押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第152話 戦のあとに残る仕事

 白い石粉の町に、赤い匂いが残っていた。

 

 風は採石場の斜面から降りてきた。白く削られた岩肌を撫で、城壁の角で少し乱れ、広場へ流れ込んでくる。そのたびに石畳の継ぎ目へ溜まった粉が薄く浮き、足元で小さな煙のように揺れた。いつもの石の匂いだけなら、きっとこの町の人たちは気にも留めないのだろう。けれど今は、そこへ赤い香辛料の刺激が混じっている。鼻の奥がちりつき、喉の奥に乾いた熱が残る。息を吸うたび、さっきまで町の外で起きていたことが、匂いになって戻ってくるようだった。

 

 遠く、町外れの地面は黒くめくれていた。爆発で跳ね上がった土と石粉が、道端に低く積もっている。そこだけ白い町の色が途切れ、焦げた土の斑点のように見えた。城壁の上では、弓兵がまだ弓を下ろしきれずに外を見ている。弦を緩めた者も、指先は矢筒の近くに残していた。槍を持つ警備兵の声は広場のあちこちで聞こえるが、勝った後の声ではない。誰かを呼ぶ声も、配置を確かめる声も、普段より一段低く、石壁に当たって重く落ちてくる。

 

 職人たちは広場の奥や戸口に固まっていた。石粉で白くなった顔の中で、目だけがまだ外を探している。さっきまで商品棚に伸びていた手は、胸元の布や腰の道具袋を握っていた。割れた爪、裂けた手袋、油のついた袖。そういうものが、戦いの後でも急に日常へ戻れるわけではないのだと、澪には分かった。

 

 澪は自分の手を見下ろした。

 

 レールガンを収納した時の感覚が、まだ掌に残っている気がした。重いものを出し、据え、撃ち、また収める。手順は間違えなかった。指も動いた。膝も崩れなかった。けれど指先の内側には、金属の冷たさと、撃った後の空気の押し返しが薄く張りついている。手は震えていない。それが安心なのか、少し遅れて怖くなることなのか、澪にはすぐ判断できなかった。

 

 掌を握ると、包帯を巻く前のような違和感があった。何かを守るために撃った手で、これから何を見るのか。遠くの赤い点を消すために使った手を、今度は目の前の誰かへ伸ばすことになるのだろう。その切り替えがうまくできるか、澪は一瞬だけ自分の呼吸を確かめた。

 

 その手の先に、薄い表示が浮かんだ。

 

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真壁 久忠

 

現在ジョブ:行商人 Lv10→11

状態:

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基礎能力値

 

体力:85→88

筋力:72→75

器用:95→98

知力:99→102

判断:109→112

精神:106→109

集中:105→108

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地図:8

移動加速:7→8

転移:3→4

錬金:8→9

交渉:9

収納:10

鑑定:10

商才:5

指揮:9

軍略:8

体術:5

威圧:5

異界適応:4

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取得スキルポイント:17

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 真壁は表示を見ても、眉一つ動かさなかった。

 

 戦闘の直後だというのに、息も乱れていないように見える。外套の裾には石粉がつき、肩口には赤い霧の名残のような細かな粉が薄く残っている。それでも、立ち方は変わらなかった。町外れの爆発跡も、城壁上の弓兵も、広場に残された職人たちも、真壁の視界の中では同時に並んでいるのだろう。

 

 ただ、転移の行だけで、目がわずかに止まった。

 

 澪には、その一拍が分かった。驚いたのではない。喜んだのでもない。真壁が何かを得た時の顔ではなく、使える条件が増えた時の顔だった。何人を動かせるか。どこへ戻れるか。どの拠点を経由できるか。誰を連れて行き、誰を残すべきか。数字は表示に出ているのに、真壁はもう表示そのものではなく、地図の上に人の配置を置いているようだった。

 

 町の外では、まだ警備兵が走っている。槍の穂先が白い粉を払うように揺れ、誰かが門の方へ合図を送った。広場には、膝を押さえて座る職人と、戸口から顔を出したまま動けない女がいる。荷車の陰には、泣き声を堪える子どももいた。

 

 そういうものが全部残っている場所で、真壁は表示を閉じた。

 

 強くなったことを確かめる時間ではない。使えるものが増えたなら、次に何を減らせるかを考える時間なのだと、澪はその横顔から受け取った。怪我人の痛み。町の混乱。警備隊の負担。灰橋町へ伸びる危険な線。真壁の視線は、それらを一つずつ秤に乗せているように見えた。

 

 澪の前にも表示が重なる。

 

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篠原 澪

 

現在ジョブ:行商人 Lv10→11

状態:

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基礎能力値

体力:54→57

筋力:37→40

器用:80→83

知力:93→96

判断:96→99

精神:96→99

集中:92→95

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移動加速:2→4

鑑定:10

収納:10

並行思考:4

防衛用収納展開:2→3

錬金:5→6

雷:8→9

射撃:1

火:1

収納内時間停止:芽あり→1

技能:彫金

技能:手仕事

統率個体識別:1

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取得スキルポイント:34→36

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 収納内時間停止。

 

 澪は、その一行で目を止めた。

 

 芽あり、ではない。数字になっている。たったそれだけの違いなのに、表示の中でそこだけ温度が変わったように見えた。収納の中に入れたものの時間を止められる。言葉にすれば簡単だ。けれど、澪の頭にはすぐに品物の名前が並ばなかった。先に浮かんだのは、傷む前に止められる薬液の瓶、暑さで悪くなる食べ物、証拠として形を保たなければならない血の付いた布、湿気を吸わせたくない書類、包帯を替えるまで清潔に残しておきたい布の束だった。

 

 便利、という言葉は遅れて来た。

 

 最初に来たのは、怖さに近い重さだった。止めることができるなら、止めておかなければならないものも増える。救えるものが増えるなら、見落としてはいけないものも増える。薬箱の中身だけではない。食品も、証拠品も、怪我人に使う布も、町の誰かが明日使う品も、全部が収納の中で別の扱いを求めてくる。

 

 澪は無意識に指を握った。さっきまで鉄と雷のために使っていた手が、今度は小瓶の蓋や包帯の端を選ぶ手になる。その切り替えを間違えたくなかった。

 

 広場の端で、男が咳き込んだ。

 

 一度、二度。乾いた咳ではなく、喉の奥に粉が貼りついたような音だった。男は膝に手をつき、白く汚れた袖で口元を押さえている。肩が上下するたび、外套についた石粉が少し落ちた。そばにいた職人が背をさすろうとして、血のにじんだ自分の指に気づき、手を止める。

 

 澪は表示を閉じた。

 

 収納の中で何を止められるかを考えるのは、あとでいい。今止めてはいけないのは、目の前の呼吸だった。便利になった力を眺めている時間より、その力をどこへ向けるかを決める方が先だった。

 

 澪は薬箱の位置を収納内で確かめながら、咳き込む男の方へ足を向けた。

 

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ヴァルト

 

現在ジョブ:行商人 Lv2→3

状態:

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基礎能力値

体力:75→78

筋力:58→61

器用:91→94

知力:100→103

判断:101→104

精神:101→104

集中:99→102

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スキル一覧

鑑定:10

収納:10

商才:4→5

交渉:2→3

地図:2→3

移動加速:2→4

境界魔術:10

収納魔術:9

結界魔術:10

転移陣解析:10

魔術式解析:10

魔力操作:10

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取得スキルポイント:37

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 ヴァルトは表示を見て、すぐには口を開かなかった。

 

 戦闘で乱れた髪に、白い石粉が細く絡んでいる。後席で結界を張り続けていたせいか、肩はわずかに落ちていた。それでも、表示を追う目だけは鈍っていない。境界魔術も結界魔術も、そこに変化はない。収納魔術も、魔術式解析も、彼が長く積み上げてきたものは静かなままだった。

 

 伸びているのは、行商人としての項目だった。

 

 商才、交渉、地図、移動加速。町を守るために線を分けたこと。逃げる人と警備兵の動きを混ぜないようにしたこと。真壁の射線を邪魔しないよう、障害物を抜いたこと。これから死骸を片づけ、売れる形へ整えること。そういう、王都魔術院の書棚には並んでいなかった仕事の結果が、表示の中で数字になっている。

 

 ヴァルトの口元が、ほんの少しだけ硬くなった。

 

 境界課で評価された時は、術式の精度や危険領域の封鎖、解析速度が見られていたはずだ。いま目の前にある数字は、それとは別のものを見ている。町が止まらないように働けたか。人の流れを乱さなかったか。物を次の形へ渡せるか。魔術師としての腕を、商いと後始末の中で使った結果だった。

 

 けれどヴァルトは、表示から目を逸らさなかった。

 

 戸惑いはあるのだろう。澪にもそれは分かった。だが、拒む顔ではない。自分が変わってしまったことを嫌がるのではなく、変わり始めた場所を確かめている顔だった。

 

 真壁が軽く息を整えた。

 

「確認は済んだ。働こう」

 

 その一言で、広場に散っていたものが少しだけ線を取り戻した。

 

 勝ったとか、助かったとか、そういう言葉ではなかった。まだ終わっていない、と言われた気がした。澪は反射的に頷き、収納の中へ意識を向ける。薬箱、清潔な布、包帯、ポーション、消毒に使うもの、水。区画の位置を思い浮かべると、さっき見た収納内時間停止の一行がまた頭の端に触れた。けれど今は、そこへ深く入らない。

 

 真壁はまず澪へ目を向けた。

 

「澪君、負傷者を見てくれ。薬とポーションは鑑定で分け給え」

 

「はい」

 

 澪は短く答えた。声が少し乾いていたのは、香辛料の匂いのせいだけではない。

 

 ポーションを出せば終わり、ではない。現代薬を使えば正しい、でもない。強い道具は、合えば助けになる。合わなければ乱暴になる。傷の深さ、粉の入り方、年齢、体格、恐怖で乱れた呼吸。見るものは多い。真壁の指示は短かったが、澪が迷わないための線だけははっきり引かれていた。

 

 真壁は次にヴァルトへ向く。

 

「ヴァルト殿。外の死骸を収納しておき給え。魔石、毛皮、狼肉。売れる形にまとめる」

 

 ヴァルトのまぶたがわずかに動いた。

 

 戦いが終わった直後に、死骸と売却が同じ文の中に入る。澪なら、少し前まではそこで立ち止まっていたかもしれない。けれど今は、白い広場が目に入っている。膝を押さえる職人。裂けた手袋。粉を吸って咳き込む男。閉じた戸口の奥で、まだこちらを見ている子ども。

 

 町が受けた損害は、誰かが補わなければならない。無駄にしていいものなど、ここには残っていなかった。

 

「承知しました。収納内に処理区画を作ります」

 

 ヴァルトの声は硬かった。けれど逃げる硬さではない。任されたものの形を、自分の中で組み立て始めた者の声だった。魔術師としての知識を、行商人の仕事へどう通すか。その計算が、彼の目の奥で静かに動き始めている。

 

 真壁はそれを見届け、アルベルトとレオンハルトの方へ歩き出した。

 

 アルベルトは広場の奥から町全体を見ていた。職人の列、城壁の兵、町門、旧計量所。視線が一つの場所に留まらない。領を見ている人の目だと、澪は思った。レオンハルトの外套は石粉で白くなり、袖口には細かな汚れが固まっている。顔には疲れが滲んでいたが、部下に向ける声はまだ折れていない。指示を出すたび、周囲の警備兵が少しずつ動き直す。

 

 澪は二人の方へ一度だけ目を向けた。

 

 真壁がそちらを受け持つ。ヴァルトは町の外へ行く。自分は、目の前の人を見る。

 

 役割が分かれたことで、不安が消えたわけではない。けれど、足を出す方向は決まった。澪は収納内の薬箱をもう一度確かめ、怪我人の集まる場所へ歩き出した。

 

 

 

 旧計量所の近くには、木箱を椅子代わりにして座る者が何人もいた。

 

 建物の壁際は、風が少し弱い。けれど石粉はそこにも入り込んでいて、木箱の角にも、座った職人の膝にも、薄く白く積もっていた。血の匂いはある。だが、それよりも石粉と汗の匂いの方が強かった。大きく裂かれた傷や、見ただけで息が止まるような怪我は見えない。それでも、戦いは確かに人の体へ残っていた。

 

 逃げる途中で転んだ膝。破片で切った腕。弓を引き続けて裂けた指。白い粉を吸い込んで止まらない咳。怖さが遅れて体へ出ている者もいる。膝を抱えて座る老人は、どこも血を流していないのに、肩だけが小刻みに揺れていた。本人もその震えを止めようとしているのか、両手を膝の上で強く握っている。その爪の間まで石粉で白かった。

 

 澪は一度、広場全体を見た。

 

 どこから手をつけるか。誰を先に見るか。鑑定を使えば状態は分かる。けれど、並んでいる人たちの目は、表示ではない。痛みを我慢している目もあれば、自分より隣の誰かを先にしろと言いたそうな目もある。怖くて言葉が出ない目もあった。

 

「順番に見ます。痛いところと、息苦しい人は先に教えてください」

 

 澪が声をかけると、職人たちは一瞬だけ互いの顔を見た。領主家の兵でも、町の薬師でもない。さっきまで棚の前に立っていた行商人が、今は薬箱を出そうとしている。その戸惑いが、空気の中に少しだけ浮いた。

 

 けれど、誰も笑わなかった。

 

 城壁上で何が起きたか、彼らは見ている。見えなくても、音と揺れと赤い霧を感じている。警戒と頼りたさが混ざった視線の中で、ひとりの男が遠慮がちに腕を差し出した。

 

 手の甲から肘へ、浅い切り傷が走っている。血は止まりかけていた。けれど傷の縁に石粉が入り込み、白く汚れている。男は平気そうな顔をしようとしていたが、腕を出す時に指がわずかに強ばった。自分の手が汚れていることも、傷に粉が入っていることも分かっているのだろう。

 

 澪は鑑定を重ねた。

 

 深くはない。骨も腱も問題ない。熱もまだない。けれど、このまま布を巻けば粉を閉じ込める。ポーションで塞げば早い。早いけれど、早すぎる。

 

「先に洗います。少ししみます」

 

 男が小さく頷いたのを見て、澪は水を出した。勢いを強くしすぎないように、傷口へ流す。白い粉が赤みを帯びた水に混じって落ちた。男の肩が跳ねる。顔をしかめるのをこらえたのが分かって、澪は水の向きを少し変えた。

 

「すみません。もう少しだけ」

 

「いや、頼む」

 

 短い返事だった。けれど、腕を引かない。澪はその我慢に甘えすぎないよう、粉が残っていないかを鑑定で見直してから、消毒と包帯を選んだ。ポーションは使わない。早く塞ぐより、悪くしない方が大事な傷だった。

 

「これは薬でいきます。今日は石粉が入らないように、上から布を替えてください」

 

 男は包帯を巻かれる手を見ていた。太い指の節は乾き、爪の間には白い粉が詰まっている。石を持ち、道具を握り、荷を動かしてきた手だった。澪が最後に布を留めると、男はその手を少し持ち上げ、いつもの重さを確かめるように指を曲げた。

 

「動かせます。けど、無理にこすらないでください」

 

 男は小さく頭を下げた。礼の言葉は短かったが、腕を胸の前で庇う仕草に、ほっとした気配があった。

 

 次に来た警備兵は、手のひらが裂けていた。

 

 弓を引いたのか、槍を握り続けたのか、皮がめくれ、血が滲んでいる。手首から肘にかけて筋が張っていて、力を抜けていない。槍はもう持っていないのに、指はまだ握る形のままだった。

 

 澪は鑑定する。傷は浅い。だが、使えばすぐに開く。仕事の手だ。しかも、今日まだ終わらない手だった。

 

「仕事で使う手ですよね」

 

「使わねばなりません」

 

 警備兵は当然のように答えた。そこに誇りもあるが、選択肢のなさもあった。町は守られた。だからといって、警備兵が休めるわけではない。門も、旧計量所も、捕らえた者たちも、まだ誰かが見ていなければならない。

 

 澪は、その声で町がまだ終わっていないことを感じた。

 

 守った後にも、立つ者がいる。立ち続ける者の傷を、ただ塞げばいいわけではない。次に握った時、裂け方が悪くならないようにしなければならない。

 

 洗浄し、消毒し、薄く薬を塗る。包帯を巻く前に、澪は手のひらを開いてもらった。警備兵の指は硬く、完全には伸びない。無理に伸ばすと痛むのだろう。澪は角度を見ながら布を当て、握った時にずれにくいよう巻き方を変えた。

 

 ポーションは使わない。すぐに皮を塞いでも、同じ力で握れば中途半端に裂ける。澪は包帯の上から固定の布を足し、手首側で留めた。

 

「握り込む時、ここがずれたら替えてください。替えの布は棚にもあります」

 

 警備兵の視線が広場の棚へ動いた。

 

 戦いの前、そこに並んでいた布巻きは、石粉で荒れた手を守るための商品だった。今はそのまま、怪我を悪くしないための道具に見える。売り物と処置道具の境目が、澪の中で少しだけ変わった。

 

 咳き込む職人には、薬を急がなかった。

 

 男は木箱に腰を下ろし、背を丸めていた。咳が出るたび、肩甲骨が大きく動く。口元を押さえた袖は白く、ところどころ赤い香辛料の粉が薄くついている。石粉を吸った喉に、さっきの赤い霧の刺激が残っているのだろう。目の縁が赤い。涙も少しにじんでいた。

 

 澪は鑑定で肺の奥を見る。ひどい損傷はない。熱も高くない。けれど喉と鼻の刺激が強く、呼吸が浅くなっている。ここで強い薬を出すより、まず粉と刺激を減らす方がいい。

 

「水を飲んでください。急がなくていいです。布を湿らせます」

 

 男は受け取った水を、最初は一気に飲もうとした。澪は手を添えて止める。

 

「少しずつで大丈夫です」

 

 男は言われた通りにした。湿らせた布を口元に当てると、咳の間隔が少しずつ開いていく。背中をさすっていた若い職人が、ほっとしたように息を吐いた。

 

「しばらく粉の多い場所に戻らないでください」

 

「仕事が」

 

 男は布を口に当てたまま言った。声はかすれていたが、真っ先に出たのは仕事のことだった。澪はその言葉を否定しなかった。できるなら休めばいい、だけでは済まない町だと、もう分かっていた。

 

「戻るために、今は休んでください」

 

 言ってから、澪はその言葉が自分の胸の奥に残るのを感じた。

 

 町を守ることと、町を戻すことは同じではない。撃つ手と、包帯を巻く手も同じではない。けれど、どちらも同じ町へ向いている。遠くの赤い点を消した後、目の前の呼吸を整える。その順番を間違えたら、守った町は動き出せない。

 

 老人は、怪我ではなかった。

 

 膝を抱えたまま震えている。鑑定では骨折も出血もない。心臓が少し早い。息が浅い。恐怖が体に残っている。澪は薬箱へ伸ばした手を一度止めた。薬で抑えるより、まず周りの声を下げた方がいい。

 

「ここ、少し空けてもらえますか。風が通るように」

 

 近くにいた職人たちが慌てて身を引く。澪は老人の前にしゃがみ、急に触れないよう、手を見える位置に置いた。

 

「大きな怪我はありません。息を、私に合わせてください。急がなくていいです」

 

 老人はすぐには反応しなかった。目は城壁の外を見ている。まだ何かが来ると思っている目だった。澪は老人の視線を無理に遮らず、自分の呼吸をゆっくり見せた。ひとつ、ふたつ。肩の震えが少しだけ緩むまで、待った。

 

 子どもは怪我よりも恐怖が強かった。

 

 母親らしい女の裾を握り、泣き止もうとして息が乱れている。泣くのを我慢しているせいで、かえって小さな音が喉に詰まっていた。鑑定では大きな異常はない。転んだ跡もない。けれど、小さな手は女の布を握ったまま白くなっている。

 

 澪は膝を折り、目線を低くした。

 

「痛いところ、ありますか」

 

 子どもは首を振った。けれど手は震えている。澪は収納から甘い匂いのする小さな飴を出しかけて、少し迷った。薬ではない。治療でもない。けれど今必要なのは、痛みを止めるものではなく、息を戻すきっかけかもしれない。

 

 澪は母親らしい女に目で確認した。女は戸惑いながらも、小さく頷いた。

 

「これは薬じゃありません。ゆっくり舐めてください。急がなくていいです」

 

 子どもは母親の顔を見てから、両手で受け取った。飴を握った指はまだ震えている。すぐに泣き止むわけではない。それでも、泣き声の間隔が少しずつ開いていった。母親の肩も、同じように少し下がる。

 

 澪は立ち上がり、棚の方を見た。

 

 針、糸、紐、手袋、石鹸、補修金具、布巻き。戦いの前には、仕事を始めるための商品だった。今は、傷を悪くしないため、壊れた荷を戻すため、粉を洗い落とすため、明日も手を動かすための品に見える。

 

 商売の棚は、人が買うための場所だと思っていた。けれど、今は少し違う。町が自分で立ち直るために、手を伸ばせる場所でもある。

 

 白い石粉の中で、澪はもう一度包帯の箱を開けた。

 

 

 

 町の外へ出ると、ヴァルトはまず匂いの層に気づいた。

 

 城壁の内側に残っていた石粉と香辛料の匂いは、まだ人の声や建物の影に薄められていた。けれど門を抜けると、それぞれがはっきり別のものとして鼻へ届く。乾いた石粉。湿った血。風の下にまだ細く漂う赤い刺激臭。爆発でめくれた地面から上がる、土と砕けた石と焦げた草の重い匂い。空気は白いのに、匂いだけが何層にも濁っている。

 

 道の上には、狼とゴブリンの死骸が散っていた。

 

 倒れた狼の毛皮は、ところどころ赤く濡れ、石粉を吸って斑になっている。鼻先を地面にこすりつけたまま動かなくなったものもあれば、逃げようとして足を折られたような姿勢で止まっているものもあった。ゴブリンの粗末な武器は石の上に転がり、割れた柄や欠けた刃が、まだ使い手の悪意だけを残しているように見える。

 

 警備兵たちは槍を構えたまま、それらを見ていた。戦闘は終わった。だが、終わったものに近づくのもまた仕事だった。死んでいるはずのものが本当に死んでいるか、毒や病がないか、まだ動く個体が紛れていないか。誰も不用意に足を出さない。

 

「近づく場所を分けます」

 

 ヴァルトはそう言い、警備兵の前に立った。

 

 目に見える壁ではない。けれど、踏み込んでよい場所と止まるべき場所の感触が、空気の中に生まれる。警備兵たちは一歩出かけた足を止め、互いに目を合わせた。術を知らなくても、踏み込むべきでない線だけは体が理解したのだろう。

 

 ヴァルトは境界を確認してから、両手を前へ出した。

 

 まず森側。狼の死骸がもっとも多く、赤い霧の名残が草の低いところに残っている場所だった。ヴァルトはそこへ掌を向け、息を一つ整える。

 

「収納」

 

 倒れた狼が消えた。血で湿った毛皮も、折れた骨も、足元に散った毛も、まとめて収納内へ移る。地面に残ったのは、石粉に混じった赤黒い跡と、踏み荒らされた草だけだった。

 

 警備兵の一人が喉を鳴らした。ヴァルトは反応を待たず、次の場所へ歩いた。

 

 採石場側には、ゴブリンの死骸が多い。石の陰に倒れたもの、浅い溝へ落ちたもの、逃げようとして途中で止まったもの。粗悪な棍棒、錆びた短剣、欠けた石斧、投げそこねた石まで散っている。

 

 ヴァルトは両手を広げ、範囲を見た。死骸だけを拾えば、武器が残る。武器だけを残せば、後で誰かが踏む。子どもが拾うこともあり得る。町へ戻すべきではないものは、すべて抜く。

 

「収納」

 

 ゴブリンの死骸が消え、粗悪な武器も一緒に消えた。石粉の上に残った影が、急に薄くなる。警備兵たちの緊張が、わずかに変わった。敵がいなくなったのではなく、危険が一段減ったのだと分かったのだろう。

 

 三つ目は、灰橋町方面へ続く道の曲がりだった。混成の群れが崩れた場所で、狼とゴブリンが入り混じって倒れている。荷車が通るなら、ここを片づけなければならない。ヴァルトは道幅と轍を見て、収納する範囲を決めた。

 

「収納」

 

 死骸と武器、邪魔な瓦礫が抜けた。道の形が戻る。完全にきれいになったわけではない。だが、警備兵が確認に入れる程度には、足元の危険が消えた。

 

 ヴァルトはそこで、収納内へ意識を沈めた。

 

 魔物死骸区画。

 

 名を与えた空間には、森側、採石場側、灰橋町方面から回収したものが、まだ荒い塊のまま置かれている。狼。ゴブリン。粗悪な武器。石。汚れた布片。折れた骨。血と内臓。すべてを一緒に置けば、ただの後始末になる。だが真壁がマッドビッグブルで見せたのは、収納内に工程を置くやり方だった。

 

 ヴァルトはまず、武器を切り離した。

 

 ゴブリン武器、隔離。

 

 錆びた短剣、欠けた石斧、棍棒、投石用の石。売却できるものではない。だが、町へ残してよいものでもない。鍛冶屋に見せるなら屑鉄や危険物として扱うべきだろう。子どもの手へ渡るより、収納内で区画を閉じた方がいい。

 

 次に、魔石を抜く工程を作る。

 

 狼とゴブリンを混ぜない。血と汚れが移らないよう、区画の間に境界を噛ませる。小さな硬い感触が、一つずつ死骸から離れ、小箱へ落ちていく。魔石、小。魔石、欠けあり。名前をつけると、ただの回収物が帳面へ移せるものに近づいた。

 

 狼の毛皮は、傷の少ないもの、破損品、売却不可に分ける。肉は食用可能部位、加工向け、廃棄部位に分ける。判断に迷うものは鑑定を重ね、無理に売却側へ入れない。

 

 ゴブリンの死骸は、素材として扱いにくい。汚れ、臭気、病害の可能性。狼の内臓も同じだった。肉や毛皮として外へ出すものではない。残るのは、普通なら処分待ちのものだ。

 

 ヴァルトはそこで、手を止めた。

 

 ただ捨てるのか。

 

 収納内に残った有機の塊を見ながら、前世で聞きかじった言葉が頭の隅に浮かんだ。肥料。硝石。土と腐敗と時間が関わるものだったはずだが、正確な作り方までは思い出せない。ここで半端な知識を使うのは危ない。

 

 あとで真壁殿か澪殿に、肥料か硝石の材料にできるか聞いてみよう。

 

 有機残渣、肥料候補。

 有機残渣、硝石素材候補。

 要確認。

 封印区画。

 

 名を付け直すと、収納内のものの見え方が変わった。死骸の残りではなく、扱いを誤れば危険で、扱いを定めれば資源になるもの。王都魔術院での分類なら、危険性と由来を記録して終わっていたかもしれない。今は違う。町へ戻せるもの、売れるもの、保留すべきもの、真壁か澪へ確認すべきものに分けなければならない。

 

 警備兵の一人が、死骸と武器がまとめて消えた道を見て眉を寄せた。

 

「それも売るのか」

 

 声には、驚きと嫌悪が少し混じっていた。無理もない、とヴァルトは思った。先ほどまで町へ迫り、牙を剥き、石を投げていたものを、すぐに品へ変える。見慣れていなければ、薄情にも見えるだろう。

 

 ヴァルトは手を止めた。

 

 ここで、素材です、と答えるのは簡単だった。魔石がある、毛皮がある、肉が取れる。事実を並べるなら、いくらでも言える。だが、警備兵が見ているのは素材ではない。自分の町へ迫ってきたものの死骸だ。その視線を無視して言葉を出せば、たぶん届かない。

 

「売れる形にすれば、町の損害を埋める一部になります。売れないものは、危険として分けておきます」

 

 口にしてから、ヴァルトは自分の声を聞いた。

 

 それは、魔術院で報告書に書く言葉ではなかった。魔物の性質でも、境界の揺らぎでも、術式の破綻でもない。町の損害と、売れる形。危険として分けること。行商人の言葉だ。王都で積み上げた知識の上に、別の棚が増えていくような感覚があった。

 

 警備兵は少し黙った。

 

 風が吹き、石粉が二人の足元を薄く流れた。警備兵は道の先を見て、それから城壁の方を見た。あの壁の内側には、怪我人がいて、店を戻そうとしている者がいて、まだ震えている職人たちがいる。

 

「なら、無駄にはできんな」

 

「はい」

 

 ヴァルトは短く答え、また収納へ意識を戻した。

 

 死骸を消しているのではない。戦場の形を、町が扱える形へ変えている。邪魔なものを抜き、危険を分け、使えるものを整える。真壁が言った通り、収納は倉庫ではない。動線を変え、境界を引き、品を次へ渡すための手でもある。

 

 その理解は、少し苦かった。

 

 魔術師としてなら、もっと違う誇り方があったはずだ。危険を封じた、術式を読んだ、境界を維持した。そういう言葉の方が馴染んでいる。けれど今、収納内に並ぶ箱の名を見ていると、自分の術が町の帳面へつながっていくのが分かった。

 

 不思議と、嫌ではなかった。

 

 

 

 旧計量所の脇では、石粉の積もった壁を背に、アルベルトが町の外を見ていた。

 

 壁の白さは、もともとの石の色だけではない。採石場から流れてくる細かな粉が何日も何年も積もり、指でなぞれば跡が残りそうなほど薄く覆っている。その前に立つアルベルトの外套にも、同じ白が降りていた。領主館で見る時よりずっと埃っぽく、飾り気のない姿だったが、視線だけは乱れていない。

 

 広場からは、負傷者へ声をかける澪の声が聞こえた。強くはないが、途切れない声だった。水を出す音、布を裂く音、誰かが痛みに息を吸う音が、その合間に混じる。町外れからは警備兵の報告が細く届いていた。森側、採石場側、灰橋町方面。まだ確認は続いている。

 

 レオンハルトは近くに立ったまま、部下へ短い指示を送っていた。外套は白く汚れ、顎のあたりには疲労が出ている。だが、指示の順番は崩れなかった。町門。城壁。旧計量所。拘束者。外縁確認。負傷者搬送。彼の目は一つずつ置き忘れがないか確かめている。疲れているからこそ、確認の数を減らさない指揮だった。

 

 アルベルトは、その様子を横目で見てから、真壁へ向き直った。

 

「あれを侯爵領で扱えるか」

 

 問いはまっすぐだった。

 

 欲しがる声ではない。興奮もない。先ほど目の前で町を守った力を、領の力として抱え込むべきか、それとも距離を置くべきか。領を見ている者が、必要な危険を測る声だった。

 

 真壁は少しも間を置かなかった。

 

「売れません」

 

 短い答えだった。

 

 レオンハルトの目が真壁へ向く。アルベルトは黙って続きを待った。拒絶されたというより、線を引かれたのだと受け取ったからだ。真壁は城壁の上を一度見上げた。澪がレールガンを据えていた場所。次に町外れの爆発跡へ視線を流す。黒くめくれた地面は、白い町の中でまだ異物のように見えていた。

 

「持てば領が細る。見せれば戦を呼ぶ。魔術のようなものとお考えいただきたい」

 

 アルベルトは黙って聞いた。

 

 真壁の言葉には、惜しませる響きがなかった。高価だから売らない、秘術だから渡さない、そういう言い方ではない。扱えば何が起きるかだけを置いていく。整備。管理。弾。秘匿。警備。扱う人員。事故の責任。知られた時の外交。欲しがる者。恐れる者。言葉にされない費用が、アルベルトの中で一つずつ積み上がっていった。

 

 領を守る力が、そのまま領を痩せさせる力にもなる。

 

 しかも、あれは勝った後に誇るための力ではない。見せれば、次は誰が持つか、誰に向けるか、誰が奪うかという話になる。守るために使ったものが、戦を呼ぶ種になる。その危うさは、真壁が口にした以上に重かった。

 

 レオンハルトは口元に手を当て、深く息を吐いた。

 

「報告書には、魔術現象と書くべきでしょうな」

 

「それがよろしい」

 

 真壁は淡々と答えた。

 

 レオンハルトは苦い顔をしたが、否定はしなかった。以前見たものだけでも、報告には相当苦労したのだろう。今回の空を走る機械、赤い霧、黒い筒の爆発までそのまま並べれば、報告書の形をしていても、読む者は眉をひそめるに違いない。現場指揮官としては、事実を隠したくない。だが、事実をそのまま書けば別の混乱を呼ぶ。その苦さが、レオンハルトの目元に残っていた。

 

 アルベルトは、真壁の横顔を見た。

 

 領を守るために使った力を、領に渡す気はない。だが隠して逃げるのでもない。必要な時に使う。けれど欲しがらせない。その線引きは冷たく見えて、領への配慮でもあった。

 

「分かった。今は、そう扱う」

 

 アルベルトがそう言うと、真壁は軽く頭を下げた。

 

 そのまま話が終わるかに見えた時、アルベルトの視線が町外へ向かった。

 

 ヴァルトが警備兵たちと戻る道の先だ。まだ姿は遠い。だが、先ほど城壁上で見せた結界と境界の扱いは、アルベルトの中で別の名を呼び起こしていた。強い魔術師、というだけなら珍しくはない。けれど、あの精度で境界を見て、混乱の中で人の流れと敵の流れを分ける者となると、名は限られる。

 

「真壁殿。あの方は、行方不明のオスヴァルト師ではないのか」

 

 真壁はすぐには答えなかった。

 

 沈黙は長くない。けれどアルベルトは、その間に真壁が自分の表情を見ていることに気づいた。好奇心で尋ねたのではない。領主家側の情報として、王都に近い名として、そして今後の扱いを誤れない人物として確認している。そう見られている。

 

「王都で名のあった魔術師だ。行方が途切れている。父の周囲でも探していた名だ」

 

 レオンハルトも表情を変えた。

 

 ヴァルトがただの腕利きではないことは、すでに見ている。だが、名がつけば扱いは変わる。行方不明の術師。王都で知られた魔術師。領内にいる理由が分からない人物。しかも先ほど、町の防衛に深く関わった。

 

 真壁は広場の方を見た。

 

 澪が咳き込む職人に湿らせた布を渡している。町外では、ヴァルトが警備兵に何かを説明し、道の上から危険を抜いている。王都で名のあった術師という響きと、今そこで死骸を片づけ、素材を売れる形へまとめようとしている行商人の姿は、奇妙に離れていた。

 

「疲れておられた」

 

 真壁はそう言った。

 

 アルベルトの眉がわずかに動いた。罪を隠す言葉ではない。弁護とも違う。人の状態を、まず置いた言葉だった。

 

「王都で過酷な仕事に就いていたようです。辞して、いまはマールヴェインの森の奥に拠点を構えておられる」

 

「マールヴェインの森に、もう住んでいるのか」

 

 アルベルトの声が低くなった。

 

 レオンハルトも、思わず町外の北へ目を向ける。そこは今、見えている場所ではない。けれど名だけで十分だった。侯爵領北方の森。何度もスタンピードを生み、魔物のレベルも高い禁忌の土地。領主家側の人間にとって、そこは地図上の空白ではない。損害と警戒と、過去の報告が積み重なった場所だった。

 

 そこに住んでいる。

 

 その言葉は、隠れるというより、自分を消しに行く響きに近かった。

 

 アルベルトの顔から、単なる疑念が消えた。残ったのは、そこまで人目を避けたかったのか、という重さだった。王都で何を抱え、何を捨てて来たのか。問いは浮かぶ。だが、今ここで詰めれば、答えではなく傷を広げるだけかもしれない。

 

「危険すぎる」

 

 レオンハルトの言葉は、責めるものではなかった。警備の現実だった。危険な人物だから、ではない。危険な場所に、危険を扱える人物が単独で入ること自体が、領にとって読めない火種になる。森が動くのか、人が動くのか、その両方か。現場を守る者なら、見過ごせない。

 

 真壁は頷いた。

 

「ですから、今は追うより置く方がよろしいかと」

 

 アルベルトが真壁を見る。

 

 真壁の声は低く、押しつけがましくない。だが、退く気もなかった。相手を説き伏せるために声を強めるのではなく、領にとって損の少ない道を置いている。そういう言い方だった。

 

「疲れは、人を苛みます」

 

 真壁は静かにそう言って、レオンハルトへ視線を移した。

 

 レオンハルトは何も言わなかった。否定もしない。石粉に汚れた外套の肩は落ちていないが、目元の疲労は隠しきれていなかった。町門、城壁、旧計量所、拘束者、負傷者。戦いが終わっても、指揮官の頭の中から確認すべきものは消えない。休めと言われても休めない者の顔だった。

 

 アルベルトも、その視線の意味を受け取った。王都で何があったかを、今ここで詳しく聞く必要はない。疲れた者が判断を誤り、さらに疲れる場所へ追い込まれることはある。目の前のレオンハルトが、まさに領を支えるために自分を削っているのだから、その言葉は遠い話ではなかった。

 

 真壁は視線をアルベルトへ戻した。

 

「人というものは、置かれた場所で考え方も変わる。王都で折れた者が、領で息をつけば、いずれ研究へ戻る道もございましょう」

 

 アルベルトはすぐに答えなかった。

 

 広場では、手当てを終えた職人がゆっくり立ち上がっている。包帯を巻いた手で、確かめるように指を曲げていた。町外では、ヴァルトが警備兵と共に道を整えている。死骸を消した跡に、荷車が通れるだけの空間が戻り始めていた。

 

 アルベルトは、その二つを見た。

 

 オスヴァルト師という名は、王都へ戻すべき名かもしれない。探していた者たちは、見つけたなら連れ戻せと言うかもしれない。だが、今のヴァルトはこの町で境界を分け、死骸を片づけ、売れる形を作っている。逃げているだけの男ではない。まだ働ける。しかも、その働きは領にとって確かに利がある。

 

 力はある。危うさもある。

 

 だが、今すぐ引き戻せば何が残るのか。

 

「父への報告は、言葉を選ぶ」

 

 アルベルトの声には、決定ではなく猶予があった。保護すると言ったわけではない。見逃すと明言したわけでもない。だが、少なくともこの場で王都へ差し出す空気ではなくなった。

 

 真壁はそれで十分だと受け取ったように、短く頭を下げた。

 

「助かります」

 

 レオンハルトはまだ難しい顔をしていた。警備上の懸念が消えたわけではないのだろう。だが、反対はしなかった。彼の目はすでに、ヴァルトをどう見張るかではなく、どう扱えば領の危険を減らせるかへ移っている。

 

 白い石粉の壁の前で、三人の間に短い沈黙が落ちた。

 

 町はまだ片づいていない。だが、扱いを誤れば町の外で別の問題になるものが、ひとまず領の内側へ置かれた。真壁はそこで視線を灰橋町方面の道へ移した。次に向かう場所は、もう決まっているようだった。

 

 

 

 真壁は、白い石粉の壁から視線を外した。

 

 それで、話は終わったのだと分かった。追うか置くか、王都へ戻すか領で息をつかせるか。その線は、いまここで強く結び切るものではない。結び目を固くしすぎれば、かえって切れるものがある。アルベルトも、レオンハルトも、それを受け取った顔をしていた。

 

 真壁の目は、灰橋町方面へ伸びる道へ向いている。

 

 石場町を襲ったものは片づいた。だが、片づいたのは来たものだけだった。狼も、ゴブリンも、混成の群れも、町へ向かう線は折られた。けれど、呼んだものがある。仕込んだ者がいる。石場町の白い粉の向こうには、灰橋町へ続く道がまだ残っている。

 

 澪は、包帯の箱を閉じかけた手を止めて、その視線を追った。

 

 灰橋町。

 

 橋市、通行料、クラウス・ベーレン、黒鎖商会。頭の中で名前が並ぶ。けれど、それらはもう帳面の上の情報ではなかった。石場町へ魔物を呼び、職人たちを走らせ、子どもの手を震わせたものにつながる名前だった。

 

 真壁が収納からハイエースを出すと、白い広場に現代の車体が現れた。

 

 石粉の町の中で、その形はひどく異物だった。けれど、異物であることに誰も大きく声を上げない。アルベルトもレオンハルトも、もう初めて見る顔はしなかった。驚きは薄れている。だが、慣れたわけでもない。二人とも、これもまた報告書に書きづらいものの一つとして、黙って受け止めているようだった。

 

「灰橋町へ参りましょう。クラウス殿と話をする」

 

 真壁の声は、次の仕事を告げるだけの静かさだった。

 

 アルベルトはすぐには乗らなかった。

 

 広場を見る。負傷者の列。戻されかけた棚。警備隊の配置。旧計量所の入口。町外から戻る警備兵たち。外套に石粉をかぶった職人たち。領主家の人間として、ここを離れてよいのかを測っている。灰橋町へ向かうことが必要でも、石場町を空にしてよいわけではない。その重さが、アルベルトの横顔に出ていた。

 

 澪は、その視線に気づいた。

 

 真壁とアルベルトとレオンハルトが灰橋町へ行く。クラウスと黒鎖商会の線に踏み込む。頭では必要だと分かっている。むしろ、ここで放っておく方が危ない。けれど、胸の奥には小さな不安が生まれた。真壁が行く場所は、たいてい話だけでは済まない。

 

 けれど、澪の前にはまだ包帯を替える職人がいた。咳き込む者がいた。棚を待つ手があった。布巻きの位置を目で追う警備兵がいて、石鹸の小袋を遠慮がちに見る女がいる。

 

 灰橋町へ行かないことは、置いていかれることではない。

 

 石場町を止めないために残るのだと、澪は自分に言い聞かせるのではなく、広場を見て理解した。いま自分がいなくなれば、この棚はただの荷物に戻る。怪我人の列も、誰から見ればいいのか分からなくなる。町がまた仕事へ手を伸ばす、その最初の数歩を支える人間が必要だった。

 

 真壁が澪とヴァルトを呼んだ。

 

 ヴァルトは町外から戻ったばかりで、外套の裾に石粉がついている。靴の縁には乾いた土が固まり、袖口にも赤黒い汚れが薄く残っていた。顔には疲れがある。だが、目は落ちていない。収納内に作った工程のことを、まだ頭の中で整理しているような目だった。

 

「澪君、終わったら市を戻し給え。ヴァルト殿、素材をまとめたら帳面を頼む」

 

 澪は棚を見た。

 

 針、糸、紐、手袋、石鹸、補修金具、布巻き。戦いの前と同じ品なのに、見え方が変わっている。石粉で荒れた手に巻く布。切れた袋を直す針。逃げる時に傷ついた荷車を戻す金具。咳き込んだ職人が、粉を落とすために使う石鹸。

 

 商品は、町がもう一度仕事へ戻るための道具になっていた。

 

「こちらは戻します。店も、人も」

 

 言葉にすると、不安は少しだけ場所を変えた。消えたわけではない。けれど、手に持てる重さになった。抱えきれない影ではなく、目の前の棚や包帯や帳面へ移せるものになった。

 

 ヴァルトは真壁を見た。

 

 アルベルトと話していた内容を、完全に聞いたわけではないだろう。だが、自分の名に関わる何かが出たことは察している。オスヴァルトという名が、王都へ続く名であることを、彼自身がいちばんよく知っているはずだった。

 

 問いかける間が一瞬あった。

 

 けれどヴァルトは、それを飲み込んだ。いま問えば、真壁は答えるかもしれない。けれど、答えを聞いたところで、目の前の箱は減らない。魔石も、毛皮も、狼肉も、有機残渣の封印区画も、帳面へ移すべき数も残っている。

 

「帳面まで整えます」

 

 その返事に、真壁は頷いた。

 

 詰めない。逃がすのでもない。仕事を渡す。それが今の答えだった。ヴァルトも、それを受け取ったように小さく頭を下げた。

 

 ハイエースの扉が閉まる。

 

 真壁が運転席に座り、アルベルトが乗り込む。レオンハルトは最後に町門と城壁を見た。警備隊長へ短く指示を飛ばし、旧計量所の拘束者と町外確認の順番をもう一度確かめる。疲れた肩が一瞬だけ沈んだが、後席へ入る時の目はまだ道を見ていた。

 

 車が動き出すと、石粉がタイヤの下で白く舞った。

 

 澪はその後ろ姿を見送った。白い粉の中を、見慣れたはずの車体が灰橋町方面へ遠ざかっていく。妙に静かな出発だった。大声の見送りも、勇ましい号令もない。ただ、町の外へ向かう危険な線の上を、真壁たちが進んでいく。

 

 澪は息を吐き、棚へ向き直った。

 

 収納から戻した棚の脚が石畳に触れ、木の音が小さく鳴る。その音に、近くの職人が顔を上げた。澪は手袋の箱を前へ出し、布巻きをその横へ置く。石鹸の小袋は、咳き込んだ職人が手に取りやすい高さへ下げた。補修金具は奥へ。針と紐は、迷わず取れる位置へ。

 

 棚を戻すことは、店を戻すことだった。

 

 店を戻すことは、人が広場へ戻る理由を作ることだった。

 

 ヴァルトは少し離れた場所で、収納内の箱を確認している。魔石、狼毛皮、狼肉。箱の名と数を帳面へ移す手つきは、まだ商人のそれとしては硬い。時折、書く前にわずかに止まる。魔術師なら別の分類をしたのだろう。けれど、いま必要なのは澪が読めて、真壁が判断できて、町の損害へつなげられる記録だった。

 

 元国家魔術師の指が、町の損害を埋めるための数字を書いている。

 

 白い石場町は、まだ震えていた。

 

 城壁の上には弓兵が残り、町外へ向かう警備兵の声も消えていない。怪我人はまだ全員立ち上がったわけではない。赤い香辛料の匂いも、風の低いところに薄く残っている。

 

 それでも棚が立ち、人が並び、包帯を巻いた手が紐へ伸びる。

 

 戦いのあとに残ったものは、説明だけではなかった。怪我人、死骸、素材、店、帳面、そして灰橋町へ続く道。

 

 町を止めようとした者の名を聞くため、ハイエースは白い粉の向こうへ遠ざかっていった。

 

 

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