押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第151話 白い町の赤い霧

 領都の朝は、音から始まっていた。

 

 店の戸板を外す乾いた音が通りの両側から重なり、荷馬車の車輪が石畳を叩いていく。パンを焼く匂いと湯気、井戸端で水を汲む女たちの声、早足で店先へ向かう見習いたちの足音が、まだ低い陽の光の中で混じっていた。

 

 澪はハイエースから降り、収納の中の区画を確認した。橋市で預けた品、石場町へ持っていく商品、押収物の記録、そして空けてある販売用の棚。区画名を一つずつ意識すると、昨日の石場町の白い広場が頭に浮かぶ。

 

 白い石粉で荒れた指。裂けた手袋。荷車の縄を結び直していた男の手。

 

 領都の朝はにぎやかなのに、澪の中には石場町の乾いた空気が残っていた。

 

 リュシア商会の店先では、リュシアがすでに荷を広げていた。針と糸の束、麻紐と革紐、荷締め用の平紐、補修布、小釘、楔、工具箱の留め具、荷車用の応急金具。安価な作業手袋と、手首に巻く布、小分けの石鹸、それから簡易食の包みまで、用途ごとに箱が分けられている。

 

「来たね。こっちは石場町行きだよ」

 

 リュシアは帳面を閉じ、品物の山を指で示した。声はいつも通り軽いが、並べ方はまるで軽くない。入口に近い箱には、すぐ手に取るものが集められている。奥には金具やまとめ買い品。札は大きく、字も太い。

 

「朝に来る客は、選びたいんじゃなくて、すぐ直したいんだよ」

 

 リュシアが針の束を持ち上げる。澪はその指先を見ながら、石場町の職人が作業前に広場へ来る姿を想像した。迷っている時間はない。どこが壊れたか、何を直したいか。その答えが棚に見えていなければ、手は伸びない。

 

「高い物は奥でいい。入口には、手が伸びる物を置きな。石場町なら、見栄えより丈夫さだね。ただ、札は見やすくしな」

 

「はい」

 

 澪は頷き、箱の札をもう一度見た。荷車補修、袋と紐、衣類と手袋、工具箱まわり、石粉対策。分類は物の種類ではなく、困りごとの名前になっている。

 

 ヴァルトは横で、箱の並びをじっと見ていた。

 

「リュシア殿の分類は、品物の正体ではなく、客が手を伸ばす順番なのですね」

 

 その声には驚きがある。だが、ただ珍しいものを見た声ではなかった。自分の中にある分類の棚を、また一つ組み直している声だった。

 

「そうだよ。正しく分けても、客が探せなきゃ棚じゃないからね」

 

 リュシアはそう言って、麻紐の箱を軽く叩いた。澪は、ヴァルトが黙って帳面に何かを書き込むのを見た。魔術院では正確さのために分類する。押収品は証拠の意味を崩さないために分類する。けれど商いの棚は、相手が迷わず手を伸ばすために分類する。

 

 同じ分けるという行為でも、向いている先が違うのだ。

 

 荷を収納に収めるとき、澪は一つずつ区画を作った。小釘は小釘でも、荷車用と工具箱用で分ける。針も、布用と袋用と革用を混ぜない。昨日の夜に整えた札へ、リュシアの助言を足していく。

 

「行っておいで。町を動かすなら、最初の棚でしくじらないことだよ」

 

 リュシアの言葉は、送り出しというより、仕事の最後の釘だった。

 

 澪は収納の中で棚の順番を確かめ、胸の奥で小さく息を整えた。商品を売りに行くのではない。止まった手を、もう一度動かしに行くのだ。

 

 

 

 

 領主館では、アルベルトがすでに待っていた。

 

 通された部屋は、朝の光がよく入る部屋だった。磨かれた床には窓枠の影が細く落ち、壁際の棚には領内の地図と封蝋の箱が並んでいる。石場町の白い粉っぽさとは違い、ここには紙と革と磨かれた木の匂いがあった。静かで、整っていて、だからこそ机の上に置かれた書状の写しだけが、部屋の空気から少し浮いて見えた。

 

 アルベルトの旅装は簡素だったが、簡素なだけで軽くはない。腰の剣、革手袋、椅子の背に掛けられた外套。飾りを削ぎ落とし、動くために選ばれたものばかりだった。澪はその姿を見て、これから向かうのが視察でも挨拶でもなく、領内の傷口を見に行く時間なのだと感じた。

 

 アルベルトは書状の一枚に目を落とし、指先でクラウス・ベーレンの名のあたりを押さえた。爪先が紙を乱さない程度に、けれど確かに力を込めている。その小さな圧に、澪はアルベルトが怒っていないわけではないのだと分かった。

 

「クラウスの罪は消えぬ。だが、握られていたものがあるなら、そこも見ねばならん」

 

 声は低かった。怒りを隠した声ではなく、怒りだけで決めないために抑えている声だった。澪はその横顔を見て、領を見ている人間の表情だと思った。誰かを裁くためだけではない。町を見て、何が縛っていたのかを確かめるために行く顔だった。

 

 澪の胸の中に、昨日見た帳簿の重さが戻ってくる。通行料、荷抜き、橋守への指示、黒鎖商会の影。そのどれも腹立たしい。けれど、その裏に人質や脅しがあるのなら、怒りの向け方を間違えてはいけない。澪はそう考えて、無意識に収納の中の販売品ではなく、押収物の区画へ意識を向けかけた。今は違う、と自分で止める。これから行くのは、裁きの紙を読む場ではなく、町を見る場だ。

 

「石場町を見てから裁定する。紙だけで済ませる話ではない」

 

 アルベルトは書状を畳んだ。紙が重く音を立てるわけではないのに、澪にはその音が部屋の中に残ったように感じられた。控えていた使用人たちも、余計な声を出さない。領主館の静けさは、ただ静かなのではなく、判断の邪魔をしないために整えられているようだった。

 

 真壁は余計な説明を挟まなかった。

 

「人数は足ります。参りましょう」

 

 それだけで十分だった。真壁の言葉は短いが、必要な線だけは外さない。四人で行ける。石場町へ戻れる。現地で判断できる。澪はその短さに、逆に落ち着きを感じた。

 

 ヴァルトを見ると、彼は領主館の静かな空気に少し緊張していた。背筋がいつもよりわずかに伸び、手元の帳面を押さえる指も硬い。けれど、荷の区分を確認する手は止めていない。石場町向けの品、販売棚、補充用の箱。魔術院の人間だった彼が、今は行商人として持っていく品を確認している。その変化が、澪には少し頼もしく見えた。

 

 真壁、澪、ヴァルト、アルベルト。

 

 四人が並ぶと、部屋の空気がさらに細く張った。使用人の一人が思わず息を止めた気配がする。澪は自分の足元を見た。磨かれた床に映る靴先は、石場町へ向かうには少しきれいすぎる。次に立つ場所では、すぐ白い石粉をかぶるだろう。

 

 真壁が一歩前へ出た。

 

 領主館の磨かれた床、朝の光を受ける窓、壁際の地図、控えていた使用人たちの視線。そのすべてが一瞬、薄い幕の向こうへ遠ざかる。澪は胸の奥で、リュシアから受け取った荷の重みと、アルベルトの畳んだ書状の重みを同時に感じた。

 

 次に足の下へ戻ってきたのは、白い石粉を含んだ石場町の広場だった。

 

 

 

 石場町の朝は、領都よりも乾いていた。

 

 転移の感覚が足元から抜けると、最初に喉へ触れたのは白い石粉の匂いだった。採石場の斜面は朝日を受けて淡く光り、削られた岩肌が町全体を白く照らしている。城壁の影は広場の端を斜めに切り、まだ低い太陽のせいで、石畳の凹凸までくっきり見えた。

 

 旧計量所の方には警備兵が立っている。槍の穂先は動かないが、握る手は硬い。戸口からこちらをうかがう職人たちの顔も、昨日とは少し違っていた。騒ぎが終わった町の顔ではない。何かが正されるかもしれないと期待しながら、その期待がまた裏切られることを恐れている顔だった。

 

 澪は広場を見渡した。

 

 昨日、真壁が拠点として定めた場所だ。石粉をかぶった石畳の上に、針と紐と手袋と石鹸を並べる。商品を置く場所はある。人が立つ場所もある。けれど、町の空気はまだ硬い。

 

 靴底が石粉を踏み、かすかに白くなる。息を吸うと、喉の奥に乾いた粉の感触が残った。領都のパンの匂いとはまるで違う。ここでは、人の仕事の匂いまで石に染みているようだった。

 

 その中で、真壁が足を止めた。

 

 大きく身構えたわけではない。肩も動かない。ただ、進むはずだった一歩が止まり、視線が城壁の外へ流れた。その変化を、澪は見逃さなかった。

 

 ヴァルトもすぐに顔を上げる。彼の目は広場ではなく、空気の端を追っている。商品でも人でもない。見えない線を読む時の目だった。アルベルトも、城壁の外へ目を向けた。以前同じようなざわつきを経験した者の顔だった。

 

「似ているな」

 

 アルベルトが短く言った。

 

 その一言に、澪は前のスタンピードを思い出した。まだ相手の姿が見える前に、町全体が先に硬くなる感じ。人の声が少し低くなり、犬が落ち着かず、風の向きまで気になるようになる。石場町の広場は静かなのに、静けさそのものが薄くざわついていた。

 

 ヴァルトは、境界を見る人間の顔をしていた。瞳の焦点が、人や建物より少し奥にある。目の前の石畳ではなく、その上を流れる薄い魔力の癖を追っているのだと、澪にも分かった。

 

「……何かが外へ流れています」

 

 ヴァルトの声は抑えられていた。断定ではない。けれど、ただの不安でもない。魔術師として、感じたものをまだ言葉に置き換えきれていない声だった。

 

 澪は身構えた。広場に向いていた意識が、周囲の気配へ広がる。だが、真壁はすぐに市を止めるとは言わなかった。旧計量所の方を見て、警備兵の位置を見て、最後に広場へ視線を戻す。

 

「警戒は上げる。だが、棚は出す」

 

 その判断は短かった。

 

 澪はうなずいた。胸の奥の冷たさは消えない。それでも、ここへ来た理由は変わらない。石場町の人たちは、まだ戸口からこちらを見ている。棚を出さなければ、誰の手も動かない。

 

 澪は白い広場をもう一度見た。そこは、これから店になる場所だった。

 

 

 

 レオンハルトは旧計量所の近くにいた。

 

 旧計量所の白い壁には、昨日開け放たれた扉の跡がまだ残っているように見えた。入口の左右には警備兵が立ち、押収品を運び出した車輪の跡が石粉の上に薄く残っている。朝の光は明るいのに、その一角だけはまだ夜の緊張を引きずっていた。

 

 レオンハルトの外套の肩にも、細かな石粉がついていた。昨夜からほとんど休んでいないのだろう。目の下には薄い疲れがあり、髪も少し乱れている。けれど、警備隊長と話している声は落ちていない。眠気ではなく、必要なことを一つも落とさないために張っている目だった。

 

 彼はアルベルトの姿を見ると、すぐに姿勢を正した。

 

「旧計量所の封鎖は継続中です。ロッホ・ダインは詰所で拘束。押収品は記録係の管理下に置いております。警備隊内通者の身柄も分けました」

 

 報告は短く、無駄がなかった。澪は、レオンハルトの言葉が一つずつ石を置くように積まれていくのを感じた。封鎖、拘束、管理、分離。昨日の混乱を、領主家の手続きとして町の中へ戻している。

 

 アルベルトは頷き、広場を見た。

 

「市は開け。警備は外へ広げろ」

 

「承知しました」

 

 レオンハルトの返事は早かった。アルベルトの命が落ちると同時に、警備隊長へ目で指示が飛ぶ。町門、採石場側、森側、灰橋町方面の道。兵たちが散っていく。槍の石突きが石畳を打ち、弓を持つ兵が城壁へ向かう。澪はその音を聞きながら、これが押入商会だけの市ではないのだと改めて思った。領主家が町を守り、警備隊が道を見る。その中で、押入商会は棚を出す。

 

 真壁はレオンハルトの横へ寄り、短く言った。

 

「町の外も見ておき給え。内だけの話ではなさそうだ」

 

 レオンハルトは問い返しかけたが、真壁の目を見て言葉を飲んだ。昨日の真壁の動きと、今日の空気。それだけで、軽く扱う話ではないと判断したのだろう。レオンハルトの視線が城壁の外へ一度走り、それから警備隊長へ戻った。

 

 澪は、広場の中央へ向かった。

 

 そこは昨日、石粉に覆われたただの空き地だった。職人たちが遠巻きに見て、警備兵が行き来し、押収の話がまだ空気に残っていた場所だ。今日は、そこに棚を出す。そう思うと、広場が急に広く感じられた。人が来る場所は広い。人が来ない場所は、もっと広い。

 

 真壁が収納から棚を出した。

 

 木枠の棚が、折り畳まれていた形からすぐに立ち上がる。商品箱が位置につき、大きめの札が前へ出る。荷車補修、袋と紐、衣類と手袋、工具箱まわり、石粉対策、応急補修、小分け石鹸、簡易食。リュシアに言われた通り、入口側には安くてすぐ使えるものを置いた。

 

 棚が立つと、広場の見え方が変わった。

 

 ただの空き地ではなく、客が立つ場所になった。石粉をかぶった町の真ん中に、木の棚と布袋と札の文字が並ぶ。白い景色の中で、麻紐の薄茶色や手袋の生成り、石鹸包みの紙の色が小さく浮かび上がる。澪はそれを見て、胸の奥が少しだけ熱くなった。昨日まで止められていたものが、ほんの少しでも前へ動くかもしれない。

 

 町の職人たちは、最初は遠巻きに見ていた。

 

 警備兵がいる。領主家の者がいる。昨日は押収と捕縛があった。その同じ広場に棚が出たのだから、戸惑うのは当然だった。何人かは戸口の柱に手をかけたまま動かず、何人かは隣の者と小声で話している。買いに来たい顔と、近づいてよいのか分からない顔が混ざっていた。

 

 澪は無理に呼び込まなかった。

 

 リュシアなら、ここで声を張るだろうか。いや、たぶん最初の一人が来るまで、品の前を整えながら待つ。澪はそう考え、手袋の箱の向きを少し直した。札が正面を向くようにし、石鹸の小袋を取りやすい位置へ寄せる。声ではなく、棚の方から「ここにある」と伝える。

 

 最初に近づいたのは、指先の白い石工だった。

 

 背は高くないが、肩と腕が厚い。袖は何度も洗われた布で、肘のあたりに白い粉が染み込んでいる。彼は作業手袋の箱を見て、ひどく慎重に一つを取った。親指の付け根を何度も押し、縫い目を確かめる。その手つきは、値段を疑っているというより、すぐ破れないかを見ている手だった。

 

「それは、手首の布巻きと一緒に使うと石粉が入りにくいです」

 

 澪が声をかけると、男は少し驚いた顔をした。売りつけられると思ったのではなく、自分の手を見られていたことに驚いたのだろう。澪はその手の甲に細かなひびがあるのを見て、石鹸の小袋も横へ出した。

 

「水で洗う時、これも少し使ってください。手荒れがひどい人は、布を替えるだけでも違うと思います」

 

 言いながら、澪は自分の声が少しだけ柔らかくなったのを感じた。相手は客だが、それ以前に、今日も石を扱う人だ。必要なのは立派な売り文句ではなく、仕事に戻れるだけの具体的な助けなのだと思った。

 

 男は黙って頷き、硬貨を置いた。硬貨が木箱の上で小さく鳴る。

 

 たったそれだけで、後ろにいた職人たちの足が一歩近づいた。

 

 澪は、その一歩の重さを感じた。棚に近づくのは、品物を買うためだけではない。昨日の騒ぎの後で、この広場へもう一度足を踏み入れるということでもある。

 

 荷運びの男は荷締め用の平紐を見ていた。袖口に油がつき、腰の縄は古く毛羽立っている。顔には疲れがあり、目は紐の丈夫さと値段を同時に測っていた。

 

「荷車ならこちらです。袋の口なら、この紐の方が結びやすいです」

 

 澪が示すと、男は迷っていた二つの箱を見比べ、平紐の方を選んだ。受け取る時、彼の親指が縄で擦れて赤くなっているのが見えた。澪は、次に来る時は予備の布巻きをもっと前に置いた方がいいかもしれないと思った。

 

 袋の口が裂けた女は太針を手に取った。肩に掛けた袋の端がほつれ、片手で押さえながら品を見ている。ヴァルトが横から、糸の太さと針穴の大きさを説明した。

 

「こちらは袋の口を寄せる時に向きます。布を重ねるなら、糸は一段太い方を」

 

 説明はまだ少し硬い。けれど、昨日より商人の声に近かった。魔術式の解説ではなく、相手の手元を見て言葉を選ぼうとしている。澪はそれに気づき、少しだけ嬉しくなった。ヴァルトはただ驚いているだけではない。見て、分けて、言葉を変えようとしている。

 

 広場の空気が、ほんの少し緩んだ。

 

 硬貨の音。布袋を持ち替える音。手袋をはめてみる指の動き。遠巻きにしていた職人たちが、棚の前の品物を見て、少しずつ近づいてくる。警備兵のいる広場が、ただ警戒の場所ではなく、仕事へ戻るための場所に変わり始めていた。

 

 澪はその変化を感じた。町がいきなり元に戻るわけではない。それでも、止まっていた手が品物を取る。修理するために、今日の仕事へ戻るために、硬貨を置く。その動きだけで、町は少し動く。

 

 だからこそ、ヴァルトの顔が変わった時、澪はすぐ気づいた。

 

 さっきまで客の手を見ていたヴァルトの視線が、棚の向こうへ滑っていた。帳面へ向かっていた指が止まり、結界の端を見る時のように、目だけが細くなる。広場の緩みの中で、そこだけ空気が張り直されたように見えた。

 

 澪の胸の奥で、先ほど転移直後に感じた冷たさが戻ってきた。

 

 

 

 ヴァルトは、帳面へ数量を書き込む手を止めていた。

 

 羽ペンの先が紙に触れたまま、インクだけが小さく滲んでいる。さっきまで袋用の太針と糸の数を丁寧に書き分けていた指が、ぴたりと動かない。澪はその手を見て、ただ考え込んでいるのではないと分かった。

 

 ヴァルトの視線は棚ではなく、広場の端へ向いている。

 

 客の流れも、警備隊の位置も見ている。けれど彼が追っているのは、それらの間にある見えない線だった。昨日までのヴァルトなら、商品と客と帳面を順番に見ていたはずだ。今の彼は、広場の空気そのものを薄く剥がして、その下を流れるものを読もうとしている。

 

 石粉を含んだ風が、棚の札を小さく揺らした。手袋を選んでいた職人が顔を上げる。広場の空気はまだ市の形を保っているのに、ヴァルトの周囲だけ、音が一段遠くなったように見えた。

 

「真壁殿。これは、市のざわめきではありません」

 

 その声は静かだった。だが、商人の声ではない。王都魔術院の境界課にいた人間が、見えない境目に指をかけた時の声だった。

 

 澪の背中が冷えた。

 

「出どころは」

 

 真壁は即座に返す。声に大きな変化はない。それでも、先ほどまで棚全体を見ていた目が、旧計量所側へ細く動いた。売り場を見る目から、危険の線を見る目へ切り替わる。その早さに、澪は息を詰める。

 

 ヴァルトは広場の端に置かれていた返還予定品を見た。石臼の部材のようなもの、砥石台、石材の山。石場町では見慣れた形ばかりで、紛れれば誰も気づかない。実用品に見える。町の仕事に戻すための物に見える。だからこそ、そこに悪意が混じっていると思うと、澪は胸の奥が重くなった。

 

 ヴァルトの眉がわずかに寄る。

 

 彼の中で、商人としての棚と、魔術師としての境界が重なっているのだろう。市が動き出した喜びと、その市を利用された嫌悪が、短い沈黙の中に見えた。ヴァルトはもう、ただの観察者ではなかった。ここで商品を渡した人たちの顔を見ている。だから、魔力の流れが棚の外へ伸びていることを、他人事として扱えない。

 

「これです」

 

 言い終える前に、ヴァルトは手をかざした。

 

「収納」

 

 石臼部材の一部が消えた。

 

 澪は一瞬、息を呑んだ。危険かどうかを確かめる前に収納したのだと分かった。けれど、ヴァルトの顔に迷いはない。見つけたから収納した。収納したから、中で見る。それができる人なのだ。

 

 その即断に、澪はヴァルトの元の職を思い出した。王都魔術院境界課の国家魔術師。危険なものを外へ漏らさず、境界の内側へ閉じ、そこで解析する。行商人としてはまだ学んでいる途中でも、その手つきだけは専門家のものだった。

 

 周囲の職人たちは、何が起きたのか分からずに顔を見合わせている。棚の前にいた男が硬貨を握ったまま動きを止め、警備兵が一歩こちらへ寄る。けれど、真壁もレオンハルトも制止しない。ヴァルトの行動が、今は最短なのだと判断している。

 

 ヴァルトは目を伏せ、収納内を鑑定した。

 

 外から見れば、ほんの数呼吸の沈黙だった。だが澪には、その沈黙が長く感じられた。ヴァルトの視線は下がっているのに、意識だけが別の場所へ潜っている。収納の内側で、形と魔力と偽装を一つずつ剥がしているのだろう。

 

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 魔物寄せの誘引石

 

 状態:稼働中

 偽装:石臼部材

 効果:獣型魔物、ゴブリン系魔物への誘引

 範囲:町外縁へ拡散中

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「魔物寄せです。すでに稼働していました」

 

 ヴァルトの声が低くなった。

 

 低くなったのは、恐れだけではない。怒りもあった。澪にはそう聞こえた。市を開き、職人が手袋を選び、荷運びが紐を買い、町がようやく動き出した。その瞬間を、誰かが魔物を呼ぶ合図に変えていた。

 

 市を開いたからだ。

 

 人が集まり、魔力が動き、町がもう一度動き出した。その瞬間を狙っていた。押収されても、町が動けばまた止められるように仕込まれていたのだ。

 

 澪は棚の前に残っている職人たちを見た。まだ事情を知らない顔。何か悪いことが起きたとだけ感じている顔。さっき硬貨を置いた石工も、作業手袋を握ったままこちらを見ている。

 

 この人たちを、また止めるための魔道具だった。

 

 そう思った瞬間、澪の中で、恐怖より先に怒りが立った。だが怒鳴る時間はない。ヴァルトはまだ収納内の誘引石を抑えている。真壁はすでに町の外へ目を向けている。次に必要なのは、怒りの言葉ではなく、動くための確認だった。

 

 

 

 真壁は町の外へ目を向けた。

 

 広場の喧騒が、少し遠くなる。棚の前で品物を選んでいた人たちの声、硬貨の音、警備兵の足音。そのすべての向こうに、城壁の外へ続く乾いた風があった。

 

「収めたか」

 

「はい。ですが、呼び声は残っています」

 

 ヴァルトの返事は硬かった。収納したことで魔道具そのものは手の内に入った。けれど、すでに外へ流れたものまでは戻せない。そのことを、彼は誰よりも分かっている声だった。

 

「ならば、すでに呼んだものは止まらん」

 

 その言葉で、澪は地図を開いた。

 

 赤が出た。

 

 三つ。

 

 森側。採石場外れ。灰橋町方面の道。

 

 それまで見えていなかった赤が、まるで水面に染み出すように現れていた。敵が突然生まれたのではない。呼び声に引かれ、町へ近づいてきたものが、ようやく地図の範囲へ入ったのだ。

 

 澪の指先が冷える。

 

 さっきまで自分は、同じ手で手袋を渡し、紐を示し、石鹸を勧めていた。その手が今は地図の赤を追っている。商売の棚と、魔物の反応。その切り替わりがあまりに急で、胸の奥が遅れて痛んだ。

 

 真壁はアルベルトへ向き直った。

 

「アルベルト殿。市を畳む。外から来る」

 

 アルベルトは一瞬だけ広場を見た。商品を手にした職人、硬貨を握った男、まだ棚を見ている女。戸惑っている者、事情が分からず固まっている者、子どもを建物の中へ押し戻そうとしている者。その全員を見てから、声を落とした。

 

「レオンハルト、警備隊を町門へ。職人は広場奥へ下げろ」

 

「はっ」

 

 レオンハルトが動くと同時に、警備隊も走った。槍の石突きが石畳を打ち、城壁へ向かう兵の足音が広場を横切る。声が広場を渡り、職人たちが顔色を変えた。さっきまで商品を選んでいた空気が、逃げ道を探す空気へ変わっていく。

 

 澪は、真壁の合図を待たなかった。

 

 客の足元にある箱から収納する。針類。壊れやすい品。高価な金具。棚脚。人がつまずけば危ないものから消していく。手袋の箱を抱えた男が一歩下がる前に、その横の針箱を消す。袋用の太針を手にしていた女が驚いて固まったので、澪は短く言った。

 

「広場の奥へ。品は大丈夫です」

 

 自分の声が思ったより落ち着いていたので、澪は少しだけ救われた。心臓は速い。けれど手は動く。棚を畳むだけではない。通路を空ける。針を消す。箱を消す。人が逃げる線を作る。

 

 さっきまで客を呼ぶために置いた棚が、今は逃げる線を邪魔する。店を消すのではない。人が逃げるための空間へ戻すのだ。

 

 木箱が一つ消えるたび、広場の石畳が見えていく。白い石粉の上に残った足跡が、あちこちへ乱れていた。澪はその足跡を見て、次にどこを空けるべきかを決めた。人はまっすぐ逃げない。振り返る。迷う。荷物を取りに戻ろうとする。だから、足元に危ないものを残してはいけない。

 

 ヴァルトは広場の端に結界を張った。

 

 押し返す壁ではなく、流れを分ける薄い境界だった。町門側へ走ろうとした職人たちの足が、自然に広場奥へ向く。警備兵の走る線と、避難する人の線が混ざらない。ヴァルトの顔は青ざめていたが、目は揺れていなかった。魔術院で学んだ境界を、今は人の流れに使っているのだと澪は分かった。

 

 アルベルトは広場の中央から指示を飛ばしている。レオンハルトは町門へ走る兵を捌きながら、弓兵を城壁へ上げる。領主家の指揮と、警備隊の動きと、押入商会の収納が、同じ広場の上で別々の線を作っていた。

 

 澪は最後の針箱を収納し、もう一度地図を見た。

 

 赤い群体が三つ。

 

 一つは森側から。狼の群れ。

 

 一つは採石場外れから。ゴブリンの群れ。

 

 もう一つは灰橋町方面の道を回り込む混成の群れ。

 

 赤はただの点ではなかった。まとまって、動いている。町へ向かう意志を持つように、線を作っている。澪は喉の奥が乾くのを感じた。石粉のせいだけではない。

 

「赤い群体が三つ。中心があります」

 

 声が、自分でも少し硬く聞こえた。地図に見えているものを、言葉にして外へ出した瞬間、危機が形を持つ。

 

 真壁は地図ではなく、城壁を見上げていた。

 

「中心ではない。町へ向かう線を崩す」

 

 その言葉で、澪は地図の赤の見方を変えた。倒す数ではない。消す中心ではない。町へ伸びてくる線を、どこで折るか。

 

 城壁の上なら、森側も採石場外れも、灰橋町方面の道も見える。

 

 澪は収納の中に収めた棚を一瞬だけ意識した。さっきまで町を動かすために出した棚。今は町を守るためにしまった棚。

 

 次に動かすのは、レールガンだった。

 

 

 

 城壁の上は、風が強かった。

 

 白い石粉が低く舞い、遠くの森の縁が朝の光に霞んでいる。採石場外れの斜面は白く、灰橋町方面へ伸びる道は、曲がりながら低地へ続いていた。澪はその地形を見てから、地図の赤をもう一度確認した。

 

 見えるものと、地図に出るものは同じ形ではない。

 

 けれど、森の縁、白い斜面、道の曲がりを目印にすれば、町へ向かう線は見える。

 

 真壁は城壁上にレールガンを据えた。手持ちではない。石壁に固定台を置き、射線を外へ向ける。警備兵が慌てて下がり、レオンハルトが人払いの位置へ入った。

 

「地図の赤と、見えている地形を重ね給え。撃つのは群れではない。町へ向かう線だ」

 

「はい」

 

 澪は返事をし、息を整えた。手の中が少し冷たい。前にも撃ったことはある。だが、慣れるものではない。慣れてはいけない気もする。

 

 真壁はレオンハルトへ声をかけた。

 

「レオンハルト殿、前に使ったあれを澪君が使う。三発しか撃てぬが、先制攻撃だ。念のため護衛をお願いする」

 

 レオンハルトの表情がわずかに変わった。初見の驚きではない。知っているからこそ、危険を測る顔だった。

 

「真壁殿は?」

 

「上空から残敵掃討だ」

 

「上空?」

 

 レオンハルトの問いに、真壁は答えを足さなかった。澪は横目でそれを見て、あとで絶対に説明を求められると思った。

 

 それでも、真壁がレオンハルトに護衛を頼んだ理由は、澪にも少し分かった。レオンハルトの外套には昨日からの石粉が残り、目は冴えていても、頬には疲れが薄く出ている。町中を走り回らせるより、城壁上で澪を守り、射線を管理する役に置く。その方が確実で、無駄がない。

 

 真壁は、そういうところを見落とさない。

 

 アルベルトは城壁下から上を見上げていた。レールガンは初めて見るはずだ。それでも、レオンハルトが迷わず澪の護衛位置へ入ったことで、追及より先に指揮を選んだ。

 

「レオンハルト、澪殿を守れ。射線に人を入れるな」

 

「承知しました」

 

 真壁はそれを確認すると、もうレールガンのそばには残らなかった。城壁の下へ視線を走らせ、ワッパを出す場所と上昇する線を見ている。次の手に移っているのだと分かり、澪は胸の中で一つ息を飲んだ。

 

 ここから先、レールガンを動かすのは自分だ。

 

 ヴァルトは、城壁上に据えられたレールガンを見つめていた。

 

「二〇二六年の日本では、個人商会がこのような固定砲を扱うのですか」

 

「扱いません」

 

 澪は地図から目を離さずに即答した。

 

「ですが、いま城壁に据えられています」

 

「据えられてますけど、普通じゃないです」

 

 ヴァルトは納得したような、していないような顔をした。澪は説明したかったが、赤い群体はもう動いている。森側の赤が、町へ向かう線を太くしていた。

 

 真壁の声が短く飛んだ。

 

「澪君」

 

「わかりましたよ」

 

 返事は、思ったより落ち着いて出た。怖いまま、手順を守る。それでいい。

 

 一発目。

 

 森側の狼群。赤い群体の中心ではなく、町へ伸びる線の首。澪は森の縁と地図の赤を重ね、引き金を絞った。

 

 城壁の石が低く震えた。遠くで土煙が跳ね、森側の赤い塊が歪む。

 

 撃ち終えた瞬間、澪はレールガンに手を置いた。

 

「収納」

 

 固定台ごと消える。重さは手に残らないのに、消したものの危うさだけが胸に残った。レオンハルトがすぐに前へ出て、城壁上の兵へ短く指示を飛ばす。

 

「道を空けろ。澪殿を通す」

 

 警備兵たちが壁際へ下がった。澪はレオンハルトに守られながら城壁の上を走る。石粉を含んだ風が頬に当たり、足元の石が硬く鳴った。城壁の上を移動するだけなのに、下の広場で避難する職人たちの声や、町門へ向かう兵の足音が遠く重なって聞こえる。

 

 採石場側の角塔に着くと、澪は足を止めた。

 

「出します」

 

 レオンハルトが周囲を見て、射線上の兵を下げる。澪は収納からレールガンと固定台を出した。石壁に台が噛み、砲身が白い斜面へ向く。自分で出して、自分で据える。その手順があるだけで、真壁にすべてを任せていた時とは違う緊張があった。

 

 二発目。

 

 採石場外れ。白い斜面に沿って伸びてくるゴブリンの赤を、横から割る一点。澪は石粉の向こうに揺れる赤を地図で確かめ、現実の斜面と重ねた。

 

 引き金を絞る。

 

 低い衝撃が石壁を伝い、足の裏から膝へ抜けた。遠くの白い斜面で土煙が裂け、赤い群れの形が乱れる。

 

 澪は息を吐く前に、また収納した。

 

 今度は灰橋町方面の道が見える場所へ移る。門楼脇の壁は狭く、警備兵が二人並ぶだけでいっぱいになる。レオンハルトは疲れを見せずに先へ立ち、兵を動かし、澪の通る幅を作った。その背中を見て、澪は余計な言葉をかけなかった。今は心配するより、撃つことが先だった。

 

 門楼脇に固定台を出す。

 

 灰橋町方面の道は、城壁から見ると細く曲がっていた。町へ近づく前に道が折れる。その折れ目に、赤い流れが集まりかけている。

 

 三発目。

 

 曲がり角で町へ向かう前の流れ。澪は地図の赤と、朝の光を受けた道の白さを重ねた。指先が震えそうになる。だが、ここで外せば、あの赤は町へ近づく。

 

 撃つ。

 

 衝撃が抜け、遠くで道端の土が跳ねた。赤い流れが大きく崩れ、一本だった線がほどけるように乱れる。

 

 撃ち終えたあと、澪の手は少し震えていた。

 

 レオンハルトは何も言わなかった。励ましもしない。ただ、澪の横で城壁上の周囲を見ている。その沈黙がありがたかった。言葉をかけられたら、今の自分の手の震えを意識しすぎてしまいそうだった。

 

 城壁の下では、真壁がワッパの準備を終えようとしていた。浮き上がる奇妙な乗り物を見て、兵たちの視線が一瞬そちらへ吸われる。ヴァルトも呼ばれ、まだ理解しきれていない顔で城壁下へ向かっていた。

 

 澪はレールガンを収納し、城壁上に残った。

 

 自分の役目は終わっていない。赤い群体は崩れたが、消えたわけではない。澪は震える手を握り直し、地図と現地の景色を見続けた。

 

 

 

 城壁の石の上に、タイヤのない車体が浮く。車輪ではなく、地面からわずかに離れて、低い振動だけを残している。ヴァルトは一瞬、魔術式を探すように目を細めた。

 

「車輪のない二輪……いえ、浮遊式ですか。二〇二六年では移動具もここまで」

 

「違います。少なくとも私の知ってる日本では違います」

 

 澪は城壁上から、反射的に言った。これを放置すると、ヴァルトの中の現代日本がどんどんおかしな方向へ進む気がした。

 

 真壁が前席へ乗る。

 

「ヴァルト殿。後部シートに乗り給え」

 

 ヴァルトは後席へ手をかけながら、機関銃を見た。

 

「真壁殿。後席から、私がそれを扱うことは可能でしょうか」

 

「駄目だ」

 

 真壁の返事は早かった。

 

「横へ向ければ」

 

「私が前にいる。味方に撃たれたくない」

 

 ヴァルトは一拍置き、深く頷いた。

 

「……それは、もっともです」

 

「真壁さんでも、そこは怖いんですね」

 

 澪が言うと、真壁は当然のことのように返した。

 

「当然だ」

 

 その平然とした返事で、澪は少しだけ肩の力が抜けた。真壁にも怖いものはある。正確には、怖がるべき事故を怖がっている。誤射は、どれだけ腕があっても避けるべきものだ。

 

 真壁はヴァルトへ短く指示を続けた。

 

「ヴァルト殿、後ろでは境界を見給え。味方の射線、敵の進路、逃げる者の道。混ざれば事故になる」

 

「境界を、戦場の線として扱うのですね」

 

「そうだ。収納は邪魔なものを抜く。倒木、石、瓦礫、味方の足を止める死骸。抜けば動線が変わる」

 

「収納で、戦場の形を整える」

 

「撃つのは私がやる」

 

「そこは機関銃なんですね」

 

 澪の声に、真壁は短く答えた。

 

「適材適所だ」

 

 ヴァルトは、納得してよいのか一瞬迷った顔をした。収納の高度運用を教えられた直後、教えた本人は機関銃を構えている。だが、役割は明確だった。撃つ者、線を分ける者、邪魔なものを抜く者。混ざらなければ、戦場は扱える。

 

 ワッパが城壁上から浮き上がった。

 

 その瞬間から、澪は地図へ集中した。城壁上で赤の動きを追い、レオンハルトへ必要な情報を伝えることだった。

 

 

 

 ワッパは城壁を越え、森側へ滑るように出た。

 

 ヴァルトは後席で結界を張った。風圧を受け流し、飛んでくる小石を弾き、真壁の射線を邪魔しないよう薄く形を整える。上空から見る石場町は白く、広場の人影は建物側へ下がっていた。

 

 真壁が収納から袋を出した。

 

 強い刺激臭が、後席のヴァルトの鼻を刺す。

 

「真壁殿、それは食材では」

 

「犬に効く。狼にも効く」

 

「食材を、戦場で」

 

「上野でまとめて仕入れた」

 

「仕入れ先の問題ではないように思います」

 

 ヴァルトは真面目に返しながらも、袋から漏れる匂いで用途は理解し始めていた。嗅覚を潰す。狼型の魔物には理屈が通る。理屈が通るからこそ、分類に困る。食材なのか、妨害材なのか、二〇二六年の一般戦術なのか。

 

 真壁は粉を収納内で水分にエキスをまとわせ、赤みを帯びた細かなミストへ変える。

 

「今、収納内で混合しましたね」

 

「粉では流れる」

 

「香辛料を霧状にして散布する運用は、二〇二六年では一般的なのですか」

 

「知らん」

 

「知らんのですか」

 

「効けばよい」

 

 ヴァルトは、聞く相手を間違えたのだと理解した。理解したうえで、結界を広げる。町側へ戻る風を切り、味方側へ流れる線を閉じ、狼の進行線へだけ霧を置く。

 

 城壁上の澪には、遠くに赤い霧が広がるのが見えた。

 

 嫌な予感しかしない。

 

 けれど、地図の赤は森側でまだ町へ寄ろうとしている。口には出さず、澪はその動きを追った。

 

 先頭の狼が鼻先を跳ね上げた。

 

 遠目にも、群れの形が乱れるのが分かった。足を止めた個体に後続がぶつかり、別の個体が首を振って地面へ鼻をこすりつける。遠吠えではなく、短く詰まったような鳴き声が重なった。

 

 真壁の機関銃が短く鳴る。

 

 赤い群体の外縁が削れ、町へ向かっていた線が森側へ折れていく。

 

 澪は地図を見て、レオンハルトへ告げた。

 

「森側、崩れました。狼は逃げます」

 

 レオンハルトは頷き、城壁下の兵へ声を飛ばした。森側の警戒を緩めるのではなく、追いすぎないように。澪はその判断に少しほっとした。狼は逃げている。追い詰めて町の近くで暴れさせる方が危ない。

 

 だが、採石場外れの赤はまだ残っていた。

 

 

 

 

 ゴブリンは、狼ほど赤い霧に崩れなかった。

 

 鼻を押さえるような動きをする個体はいる。足を止めるものもいる。けれど群れ全体が逃げるほどではない。レールガンで中心を割られ、機関銃で進行線を削られても、岩陰や浅い溝に散り、低い姿勢のまま町外縁へ残っている。

 

 ワッパは城壁の外側を斜めに滑った。

 

 地面から離れているのに、ヴァルトの身体には地上の荒さが伝わってくる。採石場から吹く乾いた風が頬を打ち、白い石粉が薄い膜のように視界をかすめる。前席の真壁の背は、揺れる機体の上でもほとんどぶれない。片手でワッパを操り、もう片方の手で機関銃の向きを整えるその姿は、魔術師でも騎士でもなく、もっと別の規格で戦場を扱う人間のものだった。

 

 ヴァルトは後席で息を整えた。

 

 攻撃魔法を撃つ必要はない。そう言い聞かせても、指先には術式を組もうとする癖が残っている。魔術院にいた頃なら、敵影を見ればまず術式を選んだ。結界で囲うか、足止めするか、魔力を削るか。だが今、真壁に求められているのは、敵を倒すことではなかった。

 

 線を見る。

 

 真壁の射線。城壁上の弓兵の射線。逃げるゴブリンの線。町門へ向かう危ない線。風に流される赤い霧の薄い端。負傷した個体が倒れ込み、後続がそこへ引っかかる場所。そうしたものが混ざる前に分ける。

 

 ゴブリンが石を掴んだ。

 

 ヴァルトは反射で手をかざした。

 

「収納」

 

 ゴブリンの手の中から石が消えた。重さを失った腕が空を振り、勢い余った身体が前へ崩れる。次の個体が瓦礫を蹴り上げようとした瞬間、ヴァルトはその瓦礫も抜いた。城壁上から飛ぶ矢の線を塞ぎそうな木片を収納し、町門へ転がりそうな死骸を一時的に消す。

 

 一つ抜くたびに、地上の形が変わった。

 

 それは派手な魔術ではない。光もない。音もない。ただ、そこにあった邪魔なものが消え、通るはずだった線が曲がり、ぶつかるはずだったものがぶつからなくなる。ヴァルトはその変化を見て、喉の奥が乾くのを感じた。

 

 魔術院で扱った境界は、結界の内と外、封印の内と外だった。美しく、理論に沿い、紙の上で説明できる境界だった。今、彼がワッパの後席で分けているのは、もっと泥臭く、もっと実務的な線だった。味方が撃つ線。敵が走る線。町へ戻してはいけない線。人が逃げる線。死骸が足を止める線。

 

 収納は倉庫ではない。

 

 澪が押収品を扱った時にも、そう思った。だが今は、さらに別の意味で思い知らされている。収納は、戦場から不要な形を抜く手段にもなる。物を入れる場所ではなく、場そのものを整える手なのだ。

 

「収納で、戦場の形を整える……」

 

 自分で言った言葉が、今になって手の中に落ちてきた。

 

 真壁の機関銃がまた鳴る。乾いた連射音が白い斜面に跳ね、ゴブリンの進行線が削られていく。撃つ者は前にいる。線を分ける者は後ろにいる。混ざらなければ、危険でも扱える。ヴァルトはその理屈を理解したが、理解したからこそ、前席の男が機関銃を撃ちながらそれを平然と組み立てていることに、少しだけ頭が痛くなった。

 

 地上では、アルベルトが警備隊へ指示を出していた。

 

 城壁の下から見上げる彼の外套は、白い石粉をかぶって灰色にくすんでいる。剣に手をかけてはいるが、前へ出すぎない。兵を動かし、町門を閉じきらず、味方の出入りだけを残して守らせている。城壁上の弓兵は、レオンハルトの指示で射線をずらしながら残敵を狙っていた。

 

 職人たちは建物の奥へ下がっている。けれど戸口の影には、まだいくつもの顔があった。石粉で白くなった手が戸枠を握り、幼い子を後ろへ押しやる女がいる。さっきまで澪の棚で手袋を選んでいた石工も、店ではなく城壁の外を見ていた。

 

 ヴァルトは、その視線を背中で受けるような気がした。

 

 これは魔術院の演習ではない。失敗すれば、帳面の点数が下がるのではなく、町の戸口にいる人間の暮らしが壊れる。白い町を覆う石粉の匂いも、風に混じる赤い霧も、機関銃の硝煙も、すべてが同じ場所に重なっている。

 

 アルベルトは、レールガンも、ワッパも、赤い霧も見ている。

 

 それでも追及しない。

 

 不自然なものを不自然なまま飲み込み、今は町を守ることだけを選んでいる。ヴァルトはその判断を見て、侯爵子息という肩書きではなく、領を預かる者の顔をそこに見た。

 

 真壁がわずかに機体を傾けた。

 

「右だ、ヴァルト殿。石を抜き給え」

 

「はい」

 

 返事と同時に、ヴァルトは地上へ意識を落とした。浅い溝の脇で、数体のゴブリンが石を集めている。投げるためではない。積んで、足場にして、別の線へ抜けようとしている。

 

 ヴァルトは石をまとめて収納した。

 

 足場を失ったゴブリンたちが、白い粉を跳ね上げて崩れる。そこへ城壁上から矢が落ち、真壁の機関銃が外縁を削った。

 

 戦場の形が、また少し変わる。

 

 ヴァルトは奥歯を噛み、次の線を探した。

 

 

 

 ゴブリンの残りが、町外縁の岩陰に集まり直しかけた。

 

 澪の地図で、小さな赤い点がまた密になる。大きな群体ではない。けれど、薄く散ったはずの敵意が、岩陰と浅い溝を頼りにもう一度形を取り始めている。放置すれば再び町へ寄る。城壁の上を吹く風は冷たくないのに、澪の指先だけがすっと冷えた。

 

 城壁下では、警備兵がまだ走っている。門の内側には避難した職人たちの気配があり、戸口の影から外をうかがう顔も見えた。誰も声を上げない。その静けさが、まだ終わっていないことを澪に教えていた。

 

 ワッパ上で、真壁が収納から黒い筒状のものを取り出すのが見えた。

 

 距離がある。細部までは見えない。それでも、澪には嫌な予感だけがはっきり形になった。真壁があの場面で取り出すものが、ただの道具で済むはずがない。胸の奥で、聞き慣れた警戒音のようなものが鳴る。

 

 声は届かない。

 

 澪は問い詰める代わりに、地図の赤へ目を戻した。今、城壁上の自分にできるのは、赤い点の動きと町の線を見続けることだった。真壁を止めることではない。止めた方がいいのかもしれないと思う自分を、今は押さえるしかない。

 

 反応したのは、後席のヴァルトだった。

 

「真壁殿、それは」

 

「危険物だ」

 

「見れば分かります」

 

 ヴァルトの声には、ぎりぎりの理性が残っていた。驚きたい。聞きたい。なぜそれをワッパの上から出すのか、どうしてそんなものを持っているのか、そもそも何を基準に危険物を持ち歩いているのか。そういう問いが一度に喉元まで来ているはずなのに、彼はそれを言葉にしなかった。

 

「町側へ返すな。境界を切り給え」

 

 真壁の声は短い。説明ではなく、指示だった。

 

 ヴァルトは質問を飲み込んだ。

 

 後席で、彼の肩が一度だけ大きく上下する。次の瞬間には、魔術師の顔になっていた。爆風が町側へ戻る線を閉じる。破片が警備隊へ飛ぶ線を押さえる。逃げるゴブリンを町へ押し戻す流れを切る。境界は壁ではなく、流れの向きを変える刃のように、空気と土煙の通り道へ差し込まれていく。

 

 澪には、ヴァルトの魔術そのものは見えない。

 

 けれど、風の流れが変わったのは分かった。城壁へ向かっていた石粉の薄い帯が、途中で折れるように外へ流れた。レオンハルトがそれに気づき、城壁上の兵へさらに下がるよう手で示す。疲れの残る顔のまま、彼は一瞬も目を離していなかった。

 

 真壁が投下した。

 

 黒い筒が落ちる時間は、ひどく短かったはずだ。けれど澪には、その一瞬だけ周囲の音が遠くなったように感じた。城壁の石のざらつき、手のひらに残るレールガンの震え、遠くの岩陰に寄り集まる赤い点。その全部が、細い糸でつながって見える。

 

 低い爆発が、石場町の外で起きた。

 

 土と石粉が跳ね上がり、岩陰に集まりかけていた赤い点が一気に乱れる。音は遅れて胸へ来た。腹の奥を鈍く押されるような衝撃に、澪は思わず城壁の石へ手をついた。白い粉が掌につき、指の隙間へ入り込む。

 

 地図の赤が散った。

 

 いくつかはそこで消え、いくつかは町の外へ逃げる線に変わる。先ほどまで町へ向かっていた流れがほどけ、森側と低地側へばらばらに逃げていく。小さな赤はまだ残っている。けれど、それはもう群れではなかった。町へ向かう形ではなかった。

 

 澪はようやく、詰めていた息を吐いた。

 

 吐いた途端、膝の奥に少し力が抜けた。城壁の風が戻ってくる。白い石粉の匂い、遠くで警備兵が叫ぶ声、戸口の奥から聞こえる小さな泣き声。戦いの音が遠ざかるほど、町の音が少しずつ戻ってきた。

 

 今すぐ聞きたいことは山ほどある。

 

 赤い霧のこと。黒い筒のこと。ワッパのこと。ヴァルトが何を理解して、何を誤解したのか。真壁がどこまでを当然の道具として扱っているのか。問いただしたい言葉は胸の中で渋滞していたが、澪はそれをすぐには出さなかった。

 

 城壁下ではまだ警備兵が走り、職人たちは避難したままだ。

 

 レオンハルトが外縁確認の兵を送り、アルベルトが町門の内側で報告を受けている。棚を出していた広場は空いたままで、さっきまで商品を手にしていた人たちは、建物の陰からこちらを見ている。町は守られた。けれど、まだ戻ってはいない。

 

 戦いが終わっただけで、町はまだ戻っていない。

 

 澪は収納の中にしまった棚を思い出した。針も、紐も、手袋も、石鹸も、壊れてはいない。出せばまた店になる。けれど、その前に怪我人を見なければならない。外に残った危険を確かめなければならない。

 

 地図の赤が、さらに薄くなっていく。

 

 澪は城壁の石から手を離し、白くなった掌を見た。震えはまだ残っている。それでも、次にすることは分かっていた。

 

 

 

 ワッパが城壁上へ戻ってきた。

 

 浮いていた車体が風を押し下げ、石壁に積もった白い粉が薄く舞った。車輪が触れる音はない。低く沈んだ機体は、石の上にかすかな振動だけを残して止まる。真壁が前席から降り、ヴァルトが後席で結界を解いた。

 

 ヴァルトはひどく真面目な顔をしていた。

 

 戦いの疲れというより、頭の中で必死に棚を作っている顔だった。ワッパ、機関銃、香辛料ミスト、黒い危険物。今見たものを、魔術院の知識と、行商人としての実地と、転生前の日本の記憶のどこかへ分類しようとしている。眉間に寄った皺が深く、口元は納得しかけているのに、目だけがまだ納得していない。

 

 たぶん、かなり間違った棚に入っている。

 

 澪はそう思ったが、今は言わなかった。言えば説明が始まる。説明が始まれば、きっと別の説明が必要になる。城壁の下ではまだ兵が走り、避難した職人たちが戸口の陰からこちらを見ていた。今は、二〇二六年の日本について誤解を正す時間ではない。

 

 澪は地図へ目を落とした。

 

 大きな赤い群体は消えている。小さな点はまだ残っているが、町へ向かう流れではなかった。森側へ逃げていくもの、低地へ散るもの、岩陰で動きを止めたまま消えていくもの。赤の密度がほどけていくたびに、澪の胸の奥で固まっていた息も少しずつほどけていく。

 

 狼の群れは森へ逃げ帰り、ゴブリンは町外縁で形を保てなくなっていた。灰橋町方面から回り込もうとしていた混成の群れも、町へ向かう線を失って散っている。警備隊が外縁確認へ出て、レオンハルトが兵を戻しすぎないよう城壁下で指示を飛ばしていた。疲れているはずなのに、その声はまだ乱れない。

 

 アルベルトは城壁上のレールガンがあった場所を見て、次にワッパを見た。赤い霧の残りが風に薄まり、遠くの爆発跡からは白い石粉がまだ上がっている。彼の表情は、ただ驚いているだけではなかった。領主家の者として、今見た力をどう扱い、誰にどう説明し、どこまで町に見せるべきかを考えている顔だった。

 

 レオンハルトも、何を聞くべきか分かっている顔をしていた。レールガンは知っている。だが、今日見たものはそれだけではない。空を滑るワッパも、狼を乱した赤い霧も、町の外で土を跳ね上げた黒い危険物も、領内の報告書にそのまま書けば読む者の手が止まるものばかりだった。

 

 アルベルトが真壁を見た。

 

「真壁殿。説明は後ほど聞く」

 

 その声は穏やかだったが、聞かずに済ませるつもりの声ではなかった。いま追及しないだけだ。澪にもそれは分かる。

 

「承知した」

 

 真壁は短く答えた。逃げもせず、広げもせず、ただ受けた。いつものように、必要な分だけを言葉にする。その横顔を見て、澪は絶対に長い説明になると思った。しかも、おそらく説明しても、さらに質問が増える種類のものだ。

 

 ヴァルトの理解も確認しなければならない。

 

 二〇二六年の日本が、個人商会で固定砲を扱い、浮遊式二輪が普通に走り、香辛料を霧状にして戦場へ撒く世界だと思われては困る。困るのだが、ヴァルトはかなり真剣にそれを現代技術として受け止めかけている。澪はその横顔を見て、説明の順番を考えただけで少し頭が痛くなった。

 

 真壁は広場の方を見た。

 

「市を戻す前に、怪我人を見る」

 

 その一言で、澪の頭が切り替わった。

 

 広場には、さっきまで棚があった。今は何もない。石畳には避難の足跡が乱れ、白い石粉の上にいくつもの靴跡が重なっている。誰かが落とした小さな布切れが風に動き、棚を見ていた職人たちはまだ建物の奥にいる。店を閉じたのではない。守るために、一度しまっただけだ。

 

 収納の中には、棚も商品も無事に残っている。

 

 針も、紐も、手袋も、石鹸も、まだ出せる。リュシアが言っていた通り、入口側に置くもの、奥へ置くもの、用途別の札。その順番も崩れていない。澪は収納内の商品棚を確認し、震えの残る意識で札の向きをそろえ直した。荷車補修、袋と紐、衣類と手袋、石粉対策。文字がきちんと読めることに、少しだけ安心する。

 

 仕掛けた相手は、町が動き出す瞬間を狙って魔物を呼んだ。

 

 けれど、棚は失われていない。壊されてもいない。しまわれただけだ。澪はその事実を、胸の中でゆっくり確かめた。町の人たちの手に渡るはずだった品物は、まだここにある。石粉で荒れた手を守る手袋も、裂けた袋を縫う針も、荷車を応急で直す金具も、まだ出番を待っている。

 

 石場町は止まらなかった。

 

 澪は城壁の下へ目を向けた。まず怪我人を見る。次に外縁の安全を確認する。それから、必要なら説明を聞き、説明をし、最後にもう一度棚を出す。

 

 次に必要なのは、説明と後始末と、そしてもう一度、店を開けることだった。

 

 

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