押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第155話 サービスだ

 

 朝の六畳間は、拍子抜けするほど静かだった。

 

 畳の上には、昨日の白い石粉も、灰橋町の湿った木の匂いもない。窓の外から聞こえるのは、通学途中の自転車のブレーキ音と、遠くで閉まる玄関扉の音だった。薄いカーテン越しの日差しが机の端に落ち、積んだノートの角だけを明るくしている。

 

 澪は布団の上に座ったまま、しばらく動けなかった。

 

 今日は現場仕事はなし。

 

 真壁にそう言われた時、体の奥が先にほっとした。薬箱を持つ腕も、帳面を抱えた肩も、昨日より重く感じていたからだ。石場町の負傷者、灰橋町の橋、領主館の封箱、リュシア商会の帳面。全部が終わったわけではないのに、自分の担当分だけは一度閉じた。そのはずだった。

 

 けれど、頭だけが休もうとしない。

 

 澪は布団の横に置いたノートを見た。

 

 肥料。

 

 昨日、採石場秘密基地でその言葉を聞いた時、最初に浮かんだのは畑だった。けれど、一晩経っても消えなかったのは、畑そのものではない。細い腕。薄い肩。食べ物を前にして、遠慮と空腹の間で目を揺らしていた子どもたちの顔だった。

 

 あの子たちの皿に、何を増やせるのか。

 

 そう考えた瞬間、休みという言葉の輪郭が少しぼやけた。休むべきだと分かっている。無理をすれば、判断が鈍ることも分かっている。それでも、何もせず横になるには、昨日つながりかけた線が気になりすぎた。

 

 澪は息を吐き、布団から出た。

 

 休みとは何だろうと思いながら机に向かう。椅子に座ると、体はまだ眠りたがっているのに、指は勝手にペンを探した。現代側の検索窓を開きかけて、そこで一度止まる。昨日の燭台の言葉が、視界の奥に残っていた。

 

 肥料なら可。

 一歩進めると、戦の火種。

 

 だからこそ、澪は調べる範囲を自分で決めた。

 

 危ない作り方を追うのではない。最初に見るのは、畑で使うための入口だった。有機肥料、堆肥、発酵肥料、土壌改良材、飼料作物、畜産と飼料、土壌診断、少量試験、病害を出さない管理。人が触れてよいか。家畜に害がないか。子どもが近づいても大丈夫か。画面に並ぶ言葉を追いながら、澪はそれをひとつずつノートへ落としていった。

 

 調べるほど、肥料という言葉は、白い粉や畑の土だけでは終わらなくなった。

 

 畑の収穫が増えれば、飼料が増える。飼料が増えれば、牛や豚や鶏を育てやすくなる。肉や卵や乳が増えれば、痩せた子どもたちの皿に、少しでも力のつくものが乗る。孤児院の冬支度も、村の備蓄も、家畜を増やす話も、最初は土から始まるのだと、澪は遅れて理解した。

 

 胸の奥が熱くなりかけて、澪はペンを置いた。

 

 ここでまた走り出すと、休みにならない。

 

 澪はノートの中央に、少し大きめの字で書いた。

 

 最初は畑の一角で試す。

 

 その下に、もう一行だけ足す。

 

 食べ物につながるものとして扱う。

 

 それ以上は書かなかった。今日は休みだ。調べるのは入口まで。そう決めて、澪は椅子の背にもたれた。窓の外で、自転車の音がまた遠ざかっていく。六畳間の静けさは、異世界から逃げる場所ではなく、次に動くために呼吸を整える場所なのだと、少しだけ思えた。

 

 

 

 ハイエースの窓の外で、領都の石造りの家並みが後ろへ流れていった。

 

 ヴァルトは助手席に座り、膝の上に置いた両手を軽く握っていた。昨日の疲れはまだ残っている。灰橋町、石場町、領主館、リュシア商会。あれほど多くの場所を行き来した後なのに、真壁は平然と森へ向かっている。その横顔は、疲労を隠しているというより、疲労を計算に入れたうえで動いている顔だった。

 

 車内には、現代側の車に特有の匂いがあった。革でも木でも馬でもない、油と樹脂と布の匂い。九〇年代の記憶にある車より静かで、滑らかで、速度の出方が違う。分かっているはずなのに、乗るたびに少し腹立たしい。

 

 森が近づくにつれ、窓の外の色が変わった。

 

 畑の境が途切れ、低い草地が続き、やがて木々の影が道へ落ちてくる。空気に湿り気が混じり、鳥の声が増えた。けれどその声は明るいだけではない。森の外から聞く鳥の声には、どこか距離を測るような冷たさがある。

 

 やがて、炭の匂いがした。

 

 森の手前に、炭焼き小屋が見えた。細い煙が、風に押されて斜めに流れている。積まれた薪の側に、黒く乾いた手をした男が立っていた。バンデだ。森を背にして立つその姿は、見張りというほど固くはないのに、通る者を自然に足止めさせる重さがあった。

 

 ハイエースが止まると、バンデは目を細めた。

 

「また、その箱か」

 

 言葉は荒いが、前ほどの驚きはない。納得したわけではないのだろう。理解できないものを、森の前でいちいち理解しようとしない顔だった。

 

 真壁は車から降り、周囲を一度見ると、何事もないようにハイエースを収納した。

 

 バンデの眉がわずかに動く。

 

 車が消えた場所に残ったのは、タイヤの跡と、わずかに乱れた草だけだった。バンデはしばらくそこを見ていたが、やがて鼻を鳴らした。

 

「聞かねえぞ」

 

「それがよろしい」

 

 真壁は涼しい顔で答えた。

 

 ヴァルトは思わずバンデを見た。森で生きる者の判断だ。見たものすべてに名前を付けようとしない。深く聞けば、自分の手に余るものまで抱えることになる。バンデはそれを知っているのだろう。

 

 真壁は収納から小さな袋を取り出した。

 

「バンデ殿、世話になる。粗品だが、森では使い道もあろう」

 

 袋を受け取ったバンデは、最初に重みを見た。それから口を開いて中をのぞく。塩、小分けの石鹸、針と糸、丈夫な紐、保存食。森暮らしで無駄にならないものが、過不足なく入っている。その奥に、布で包まれた細い小瓶が一本あった。

 

 バンデの目がそこで止まった。

 

「……あんた、こういう渡し方を覚えてるのが嫌なところだな」

 

「森では、役に立つものが礼になる」

 

「酒も役に立つってか」

 

「使い方次第だ」

 

 真壁が平然と言うと、バンデは低く笑った。

 

 笑いはしたが、すぐに森の奥へ顔を向ける。炭焼きの男の表情が、森の入口を守る者の顔に戻った。

 

「鳥が黙ったら戻れ。甘い匂いがしたら戻れ。戻れねえと思ったら、最初から入るな」

 

 ヴァルトは頷いた。

 

「承知しました」

 

「承知してる奴から先に死ぬこともある。足で分かるまで、分かった顔をすんな」

 

 その言葉は乱暴だったが、軽口ではなかった。

 

 ヴァルトは森を見た。自分の家へ続く道がある。真壁が前に整えた通路もある。地図もある。だが、森が安全になったわけではない。バンデの声が、そのことを足元に置き直してくれた。

 

 真壁は短く礼を言い、森へ向かった。

 

 

 

 炭焼き小屋を離れると、すぐに足元の感触が変わった。

 

 前回、真壁が水流と砕石で整えた通路は、街道とは呼べない。草は完全には払われておらず、木の根も残っている。湿った土の上に砕石が噛ませてあり、ところどころに水が流れた跡が細く光っていた。何も知らない者が見れば、ただ獣がよく通る場所に見えるだろう。

 

 だが、ヴァルトには違って見えた。

 

 ここは通れる。

 

 そう分かる線が、森の中に引かれている。木々の影、苔の匂い、湿った葉の裏側。どれも前と同じなのに、足を置く場所を知っているだけで、森の圧が少し変わった。

 

 ヴァルトは地図へ意識を向けた。

 

 薄い反応が視界の奥に重なる。右手の茂みに二つ。水場寄りに一つ。道の先で、獣道と交差する場所。前なら、危険な点が見えただけで身構えていたかもしれない。だが今は、点だけではない。動きの向き、距離、こちらへ寄る速さが、少しだけ読める。

 

 胸の奥に、思いがけない感情が浮かんだ。

 

 嬉しい。

 

 危険があるのに嬉しいと思うのはおかしな話だ。だが、危険が消えたからではない。見えるからだ。見えれば、避けられる。備えられる。真壁に知らせられる。必要なら結界で気配をずらせる。荷を守り、道を変え、戦う前に判断できる。

 

 森は相変わらず危険だった。

 

 それでも、自分は前より無力ではない。

 

「ヴァルト殿」

 

 真壁の声が、前方から静かに届いた。

 

「地図には、もう出ているな」

 

 ヴァルトは息を整え、頷いた。

 

「はい。右手の茂みに二つ。奥の水場寄りに一つ。こちらへ寄る気配は薄いですが、道を横切る可能性があります」

 

 真壁はわずかに目を細めた。

 

「見えている危険は、まだ扱える。厄介なのは、見えぬまま踏み込む方だ」

 

 その言葉は命令ではなかった。今ヴァルトが見ているものを、そのまま認める声だった。

 

「以前は、見えても逃げるだけでした」

 

 ヴァルトが言うと、真壁は足元の石を踏み替えた。

 

「避けるか、備えるか、こちらから片付けるか。選べる時点で、行商の道としてはずいぶん違う」

 

 その通りだ、とヴァルトは思った。

 

 魔術院では、危険は封じるものだった。任務なら排除し、許可がなければ近づかず、上へ報告する。だが行商の道では、危険は道の一部でもある。避けて通るか、荷を守るか、通れる形にするか。選ぶために見るのだ。

 

 その時、右手の茂みが揺れた。

 

 小さな魔物が二体、低く唸りながら姿を出した。犬ほどの大きさだが、目が妙に赤く、前脚だけが不釣り合いに太い。ヴァルトが結界を張る前に、真壁が一歩横へ出た。

 

「小物だな。とはいえ、処理の手順を見るには悪くない」

 

 真壁の動きは速いが、慌ただしくはなかった。

 

 足元の砕石が跳ね、先頭の魔物の鼻先を打つ。怯んだ一体の足場が、ふっと消えた。浅い収納の穴に前脚を取られ、体勢が崩れる。もう一体が横から回ろうとしたところで、真壁の手がわずかに動き、短い金属音が森の空気を切った。

 

 倒れた魔物は、すぐに収納された。

 

 血の匂いが広がる前に消える。森の地面に残ったのは、乱れた葉と、砕石が少し散った跡だけだった。

 

「売れる素材、食べられる可能性があるもの、確認待ち、有機残渣候補。小物でも分け方は同じだ」

 

 真壁は歩きながら言った。

 

 ヴァルトは頷いた。今は森の中で足を止める場面ではない。だが、収納へ入った魔物が、ただの死骸ではなく、素材と残渣に分かれていくものだという見方だけは残った。

 

 昨日の肥料相談が、森の足元へ降りてきた気がした。

 

 森の通路は、さらに奥へ続いていた。

 

 ヴァルトは何度か地図を見て、進路をわずかに調整した。真壁は必要以上に口を出さない。ヴァルトが選び、足を置き、危険を避ける。そのたびに、森の中で自分の足場が少しずつ太くなっていくように感じた。

 

 

 

 しばらく進むと、木々の密度が少し緩んだ。

 

 水場から離れた丘へ出る。地面は周囲より固く、風がわずかに抜けていた。背後には大きな岩があり、周囲には太い木が立つ。枝葉が外からの視線を切り、森の中にあるのに、そこだけ小さく息ができる場所になっていた。

 

 そこに、ヴァルト亭があった。

 

 外から見れば、古びた森番小屋に見える。木の壁、控えめな屋根、目立たない窓。苔むした石を少し置き、周囲の木々に紛れるようにしてある。だが、ヴァルトはその下にあるものを知っていた。

 

 鉄筋コンクリート。

 

 地下1階、地上2階、屋上付き。

 

 雨水回収、蓄電、空調、保存庫、作業台、危険素材の保管場所、非常時の退避場所。おまけに、前回はロードバイクまで置かれていた。

 

 森の中にあってよいものではない。

 

 しかし、ある。

 

 ヴァルトは扉の前で、少しだけ複雑な気持ちになった。

 

 便利だ。安全だ。快適だ。自分の結界と探査ずらしを重ねれば、外からは古い小屋にしか見えない。ここに戻れると思うだけで、森の圧は少し弱まる。だが、納得したかと問われれば、別の話だった。

 

 便利すぎる。

 

 安全すぎる。

 

 快適すぎる。

 

 だから腹立たしい。

 

 真壁はそんなヴァルトの顔を見ても、何も言わなかった。ただ扉の前に立ち、状態を確認する。結界の揺れ、偽装の乱れ、周囲の足跡、雨水回収の詰まり。ひとつずつ目を通す仕草には、作った者の執着より、使う道具を保つ者の冷静さがあった。

 

 ヴァルトが扉を開ける。

 

 中の空気は、森の湿気と切り離されていた。乾いた空調の気配があり、壁は静かに外の音を遮っている。窓の外には木々の影が揺れているのに、室内には現代の設備の低い音があった。炭焼き小屋の煙、森の苔、魔物の唸り声。そのすべてを通ってきた後で、この空間に入ると、違和感が遅れて腹の底に落ちる。

 

 ここは森の中だ。

 

 それなのに、森だけの場所ではない。

 

「石場町の臨時拠点は閉じる」

 

 真壁が言った。

 

 ヴァルトは振り返る。

 

「あれは役目を終えた場所だ」

 

 短い言葉だったが、意味は重かった。

 

 石場町での臨時販売と支援は終わった。押入商会が石場町に常駐するわけではない。補償や復旧は領主家の仕事へ戻る。臨時拠点を残しておけば、便利ではある。だが、便利さが責任の境を曖昧にすることもある。

 

 真壁は、その線を閉じようとしていた。

 

 ヴァルトは頷いた。

 

「承知しました」

 

「代わりに、こちらを登録しておこう。ヴァルト殿の住まいへ通じ、森の様子も見られる。道具としては、こちらの方が働く」

 

 真壁の視界に、拠点の薄い表示が浮かんでいるのだろう。ヴァルトには見えないが、空気の中に何かが切り替わる感覚だけはあった。

 

 石場町の臨時販売拠点が消える。

 

 ヴァルト亭が、新しい拠点になる。

 

 その瞬間、ヴァルトの胸に、少し緊張が走った。

 

 自分の住まいが、押入商会の拠点になる。森の中で、ひとり隠れる場所だったはずの小屋に、商会の線が引かれる。逃げ場を奪われたような気持ちは、なかった。むしろ逆だった。

 

 戻れる線ができた。

 

 呼べる相手がいる。

 

 送ってもらえる場所がある。

 

 森の中にいても、孤立していない。

 

 それが、ヴァルトには少し怖く、少しありがたかった。

 

 

 

 肥料の話は、最初は書き物机の上で始まった。

 

 ヴァルト亭の二階は、外から見るより広かった。窓の外には森の枝葉が重なり、時折、小さな鳥が影だけを落として飛ぶ。室内には、乾いた空気と、収納から出された紙の匂いがあった。真壁は椅子に座らず、机の横に立ったまま昨日のメモを広げた。

 

 ヴァルトは向かいに座り、紙を一枚引き寄せた。

 

 有機残渣。肥料候補。農業用限定。封印継続。発酵スキルの可能性。澪の醸造スキルとの関係。昨日、採石場秘密基地で決めた言葉が、二階の机の上であらためて並ぶ。森の湿気を壁の外に置いたこの部屋で、土と匂いと腐敗の話をすることが、ヴァルトには少し奇妙に思えた。

 

「醸造は、食物を人の側へ寄せる発酵だ」

 

 真壁は、メモの端を指で押さえた。

 

「肥料は、残渣を土の側へ返す発酵、と見るべきだろうな」

 

 ヴァルトはその言葉を目で追った。

 

 食物を人の側へ寄せる。

 

 残渣を土の側へ返す。

 

 同じ発酵という言葉でも、向かう先が違う。それだけで、見るべきものが変わるのだと分かる。醸造は、澪が神様の前で味噌や醤油や酒を仕込んだ時のように、人が口にするものへ整える作業だ。肥料は、食べないものを土に戻すための作業になる。

 

「同じ発酵でも、目的が違えば見るものも違う。匂い、熱、時間、残るもの。混ぜて考えると、手を誤る」

 

「澪殿の醸造スキルを、そのまま使うものではない、ということですね」

 

「そうだ。だが、発酵を見る感覚は無駄ではない。温度を見る。匂いを見る。待つ。急がせてよいところと、急がせてはいけないところを分ける。そういう目は、こちらでも働く」

 

 ヴァルトは頷いた。

 

 魔術院にいた頃、技能は名前から学ぶものだった。術式名、分類、使用条件、禁忌、報告書。先に棚があり、そこへ自分を合わせていく。だが押入商会では、時々逆のことが起きる。澪の彫金も、醸造も、手を動かした後で名が付いた。真壁はそれを当然のように扱う。

 

「スキル名を待つより、先に作業を積む方がよい。名は、後から付くこともある」

 

 真壁の言葉は、ヴァルトの中で静かに沈んだ。

 

 名を待たずに、手を動かす。

 

 それは魔術師としては不安な考え方だった。名のないものは、分類できない。分類できないものは、許可も責任も曖昧になる。けれど行商人として素材を見る時、すべてに最初から名があるわけではない。見て、分けて、試して、その後で名が定まる。

 

 自分は今、その途中にいるのだと、ヴァルトは思った。

 

 その瞬間、胸の奥で、小さな歯車が噛み合うような感覚があった。

 

 痛みではない。魔力が暴れる感触でもない。長く探していた言葉を、ようやく手の中に置けた時のような、静かな収まりだった。

 

「……真壁殿」

 

「どうした」

 

「少し、自分を見ます」

 

 ヴァルトは鑑定を自分へ向けた。

 

 表示の中に、見慣れない一行があった。

 

 発酵:芽あり

 

 息が止まった。

 

 醸造職人でも料理人でもない自分に、その芽が出ている。だが、考えてみれば不思議ではなかった。魔物を素材として分け、有機残渣を封じ、肥料候補として見直し、土へ返す流れを考えている。酒や味噌を仕込む発酵とは違う。けれど、腐らせるのではなく、役に立つ形へ移すという意味では同じだった。

 

「発酵に、芽が出ています」

 

 真壁は驚かなかった。

 

「出るだろうな」

 

「分かっていたのですか」

 

「分かっていたのではない。出てもおかしくない、と思っていた」

 

 ヴァルトは自分の表示を見つめた。

 

 未使用のスキルポイントが一つある。

 

 温存する理由はいくつも考えられた。商才、交渉、地図、護身。行商人として伸ばすべきものは多い。だが、今ここで発酵の芽を伸ばせば、昨日から続いている有機残渣の問題に、自分の手で触れられる。

 

 ヴァルトは、迷いを短く切った。

 

 取得スキルポイントを一つ使用。

 

 発酵:芽あり

  ↓

 発酵:1

 

 表示が変わった瞬間、部屋の匂いが少しだけ違って感じられた。

 

 紙の匂い、森の湿気、収納内に封じた残渣の記憶、昨日嗅いだ血と土の混じった臭い。それらが一つに混ざるのではなく、薄い層に分かれているように感じる。良い匂いか悪い匂いかではない。何が混じり、何が変わりかけているのか、その境目がほんの少しだけ見える。

 

「発酵一になりました」

 

「よろしい。ならば、ただ見るだけでは済まんな」

 

 真壁は机の上のメモを指で押さえた。

 

「ヴァルト殿の収納にも、小さく区画を作る。投入、隔離、確認、保留。最初はそれだけでよい。大きく始める必要はない」

 

 ヴァルトは頷いた。

 

 名が付いた。

 

 ならば、次は手を動かす番だった。

 

 話はさらに長くなった。

 

 発酵と腐敗の違い。土へ戻すまでに見るべき状態。病害を出さないための隔離。臭気を外へ漏らさない収納区画。澪が現代側で調べることと、こちらで観察すること。バンデの森の知識と、エーリヒの畑の知識をどう分けるか。

 

 最初は説明だった。

 

 だが、しばらくすると、真壁の目が少し変わった。

 

 ヴァルトはそれに気づいた。真壁の視線がメモではなく、どこか見えない場所へ向いている。収納内だ。昨日の管理メモを、実際に自分の収納内で動かし始めている。

 

「ふむ……この区画は離しすぎだな。確認のたびに意識を食われる」

 

 真壁はひとりごとのように言い、紙へ線を引いた。

 

 ヴァルトはペンを止める。

 

「こちらは独立させたままでよい。危ういものを近づけて、余計に疲れる必要はあるまい」

 

 線が一本消される。別の矢印が短くなる。区画名の横に、小さな注記が足される。

 

「時間を縮めるなら、流れを急がせるより、待たせる場所を減らす方がよい」

 

 ヴァルトは、真壁の横顔を見た。

 

 これはもう授業ではない。

 

 真壁は説明しながら、自分の収納内に小さな工場を組んでいる。危険な工程を語るのではなく、どこに置き、どこで隔離し、どこで確認し、どこから先を肥料候補と呼ぶか。その流れを、収納空間の中で作業導線として組み替えている。

 

「これは、術式というより工場の配置だな」

 

 真壁は楽しそうではなかった。少なくとも、声には浮つきがない。だが、興が乗っているのは分かった。無駄を見つけ、削り、短くし、負荷を減らし、同じ結果を早く安全に出す。その過程に、真壁の目が細く光っている。

 

 ヴァルトは呆れた。

 

 同時に、目を離せなかった。

 

 収納は袋ではない。倉庫でもある。保管庫でもある。危険物の隔離場所でもあり、場合によっては処理の場にもなる。その考えは昨日聞いた。だが、真壁は今、その先へ行っている。収納を、動く工程として見ている。

 

「同じ規模で真似る必要はない」

 

 真壁が不意に言った。

 

 ヴァルトは肩を揺らした。見透かされたと思った。

 

「ヴァルト殿の収納には、ヴァルト殿の負荷がある。まずは小さく分けるところからだ」

 

「……はい」

 

 返事をしながら、ヴァルトは自分の収納を意識した。

 

 魔石、毛皮、狼肉、武器、有機残渣。そこへさらに投入、隔離、確認、保留。真壁のように大きく組むことはできない。だが、場所を分けることならできる。状態を見て、危ないものを近づけないこともできる。

 

 発酵一になったからといって、急に何でも作れるわけではない。それでも、収納内に置いた有機残渣の気配を思い出すと、ただ腐っていくものと、土へ返すために見守るものの違いが、ほんの少しだけ意識できた。

 

 できることから始める。

 

 それは、森の地図を読む時と同じだった。

 

 

 

 時間の感覚が、少し曖昧になっていた。

 

 窓の外の光が変わっている。森の影が長くなり、二階の壁に枝の模様が濃く映っていた。ヴァルトの前には、書き込みで黒くなった紙が数枚重なっている。真壁のメモは、最初に広げた時とは別物になっていた。

 

 区画の順番が変わり、矢印が短くなり、確認の場所が減り、独立させるべき場所だけが残っている。危険判定を先に置くことで後の負荷を軽くし、待つ場所を減らし、並行できるところだけ並行させる。ヴァルトには、そのすべてを真似できるとは思えなかった。けれど、真壁が何を減らし、何を残しているのかは、前よりずっと分かる。

 

 真壁はふと、収納内を鑑定した。

 

 そのまま、わずかに黙った。

 

 ヴァルトは嫌な予感がして、顔を上げた。

 

「……できたな」

 

 真壁の声は静かだった。

 

 喜びも驚きも少ない。棚の上の茶器を数えていて、ひとつ余分に見つけた程度の声だった。だからこそ、ヴァルトの方が固まった。

 

「真壁殿。今、何をしたのですか」

 

「理屈を確認していたに過ぎん」

 

「確認で、肥料ができるのですか」

 

「形になるのが、少々早かっただけだ」

 

 ヴァルトは言葉を失った。

 

 真壁は収納から小さな瓶を取り出した。中には、白っぽい粒が少量入っている。魔石の輝きはない。薬のような色でもない。石粉にも似ているが、鑑定の気配は違う。真壁はそれを光に透かし、さらに確認する。

 

「農業用肥料候補。危険物判定はなし。少量試験推奨。土壌状態確認。大量投入不可。作物別反応確認」

 

 真壁は淡々と読み上げ、小さな紙片に「肥料候補一号」と書いた。

 

 ヴァルトは瓶を見た。

 

 それは武器ではない。魔道具でもない。売れば金になるかどうかも分からない。だが、もし畑に入れば、土が変わるかもしれない。土が変われば、収穫が変わる。収穫が変われば、保存食も、飼料も、家畜も、子どもの皿も変わる。

 

 昨日、澪が静かに抱えていた願いが、瓶の中の白い粒へつながっている。

 

 真壁は瓶を収納へ戻さず、机の上に置いた。

 

「来年の芋は、いささか面白いことになるだろう」

 

「芋、ですか」

 

「増産の目が見えた」

 

 真壁は修正したメモを畳んだ。

 

「これはエーリヒ殿に預けるのがよい。畑を知らぬ者が、机の上で肥料を語っても始まらん」

 

 ヴァルトは頷いた。

 

 押入商会が勝手に領内へ撒くものではない。領の農政官に渡し、試験畑で見てもらう。土を知る者、作物を見ている者、領の農政を預かる者。そこへ渡して初めて、この小瓶の値打ちは測れる。

 

 その線引きに、ヴァルトは安心した。

 

 技術は進む。

 

 だが、領の仕事は領の手に戻す。

 

 押入商会は道具を出し、試し、つなぐ。そこを間違えなければ、肥料は戦の火種ではなく、畑を肥やすものとして進められる。

 

 

 

 帰る直前、真壁は二階の書き物机を見た。

 

 机の上には、修正されたメモと、肥料候補一号の小瓶が置かれている。窓の外では、森の光がさらに暗くなっていた。ヴァルトは紙をまとめながら、今日の話の量に少し疲れた顔をしている。

 

 真壁は収納へ手を入れた。

 

 次に取り出したものを見て、ヴァルトの手が止まった。

 

 薄い黒い板のような端末だった。

 

 真壁はそれを書き物机の上へ置く。

 

「サービスだ」

 

 ヴァルトはすぐには触れなかった。

 

 九〇年代日本の記憶がある。ノート型の端末という概念は分かる。だが、目の前のそれは、記憶の中にあるものとは薄さも質感も違っていた。余計な厚みがなく、表面は滑らかで、閉じられた画面の奥に、紙の束では収まりきらない量の情報が眠っているように見える。

 

「これは……ノート型の端末ですか」

 

「二〇二六年式の現代用品だ。インターネットにはつながらん。外と話す箱ではない、ということだ」

 

 真壁は淡々と言った。

 

 ヴァルトは端末を両手で持ち上げた。軽い。驚くほど軽い。王都魔術院の小型記録板よりも、九〇年代の記憶にある携帯用の機械よりも、ずっと薄い。だが、触れた瞬間に道具としての密度が分かる。

 

「中には、学習済みのローカル生成AIの言語モデルと、二〇二五年頃までの資料を入れてある。百科資料、歴史資料、農業、発酵、畜産、土壌に関する資料、それを探すための索引だ」

 

 ヴァルトの指が止まった。

 

「二〇二五年頃までの……歴史、ですか」

 

 声が、自分でも少し低くなったのが分かった。

 

 前世の記憶は九〇年代で止まっている。そこから先の約三十年。国がどう変わったのか。技術がどこまで進んだのか。人々が何を作り、何を間違えたのか。自分が知らない時間が、この薄い板の中に入っている。

 

 胸の奥で、昔の自分が目を開けた気がした。

 

 だが、真壁はその揺れを見逃さなかった。

 

「まずは農業、表計算、発酵からだ。歴史は逃げん」

 

 ヴァルトは、思わず苦笑した。

 

「……読ませる気はあるのですね」

 

「ある。だが順番がある」

 

 真壁は端末を軽く示した。

 

「質問すれば、入っている資料を探し、要約し、表にも直す。もっとも、神託ではない。出典を見ることだ。鑑定で確かめるのは、これまでと同じだ」

 

 ヴァルトは画面に映る自分の顔を見た。

 

「つまり、この箱は答えるのではなく、書庫を探すのですか」

 

「その理解でよい」

 

「書庫が、この中に」

 

「二〇二六年の現代用品だ。九〇年代の感覚で測ると、少々腹を立てることになるぞ」

 

 ヴァルトは黙った。

 

 魔術院の書庫では、知識は許可を得て読むものだった。棚を探し、写しを取り、上へ報告する。誰かが管理し、誰かが渡し、誰かが使ってよい範囲を決める。それが知識だった。

 

 だが、この端末は違う。

 

 自分で開き、自分で問い、自分で確かめるための道具だ。ローカルの言語モデル、オフラインの百科資料、世界史と日本史と科学史、農業、発酵、畜産、土壌改良、辞書、文書作成、表計算、素材帳面の雛形、作業の雛形、真壁の収納内肥料化管理メモ、用途固定の注意。外とはつながらない。それでも、書庫ひとつ分どころではない。

 

「道具は、使う者の頭を怠けさせるためのものではない」

 

 真壁は言った。

 

「届く範囲を広げるためにある」

 

 ヴァルトは端末を胸に抱えるように持った。

 

「大切に使わせていただきます」

 

「次に来るまでに、起動と保存、表の作り方だけでも触っておくとよい。肥料の話は、まだ長くなる」

 

「数時間では足りませんか」

 

「足りると思うなら、まだ入口だな」

 

 真壁の口元が、ほんのわずかに動いた。

 

 ヴァルトは、呆れたように息を吐いた。だが、その息の中に笑いが混じった。森の中で、未来の端末を抱えて、肥料の話がまだ入口だと言われている。九〇年代の自分が見たら、理解する前に怒るかもしれない。

 

 それでも、手放そうとは思わなかった。

 

 

 

 真壁はヴァルト亭の中を一度見回した。

 

 空調の低い音。蓄電設備。雨水回収の配管。保存庫。作業台。書き物机。机の上のノートPC。収納に入れ直された肥料候補一号。森の外へ続く通路。

 

 小屋の外では、夜の森が少しずつ濃くなっていた。炭焼き小屋の方から煙の匂いはもう届かない。木々の間で、鳥の声が少なくなっている。ヴァルトは端末を机に置き、改めて両手を添えた。

 

 真壁は満足したように頷いた。

 

「では、私は戻る」

 

 転移の気配が立つ。

 

 ヴァルトの結界が、外から破られるのではなく、内側から通路を避けるようにわずかに震えた。真壁はその揺れを見て、問題ないと判断したのか、それ以上何も言わなかった。

 

 次の瞬間、真壁の姿が消えた。

 

 部屋には、空調の低い音と、森の夜だけが残る。

 

 ヴァルトはしばらく、真壁が消えた場所を見ていた。

 

 森の危険は変わらない。魔物も消えない。バンデの炭焼き小屋の先にある森は、明日も危険なままだ。けれど、地図で道を読み、収納で素材を分け、拠点で戻る場所を持ち、手元には未来の書庫がある。

 

 ヴァルトはノートPCを机の中央へ置いた。

 

 薄い黒い板は、魔道具ではない。

 

 けれど、その中には、書庫とも師とも違う、新しい知識の扉が眠っていた。

 

 

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