎの中心は、昼過ぎにやって来た。
少年服の裾を揺らし、帽子の下から赤い髪を少しこぼして、エレナ・ヴァルディスが屋台裏へ顔を出した。護衛はその後ろで、すでに警戒している。
「今日は何をしている」
トトが胸を張った。
「フタ」
「フタ?」
エレナの目が、皿の上のフタへ吸い寄せられた。
護衛がすぐに一歩前へ出る。
「エレナ様、前回は黒砂糖でした」
「今日は黒砂糖ではない。フタだ」
「つまり別の危険です」
「フタが何をする」
「エレナ様が何かをします」
護衛の返事が早すぎた。
エレナはむっとしたが、すぐにトトへ手を出した。
「見せろ」
「こうやって締めるんだよ」
トトは得意げにペットボトルのフタを締め、ゆるめて外した。エレナは同じようにやろうとして、最初に逆へねじった。
「開かぬ」
「そっちじゃない」
トトが言うと、エレナは眉を寄せた。
「知っていた」
「今、開かぬって言った」
「確認だ」
澪は口を挟まないことにした。護衛も同じ判断をしたらしく、黙っている。ただし、手はいつでも伸ばせる位置にあった。
エレナは向きを変えて、ようやくフタを開けた。
ぱっと顔が明るくなる。
「開いた」
「はい。では、締める時は軽くで」
澪が言い終わる前に、エレナはきゅうっと強く締めた。
「エレナ様、締めすぎです」
「漏れぬようにした」
「開かなくなります」
「開く」
エレナは自分でゆるめようとした。
開かない。
少し力を入れる。
開かない。
トトが目を輝かせた。
「姫様の力で封印された」
エレナは得意げになった。
「そうか」
「そうか、ではありません」
澪は頭を抱えた。
護衛が申し訳なさそうに手を出した。
「お貸しください」
護衛はフタをつかみ、慎重に力を入れた。最初は動かない。次にもう少し力を入れる。ぎち、と小さな音がして、フタがゆるんだ。
その瞬間、ぽん、とフタが指から飛んだ。
小さな白いフタは作業台に当たり、跳ねて、木箱の後ろへ消えた。
「フタ!」
澪の声に、トトたちが一斉に動いた。木箱の下をのぞき、作業台の裏を見る。エレナも探そうとしてしゃがみかけたが、護衛に止められた。
「エレナ様、そこは油の壺があります」
「私は探せる」
「探す前に別の物を倒します」
リュシアは無言で澪を見た。
その目は、ほらね、と言っていた。
澪は小さく息を吐いた。
本体より、フタの管理の方が難しいかもしれない。
フタは、しばらくしてトトが木箱の足元から見つけた。トトは勝ち誇った顔で掲げる。
「見つけた!」
「えらい。けど、飛ばさない方がもっとえらい」
トトは少し考えてから、うなずいた。
「次は飛ばさない」
澪は、その言葉をどこまで信じるべきか悩んだ。
屋台の表側には、少しずつ大人たちが寄ってきていた。
最初は客のふりをしていたが、目は明らかにペットボトルの口元を見ている。リュシアが追い払わないので、彼らは遠慮なく口を開いた。
「それに油は入るか」
「石鹸水なら漏れないか」
「香草を漬けた酢はどうだ」
「薬師の薬液を小分けにできるか」
「染料を入れたら、運びやすいんじゃないか」
澪の顔から血の気が引いた。
油。
石鹸。
酢。
薬液。
染料。
全部、同じ容器で使ってはいけないものばかりだった。飲み物に使った物へ石鹸を入れるのもだめだし、薬液を入れたものを水入れに戻すのもだめだ。まして、染料など考えるだけで怖い。
「全部同じ容器で使っちゃだめです!」
思わず声が大きくなった。
周りの大人たちが黙った。エレナも、トトも、護衛も、リュシアも澪を見る。
澪は自分の声に驚き、すぐに言い直した。
「油を入れたものを飲み物に使うのはだめです。石鹸を入れたものもだめです。薬はもっとだめです。何を入れるか、最初に決めて、混ぜないでください」
リュシアがすぐにうなずいた。
「澪の言う通り。これは便利だけど、何でも入れていいわけじゃない。入れた物を決めておかないと危ない」
屋台の大人たちは、少し残念そうな顔をした。だが、納得していない顔ではなかった。市場で商売をしている者たちだ。油壺に酢を入れたら匂いが移ることくらい知っている。ただ、目の前の軽い容器に欲が出て、先に用途を口にしてしまっただけなのだろう。
エレナがフタを手に取った。
「つまり、容器ごとに役目を決めるのだな」
「はい」
「なら印が要る」
澪ははっとした。
リュシアも同じところへ目を向けていた。飲み物用。石鹸用。油用。薬用。見た目が同じなら、何かを結ぶか、何かを描くか、置き場所を分ける必要がある。
エレナは得意げに続けた。
「私なら、すぐ分かるようにする」
護衛が少し不安そうな顔をした。
「エレナ様がすぐ分かるものは、他の方にも分かりますか」
「分かるようにする」
「その前に、フタを締めすぎない練習をお願いします」
エレナは聞こえないふりをした。
屋台裏へ戻ると、エレナはフタを指先でつまみ、じっと見つめていた。
「これと同じものは、こちらで作れぬのか」
澪は返事に詰まった。
作れるかどうか、という質問に、簡単には答えられない。プラスチックを成形する、同じ口径にする、ねじの細かい凹凸を合わせる。そんな説明を、澪自身がきちんとできるわけではない。
リュシアが代わりに口を開いた。
「似たものは作れるだろうね。金物職人なら金属の蓋を作る。木工職人なら木で合わせる。薬師の瓶にも、よく閉まるものはある」
エレナは黙って聞いている。
「でも、一本ずつ合わせることになる。重い。高い。割れ物ならもっと扱いが難しい。子供が腰に下げて走る物じゃない」
「同じ形でたくさんあることが珍しいのか」
エレナの言葉に、澪は小さく息を止めた。
そこだった。
現代日本では、同じ口のペットボトルが何本も並ぶ。フタも同じように締まる。多少違いはあっても、澪はそれを当たり前だと思っていた。
だが、ここでは違う。
一つ一つの瓶に、一つ一つの蓋を合わせる。職人の手で作る。壊れたら代わりがすぐ合うとは限らない。
価値があるのは、フタ単体ではない。
同じフタが何個もあることだ。
トトが横から聞いた。
「じゃあ、フタだけ売れる?」
澪は即答できなかった。
リュシアが木栓の瓶を持ち上げた。
「本体と合わなきゃ意味がないよ。この瓶にそのフタは締まらない」
トトはむっとして、ペットボトルのフタを見た。
「面倒なフタだな」
「だからなくさないで」
澪が言うと、トトは真面目な顔でフタを皿へ戻した。
その動作だけは、少し信用できた。
リュシアは屋台の奥から紐を持ってきた。
「フタだけを別に置くと、絶対になくなる」
「はい」
「なら、首に紐を結ぶ」
リュシアはペットボトルの首元へ紐を当てた。手つきは早い。屋台仕事で紐を扱い慣れているのだろう。
「フタにも穴を……」
「開けたら漏れます!」
澪は反射で止めた。
リュシアは少し考え、フタを見た。
「じゃあ、外したフタは皿へ入れる」
「皿ごとなくしたら?」
トトが聞く。
「その日は貸さない」
リュシアの返事に、トトは口を閉じた。かなり効いたらしい。
エレナが胸を張った。
「私ならなくさない」
護衛、トト、リュシア、澪が黙った。
エレナの眉が寄る。
「なぜ黙る」
「説得力が……」
「最後まで言え」
澪は目をそらした。
リュシアは笑わずに作業台を指した。
「飲み物用には青い紐。石鹸や洗浄に使うものは別の紐。薬師に渡すなら、さらに別にする。フタを外したら小皿。フタだけ持ち歩かない。持ち帰らない。使う時は、誰が持ったか書く」
澪は頭の中で在庫表を開いた。
飲み物用。
石鹸用。
油用。
薬用。
フタは本体と一緒に管理。
紐も登録。
小皿も登録。
持ち出した子供の名前も記録。
項目が増えていく気配がした。
「また在庫表が増える……」
思わずつぶやくと、リュシアがうなずいた。
「増やさないと、フタがなくなるよ」
トトが小さく手を上げた。
「俺、なくさない」
「さっき飛んだフタを見失ったよね」
「見つけた」
「飛ばしたのは護衛さんだけど、原因は姫様の締めすぎだよね」
トトはエレナを見た。
エレナはそっぽを向いた。
「封印が強かっただけだ」
護衛が頭を抱えた。
子供たちとエレナがフタと紐で騒いでいる横で、リュシアは澪を屋台裏の隅へ呼んだ。
「澪、これは水筒で終わらないよ」
澪は顔を上げた。
リュシアの声は低かった。さっきまでの騒ぎを見て笑っていた顔ではない。商売人の顔だった。
「油、石鹸液、香草酢、調味液、薬液。少しだけ売りたいものは多い。今まで容器が高いから、壺ごと、瓶ごとになっていたものもある」
「でも、同じ容器に入れたら危ないです」
「だから、先に分ける。飲み物に使ったもの、石鹸に使ったもの、油に使ったもの。全部別にする」
リュシアは澪の胸元あたりを指した。そこに在庫表が見えているわけではない。けれど澪には、言いたいことが分かった。
「澪の収納と同じだよ。名前と数と使い道を間違えたら、便利な物ほど面倒になる」
澪は黙った。
大鍋を収納した時もそうだった。飲料作成用。洗浄済み。火にかけない。洗浄剤を入れない。そう決めたから、ちゃんと扱えた。
ペットボトルも同じなのだ。
飲み物用なのか、石鹸用なのか、油用なのか。フタはどれか。紐は何か。誰が持っているか。全部決めないと、便利な物が面倒な物に変わる。
「物より管理が先……」
澪がつぶやくと、リュシアは少し笑った。
「そういう顔をするようになったね」
「どんな顔ですか」
「商売を始めて後悔している顔」
「否定しにくいです」
リュシアは肩をすくめた。
「でも、悪い顔じゃないよ」
その言葉は、妙に胸に残った。
屋台裏では、エレナが青い紐を手に取り、ボトルの首に結ぼうとしている。護衛が横で手を出しかけ、トトが得意げに結び方を教えようとして、リュシアに「まず自分が結べるようになってから」と言われていた。
澪は、フタ一つでここまで騒ぎになるのかと、半分あきれ、半分怖くなった。
そして少しだけ、面白いと思ってしまった。
現代側へ戻ると、六畳間は眠る前より片づいて見えた。
実際には、散らかった物の種類が変わっただけだった。机の上には、ペットボトル本体、フタ、青い紐、赤い紐、細い布、在庫表、ボールペンが並んでいる。
大学課題は終わっている。
睡眠も取った。
体調は悪くない。
なのに、机の上には新しいメモが増えていく。
澪は在庫表へ書き足した。
飲み物用、石鹸用、油用、薬用は混ぜない。
フタは本体と一緒に管理。
用途別に印をつける。
紐の種類を決める。
持ち帰り禁止。
子供に貸す時は番号を控える。
書けば書くほど、フタが小さく見えなくなった。むしろ、本体より存在感がある。ペットボトルは容器で、フタは商売を変える部品なのかもしれない。
澪は息を吐き、鑑定を使った。
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篠原澪
体力:42
筋力:28
集中:45
睡眠:回復
栄養:改善中
鑑定:3
収納:2
商才:芽あり
衛生管理:上昇中
計量:学習中
在庫管理:上昇中
容器管理:発生
課題進捗:完了
----------------------------------
「容器管理……」
澪は項目を見て、しばらく黙った。
課題進捗は完了になっている。睡眠も回復している。そこは素直に喜んでいいはずだった。
だが、その上に新しい項目が増えている。
容器管理。
澪は机の上のフタを見た。
小さい。軽い。何の変哲もない。現代側なら、飲み終えたペットボトルと一緒に捨てられてしまうことも多い。
それが異世界では、油や石鹸液や薬液や香草酢の話まで呼んでくる。
「課題は終わったのに、考えることは増えるんだ……」
六畳間に、澪の声だけが落ちた。
大学の提出画面は、もう閉じている。
代わりに、机の上では三つのフタが、妙に偉そうな顔で並んでいた。