押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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さすがに長すぎなので3話にわけました。


第160話 杯の中の小さな乱れ

 

 侯爵家からの使いが来たのは、昼の仕事がひと段落した頃だった。

 

 封蝋のついた招待状を受け取った澪は、まず自分の袖を見た。汚れてはいない。ほつれてもいない。けれど、侯爵家の食事会へ行ける袖かと言われると、急に布地が頼りなく見えてくる。

 

 大学なら通れる。

 押入商会の仕事でも問題ない。

 だが、侯爵家の食卓という言葉には、服の目まで審査してくるような圧があった。

 

「食事会、だってさ」

 

 リュシアが招待状を覗き込み、口の端を上げた。

 

 笑ってはいるが、目はもう商人のものだった。侯爵家の礼を受けるというのは、ただ美味しいものを食べて帰る話ではない。席順、器、料理、酒、誰が何を言い、誰がどこで黙るか。そこには必ず、商いと人脈の匂いが混じる。

 

「黒鎖商会の件と、灰橋町方面の流通回復への礼……だそうです」

 

 澪は文面を読みながら、最後の方で少し声が小さくなった。

 

 礼。

 ありがたい。

 とてもありがたい。

 

 だが、ありがたさと一緒に、礼儀作法という見えない荷物も背中へ乗ってくる。

 

「侯爵家の食事会なんて、気軽に行くもんじゃないよ」

 

 リュシアが肩をすくめた。

 

「けど、正式に呼ばれたなら受けるしかない。断ったら、それはそれで角が立つ。商人は、招かれた席でも値札の音を聞くもんさ」

 

 澪は頷いた。

 

 値札の音は、まだ聞こえない。

 今の澪に聞こえているのは、挨拶を間違えたらどうしようという音だけだった。

 

 その横で、真壁は招待状を静かに受け取った。

 

 封蝋を見る指先に乱れはない。文面を追う目にも、慌てはない。侯爵家の食卓という言葉に気圧された様子はまったくなかった。

 

「侯爵家が礼を形にしたいというのであれば、受けぬ方が無粋というものですな」

 

 真壁は、招待状を丁寧に畳んだ。

 

 澪はその横顔を見て、少しだけ目を細めた。

 

 落ち着いている。

 とても落ち着いている。

 けれど、これは完全な仕事の顔ではない。

 

 これは食事に期待している顔だ。

 

「真壁さん」

 

「何でしょう、澪君」

 

「楽しみにしていますね」

 

「礼の席を軽んじぬだけです。食卓とは、その家の品格が最もよく現れる場。料理、器、火加減、客との間合い。見るべきものは多い」

 

 真壁は実に品よく答えた。

 

 澪は内心で翻訳した。

 

 かなり楽しみにしている。

 

「ただし、礼の食事会です。飲みに行く会ではありません」

 

「酒とは、食卓の一部です。主役に据えれば下品となる。されど、無いものとして扱うのもまた、もてなしに対して礼を欠く」

 

 言葉だけ聞けば立派だった。

 

 澪はもう知っている。真壁がこうして優雅な言葉を重ねる時は、だいたい自分に都合のよいものを絹布で包んでいる。

 

 中身はたぶん、葡萄酒が出るとよいですな、である。

 

「澪、あんた、その目つきは客じゃないね」

 

 リュシアが笑った。

 

「真壁さんの言葉を翻訳していました」

 

「便利だね、それ」

 

「便利ですが、少し疲れます」

 

「澪君」

 

 真壁が静かに言った。

 

「まだ何もしておりません」

 

 まだ、という言葉が出た。

 

 澪は招待状を畳みながら、そこだけ心の中で赤く囲んだ。

 

 まだ。

 

 

 

 

 侯爵家の門をくぐった時、澪は礼儀作法のことを考えていた。

 

 歩幅。

 姿勢。

 挨拶の角度。

 リュシアに聞いた最低限の礼。

 使用人に案内される時、きょろきょろしすぎないこと。

 

 そこまでは、どうにか頭に残っていた。

 

 だが、玄関広間へ入った瞬間、その努力はすべて吹き飛んだ。

 

 馬がいた。

 

 いや、馬ではない。像である。石の像だ。頭ではそう分かる。分かるのだが、そう言い切るには、あまりにも圧が強かった。

 

 棹立ちの巨馬が、前脚を高く掲げ、今にも床を蹴って降りてきそうな姿で広間の奥に据えられていた。灰色の素材は燭台の灯を受けて鈍く光り、首の反り、胸の張り、脚の力まで妙に生々しい。磨かれた床へ落ちる影さえ、来客の足を止める力を持っていた。

 

 澪は止まった。

 

 礼儀どころではない。

 

 まず心臓が礼を失った。

 

「……真壁さん」

 

「何でしょう、澪君」

 

「あれ、います」

 

「おりますな」

 

「像ですよね」

 

「無論です。跳ねません」

 

 真壁は当然のように言った。

 

 澪は巨馬像を見上げた。

 

 跳ねない。

 たぶん跳ねない。

 真壁が作ったものなら、たしかに跳ねないようにはしてあるはずだ。

 

 だが、跳ねないものがここまで跳ねそうに見える必要はあるのだろうか。

 

 ないと思う。

 

「よい場所に置かれましたな」

 

 真壁は巨馬像を眺め、満足げに目を細めた。

 

「馬は、走るばかりが役ではありません。立つだけで道を開くものもある。侯爵家の玄関に置くなら、富を見せるより先に、気概を示すのがよろしい」

 

 澪は内心で首を横に振った。

 

 気概というより、来客を選別している。

 

 ここで怯えて帰る人は商談に向かない、という適性検査のようだった。侯爵家の玄関で実施するには、かなり攻めた試験である。

 

「これ、真壁さんが作ったんですよね」

 

「灰駿です」

 

「名前があるんですか」

 

「名のない馬を客前に立たせるのは、いささか哀れでしょう」

 

 澪はもう一度、灰駿を見上げた。

 

 名前がある方が、余計に動きそうだった。

 

 その時、奥から軽い足音がした。

 

「澪!」

 

 エレナだった。

 

 今日は侯爵家の姫としての装いをしている。けれど足取りだけは、あまり姫らしくない。嬉しそうに近づきかけて、途中で誰かの視線を思い出したように速度を落とした。

 

 走りたい。

 けれど母がいる。

 だから途中から上品に歩く。

 

 澪は、その努力を見逃さなかった。

 

「ようこそ、澪。真壁、リュシア殿」

 

 エレナは背筋を伸ばして言った。

 

 途中まで完璧だった。だが、最後に視線が灰駿へ流れる。どうやらこの巨馬像を見せたくて仕方がないらしい。

 

「灰駿、よいだろう」

 

 言ってしまった。

 

 澪は心の中で、ああ、と頷いた。

 

 我慢はした。

 でも勝てなかった。

 

 少し奥には、アルベルト、セレスティナ、そしてマルグリットがいた。

 

 アルベルトは当主として堂々と客を迎える顔をしている。セレスティナは穏やかに微笑んでいるが、その目は灰駿と客の反応を同時に見ていた。あの人はきっと、この像が来客に与える印象と、社交の場でどう噂になるかまで見ている。

 

 マルグリットは、柔らかくこちらを見ていた。

 

 柔らかい。

 けれど見逃さない。

 

 エレナが走りかけたことも、途中で歩調を直したことも、たぶん全部見ている。

 

「お招きいただき、ありがとうございます」

 

 澪は頭を下げた。

 

 噛まなかった。

 

 灰駿に驚いた後なので、逆に礼の言葉へ集中できた。巨大な驚きのあとには、細かい緊張が少し薄れるらしい。真壁の像に助けられたと思うと、少し納得がいかない。

 

「よく来てくれた」

 

 アルベルトが穏やかに言った。

 

「黒鎖商会の件、灰橋町の流通、石場町方面の安全確保。いずれも侯爵家として、言葉だけで済ませるわけにはいかん」

 

 セレスティナも続ける。

 

「今日は難しい話を抜きにして、まずは食事を楽しんでくださいませ」

 

 澪は、その言葉に少しだけ安心した。

 

 難しい話を抜きにする。

 とてもよい響きだった。

 

 ただし、セレスティナの微笑みは、難しい話が本当に抜けるかどうかは別ですわ、と言っている気もした。侯爵家の女性の笑顔は奥行きがある。澪にはまだ、入口しか見えていない。

 

 リュシアはその笑みを正面から受けた。

 

「ありがたく頂戴します。侯爵家の食卓を拝見できるのは、商人としても得難い機会です」

 

 澪は内心で感心した。

 

 リュシアは食べに来た、とは絶対に言わない。食卓を拝見、という。食べる気はあるのに、言葉が商人仕様になっている。

 

 真壁は一歩前へ出て、深すぎず浅すぎない礼をした。

 

「過分なるお招き、恐悦に存じます。礼の席とは、ただ腹を満たす場ではありますまい。家の品格、領の余裕、もてなしの心を、ひとつの卓に整えるもの。今宵は、その趣を拝見いたしましょう」

 

 澪は横目で見た。

 

 言い方が優雅すぎる。

 

 そして、拝見いたしましょう、の中に料理だけでなく酒も当然含まれている気配がある。真壁の言葉はいつも広い。便利な広さだ。

 

「真壁殿は、食卓にも道をご覧になる方なのですね」

 

 マルグリットが静かに微笑んだ。

 

「道なきものは乱れます。料理も、商いも、人の縁も」

 

 真壁は穏やかに答えた。

 

 澪は心の中で呟いた。

 

 そしてたぶん、酒にも道を見る。

 

 飲む前から、もう道を作っている。

 

 エレナが灰駿のそばで胸を張った。

 

「母上、灰駿は今日も跳ねておりません」

 

「像ですからね、エレナ」

 

 マルグリットの声は優しい。

 

 優しいが、当たり前のことを丁寧に戻す声だった。

 

 エレナは少しだけ口を尖らせかけ、すぐに戻した。母の前である。澪は、その努力も見逃さなかった。

 

 やはり、お転婆姫にも天敵はいる。

 

 

 

 

 食堂は、静かな華やかさを持っていた。

 

 広すぎる空間ではない。だが、天井は高く、壁には季節の花を描いた布が掛けられ、燭台の火が磨かれた銀器に柔らかく映っていた。豪奢さを見せつける場所ではなく、客を迎えるために整えられた部屋だった。

 

 澪は席へ案内されながら、足音を立てすぎていないか気にした。椅子を引いてもらった時など、思わず自分で直そうとして手を止める。侯爵家の使用人が自然に動くたびに、澪の中の一般大学生が小さく悲鳴を上げていた。

 

 エレナは家族の前だからか、いつもより少し行儀がよい。

 

 少し、である。

 

 ナプキンを膝に置く動きは丁寧だったが、灰駿の話になると肩が前へ出る。マルグリットが一度見ると、すっと戻る。澪はそれを見て、親子というものは異世界でもあまり変わらないのだと思った。

 

 料理が運ばれてくると、その場の空気は少し和らいだ。

 

 最初の皿は、香草の香りが立つ温かなスープだった。澄んだ琥珀色の中に、細く切った野菜と柔らかな肉が沈んでいる。ひと口飲むと、塩気は強くないのに味の輪郭がはっきりしていた。澪は思わず目を伏せた。

 

 おいしい。

 

 それだけの言葉では少し足りない。体の中に、暖かい線が1本通るような味だった。

 

 続く肉料理は、外側に薄く焼き目がつき、中はしっとりしていた。香草の苦みと脂の甘みが合わさり、添えられた野菜の酸味が重さを切る。パンは皮が香ばしく、割ると湯気が立った。

 

 侯爵家厨房は、ただ高い材料を並べているわけではない。

 

 火の入れ方、皿の温度、ソースの量、運ぶ間合い。どれも整っていた。

 

 真壁も、それは素直に認めているようだった。肉を切る手つきに無駄がない。食べる速度も速くはない。けれど、皿の上の構成を見ている。食べながら、食卓を読んでいる。

 

 澪はそこでまた気づいた。

 

 この人、食事をしている時まで何か見ている。

 

 料理人からすれば褒められているのか検査されているのか微妙な顔である。

 

「お気に召しましたか」

 

 セレスティナが尋ねた。

 

「見事ですな」

 

 真壁は皿を置き、少しだけ目を細めた。

 

「素材に頼りすぎず、火を急がず、香りを逃がさず、皿の上で止めている。料理人が己の腕を見せびらかしておりません。よい厨房です」

 

 澪は少し感心した。

 

 褒めている。

 とても褒めている。

 

 ただし、言い方が独特すぎて、厨房長が直接聞いたら喜ぶ前に背筋を伸ばすと思う。

 

「厨房長に伝えますわ。きっと喜びます」

 

 セレスティナは満足げに頷いた。

 

 澪は、喜ぶか緊張するかは半々だと思った。

 

「真壁殿は、料理にも職人の性格をご覧になるのですね」

 

 マルグリットが言った。

 

「職人の手は、品に残ります。料理も、家具も、酒も同じことです」

 

 真壁は穏やかに返した。

 

 澪は、その最後の言葉に少し反応した。

 

 酒。

 

 まだ出ていないのに、もう会話の端に置いた。

 

 この人、かなり待っている。

 

 

 

 

 葡萄酒が運ばれてきたのは、肉料理の皿が下げられ、次の皿を待つ少しの間だった。

 

 使用人が杯へ静かに注ぐ。燭台の火を受けた赤い液体が、器の中でゆっくり揺れた。濃すぎず、薄すぎず、見た目には美しい色をしている。

 

「こちらは南西、ラウゼン伯爵領ハーゼル谷の蔵元から取り寄せたものです」

 

 酒蔵係が控えめに説明した。

 

「侯爵領では葡萄酒を造っておりませんので、毎年、いくつかの蔵元から樽で買い入れております」

 

 澪はその説明を聞きながら、真壁を見た。

 

 侯爵領産ではない。

 領外から買い入れた酒。

 つまり、これは侯爵家の厨房が作ったものではない。

 

 ここを間違えてはいけない気がした。

 

 真壁は杯を持ち上げた。香りを確かめる動きは大げさではない。むしろ、儀礼の一部のように自然だった。灯火の下で赤を見て、ほんのわずかに杯を回し、それから唇をつける。

 

 澪は、なぜか息を止めた。

 

 真壁が一口含む。

 

 そして、止まった。

 

「……ん」

 

 小さな声だった。

 

 けれど、澪には十分だった。

 

 あ、今、何か見つけた。

 

 澪は杯ではなく、真壁の顔を見た。真壁は眉をひそめていない。侯爵家の席で、出された酒に失礼な顔をするほど軽くはない。ただ、杯を戻すまでの一瞬だけ、動きが止まっていた。

 

 これは、ただ酒を楽しんでいる顔ではない。

 

 少し楽しんでいる顔ではある。

 

 そこは否定しない。

 否定すると、真壁さんという人物の理解を間違える。

 

 けれど、それだけではない。

 

 澪は声を落とした。

 

「真壁さん」

 

「何でしょう、澪君」

 

「何か、ありましたか」

 

 真壁は杯から視線を離さず、ほんのわずかに目を細めた。

 

「……よくお気づきで」

 

 その言い方が、もう答えだった。

 

 澪は心の中で、小さくため息をついた。

 

 やっぱり。

 

 真壁がこういう声を出す時は、たいてい何かを見つけている。しかも、見つけたものをすぐ口にせず、いったん絹の布で包む。包んだまま差し出されると、中身が石なのか宝石なのか、開けるまで分からない。

 

 そして、たぶん今回は葡萄酒である。

 

 酒なのに、何かが面倒な形をしている。

 

「失礼にならない範囲でお願いします」

 

 澪は小さく言った。

 

 止める、とは言わなかった。

 

 ここで止めたら、真壁が見つけたものまで見なかったことになる。けれど放っておくと、この人は優雅な顔でどこまでも踏み込む。

 

 だから、先に柵だけ立てる。

 

「食卓を傷つける趣味はありません」

 

 真壁は静かに答えた。

 

 言葉は上品だった。

 

 ただし、澪には別の意味にも聞こえた。

 

 食卓以外なら傷つけるものがあるのかもしれない。

 

 真壁はもう一度、杯の中の赤を見た。

 

「料理は見事です」

 

 真壁は、まずそう言った。

 

 アルベルトがわずかに目を細める。セレスティナも、続きを待つ顔になった。

 

「この葡萄酒は、造りが悪いというより、旅で疲れておりますな」

 

「旅で」

 

 アルベルトが繰り返した。

 

「ええ。香りはあります。葡萄も悪くない。蔵を出た時点で、ひどい酒だったとは思えません。ですが、保管と移送のどこかで、いささか乱されている」

 

 真壁は杯を置いた。

 

「責めるなら、酒より先に道でしょうな」

 

 リュシアがその言葉に反応した。

 

「道と倉か。嫌な話だね」

 

 商人の鼻が動いた顔だった。

 

 セレスティナが酒蔵係へ視線を向ける。酒蔵係は控えめに頭を下げ、買い入れ先と中継商人の名を口にした。

 

 南西のラウゼン伯爵領。

 ハーゼル谷の蔵元。

 最近、間に入るようになった商会。

 

 どれも、食卓の上に置くには少し苦い響きだった。

 

 真壁は静かに聞いていた。

 

 リュシアは商人名のところで目を細めた。

 

 澪はその2人の横顔を見て、食事会の穏やかな灯りが少し遠くなったように感じた。

 

「先に確かめる必要がありそうですな」

 

 真壁はそう言った。

 

 アルベルトが頷く。

 

「侯爵家からも、正式に問い合わせを出そう」

 

「それがよろしいでしょう。ただ、紙が届くより先に、現地の空気は変わります」

 

 真壁の言い方は穏やかだった。

 

 だが澪には分かった。

 

 行く気だ。

 

 かなり行く気だ。

 

「真壁さん」

 

「何でしょう、澪君」

 

「食事が終わってからです」

 

「無論です」

 

 返事が早い。

 

 早い時ほど、少し信用できない。

 

「それと、移動の話はここではしないでください」

 

 澪は声を落とした。

 

 真壁はわずかに目を細めた。

 

「心得ております。目立つ足は、目立たぬ場所で使うものです」

 

 言い方は上品だった。

 

 澪は、ここでそれ以上聞かないことにした。

 

 聞いたら、何かが食卓に出る気がしたからだ。

 料理ではない何かが。

 

 

 

 

 食事は、その後も静かに続いた。

 

 料理は最後まで見事だった。侯爵家のもてなしは崩れず、葡萄酒の違和感も、食卓そのものを傷つけることはなかった。

 

 エレナは時々、灰駿の話をしたそうにしていた。だが、マルグリットが微笑むたびに、きちんと料理へ意識を戻していた。

 

 澪はそれを見て、エレナの成長を感じた。

 

 同時に、母の微笑みとは大変強いものだと思った。

 

 リュシアは料理の味だけでなく、使われている食材、運ぶ順番、使用人の動きを見ていた。商人は食卓でも仕事をするらしい。澪はそれを見ながら、商人という生き物は休む場所を自分で少なくしているのではないかと思った。

 

 真壁は、最後の菓子まで静かに味わった。

 

 ただし、葡萄酒の杯は必要以上に傾けなかった。

 

 澪はその点だけ、少し安心した。

 

 真壁は本当に、飲みに来たわけではなかったのだ。

 

 少なくとも、今は。

 

 席を終える時、澪たちは改めて礼を述べた。

 

「本日は、お招きありがとうございました」

 

 澪が頭を下げると、セレスティナは柔らかく微笑んだ。

 

「こちらこそ。楽しいだけでは終わらない食卓になりましたわね」

 

 澪は少しだけ困った。

 

 楽しいだけで終わらない食卓。

 

 それはたぶん、押入商会が来た時点で半分決まっていたのかもしれない。

 

 真壁は深くなりすぎない礼をした。

 

「よき席を頂戴いたしました。料理も、もてなしも、実に見事。ゆえにこそ、杯の中の小さな乱れを見過ごすには惜しい」

 

 澪は横目で見た。

 

 お礼を言っている。

 

 お礼を言っているのだが、もう半分は出発の挨拶になっている。

 

 アルベルトはその意味を受け止めたのか、静かに頷いた。

 

「無理はするな」

 

「心得ております」

 

 真壁は答えた。

 

 澪は少し不安になった。

 

 真壁の「心得ております」は、本当に心得ている時と、自分なりに心得ている時がある。後者の場合、周囲の常識が置いていかれる。

 

 マルグリットがエレナの肩に手を添えた。

 

「澪さん、またいらしてくださいね」

 

「はい。ありがとうございます」

 

 エレナが一歩前へ出かけ、また止まった。

 

 走りたい。

 別れ際も、たぶん走りたい。

 でも母がいる。

 

 澪は小さく笑った。

 

「エレナ様、灰駿、すごかったです」

 

 エレナの顔がぱっと明るくなった。

 

「だろう!」

 

「エレナ」

 

 マルグリットの声が、やわらかく入る。

 

 エレナは、こほん、と小さく咳払いをした。

 

「ええ。よい像でしょう」

 

 取り繕い方がまだ少し速い。

 

 澪は、その速さも含めて微笑ましかった。

 

 

 

 

 侯爵家を辞し、門を出ても、真壁はすぐには何も出さなかった。

 

 馬車道を少し歩く。

 

 屋敷の灯が遠くなり、門番の視線も届かなくなる。生け垣が切れ、林の陰が道を隠したところで、真壁はようやく足を止めた。

 

「ここならよろしいでしょう」

 

 澪は周囲を見回した。

 

 誰もいない。

 

 誰もいないが、だからといって安心しきれない。真壁が何かを出す時は、誰もいない場所でもなぜか心臓が少し構える。

 

「澪君」

 

「はい」

 

「少々、風を切ります」

 

 真壁は収納からワッパを出した。

 

 澪は固まった。

 

 侯爵家の食事会。

 葡萄酒。

 ラウゼン伯爵領。

 ハーゼル谷。

 そして、ワッパ。

 

 今日の予定は、礼儀作法だけで手一杯だったはずなのに、最後に乗り物の種類まで増えた。

 

「真壁さん」

 

「何でしょう」

 

「少々、ですよね」

 

「ええ。少々です」

 

 澪はワッパを見た。

 

 夜の林の中に置かれたそれは、静かに待っているように見えた。

 

 待っているのは、たぶん真壁ではない。

 

 澪の覚悟である。

 

「リュシアさんは」

 

「先ほど、別行動でお願いしてあります。侯爵家への伝言と、念のための手配を」

 

「いつの間に」

 

「食後の茶の間に」

 

「茶の間に何をしているんですか」

 

「段取りです」

 

 澪は目を細めた。

 

 真壁の段取りは、いつもこちらの理解より少し先を走っている。たいてい追いついた頃には、乗り物が出ている。

 

 今も出ていた。

 

「澪君、乗りたまえ」

 

「確認していいですか」

 

「どうぞ」

 

「これ、落ちませんよね」

 

 真壁は、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「落ちる設計にはしておりません」

 

「落ちる設計だったら困ります」

 

「当然ですな」

 

 当然のことを言っている。

 

 けれど、当然のことほど確認したい時がある。特に、地面から離れる可能性のあるものについては。

 

 真壁が先に乗った。

 

 動きに迷いがない。衣服の裾も乱れない。侯爵家の食卓からそのまま抜けてきたような姿で、平然とワッパに座っている。澪は少しだけ腹が立った。

 

 自分は、乗る前からすでに品が危ない。

 

 澪は慎重に足をかけた。

 

 ワッパがわずかに沈む。

 

「ひゃっ」

 

 声が出た。

 

 小さかった。

 たぶん小さかった。

 そういうことにしたい。

 

「問題ありません」

 

「今、少し動きました」

 

「乗り物ですからな」

 

 それはそう。

 

 それはそうなのだが、今ほしいのは正論ではなく、安心だった。

 

 澪は真壁の後ろに座った。

 

 思ったより近い。

 

 タンデムという言葉は知っていたが、実際に座ると距離が急に現実になる。真壁の背がすぐそこにある。肩越しに前を見ると、林の暗がりが道の先で口を開けているように見えた。

 

「掴まっていたまえ」

 

「どこにですか」

 

「私に」

 

 真壁は当然のように言った。

 

 澪は固まった。

 

 当然なのだろう。

 

 タンデムなのだから、掴まる場所は前の人しかない。分かっている。分かっているが、口に出されると急に難易度が上がる。

 

「失礼します」

 

「ええ」

 

 澪はおそるおそる真壁の背に手を回した。

 

 最初は遠慮があった。

 

 だが、ワッパがふわりと浮いた瞬間、その遠慮はきれいに消えた。

 

「真壁さん」

 

「何でしょう」

 

「浮きました」

 

「ホバーバイクですからな」

 

「地面が離れました」

 

「それが利点です」

 

「利点の主張が強いです」

 

 澪は真壁の服を握る手に力を込めた。

 

 地面がない。

 

 それだけで、人間はかなり弱くなるらしい。侯爵家で礼を間違えないようにしていた緊張とは、種類が違う。こちらはもっと直接、足元から来る。

 

「澪君」

 

「はい」

 

「少し締まっております」

 

「何がですか」

 

「肋骨が」

 

 澪は慌てて手を緩めた。

 

「す、すみません」

 

「構いません。信頼とは、時に肋骨へ来るものです」

 

 真壁は淡々と言った。

 

 澪は真壁の背中を見つめた。

 

 この状況でそんな言い方をする余裕があるなら、こちらの心臓にも少し配慮してほしい。

 

「行きます」

 

「ゆっくりでお願いします」

 

「無論です」

 

 真壁が言う。

 

 澪は、その無論を信じたいと思った。

 

 思ったが、真壁の無論は時々、人と意味が違う。

 

 ワッパが滑るように前へ出た。

 

 夜気が頬を撫でる。侯爵家の灯が後ろへ流れ、馬車道の白さがすぐに林の影へ変わった。車輪の軋みも、馬の蹄もない。ただ、身体ごと風に乗せられていく。

 

 怖い。

 

 怖いが、少しだけ綺麗でもあった。

 

 澪は真壁の背にしがみついたまま、目を細めた。さっきまで杯の中で揺れていた赤い葡萄酒が、今はラウゼン伯爵領のハーゼル谷という現実の場所へ変わっていく。

 

「澪君」

 

「はい」

 

「慣れましたかな」

 

「慣れてはいません」

 

 澪は即答した。

 

「でも、落ちてはいません」

 

「結構」

 

 真壁は満足げに言った。

 

 その評価基準は低い。

 

 低いが、今の澪にはかなり大事だった。

 

 ワッパは音もなく、夜の道を切っていく。

 

 澪はもう一度、真壁の背に掴まり直した。

 

 今度は少しだけ、肋骨に遠慮して。

 

 そして、風の中で思った。

 

 真壁の少々は、あまり信用できない。

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