押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第156話 養液の薬草畑

 翌朝、領都近郊の畑を渡ってきた風は、土の匂いを含んでいた。

 

 畝に沿って伸びた小麦の葉が、風を受けるたびに細い光を返している。まだ穂を出す前の青さだった。葉の高さにはわずかな違いがあり、遠くから見れば揃っている列も、近づけば育ちの遅い株や、葉先の色が薄い一角が混じっている。

 

 澪は畑へ足を入れないよう、踏み固められた道の端で立ち止まった。手には、布で包んだ小瓶を持っている。

 

 瓶の中で、白っぽい粒がかすかに触れ合った。

 

 石場町で見た石粉より粒が揃っている。薬瓶へ入っているせいか薬にも見えるが、鑑定結果を知らなければ、わざわざ大切に持ち運ぶような品には見えない。

 

 それでも、この粒が土へ入れば、収穫量だけでなく、根の張り方や土の状態まで変える可能性がある。

 

 そう思うと、瓶を持つ指へ自然と力が入った。

 

「そこで待っていてください」

 

 畑の中から声が届いた。

 

 エーリヒ・ヴァイスは、小麦の列の間にしゃがみ込んでいた。使い込まれた革鞄は畦へ置かれ、袖口には乾いた土がついている。葉の一本を指で支え、表側だけでなく裏側まで確かめてから、根元の土へ指先を入れた。

 

 澪と真壁が来たことには気づいている。それでも、手元の株を途中で放り出して来ることはなかった。

 

 抜いた指についた土を親指で崩し、湿り方を確かめる。隣の株と見比べ、腰から下げていた小さな板へ短く記録してから、ようやく立ち上がった。

 

「お待たせしました」

 

 エーリヒは畝から出ると、靴底についた土を落とした。真壁へ一礼し、それから澪の手元を見る。

 

「昨日、試したい物があると伺いました」

 

「ええ。農業用の肥料候補です」

 

 真壁はそう答えたが、小瓶へ手を伸ばさなかった。先に、畑の方へ視線を向ける。

 

「小麦の具合はいかがかな」

 

「今のところ、大きな問題はありません。ただ、奥の低い場所は少し水が残りやすい。葉の色も、こちらより薄くなっています」

 

 エーリヒが指した先では、畑がわずかに下っていた。澪には一面の緑に見えたが、よく見ると、その一角だけ葉の揃い方が違う。風が通った時にできる波も、少し浅かった。

 

「同じ畑でも、同じ土ではないんですね」

 

「水の抜け方が違えば、作物の育ち方も変わります。前の作物が何だったか、どれほど土を休ませたかでも変わるでしょう」

 

 エーリヒは答えながら、畦に置いた革鞄を持ち上げた。

 

「立ったまま扱う話ではなさそうです。こちらへ」

 

 畑の端には、農具と記録を置くための小さな作業小屋があった。扉は開け放たれ、壁際には鍬や鋤が並んでいる。中央の机には畑の区画図と厚い帳面が広げられ、土のついた木札がいくつも重ねられていた。

 

 エーリヒは椅子を勧めるより先に、机の上を片づけた。現在の小麦に関する帳面を左へ寄せ、空いた場所へ清潔な布を敷く。

 

 澪は、その上へ小瓶を置いた。

 

 二十トンの種芋を依頼してきた人の前へ、今度は片手に収まる小瓶を出している。量の落差がひどいと思ったが、エーリヒは笑わなかった。瓶を持ち上げる前に、真壁が差し出した試作記録へ目を通し始める。

 

 紙には、試作した日時と工程が記されていた。収納内で処理したこと、完成後に鑑定したこと、危険物には該当しなかったこと。使用する場合は少量に限り、土と作物ごとに反応を確かめる必要があることも書かれている。

 

「危険物ではない。しかし、大量投入は不可」

 

 エーリヒは、その一文を指で押さえた。

 

「現時点では、そう出ている」

 

「材料と工程が同じなら、次も同じ物になりますか」

 

「その確認も、これからだ」

 

 真壁の返答は短かった。

 

 エーリヒは顔を上げたが、試作品であることを責める様子はなかった。むしろ、完成した肥料として持ち込まれたのではないと分かり、わずかに肩の力を抜いたように見えた。

 

 澪は瓶の布包みと一緒に持ってきた紙を取り出した。自分の鑑定で確認した内容と、試験する場合に分けるべき項目を書き写したものだった。

 

「最初は、畑の一角だけで試したいんです。使わない場所も残して、同じ条件で比べます。量も、一度に増やしません」

 

 話しながら、澪は机の上の区画図を見た。紙の上では畑が線で分けられているが、その一つ一つに作物があり、そこへ通う人がいる。空いている升目へ試作品を置くような話ではない。

 

「場所と使う量は、エーリヒさんに決めていただきます。押入商会の判断で畑へ撒くことはしません」

 

 エーリヒは澪の紙を受け取り、試作記録の横へ並べた。二枚を何度か見比べてから、今度は小瓶を持ち上げる。

 

 白い粒が、瓶の内側をさらさらと滑った。

 

「石を砕いた物のようにも見えます」

 

「私も最初はそう思いました」

 

 澪が答えると、エーリヒは瓶を光へ透かした。蓋を開けたり、指で直接触れたりはしない。見た目と記録を確かめた後、窓の外へ視線を移す。

 

 その先には、先ほどの小麦畑が広がっていた。

 

「今の小麦には使えません」

 

 エーリヒは、迷わず言った。

 

 澪は小瓶を見た。使えない、という言葉が、思っていたより早く返ってきた。

 

「少量でも、ですか」

 

「ええ。途中で条件を変えれば、何が効いたのか分からなくなる」

 

 エーリヒは、小麦の帳面を手元へ戻した。頁には、種を播いた時期、雨の量、畑ごとの育ち方が記されている。先ほど畑で書き加えたばかりの印もあった。

 

「この小麦は、すでに育っている最中です。畑ごとの土と水の違いも、これまでの記録へ含まれています。ここで未知の肥料を加えれば、それまでの差と、肥料による差が混ざります」

 

 指先が、葉の色を記録した欄で止まる。

 

「育ちが良くなったとしても、肥料が効いたのか、雨や気温によるものか分けられない。逆に傷んだ場合は、今年の小麦を失います」

 

 窓から入った風が、机の上の紙を揺らした。

 

 真壁は紙の端を指で押さえただけで、エーリヒの言葉を遮らなかった。

 

 澪は、小麦畑を見た。朝の光を受けている葉は、試験のために並んでいるわけではない。このまま育てば刈り取られ、粉になり、誰かのパンになる。

 

 肥料候補一号ができた時、畑へ持っていけばすぐ試せるような気がしていた。

 

 試作品は形になり、鑑定結果も出ている。だから、少しだけなら前へ進めると思っていた。

 

 けれど、作物は瓶の中へ入っていない。昨日の状態へ戻して、条件を変えたところから育て直すこともできない。

 

「では、芋の畑ならどうでしょうか」

 

 澪が尋ねると、エーリヒはすぐに否定せず、区画図の束から別の紙を抜いた。

 

 来年、芋を植える予定の村と畑が記されている。水はけ、広さ、種芋を保存できる場所、植え付けへ出せる人手。以前見た農政用の帳面と同じように、作物だけでなく、作業する人と道まで一緒に書かれていた。

 

「芋で試すなら、植え付け前から区画を分けます」

 

 エーリヒは白紙を一枚取り、横長の畑を描いた。

 

 最初の区画には印を付けない。

 

「ここは、何も加えない場所です」

 

 隣へ線を引き、小さな印を一つ置く。

 

「こちらは少量」

 

 さらに隣を二つに分け、印を増やした。

 

「その次は、量を段階的に変える。ただし、最初から大きな区画にはしません。種芋も、同じ条件で保存した物を使います」

 

 澪は、エーリヒの手元を目で追った。

 

「収穫量を比べるんですよね」

 

「それだけでは足りません」

 

 エーリヒは別の欄を作った。

 

「葉の色、伸び方、病気の有無。掘り取った後は、根と芋の状態を見ます。土が硬くなっていないか、水が残りすぎていないかも確認する」

 

 紙の下へ、保存という文字が加わる。

 

「多く採れても、すぐ腐るようでは冬を越せません。保存中に傷みやすくならないかも見ます」

 

 澪は、自分の紙へ書き加えた。

 

 収穫量だけでなく、葉と根、病気の有無、土の状態と水分、収穫後の保存性まで調べる。肥料が効くかどうかという一行で済ませていたものが、エーリヒの手元で畑の一年へ広がっていく。

 

「結果が分かるのは、いつになりますか」

 

「来年、芋を植え、育て、掘り取り、その後の保存状態まで見るなら、すぐには終わりません」

 

 エーリヒは、窓の外の小麦へ目を向けた。

 

「少なくとも、本格的な試験を始めるのは来年です」

 

 澪は鉛筆を持ったまま、わずかに肩を落とした。

 

 真壁がそれを横目で見た。

 

「急ぎたかったかね」

 

「少しだけです」

 

 澪は、鞄へ戻しかけた小瓶を両手で包んだ。

 

 孤児院で見た子供たちの細い腕が浮かんだ。袖口からのぞく手首は、握れば余るほど細かった。熱を出した子を寝台へ運んだ時には、その身体の軽さに胸が痛んだ。食べていないわけではない。それでも、育つために必要なものが足りていない。

 

 この肥料が本当に役立つなら、同じ畑から採れる芋や豆を増やせるかもしれない。豆を食べ、いずれ飼料作物も増やせれば、家畜を育てる余裕につながる。子供たちの皿に身体を作る食べ物が少しずつ増えれば、病に負ける子も減らせるかもしれない。

 

「役に立つものなら、早く畑へ渡したかったんです。痩せた子供を、少しでも減らせるかもしれないから」

 

 口にすると、小瓶の中身が急に重くなった気がした。

 

 エーリヒは澪の手元を見た後、作りかけの区画図へ指を置いた。

 

「減らしましょう。そのために、来年の芋では収穫量だけでなく、何年も使える物かどうかまで見ます」

 

「はい」

 

 澪は小瓶を握る力を緩めた。待たされるのではない。畑へ届けるための道筋が、目の前の紙に引かれている。

 

 人間が試作品を作った日から、作物の季節が始まるわけではない。

 

 澪はもう一度、小麦畑を見た。風に揺れる葉は、こちらの相談など知らないまま、昨日から続く時間の中で育っている。

 

 真壁は、小瓶を急いで取り戻そうとはしなかった。エーリヒが描いた区画と、確認項目を順に見てから、静かに頷く。

 

「畑の時間は、畑を知る者に任せるべきでしょう」

 

「ありがとうございます」

 

 エーリヒは礼を述べ、試作記録の脇へ新しい札を置いた。そこへ来年の芋試験用と書き、まだ日付は入れない。

 

「作付けの予定が固まってから、必要な量を計算します。それまでは、この小瓶も押入商会で保管してください」

 

「預けなくてよいのですか」

 

「今ここへ置いても、使えません。それに、保存中に状態が変わらないかも、そちらで記録していただきたい」

 

 澪は小瓶を受け取り、蓋と札を確かめてから布で包み直した。

 

 持ってきた時と重さは変わっていない。

 

 けれど、白い粒へつながる紙は増えていた。施用しない区画、少量を使う区画、段階的に量を変える区画。葉、根、病気、土、水、収穫、保存。

 

 エーリヒは、作りかけの区画図を自分の帳面へ挟んだ。

 

「村ごとの土と、来年使える畑を確認しておきます。試験へ向く場所が決まったら、こちらから連絡します」

 

「お願いします」

 

 澪は小瓶を鞄へ戻した。

 

 机の向こうでは、エーリヒがすでに別の帳面を開いている。来年の芋畑を選ぶため、村ごとの水はけと作業時期を見比べ始めていた。

 

 

 

 作業小屋を出ると、先ほどより風が強くなっていた。

 

 畑を埋める青い小麦が、風の向きに沿って一斉に傾く。手前から奥へ波が走り、光を受けた葉の表と裏が交互に見えた。

 

 澪は鞄の上から、小瓶の位置を確かめた。

 

 持ち帰ることになった肥料候補一号は、入ってきた時と同じ場所へ収まっている。布に包まれ、蓋も閉じている。来年の芋試験用という札は増えたが、畑へ撒かれた量は一粒もなかった。

 

 少し離れた畝では、農場作業員が小麦の葉を持ち上げていた。色の薄い部分を指でなぞり、葉裏へ小さな虫がいないかを確かめる。別の作業員は畝の間へしゃがみ、土をひとつまみ取った。指先で潰してから、水路へ目を向けている。

 

 誰も畑全体を一目見ただけで、大丈夫だとは言わなかった。葉を裏返し、土へ触れ、水の残る場所を確かめ、昨日との違いを帳面へ残している。

 

 真壁の収納内では、一日のうちに試作品が形になった。だが、今年の小麦はすでに今年の雨と土の中で育っており、途中から条件を変えて別の小瓶のようにやり直すことはできない。畑での失敗は帳面の数字では済まず、誰かが冬に食べるパンを減らす。

 

 澪は、風に押されて傾いた小麦が、ゆっくり起き上がるのを見ていた。

 

「待つしかないんですね」

 

 口にすると、分かっていたはずのことが、少し重くなった。

 

「農業は、待つことも工程のうちだ」

 

 真壁は畑から目を離さずに答えた。

 

「早められない工程ですか」

 

「無理に早めれば、結果そのものを損なう」

 

 澪は鞄の肩紐を持ち直した。孤児院の子供たちへ早く食べ物を届けたいと思うほど、目の前の小麦を試験台にはできなかった。

 

 二人は畑沿いの道を歩き始めた。

 

 小麦の列が途切れる辺りには、細い水路が通っている。農場作業員が水門の板を少し持ち上げ、流れの強さを見ていた。水は畝へ直接流れ込まず、土の低い方へゆっくり回っていく。

 

 真壁が足を止めた。

 

 澪は二歩進んでから気づき、振り返った。

 

 真壁は小麦ではなく、水路を見ている。水の流れを追った後、畑の土へ視線を移し、最後に澪の鞄へ目を向けた。

 

「どうしましたか」

 

「畑では待つしかない。だが、土も季節も使わぬ場所が一つある」

 

 澪は、すぐには答えられなかった。

 

 土も季節も使わない場所を考えた時、セルマ工房の奥で白紫の光を放っていた水耕棚が浮かんだ。スポンジ培地に支えられた治癒草と、栽培槽の水へ伸びる白い根まで、澪ははっきりと思い出した。

 

「セルマ工房ですか」

 

「左様」

 

 真壁は短く答えた。

 

 あの治癒草は土に植えられていない。植物育成用の灯りが照射時間を決め、根は栽培槽の養液から必要なものを受け取っている。

 

 畑の日照は変えられない。雨の量も選べない。けれど、水耕棚なら、灯りを当てる時間も、養液の量も分けられる。

 

「養液ならば、条件を分けられる」

 

 真壁の視線が、澪の鞄へ落ちた。

 

 澪は小瓶を取り出さず、その上から手を添えた。

 

「通常の養液だけで育てる株と、肥料候補を少し加えた株を分けるんですね」

 

「同じ棚で、光と時間を揃える。差の原因を養液に絞りやすい」

 

「土の違いも、雨の違いもありません」

 

「うむ」

 

 澪は手帳を取り出し、エーリヒの試験案を書いた頁を開いた。

 

 施用しない区画、少量区、段階量区と並んだ記録の下へ続けて書こうとして、鉛筆を止める。

 

 畑の芋と、セルマ工房の治癒草は同じ試験ではない。水耕棚で薬草に良い反応が出ても、芋の収穫量が増える証明にはならない。反対に、薬草へ合わなかったからといって、畑用肥料として使えないとも決められない。

 

 澪は新しい頁を開いた。

 

 上へ「農地用」と書き、来年の芋試験、土壌別、施用量別と記す。その次の頁には「水耕試験」と書き、治癒草、通常養液との比較、少量添加と続けた。

 

「帳面も分けます」

 

 真壁が手元を見る。

 

「よろしい。結果を混ぜなければ、失敗も無駄にはならん」

 

 澪は二つの頁へ、それぞれ肥料候補一号と書き加えた。

 

 同じ小瓶から始まっても、畑へ向かう道と、薬草棚へ向かう道は別だった。

 

「セルマさんに、試験を頼みに行きましょう」

 

 手帳を閉じると、畑を渡ってきた風が髪を揺らした。

 

 背後では、小麦がまた同じ方向へ傾いている。そちらは来年まで待つ。その時間を奪わないまま、先に確かめられる場所へ、小瓶を持っていくことになった。

 

 

 

 セルマ工房の扉を開けると、乾燥薬草の青い匂いに、金属を熱した後の匂いが重なって流れてきた。

 

 窓際の作業台には、大小の小瓶が並んでいる。透明な液、薄茶色の液、底へ細かな沈殿を残した液。どの瓶にも小さな札が結ばれ、試した日、材料、加熱した時間、途中で変えた条件が細かな文字で書き込まれていた。

 

 完成品だけを残しているのではない。薬効が弱くなったものも、濁りが消えなかったものも、固形化した後で水へ戻らなくなったものも捨てられていなかった。失敗した理由がまだ分からない瓶は、それ自体が次の試験に使う記録として棚を占領している。

 

 セルマは、そのうちの一本を光へ透かしていた。

 

「セルマさん」

 

「ちょっと待って」

 

 澪が呼ぶと、セルマは小瓶を傾けた。底に沈んだ粉が液の中をゆっくり上がり、どの辺りで止まるかを見ている。

 

 沈殿が再び底へ戻るのを待ってから、札へ短く書き加えた。

 

「それで、今日は何?」

 

 小瓶を棚へ戻したセルマの目が、澪の後ろにいる真壁へ移る。

 

 真壁は、挨拶の代わりのように収納へ手を入れた。

 

 取り出された小瓶を見た瞬間、セルマの目が細くなる。

 

「真壁も一緒なら、普通の肥料じゃなさそう」

 

 澪は否定しようとして、やめた。

 

 普通の肥料なら、真壁が収納内に工程を組み、出来た翌日に農政官と錬金術師のところを回ることにはならない。

 

「農業用の肥料候補だ」

 

 真壁は小瓶を作業台へ置き、その横へ試作記録を添えた。

 

「収納内で工程を分け、有機物を処理した。鑑定では危険物に該当せず、少量試験に使えると出ている」

 

 セルマは、すぐに小瓶へ触れなかった。先に記録を引き寄せ、最初の頁から読む。

 

「大量に使ってはいけない、とも書いてあるわね」

 

「適量が分かっていないのでね」

 

「完成した肥料ではないの?」

 

「候補だと申し上げた」

 

 セルマは記録から顔を上げた。

 

「畑では試さなかったの?」

 

「今育っている小麦へ、途中から加えることはできません」

 

 澪が答えた。

 

「使わない畑と比べるなら、植える前から条件を分ける必要があるそうです。芋で本格的に試せるのは来年になります」

 

 セルマは小瓶の中の白い粒を見た。光に透かしても、色が変わったり、魔力を帯びた輝きを見せたりはしない。

 

「それで、こっちへ持ってきたのね」

 

 セルマの視線が、工房の奥へ向いた。

 

 厚いカーテンの隙間から、白紫の光が細く漏れている。

 

 三人が奥へ進むと、薬草と金属の匂いへ、水の湿った匂いが加わった。

 

 カーテンの内側には、治癒草の水耕棚が置かれている。植物育成LEDの光を受け、薄緑色の葉が白紫に縁取られていた。スポンジ培地から下へ伸びた根は栽培槽の中へ入り、薄い養液の中で揺れている。

 

 澪は、最初に六畳間へ置いた夜を思い出した。小さな治癒草を育てるための光が、段ボールの隙間から部屋中へ漏れ、眠る場所まで明るくした。その棚は今、セルマ工房の奥で、薬草を育てるための設備として落ち着いている。

 

 棚の脇では、ポータブル電源の表示が数字を変えていた。

 

 ポータブル電源の現代式の表示は読めないため、セルマは必要な数値を澪に確認し、棚の柱へ何本かの木札を掛けていた。灯りを入れた時刻、消した時刻、養液を替えた日を自分の文字と印で残し、光を長く当てすぎれば葉が疲れ、養液が濃すぎれば根が傷むことも観察から掴んでいる。

 

「今は、いつもの薄い養液です」

 

 澪は栽培槽を覗き込んだ。

 

 透明な水の中で、白い根が何本も枝分かれしている。濁りはなく、根元にぬめりも見えない。

 

 真壁が、小瓶をセルマへ差し出した。

 

「養液用の肥料試料として、使っていただきたい」

 

 セルマは受け取ったものの、すぐに蓋を開けなかった。

 

「これを、この槽へ入れるの?」

 

「全部へ入れてはいけません」

 

 澪は思わず先に答えた。

 

「通常の養液で育てる株を残します。同じ棚の中で、肥料候補を加えたものと比べないと、違いが分かりません」

 

「そうね」

 

 セルマは当然のように頷いた。

 

「今ある株を全部、試験へ回す気はないわ」

 

 棚の下から、空いている小型の栽培槽を二つ取り出す。どちらも同じ形で、以前の試験に使った札が外され、洗って乾かしてあった。

 

 セルマは二つを並べ、片方へ白い札、もう片方へ赤い札を置いた。

 

「白は、今まで通り。赤にだけ試料を入れる」

 

「光を当てる時間は揃えましょう」

 

 澪が言うと、セルマは棚の中央を空けた。

 

「同じ高さへ置く。端と中央では、灯りの当たり方が違うから」

 

 真壁は二人の手元を見ていたが、配置へ口を挟まなかった。

 

 澪は水耕棚の株を一つずつ見た。葉の数と大きさ、根の長さ、薬効の状態を《鑑定:10》で確かめる。

 

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治癒草水耕株

 

状態:良好

葉:生育中

根:白色、異常なし

薬効部位:葉脈周辺の透明汁

薬効:安定

養液濃度:適正

病変:なし

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 同じ表示に近い株を探し、二つの小型槽へ分ける。

 

 片方だけ根が長ければ、その後の差が肥料候補によるものか分からない。葉の数も、透明汁の状態も、できるだけ近いものを選んだ。

 

「こちらを基準にします」

 

 澪が白い札の槽を指す。

 

「赤い方へだけ、肥料候補一号をごく少量。養液そのものは、両方とも今まで使っていたものです」

 

 セルマは、小さな薬匙を取り出した。普段素材を量る匙よりも、さらに小さい。

 

 真壁が試作記録の余白へ、今回使う量を書き込む。

 

 セルマは現代式の重量表記を澪に確かめ、自分の札には薬匙の先へ乗せる位置を線で残した。

 

「次も同じ量を取れるようにしておくわ」

 

 ようやく小瓶の蓋を開ける。

 

 セルマは匂いを確かめたが、顔色は変えなかった。薬匙の先へ白い粒を少量だけ取り、別の小瓶で養液に溶かす。いきなり栽培槽へ落とさず、濁りや沈殿が出ないかを光へ透かして見た。

 

「今のところ、変な匂いはしない。濁りも少ないわね」

 

「それも記録へ」

 

 澪は手帳へ書き込んだ。

 

 セルマは薄めた試料を赤い札の槽へ加え、細い棒で養液を静かに混ぜた。根へ直接液を掛けず、槽全体へ行き渡らせる。

 

「最初に見るのは根ね」

 

 白い根を指先で示す。

 

「色が変わる、伸びなくなる、ぬめりが出る。そうなったら、すぐ分ける」

 

「葉の変色や枯れも確認します」

 

「大きくなれば成功、とは限らないわ」

 

 セルマは治癒草の葉を一枚持ち上げ、光へ透かした。葉脈の周囲にある透明な筋が、細く光っている。

 

「見るのは、葉の大きさだけじゃない。この透明なところがどう変わるか。薬効が増えるのか、薄くなるのか」

 

 澪は、手帳の頁を左右へ分けた。

 

 左に通常養液。右に肥料試料入り。

 

 根の色と長さ、葉の数と大きさ、透明汁の状態に加え、変色や根腐れ、養液の濁りと匂い、照射時間を記録する欄を作った。

 

 セルマが横から欄を一つ足した。

 

「摘んだ後も必要よ。同じ量の葉から、どれくらい取れるか」

 

「抽出量ですね」

 

「それと、取れた物の効き方。葉が大きくなっても、中身が薄ければ意味がないもの」

 

 さらに、試験回数の欄が加わる。

 

「一度よい結果が出ただけでは決められないわ。次の株でも確かめる」

 

 澪は、セルマが作業台へ残していた失敗品を思い出した。同じように作ったつもりでも、結果が揃わなかった小瓶。それを捨てず、条件を一つずつ残してきたからこそ、セルマは一度の成功だけでは判断しない。

 

「日々の確認は、セルマさんの《鑑定》でお願いします」

 

「澪は毎日来ないの?」

 

「毎日、私の《鑑定:10》が必要な試験にしたら、セルマさんの仕事になりません」

 

 以前、真壁がセルマへ言ったことを思い出しながら答えた。

 

 セルマは少しだけ口を尖らせたが、すぐに赤い札の槽へ目を戻した。

 

「分かってる。根と葉と養液は、私が見る。抽出も自分でやる」

 

「最後に詳しく比べる時は、私も見ます」

 

「それならいいわ」

 

 セルマは小瓶を持ち上げた。

 

「栽培と抽出までは、私が見るよ」

 

「それで結構」

 

 真壁は短く答えた。

 

 セルマは作業台へ戻り、新しい札を一枚切り出した。日付を書き、試料の出所と最初の使用量を記す。

 

 最後に、少し考えてから品名を書き加えた。

 

 養液用肥料試料一号。

 

 札は小瓶の首へ結ばれ、通常の肥料とも、完成した薬とも違う棚へ置かれた。

 

 カーテンの内側では、二つの栽培槽が同じ白紫の光を受けている。見た目には、まだどちらの治癒草にも違いはなかった。

 

 

 

 試験を始めた翌日、セルマが二つの栽培槽を見比べても、治癒草の姿に目立った差はなかった。

 

 白い札の通常区も、赤い札の添加区も、葉をLEDへ向け、スポンジ培地の下へ白い根を伸ばしている。養液は澄んだままで、肥料試料を加えた側にも濁りや異臭は出ていなかった。

 

 セルマは変化なしとだけ記録し、そこで判断を止めた。

 

 朝は灯りを入れる前に根を見て、夜は消灯前に葉を透かす。栽培槽の側面へ水位を示す線を引き、養液がどこまで減ったかも記録した。棚の中央と端で光量に差が出ないよう、二つの槽の位置は毎朝入れ替えたが、白と赤の札は外さなかった。

 

 三日目の朝、最初の違いが根に現れた。

 

 赤い札の株は、長い根だけが伸びたのではない。主根の途中から細い根が数多く分かれ、養液の中へ白い房を広げ始めていた。通常区にも枝分かれはあるが、密度が違う。スポンジ培地の下へ集まった根の量を横から見れば、どちらが添加区か札を見なくても分かるほどだった。

 

 セルマは添加区の株を持ち上げ、根元の色と手触りを確かめた。白さは保たれ、腐敗を思わせるぬめりもない。養液の匂いにも異常はなかったが、水位は通常区より早く下がっている。

 

「根が増えた分だけ、吸い上げる量も増えているのかもしれない」

 

 セルマはそう記録したが、肥料試料の効果だとはまだ断定しなかった。二つの槽へ同じ量の水を補い、通常区には通常養液だけを、添加区には記録済みの割合を崩さないよう調整した養液を戻した。

 

 五日目には、葉にも差が出た。

 

 添加区の葉は通常区より開くのが早く、色も一段深かった。単に面積が広がっただけではなく、指で支えた時の厚みが増している。葉脈の周囲を光へ透かすと、治癒草の薬効部位である透明な筋が太く、枝分かれした先まで途切れず伸びていた。

 

 セルマは、そこで初めて澪へ連絡を寄こした。

 

 その頃、押入商会侯爵領事業所では、石場町から届いた注文札が澪の机を半分ほど占領していた。

 

 針、糸、麻紐、革紐、補修布、小釘、作業手袋、小分け石鹸。戦闘後に補充した品のうち、どれがどれだけ減ったのかを売上帳と照らし合わせ、次に運ぶ箱を分けていく。

 

 作業手袋と石粉対策の布巻きは、予想より早く棚から減っていた。反対に、袋口用の細紐はまだ余裕がある。澪は前回の数量を機械的に繰り返さず、職人が実際に使った量へ合わせて補充数を書き直した。

 

 真壁は、朝に採石場秘密基地の設備を見た後、領都へ戻って報告書を受け取り、その日のうちにヴァルト亭へ向かった。翌朝には、ヴァルトが収納内の発酵区画で記録した紙が事業所の机へ置かれていた。

 

「もう行ってきたんですか」

 

「朝のうちにな」

 

 真壁は、それが朝食前なのか後なのかを説明しなかった。

 

 澪は尋ねるのをやめ、ヴァルトの記録を肥料候補一号の資料へ綴じた。収納と転移があっても、石場町の棚は勝手に補充されず、発酵中の試料も自分で記録を付けるわけではない。待っている間にも、商会の仕事はそれぞれの場所で進んでいた。

 

 セルマからの伝言を受けた澪が工房へ着いた時、試験開始から六日が過ぎていた。

 

 カーテンを開けると、白紫の光の下で二つの治癒草が葉を広げている。見比べるまでもなく、赤い札の添加区の方が育ちが早い。葉数が増え、根は栽培槽の中で細かく分枝し、通常区より広い範囲へ張っていた。

 

「これは、違いますね」

 

 澪は二つの槽の間へ顔を寄せた。

 

「違うわ。でも、大きくなっただけなら、薬草として良くなったとは言えない」

 

 セルマは添加区の葉を一枚持ち上げた。色が濃くても、治癒機能分が薄まっていれば、抽出に使う量が増えるだけである。逆に、薬効が強くなりすぎているなら、従来と同じ分量で扱うこともできない。

 

 澪は通常区と添加区を一株ずつ《鑑定:10》で確認した。

 

 通常区は、最初の鑑定と大きく変わっていない。根と葉は順調に育ち、薬効部位も安定している。

 

 添加区へ意識を向けると、表示される項目が変わった。

 

----------------------------------

治癒草水耕試験株

 

状態:生育良好

葉:成長促進、厚み増加

根:分枝増加、吸収範囲拡大

薬効部位:葉脈周辺の透明汁

薬効部位量:増加傾向

養液消費:通常区より多い

病変:なし

注意:継続観察

----------------------------------

 

「薬効部位も増えています。ただ、まだ傾向です」

 

「一株だけでは決めないわ」

 

 セルマは澪の鑑定結果を、自分の記録の横へ書き加えた。喜びを見せるより先に、次の採取日と比較方法を決める。

 

 最初の採取は九日目に行った。

 

 通常区と添加区から、同じ位置についた成熟葉を選ぶ。葉の大きさには差があるため、枚数ではなく重さを揃えた。採取した葉は白と赤の皿へ分け、使う清め水の量、抽出温度、時間も同じにした。

 

 セルマは通常区から先に《抽出》し、続いて添加区を処理した。

 

 同じ重さの葉を使ったにもかかわらず、添加区では抽出後に回収できた治癒機能分の量が多かった。液の色にもわずかな違いがあり、セルマ自身の《鑑定:3》にも、通常区より強い反応が現れた。

 

 それでも、セルマは二本の小瓶へ試験品、使用不可と記した札を結んだ。傷へ塗ることも、既存のポーションへ混ぜることもしない。

 

「私の抽出が、たまたま上手くいった可能性があるわ」

 

 セルマは小瓶を光へ透かしながら、次の試験へ使う器具を洗い始めた。

 

 二度目は、抽出する順番を入れ替えた。添加区を先に処理し、通常区を後にする。採取する時刻も揃え、LEDの照射時間と養液交換の記録を確認してから葉を摘んだ。

 

 二度目も、添加区では単位重量当たりの治癒機能分が多く、その反応も強かった。

 

 セルマは結果を二本目の札へ書き込んだが、肥料試料の効果とはまだ断定しなかった。最初に分けた株だけが、もともと育ちやすかった可能性を消すため、新しい小株でも同じ条件を組み直した。

 

 試験開始から二週間を過ぎる頃には、澪の石場町向け補充帳が次の頁へ移っていた。

 

 追加の作業手袋と石鹸はすでに石場町へ運ばれ、返ってきた注文札には、今度は荷車用の応急金具と太針が書き加えられている。真壁の机には、採石場秘密基地とヴァルト亭から届いた記録が別々の束になり、肥料候補一号の保管状態にも変化なしと追記されていた。

 

 セルマ工房では、組み直した二度目の栽培試験にも差が現れていた。

 

 肥料試料を加えた槽では、通常区より早く根が分枝し、白い根の房が栽培槽へ広がった。葉は濃く厚くなり、養液の減りも早い。葉脈周辺の透明汁は一度目の株と同じように増えている。

 

 三度目の抽出を終えたセルマは、通常区と添加区の小瓶を採取日ごとに並べた。

 

 照射時間、養液量、肥料試料の投入量、根と葉の変化、採取した葉の重量、抽出温度と時間は、すべて札と帳面で追えるようになっている。栽培槽の位置を入れ替えても、抽出の順番を変えても、新しい小株へ替えても、添加区では同じ方向の差が出た。

 

 セルマは赤い札の抽出液へ《鑑定》を使った。

 

 これまでより強い治癒機能分の反応が返ってくる。

 

 それでも蓋は開けず、通常区の三本と添加区の三本を、それぞれ仕切りのある箱へ収めた。箱には、養液用肥料試料一号、比較試験品、直接使用不可と書いた札を結ぶ。

 

 肥料試料を加えた治癒草は、ただ大きくなったのではなかった。根の張り方と養液の消費が変わり、葉の厚みと透明汁の量にも差が出た。その葉から取り出した治癒機能分も、繰り返し強い反応を示している。

 

 セルマは三度分の記録を閉じ、小瓶の箱を両手で持ち上げた。次は澪の《鑑定》で抽出物の状態を詳しく確かめる番だった。

 

 

 

 セルマが押入商会侯爵領事業所へ入ってきた時、澪は石場町へ送る補充箱の札を付け替えていた。

 

 扉を開ける音は普段と変わらなかったが、床を踏む靴音が少し速い。走ってきた様子はなく、息も乱れていない。それでも、いつものセルマなら作業台の前までに一度は棚や荷箱へ目を向けるところを、今日はまっすぐ澪の机へ向かってきた。

 

 セルマの顔を見るより先に、澪の目は両手で抱えられた木箱へ向いた。

 

 箱の中は仕切られ、小瓶が二列に分けられている。白い札を結んだ小瓶と、赤い札を結んだ小瓶。採取日ごとに番号が振られ、瓶の向きまで揃っていた。その上には、水耕棚の記録帳が重ねられている。

 

 通常養液で育てた治癒草と、肥料試料を加えた養液で育てた治癒草。

 

 セルマは、二つを混ぜずに持ってきた。

 

「あの肥料試料、大量に欲しい」

 

 木箱を机へ置くなり、セルマは結論だけを言った。

 

 澪は手にしていた荷札を補充箱へ置いた。すぐに在庫を答える代わりに、木箱へ目を戻す。

 

「先に、理由を聞かせてください」

 

「見せた方が早いわ」

 

 セルマは記録帳を開いた。

 

 最初の頁には白と赤に分けた栽培槽が描かれ、その後に日々の変化と三度の抽出結果が続いていた。セルマは二組の株で試し、槽の位置と抽出順を入れ替えても差が残った欄を指で押さえた。

 

「葉の重さも、使った水も、抽出時間も揃えた。それでも同じ差が出たよ」

 

 セルマは白い札の欄を指した。

 

「こちらは、今まで通り。初級ポーションへ使う治癒草の抽出物になった」

 

 次に、赤い札の欄へ指先を移す。

 

 単位重量当たりの治癒機能分は添加区で増え、セルマ自身の《鑑定:3》でも強い反応が三度続いていた。

 

「肥料試料を加えた方は、ただのポーション用じゃない。上級ポーション級のエキスが取れるようになった」

 

 セルマの声には興奮があったが、浮ついてはいなかった。

 

 すぐに赤い札の小瓶を一本取り、澪へ差し出す。蓋には封がされ、札には直接使用不可と書かれている。

 

「完成した上級ポーションではないわ。治癒機能分が、そのくらい強いということ」

 

 澪は小瓶を両手で受け取った。

 

 液体は透明に近いが、光へ透かすと、ごく淡い緑色が見える。瓶を傾けても沈殿はなく、液の粘りも通常の抽出液と大きく違うようには見えなかった。

 

 見た目だけなら、白い札の小瓶と取り違えても気づけない。

 

 澪は、札の番号とセルマの記録帳を照らし合わせてから、《鑑定:10》を使った。

 

----------------------------------

高濃度治癒草抽出液

 

由来:養液肥料試験株

治癒機能分:上級ポーション級

濃度:高

保存性:試験中

用途:高位治癒薬素材

注意:直接使用不可

推奨:希釈、配合、用量試験

----------------------------------

 

 表示を読み終えた澪は、小瓶を机へ戻さず、そのまま両手で支えていた。

 

「本当に、上級ポーション級です」

 

「でしょう」

 

「でも、直接使用不可です」

 

「それも分かってる」

 

 セルマは、喜びに任せて瓶を開けようとはしなかった。澪の手から受け取ると、封を確かめて元の仕切りへ戻す。

 

「濃すぎるのよ。このまま傷へ使った時に、治り方がどうなるかは分からない。ほかの材料と混ぜた時に、薬効が残るかも見ていないし、保存して同じ状態を保てるかも試験中だわ」

 

 澪は、鑑定表示を手帳へ写した。

 

 上級ポーション級という文字を見ると、石場町の城壁下で手当てした警備兵を思い出した。破片で深く切れた腕から血が滲み、布を押さえる指が震えていた。浅い傷には洗浄と包帯を使い、深い傷へは鑑定しながらポーションを少量ずつ使った。

 

 あの時、安定した高位治癒薬があれば、もっと早く出血を抑えられた者もいたかもしれない。

 

 けれど、強く効くというだけで、誰にでも同じ量を使えるわけではない。浅い傷と深い傷、子供と大人では必要な濃度も違う。高い薬効を持つ物ほど、売る前に用途と扱う者を決めなければならなかった。

 

「これが安定して作れたら、助かる人は多いと思います」

 

 澪はそう言ってから、赤い札の小瓶へ視線を戻した。

 

「だから、普通のポーションと同じ棚には置けません」

 

「私も置くつもりはないよ」

 

 セルマは記録帳を閉じず、抽出後の確認欄を澪へ見せた。

 

「私が保証できるのは、どんな養液で育てたか、どの葉を使ったか、どう抽出したか、それで何が取れたかまで」

 

 指先が、直接使用不可と書かれた欄で止まる。

 

「効く物が取れた。でも、誰にどれだけ使うかは、別の仕事だよ」

 

「はい」

 

 セルマは錬金術師として、素材を作り、分け、機能を確かめた。そこから先を、分かったふりで引き受けるつもりはない。

 

 机の向こうで報告書を読んでいた真壁が、記録帳へ手を伸ばした。

 

「栽培試験は何回行ったのかね」

 

「最初の株と、条件を組み直した株で二組。抽出は三回よ」

 

「養液の量は?」

 

「白も赤も同量。減った分も記録してある。赤の方が早く減ったから、補った水と養液も別に書いたわ」

 

 セルマは頁を戻し、栽培槽の水位を写した欄を示した。

 

 真壁は肥料試料の投入量、異常株の有無、槽の入れ替えと照射時間を順に尋ねた。セルマは記憶だけで答えず、根腐れも変色もなかったこと、新しい株でも根の分枝と葉の厚みに同じ差が出たことを、該当する頁を開いて示した。

 

 真壁は最後の頁まで確認すると、帳面をセルマへ返した。

 

「需要は承知した。だが、今あるのは試験量だ」

 

「これだけ?」

 

 セルマは、真壁が机へ置いた肥料候補一号の保管記録を見た。

 

「同じ品質で続けて作る設備は、まだ整っていない」

 

「でも、作れたんでしょう」

 

「少量ならばな」

 

 真壁の返事に、セルマは赤い札の小瓶を見た。

 

 売値を尋ねることも、独占して買う条件を出すこともしなかった。代わりに、記録帳の後ろへ挟んでいた紙を取り出す。

 

 そこには、次に増やす添加区画と、必要になる肥料試料の量が書かれていた。濃度を段階的に変える区画、保存試験へ回す抽出量、配合を確かめるために残す分まで計算されている。

 

「三回で終わりにはできないわ。濃度を変えた時に、根や薬効がどうなるかも見たい。保存試験も、配合試験も必要になる」

 

 セルマは紙を真壁の前へ置いた。

 

「だから、大量に作れるようにして」

 

 真壁は必要量の欄へ目を通し、すぐには返事をしなかった。

 

 澪は通常区と添加区に分けられた小瓶を見た。売り物はまだ一つもない。それでも、その箱には、セルマが次の試験へ進むための明確な需要が生まれていた。

 

 

 

 セルマが持ってきた木箱は、押入商会侯爵領事業所の机を半分ほど占領していた。

 

 白い札の小瓶と赤い札の小瓶は、仕切りを挟んで並んでいる。同じ治癒草から抽出された液体でも、一方は従来の初級ポーション用素材で、もう一方は上級ポーション級の治癒機能分を持つ試験素材だった。

 

 澪は新しい帳面を開き、最初の頁へ肥料候補一号と書いた。

 

 その下へ用途を書こうとして、鉛筆を止める。

 

 農業用肥料候補とだけ書けば、セルマ工房で起きたことが収まらない。養液用肥料試料と書けば、エーリヒと約束した来年の芋試験が抜け落ちる。同じ白い粒から始まっていても、確認することも、使う場所も、結果の意味も違っていた。

 

「帳面を分けます」

 

 澪は開いたばかりの帳面を机の中央へ置いた。

 

「農業用と薬草養液用を同じ頁で管理すると、どちらへ何グラム渡したのか分からなくなります。試験結果も混ざります」

 

「その方がいいわ」

 

 セルマは赤い札の小瓶を箱へ戻しながら頷いた。

 

「治癒草で薬効が上がったからといって、芋でも同じ結果になるわけじゃないもの」

 

 澪は一冊目の表紙へ、農政試験用と書いた札を貼った。

 

 エーリヒが来年の芋畑で使う分である。畑を区画に分け、肥料を加えない場所と比較しながら、葉や根、土、水分、収穫量を確かめる。掘り取った後も終わりではなく、保存中の傷み方まで記録することになっていた。

 

 二冊目には、薬草養液試験用と書く。

 

 こちらはセルマ工房の閉じた水耕棚だけで使う。通常養液へ加える量、LEDの照射時間、根や葉の変化、単位重量当たりの治癒機能分と薬効を追い、強い反応が出た素材は通常品から分けて保管する。

 

 真壁は二冊の表紙を見比べ、農政試験用の帳面を左へ、薬草養液試験用を右へ置いた。

 

「供給番号も別にし給え。同じ白い粒でも、渡した先から別の試験になる」

 

 澪は一冊目に畑の区画番号を、二冊目には水耕槽の番号を記す欄を作った。これは肥料候補をどこへ渡したかを追うための分類である。

 

 セルマが右の帳面を引き寄せた。

 

「工房では、育った後も分けるよ。通常区の抽出物と、高薬効の試験素材は同じ箱へ入れない」

 

 こちらは治癒草から得た抽出物の分類だった。澪は栽培株の番号から抽出瓶までつながる欄を作り、セルマが持ってきた白札と赤札の番号を書き写した。

 

「入口と出口の両方を分けるわけですね」

 

「左様。用途が増えれば、流れも増える」

 

 売上欄は、まだ作らなかった。

 

 セルマが欲しがっているのは、完成した商品の仕入れではない。肥料試料を使った栽培試験と、高薬効素材を安定して作るための試験を続ける量だった。

 

「今ある肥料候補は、どちらへ回すの?」

 

 セルマが尋ねた。

 

 真壁は、肥料候補一号の保管記録を開いた。

 

「まずは薬草用へ、次の比較試験に必要な量だけ出す」

 

 澪は真壁の顔を見た。

 

「エーリヒさんの分は?」

 

「来年の作付けまで時間がある。農政用は、試験計画と必要量が決まってから揃えればよい」

 

「セルマさんへ全部渡すわけではありませんよね」

 

「無論だ」

 

 真壁は保管量の一部へ線を引いた。

 

「保存状態を見る分と、次回生産時の比較標本は残す。セルマ君へ渡すのは、濃度別の試験を始められる最小量だ」

 

 セルマは少し不満そうに眉を寄せた。

 

「大量に欲しいと言ったのだけど」

 

「大量生産の設備がない状態で、大量使用の約束はできません」

 

「だったら、早く作って」

 

「需要として記録しておこう」

 

 真壁の返事は変わらなかった。

 

 澪は二冊の帳面へ、それぞれ供給予定を書き込んだ。

 

 農政試験用は来年の芋へ向けて必要量未確定。薬草養液試験用は、セルマ工房へ次回試験分を少量供給する。

 

 同じ白い粒が、片方では芋や豆を増やす可能性を持ち、もう片方では治癒草の薬効を強くしていた。

 

 用途が増えたからこそ、どの畑へ何を使い、どの薬草から何が取れたのかを別々に追う必要がある。

 

 澪は二冊の帳面を重ねず、机の左右へ置いた。

 

「エーリヒさんにも報告します」

 

「そうすべきだろう」

 

 真壁は農政試験用の帳面へ手を添えた。

 

「薬草で強い反応が出た。畑へ入れる前に、知っておくべき情報だ」

 

 セルマは水耕試験の記録を写すため、必要な頁を開いた。澪はその横で、エーリヒへ持っていく報告書へ、上級ポーション級という結果だけでなく、根の分枝、葉の厚み、養液消費の変化も書き加えた。

 

 

 

 エーリヒは、報告書に書かれた上級ポーション級という文字を二度読み、すぐにその下の根と葉の記録へ目を移した。

 

 作業小屋の机には、前回作った芋の試験区画図が広げられている。窓から入る風が紙の端を持ち上げると、エーリヒは片手で押さえながら澪を見た。

 

「肥料候補一号を加えた治癒草から、これほどの物が得られたのですか」

 

「はい。上級ポーション級の治癒機能分を持つ抽出エキスです」

 

 澪は封をした赤札の小瓶と、セルマがまとめた栽培記録を差し出した。

 

「通常養液で育てた治癒草より、根の枝分かれが増え、葉も厚くなりました。同じ重さの葉から取れる治癒機能分も増えています」

 

 エーリヒは、驚きを隠すように小瓶へ手を伸ばした。

 

 窓の光へ透かしても、液体は淡い緑色を帯びているだけだった。通常区の抽出液と並べれば、見た目には大きな違いがない。

 

 それでも、記録帳には明確な差が残されている。

 

「これは大きな成果です」

 

 エーリヒは小瓶を机へ戻すと、栽培記録を区画図の横へ置いた。

 

「肥料候補が、治癒草へ働き掛けることは確認できた。根の張り方まで変わるなら、畑で試す価値は十分にあります」

 

 澪は、エーリヒの指がすぐに区画図へ移ったことを見た。

 

 前に訪れた時は、使える畑と作付け時期を決めるために開かれた図だった。今は、水耕棚で得られた結果を、来年の芋へつなげるための紙になっている。

 

「水耕棚では、養液から直接受け取っています」

 

 エーリヒは、赤札の小瓶を指した。

 

「畑では土を通して根へ届く。治癒草は葉と透明汁が増えましたが、芋では土の中の芋がどう太るかを見ることになる。その違いを比べられるのは、むしろ都合がよい」

 

「都合がよいんですか」

 

「ええ。肥料候補が、すべての作物を同じ形へ育てるとは考えていません。作物ごとに、どこへ強く働くかを見つければよいのです」

 

 エーリヒは新しい紙を取り、前回の区画図を写し始めた。

 

 肥料を加えない区画を基準に置き、その隣へ少量区を作る。さらに投入量を段階的に増やした区画を並べ、同じ種芋を同じ日に植えられる幅を取っていく。

 

「薬草で強く効いたなら、芋にも多く入れればよい、とはなりません。ですが、どれほどの幅で試すべきかを決める材料にはなります」

 

 鉛筆の線が、畑をいくつかの細長い区画へ分けた。

 

「最初は少量から始め、段階ごとの差を見ます。根の張り、葉の伸び、芋の数と重さを比べれば、この肥料候補が芋のどこへ働くのか分かるでしょう」

 

 エーリヒの声には、前回にはなかった弾みがあった。

 

 収穫後の芋は、すぐ食べる分と保存する分を区画ごとに分け、試験後の土も記録する。水耕棚で得られた成果は、畑で何を見るべきかを具体的にしていた。

 

「必要量は出せそうですか」

 

 澪が尋ねると、エーリヒは区画の幅を測り始めた。

 

「最初の試験区に必要な分を計算します。十分な差が出れば、次の作付けでは区画を広げられるでしょう」

 

 澪は、薬草養液試験用と農政試験用の帳面を並べた。

 

 薬草養液用には、次の濃度試験と抽出試験へ使う量がすでに書かれている。エーリヒが区画面積を計算するにつれ、もう一冊の農政試験用帳面へ新しい数字が加わっていった。

 

 真壁は二つの需要を見比べた。

 

「来年の作付けまでに、可能な限り用意しましょう。量より先に、同じ物を揃える必要がある」

 

「生産ごとに品質が変われば、投入量を比べられませんからね」

 

 エーリヒはすぐに意図を受け取った。

 

「では、最初の試験に必要な量と、比較用に残す分を分けて算出します。生産が安定した段階で、次の区画分を追加しましょう」

 

 全量を一度に要求するのではなく、肥料候補一号の生産工程に合わせて、畑側の試験も段階的に広げる。そのための数字が、紙の上へ次々に書き込まれていく。

 

「作付け前までに、村と畑を確定します」

 

 エーリヒは出来上がりつつある区画図へ、候補となる村の名を書き添えた。

 

「土の状態と人手を確認し、正式な試験計画を押入商会へお渡しします。この肥料候補を、来年の芋で必ず試しましょう」

 

「お願いします」

 

 澪は農政試験用の帳面へ、必要量算出中と記した。机の反対側には、セルマ工房へ渡す次回分を記した帳面が開いている。

 

 治癒草の薬効を育てる現在の需要と、来年の食料を増やすための需要が、二冊の帳面にそれぞれ形を持った。澪が農政試験用の供給番号を書き込む横で、エーリヒの鉛筆は次の試験区画を描き続けていた。

 

 

 

 ヴァルト亭の二階では、ノートPCの白い画面と、窓から入る森の光が机の上で重なっていた。

 

 画面に開かれているのは、発酵、堆肥、土壌改良、工程管理に関する資料だった。検索欄へ入れた言葉に応じて、ローカルの言語モデルが関連する項目を並べ、その下には参照した資料名が表示されている。

 

 ヴァルトは要約だけを読んで終わらせず、参照先を一つずつ開いていた。

 

 日本の土と、この森の土は同じではない。資料に書かれた有機物と、魔物の肉や異世界の植物から出た残渣も同じではない。画面の中にある知識は便利だったが、そのまま収納内へ当てはめれば正しい答えになるとは考えていなかった。

 

 紙の帳面には、収納内へ入れた試料ごとの番号が並んでいる。

 

 投入した日、元になった物、分けた状態、匂い、湿り気、熱の変化。画面で読んだ項目を写すだけでなく、自分の《鑑定:10》と発酵スキルで捉えた違いが、その横へ書き加えられていた。

 

 ヴァルトはペンを置き、収納内へ意識を向けた。

 

 仮設した発酵区画では、少量ずつ分けた有機残渣が変化を続けている。

 

 以前は、臭いが変わったという大まかな違いしか分からなかった。今は、熱が内側へこもっているのか、湿り気が均一に回っているのか、変化がゆっくり全体へ広がっているのかを、前より細かく捉えられる。

 

 落ち着いた発酵へ向かっている区画では、熱と匂いの変化が帳面の記録に近い順序で進んでいた。

 

 別の試料では、匂いの尖り方が違う。表面だけが湿り、内部との変化が揃っていない。ヴァルトは、その試料へ付けた境界を広げ、ほかの区画から離した。

 

 腐敗と発酵を、言葉だけで区別しているのではなかった。

 

 同じ有機物の変化でも、どのように熱を持ち、どこから匂いが変わり、何が残っていくのかが少しずつ見えるようになっている。発酵スキルが成長するにつれ、異常な変化へ早く気づき、ほかの試料へ影響する前に隔離できるようになっていた。

 

 ヴァルトは帳面の試料番号へ、保留の印を書き足した。

 

 収納内の区画と、紙の記録は必ず同じ番号で結んでいる。何を入れたのか分からない試料も、いつから変化したのか追えない試料も、肥料候補には使わない。

 

 もっとも、現在動かしているのは、机の上へ小瓶で取り出せる程度の量だった。

 

 投入、隔離、観察、保留の区画は作ったが、どれも仮設である。試料が増えれば境界を引き直す必要があり、鑑定する順番も、その都度ヴァルトが決めていた。

 

 一度、肥料候補に近い物ができても、次も同じ品質になるとは限らない。

 

 現在の収納内工程は、工場というより実験台だった。

 

 ヴァルトが次の試料を確認しようとした時、階下の結界がわずかに震えた。

 

 外から破られた反応ではない。前日に登録されたヴァルト亭の転移先が応じ、二階の空いた場所だけが静かに開いていく。周囲の結界も、それを侵入とは判じなかった。

 

 ヴァルトは椅子から立ち上がった。

 

 次の瞬間、二階の空いた場所へ真壁が現れた。

 

「真壁殿」

 

「邪魔をしたかな」

 

「いえ。試料を確認していたところです」

 

 真壁は机の上を見た。

 

 開いたノートPC、発酵資料、書き込みの増えた帳面、試料番号を整理した紙。最初に端末を渡した時より、机の上にはヴァルト自身の記録が増えている。

 

「使えているようだ」

 

「資料は読んでいます。ただ、こちらの素材へそのまま使えるとは限りませんので、収納内の状態と照らし合わせています」

 

「それでよい。書庫は、手を動かす者の代わりにはならん」

 

 真壁は空いている椅子へ腰を下ろした。

 

 ヴァルトはノートPCの画面を閉じず、机の端へ寄せる。代わりに、収納内の発酵区画を記録した帳面を真壁へ向けた。

 

「発酵の違いは、以前より分かるようになりました。熱と湿り気の進み方が揃わない物も、早めに分けられます」

 

 真壁は保留の印が付いた試料番号を見た。

 

「処理量は?」

 

「まだ多くありません。同じ条件を繰り返し、結果を比べられる量に絞っています」

 

「結構」

 

 短い返事だったが、真壁は仮設区画を責めなかった。

 

「澪殿はご一緒ではないのですか」

 

「侯爵領事業所で、セルマ殿の栽培記録と供給帳を整理している」

 

 セルマの名を聞き、ヴァルトは顔を上げた。

 

「治癒草の試験ですか」

 

「結果が出た」

 

 真壁は、赤い札を付けた小瓶を収納から取り出した。

 

 ヴァルトは受け取らず、まず札を読んだ。養液用肥料試料一号を加えた治癒草から抽出。上級ポーション級。高位治癒薬素材。直接使用不可。

 

「上級ポーション級」

 

「完成した薬ではない。だが、抽出された治癒機能分は、その水準にある」

 

 ヴァルトは小瓶を光へ透かした。

 

 見た目には淡い色の液体でしかない。しかし、肥料候補一号を加えた養液では、治癒草の根が密に広がり、葉が厚くなった。そこから得られる透明汁と治癒機能分も増え、条件を変えて繰り返した試験でも差が出たという。

 

 ヴァルトは、収納内に置かれた有機残渣へ意識を向けた。

 

 自分が分類し、境界を引き、変化を見ていた物が肥料候補となり、その先で薬草を育てている。捨てるしかなかった残渣が、上級ポーション級の素材へつながったのだ。

 

「セルマ殿は、次の試験に使う量を求めている」

 

 真壁は続けた。

 

「エーリヒ殿も、来年の芋試験へ使う量を計算し始めた」

 

 薬草は人の傷を癒やす薬へ、芋は畑の収穫を増やして人の腹を満たすことへつながる。

 

 ヴァルトは小瓶を机へ置いた。

 

「需要ができた。セルマ殿は薬草用を、エーリヒ殿は来年の芋用を求めている」

 

 真壁の声は落ち着いていたが、試作品が役に立ったという報告だけではないことを、ヴァルトは理解した。

 

 次は、同じ物を必要な量だけ作る仕事である。

 

「大量生産を頼みたい」

 

 ヴァルトは、すぐに承知とは答えなかった。

 

 収納内に作った区画を一つずつ確かめる。受け入れられる試料の量、観察へ割ける意識、異常が出た時に隔離できる余地。現在の工程へ一度に多く入れれば、どの試料が何に反応したのか追えなくなる。

 

「今の区画では、試験量までです。プラントは完成していません」

 

「承知している」

 

 真壁は収納へ手を入れた。

 

 取り出したのは、小瓶でも試料でもなかった。何枚も重ねられ、折り畳まれた大判の紙である。

 

 机の上に残っていた小瓶と帳面をヴァルトが脇へ寄せると、真壁は紙を中央へ広げた。

 

「ゆえに、設計図を持ってきた」

 

 

 

 真壁が広げた設計図は、ヴァルトの書き物机をほとんど覆った。

 

 一枚の紙へすべてを詰め込んだものではない。全体の流れを描いた図の下へ、区画ごとの拡大図と、試料番号を記録する用紙が重ねられている。

 

 線の色も一つではなかった。

 

 最初に引いたらしい黒い線の上へ、別の経路が青で書き足されている。途中で切られた矢印には、試作時に見つかった問題が短く記され、最終的に肥料候補一号へ至った経路だけが太く残されていた。

 

 ヴァルトは、紙の端へ書かれた日付を見た。

 

「これは、試作前に描いた図ではありませんね」

 

「試しながら直した」

 

 真壁は、設計図の中央へ指を置いた。

 

「肥料候補一号ができた時の配置と、各段階で確認した内容を、後から整理してある」

 

 思いついた工程を描いたのではない。

 

 実際に試料を動かし、分け、変化を確認した記録を、もう一度使える形へ戻した設計図だった。

 

 ヴァルトは、太い線の始点から指で追った。受入区画の隣に鑑定区画があり、未確認の試料はそこで止まる。先へ進める物と、異物や危険物を除く物が分かれ、さらに由来と用途ごとの分類へ送られていた。

 

「何を入れたか分からぬ工程から、同じ品は出てこない」

 

 現在のヴァルトは、受け入れた場で鑑定し、その都度置き場所を決めている。少量なら足りるが、数が増えれば確認済みと未確認が混ざる。設計図は、その混同を入口で断っていた。

 

 分類の次には、水分と状態を揃える前処理区画がある。そこを通った試料だけが番号ごとの発酵区画へ入り、隣の観察区画で熱、湿り気、匂い、変質の進み方を確かめられる。

 

「異常を見つけてから、隔離するまでが短い」

 

「別の区画を横切らせぬためだ」

 

 観察区画のすぐ脇には隔離先があり、変化の遅い物や判断のつかない物は別の保留区画へ流れる。異常も未完成も、発見してから置き場所を探すのではなく、最初から工程の中に行き先が用意されていた。

 

「待つことまで、場所にしてあるのですね」

 

「未完了品に作業場所を塞がせぬためにな」

 

 後半では、完成候補をもう一度鑑定し、結果の揃った物だけを農業用、薬草養液用、再処理用の保管区画へ分ける。各区画の番号は作業記録と結ばれ、完成品から受入時の試料まで逆にたどれた。

 

「最後だけ鑑定しても、違いが出た場所は分からない」

 

「左様」

 

 ヴァルトは設計図を、術式を解析する時の思考へ重ねた。紙にも線にも魔力はなく、《魔術式解析》の対象そのものではない。それでも、入力を整え、分岐させ、異常を逃がし、出力を揃える構造なら読み解ける。

 

「魔術式ではありませんが、組み方は似ています」

 

「流れを扱う点では同じだろう」

 

 ヴァルトは自分の収納を開き、《収納魔術》で仮の境界を引いた。

 

 現在の投入区画を少し狭め、その隣へ鑑定前の試料だけを置く場所を作る。発酵区画へ直接つながっていた動線は切り、分類と前処理を挟む。

 

 設計図と同じ大きさにはしなかった。

 

 真壁の収納内に作られた区画数を、そのまま再現すれば、境界を維持するだけで意識を取られる。観察する試料が増えすぎれば、発酵スキルで変化を追う精度も落ちる。

 

「みせてもらうよ」

 

 真壁が《鑑定》を使う気配が触れた。ヴァルトが拒まず収納内の区画を鑑定対象として示すと、仮設した受入区画と発酵区画、その間に引いたばかりの境界が真壁の視界にも形を持った。

 

 真壁は、設計図と鑑定で捉えた区画を見比べた。

 

「私の工程を、そのまま詰め込む必要はない。ヴァルト殿の収納と負荷に合わせ、区画を分け給え」

 

「はい。最初は、この部分だけを使います」

 

 ヴァルトは、設計図の保管区画から薬草養液用へ続く線を指した。

 

 セルマが求めている量は、畑全体へ使うほど多くない。次の濃度試験と抽出試験へ使う分を、同じ品質で揃えることが先だった。

 

 受け入れ、鑑定、分類、前処理、発酵、観察、隔離、保留、完成鑑定。その流れを小さく組み、薬草養液用の保管区画へ出す。

 

「まず、セルマ殿の次回試験分を作ります」

 

 ヴァルトは紙の余白へ、小規模生産列を書き始めた。

 

「同じ品質で繰り返せることを確認してから、区画を増やします。農業用は、エーリヒ殿の必要量が決まるまでに別の列を作る」

 

「その順でよい」

 

 一度に二つの需要を満たそうとして、どちらの品質も揃わなくなれば意味がない。

 

 ヴァルトは、真壁の設計図を写すのではなく、自分の収納内に置ける区画だけを選び、線の長さと境界の位置を書き直した。

 

 机の上には、肥料候補一号を実際に生んだ工程と、ヴァルトがこれから動かす小さな生産列が、並んで広がっていた。

 

 

 

 ヴァルトは薬草養液用の生産列へ最後の線を引き、試料番号を書きかけたところで手を止めた。設計図に特別な魔道具はなく、必要なのは、入ってきた物を見分け、状態ごとに分け、変化を追い、記録を残すことだった。

 

 高い《鑑定》があれば、素材の状態だけでなく、混入物や変質の兆候も見つけられる。《収納》は大量の物を消して運ぶだけではなく、工程ごとに境界を引き、異なる状態の試料を混ぜずに置ける。《発酵》が育てば、ただ腐った、匂いが変わったという結果ではなく、熱や湿り気がどのように動き、変化がどこまで進んだのかを追える。

 

 そこへ、ノートPCの中にある現代化学の資料が加わる。

 

 資料に書かれた答えを、そのまま異世界の素材へ当てはめるのではない。なぜ熱を持ったのか、なぜ匂いが変わったのか、どの条件が結果を分けたのかを考えるための道具として使う。

 

 試料番号と工程記録が残っていれば、成功を偶然の一瓶で終わらせず、前と同じ条件を組んで違いを探せる。机の端の赤札の小瓶も、セルマが光、養液、葉の重量、抽出工程を揃えたからこそ、上級ポーション級という結果に意味を持った。自分が同じ品質の肥料候補を繰り返し作れれば、その工程をセルマの棚へ、さらにエーリヒの畑へ渡せる。

 

「真壁殿」

 

 ヴァルトは顔を上げた。

 

「この形は、ほかの仕事にも使えます」

 

 真壁は答えを急がず、ヴァルトの言葉を待った。

 

「薬草なら抽出条件を揃えられる。食品なら発酵と保存を追えます。鉱物も《鑑定》で混入物を見つけ、《収納》で分ければ、素材ごとに加工へ回せる。衛生管理にも使えます」

 

 現在の収納内には仮設の発酵区画しかない。だが、同じ考え方で食品と薬草素材、加工前と加工後を分け、異常な物を隔離できる。それを扱う者が増えれば、知識は一人の工房に閉じ込められない。

 

 魔術院では、強力な術式が一人の術者とともに失われることもあった。目の前の図は逆に、誰が何を入れ、どこで確かめたかを残し、別の者が同じ結果へ近づくためのものだった。

 

「《鑑定》と《収納》を高い水準で扱う者が増え、そこへ日本の化学技術が入れば、この世界は変わります」

 

 農民の経験は畑ごとの記録となり、錬金術師の勘は抽出条件へ、商人が見てきた産地と品質は商品情報へ変わる。仕事が消えるのではなく、結果を揃えて次へ渡せる者の価値が増すのだ。

 

 ヴァルトは、真壁が成功させた工程と、自分が書き加えた小規模生産列を見比べた。

 

「これは、肥料を増やすだけの設計図ではありません」

 

 真壁は設計図の端へ指を置き、ヴァルトが引いた小さな生産列を見た。

 

 

 

「いずれ変わる。だが、今すぐ変わるものではない」

 

 真壁は、ヴァルトが書き足した小規模生産列へ目を落とした。

 

「今、肥料候補一号を同じ品質で作れる者は、何人いるかね」

 

 ヴァルトは答える前に自分の収納内を確かめた。仮設した区画は《鑑定:10》と《収納》を前提にし、発酵の変化も自分が直接追い続けなければならない。

 

「真壁殿と、これから工程を組む私だけでしょう」

 

「左様。高い《鑑定》と《収納》を持つ者は、まだ多くない。持っていたとしても、何を見て、どこで分けるかを知らねば、収納は大きな荷袋のままだ」

 

 真壁は、設計図の受入区画から完成候補の鑑定区画までを指でなぞった。

 

「スキルが工程を教えてくれるわけではない。試料番号と条件を残さなければ、次に同じ物は作れまい」

 

 ヴァルトは帳面を見て頷いた。発酵の熱や湿り気を捉えられても、昨日との違いを紙へ残さなければ、ほかの者へ渡せる工程にはならない。

 

「設備も要りますね」

 

「試料を集める者もだ」

 

 真壁は、受入区画の脇へ置かれた空欄を示した。

 

「何を入れるか決めても、材料が一度だけ届いたのでは続かない。集め、分け、運び、数を確かめる者が必要になる」

 

 原料となる有機残渣は収納から湧くものではない。食品工場や畑、家畜を扱う場所で分け、出所と量を記録し、工程へ運ぶ者が要る。収納で移動を短くしても、その前後の仕事までは消えなかった。

 

「商人が流れを作り、領主家が扱う場所を決め、農民と職人が材料を分ける。錬金術師は、薬草用に何を残すかを見る」

 

 真壁は、赤札の小瓶へ目を向けた。

 

「一人の収納へ押し込めば済む話ではない」

 

 ヴァルトは、小瓶の首に結ばれた札を見た。セルマの栽培と抽出、澪の分類、エーリヒの畑は、それぞれ別の知識で動いている。

 

「工程を教える者と、受け取って自分の仕事へ直す者も要ります」

 

「無論だ。最初の一人が、次の一人を育てる」

 

 真壁の指が、ヴァルトの描いた薬草養液用の生産列で止まった。

 

「だが、作物の時間までは教えて縮められん」

 

 セルマ工房の治癒草は、光と養液を管理した棚で数週間のうちに答えを返した。一方、エーリヒの芋試験は、植え付けから収穫、保存まで畑の季節を進まなければ結果が出ない。

 

「技術だけが先へ進んでも、人と場所は同じ速さでは動かん。セルマ殿の棚は数週間で答えを出した。エーリヒ殿の畑は、来年まで待つ。それが社会というものだ」

 

 ヴァルトは、セルマが次の試験量を求め、エーリヒが来年の区画を描き、澪が二つの需要を帳面へ分けたことを思った。速さは違っても、どの仕事もすでに動いている。

 

 真壁は、ヴァルトが引いた線の先にある試料番号の欄を指した。

 

「まず、セルマ殿へ渡す一瓶を揃え給え」

 

 ヴァルトは、思わず小さく息を吐いた。

 

「世界の変化は、肥料の小瓶からですか」

 

「腹を満たし、傷を癒やす。始まりとしては上等だろう」

 

 真壁の声は真面目だった。

 

 ヴァルトは設計図へ視線を戻した。遠い未来の変化を語る前に、自分の収納内には、まだ完成していない生産列がある。

 

 それでも、変化はすでに机の上へ届いていた。設計図の横には上級ポーション級の抽出液が置かれ、その向こうでは未来の資料を開いたノートPCが静かに光っていた。

 

 

 

 ヴァルトは、ノートPCの画面に並ぶ文字を見た。

 

 そこに収められているのは、二〇二五年頃までの日本で積み重ねられた知識だった。発酵の仕組み、土壌の扱い、素材の分離、工程の管理。九〇年代の記憶しか持たない自分にとっても、その先へ進んだ技術の多くは新しい。

 

 机の反対側には、真壁が肥料候補一号を作った設計図があり、その横にはセルマが抽出した上級ポーション級のエキスが置かれている。手元の帳面には、ヴァルト自身が《鑑定》と《収納》と発酵スキルで追った試料の変化が残されていた。

 

 日本の化学技術とこの世界の錬金術、現代道具と魔術、農民の経験と商人の流通。本来なら別々の場所にあったものが、一枚の設計図の上でつながっている。

 

 真壁と澪がこの世界へ現れただけなら、異国の知識を持つ珍しい旅人として終わったかもしれない。持ち込まれた道具も、使い切ればなくなるだけだっただろう。

 

 だが、世界改変の後、人々の仕事にはジョブとスキルが現れ始めた。

 

 畑を見る者には作物を観察する力が育ち、商人には品と客を見る力が生まれた。錬金術師のセルマは《鑑定》と《抽出》を得て、自分の工程を自分で確かめられるようになった。ヴァルト自身も、魔術院を離れ、行商人として素材と需要を扱ううちに《発酵》を得ている。

 

 異世界から来たものを、この世界は拒まなかった。

 

 道具だけを受け入れたのでもない。そこへ関わった者の仕事を、ジョブとスキルという形で世界の仕組みへ組み込み始めている。

 

「世界の側も、変わることを選んだのでしょうか」

 

 ヴァルトは、独り言に近い声で尋ねた。

 

 真壁は、すぐには答えなかった。

 

 ヴァルトが書き足した小規模生産列と、自分が持ってきた実証済みの設計図を見比べる。二枚がずれないよう、紙の端を指で押さえた。

 

「神は、我々という異物を取り込む選択をした。ならば、この世界に起きる化学変化も、覚悟の上だろう」

 

 ヴァルトは、真壁の指先の下で、有機残渣から肥料へ、肥料から治癒草へ、治癒草から高薬効のエキスへ続く線を見た。その隣には、自分が新しく引いた境界がある。

 

「ずいぶんと思い切った神ですね」

 

「選んだのは向こうだ」

 

 真壁は静かに答えた。ヴァルトは笑いかけて、結局、細く息を吐くだけにした。

 

 ヴァルトは、設計図へ視線を戻した。

 

 セルマが待っているのは、次の養液試験へ使う肥料候補である。まず必要量を同じ品質で揃え、続けて作った物にも同じ鑑定結果が出るか確かめる。その後に、来年の芋試験へ回す生産列を増やせばよい。

 

 ヴァルトは新しい紙を取り出して薬草養液用第一生産区画と書き、収納内へ意識を向けた。

 

 最初に、未確認の試料を置く受入区画を小さく切り分けた。その隣へ鑑定済みの試料だけを送る境界を作り、現在の発酵試験区画へつながっていた流れを組み直す。

 

 紙の上でも収納内でも、真壁の設計図よりずっと小さく、一度に扱える量は試験用の範囲に収まっている。それでも、投入した物と完成した物を番号で結び、同じ工程をもう一度たどれる形になり始めていた。

 

 窓の外では、マールヴェインの森が風に鳴っている。

 

 領都近郊では、エーリヒが小麦を育てながら、来年の芋試験へ使う畑を選んでいる。セルマ工房では、治癒草がLEDの光を受け、次の抽出試験を待っている。完成した肥料プラントはまだ存在せず、上級ポーション級のエキスも販売できる薬にはなっていない。

 

 それでも、セルマは次の試験量を求め、エーリヒは来年の畑に必要な量を計算している。

 

 ヴァルトは二本目の境界線を引き、設計図へ試料番号の欄を書き足した。

 

 真壁が成功させた工程の隣で、薬と食料へ続く最初の生産区画が、ヴァルトの収納内に形を取り始めていた。

 

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