昼の客足がいったん途切れたあとも、リュシアの屋台裏には熱が残っていた。
鉄板の火は落とされているのに、石畳はまだ足の裏へじんわり熱を返してくる。屋台の柱には濡らして絞った布が掛けられ、壁際の木箱には赤い紐が結ばれたままだった。前に澪が真剣な顔で分けた箱である。トトたちはその箱の前を通る時だけ妙に大きく避けて歩いていて、澪は少しだけ複雑な気持ちになった。
怖い顔、という覚え方は雑だ。
でも、触らないという結果だけは守られている。
そんなことを考えていると、リュシアが屋台の奥から布袋を持ってきた。木箱の上に置かれた瞬間、袋の中で金属がぶつかる重い音がした。銀貨だけの軽い音ではない。澪にも、もう小金貨が混じっている音だと分かる。
「澪、今回の分だよ」
「今回の分……」
「うん。フタのついた水入れと、扇子と、布物と、次も持ってきてもらう分まで入ってる」
リュシアは屋台の串を渡す時と同じ顔で言った。澪は恐る恐る布袋に手を伸ばし、口紐をほどく。中で小金貨が鈍く光った。
まず一枚を出す。
次にもう一枚。
三枚目を出したところで、澪は椅子がほしくなった。木箱の上に並べていくと、リュシアが何も言わず小皿を寄せてくれる。澪はその皿の上に小金貨を並べ、銀貨も別に出した。
小金貨二十八枚。
銀貨六枚。
数え終えたあと、澪はしばらく声が出なかった。
「……多くないですか」
「少なくしたら、澪がやめるだろう」
リュシアはあっさり言った。
「洗って、乾かして、においを見て、フタをなくさないようにして、子供に持たせて、また戻す。そこまでやらせて安くしたら、誰だって続かないよ」
「でも、現代だと、あれは飲み終わったら捨てることもある容器で……」
「こっちでは捨てない」
リュシアは木箱の横に置いてあったフタを指で軽く押さえた。
「飲み物だけじゃない。あれは締まる。何度も開けられる。同じ口のものがいくつもある。水を入れるだけなら、ここまでにはならないよ。油を売る者も、石鹸を扱う者も、香草酢を売る者も、見ていたのは中身じゃなかった」
澪は小金貨へ視線を戻した。
ようやく、金額が少しだけ意味を持ち始める。持ち込んだのは、現代側でいえば飲み終えた容器だ。けれどここでは、軽くて、締まって、同じものがいくつもある液体入れだった。そこに、洗う手間や、においを確かめる手間や、リュシアの屋台で扱われた信用まで乗っている。
それでも、二十八枚という数は大きい。
「これ、受け取っていいんですか」
「受け取るのはいいよ」
リュシアはそう言って、棚から小皿をいくつも持ってきた。欠けた皿、縁に油染みが残った皿、昔は白かったらしい皿が、木箱の上に並ぶ。
澪は嫌な予感で口を閉じた。
「ただし、全部持って帰れるとは言ってない」
やっぱりだった。
リュシアは最初の皿へ小金貨を数枚落とした。
指先に迷いがない。皿に金が置かれるたび、乾いた硬い音がする。その音が、澪の浮つきかけた気分を一枚ずつ押さえていった。
「まず、ここを使った分だよ。屋台の裏を使った。洗い場も使った。客にも見えた。うちの店先で売ったのと同じだから、知らん顔はできない」
「ここを使った分……」
「そう。澪が一人で路地に座って売ったわけじゃない」
次の皿へ、リュシアは銀貨を滑らせた。
「こっちは、市場の札を持っている者へ渡す分。あそこを通さずに大きな売り方をすると、次から場所を貸してもらえない。うちの屋台も睨まれる」
市場の札。
澪は入口に掛かっていた木札や、リュシアが時々確認している札を思い出した。帳面より荒い言葉なのに、実際の力はずっと強そうだった。
リュシアは三つ目の皿を寄せる。
「これは洗い場と木箱を使った礼。水も使ったし、箱も使った。干した布を置いたり、瓶を立てたり、子供が座ろうとして私に怒られたりした」
「最後のは必要ですか」
「必要だよ。座る子がいるんだから」
少し離れたところで、トトが肩を揺らした。たぶん自分のことだと分かっている。
四つ目の皿に、小さめの銀貨が落ちた。
「こっちは壊れ物のために置く金。扇子は折れる。フタは消える。ボトルはへこむ。壊れてから泣くより、先に少し置いておく」
澪は、エレナが扇子を折った時のことを思い出した。あの時は、在庫表に一本破損と書いて終わった。今はその一本どころではない。フタも、ボトルも、紐も、木札も、全部どこかで壊れる可能性がある。
「これは次に買うものの分。紐、木札、洗い桶。澪が向こうで買うものもあるだろう。扇子と布も、同じものを少し多めにした方がいい」
リュシアが小金貨をまた一枚置く。
澪は、小金貨の山が小さくなっていくのを見て、顔が引きつるのを止められなかった。
「……減っていきますね」
「減らしてるんじゃない。先に分けてるんだよ」
リュシアは手を止めなかった。
「後で払う銭を袋に入れっぱなしにすると、使っていい銭に見える。そうなると、次に困る」
澪は、その言葉で飯島修一郎の顔を思い出した。
入金は全部使っていい金ではない。前にそう言われた。税金、仕入れ、次に必要な道具、壊れた時の分。言葉は違う。けれど、手元に入った金をそのまま使えば危ないという意味は同じだった。
リュシアは小皿を並べているだけだ。
でも、澪にはそれが帳面の行より分かりやすかった。
リュシアが子供らの駄賃と言って別の皿を引いた瞬間、トトがすばやく近づいてきた。
「俺たちの?」
「そう。洗った。運んだ。フタを探した。遊んでいただけじゃないだろ」
「フタを飛ばしたの、俺じゃない」
「でも探した」
「探した」
「なら銭は出る」
トトの顔がぱっと明るくなった。澪は、その顔を見て少し笑いそうになった。手伝いを仕事として見てもらえるのは、子供にとって大きいのだろう。
ただし、トトはすぐ調子に乗った。
「じゃあ、俺が代表で受け取る」
リュシアは銀貨を皿に置く手を止めず、目だけをトトへ向けた。
「その顔で代表を名乗るな」
「どんな顔?」
「自分の分を先に増やそうとしている顔」
周りの子供たちが笑った。トトは両手で自分の頬を押さえる。
「顔に出てた?」
「出てたね」
「澪姉ちゃん、出てた?」
「少し」
「少しか」
トトは真面目に悩み始めた。そこではない、と澪は思ったが、口には出さなかった。
リュシアは、子供らの皿へ銀貨を数枚置いた。大金ではない。けれど、ただのお小遣いでもない。洗った手、運んだ足、フタを探して木箱の下へ潜った時間に対する銭だった。
「全員そろってから分ける。手伝っていない子の分はない。小さい子に水を運ばせたなら、その子にも出す」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
トトはまた頬を押さえた。子供たちはさらに笑った。
澪は駄賃の皿を見た。
子供たちを安く使えばいい、とはならない。かといって、毎回大金を渡せば続かない。リュシアはそのあたりを、笑いながらもきちんと見ている。澪は、小金貨よりも、その匙加減の方が難しそうだと思った。
「何をしている」
聞き慣れてきた声が、屋台裏の入口からした。
エレナ・ヴァルディスが、少年服の裾を軽く払って立っていた。帽子の下から赤い髪が少しこぼれ、目は木箱の上の小皿へまっすぐ向いている。護衛はその後ろで、すでに嫌なものを見た顔をしていた。
「金を分けています」
澪が答えると、エレナは当然のように近づいてきた。護衛が半歩前に出る。
「エレナ様、金の皿に手を伸ばさないでください」
「伸ばしていない。見ているだけだ」
「エレナ様の見るだけは、触る前の段階です」
リュシアは小金貨を置く手を止めなかった。
エレナは皿を一つずつ見て、途中で首を傾げる。
「市場の札なら、父上の館にも届く」
「届くでしょうね」
リュシアは、銀貨を別の皿へ滑らせた。
「ですが姫様、それは受け取る側の話です」
「受け取る側?」
「はい。今日は澪が払う側です」
エレナは、初めて皿の上の金をじっと見た。
市場を管理する侯爵家の娘として、金が父の館へ届くことは知っているのだろう。けれど、自分の前で誰かが払う側として小金貨を分けられていく場面は、あまり見たことがないらしい。
トトが遠慮なく聞いた。
「姫様は払わないの?」
護衛が片手で顔を覆いかけた。
「トト殿、その問いは少々」
「払わぬわけではない」
エレナは胸を張った。
護衛の顔が青くなる。
「侯爵家も必要なものには支払う。だが、市場の札の分は父上の館へ届くものだ」
「では、今日は届く側ではなく、出ていく側を見てください」
リュシアはそう言って、もう一枚、小金貨を皿へ置いた。
エレナは黙って見た。
その顔から、いつもの勢いが少し消えている。
「父上に言えば、澪の分を軽くできるのではないか」
護衛が息を吸い込んだ。澪も一瞬、何か言うべきか迷った。
リュシアの方が早かった。
「姫様、それをやると、商売じゃなくて侯爵家の施しになります」
「施しではない。暑さで倒れぬための品だ」
「だからこそです」
リュシアは金を置く手を止め、エレナを見た。
「一日助けるのと、続けて売るのは違います。払うものを払って、それでも残るようにしないと、次が続きません。侯爵家が毎回軽くしてくれると思われたら、他の商人も黙りません」
エレナは不満そうだった。
だが、言い返さなかった。
護衛が、少しだけ息を吐いた。
「払うものを払って、残すのだな」
「そうです」
リュシアはまた銀貨を皿へ置いた。
「払わないで残すのとは違います」
エレナはその言葉を、皿に落ちる銀貨の音と一緒に聞いていた。
金を分け終えるころには、澪の最初の驚きはかなり落ち着いていた。
小金貨二十八枚と銀貨六枚は、まだ大きな金額だ。だが、その全部が自由になるわけではない。木箱の上に並んだ皿を見ると、金はもうただの山ではなく、それぞれの行き先を持ったものになっていた。
リュシアが最後の小皿を横へずらすと、木箱の上に残った金は、最初の山よりずっと小さくなっていた。
それでも、小金貨は十二枚あった。
銀貨は六枚ある。
「これが、澪の取り分」
リュシアはそう言って、残った金を澪の前へ寄せた。
「こっちで払う分は、今分けた。けど、向こうで払うものまでは私には分からない。向こうの税だの帳面だのは、澪が見るんだよ」
澪は、小金貨十二枚と銀貨六枚を見下ろした。
最初に袋を開けた時より、だいぶ少ない。
けれど、不思議とがっかりはしなかった。むしろ、ようやく自分の手に収まる大きさになった気がした。
「……これでも、多いです」
「多いよ。だから使い方を間違えると、すぐなくなる」
リュシアは、空になった小皿を重ねながら言った。
澪は布袋をもう一度開き、残った金をそっと入れた。小金貨十二枚と銀貨六枚。数字としては短い。けれど、そこへたどり着くまでに、屋台裏の場所、洗い場、子供たち、壊れ物、次の買い物、札を持つ者への渡しが、全部通り過ぎていた。
ただの利益ではない。
通ってきた場所の跡がついた金だった。
澪は帳面を広げた。
濡れた手で触られないよう、木箱の奥へ置く。トトがのぞき込もうとして、リュシアに頭を軽く押さえられた。
「手を拭いてから」
「拭いた」
「今、木箱を触った」
「木箱はだめ?」
「帳面よりは汚い」
トトは納得していない顔で、もう一度手を拭きに行った。
澪は黒砂糖の欄を見た。現代側で買って持ち込んだ黒砂糖三百グラム。前は、香りがよくて使いやすい甘味くらいに考えていた。だが、こちらでの値を見ると、気軽に毎日使う材料ではない。
「黒砂糖、やっぱり高いんですね」
「高いね」
リュシアはあっさり認めた。
「でも、一本に使う量は少ない。今すぐ困るほどじゃないよ」
「じゃあ、このままでも……」
「見本にはいい」
リュシアは黒砂糖の袋を指で押した。
「味がいい。香りもある。商人に見せる分や、姫様が持ち帰って屋敷で見せる分には向いてる。でも、市場の子に毎日飲ませるなら、別を探す」
エレナが少し身を乗り出した。
「私が持ち帰る分は黒砂糖でよい」
「姫様、持ち帰る話はまだしていません」
護衛がすぐに止めた。
「品質を見る必要がある」
「前にも、その言い方で黒砂糖を増やそうとしました」
エレナは目をそらした。
リュシアは話を戻すように、屋台の表の方を指した。
「市場の子に飲ませるなら、水飴か麦芽の飴を探すんだよ」
澪は顔を上げた。
「水飴、あるんですか」
「あるよ。菓子屋や飴屋が使う。いいものは高いけど、毎日使うなら黒砂糖より考えやすい」
「飲み物に混ぜられますか」
「そのまま水に落としたら、底で粘るだろうね。少し湯でゆるめてから、大鍋へ入れる」
澪は、前に持ち込んだ大鍋を思い出した。あれは黒砂糖を溶かすためだけではなく、これから水飴をゆるめる鍋にもなるのかもしれない。
トトが戻ってきて、話の最後だけ聞いたらしい。
「水飴って、舐めるやつ?」
「舐めるために買うんじゃない」
リュシアの返事は早かった。
エレナの目が光る。
「品質確認は必要だな」
護衛が、ほとんど反射でエレナの前に立った。
「エレナ様、その品質確認は、指で行うものではありません」
「まだ何も言っていない」
「目が言っています」
澪は、次の騒ぎの形をはっきり想像できてしまった。
水飴は粘る。甘い。子供が舐めたがる。エレナも舐めたがる。しかも、飲み物へ使うには湯でゆるめて、量を測って、混ぜる順番を決める必要がある。
「香りを見せる分は黒砂糖。毎日飲む分は、水飴を試す」
澪が帳面へ書く前にそう言うと、リュシアがうなずいた。
「その方がいいね」
「現代から全部持ってくるより、こちらで買えるものは、こちらで買った方がいいんですよね」
「そう。向こうでしか手に入らない物は、澪が持ってくる。こっちで買える物は、こっちで買う。その方が続く」
その方が続く。
澪は、同じ言葉を心の中で繰り返した。
現代の品を持ち込んで売るだけではない。ペットボトルは現代側で集める。クエン酸と塩は買い置きする。扇子やタオルは通販で揃える。けれど、甘味は市場の飴屋から買えるかもしれない。
現代の容器と、異世界の材料。
押入商会は、少しずつ別のものになっていく。
リュシアと話しながら帳面に書こうとすると、澪の手は何度も止まった。
水やお茶が入っていたボトルだけを集める、と決めたのはいい。だが、集める相手が増えれば、誰から受け取ったかも残したくなる。洗った日、乾かした日、においを確かめた日も必要になる。クエン酸と塩は現代側で買い置きすればよさそうだが、量が増えれば、六畳間のどこに置くかを先に考えなければならない。
リュシアは、澪の手が止まるたびに、横から口を挟んだ。
「澪、向こうの買い物までここで全部決めなくていい。ただ、次に困る物は今のうちに見ておくんだよ」
「次に困る物……」
「紐は足りない。札も足りない。洗い桶は一つじゃ足りない。子供に任せるなら、雑に使っても壊れにくいものが要る。姫様に任せるなら、壊れても泣かないものが要る」
「最後、エレナ様専用ですか」
「そうだよ」
「聞こえているぞ」
エレナが不満そうに言った。
「聞こえるように言いました」
リュシアはさらっと返した。
澪は笑いながら、帳面の端に小さく印をつけた。現代側で用意するものと、こちらで買うものを同じところに書くと混ざる。けれど、分けすぎると今度はどこに書いたか忘れそうだった。
リュシアは、澪の迷いを見透かしたように言った。
「澪の収納と同じだね。名前と数と使い道を間違えたら、便利な物ほど面倒になる」
「またそこに戻るんですね」
「商売はだいたい戻るよ。手元に何があって、誰が使って、どこへ返すのか。そこを間違えると、フタ一つでも騒ぎになる」
澪は、小皿の横に置かれたフタを見た。
小さい部品なのに、すでに騒ぎになっている。
これ以上増えたらどうなるのか。
想像して、少しだけ胃が重くなった。
現代側へ戻ると、六畳間はいつもより狭く見えた。
実際に狭くなったわけではない。澪の頭の中で、置かなければならない物が増えすぎただけだ。布袋を机の横に置くと、小金貨が中で鈍い音を立てた。最初に聞いた時より、その音は落ち着いている。うれしくないわけではない。けれど、もう全部を使える金には見えなかった。
澪は帳面を開いた。
リュシアが小皿へ金を分けていった順番を思い出しながら、現代側の欄にゆっくり書き込む。向こうで使った場所へ渡す金、子供たちに渡す銭、壊れた時のために残す分、次に買う道具の分。現代側では、そこへ日本の税金や仕入れの管理も重なる。
澪は布袋の横にスマホを置き、検索欄に指を置いた。
金貨、換金、税金。
金地金、売却、確定申告。
雑所得、事業所得。
検索するたびに、画面の中の文字が少しずつ重くなっていった。難しい言葉ばかりで、全部をすぐ理解できたわけではない。それでも、一つだけは分かった。
入金された金は、全部使っていい金ではない。
異世界でリュシアが小皿へ分けた小金貨と同じことを、現代日本でもやらなければならないらしい。
「……こっちにも小皿がいる」
六畳間には小皿ではなく、通販のカートと帳面と、税金という知らない単語が並んでいた。
机の上には、飲み終えたペットボトルが一本転がっている。水が入っていたものだ。軽くて、透明で、フタもきれいに締まる。だが、これを十本、二十本と扱うなら、ただ部屋の隅に置いておくわけにはいかない。洗って乾かし、においを確かめ、何に使うかを決める。フタも本体と一緒にしておかないと、異世界側でまた木箱の下を探す羽目になる。
澪は通販サイトを開いた。
検索欄にタオルと入れ、表示されたまとめ売りを見た。百枚。業務用。薄手。白無地。画面の中では整った写真になっているが、それが段ボールで届いて六畳間に置かれるところを想像すると、急に現実の重みが出た。
次に扇子を検索した。
五十本セット。
澪は画面の前で固まった。
押し入れは異世界への入口であって、倉庫ではない。少なくとも、建前ではそうだった。けれど、タオル百枚と扇子五十本が届いたら、その建前はかなり危うくなる。
「……学園祭って言い訳、通るかな」
誰に対する言い訳なのか、自分でも分からなかった。
澪は数量を一つ減らした。すぐに、これでは足りない気がして戻した。タオルは消耗品だ。扇子は壊れる。エレナがいる。最後の理由だけで、予備は多めに必要だった。
スマホの連絡先を開くと、飯島修一郎の名前が見えた。
ペットボトル回収の相談もしなければならない。会社や彫金教室の周りで出る、水やお茶の飲み終えたボトルを譲ってもらえないか。もちろん、出所が分かるものだけだ。説明は必要になる。どこまで言うかは、まだ決めていない。
澪は布袋を見た。
小金貨は重い。
だが、その重さは自由の重さではなかった。続けるための重さだった。
帳面の端に、澪は小さく書いた。
使っていい金、小金貨十二枚、銀貨六枚。
そこへさらに、日本側で残しておかなければならない分、と書き足そうとして、手が止まった。今はまだ、正確な数字は分からない。けれど、分からないからこそ全部使ってはいけないことだけは分かった。
リュシアが小皿へ金を分けた手つきを思い出す。
金が減っていたのではない。
行き先が先に決められていたのだ。
澪はペンを置き、布袋の口をしっかり結んだ。小金貨の音は、最初より落ち着いて聞こえた。けれどその分、帳面の行は確実に増えていた。