押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

158 / 159
第158話 10月の川ざらい

 

 採石場秘密基地の朝は、町より少し冷えていた。

 

 石壁に囲まれた奥まった区画には、乾いた石粉の匂いが残っている。外では石を割る槌音が遠く響いていたが、この部屋まで届く頃には、音は角を削られた小石のように丸くなっていた。

 

 真壁は作業台の上へ、10月分の納品表を置いた。

 

 チタン1t。

 

 紙に書けば、たったそれだけで済む。だが、その一行のためには、黒砂を受け入れ、余計な鉱物を外し、チタン系精鉱を濃くし、高温で処理し、冷やし、形を揃え、現代側へ渡せる品質まで整えなければならない。

 

 以前の真壁は、その工程をほとんど腕力ならぬ収納力で押し切っていた。

 

 収納内で熱を握り、分離を保ち、精製を見張り、成形の最後まで意識を張り詰める。できないことではない。だが、できるということと、毎月やってよいということは別である。

 

 あれは、優雅ではなかった。

 

「さて。今月は、少しは品よく済ませたいものだ」

 

 自分の声が石壁に小さく返る。誰も聞いていないのをよいことに、真壁は少しだけ芝居がかった言い方をした。労働に品位を求めるのは悪いことではない。少なくとも、力任せに白金やチタンを絞り出す男よりはましである。

 

 収納内へ意識を向けると、すでにチタン用の工程が並んでいた。

 

 黒砂を受け入れる区画。最初の鑑定区画。砂鉄や不要物を外す分離区画。チタン系精鉱を濃くする区画。高温処理、冷却、インゴット成形、完成検査。かつては真壁が一つずつ手で支えていたものが、今は収納内プラントの流れとして固定されている。

 

 いつの間にか、真壁自身にも《収納内プラント》が生えていた。

 

 ヴァルトへ工程を渡し、透明アクリルを試作し、金属と樹脂と肥料の区画を組み直しているうちに、収納の内側がただの倉庫ではなくなっていた。物を入れる場所ではなく、物を通す場所になっている。

 

「なるほど。私の手の内にも、ようやく工場が建ったわけだ」

 

 そう呟くと、少し機嫌がよくなった。工場という言葉には、妙な満足感がある。城より実用的で、倉庫より野心的だ。真壁は嫌いではなかった。

 

 黒砂を受入区画へ流す。

 

 鑑定区画が動き、基準から外れた砂が脇へ落ちる。以前なら真壁が最初から最後まで細い意識を通していたが、今は違う。工程がまず見分け、異常だけが真壁の前へ上がってくる。

 

「よろしい。余計なものは、余計な場所へ行き給え」

 

 不純物を保留区画へ送る。命令している相手は砂である。砂へ命じている自分を客観視すると少し間が抜けているが、従うのだから問題はない。世の中、聞き分けの悪い人間より、聞き分けのよい砂の方が扱いやすいこともある。

 

 チタン系精鉱が濃くなり、高温処理区画へ入った。

 

 収納内の一部だけが白く熱を帯びる。外の作業台は涼しいままで、納品表の紙も焦げない。熱は閉じ込められ、反応は区画内だけで進む。便利ではあるが、便利という言葉で済ませるには、内側で動いている制御が少々細かすぎる。

 

 真壁は、工程ごとの鑑定結果を眺めた。

 

 温度の上がり方。反応の進み方。冷却後の歪み。インゴットへ固めた時の内部の乱れ。完成検査でわずかに外れたものは、そのまま納品用へ送らず、再処理区画へ戻す。

 

 疲労はある。

 

 だが、以前のように頭の奥を絞られる感覚はない。工程全体を自分の指で吊り下げているのではなく、流れを見張り、異常が出た場所だけに手を入れている。その差は大きかった。

 

「手を抜いたのではない。手を抜ける形にしたのだ」

 

 澪に聞かれた時のため、先に答えを用意しておく。あの学生は、ときどき言葉の端を妙に正確に拾う。後で「真壁さん、手抜きですか」と言われる前に、こちらの理論武装を済ませておくのが賢明である。

 

 インゴットが一本ずつ完成検査を通り、保管区画へ積まれていく。

 

 重量、形状、純度、ロット番号。現代側へ渡す品には、異世界らしい曖昧さを混ぜない。品質が揃っているからこそ、次も買われる。次も買われるからこそ、こちらは高いワインを飲む権利を得る。

 

 最後の一本が検査を通ったところで、真壁は納品表へ印を入れた。

 

「チタン1t、整った。結構」

 

 満足はした。

 

 だからこそ、少し欲も出た。

 

 真壁は収納内に積まれたインゴットを見上げる。銀灰色の塊が整然と並んでいる姿は、それなりに美しい。貴族の館に飾るには無骨だが、働いた男の目には十分な眺めだった。

 

「これだけ働いたのだ。高いワインの一本くらい、許されてよかろう」

 

 言ってから、真壁は少し考えた。

 

 誰に許しを求めているのか。

 

 神か。税理士か。澪君か。

 

 最後の名が浮かんだ時点で、真壁はワインを買う前に領収書の扱いを考えるべきだと悟った。実に不愉快な現実感である。

 

「私費だな。そこは潔くしておこう」

 

 自分で自分へ言い聞かせる。チタン1tを作った男が、酒代の勘定で小さく身を正している。威厳とは、案外、日常の細部で削られるものらしい。

 

 とはいえ、褒美は必要だ。

 

 労働の質を保つための投資である。経費とは言っていない。あくまで投資である。真壁はそのあたりの言葉を慎重に選びながら、次の保管区画を開いた。

 

 タングステン系鉱物。

 

 前に白い重砂から分けた分が、少量だけ残っている。試験材としては面白い。現代側へ見せるには十分だろう。だが、継続して売れる量かと問われれば、答えは否である。

 

 チタンは回る。

 

 ならば、次はタングステンの鉱源を探すべきだった。

 

「希少だから高い。高いから欲しい。まったく、人間というものは分かりやすい」

 

 そう口にして、真壁は自分もその分かりやすい人間の列に並んでいることを認めた。欲しいものがあるから探す。高く売れるから手を伸ばす。そこに少しばかり町の役に立つ余地があれば、なおよい。

 

 地図スキルを開く。

 

 意識の内側に、これまで訪れた土地が浮かんだ。採石場秘密基地の周囲は濃く、石場町の拠点もはっきりしている。旧坑道、灰橋町方面の道、行商で通った街道、川筋。実際に歩き、見て、鑑定した場所ほど輪郭が強い。遠くの山側は薄い霧に沈んでいた。

 

 万能ではない。

 

 そこがよい。

 

 世界のすべてを無遠慮に見せる地図など、便利を通り越して下品である。自分が訪れた土地だけが開き、未踏の場所は未踏のまま残る。その暗さがあるから、次に踏み込む理由が生まれる。

 

 真壁はまず、タングステンと意識した。

 

 反応は薄い。

 

「ふむ。純金属の名札をつけて地中に寝ているほど、鉱物も親切ではないか」

 

 分かっていた結果だが、確認は必要だった。失敗した時に、最初の一手を省いたことほど腹立たしいものはない。

 

 条件を変える。

 

 以前鑑定したタングステン系鉱物に近い反応。灰重石。鉄マンガン重石。黒い砂ではなく、白灰色の石粉に混じる重い粒。石灰質の泥に隠れた重鉱物。川の曲がりに沈む堆積物。

 

 地図の上で、石場町の川筋がわずかに光った。

 

 真壁は目を細める。

 

 採石場から流れた白い石粉と、山側から来た土砂が、川の曲がりへ溜まっている場所だった。町の中を抜ける水がそこで浅くなり、取水口の近くにも似た沈みがある。

 

 タングステン鉱山を見つけたわけではない。

 

 だが、川底に灰重石らしい反応があるなら、上流のどこかに供給源がある。川が運んできた土砂は、山からの手紙だ。いささか泥まみれではあるが、読めない手紙ではない。

 

「石場町か。あの町は、石だけでなく泥まで律儀に商材を寄こすらしい」

 

 町の者が聞けば顔をしかめるかもしれない。だが、川を詰まらせる泥が商材になるなら、町にとっても悪い話ではない。迷惑な土砂を消し、こちらは原料を得る。実に品のよい取引である。

 

 真壁は、チタン1tを現代側納品区画へ移した。

 

 検査用サンプルとロット番号をまとめ、澪が確認しやすいように紙の記録も別に作る。これを怠ると、六畳間で「真壁さん、帳面がありません」と言われる。あの声には、妙に逃げ場がない。

 

「書類も整えた。これで澪君に叱られずに済む」

 

 口にした瞬間、真壁は自分がかなり小さな勝利を喜んでいることに気づいた。白金やチタンを扱う男が、帳面で叱られないことを成果に数えている。人生とは、なかなか味わい深い。

 

 地図上の石場町拠点へ意識を合わせる。

 

 警備隊詰所近くの小広場。荷車が入り、町の者が集まり、以前の取引と作業で押入商会の存在を覚えられている場所である。いきなり川辺へ現れるより、ずっとよい。

 

 仕事には順序がある。

 

 たとえ収納で川底を一息にさらえるとしても、町の川へ勝手に手を入れるのは美しくない。まず拠点へ出て、町役か石工の親方へ話を通す。許可を得てから、邪魔な土砂をいただく。

 

 名目は、試料採取。

 

 実態は、川ざらい。

 

 ついでに、タングステン探索。

 

「一石三鳥というやつだな。石場町で言うには、少々出来すぎているが」

 

 軽口を置き土産に、真壁は転移を起動した。

 

 秘密基地の石壁が遠ざかり、次の瞬間、石場町拠点の小広場へ空気がつながる。

 

 10月分のチタンは整った。

 

 次に扱うのは、川底の白い泥である。

 

 

 

 転移の揺らぎが収まると、真壁の靴底は石場町の小広場を踏んでいた。

 

 警備隊詰所の横にある、荷車を一時的に置けるほどの広さの場所である。以前、拠点として登録した時と同じく、地面には石粉が白く残り、荷車の轍が浅く刻まれていた。朝の光を受けると、広場全体が薄く灰をかぶったように見える。

 

 町の者が二人、詰所の前で話していた。

 

 真壁が現れた瞬間、一人は腰へ手をやり、もう一人は目を丸くした。だが、すぐに警戒より理解の方が勝ったらしい。押入商会の真壁だと分かると、慌てて頭を下げた。

 

「押入商会の真壁様、でしたか」

 

 呼び方が少し大げさだな、と真壁は思った。様を付けられるほど善行を積んだ覚えはないが、土砂をいただきに来た身としては、ここで訂正するのも面倒である。

 

「町役か、石工の親方に取り次いでいただきたい」

 

 用件を先に出す。こういう町では、長い前置きより、誰に会うべきかを示した方が早い。真壁は、白い石粉が付いた荷車の車輪を見ながら、川筋の反応を思い出していた。

 

「川の件でしょうか」

 

 兵の顔に、すぐ思い当たる色が浮かんだ。やはり、町ではすでに問題になっているらしい。

 

「左様。少々、川底を見たい」

 

 川底を見たい、という言い方は穏やかでよい。実際には見たあとで収納するのだが、最初から川底を消しに来たと言えば、相手の心臓に悪い。

 

 町役が来るまでの間、真壁は詰所の横から川の音を聞いた。

 

 音が浅い。

 

 水量そのものが少ないのではなく、川底が上がり、流れが広がって薄くなっている音だった。深さのある流れなら、石へ当たる音にも重さが出る。今の音は、皿の上へ水を流しているように軽い。

 

 やがて、町役と石工の親方が連れ立って来た。

 

 町役は帳面を抱え、石工の親方は袖をまくったままだった。仕事の途中で呼ばれたらしい。二人とも、こちらを見る顔に期待と警戒が混じっている。便利な相手が来たという顔と、何を持っていかれるのかという顔である。

 

「真壁殿、川を見たいと聞きましたが」

 

 町役の声は丁寧だったが、腹の内では計算している。真壁はその慎重さを好ましく思った。町の水を預かる者が、すぐに喜ぶだけでは困る。

 

「秋雨の後、川底に土砂が溜まっているようですな」

 

 真壁は川筋へ歩きながら言った。地図で見た反応と、耳で聞く水音が重なっている。答え合わせとしては、なかなか悪くない。

 

「ええ。採石場の方から白い泥が流れまして。砂利も多い。曲がりのところと、取水口の前が浅くなっています」

 

 町役が帳面を開いた。苦労の跡がある帳面だった。水位、雨の日、土砂を掻いた人数が記されている。こういう紙は信用できる。愚痴だけでなく、数字があるからだ。

 

「次の雨で溢れると?」

 

 真壁は川へ向けた視線を動かさず尋ねた。答えは分かっているが、町の者の口から聞く必要がある。

 

「溢れるとまでは言いたくありませんが、取水口が詰まれば水車も止まります。川ざらいをするにしても、人手も荷車も足りません」

 

 町役の声には、言いたくないことを言っている重さがあった。真壁は頷く。問題は、土砂を掘ることだけではない。掘った泥をどこへ運ぶか、誰が運ぶか、運んだ先で何の役にも立たないことまで含めて、町の負担になる。

 

 川へ出ると、白灰色の泥が浅瀬に広がっていた。

 

 水は濁り、底の石がぼやけている。川の曲がりでは、流れの外側に砂利が寄り、内側には細かな白泥が厚く溜まっていた。取水口の前では、石粉が沈み、水の通り道を狭めている。

 

 石工の親方が、棒を川底へ差し込んだ。

 

「ほら、この通りです。底が上がっちまっている。掘っても掘っても、白い泥が重くて運び出せねえ」

 

 親方の声には怒りより疲れがある。石を扱う者でも、濡れた泥を荷車で運ぶのは好きではないらしい。当然だ。石は売れるが、泥は腰を痛めるだけである。

 

 真壁は川底を《鑑定》した。

 

 石灰質の白い石粉。細かな石英砂。長石混じりの白砂。粘土質の沈泥。角の取れた砂利。そして、重い粒がわずかに底へ沈んでいる。

 

 地図で見た反応と同じだった。

 

 真壁は、心の中で薄く笑った。

 

 邪魔者の顔をして、なかなか良い品が沈んでいる。石場町は、町ぐるみで商材を川へ冷却保管していたらしい。もちろん、そう言えば怒られるので、言わない。

 

「川底の土砂を、試料として引き取らせていただきたい」

 

 町役と親方が、同時に真壁を見た。

 

 驚き方がよい。人間は、不要なものに値段がつく時、まず疑う。健全な反応である。

 

「試料、ですか」

 

 町役の声が半音上がった。真壁は、相手がこちらを詐欺師か変人か判断しかねているのを感じた。どちらも完全には外れていないので、少し困る。

 

「左様。こちらとしては、石粉と土砂の性質を見たい。町としては、川底が下がる。双方に利がある」

 

 真壁は簡潔に言った。利害を飾る必要はない。善意だけで川をさらうと言うより、試料が欲しいと言う方が、相手も受け入れやすい。

 

「持っていけるのですか、この量を」

 

 親方が川底を棒で突いた。疑いより期待が混じっている。真壁はその目の変化を見逃さなかった。重い泥を運ばずに済むかもしれないという期待は、人を素直にする。

 

「持っていける。水まで奪う気はありませんがな」

 

 冗談のつもりで言ったが、町役が一瞬だけ真顔になった。しまった、と真壁は思った。水を扱う町役に対して、水を奪う冗談は少々趣味が悪い。

 

「水は戻します。川底の形も、必要以上には崩さない」

 

 すぐに補う。言葉の後で、真壁は自分の失言を内心で棚に上げた。優雅を目指しているのに、時々こういう石ころを踏む。

 

 町役は親方を見た。

 

 親方は川と真壁を見比べた後、腕を組んだ。

 

「護岸を支えている石まで取られると困ります」

 

 職人の目だった。そこを言える者がいるなら、作業はやりやすい。

 

「それは残す。むしろ、底の流れを整える」

 

 真壁は川の曲がりを指した。頭の中では、収納する層と残す層をすでに分けている。取りすぎれば川岸が痩せる。残しすぎれば取水口が詰まる。優雅な川ざらいとは、欲張らぬことである。

 

「……やっていただけるなら、助かります」

 

 町役がようやく頷いた。その肩から、少しだけ力が抜けた。真壁はその変化に満足した。感謝を得るために来たわけではないが、町の不安が下がるのは悪くない。

 

「では、始めましょう」

 

 真壁は川へ近づいた。

 

 靴を濡らす必要はない。収納の縁を川底へ薄く沿わせる。

 

 水をそのまま奪わず、白泥と石粉、砂利、重い粒だけをすくい取る。川底を丸ごと消すのではなく、上へ積もった余分な層を薄く削る。護岸の足元に噛んでいる大きな石は残し、流れを曲げていた砂利だけを分ける。

 

 最初の一筋が消えた時、川の音が変わった。

 

 浅く広がっていた水が、少しだけ深い筋を取り戻す。白く濁った流れが、曲がりの先へ素直に抜けた。

 

 川岸に集まっていた町の者が息を呑む。

 

 真壁はその気配を背中で聞いた。驚きは当然だ。川底の泥が、荷車も鍬も使わずに消えていくのだから。だが、こちらとしては、泥を収納しているだけである。派手に見える地味な作業ほど、説明に困るものはない。

 

「水が、戻ったぞ」

 

 誰かが言った。

 

 その声で、町の者たちの視線が収納の不思議から川そのものへ移った。真壁は内心で頷く。見てほしいのは術ではない。水の流れだ。

 

 取水口の前へ移る。

 

 ここは慎重にやる必要があった。石粉が詰まっているが、支えになっている石まで抜けば、口の周りが崩れる。真壁は《鑑定》で石の噛み方を見て、泥だけを外す。

 

 白灰色の沈泥が収納へ消え、詰まりかけていた水の道が開いた。

 

 取水口へ流れが入り、奥で水の当たる音が変わる。

 

「おお……」

 

 石工の親方が、思わず声を漏らした。

 

 真壁は少しだけ満足する。男の感嘆としては、実に質がよい。金を数える声より、こういう水音に混じる感嘆の方が、たまにはよい。

 

「土砂を運び出すだけで、何日も掛かるところだった」

 

 親方は真壁へ向き直り、深く頭を下げた。

 

 真壁は、その礼を正面から受けた。恐縮しすぎる必要はない。こちらも得るものがある。だが、町の者にとって大仕事が軽くなったのは事実だった。

 

「不要な物をいただいただけですな」

 

 淡々と返す。言いながら、真壁は収納内に増えていく白泥と砂利の量を確認していた。不要な物、という言葉の裏で、頭の中ではすでにセメント原料、陶材、ガラス原料、そして灰重石の選別工程が並んでいる。

 

 町役は苦笑した。

 

「不要な物を持っていっていただけるなら、こちらは何度でもお願いしたいくらいです」

 

 それは危険な発言だ、と真壁は思った。こちらが本当に何度でも来る可能性を、この町役はまだ分かっていない。

 

「必要な時は、先に量と場所を見ましょう。川は、取りすぎてもよくない」

 

 真壁は釘を刺した。ついでに、自分にも言っている。鉱物が欲しいからといって、川底を痩せさせるのは愚かである。継続して得るなら、流れも町も残さねばならない。

 

 川の曲がりをもう一度整える。

 

 外側に寄りすぎた砂利を一部だけ取り、残した石で流れの筋を作る。細かい白泥は収納へ送り、粗い砂利は町で使える分として岸へ分けて置いた。

 

「この砂利は、道のぬかるみに使えるでしょう」

 

 親方へ示すと、彼は目を丸くした。全部持っていくと思っていたらしい。真壁は少しだけ得意になった。何でも収納する男と思われるのは心外である。いや、かなり収納するのだが、全部ではない。

 

「残してくれるのか」

 

「町の道へ戻した方がよい物まで持ち去る趣味はない」

 

 言ってから、真壁は内心で付け足した。趣味はないが、価値があれば少し考える。そこは商人として当然である。

 

 作業が進むにつれ、川の色が変わった。

 

 白く濁っていた流れに、石の底が見え始める。水が曲がりを抜ける音は低くなり、取水口へ向かう流れも細い筋ではなくなった。町の者たちは川岸で顔を見合わせ、誰からともなく安堵の息を吐いた。

 

 真壁は最後に、川底へ《鑑定》を通した。

 

 護岸下の支えは残っている。取水口前の詰まりは解けた。曲がりの堆積は、流れを邪魔しない程度まで落ちている。これ以上取れば、単なる素材欲しさになる。

 

 その線を越えないことが、品位というものだった。

 

「本日はここまででよろしいでしょう」

 

 真壁が言うと、町役は川を見たまま頷いた。

 

「十分です。いや、十分どころではありません」

 

 その声には、本物の安堵があった。真壁はそれを聞き、収納内の堆積物をそっと確認した。こちらも十分どころではない量がある。実に公平な取引だった。

 

 石工の親方が、再び頭を下げた。

 

「次の雨が少し怖くなくなりました」

 

 真壁は、親方の言葉を少し重く受け止めた。町の者にとって、雨はただの天気ではない。川が浅くなれば、雨は仕事場も家も奪う。こちらが手に入れた白泥は、その不安の塊でもあった。

 

「ならば、川ざらいの甲斐があったというものです」

 

 そう返しながら、真壁は内心で肩をすくめた。川ざらいなどと言うと、まるで善人のように聞こえる。実際には、鉱物が欲しくて来た男である。だが、欲と公益が同じ方向を向くこともある。そういう時は、遠慮なく利用すればよい。

 

 町役が礼金の話をしようとしたので、真壁は手で制した。

 

「今回は土砂をいただきます。それで十分です」

 

 高く売れる可能性のある泥を収納に抱えた男が言うと、なかなか堂々たる台詞である。真壁は自分で少し可笑しくなったが、顔には出さなかった。

 

 石場町の川は、まだ完全に澄んだわけではない。

 

 だが、水は流れを取り戻し始めていた。白泥で浅くなっていた曲がりには深さが戻り、取水口へ入る音もはっきりしている。

 

 真壁は小広場へ戻る前に、川上を見た。

 

 この土砂が流れてきた先がある。

 

 川底をさらえば、町は助かる。土砂を分ければ、押入商会は原料を得る。そして、灰重石が混じっているなら、上流のどこかにタングステンの入口がある。

 

 町のための川ざらいと、鉱物探索。

 

 二つは、同じ白い泥の中で静かにつながっていた。 

 

 

 

 石場町の小広場から採石場秘密基地へ戻ると、真壁はまず靴底を見た。

 

 川へは入っていない。

 

 入っていないはずなのに、靴の縁には白い泥が薄く付いている。収納で川底をさらい、水は戻し、土砂だけを抜いた。理屈の上では優雅な作業である。だが、川辺に立って泥を相手にした以上、現場の匂いはついてくる。

 

「まったく。泥というものは、礼儀を知らんな」

 

 誰も聞いていないのをよいことに、真壁は靴先を軽く払った。泥が礼儀を知っていたら、それはそれで怖い。そう思ったが、口には出さない。独り言にも品位は必要だった。

 

 秘密基地の奥へ入り、作業台の上を空ける。

 

 収納の中には、石場町の川底からさらった白灰色の堆積物が大量に入っていた。町の者にとっては、水の流れを浅くし、取水口を詰まらせ、次の雨の不安を増やす厄介な土砂である。

 

 真壁にとっては、原料だった。

 

 もっとも、そのままではただの濡れた泥である。

 

 川ざらいした区間は、町役と親方に確認させながら120mほど。川幅いっぱいを削ったわけではない。流れを邪魔していた筋を中心に、平均で3.2mほどの幅を取り、厚さはおよそ12cm。護岸を支える石と、川底の形に必要な部分は残した。

 

 真壁は作業台へ帳面を置き、指で軽く叩いた。

 

「120m、3.2m、0.12m。体積は46.08m³。湿った土砂としては、約80.64tか」

 

 数字を口にすると、川辺で頭を下げていた町役の顔が遠ざかり、急に現代側の工事見積もりめいた気配になる。情緒はない。だが、商売と工程には情緒より数量が要る。

 

 回収した湿潤土砂から水分を抜けば、乾燥固形分は約52.416t。

 

 そのうち、角の取れた粗い砂利と石片の一部、約8.416tは石場町へ置いてきた。町の道のぬかるみや、川岸の補修にすぐ使える分である。何でも持ち去るのは下品だ。町の足元に戻すべきものまで収納するほど、真壁は飢えていない。

 

「持ち帰り処理分は、44t。以前の白い重砂とは、まるで性格が違うな」

 

 以前扱った白い重砂は1.2tだった。今回は乾燥分だけで44t。重さだけなら36倍を超える。だが、量が増えたから白金や砂金が山ほど出る、という話ではない。今回の主役は、石場町らしい白泥と石粉だった。

 

 真壁は収納内プラントの堆積物処理区画を開いた。

 

 受入、鑑定、脱水、水洗い、粒度分級、脱鉄、蛍光選別、比重選別、用途別保管。チタン用の工程とは違い、こちらはまだ仮設に近い。だが、44tの川底堆積物を扱うには十分だった。

 

「さて。石場町殿からの白い贈り物を、仕分けるとしよう」

 

 言い方だけなら贈答品を開ける貴族である。実際には泥の処理だ。高いワインの前に泥を分ける。人生は、ときどき順番を間違える。

 

 堆積物を受入区画へ流す。

 

 最初に動いたのは脱水だった。白灰色の泥から水分だけを抜き、澄んだ水として保留する。混じっていた細かな粉は沈み、粗い砂利は下へ残った。収納内で水と泥と石が分かれていく様子を見ながら、真壁は《鑑定》を通した。

 

----------------------------------

石場町川底堆積物

 

処理区間:120m

平均処理幅:3.2m

平均除去厚:0.12m

湿潤回収量:約80,640kg

乾燥固形分:約52,416kg

町内再利用分:約8,416kg

持帰処理分:44,000kg

 

由来:採石場排水、石切り屑、山側沢筋の流入土砂

 

主成分:

石灰質石粉 12,600kg 28.6%

角丸砂利・石片 8,800kg 20.0%

石英砂 6,600kg 15.0%

長石混じり白砂 5,200kg 11.8%

粘土質沈泥 7,400kg 16.8%

 

含有:

灰重石 520kg 1.18%

鉄マンガン重石 310kg 0.70%

蛍石 280kg 0.64%

方解石透明片 210kg 0.48%

微量モリブデン鉱 55kg 0.13%

脱鉄分・不適合細粒 2,025kg 4.6%

 

状態:水分除去後、用途別選別中

処理推奨:水洗い、粒度分級、脱鉄、蛍光選別、比重選別、用途別保管

用途:セメント原料、ガラス原料、陶材、コンクリート骨材、特殊金属原料

----------------------------------

 

「よろしい。泥の分際で、なかなか多才ではないか」

 

 表示を読み、真壁は満足した。泥に向かって褒めている時点で、少し疲れているのかもしれない。しかし、44tの土砂がここまで行き先を持つなら、多少は褒められてよい。

 

 まず、白い石粉を分ける。

 

 12,600kg。

 

 石灰質の細かな粉は、川を濁らせていた主原因だった。水の中では厄介者だが、水分を抜き、不純物を除き、粒を揃えればセメント原料へ回せる。灰橋町の橋、石場町の水路、採石場秘密基地の床や壁。補修材はいくらあっても困らない。

 

「川を詰まらせていたものが、次は川岸を固める。実に教育的な転職だ」

 

 そう言いながら、真壁は補修材在庫へ札を付けた。教育的かどうかはともかく、石粉本人に選択権はない。素材とはそういうものだった。

 

 次に、角の取れた石片と砂利を分ける。

 

 こちらは、持ち帰った分だけで8,800kgある。大きさを揃え、細かい砂、粗い砂、小砂利、中砂利へ分ける。丸くなった石は、コンクリート用の骨材に向いていた。セメント原料と合わせれば、橋や水路、床面、ぬかるむ道の補修に使える。

 

「全部取れば儲かる、という者は、たいてい次の取引を失う」

 

 真壁は、石場町に置いてきた8.416tを思い出して呟いた。いい言葉だと思ったが、澪の前で言うと帳面へ書かれそうなので控えるべきだろう。自分で自分の標語を増やす趣味はない。

 

 細かな石英砂は、さらに慎重に処理した。

 

 6,600kg。

 

 透明度の高い部分だけを鑑定で選び、鉄分や濁りの元を外す。真壁はそれを、ただの砂としては扱わなかった。透明化し、溶かしやすい粒へ揃え、ガラス用透明ペレットとして成形する。

 

 完成した板ガラスではない。

 

 だが、ただの石英砂でもない。

 

 この世界のガラス職人が苦労する透明化の工程を、先に済ませた中間材である。ガラス屋が炉へ入れ、板にするか、薬瓶にするか、ランプの部品にするかを選ぶ。押入商会が職人の椅子を奪う必要はない。だが、職人が届かない透明を粒にして売るなら、値は立つ。

 

「板ガラスは高い。ならば、透明そのものを売るのが筋だ」

 

 真壁は透明な粒を小瓶に取り、光へかざした。泥から出たものにしては、ずいぶん澄ました顔をしている。悪くない。リュシアなら、きっと値札の付く顔で見るだろう。

 

 長石混じりの白砂は5,200kg。

 

 粘土質の沈泥は7,400kg。

 

 この二つは陶工村向けに分けた。白砂は陶器や釉薬の材料候補になる。粘土質の沈泥は、水分を抜き、異物を除き、粒を揃えれば陶土として試せる。こちらも真壁が器まで作る必要はない。土を見る目を持つ者のところへ持っていった方がよい。

 

 収納内で粘土を練り上げると、川底の臭みは消え、手触りのよい灰白色の土になった。

 

「泥も、行き先を間違えなければ土になる。人間にも同じことが言えれば、世の中はもう少し楽なのだがな」

 

 言ってから、真壁は少し黙った。あまり深いことを言ったようで、実は泥をこねているだけである。格好をつけすぎると滑稽になる。ここは作業へ戻るべきだった。

 

 最後に、本命へ移った。

 

 重鉱物の区画を暗くし、現代側から持ち込んだ紫外線ライトを点ける。

 

 白灰色の粒の中で、いくつかの小さな点が淡く光った。

 

 灰重石。

 

 黒い砂を探していた目には、少し意地の悪い出方だった。タングステンは、今回は黒い重砂の中ではなく、白い石粉に紛れていた。

 

「……なるほど。黒ければ重い、白ければ軽い、というわけでもないか」

 

 真壁は光る粒を収納で拾い上げた。こういう発見は嫌いではない。こちらの思い込みを、石が鼻で笑ってくる。腹立たしくもあり、面白くもある。

 

 灰重石は520kg。

 

 鉄マンガン重石は310kg。

 

 合わせて830kg。44tの持ち帰り処理分から見れば、2%にも満たない。だが、真壁にとって重要なのは鉱物の重さではなく、そこから取り出せる金属の量だった。

 

「粉にして眺める趣味はない。地金にする」

 

 真壁は、収納内プラントの金属精製区画を開いた。

 

 灰重石由来の白灰色の粒を別系統へ送り、鉄マンガン重石由来の黒褐色の粒も別系統へ流す。由来は内部で分ける。混ぜれば処理は楽だが、ロットが濁る。売る時に出す情報ではないが、こちらが管理する分には分けた方がよい。

 

 不純物が外され、余計な成分が別区画へ落ち、重い金属だけが少しずつまとまっていく。

 

 以前、少量を処理した時よりも工程は滑らかだった。収納内プラントが手順を覚えている。真壁が一つひとつ力で押すのではなく、工程が流れ、異常だけが上がってくる。

 

「結構。重い金属は、重いまま売るのがよい」

 

 淡く灰色を帯びたタングステン地金が、短い棒状に成形されていく。

 

 一本ごとに重量を揃え、ロットを分け、分析用の小片も別に取る。現代側に出す時、出所は言わない。鉱物名も言わない。必要なのは、タングステン地金であること、量があること、ロット管理していること、分析できること。それだけだった。

 

----------------------------------

タングステン地金

 

由来:石場町川底堆積物

原料:タングステン系鉱物 830kg

精製後重量:約500kg

状態:地金化、ロット別管理

用途:分析用、試験加工用、特殊金属材料

売却方針:全量売却

----------------------------------

 

「売れるものを眠らせる趣味はない」

 

 真壁は表示を見て頷いた。上流調査の比較用に残す、などという考えは捨てる。必要ならまた取りに行けばよい。川底に出ているなら、上流に元がある。手元にある金属は、現代側で金に替える。それが商売である。

 

 続いて、微量モリブデン鉱55kgを別区画へ送る。

 

 微量という名は、44tの泥全体から見た時の話にすぎない。金属として見れば、30kg前後の地金になる。タングステンへ混ぜれば不純物だが、分けて仕上げれば商品だった。

 

「脇役も、売れるなら舞台へ出すべきですな」

 

 モリブデン鉱から余計な成分が抜かれ、小さな地金へ成形される。タングステンと同じ値段にはならない。そこを無理に飾る必要もない。だが、値段が付くなら、脇役にも出番はある。

 

----------------------------------

モリブデン地金

 

由来:石場町川底堆積物

原料:微量モリブデン鉱 55kg

精製後重量:約30kg

状態:地金化、ロット管理

用途:分析用、試験加工用、耐熱合金材料候補

売却方針:全量売却

----------------------------------

 

 真壁は、並んだ地金を見た。

 

 チタン1t。

 

 タングステン約500kg。

 

 モリブデン約30kg。

 

 川底の白い泥としては、ずいぶん堂々とした出世だった。

 

「よろしい。泥もここまで磨けば、請求書に載る顔になる」

 

 そう言いながら、真壁は地金を現代側納品区画へ移した。チタンと同じく、重量、ロット、分析用サンプルを揃えておく。由来の札は収納の内側に残す。現代側へ出す書類には載せない。

 

 秘密は、商品に混ぜない。

 

 商品は、現代側で通る名前と数量だけでよい。

 

 蛍石は280kg。

 

 方解石透明片は210kg。

 

 脱鉄分と不適合細粒は2,025kg。

 

 今すぐ主役にはならないが、捨てるには惜しい。蛍石はガラスや錬金術素材の候補。方解石の透明片は、光を通せば文字がわずかに二重に見える。脱鉄分と不適合細粒も、低級補修材や路盤材としてなら十分働く。

 

「脇役ほど、後で急に台詞が増えるものだ」

 

 そう言って、方解石の透明片を一つ光にかざした。澪に見せれば、きっと「また変なものを拾ってきましたね」と言うだろう。悪くない。

 

 用途別の保管区画が、少しずつ埋まっていく。

 

 セメント原料。コンクリート骨材。ガラス用透明ペレット。陶工村向け白砂。陶工村向け陶土。タングステン地金。モリブデン地金。蛍石。方解石透明片。低級補修材。

 

 白い泥だったものが、札を持つ原料と地金へ変わった。

 

 真壁は地図をもう一度開いた。

 

 石場町の川筋から、上流の薄い霧がかった部分へ視線を移す。まだ行っていない場所は見えない。だが、川の流れと堆積物の反応から、どの沢を辿るべきかは少しずつ絞れる。

 

「川底の泥は、なかなか親切な案内状だったわけだ」

 

 言葉にすると、少し優雅すぎた。実物は泥である。だが、山からの手紙という表現はまだ捨てがたい。

 

 次の調査先は、石場町の上流。

 

 ただし、今は先に売るものを売るべきだ。

 

 真壁は用途別に分けた原料を整え、リュシア商会へ持ち込む透明ペレットの見本を選んだ。陶工村向けの白砂と陶土は、20kgごとに袋詰めして札を付ける。現代側へ出すタングステン地金とモリブデン地金は、チタンと同じ納品区画へ収めた。

 

 石場町では、川が流れを取り戻した。

 

 秘密基地では、その川底の白い泥が、補修材とガラス材料と陶材と地金へ分かれた。

 

 同じ土砂でも、通す工程が違えば行き先が変わる。

 

 真壁は作業台の上を片づけ、最後にタングステン地金のロット札を確認した。

 

「さて。泥の次は、商人と会社に見せる番だ」

 

 リュシアなら、透明ペレットを土砂とは呼ばないだろう。

 

 東都特殊金属試作株式会社なら、地金を泥とは思うまい。

 

 それでよい。

 

 川底の泥にも、秘密にしておいた方が値の上がる過去というものがある。

 

 

 

 リュシア商会へ入ると、帳場の空気はいつものように忙しかった。

 

 荷を数える声、木箱を引く音、インクの匂い、乾いた布の匂い。外から見れば雑然としているが、商会の内側では、それぞれの荷が行き先を持っている。真壁はそういう場所が嫌いではなかった。無駄に見える動きが、最後には金へ向かって整う。

 

 リュシアは帳場の奥で、布の見本と注文票を見比べていた。

 

 真壁を見ると、片眉を上げる。

 

「今度は何を持ってきたんだい」

 

 その声には、期待と警戒が半分ずつ入っていた。実に商人らしい反応だと、真壁は思った。押入商会が持ち込むものは、儲け話であると同時に、たいてい面倒の種でもある。

 

「ガラス業者へ回していただきたい品です」

 

 真壁は、あえて川底という言葉を最初に出さなかった。商談には順序がある。泥から始めるより、透明から始めた方が、相手の眉間にも財布にも優しい。

 

「ガラス?」

 

 リュシアの目が細くなる。

 

 真壁はその反応に頷いた。板ガラスが高い世界で、ガラスという言葉はそれだけで商人の耳を引く。少なくとも、川底の白泥よりはずっとよい入口だった。

 

 真壁は収納から、小さな透明の瓶を取り出した。

 

 中には、細かな粒が入っている。砂より揃い、砂糖より硬く、砕いた氷より澄んでいた。石場町の川底から分けた石英砂を、収納内プラントで脱鉄し、濁りを抜き、透明化し、溶かしやすい粒へ成形したものだ。

 

 ガラス用透明ペレット。

 

 ただの石英砂ではない。

 

 この世界のガラス職人が届かない透明化の工程を、真壁が先に済ませた商品だった。

 

 リュシアが瓶を受け取り、窓の光へかざした。

 

 透明な粒の間を光が通り、帳場の机に細かな輝きが落ちる。リュシアの顔から、いつもの軽い呆れが消えた。

 

「……これ、砂じゃないね」

 

 声が低くなった。

 

 真壁は内心で満足した。商品は、説明の前に相手の呼吸を変えられれば勝ちである。リュシアの顔は、もう完全に商人の顔になっていた。

 

「砂だったものです」

 

 少し芝居がかっているが、この程度なら許される。川底の白い石粉からこれを作ったのだ。多少の演出は、商品の価値を損なわない。

 

「透けてるじゃないか」

 

「左様。そこが値段になります」

 

 真壁は静かに答えた。

 

 この世界にもガラスはある。だが、透明な板ガラスや濁りの少ない薬瓶は高い。炉の温度、原料の不純物、職人の経験、歩留まり。多くの条件が重ならなければ、澄んだものは作れない。

 

 真壁が持ってきたのは、職人が苦労して届こうとする透明性を、先に材料側へ与えたものだった。

 

「ガラス職人に、これを溶かして成形させるのです。板にするか、薬瓶にするか、ランプの部品にするか、飾り物にするかは、職人の腕次第でしょう」

 

 真壁は瓶を指した。

 

 完成品の板ガラスを押入商会が作るわけではない。そこまでやれば、職人の仕事を丸ごと奪う。だが、透明化済みのペレットを売るなら、職人はそれを溶かし、形にし、磨くことで価値を上げられる。

 

 職人を潰さず、職人の上に値段を積む。

 

 真壁としては、なかなか品のよい入り方だった。

 

「つまり、ガラス屋が一番苦労しているところを、あんたが先に済ませたってことかい」

 

 リュシアの目が鋭くなった。

 

 真壁は、その理解の早さを好ましく思った。こちらが言いたい値段の理由を、相手が自分の言葉でつかんでいる。商談とは、本来こうでなくてはならない。

 

「その理解でよろしい。ただし、成形は職人の仕事です。こちらは透明な種を売る」

 

「透明な種ね」

 

 リュシアが瓶を軽く振った。

 

 中で粒が小さく鳴った。その音は、砂利の音よりずっと高い。真壁には、少しだけ硬貨の音にも聞こえた。悪くない。実に悪くない。

 

「これを、ただの砂の値段で売る気はないんだろうね」

 

 リュシアが睨むように見た。

 

 真壁は内心で少し満足した。こちらが言う前に、相手が安売りを否定してくれる。商談としては、とてもよい兆候である。

 

「もちろんです。これは川底の石英砂ではありません。透明化済みのガラス用中間材です。この世界では作れない品質なら、その不足分が価格になります」

 

 真壁は瓶の中の粒を見た。

 

 希少性だけで高く売るのは危うい。だが、相手の技術では届かない工程を肩代わりしているなら、値段には理由が立つ。透明化済みのペレットは、ガラス職人にとって、失敗を減らし、炉の時間を縮め、上等品へ近づける道具である。

 

「最初は試験量ですな。使わせて、仕上がりを見てから量と値を決める。最初から大口で騒がせるのは美しくない」

 

「美しいかどうかは知らないけど、騒ぎにはなるよ」

 

 リュシアは瓶から目を離さなかった。

 

 その顔には、どのガラス屋へ最初に見せるか、誰に伏せるか、どの程度の値を吹くか、その計算が走っている。真壁はそれを見て、やはり持ってくる相手を間違えていなかったと思った。

 

「だから、リュシア殿にお預けする。私はガラス屋に知己がない。職人の腕前も、気質も、支払いの癖も分からん」

 

 真壁は、そこを正直に認めた。

 

 知らない相手へ高価な新素材を直接持ち込むのは、優雅ではない。商売は、品物より先に相手を選ぶ。そこを間違えれば、透明なペレットも曇った値で買い叩かれる。

 

「あたしの顔を使うってわけかい」

 

「顔にも価値がある。使わず飾っておくには惜しい」

 

 真壁は淡々と言った。

 

 少々持ち上げたつもりだったが、リュシアは一瞬だけ目を細めた。褒め言葉として受け取るか、手数料を上げる口実として受け取るかを考えている顔だ。油断ならない。商人の顔は、使うにも費用がかかる。

 

「言うじゃないか。じゃあ、その顔代はもらうよ」

 

「当然ですな。ただし、透明の価値を曇らせない範囲でお願いしたい」

 

 真壁は返した。

 

 利益配分の話は後でよい。今は商品価値の芯を外さないことが先だった。透明にする技術がない世界で、透明化済みの材料を売る。そこがぶれなければ、値は立つ。

 

「量は?」

 

 リュシアが瓶を置いて尋ねた。

 

 来たな、と真壁は思った。商人が本当に興味を持った時、必ず量を聞く。値段より先に量を聞くのは、売り先を複数考えている証拠だった。

 

「今回加工した透明ペレットは、6,600kg。ただし、市場へ一度に出す気はありません。最初は見本瓶と小袋数袋。炉持ちに使わせ、透明度と成形後の濁りを確認させる」

 

 真壁は数字を出した。

 

 リュシアの目が一瞬止まる。

 

「6,600kg」

 

 その声は低かった。

 

 驚きより、危険物を見つけた商人の声に近い。大量にあるということは、大きく売れるという意味でもあり、扱いを間違えれば値崩れするという意味でもある。

 

「一度に出せば、値を壊します」

 

 真壁は先に言った。ここは釘を刺すべきところだった。透明だから高い。作れないから高い。ならば、供給の見せ方を誤ってはいけない。

 

「分かってるよ。飢えた客に桶ごと餌を撒くほど、あたしも親切じゃない」

 

 リュシアが笑った。

 

 真壁は、その言い方に少し安心した。商人としては正しい。人としてはどうか知らないが、今は商人として正しければよい。

 

「高いものほど、少しずつ見せる。そういうことだね」

 

「左様。品物の価値は、量そのものではなく、量をどう見せるかで決まることもある」

 

 真壁は言った。

 

 なかなか良い台詞だと思ったが、言いながら高いワインの瓶を少しずつ飲む姿が頭をよぎった。量をどう見せるか。ワインにも同じことが言える。一本を一晩で空けるのは、品位に欠けるかもしれない。

 

 いや、そこは後で考えればよい。

 

「真壁」

 

「何かな」

 

「今、別のことを考えてなかったかい」

 

 鋭い。

 

 真壁はほんの少しだけ咳払いをした。商人というものは、品物だけでなく人の顔色までよく見る。油断ならない。

 

「透明ペレットの販売順を考えていました」

 

 嘘ではない。ワインの開栓順ではないだけだ。真壁は、心の中で自分に合格点を出した。

 

「まあいいさ。ガラス屋には、あたしから話を通す。これは安く出さない。透明にする技術がないからこそ、高く売れる」

 

 リュシアははっきり言った。

 

 真壁は、その言葉に満足した。そこを理解してもらうために来たのだ。透明ペレットは、ただ溶かす前の原料ではない。この世界で欠けている透明化の工程を、すでに済ませた商品である。値段の芯はそこにある。

 

「頼みます。これは、ただの砂ではありません。透明という技術を粒にしたものです」

 

 少し言いすぎたかもしれない。

 

 だが、リュシアは笑わなかった。代わりに、瓶をもう一度光へかざした。

 

「技術を粒にしたもの、ね。高く売れそうな言い方じゃないか」

 

 真壁は内心で苦笑した。商人に拾われた。うかつな詩的表現は、すぐ値札に貼られる。

 

「宣伝文句としては、少々飾りすぎですな」

 

「飾りガラスの材料だろう? 少しくらい飾ってもいいさ」

 

 リュシアはそう言って、帳場の者に見本箱を用意させた。

 

 透明ペレット用の小瓶、小袋、荷札、紹介状。リュシア商会の中で、川底の石英砂だったものが、次々と商材の形へ整えられていく。

 

 真壁はその光景を眺めた。

 

 ガラス屋への筋は、リュシアが持つ。ならば、そこは任せる。押入商会が知らぬ相手へ直接手を伸ばすより、ずっと流れがよい。

 

「ところで、他の土砂はどうしたんだい。川底をさらったなら、透明な粒だけじゃないだろう」

 

 リュシアが見本箱に蓋をしながら言った。

 

 真壁は、少しだけ感心した。商人の勘は鋭い。泥を一度さらえば、透明ペレットだけが出るはずがないと分かっている。

 

「長石混じりの白砂と、陶土があります。そちらは陶工村へ直接持ち込みます」

 

 真壁は答えた。

 

 リュシアに預ける気はなかった。白砂は5,200kg、陶土は7,400kgある。見本なら軽いが、商売として動かし始めれば数t単位の荷になる。荷車、人足、置き場、雨除け、日程。商会へ頼めば、それだけで一つの運送仕事になってしまう。

 

「直接かい」

 

 リュシアの声には、少しだけ探る響きがあった。

 

 真壁は、その響きを不快には思わなかった。商人は、自分の帳場を通らない荷に敏感である。だが、今回は通さない方がよい荷だった。

 

「左様。陶工村には知った相手がいる。土を見る者には、土を直接見せるべきです。それに、数tの白砂と陶土をリュシア商会へ預ければ、あなたの帳場が土蔵になる」

 

 言ってから、真壁は帳場の床を見た。

 

 布、香辛料、革袋、金物、小箱。そこへ川底由来の陶土が数t並ぶ姿を想像する。いかにもよろしくない。商会ではなく、土置き場である。

 

「それは勘弁してほしいね」

 

 リュシアは即答した。

 

 真壁は内心で頷いた。反応が早い。商人として正しい。利益が出るかもしれない荷でも、自分の商会を泥置き場にしてまで受ける必要はない。

 

「だから頼まない。最初は私が見本を持っていく。焼いて使えると分かれば、必要な量だけ収納で運びます」

 

 真壁は淡々と言った。

 

 収納があるからできる話だった。荷車で運べば大仕事になる。だが、真壁が持ち込むなら、陶工村側に必要なのは受け入れる場所だけで済む。運送を商会へ押しつけるより、はるかに美しい。

 

「なら、あたしはガラスだけでいいんだね」

 

 リュシアは透明ペレットの瓶を指で軽く叩いた。

 

 その音を聞いて、真壁は少し満足した。土の話が混ざると、商談が濁る。今日リュシアへ渡すべきものは、透明でなければならない。

 

「ええ。ガラス屋への筋は、あなたに頼む。陶工村の土は、私が直接扱う。役割を混ぜない方がよい」

 

 真壁は答えた。

 

 商流も素材と同じである。混ぜれば便利に見えるが、分けた方が値が立つこともある。

 

「分かった。こっちは透明ペレットに集中するよ」

 

 リュシアはそう言って、見本箱を帳場の者へ渡した。

 

 真壁は、その動きを見て小さく頷いた。

 

 ガラスは、リュシア商会へ。

 

 土は、真壁が陶工村へ。

 

 川底の泥だったものは、リュシア商会の帳場で一度に扱われるのではなく、それぞれ一番負担の少ない道へ分かれていった。

 

「ところで、リュシア殿」

 

「なんだい」

 

「もしガラス屋が、なぜこれほど透明なのかと聞いた場合は」

 

 真壁は瓶を一瞥した。

 

 秘密を明かす必要はない。だが、説明を空にすると、かえって疑いを招く。商売には、言わないことと言えることの境目が必要だった。

 

「石場町由来の石英を、押入商会の工程で選別、精製、透明化した中間材、とお伝えください」

 

「工程の中身は?」

 

「企業秘密ですな」

 

 真壁は即答した。

 

 言ってから、少し気分がよくなった。企業秘密。なかなかよい響きである。秘密基地で泥を乾かしていた男が言うと、少々背伸びしている気もするが、言葉の格は大事だった。

 

「便利な言葉だねえ」

 

 リュシアが笑った。

 

 真壁は頷いた。便利な言葉は、便利だから残る。すべてを説明する者は、たいてい値を下げる。説明しない理由を持つ者の方が、商品を守れる。

 

「便利で、必要な言葉です」

 

 真壁はそう返した。

 

 リュシアは見本箱へ押し印を入れ、帳場の者へ指示を飛ばした。明日には、最初のガラス屋へ話が行くだろう。あとはリュシアの顔と、透明ペレットの実力に任せればよい。

 

 真壁は商会の出口へ向かった。

 

 背後で、透明な粒の入った小瓶が、見本箱の中でかすかに鳴った。

 

 川底の白い土砂は、リュシア商会の帳場で、もう泥ではなくなっていた。

 

 ガラス屋へ行く透明ペレット。

 

 陶工村へ直接持ち込む白砂と陶土。

 

 そして、真壁の収納に残るタングステン試料。

 

 それぞれの行き先が決まると、素材は急に顔つきを変える。真壁はその変化を、悪くないものとして眺めた。

 

 ガラスは、透明を買える者へ。

 

 土は、土を焼く者たちへ。

 

 そして金属は、現代側の机へ。

 

 川底の泥にしては、ずいぶん出世の道が多い。 

 

 

 

 陶工村へ向かう道は、石場町の川辺よりずっと乾いていた。

 

 真壁はワッパに腰を下ろし、低く流れる風を受けながら、収納内の荷札をもう一度確認した。長石混じりの白砂。粒度調整済み陶土。石灰質石粉。どれも石場町の川底から出たものだが、そのまま持っていけば泥である。

 

 だから、商品としての顔を整えた。

 

 20kgごとにビニール袋へ分け、口をしっかり閉じ、外側には布袋をかぶせてある。袋ごとに札も付けた。産地、処理日、粒度、水分状態、用途候補。陶工にとって大事なのは、今日の袋と次の袋が同じ顔をしていることだ。

 

「泥も、包めば商品らしい顔をする。人間も見習うべきですな」

 

 つぶやいてから、真壁は少しだけ考えた。人間をビニールで包むのはよろしくない。比喩とは、時々、途中で道を踏み外す。ここは黙って土を運ぶに限る。

 

 ワッパは村の入口で速度を落とした。

 

 陶工村には、土と煙の匂いがある。石場町の乾いた粉とは違い、こちらは湿った土、薪の煙、焼けた器の熱が混じっていた。軒先には乾燥途中の鉢や皿が並び、子供が近づきすぎないよう、縄が張ってある。窯の方からは、低くうなるような熱気が流れてきた。

 

 真壁が降りると、村の陶工が一人こちらへ気づいた。

 

「押入商会の真壁殿じゃありませんか」

 

 知った顔だった。以前の取引で顔を合わせた陶工である。真壁は軽く頷いた。知己があるというのは便利だ。リュシア商会を通せば荷車と人足と置き場の話になる荷も、直接来れば土の話から始められる。

 

「親方にお目にかかりたい。土を持ってきました」

 

 そう告げると、陶工はすぐに窯場の奥へ走った。土、と言っただけで反応が早い。真壁は好ましく思った。陶工にとって土は、商人にとっての金貨と同じである。

 

 ほどなく、陶工村の親方が現れた。

 

 日に焼けた顔、灰のついた前掛け、乾いた指。挨拶の前に、親方の視線は真壁の後ろへ回った。荷の匂いを嗅ぐような目だった。

 

「土を持ってきたと聞いたが」

 

 声は短い。真壁は少し嬉しくなった。長い社交辞令より、まず土を見る。職人として正しい。

 

「石場町の川底堆積物を処理したものです。完成品を押しつける気はありません。見て、練って、焼いて、ご判断いただきたい」

 

 真壁はそう言い、収納から袋を出した。

 

 20kgごとのビニール袋が、作業台の横へ静かに並ぶ。白砂、陶土、石灰質石粉。それぞれに札がついている。透明な包み越しに中身の色が見えるので、布袋だけより扱いやすい。

 

 親方は袋を見て、眉を上げた。

 

「この透明な包みは何だ」

 

「乾燥を防ぐ包みです。中の土を、揃えた状態で保つためのものとお考えください」

 

 真壁は無難に答えた。ビニールの説明を始めると話が現代側へ転がる。陶工が聞きたいのは包みの由来ではなく、中の土である。

 

「20kgずつ分けてあるのか」

 

「左様。袋ごとに水分と粒度を合わせてあります。混ぜる場合も、試験の再現がしやすいでしょう」

 

 言いながら、真壁は親方の目が変わるのを見た。職人は均質な材料に弱い。前に使った土と次に使う土が違えば、焼き上がりも違う。そこに悩む者ほど、揃った材料の価値が分かる。

 

「開けても?」

 

「もちろん」

 

 親方はまず、長石混じりの白砂を開けた。

 

 白砂が手のひらへ落ちる。粒は細かく、色は明るい。親方は指でこすり、爪の先で粒の硬さを確かめ、鼻先へ近づけた。商人なら値段を聞くところだが、陶工はまず土の顔を見る。

 

「白い。粒も揃っているな」

 

 親方の声には、感心を隠した慎重さがあった。真壁はそれを聞き、内心で頷いた。最初から喜ばない職人は信用できる。喜ぶ前に疑う者の方が、後でよい仕事をする。

 

「釉薬や、白い器の材料になると見ています。焼きは、そちらで見ていただきたい」

 

 真壁は控えめに言った。ここで用途を断言しすぎるのは下品だ。土は窯に入って初めて本性を見せる。

 

 次に、粘土質の沈泥を処理した陶土が開けられた。

 

 こちらは灰白色で、しっとりしている。親方は水を少し足し、指で練った。別の陶工が横から近づき、黙って見ている。さらに一人、また一人と集まり、作業台の周りがいつの間にか人で埋まった。

 

 真壁は、少しだけ可笑しくなった。

 

 川底にあった時は、誰も近づきたくない泥だった。それが村へ来ると、職人たちが寄ってくる。素材というものは、場所を間違えると嫌われ、場所が合うと歓迎される。なかなか身につまされる話である。

 

 親方は陶土を細く伸ばした。

 

 紐状にして曲げ、割れ方を見る。水を足し、また伸ばす。指で押し、戻りを見る。乾いた板の上へ薄く伸ばし、端の割れ具合を見る。

 

「粘りはある。だが、そのままだと少し腰が弱いか」

 

 親方が呟いた。

 

 真壁はすぐには答えなかった。職人の独り言へ割り込むのは無粋である。親方はもう一度陶土を触り、白砂を少量混ぜた。

 

「混ぜれば使える。器の土というより、調整材として面白い」

 

 その声で、周囲の陶工たちが頷いた。真壁は内心で満足した。予想通りだった。川底の沈泥をそのまま主役にするのではなく、既存の土を整える材料にする。そういう使い方の方が広がる。

 

「通常の土へ混ぜるために、粒度を揃えています。袋ごとに差が出ないようにしてあります」

 

 真壁が言うと、親方の指が止まった。

 

「袋ごとに差がない?」

 

 職人たちの空気が変わった。真壁は、その反応に少しだけ胸の奥で笑った。見た目より、そこに刺さるか。やはり職人は正直である。

 

「今回持ち込んだ分は、すべて同じ工程を通しています。水分、粒度、異物除去。20kg単位で揃えた。必要なら、次も同じ札のものを持って来られる」

 

 真壁は淡々と言った。

 

 便利だ、と自分で思った。収納内プラントは、こういう時に強い。土を一袋ずつ別人の機嫌のように変えずに済む。職人にとって、これは値段以上の安定だろう。

 

 親方は黙って、今度は石灰質石粉を開けた。

 

 白い微粉が皿の上へ落ちる。息で飛びそうなほど細かい。親方は慎重に指先で触れ、少量を水に混ぜた。白い泥のようになったそれを、乾いた破片の継ぎ目へ薄く塗る。

 

「釉薬にも、補修にも、少し使えるかもしれん」

 

 親方の声は低かった。

 

 真壁は頷いた。石灰質石粉は、川では濁りの元だった。ここでは釉薬や補修材の候補になる。出世という言葉が、今日ほど泥に似合う日も少ない。

 

「ただし、多く入れすぎれば暴れるでしょう。最初は少量で」

 

 真壁が言うと、親方はわずかに笑った。

 

「分かっている。土と薬は、効きすぎるとろくなことにならん」

 

 真壁は、その例えに少し感心した。陶工の言葉は、時々、錬金術師より実感がある。

 

 小さな試験片がいくつも作られていった。

 

 白砂だけを混ぜたもの。陶土を一割混ぜたもの。三割混ぜたもの。石灰質石粉をほんの少し加えたもの。釉薬の下地へ使うもの。白い器を狙うもの。窯の端に入れて、まずは焼き縮みと割れを確かめることになった。

 

 陶工たちは、値段の話を一度もしなかった。

 

 真壁は、それを面白く思った。商会なら、まず値を探る。陶工村では、まず土が働くかどうかを見る。金はその後だ。順番が違うだけで、どちらも真剣である。

 

 親方たちが試験片を作っている間、真壁は少し迷った。

 

 見せるべきか。

 

 見せれば、少々、調子に乗っていると思われるかもしれない。だが、土の性質を語るには、粉と粘土だけでは足りない。実際に成形したものを見せれば、陶工の目はさらに細かいところへ届く。

 

 真壁は収納から、小さな台を一つ出した。

 

 その上に、まだ焼いていない壺を置く。

 

 大きなものではない。両手で抱えられるほどの、細い首を持つ小壺だった。胴は丸く、肩はすっと上がり、口は細い。側面には、収納内で土を押し出すようにして作った浅い模様が入っている。焼いていないため、艶はない。白磁のような光もない。ただ、形だけは妙に澄ましていた。

 

 親方の手が止まった。

 

「……真壁殿、これは?」

 

「同じ土を、収納内で練り、試しに成形したものです」

 

 真壁は平静に言った。平静に言ったつもりだったが、内心では少しだけ胸を張っていた。泥からここまで形が出るなら、材料としての説得力はある。そう考えたのであって、決して自慢ではない。たぶん。

 

「ろくろを使わずにか」

 

「収納内で形を支えました。職人の仕事と比べるつもりはありません。土がどこまで形を保つかを見たかっただけです」

 

 言い終えてから、真壁は自分の言い訳が少し長いことに気づいた。こういう時、言葉を重ねる者ほど怪しまれる。いけない。壺が澄ましている分、作った本人が慌てては品位が落ちる。

 

 陶工たちは、壺の周りへ集まった。

 

 親方が指先で胴を撫でる。首の立ち上がり、肩の厚み、模様の浅さ、底の締まり。値段を見る商人の目ではない。焼いた時にどこが歪み、どこが割れ、どこへ釉薬が溜まるかを見る目だった。

 

「形は面白い。だが、乾き方が均一すぎるな」

 

 親方が呟いた。

 

 真壁は少しだけ眉を動かした。褒められたのか、叱られたのか、一瞬分かりにくい。均一にしたのだから当然だが、陶工にとってはそこにも見るべき癖があるらしい。

 

「均一では、不都合ですかな」

 

「不都合というほどじゃない。ただ、人の手で練った土とは乾きの出方が違う。窯に入れれば分かる」

 

 親方の声は楽しそうだった。真壁はそれを聞いて安堵した。職人が楽しそうに欠点を探す時、それはまだ見込みがあるということだ。

 

「では、お願いがあります」

 

 真壁は壺を台ごと少し前へ出した。

 

「この壺を、そちらの釉薬に浸けて焼いていただきたい。白く上がるか、歪むか、割れるか。結果を見たい」

 

 言いながら、真壁は壺の首を見た。自分で作っておいて何だが、妙に気取った形である。これが窯で溶けたり割れたりすれば、なかなか笑えない。いや、陶工たちは笑うかもしれない。澪に見せれば、さらに笑う可能性がある。

 

「釉薬はこちらで選んでいいのか」

 

「お任せします。私は土を練っただけです。焼きと釉薬は、土を焼く者の領分でしょう」

 

 真壁はそう答えた。

 

 職人の前で職人ぶるほど、見苦しいものはない。収納で形を作れても、窯の機嫌までは握れない。そこを認めるのは、敗北ではなく分業である。

 

 親方は少し笑った。

 

「変わった客だ。土を数t持ってきて、自分で作った壺まで置いていく」

 

「川底の泥として放置するよりは、多少ましな人生でしょう」

 

 真壁は淡々と返した。

 

 言ってから、また泥の人生について語っていることに気づいた。今日はもう手遅れかもしれない。泥の弁護人として、かなり実績を積んでしまっている。

 

 若い陶工が、壺の細い首をのぞき込んだ。

 

「これ、焼けたら売るんですか」

 

「出来がよければ、考えましょう」

 

 真壁は答えた。

 

 内心では、少しだけ別の用途も考えていた。高いワインを飲む時、これに入れるのは違う。明らかに違う。だが、よい壺がそばにあるだけで、卓の格は上がるかもしれない。

 

 いや、ワインは瓶でよい。

 

 そこを間違えると、澪君にまた何か言われる。

 

「では、窯の端ではなく、ちゃんと試験棚に置こう」

 

 親方が言った。

 

 真壁は軽く頭を下げた。

 

「よろしく頼みます」

 

 その一言の後、真壁は妙に落ち着かない気分になった。土の売買なら平然としていられる。だが、自分が形を作った壺を窯へ預けるとなると、少し話が違う。

 

 まるで、泥で作った小さな見栄を、職人の火に預けるようなものだった。

 

 やがて親方が、手についた土を布で拭いた。

 

「真壁殿。この土は、買いたい」

 

 ようやく値段の話が来た。真壁は背筋を少しだけ整えた。待った甲斐があった。土が先に認められれば、値段は逃げない。

 

「試験片の結果を見てからでもよろしいのでは?」

 

 あえてそう返す。買いたいと言われた瞬間に飛びつくのは美しくない。少し引くことで、相手の本気が見える。

 

「いや、見本だけで終わらせる量じゃない。今、うちは器の注文が増えている。薬草鉢、保存壺、小皿、水受け、釉薬をかける品も足りない。高品質の土と、揃った材料が欲しい」

 

 親方の声には、職人ではなく村の責任者の重さがあった。

 

 真壁は目を細めた。需要がある。しかも、単なる思いつきではない。大量の製品を求められているなら、材料の均質さはそのまま強みになる。

 

「量があります」

 

 真壁は静かに言った。

 

 相手を脅すつもりはない。ただ、数t単位の荷は、扱う側にも覚悟が要る。

 

「どれほどだ」

 

「長石混じりの白砂が5,200kg。粒度調整済みの陶土が7,400kg。石灰質石粉も、釉薬と補修材向けに出せる分があります。すべて20kgごとに袋詰めし、札を付けてある」

 

 真壁は数字を出した。

 

 周囲が少しざわついた。無理もない。土の話は、少量なら試験、大量なら仕事場の計画になる。真壁はそのざわめきを聞きながら、リュシア商会へ預けなくてよかったと改めて思った。これを帳場へ置けば、商会は本当に土蔵になる。

 

「運べるのか」

 

 親方が尋ねた。

 

 真壁は、少しだけ口元を緩めた。そこは重要だ。陶工村が数tの土を買いたくても、荷車で運ぶとなれば話が変わる。だが、こちらには収納がある。

 

「こちらで直接納品します。村で受け入れる場所だけ決めていただければよい」

 

 真壁は答えた。

 

 親方の目がはっきり変わった。材料があり、質が揃い、運送の手間がかからない。陶工村にとって、かなり都合のよい話である。

 

「それなら、買う。試験片は焼く。だが、材料は先に押さえたい」

 

 親方は即断した。

 

 真壁は内心で、その判断の早さを評価した。職人の世界でも、材料の取り合いはある。良い土があると分かった時、焼き上がりを待ってからでは遅いと判断したのだろう。

 

「結構。では、まず受け入れ場所へ、見本と同じ札の袋を一部納めましょう。全量は、保管場所の確認後です」

 

 真壁は一度区切った。

 

 全部をその場へ出せば派手だが、派手にすればよいわけではない。数tの袋が突然並べば、村の動線が死ぬ。納品にも品位が要る。

 

「場所を空ける。乾かしたくない土は、奥の土蔵へ。白砂は棚の横でいい。石灰の粉は、湿気を避ける」

 

 親方が周囲へ指示を飛ばした。

 

 陶工たちが一斉に動き出す。空の木箱が退けられ、土蔵の扉が開き、床に板が敷かれた。真壁はその動きを見て、少し満足した。良い素材が入ると、仕事場の空気が変わる。リュシア商会で透明ペレットを見せた時とは違う、土の現場の熱だった。

 

「それにしても、石場町の川底からこれか」

 

 親方が、試験片を並べながら呟いた。

 

 真壁は川音を思い出した。白く濁った流れ、詰まりかけた取水口、町役の安堵。あの場所では、これは邪魔な泥だった。

 

「場所を間違えていただけですな」

 

 真壁は答えた。

 

 その言葉の後で、少し心が静かになった。今日は何度も似たことを言っている。だが、事実なのだから仕方ない。石場町では川を浅くする泥。秘密基地では分けるべき原料。陶工村では器を生む土。

 

 同じものでも、置き場と手入れで顔が変わる。

 

「では、最初の納品を」

 

 真壁は収納から、20kg袋を順に出した。

 

 長石混じりの白砂。粒度調整済み陶土。石灰質石粉。ビニールで包まれ、布袋をかぶせられ、札の付いた袋が、親方の指示した場所へ整然と並んでいく。

 

 陶工の一人が、札を読み上げながら帳面へ写した。

 

 真壁はその様子を見て、また少し嬉しくなった。泥に札を付けた甲斐があった。札を読まれる泥。なかなかの立身出世である。

 

「真壁殿、これはありがたい。今の注文量では、土の差で焼き上がりがぶれるのが一番困る。これだけ揃っているなら、仕事の計画が立つ」

 

 親方が言った。

 

 真壁は軽く頷いた。礼を言われるのは悪くないが、それよりも、素材の強みを正しく見てくれたことが嬉しかった。均質であること。量があること。乾燥を防いでいること。札で管理できること。そこが今回の値段になる。

 

「材料が揃えば、職人の腕も揃いやすい。あとは、窯の機嫌ですな」

 

 真壁が言うと、親方は苦笑した。

 

「窯の機嫌だけは、こちらでなだめるしかない」

 

 その言葉に、周囲の陶工たちも笑った。

 

 真壁は、その笑いを聞きながら、今日の泥はずいぶん人を笑わせると思った。川では不安を呼び、秘密基地では鑑定表示に並び、リュシア商会では商人の目を光らせ、陶工村では職人を動かす。

 

 石場町の邪魔な川泥は、ここで陶工村の材料になった。

 

 そしてその流れは、もう一度、器や鉢や壺になって町へ戻っていくのだろう。

 

「では、焼き上がりを楽しみにしております」

 

 真壁はそう言って、軽く頭を下げた。

 

 内心では、少し別のことも考えていた。

 

 白い泥がここまで働いたのだ。高いワインの一本くらい、ますます正当化されるのではないか。

 

 だが、陶工村の真ん中でそれを口にするほど、真壁はまだ崩れていない。品位は、最後の一言で保たれる。

 

 今は黙って、土の仕事を職人に預けるべきだった。 

 

 

 

 江古田の6畳間へ戻ると、空気が急に狭くなった。

 

 採石場秘密基地の石壁、石場町の川音、陶工村の窯の熱。そうしたものを通った後で見る6畳間は、畳と本棚と机と段ボールでできた、妙に現実的な箱だった。窓の外を電車の音がかすめ、隣室の水道が短く鳴る。

 

 真壁は椅子へ腰を下ろし、収納内の現代側納品区画を確認した。

 

 チタン地金、1,000kg。

 

 タングステン地金、約500kg。

 

 モリブデン地金、約30kg。

 

 どれも、ロットを分け、重量を揃え、分析用の小片を別に取ってある。石場町の川底にあった白い泥は、秘密基地で形を変え、いまは現代側の会社へ出せる顔になっていた。

 

「澪君。東都特殊金属試作株式会社へ電話を入れる。納品リストを確認したい」

 

 声をかけると、澪はノートパソコンの前で顔を上げた。

 

 大学の資料と押入商会の帳面が、机の上で微妙に陣取り合戦をしている。学生の机に、特殊金属の納品書が混じっている光景は、何度見ても少々おかしい。だが、澪はもう慣れた手つきでファイルを開いた。

 

「チタン1,000kg、タングステン約500kg、モリブデン約30kgですね。チタンとタングステンは前回と同じ12,000円/kg。モリブデンは別単価で、5,000円から6,000円/kgの範囲にしてあります」

 

 澪の声は落ち着いていた。

 

 真壁は内心で頷いた。数字が整っている。チタンを精製するより、こういう帳面を整える方が面倒に感じることがある。そこを澪が引き受けているから、こちらは泥を金属へ変えるような、実に品位ある泥仕事に集中できる。

 

「結構。由来に関する欄は?」

 

 真壁はわざと確認した。

 

 現代側に出してよい情報と、出してはならない情報がある。そこを混ぜれば、どれほど透明なペレットを作っても商売そのものが濁る。

 

「ありません。品名、重量、ロット、分析用サンプルの有無だけです」

 

 澪は画面をこちらへ向けた。

 

 真壁は、その簡潔な表を見て満足した。石場町、川底、収納、鑑定、転移。そういった言葉は、どこにもない。現代側へ渡す紙として、実に美しい。

 

「よろしい。秘密は商品に混ぜない。商品は、名前と数量で十分だ」

 

 言ってから、真壁は少し気分がよくなった。

 

 なかなか良い言葉である。もっとも、澪に記録されると少し気恥ずかしい。真壁は、彼女の指がキーボードへ伸びていないことを確認してから受話器を取った。

 

「電話で、出所を聞かれたらどうしますか」

 

 澪が小さく尋ねた。

 

 真壁は番号を押す前に、一度だけ視線を上げた。

 

「押入商会側の管理品、とだけ申す。それ以上は企業秘密だ」

 

 答えながら、真壁は心の中で線を引いた。

 

 説明しすぎる商人は、秘密を売っているのと同じである。現代側に必要なのは、使える金属か、量があるか、分析できるか、約束通り納められるか。それだけだった。

 

「企業秘密、便利ですね」

 

 澪の声には少し笑いがあった。

 

 真壁は真顔で受け止めた。

 

「便利だから残る言葉だ。使えるものを使わないのは、優雅ではない」

 

 そう返しながら、真壁は番号を押した。

 

 呼び出し音が数回鳴り、東都特殊金属試作株式会社の担当者につながる。

 

「いつもお世話になっております。押入商会の真壁です」

 

 名乗る声は、自然と現代側のものになった。

 

 異世界で石工の親方と話す時とは違う。こちらでは、奇妙な丁寧さと、余計なことを言わない慎重さが必要になる。電話の向こうには顔が見えない。そのぶん、声の温度を間違えると、商談が曇る。

 

「10月分のチタン、予定通り用意できます。1,000kgです」

 

 担当者の声が明るくなった。

 

 真壁は、机の上の納品リストへ目を落とす。1,000kgという数字は、紙の上では薄い黒い線でしかない。だが、秘密基地の中では、銀灰色の地金が整然と並んでいる。あれを思い出すと、少しだけ胸が広がる。

 

 高いワインの一本くらい、当然ではないか。

 

 いや、今は電話中である。

 

「品質と形状は、前回の仕様に合わせています。検査用サンプルも別に用意しました」

 

 真壁は余計な感情を声へ乗せずに続けた。

 

 担当者が納品日の確認をする。真壁は澪の紙を見ながら日程を答えた。澪が横から、小さく指で日付を示す。実に便利だ。商談の横に無言の管制塔がいるようなものだった。

 

「それと、前回と同じく、タングステン地金もあります。今回は量があります。約500kgです」

 

 電話の向こうの空気が、はっきり変わった。

 

 真壁は耳でそれを感じた。チタンは既存契約分だ。重要ではあるが、向こうにとって予想の範囲にある。タングステンは違う。前回より量があるというだけで、声の重心がこちらへ寄ってくる。

 

「はい。ロットは分けてあります。分析用の小片も付けられます。チタンとタングステンについては、前回と同じ12,000円/kgで結構です」

 

 言いながら、真壁は紙の余白を見た。

 

 そこに由来を書く欄はない。どこで得たか。何から精製したか。どう加工したか。それは押入商会の内側に置くべき話だった。現代側には、地金としての顔だけを見せる。

 

「加えて、モリブデン地金も約30kgあります。こちらはタングステンとは別単価で構いません。特殊金属スクラップ相当の扱いで、状態を見ていただきたい」

 

 担当者が、少し間を置いた。

 

 真壁はその沈黙を待った。モリブデンはタングステンと同じ顔をして売るものではない。副産物には副産物の値段がある。それを無理に飾れば、商談はかえって濁る。

 

「ええ。5,000円から6,000円/kg前後の範囲で、御社の基準に合わせます。こちらもロット管理済みです」

 

 澪が横で、納品書の欄を増やしていく。

 

 チタン地金。

 

 タングステン地金。

 

 モリブデン地金。

 

 モリブデンの単価欄だけ、確定ではなく幅を持たせてある。真壁はその空白を見て頷いた。余地のある商談には、余地のある紙が要る。

 

「はい。全量売却可能です。受け入れ方法と検査の段取りを、ご指定ください」

 

 担当者の声が早くなった。

 

 興味を示している。真壁は内心で静かに頷いた。よい反応だ。だが、ここで嬉しそうにしてはいけない。売る側が喜びすぎると、買う側は値を探り始める。

 

「承知しました。では、チタン1,000kg、タングステン地金約500kg、モリブデン地金約30kg。納品日時はその形で」

 

 真壁は最後に確認を重ねた。

 

 電話の向こうで、担当者が同じ内容を復唱する。商談で復唱される数字は美しい。曖昧な約束より、揃った数字の方がずっと信用できる。

 

「よろしくお願いいたします」

 

 受話器を置くと、6畳間に電車の音が戻ってきた。

 

 真壁は少しの間、電話を見ていた。

 

 石場町の川底にあった白い泥が、現代側の会社の予定表に入った。あの濁った流れを思うと、少し奇妙な気分だった。泥がガラス屋へ行き、陶工村へ行き、タングステンとモリブデンとして東都特殊金属試作株式会社へ行く。

 

 ずいぶん忙しい泥である。

 

「どうでした?」

 

 澪が顔を上げた。

 

 真壁は納品リストを指で整えた。こういう時、乱れた紙をそのままにしておくと、気分まで乱れる。

 

「チタン1tは予定通り。タングステン約500kgも全量売却。モリブデン約30kgは、状態確認後に5,000円から6,000円/kg前後で処理する」

 

 言葉にすると、ずいぶん簡単だった。

 

 あの川をさらい、秘密基地で44tを分け、陶工村で土を売り、ようやくこの一文になる。商売というものは、最後の報告だけ聞くと簡単に見える。そこが恐ろしい。

 

「概算、出します」

 

 澪はキーボードを打ち、画面へ数字を並べた。

 

 チタン、12,000,000円。

 

 タングステン、約6,000,000円。

 

 モリブデン、約150,000円から180,000円。

 

 合計、約18,150,000円から18,180,000円。

 

 真壁はその数字を見た。

 

「……結構」

 

 声に出した途端、澪がこちらを見た。

 

「何が結構なんですか」

 

 鋭い。

 

 真壁は表情を変えず、紙を一枚持ち上げた。

 

「商談の形が整った、という意味だ」

 

 もちろん、頭の片隅では高いワインの瓶が一本、実に上品な角度で立っていた。だが、それを今言うほど真壁は浅くない。

 

 少なくとも、澪君の前では。

 

「高いワインのこと、考えてませんか」

 

 澪は、やはり容赦がなかった。

 

 真壁はしばらく沈黙した。

 

 なぜ分かる。

 

 いや、分かるようなことを自分が前に言ったのだ。自業自得である。こういう時、澪君の記憶力は実によろしくない方向へ働く。

 

「労働の質を保つための、私的な調整です」

 

 真壁は厳かに答えた。

 

 澪は少し笑った。

 

「経費にはしないでくださいね」

 

 その一言は、チタンの高温処理より鋭かった。

 

「私費だ。そこは潔くしておこう」

 

 真壁は即答した。

 

 税理士の顔が脳裏をよぎったためである。高いワインは欲しい。だが、ワイン一本のために帳面を濁すのは美しくない。美しくないものは、だいたい後で高くつく。

 

 澪は納品書の欄を保存し、プリンターへ送った。

 

 紙が吐き出される音を聞きながら、真壁は椅子の背へ少しだけ体を預けた。

 

 10月分のチタンは整った。

 

 タングステンとモリブデンも全量、現代側へ売る道がついた。

 

 透明ペレットはリュシア商会へ渡り、陶工村では白砂と陶土が買い取られた。石場町の川は浅さを減らし、取水口には水が戻った。

 

 川底の泥としては、上出来な一日である。

 

 ただし、まだ地図の霧は残っている。

 

 川底からこれだけ出たのなら、上流には元がある。現代側の電話は終わったが、次の仕事はもう山側で待っていた。

 

 真壁はタングステンの納品欄を見て、静かに息を吐いた。

 

 泥は、電話一本分の信用に変わった。

 

 なかなか、悪くない。 

 

 

 

 東都特殊金属試作株式会社の搬入口は、前回よりも落ち着いていた。

 

 工場棟の壁は灰色で、床には黄色いラインが引かれている。フォークリフトの低い音、金属を載せた台車の軋み、遠くで動く機械の振動。異世界の石場町や陶工村を回った後でここに立つと、同じ素材を扱う場所でも、匂いがまるで違った。

 

 土と煙ではない。

 

 油と鉄と、管理された重量の匂いだった。

 

 真壁は、指定された搬入区画の前で足を止めた。隣には澪が立ち、ファイルを胸に抱えている。澪のファイルには、チタン、タングステン、モリブデンの納品リストが分かれて入っていた。異世界の川底から始まったものが、現代のクリアファイルに挟まれている。

 

 なかなか、世の中は捻れている。

 

「真壁さん、由来の話はなしです」

 

 澪が小声で言った。

 

 真壁は横目で見た。念押しの仕方が、妙に事務的である。こちらが今にも「石場町の川底でしてな」と語り出すと思われているのだろうか。心外である。少しだけ。

 

「心得ている。私は商談に泥を持ち込むほど野暮ではない」

 

 そう返しながら、真壁は内心で思った。実際には泥から出た。だが、商談に必要なのは泥の来歴ではない。地金の種類、重量、単価、ロット、分析用サンプル。それだけでよい。

 

「言い方が危ないです」

 

 澪の声は静かだった。

 

 真壁は咳払いをした。確かに、泥という単語そのものが危ない。今日の自分は、泥に対して少々親しみを持ちすぎている。

 

 搬入担当の社員が現れ、続いて東都特殊金属試作株式会社の担当者が来た。前回よりも表情は落ち着いている。初めてチタンを見た時のような、半信半疑と興奮の混ざった顔ではない。

 

 品質が安定していると、人は驚かなくなる。

 

 そして驚かなくなった相手は、次に継続性を見る。

 

「お待ちしていました。10月分ですね」

 

 担当者が言った。

 

 真壁は軽く頷いた。相手の声に余裕がある。よいことだ。驚きに払われる金より、信頼に払われる金の方が長く続く。

 

「ええ。チタン地金、1,000kg。前回仕様に合わせています」

 

 真壁は書類を差し出した。

 

 澪が横から、納品リストとロット表を添える。手つきが自然だった。大学生が金属会社の搬入口でロット表を渡していることについては、もう考えない方がよい。考えすぎると、こちらの品位が揺らぐ。

 

 人目と手順を確認した上で、真壁は指定場所へチタン地金を並べた。

 

 銀灰色のインゴットが、パレットの上へ整然と積まれていく。重量ごとに揃え、ロット番号を付け、検査用サンプルを別箱に入れてある。収納内プラントで工程を通すようになってから、形も記録も以前より整った。

 

 担当者はインゴットの列を見て、頷いた。

 

「今回も形が揃っていますね」

 

 その声には、感心より確認の響きがあった。真壁は、それを好ましく思った。珍品を見る目ではなく、継続納入品を見る目になっている。商売は、驚かせる段階から、数えられる段階へ移った方が強い。

 

「工程を整えましたので」

 

 真壁は短く答えた。

 

 詳しくは言わない。収納内プラントという言葉も、鑑定という言葉も、ここでは不要である。現代側には、工程を整えたという顔だけ見せればよい。

 

「助かります。加工側からも、前回材は扱いやすかったと聞いています」

 

 担当者が言った。

 

 真壁は胸の奥で、静かに満足した。扱いやすい、という言葉はよい。美しいよりも、珍しいよりも、継続取引では強い。扱いやすい素材は、次も呼ばれる。

 

「それは結構」

 

 声に出すと、澪が一瞬だけこちらを見た。

 

 何が結構なのか、と目が言っていた。真壁は見ないふりをした。商談中に学生の視線へ反応しすぎるのは、威厳に関わる。

 

 重量確認が進み、チタンの受領欄に印が入る。

 

 続いて、真壁は別の小型パレットを示した。

 

「こちらが、タングステン地金です。約500kg。ロットは分けてあります。分析用小片も付けています」

 

 担当者の目が、そこで変わった。

 

 チタンは予定通り。タングステンは予定を超えている。しかも、前回の少量ではない。約500kgという数字は、試験加工用としては十分に存在感がある。

 

「500kg、ですか」

 

 担当者の声が一段低くなった。

 

 真壁は頷いた。驚かせるつもりはない。だが、売るものがある時は、量を隠す必要もない。売れるものを眠らせる趣味はないのだ。

 

「全量売却可能です。チタンとタングステンは、前回同様、12,000円/kgで結構です」

 

 真壁は淡々と言った。

 

 この淡々さが重要だった。金額を頭の中で計算すれば、胸の内に高いワインの瓶が一本立ち上がる。だが、そこで声が弾めば安く見える。商談の席で喜びすぎる男は、品物ではなく自分を売っている。

 

 澪が横で書類をめくった。

 

「タングステン地金、約500kg。単価12,000円/kg。概算6,000,000円です」

 

 澪の声は、驚くほど事務的だった。

 

 真壁は少し感心した。600万円という言葉を、まるで大学の課題提出日のように読む。肝が据わっているのか、感覚が壊れ始めているのか。判断は難しい。

 

「こちらも全量でよろしいのですか」

 

 担当者が確認した。

 

「ええ。全量で」

 

 真壁は即答した。

 

 残しておく理由はない。必要なら次を探す。手元にある金属は、現代側で金に替える。それが今の仕事だった。

 

 担当者は、タングステンのサンプル箱を開けた。

 

 小片を持ち上げた瞬間、手首の動きがわずかに沈む。重い金属は、見た目より先に手で分かる。担当者の目が細くなった。

 

「密度、かなりありますね」

 

 担当者の声に、技術者らしい喜びが混じった。

 

 真壁はそれを聞き、内心で頷いた。よい反応だ。人は、重いものを重いと確認した時、なぜか少し嬉しそうになる。金属を扱う者なら、なおさらだろう。

 

「分析でご確認ください」

 

 真壁はそれ以上を言わなかった。

 

 鑑定では確認済みである。だが、ここでは相手の分析が正義だ。現代側の会社には、現代側の手順で納得してもらう。それが、秘密を混ぜずに商売を続けるための作法だった。

 

「分かりました。こちらは試験加工も含めて、すぐ回します」

 

 担当者の声が早くなっている。

 

 真壁は、少しだけ目を細めた。食いついた。だが、まだ喜ぶには早い。金属は出した。金額も見えた。次に来るのは、継続の質問である。

 

 その前に、もう一つある。

 

「加えて、モリブデン地金が約30kgあります」

 

 真壁は、別の小箱を示した。

 

 担当者が少し意外そうに見た。チタンとタングステンの陰に隠れているが、これも売れる。脇役にも値札は付く。舞台に出すべき時は出す。

 

「こちらは、タングステンとは別単価で構いません。特殊金属スクラップ相当の扱いで、状態を見ていただきたい。5,000円から6,000円/kg前後を想定しています」

 

 担当者は小箱を開け、中の地金を確認した。

 

「30kgですと、分析と試験には十分ですね。状態を見て、単価を出します」

 

 真壁は頷いた。

 

 モリブデンをタングステンと同じ顔で売る必要はない。無理に飾ると、かえって商談が濁る。副産物には副産物の値段がある。だが、値段があるなら売ればよい。

 

 澪が書類へ追記する。

 

「モリブデン地金、約30kg。単価は状態確認後。概算150,000円から180,000円」

 

 担当者が書類を受け取り、確認の印を入れた。

 

 チタン、12,000,000円。

 

 タングステン、約6,000,000円。

 

 モリブデン、約150,000円から180,000円。

 

 合計、約18,150,000円から18,180,000円。

 

 数字が紙の上で整う。

 

 真壁は、胸の内で静かに息を吐いた。石場町の川底から出た白い泥が、現代側の受領書へ変わっていく。泥としては、ずいぶん上等な出世である。

 

「これも、継続して出せますか」

 

 担当者が尋ねた。

 

 来た。

 

 真壁はすぐには答えなかった。

 

 安易に頷けば、相手は次の月の数量を期待する。ここで余計なことを言えば、由来に踏み込まれる。現代側に渡してよいのは、約束できる数量だけだ。山の上流も、川底の堆積も、石場町の名も、口にする必要はない。

 

「調達ルートを確認中です」

 

 真壁は静かに言った。

 

 担当者が続きを待つ。

 

「見込みが立てば、改めて数量を提示しましょう。今回分は全量お渡ししますが、次回以降については、品質と量を揃えられると判断してからです」

 

 言葉を選ぶ。

 

 鉱源とは言わない。川とも言わない。異世界の地名など論外である。だが、継続の意思がないわけではない。相手に期待を残し、約束しすぎない。商談の線としては、ここがちょうどよい。

 

「分かりました。今回材の分析結果を出します。継続の話は、その後で」

 

 担当者は納得したように頷いた。

 

 真壁は内心で、まずまずだと思った。全量売る。だが、次を安請け合いしない。手元に金属を眠らせる趣味はないが、口約束で未来を売り払う趣味もない。

 

 検収が進み、受領書が用意された。

 

 澪が紙を確認する。品名、重量、単価、概算金額、分析条件、入金予定。由来の欄はない。余計な物語は紙の外にある。真壁はその白い余白を見て、深く満足した。

 

「問題ありません」

 

 澪が言った。

 

 真壁はその一言に、少しだけ安堵した。澪の確認は、近頃すっかり最後の検査工程になっている。チタンよりも、時々こちらの方が厳しい。

 

「では、こちらで進めます」

 

 担当者が受領書を差し出した。

 

 真壁はそれを受け取った。紙は軽い。だが、その紙の向こうに約1,800万円があると思えば、軽さもまた一つの品格である。

 

「よろしくお願いいたします」

 

 頭を下げ、搬入口を出る。

 

 外の空気は、工場の中より少し乾いていた。駐車場の端で、澪がファイルを閉じる。真壁は一度だけ、建物を振り返った。

 

 チタン1tは予定通りに納まった。

 

 タングステン約500kgとモリブデン約30kgも、現代側の会社の手に渡った。

 

 石場町では、川の流れが戻った。陶工村では、白砂と陶土が窯へ入る。リュシア商会では、透明ペレットがガラス屋へ向かう。そしてここでは、金属地金が受領書へ変わった。

 

 同じ白い泥から出たものとは、誰も思うまい。

 

「真壁さん」

 

 澪が横から声をかけた。

 

「何かな」

 

「いま、高いワインのこと考えてませんか」

 

 真壁は、ほんの少しだけ黙った。

 

 なぜ分かる。

 

 いや、分かるような顔をしていたのだろう。約1,800万円の受領書を持った男が、ワイン一本を考えない方がむしろ不自然である。

 

「労働の質を保つための、私的な調整について考えていた」

 

「やっぱりワインですね」

 

 澪は笑った。

 

 真壁は受領書を丁寧にファイルへ入れた。こういう時こそ、所作を乱してはならない。ワインを考えている男ほど、紙はまっすぐ扱うべきである。

 

「一本だけだ。よい一本は、凡庸な十本に勝る」

 

「経費にはしないでくださいね」

 

「私費だ。そこは潔くしておこう」

 

 真壁は即答した。

 

 税理士の影が、頭の片隅を横切ったからである。高いワインのために帳面を濁すなど、あまりに美しくない。美しくないものは、たいてい後で高くつく。

 

 

 

 東都特殊金属試作株式会社を出ると、澪は駐車場のハイエースの横で一度立ち止まった。

 

 手元のファイルを開き、チタンの納品書と、タングステン地金の受領書、それにモリブデン地金の確認書を見比べる。白い紙の上には、品名と重量と単価が並んでいるだけだった。そこに、石場町の川底も、陶工村の窯の熱も、リュシア商会の帳場のざわめきも書かれてはいない。

 

「川ざらいの報告、数字だけ見ると工事みたいですけど」

 

 澪はファイルの端を指で押さえた。

 

「実際、町にとっては工事でしょうな」

 

 真壁は受領書を畳みながら答えた。

 

 ハイエースの荷室は、納品を終えて空になっている。来る時には、現代側へ出すための書類と、搬入の手順に合わせるための荷姿だけが揃えられていた。実際の地金は収納から指定場所へ出したが、会社へ金属を納めに来ている以上、手ぶらで公共交通機関に乗るような真似はしない。

 

 納品には、納品らしい顔が要る。

 

 真壁はそういう外形を軽んじなかった。

 

「取水口の前が詰まりかけていた。曲がりにも白泥と砂利が溜まっていた。あのまま雨が続けば、町はまた人手を出すことになったでしょう」

 

「それをさらって、その土砂がこれになったんですね」

 

 澪は受領書を軽く持ち上げた。

 

 真壁は頷いた。

 

 石場町では、邪魔な白泥だった。

 

 リュシア商会では、その一部が透明ペレットとしてガラス屋へ向かう商品になった。

 

 陶工村では、粘土と白砂が職人の手に渡り、窯へ入る材料になった。

 

 そして現代側では、同じ土砂の中から取り出した金属が、チタンの納品書とは別の受領書に載った。

 

「川底の泥も、通す工程を変えれば行き先が変わる」

 

 真壁は静かに言った。

 

 口にした後で、少しだけ気に入った。今日の泥に対しては、これくらいの言葉を贈ってもよいだろう。朝には川を浅くしていた邪魔者が、夕方にはガラス屋と陶工村と特殊金属会社へ分かれて届いたのだから、出世としては申し分ない。

 

 澪はファイルを閉じた。

 

「邪魔だったものが、あちこちで必要なものになるんですね」

 

「物に価値がないのではない。置き場所と工程が悪いことが多い」

 

 言ってから、真壁は澪がこちらを見たのに気づいた。

 

「今の、帳面に書きます?」

 

「書かなくてよろしい」

 

 即答した。

 

 妙に標語めいた言葉を学生のノートに残されるのは危険である。後で自分が読み返して、気恥ずかしい思いをするに決まっている。真壁は、そういう種類の自滅を好まない。

 

 工場の向こうで、トラックが低い音を立てて動き出す。現代の道路を、現代の荷が流れていく。その音を聞きながら、真壁の意識は別の流れへ向かっていた。

 

 石場町の川筋。

 

 地図スキルの中で、まだ霧に沈んでいる上流。

 

 川底からこれだけのものが出たのなら、上流には元がある。今回売った金属は、川が運んできた手紙の一部にすぎない。差出人は、まだ山側に隠れている。

 

「真壁さん」

 

「何かな」

 

「次は、上流ですか」

 

 澪が言った。

 

 真壁は少しだけ口元を緩めた。石場町へ行っていなくても、帳面と報告を見れば次の線は読める。やはり、この学生は紙の向こう側を見る。

 

「川が案内状を出してきたのだ。無視するのは失礼でしょう」

 

「案内状、泥でしたけど」

 

「封筒の趣味は悪かったですな」

 

 澪が笑った。

 

 真壁は受領書をファイルへ戻し、ハイエースの助手席側へ回った。澪が運転席の鍵を開ける音がする。納品を終えた車内には、金属の重さはもうない。残っているのは紙と、次の予定だけだった。

 

 チタン1t。タングステン約500kg。モリブデン約30kg。リュシア商会へ渡した透明ペレット。陶工村へ納めた白砂と陶土。石場町に戻った川の流れ。

 

 川底の白い泥は、十分に働いた。

 

 だが、その先はまだ川の上流に残っている。

 

 真壁はハイエースに乗り込み、静かにドアを閉めた。

 

 褒美のワインは、帰りに一本だけ選べばよい。

 

 次の仕事は、もう地図の霧の向こうで待っていた。 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。