押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第150話 二つ目の拠点

 

 石場町の広場には、朝の名残がまだ白く残っていた。

 

 採石場から流れてくる細かな石粉が、建物の軒や荷馬車の幌に薄く積もっている。旧計量所へ向かっていた警備兵たちは、今は押収した荷を運ぶ者、帳簿を封じる者、捕縛者を詰所へ送る者に分かれ、声を抑えながら忙しく動いていた。町の職人たちは遠巻きにその様子を見ている。騒ぎが終わったという顔ではない。何かが始まったことだけを、まだ言葉にできずにいる顔だった。

 

 澪は、広場の端に置かれた荷車を見た。片方の車輪に巻かれた縄は古く、引けば繊維が切れそうになっている。近くの石工が使っていたらしい手袋は、指先が白く硬くなり、縫い目が裂けていた。黒鎖商会の押収が進んでも、明日の朝、その手袋が勝手に直るわけではない。

 

 それが、胸の奥に引っかかった。

 

 悪いものを押さえた。証拠も取った。けれど町の人の手は、まだ困ったままだ。

 

 真壁は広場の中央で、何も置かれていない石畳を見ていた。見ているのは地面だけではない。人の流れ、荷車が入れる幅、警備兵の目が届く位置、雨が降った時に水が逃げる線まで測っているようだった。

 

「ここなら棚が置ける」

 

 短い言葉だったが、澪にはその意味がすぐ分かった。真壁の視線の先に、明日の店が先に組まれている。橋市で出した棚とは違う。石場町の職人が、仕事の前に寄れる棚だ。

 

「販売場所にするんですね」

 

 澪が言うと、真壁は石畳から目を離さずにうなずいた。

 

「押さえた後は、流す。品も、人も、金もな」

 

 その声は静かだった。勝った、という響きはない。詰まったものを取り除いたのなら、次は流れを戻す。それだけだと言っているようだった。

 

 ヴァルトは、澪の少し後ろで広場を見回していた。王都魔術院にいたころなら、制圧後の広場は封鎖区域として見ただろう。だが今、彼の目は、棚を置くならどこか、客が並ぶならどちらへ流すかを追っている。自分でもそれに気づいたのか、わずかに眉を動かした。

 

「この広場を、商いの場に戻すのですね」

 

「戻すというより、通すのだろうな」

 

 真壁がそう返すと、ヴァルトはしばらく黙った。言葉を受け取って、自分の中で置き場所を探している顔だった。

 

 その時、レオンハルトが警備隊長との話を終えて戻ってきた。外套の裾には石粉が付き、普段より少し硬い表情をしている。領主家の者として命じ、捕縛し、押収を進める重さが、その肩に残っているように見えた。

 

「旧計量所は警備隊に封鎖させた。ロッホ・ダインは詰所へ移す。記録係も残してある」

 

 レオンハルトの声は疲れていたが、乱れてはいなかった。澪は、きちんとした手順で物事が進んでいることに少しだけ息をついた。押入商会が勝手に暴れて終わる話ではない。町の側へ、領主家の手続きとして戻していく必要がある。

 

 真壁はうなずき、広場の一角を示した。

 

「レオンハルト殿。押入商会は一度戻る。明朝、また来る。アルベルト殿への書状を用意していただきたい」

 

 レオンハルトの目が、真壁へ向いた。

 

「戻れるのか」

 

「昨日の転移で、転移が三になっている」

 

 真壁はそれだけ言って、手元に小さな表示を開いた。澪の位置からも、淡い文字が見えた。

 

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スキル確認

 

転移:3

登録可能拠点数:2

登録済み拠点数:1 / 2

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 澪は声を出さなかった。言いたいことはいくつかあった。昨日の時点で気づいていたのか、今ここで使うつもりだったのか、登録可能拠点数とはつまり何なのか。けれど真壁は、必要な分だけを出している。ここで仕組みを広げても、レオンハルトの仕事は増えるだけだ。

 

 ヴァルトも表示を見ていた。魔術師としての好奇心が顔を出しかけているのに、彼はそれを飲み込んだ。今は術式の検討ではない。町を動かすための手順が先なのだと、自分に言い聞かせているようだった。

 

「今使うからな」

 

 真壁は広場の石畳へ視線を落とした。棚を置く場所。人が並ぶ場所。警備兵が立てる場所。石場町の人間が明日そこへ来る場所。

 

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拠点設定

 

石場町臨時販売拠点を登録しました

登録拠点数:2 / 2

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 表示が消えると、広場の空気は何も変わらなかった。石粉は相変わらず薄く舞い、職人たちは遠巻きにこちらを見ている。それなのに澪には、足元の石畳に見えない札が差されたように感じられた。

 

 ここへ戻ってくる。

 

 そう思った瞬間、明日の棚が急に現実のものになった。

 

「承知した。書状を用意する」

 

 レオンハルトは短く答え、近くの記録台へ向かった。警備隊の者が慌てて紙と封蝋を出す。澪はその横顔を見て、レオンハルトがただ報告を書くのではなく、裁定を動かすための道を作っているのだと感じた。

 

 

 

 

 レオンハルトの筆は、見た目よりも速かった。

 

 旧計量所の前に置かれた仮の記録台で、彼は押収記録を確認しながら書状を書いていく。警備隊長が横に立ち、記録係が封じた帳簿の番号を読み上げるたび、レオンハルトは必要な箇所だけを拾って紙に落とした。

 

 澪は少し離れて見ていた。書かれている内容をのぞき込むつもりはなかったが、クラウスの名が出た時、筆の動きがわずかに変わったのが分かった。

 

 灰橋町の通行料。

 

 橋の修理費名目の上乗せ。

 

 橋守エルンスト・ハーゲンへの指示。

 

 黒鎖商会の帳簿に残る金の流れ。

 

 石場町の荷抜きと、灰橋町の通行料をつなぐ控え。

 

 そして、クラウス・ベーレンの署名の乱れ。

 

 レオンハルトはそこで一度、筆を止めた。強く書けば罪になる。弱く書けば見逃しになる。その間を探すような沈黙が落ちた。

 

「金だけではないかもしれん」

 

 真壁が低く言った。

 

 レオンハルトは顔を上げた。澪も思わず真壁を見た。

 

「欲で書いた字なら、もっと太い。これは恐れの字だ」

 

 真壁の言葉は短かった。断定ではない。けれど、押収した書状を見た者にだけ分かる重さがあった。クラウスが裏切ったことは消えない。それでも、誰かを握られていた可能性を落としてはいけない。

 

「家族か」

 

 レオンハルトの声が少し低くなった。

 

「その線を捨てぬ方がよい」

 

 真壁はそれ以上言わなかった。澪は、胸の奥に冷たいものが触れるのを感じた。黒鎖商会が荷を止め、金を貸し、商権を奪うだけの相手ならまだ分かりやすい。だが人を縛るために家族を使うなら、その鎖はもっと深く食い込んでいる。

 

 レオンハルトは書状に一文を加えた。クラウスの裁定が必要であること。だが同時に、家族または近しい者への脅迫が疑われること。身柄の確保だけでなく、保護の手配が必要であること。

 

 筆が紙を走る音を聞きながら、澪は旧計量所から運び出された帳簿の束を見た。紙は軽い。けれど、そこに書かれたものは人の生活を重くする。黒鎖商会という名前が、ただの悪い商会ではなく、鎖なのだと改めて思った。

 

 書状を書き終えると、レオンハルトは封をした。封蝋に領主家の印が押される。赤い蝋が固まるまでの短い間、誰も軽い声を出さなかった。

 

「アルベルト様へ。石場町の押収状況、灰橋町との連動、クラウス・ベーレンの件を記した。裁定に必要な範囲は入れてある」

 

 レオンハルトはそう言って、書状を真壁へ渡した。

 

 真壁は受け取り、収納へ入れる前に一度だけ封を確認した。雑に扱わない。その手つきに、澪は少し安心した。書状はただの紙ではない。明日の石場町を動かすための、もう一つの荷だった。

 

「預かる」

 

「明朝、ここへ戻るのだな」

 

「戻る。棚も出す」

 

 真壁の返事に、レオンハルトはほんのわずか表情を緩めた。制圧の後に棚を出す。その組み合わせに、ようやく町を戻す形が見えたのかもしれない。

 

「ならば、こちらは広場を空けておく。警備隊にも通しておく」

 

 澪は、その言葉を聞いて石畳へ目を落とした。明日の朝、ここに棚が並ぶ。青縞の麻布ではなく、石場町の職人がすぐ使える針や紐や金具が並ぶ。押収された品ではなく、きちんと仕入れた品が並ぶ。

 

 その違いを、間違えてはいけないと思った。

 

 

 

 

 真壁、澪、ヴァルトの三人は、広場の中央に立った。

 

 周囲の視線が集まる。警備兵も、職人も、何が起きるのか分からないまま見ている。澪は少しだけ肩に力が入った。転移には慣れてきたつもりでも、人前で行うとなると、やはり落ち着かない。

 

 真壁は封書を収納の中で分け、すぐ取り出せる場所に収めた。それから澪とヴァルトを見た。

 

「行く」

 

 ただそれだけだった。

 

 次の瞬間、石粉の匂いが切れた。

 

 足元の感触が変わる。広場の硬い石畳ではなく、採石場秘密基地の整えられた床だった。空気には乾いた石と木材、少しだけ油の匂いが混じっている。人のざわめきはなく、代わりに遠くの斜面を撫でる風の音が聞こえた。

 

 澪は一度だけ息を吸った。移動したことを確かめるためではない。気持ちを切り替えるためだった。

 

「領都へ出る」

 

 真壁はすぐに歩き出した。説明はない。だが澪には十分だった。ハイエースを収納から出した。

 

 採石場秘密基地に戻ったのは、休むためだけではない。領都へ向かうための準備を整え、橋市で買った品をリュシアへ預け、石場町へ持っていく商品をそろえるためだ。

 

 ハイエースに乗り込む前、澪は収納の中の区分を確認した。橋市で買った品。石場町へ持っていく予定の品。旧計量所の押収物。レオンハルトの書状。

 

 押収物の区画には触れない。販売品とは混ぜない。証拠と商品を同じ便利さで扱ってはいけない。

 

 ヴァルトが隣でその様子を見ていた。

 

「区画名を、かなり細かく分けておられるのですね」

 

「混ざると困りますから。特に押収物は、あとで誰のものか、どこで見つかったものかが大事になります」

 

 澪が答えると、ヴァルトはうなずきながら自分の帳面を開いた。彼はまだ書いていないページを見つめ、しばらく考えてから、上の行に「販売品」と「証拠品」を分けて書いた。

 

 その動作を見て、澪は少しだけ口元を緩めた。驚くだけではなく、すぐ自分の手順に直す。ヴァルトは本当に行商人として学んでいる。

 

 車が動き出すと、採石場の白い斜面が窓の外を流れた。石場町の広場で見た職人の手、旧計量所の埃、レオンハルトの封蝋。そのすべてがまだ澪の中に残っている。けれど、今向かう先は裁きの場ではない。商売の場だった。

 

 

 

 

 領都の通りは、石場町とは違う音で満ちていた。

 

 荷馬車の車輪、店先で客を呼ぶ声、鍋を叩くような金物屋の音、布を広げる乾いた音。澪はその中を歩きながら、収納の中の橋市の品を思い浮かべた。青縞の麻布、魚の燻製、葦籠、青灰色の砥石、橋市で買った小物類。澪とヴァルトが見て、聞いて、選んできた品だ。

 

 リュシアの店に入ると、いつものように布と木箱の匂いがした。棚は整っているが、少しずつ商品が動いている。売れている棚は、空き方にも癖があるのだと澪は最近分かるようになってきた。

 

「戻ったね。今度は何を持ってきたんだい」

 

 リュシアは帳面から顔を上げるなり、そう言った。驚くより先に品を見る目になっている。その切り替えの早さに、澪は少し背筋を伸ばした。

 

「橋市で仕入れた品です。あと、現地で聞いた用途と価格帯もまとめています」

 

 澪は棚を出し、商品一覧を添えた。個別の品は袋に分け、説明ラベルを付けてある。生ものに近い魚の燻製は、空気を抜いて包みを密着させていた。

 

 リュシアはまず青縞の麻布を手に取った。布端を指で揉み、光にかざす。青い縞が派手すぎず、普段使いの中に少しだけ見栄えを足している。

 

「これは普段使いにも出せるね。けど、色がいい。少し見栄えを欲しがる客にも出せる」

 

 リュシアの言葉を聞いて、澪は橋市で布を選んでいた女たちの手を思い出した。丈夫かどうかを確かめながら、指先は青い縞を撫でていた。生活の品でも、見た目を諦めているわけではない。そのことを、リュシアは一目で拾った。

 

 次に、リュシアは魚の燻製の包みを手に取った。包みの表面を指で押し、空気がほとんど入っていないことを確かめる。

 

「これは、やけにぴったり包んであるね」

 

 リュシアの指が、包みの端をなぞる。澪はその手つきを見て、ただ珍しがっているのではなく、売り物として扱えるかを確かめているのだと分かった。

 

「真空パックです。空気に触れないと少し長持ちするんです」

 

 説明しながら、澪は自分の言葉がどこまで伝わるか少し不安になった。真空という言い方がこちらでどれほど通じるかは分からない。それでも、空気に触れない方が傷みにくい、という感覚なら伝わるはずだった。

 

 リュシアは包みを裏返し、端の閉じ方を見た。

 

「なるほどね。空気を抜いてあるのか。なら、保存食として言いやすい」

 

 リュシアがすぐに売り方の言葉へ置き換えたので、澪は胸の中で少しほっとした。仕組みの説明より、客へどう伝えるか。リュシアの考えは、いつもそこへ向かう。

 

 リュシアは少しだけ鼻を近づけ、包み越しの匂いを確かめた。

 

「ただ、燻製は匂いで好き嫌いが出るよ。少し試食を用意した方がいいね」

 

 その一言で、澪は橋市で魚の燻製を手に取った客の顔を思い出した。保存できるかどうかだけでは足りない。食べ物は、最後には口に入れるものなのだ。

 

 葦籠を見る時、リュシアの目はさらに細かくなった。編み目の詰まり、縁の処理、底の安定を確かめる。

 

「これは普段使い。こっちの細かいのは、贈り物でもいける」

 

 リュシアは迷わず二つの山に分けた。澪が橋市で聞いた値段を伝えると、ヴァルトが横から産地と使い道を補った。

 

「湿った場所でも軽い物を入れる用途が多いようです。魚を扱う者は、底の水切れを見ていました」

 

 ヴァルトの声は落ち着いていた。魔術院の報告ではなく、商人として聞き取ったことを差し出している。澪はその変化に気づき、少し嬉しくなった。

 

 リュシアはヴァルトをちらりと見てから、澪へ視線を戻した。

 

「品だけじゃなく、客の手も見てたんだね」

 

 その言葉は軽かったが、澪には褒め言葉より重く聞こえた。商品を持ち帰るだけなら、収納があればできる。けれど、誰がどう使うかまで持ち帰るのは、見ていなければできない。

 

「ヴァルトさんが、かなり聞いてくれました」

 

 澪が言うと、ヴァルトは少しだけ姿勢を正した。リュシアの店の空気は、魔術院とも領主家の場とも違う。品を見られる場では、自分も見られている。その緊張があるようだった。

 

「なら、いい見習い方だよ」

 

 リュシアはそう言って、橋市の品を店の奥へ運ぶための棚に移した。澪はその手際を見ながら、預けた品がここで別の客へ届いていくのだと思った。石場町へ向かう前に、橋市の品もまた領都で流れ始める。

 

 商売は、一か所で完結しない。

 

 そのことが、今日はやけにはっきり分かった。

 

 

 

 

 石場町向けの仕入れは、領都の店を何軒も回ることになった。

 

 最初に入ったのは、縄と袋を扱う店だった。天井から麻縄が輪にされて吊られ、棚には大小の袋、革紐、荷締め用の平紐が積まれている。店の奥では、年配の店主が縄の端を切りそろえていた。

 

「荷締め用をこれだけ? 町でも開くんですかい」

 

 店主は注文の数を聞いて、澪の顔を見た。冗談半分ではあるが、目は本気で数を測っている。普通の旅人が買う量ではないからだ。

 

「町が止まってるんです。物がなくて…。だから町を動かしに行くんです」

 

 澪はそう答えてから、自分の言葉に少し驚いた。大きなことを言うつもりはなかった。けれど、石場町で止まっていた荷車や、縄を結び直していた職人の手を思うと、それ以外の言い方が見つからなかった。

 

 店主は一瞬だけ目を丸くし、それから口の端を上げた。

 

「なら、切れにくい方を出しましょう。安いのだけ持っていくと、働く手に恨まれますぜ」

 

 その言葉に、澪はうなずいた。安ければよいわけではない。石を運ぶ町で使うなら、切れた時の損が大きい。

 

 ヴァルトは横で帳面を書いていた。最初は「麻」「革」「金属」と材料別に分けていたが、澪が用途を口にするたびに、行を引き直していく。

 

 荷締め用。

 

 袋口用。

 

 仮止め用。

 

 応急補修用。

 

 その文字が増えていくのを見て、澪は彼が本気で分類を変えているのだと分かった。

 

「材料で分けると、私には見やすいのですが」

 

 ヴァルトが小さく言った。

 

「お客さんは、たぶん困っている場所で探します。荷車が緩むとか、袋の口が閉まらないとか」

 

 澪が答えると、ヴァルトはしばらく帳面を見つめ、それから材料別の見出しを小さく囲って、横に用途別の見出しを書き足した。

 

「商いでは、品の正体より先に、客の困り方を見るのですね」

 

 その受け取り方は、ヴァルトらしかった。澪はうなずきながら、店主が積み上げる紐の束を収納へ入れていった。束ごとに袋詰めし、用途と数量の札を付ける。明日の棚で迷わないためだ。

 

 次の店では、針と糸を買った。衣類用の細い針、袋を直す太めの針、革を縫うための強い針。糸も、色より強度を優先したものを多く選ぶ。

 

 金物屋では、小さな釘、蝶番、荷車の応急金具、工具箱の留め具、楔を選んだ。澪は一つずつ手に取り、石場町の職人が朝の仕事前に買える量へ分けることを考えた。大量に必要な者もいるだろうが、今日明日をしのぐために少しだけ欲しい者もいる。

 

 真壁は時々、棚の奥から品を選び出した。

 

「これは錆びにくい。少し高いが、石粉の多い町ならこちらだ」

 

 店主が驚いた顔をする。真壁は値切るためではなく、用途に合う品を抜いている。澪はその横で数量を確認し、ヴァルトは帳面に「石粉対策」と書き加えた。

 

 仕入れが進むにつれ、収納の中には石場町向けの棚が形を取り始めた。青縞の麻布や魚の燻製とは違う棚だ。見栄えよりも、手に取った瞬間に使い道が分かる棚。職人の朝を止めないための棚。

 

 澪はその重さを、少しずつ自分の中へ入れていった。

 

 

 

 

 真壁がアルベルトのもとへ向かったのは、仕入れの途中だった。

 

 澪とヴァルトは金物屋で品を分け続け、真壁だけがレオンハルトの書状を持って領主家の屋敷へ向かう。澪は見送る時、少し不安になった。石場町で押収したもの、クラウスの名、黒鎖商会の帳簿。それらが一通の書状でどこまで伝わるのか、考えてしまったからだ。

 

 屋敷の応接室で、アルベルトは封を切った。

 

 真壁は余計な説明をしなかった。アルベルトが読む間、窓の外へ目を向けている。庭の木々はよく手入れされ、石場町の白い粉とは違う静けさがあった。だが、書状の中身はその静けさに似合わない。

 

 アルベルトの指が、一か所で止まった。

 

「灰橋町の通行料と、石場町の荷抜きが同じ線でつながるか」

 

 声は低かった。驚きよりも、怒りを抑えている響きがある。

 

「帳簿はそう語っております」

 

 真壁の返事は短い。帳簿が語る、という言い方に、アルベルトはわずかに目を細めた。人が言い逃れをしても、物と紙は並べ方を誤らなければ話す。そういう意味だと受け取ったのだろう。

 

「クラウス・ベーレンの名も出ている」

 

「通行料の指示、金の流れ、黒鎖商会との接点。いずれも疑いでは済まぬ量です」

 

 アルベルトは書状をさらに読み進めた。クラウスの署名の乱れ、人質または家族への脅迫の可能性、身柄の確保と同時に保護を要する旨。そこまで読んだところで、彼の表情が変わった。

 

 ただ裁く相手ではない。縛られているかもしれない相手だ。だが、縛られていたからといって、町を傷つけた事実が消えるわけでもない。

 

「裁定のために向かわねばならん」

 

 アルベルトは書状を机に置いた。若い顔に、領を預かる者の影が差している。澪がいれば、その変化に気づいただろう。真壁はただ、静かにうなずいた。

 

「では、翌朝向かいましょう。 手早くお連れすることが出来ます。」

 

「護衛を連れぬ形になるが」

 

「到着先にはレオンハルト殿がいる。門前で迷うより、確実に場へ入れる」

 

 アルベルトは真壁を見た。真壁の言葉は、危険を軽く見ているものではなかった。道中の護衛を厚くするより、既に押さえた場へ確実に入る。そういう判断だった。

 

「同行は何人まで可能だ」

 

「私を含めて四人までです」

 

 アルベルトは少し考え、うなずいた。

 

「ならば、私が行く。押入商会の三名と共に向かう形でよい」

 

 真壁は深く頭を下げすぎず、礼を示した。

 

「承知しました」

 

 それ以上の言葉はなかった。アルベルトは書状をもう一度手に取り、必要な指示を書き出し始める。真壁はその手元を見て、裁定が動き出したことを確認した。

 

 石場町へ戻るのは、明朝。

 

 その前に、商いの準備を終えねばならない。

 

 

 

 

 夕方、採石場秘密基地へ戻るころには、収納の中の品はかなりの量になっていた。

 

 澪はハイエースを降りると、まず明日の棚ごとに区画を確認した。針、糸、麻紐、革紐、荷締め用の平紐、応急金具、小釘、楔、工具箱の留め具、袋、補修布。どれも袋詰めし、数量と用途のラベルを付けてある。

 

 押収物の区画とは離してある。橋市の残り品とも混ぜていない。

 

 それだけで少し疲れたが、澪は手を止めなかった。明日の朝、石場町の広場で棚を出す時に迷えば、その分だけ人を待たせる。石場町の人たちは、もう十分待たされている。

 

 ヴァルトは帳面を広げ、領都で買った品の分類をもう一度見直していた。彼の文字は整っているが、ところどころ線を引いて書き換えた跡がある。材料別から用途別へ。魔術師の整理から、商人の棚へ。その移り変わりが紙の上に残っていた。

 

「ヴァルトさん、露天風呂、先にどうぞ」

 

 澪が声をかけると、ヴァルトは顔を上げた。

 

「よろしいのですか」

 

「明日は早いですし、冷えないうちに。ラベルは私が続けておきます」

 

 ヴァルトは少し迷ったが、真壁に促され、湯場へ向かった。採石場秘密基地の露天風呂は、初めて見る者にはどう説明しても足りない。澪はそれを知っているので、説明を減らすことにした。

 

 しばらくして、湯場の方から水音が届いた。

 

 ヴァルトが露天風呂を使っている間、澪は衝立の外で、領都で買い込んだ品のラベルを整えていた。

 

 採石場秘密基地の夜は、領都の宿場とはまるで違っていた。遠くに人の声はなく、石の斜面に残った昼の熱がゆっくり抜けていく気配と、湯場の方から届く水音だけがある。衝立は厚い板と布でしっかり組まれていて、中の様子は見えない。見えないのに、湯気の匂いと水を動かす音だけで、そこに人がいることは分かった。

 

 澪は袋詰めした針の束に「衣類補修用」と書いた札を結び、次に麻紐の束へ手を伸ばした。石場町で見た職人たちの手を思い出す。爪の間に白い石粉が入り、指先の皮が固くなっていた。あの手が迷わず使えるように分けておかなければ、明日の棚はただ物を並べただけになる。

 

 衝立の向こうで、湯が静かに揺れた。

 

「これは……野営なのでしょうか」

 

 ヴァルトの声は、いつもより少し遠慮がちだった。湯の中で真面目に考え込んでいる姿が声だけで想像できて、澪は結びかけていた札を落としそうになった。

 

「初めてだと、そう思いますよね」

 

 笑いすぎないように気をつけて返す。便利すぎる設備に驚く気持ちは、澪にも分かる。自分も最初から慣れていたわけではないのに、いつの間にか説明する側へ回っていることが少し不思議だった。

 

「湯が尽きない。外気は冷えているのに、足元の石まで温かい。魔術式の維持音もない。……真壁殿は、休むための場所にも工程を組むのですね」

 

 水音のあと、ヴァルトの声が少し低くなった。驚きだけではなく、観察している声だった。湯に浸かりながらも、彼は設備の仕組みと人の動きを見ている。

 

「真壁さんの場合、休むのもたぶん段取りに入ってます。明日動けないと困りますから」

 

 澪はそう言ってから、砥石用の小さな布袋を膝の上に並べた。言葉にすると、真壁の行動はいつも合理的に聞こえる。けれど実際には、合理的すぎてこちらの感覚が追いつかないことが多い。今日もそうだった。石場町で押収し、領都で仕入れ、ここへ戻って、明日の棚を組む。その流れが当然のように進んでいる。

 

「澪殿は、慣れておられるのですね」

 

 衝立の向こうからそう言われ、澪は少し手を止めた。

 

「慣れている、んでしょうか。たぶん、慣れたというより、毎回驚いている暇がないんです」

 

 言ってから、澪は自分で少し苦笑した。驚かなくなったわけではない。驚いたまま、手を動かすようになっただけだ。今も、湯場の外で商品札を書いている自分を、数か月前の自分が見たら何と言うだろうと思う。

 

「それは、行商人としては強いことです」

 

 ヴァルトの声に、軽い水音が重なった。湯の中で姿勢を正したのかもしれない。

 

「驚きを止めず、手も止めない。魔術院では、驚いた者はまず記録を取りました。押入商会では、記録を取りながら品を袋に詰める」

 

 澪は麻紐の札へ筆を置いた。ヴァルトの言い方は真面目なのに、聞いていると少しおかしい。けれど、そのおかしさの下に、彼が本気で学ぼうとしている気配があった。

 

「明日は、石場町で棚を出します。職人さんたちがすぐ使えるように、用途ごとに分けます。材料別だと、たぶん見つけにくいので」

 

「用途ごと」

 

 ヴァルトが小さく繰り返した。湯気の向こうで、彼が頭の中の棚を並べ替えているのが分かるようだった。

 

「針なら、衣類補修用、袋直し用、革用。紐なら、荷締め用、袋口用、仮止め用。金具も、荷車用、工具箱用、応急補修用に分けます。石場町の人は、材料を見に来るというより、困っている場所を直しに来ると思うので」

 

 澪は説明しながら、札の束をそろえた。自分の言葉が、ただの分類ではなく、石場町で見た景色から出ていることに気づく。止まった荷車、縄を結び直していた職人、砥石を求めていた手。棚に並べるのは商品だが、向き合うのは困りごとだった。

 

「なるほど。倉庫の分類ではなく、客の手の分類なのですね」

 

 ヴァルトの声には、静かな納得があった。驚くだけで終わらず、自分の言葉へ置き換えて受け取っている。そのことが、澪には少し嬉しかった。

 

「そう言われると、すごく商人っぽいですね」

 

「澪殿は商人です」

 

 迷いのない返事が来て、澪は一瞬、返す言葉に詰まった。行商人レベルは上がっている。商売もしている。それでも、自分が商人だと言われると、胸の奥が少し落ち着かなくなる。

 

「まだ、見習いみたいなものです」

 

「見習いが、証拠品と販売品を混ぜず、用途で棚を作り、保存状態まで考えるのでしたら、私はかなり急いで学ばねばなりません」

 

 湯の向こうの声は真剣だった。澪は少しだけ肩の力を抜いた。ヴァルトは年上で、魔術師としての経験も深い。それでも、行商人としては同じ道を歩き始めたばかりなのだと思うと、教えることへの緊張が少し薄れる。

 

「じゃあ、明日は一緒に棚番ですね」

 

「はい。ご指導をお願いします」

 

 澪は返事の代わりに、荷締め用の札を一枚、丁寧に書き直した。衝立の向こうで湯が揺れ、夜風が湯気を少しだけ運んでくる。姿は見えないままなのに、会話だけで、明日の棚の形が少しずつ見えてくる気がした。

 

 

 

 

 夜の食事は、簡単なもののはずだった。

 

 けれど真壁が収納から出したワインを見た瞬間、澪は手を止めた。瓶の形がもう普通ではない。ラベルの紙も、封の状態も、いかにも丁寧に扱われてきたものだった。

 

「それ、高いんですね」

 

 澪が言うと、真壁は瓶を光にかざした。

 

「悪くない品だ」

 

 答えになっていない。澪は皿を並べながら、もう一度瓶を見た。悪くない品、という言い方で済ませるものほど、たいてい高い。

 

「高いんですね」

 

「保存状態は良い」

 

 真壁は何でもない顔で栓を確認している。澪はその横顔を見て、値段を言う気がないのだと悟った。言えば自分が止めると思っているのかもしれないし、そもそも値段を重要な情報だと思っていないのかもしれない。

 

「高いんですね」

 

「適量なら、疲れを取る」

 

 真壁の返事が少しだけ遅れた。澪はそこに答えを見た気がした。

 

「高いんですね」

 

 ヴァルトが湯上がりの髪を整えながら、二人のやり取りを見ていた。最初は会話の意味を測りかねていたようだが、やがて小さく息を漏らした。笑ったというより、理解してしまった顔だった。

 

「澪殿は価格を確認され、真壁殿は品質を答えておられるのですね」

 

「そうです。価格を聞いているんです」

 

 澪が言うと、ヴァルトは真面目にうなずいた。

 

「リュシア殿なら、瓶を見ただけでおおよそ当てそうです」

 

 その一言で、澪は思わず黙った。確かにリュシアなら当てる。しかも、売るならいくら、出すなら誰へ、まで言うだろう。

 

 真壁は何も言わず、人数分の杯に少しずつ注いだ。量は控えめだった。高いかどうかはともかく、明日に残す飲み方ではない。そのあたりはやはり真壁だった。

 

 澪は杯を受け取り、香りを確かめた。深い果実の匂いと、木の樽のような香りがする。高い、ともう一度言いそうになったが、飲む前から言い続けるのも負けた気がして、黙って口をつけた。

 

 味は、悔しいことにおいしかった。

 

「……高い味がします」

 

 澪が小さく言うと、真壁はようやく少しだけ目を細めた。

 

「悪くないだろう」

 

 やはり答えになっていない。けれど、石場町で張り詰めていた気持ちが、少しずつほどけていくのは分かった。

 

 ヴァルトは杯を両手で持ち、静かに味わっていた。露天風呂に入り、採石場秘密基地の夜風を受け、押入商会の野営とは何かを考えながら飲むワイン。彼の中で、行商人という言葉がまた一つ形を変えているのだろう。

 

 食事の後、澪は最後のラベルを確認した。

 

 証拠品の区画には触れない。

 

 橋市の品は、リュシアへ預けた分と残りを分ける。

 

 石場町向けの品は、明日の棚順に並べる。

 

 札の一番上に、「石場町臨時販売」と書いた。文字の角をそろえ、束を軽く叩いて端を整える。その音が、夜の静かな空気に小さく響いた。

 

 明日の朝、アルベルトを連れて石場町へ戻る。裁定もある。クラウスのこともある。黒鎖商会の鎖は、まだ全部切れていない。

 

 それでも澪は、最後に販売品の棚をもう一度確認した。

 

 針。紐。金具。袋。補修布。工具箱の留め具。

 

 町を裁くためではなく、町が動き出すための品。

 

 澪は帳面を閉じた。乾いた音が、明日の店を開く合図のように聞こえた。

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