押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第161話 父さんの酒は悪くない

 ワッパが丘を越える頃、風の匂いが変わった。

 

 侯爵領の湿った土と森の匂いが薄れ、乾いた草と石の匂いが混じり始める。夜はまだ深いが、空の端にはかすかに色が差し、遠くの斜面が黒い波のように見えた。

 

 ラウゼン伯爵領。

 

 ハーゼル谷。

 

 食事会の席で聞いた名前が、今は風の中にあった。

 

 澪は真壁の背に掴まったまま、少しだけ顔を上げた。

 

 葡萄棚が見え始める。斜面に沿って低い棚が並び、石垣が段を作っている。昼ならきっと美しいのだろう。だが、まだ薄暗いその景色は、どこか疲れて見えた。

 

 棚はある。

 

 石垣もある。

 

 けれど、枝が乱れている畑が混じっていた。伸びた枝が支柱から外れ、葉の残り方にもむらがある。手入れされた畑と、途中で手が止まった畑が、隣り合っている。

 

 畑にも、元気な顔と疲れた顔があるのかもしれない。

 

 そう思った瞬間、澪は自分で少し驚いた。

 

 いけない。

 

 このままだと、葡萄棚の顔色まで読むようになる。

 

 真壁さんの影響が、かなり土に近いところまで来ている。

 

「澪君」

 

 前から真壁の声が来た。

 

「はい」

 

「道の反応は」

 

 澪は息を整え、地図スキルへ意識を寄せた。

 

 足元の道筋が、頭の中で薄く形を取る。馬車の通る主道、畑へ入る細い道、石垣の陰へ沈む小道。人の反応は少ない。少なすぎる。葡萄畑がある土地なら、夜明け前でももう少し動きがありそうなものなのに、気配が薄い。

 

「主道に古い通行跡があります。畑道は……使われているところと、ほとんど動きのないところが分かれています」

 

「結構」

 

 真壁は短く答えた。

 

 短い。

 

 澪はその背中を見た。

 

 真壁の短い返事は、だいたい何かを削ぎ落としている時の返事だ。余計な飾りがなくなるほど、考えていることが増えている。

 

「倉庫らしい建物が、斜面の下にいくつかあります」

 

「見えます」

 

 真壁の視線は、すでにそちらへ向いていた。

 

 葡萄棚の向こう、石垣の切れ目に、古い木造の倉庫がいくつか固まっている。1つは屋根の片側が少し沈んでいた。もう1つは新しい戸板がついている。古いものと新しいものが混じっているのが、妙に不自然だった。

 

 澪は真壁の背中に掴まる手を少し緩めた。

 

 ワッパには、少し慣れてきた。

 

 少しだけである。

 

 慣れたと言い切るには、地面が遠い。

 

「澪君」

 

「はい」

 

「右手の畑道を見たまえ」

 

 真壁の声が、急に細くなった。

 

 澪は言われた方へ視線を向けた。

 

 畑道の脇、石垣と低い草の間に、小さな影が2つあった。

 

 最初は、荷物かと思った。

 

 次に、動物かと思った。

 

 だが、ワッパが近づくにつれ、その影が人の形をしていることに気づいた。

 

「真壁さん」

 

「止めます」

 

 真壁は即座にワッパを落とした。

 

 落とした、といっても、乱暴ではない。滑るように速度を殺し、石のない場所へ静かに着ける。けれど澪の心臓は、そんな上品な着地に合わせてくれなかった。

 

 速い。

 

 判断が速すぎる。

 

 怖がる暇がない。

 

 真壁はワッパから降りると、周囲へ視線を走らせた。畑道、石垣、棚の陰、倉庫の方角。次に、地面の跡を見る。草の倒れ方、細い足跡、引きずったような跡。

 

 澪も慌てて降りようとして、足元が少しふらついた。

 

 まだワッパの揺れが体に残っている。

 

 けれど、倒れている影を見た瞬間、その怖さの向きが変わった。

 

 自分が怖いのではない。

 

 あの子たちが怖い。

 

 そう思ったら、足が動いた。

 

 倒れていたのは、子どもだった。

 

 兄は10歳くらいに見えた。痩せた腕で、小さな妹を庇うように横たわっている。妹は6歳か7歳ほどだろうか。頬に土がつき、唇が乾いている。兄の片手は、胸元の布袋を強く握っていた。

 

 澪は息を呑んだ。

 

 布袋を握ったまま倒れる子ども。

 

 その姿だけで、そこに大人の事情が詰まっている気がした。

 

「触れる前に周囲を」

 

 真壁の声は静かだった。

 

 静かだが、急いでいる。

 

 澪は頷き、地図スキルをもう一度広げた。

 

 畑道の奥に濃い反応はない。倉庫の方にいくつか人の反応があるが、ここへ向かっている動きではない。近くの石垣の陰にも、待ち伏せの気配はない。

 

「すぐ近くには、追ってくる反応はありません。倉庫の方に人はいます。でも、こちらへ動いていません」

 

「よろしい」

 

 真壁は膝をついた。

 

 まず兄の呼吸を見て、次に妹を見る。首筋、手首、顔色、唇。指先が早い。けれど、乱暴さはない。真壁の手は、こういう時だけ妙に優しい。

 

「鑑定」

 

 小さく呟いた真壁の目が、ほんのわずかに細くなる。

 

 澪はその横で、妹の顔を見た。

 

 小さい。

 

 侯爵家の食堂でエレナが灰駿を自慢していた時には、まだ少し笑えた。葡萄酒が疲れているという言葉にも、どこか綺麗な響きがあった。

 

 けれど、ここには綺麗な言葉が入る余地がなかった。

 

 乾いた唇。

 土のついた頬。

 兄の手の中の布袋。

 

「脱水、空腹、疲労。打撲はあるが、致命傷ではありません」

 

 真壁は短く言った。

 

 澪はその言葉で、やっと息を吸えた。

 

 助かる。

 

 その可能性が見えた途端、逆に手が震え始めた。

 

「澪君」

 

「はい」

 

「妹君を見たまえ。水は急がず、まず唇を湿らせる程度でよろしい。慌てて飲ませてはならん。助かるものを、急いて損なうのは下策です」

 

 言い方はいつもの真壁だった。

 

 少し古めかしく、少し芝居がかっていて、やけに落ち着いている。

 

 だが、澪にはありがたかった。

 

 今、自分に必要なのは、落ち着いた指示だった。

 

「分かりました」

 

 澪は収納から出された布を受け取り、水を少し含ませた。

 

 妹の口元へ近づける。

 

 手が震えている。

 

 初めてのワッパで怖かったせいもある。地面から離れた身体が、まだ完全に戻っていないせいもある。

 

 けれど、澪は止まらなかった。

 

 妹の唇に、湿らせた布をそっと当てる。

 

 小さな喉が、わずかに動いた。

 

「……真壁さん」

 

「飲ませ過ぎず、そのまま」

 

「はい」

 

 兄の方は、真壁が布袋を無理に奪わないまま状態を見ていた。握った指を外そうとすれば、きっと起きた時に怯える。そう判断したのだろう。真壁は布袋をそのままに、兄の呼吸と脈を確かめている。

 

 澪は、その手つきを見て少しだけ安心した。

 

 真壁は荒っぽいこともする。

 

 穴も掘るし、巨馬も立てるし、ワッパも出す。

 

 でも、こういう時に踏むところは踏まない。

 

 それを知っているから、澪は動けた。

 

「周囲の足跡は、こちらへ逃げてきたものですな」

 

 真壁が低く言った。

 

 澪は妹の口元を見ながら、小さく頷く。

 

「追手ですか」

 

「まだ近くにはおりません。ですが、この子らが散歩で倒れたのではないことは確かでしょう」

 

 真壁は兄の握る布袋へ視線を落とした。

 

「大切なものを持って逃げた。そういう手です」

 

 澪は兄の手を見た。

 

 小さな指が、白くなるほど布袋を握っている。

 

 その手を見ていると、侯爵家の葡萄酒の赤が、急に遠くなった。

 

 あの杯の違和感の先に、この子たちがいたのだ。

 

 そう思うと、胸の奥が冷えた。

 

 妹のまぶたが、かすかに震えた。

 

「大丈夫です」

 

 澪は小さく言った。

 

 自分に言ったのか、妹に言ったのか分からない。

 

「今、お水を少しだけ。少しだけです」

 

 声が震えないようにしたつもりだった。

 

 少し震えた。

 

 真壁はそれを聞いていたが、何も言わなかった。

 

 ただ、兄の肩に毛布をかけ、次に妹の体を冷やさないよう布を重ねる。

 

 それから、ほんのわずかに澪を見た。

 

 怖がっていても、止まらない。

 

 その目が、そう言っているように見えた。

 

「結構」

 

 真壁は短く呟いた。

 

 澪は顔を上げた。

 

「何がですか」

 

「いえ」

 

 真壁は周囲へ視線を戻した。

 

「こちらの話です」

 

 澪は少しだけむっとした。

 

 こういう時の真壁の「こちらの話」は、だいたい本当にこちらには話してくれない。

 

 けれど今は、問い詰める余裕はなかった。

 

 妹の唇が、もう一度わずかに動く。

 

 澪は布を湿らせ直し、慎重に口元へ当てた。

 

 夜明け前の畑道に、乾いた風が吹いた。

 

 葡萄棚の影が、石垣の上で細く揺れていた。

 

 

 

 

 真壁は、畑道から少し離れた林縁に場所を取った。

 

 葡萄棚の列が途切れ、石垣の影が薄くなる場所だった。見通しは悪くない。道からは外れているが、完全に奥へ入りすぎてもいない。逃げるにも、動くにも、隠れるにも、ぎりぎり都合がよい。

 

 澪はその判断の早さに、少しだけ呆れた。

 

 真壁は、こういう時に場所を見る目が妙に細かい。侯爵家の食卓では葡萄酒の道を見て、畑道では逃げ道と追い道を見る。たぶんこの人の頭の中では、世界のかなりの部分が道でできている。

 

「ここで一度、落ち着かせます」

 

 真壁が言った。

 

 落ち着かせます、と言いながら、動きはまったく落ち着いていない。収納から毛布、水袋、小さな鍋、布、救急用品を次々に出し、草を払って子どもたちを寝かせる場所を作る。

 

 火は小さくした。

 

 炎は大きくしない。煙も抑える。灯りは必要だが、目印にはしない。そういう火だった。

 

 澪は妹のそばに膝をついた。

 

 小さな女の子だった。土のついた頬。乾いた唇。汚れた髪が額に張りついている。澪が湿らせた布を口元へ当てると、女の子の喉がかすかに動いた。

 

「少しだけです。大丈夫、少しだけ」

 

 澪は自分でも驚くほど小さな声で言った。

 

 妹が聞いているかは分からない。けれど、言わずにいられなかった。

 

「澪君、急がず」

 

「はい」

 

「水は命を戻すものですが、急げば逆に乱します。丁寧に」

 

 真壁の言い方は相変わらずだった。

 

 こういう時まで、妙に品がある。だが、澪はその言葉に救われた。慌てるなと言われるより、丁寧にと言われる方が手が動く。

 

 兄の方は、しばらくして目を覚ました。

 

 最初に動いたのは目だった。次に、胸元の布袋を握る手。起き上がろうとして、身体がついていかず、苦しそうに息を詰める。

 

「動かぬ方がよろしい」

 

 真壁が静かに言った。

 

 兄はびくりとした。痩せた肩が震え、布袋を胸に引き寄せる。妹を見ようとして首を動かし、澪の膝元で毛布に包まれているのを見つけた瞬間、少しだけ目の色が変わった。

 

「ミナ……」

 

 声はかすれていた。

 

 妹の名だろう。

 

「大丈夫です」

 

 澪はすぐに言った。

 

「お水を少し飲ませています。急に飲むと危ないので、少しずつです」

 

 兄は澪を見た。

 

 信じていいのか、まだ分からない顔だった。

 

 当然だ、と澪は思った。

 

 道端で倒れるまで逃げてきた子どもが、起きてすぐ知らない大人を信用できる方がおかしい。

 

「名を伺っても?」

 

 真壁が聞いた。

 

 兄はすぐには答えなかった。布袋を握る指に力が入る。

 

 真壁は、その布袋を見ても手を伸ばさなかった。

 

 澪はそこに少し安心した。

 

 真壁は、欲しい情報がある時でも、いきなり奪わない。奪えば早い場面でも、奪ってはいけないものがあると分かっている。

 

「私は真壁。こちらは澪君。君たちを道端で見つけた」

 

 兄はまだ警戒していた。

 

 だが、妹が小さく息をしたのを見て、少しだけ肩の力が抜ける。

 

「……ルカ」

 

 かすれた声で言った。

 

「ルカ・ハーゼル。妹は、ミナ」

 

「ハーゼル」

 

 真壁が短く繰り返した。

 

 その名を聞いた瞬間、澪は食事会で聞いた地名を思い出した。

 

 ラウゼン伯爵領。

 ハーゼル谷。

 古い蔵元。

 

 杯の中の違和感が、急に目の前の子どもへつながった。

 

 澪はそのつながりが嫌だった。

 

 葡萄酒の話は、葡萄酒だけで終わってほしかった。けれど、終わらないから真壁はここまで来たのだ。

 

「君たちは、ハーゼル谷の葡萄酒蔵の子ですかな」

 

 真壁が問う。

 

 ルカは唇を噛んだ。

 

「父さんの蔵だ」

 

「父上と母上は」

 

 ルカの目に、ぎゅっと力が入った。

 

「蔵にいる。残ってる。あいつらが……父さんと母さんに、紙に印を押せって」

 

 澪は妹の手を握ったまま、息を止めた。

 

 紙。

 印。

 

 子どもの口から出るには、嫌な言葉だった。

 

「急がず話したまえ」

 

 真壁は、火の向こうに腰を下ろした。

 

 距離を詰めすぎない。見下ろさない。けれど、聞き逃さない位置だった。

 

「言葉は、整っていなくてよろしい。見たことと、聞いたことを話せばよい」

 

 澪は内心で少しだけ感心した。

 

 真壁は、子どもに大人の説明を求めない。

 

 ただ、その言い方がまた妙に舞台めいている。こんな状況でなければ、澪は「見たことと聞いたこと、という言い方が上品すぎます」と心の中で突っ込んでいただろう。

 

 今は、少しだけにした。

 

 ルカは火を見た。

 

 火を見ることで、真壁を直接見なくて済むのかもしれない。

 

「最初は、ちょっとだけ借りたって父さん言ってた」

 

 声は細い。

 

 けれど、途切れなかった。

 

「葡萄が少なかった年があって。樽も売れなくて。だから、次の年までの金を借りたんだって」

 

 澪はルカの顔を見た。

 

 不作。

 売れない樽。

 次の年までの金。

 

 大人が使えば商売の話になる言葉が、子どもの口から出ると、急に生活の匂いがした。

 

「誰から借りたか、名は覚えておりますかな」

 

 真壁が聞く。

 

 ルカは首を振った。

 

「名前は、何回も変わった。最初はやさしいおじさんだった。父さんに、困った時はお互いさまだって言ってた。でも、そのあと別の人が来て、紙が増えた」

 

「紙が増えた」

 

 澪は小さく繰り返した。

 

 ルカが頷く。

 

「印も増えた。返しても、まだ足りないって。父さんは返したって言った。でも向こうは、これは利子で、これは手数料で、これは遅れた分で、これは樽を置いた場所の金で、これは運ぶ時の約束で……」

 

 ルカはそこで口をつぐんだ。

 

 たぶん、全部の意味は分かっていない。

 

 分からないまま、何度も聞かされた言葉だけが残っているのだ。

 

 澪は胸の奥が重くなるのを感じた。

 

 利子。

 手数料。

 延滞。

 保管料。

 輸送保証金。

 

 大人が作った細い紐が、子どもの家を少しずつ縛っていく。

 

「父さんが怒って、母さんが泣いて……それで、畑も蔵も、もう向こうのものだって言われた」

 

 ルカの手が布袋を握りしめる。

 

「でも違う。父さんは、そんなつもりじゃなかった。父さんは、少し借りただけだって。返せるって」

 

 澪は何も言えなかった。

 

 少し借りただけ。

 

 それが、畑と蔵を奪うほどに膨らむ。紙の上で。印の上で。大人の声の中で。

 

 真壁はしばらく黙っていた。

 

 火の小さな音だけがした。

 

「親切な金貸しほど、まず椅子を勧めます」

 

 真壁が静かに言った。

 

 澪は顔を上げた。

 

「座った者が、立ち上がる頃には足元に鎖がある。古典的で、つまらぬ手ですな」

 

 言い方は優雅だった。

 

 けれど、澪には分かった。

 

 かなり怒っている。

 

 真壁は怒ると、言葉が磨かれる。磨かれすぎて、かえって冷たくなる。

 

「ルカ君」

 

 真壁が呼ぶ。

 

「その布袋は、父上から預かったものですかな」

 

 ルカはまた身を固くした。

 

 布袋を奪われると思ったのだろう。

 

「見せたくなければ、今は見せずともよい」

 

 真壁はすぐに付け加えた。

 

「ただ、それは君の手には重すぎる紙でしょう。奪う気はありません。見るだけです」

 

 ルカは迷った。

 

 妹を見る。

 澪を見る。

 真壁を見る。

 

 それから、震える手で布袋の紐をほどいた。

 

 中から出てきたのは、小さな木札だった。焼き印が入っている。葡萄の房と、家名らしい印。次に、折り畳まれた紙が数枚。汚れているが、大事に包まれていたのが分かる。

 

「父さんの樽印札です」

 

 ルカは木札を真壁へ差し出した。

 

「これがあれば、本物の樽だって分かるって」

 

 真壁は両手では受け取らなかった。片手でも乱暴に取らなかった。まずルカの手の上にある札を見て、それから静かに受け取る。

 

「ハーゼルの印ですな」

 

 真壁は札を火の光にかざした。

 

「古い。だが、丁寧です」

 

 ルカの顔に、ほんの少しだけ光が戻った。

 

 父親の仕事を褒められた顔だった。

 

 澪はそれを見て、真壁のこういうところはずるいと思った。

 

 人を助ける時まで、ちゃんと品物を見る。そして、その品物を作った人の手を見て褒める。だから、相手は泣きそうになる。

 

 真壁は紙も見た。

 

 借用証の写し。

 納品控え。

 土地譲渡書の控え。

 商会印。

 

 真壁は最後の紙の端にある印を見て、動きを止めた。

 

 黒い鎖ではない。

 

 だが、飾り罫の端が、鎖を丸めたような形をしている。直接の印ではない。けれど、似ている。真壁の目が、そこで細くなった。

 

 澪はそれを見て、嫌な予感が形を持つのを感じた。

 

「黒鎖商会ですか」

 

 小さく聞く。

 

 ルカがびくりとした。

 

 澪はすぐに声を落とした。

 

 子どもの前で言うには、強すぎる名前だったかもしれない。

 

 真壁は紙を畳み直し、ルカへ返す前に、火の光から少し遠ざけた。

 

「領内で折った手足とは別ですな」

 

 真壁は静かに言った。

 

 ルカには意味が分からない顔だった。

 

 澪には、少し分かった。

 

 侯爵領内で動いていた黒鎖商会そのものではない。けれど、別の名、別の商会、別の金貸しとして動いている手がある。

 

「名は違うでしょう。だが、金の流れは近い」

 

 真壁は、紙をルカの手元へ戻した。

 

「少なくとも、同じ食卓で飯を食っていた連中です」

 

 澪は真壁を見た。

 

 言い方が妙に上品なのに、内容はかなり物騒だった。

 

 同じ食卓で飯を食っていた連中。

 

 つまり、仲間。

 あるいは、仲間ではないふりをしている同類。

 

 ルカは布袋を抱え直した。

 

「父さんの酒は悪くない」

 

 突然、そう言った。

 

 火の小さな音に負けそうな声だったが、芯だけは強かった。

 

「悪い酒だって言われた。でも違う。父さんの樽は、蔵を出る時はちゃんとしてた。悪くされたんだ」

 

 澪は言葉を失った。

 

 侯爵家の食卓で、真壁が言った葡萄酒の疲れ。

 

 その疲れの先に、この子の言葉があった。

 

 真壁は、少しの間、ルカを見ていた。

 

 それから、低く言った。

 

「なるほど」

 

 その声は静かだった。

 

 静かすぎて、澪は背筋が伸びる。

 

「葡萄酒の評判を落とし、値を下げ、借金を膨らませ、土地を取る。ずいぶん丁寧な盗みですな」

 

 丁寧な盗み。

 

 澪はその言葉を心の中で繰り返した。

 

 丁寧という言葉が、こんなに嫌な響きになることがあるのだと思った。

 

 ミナが小さく身じろぎした。

 

 澪はすぐに妹の手へ視線を戻す。小さな指が、澪の指に触れた。握り返す力はまだ弱い。けれど、そこに力がある。

 

「大丈夫です」

 

 澪はもう一度、小さく言った。

 

 今度は、自分にも言っていた。

 

 林縁の小さな火が、低く揺れる。

 

 葡萄畑の向こうでは、まだ夜明け前の風が乾いていた。

 

 

 

 

 ミナは澪の膝にもたれ、浅い寝息を立てている。乾いていた唇は少しだけ色を戻し、指先にもかすかな温かさが戻っていた。

 

 澪はその小さな手を、両手でそっと包んでいた。

 

 強く握ると壊れそうで、弱く触れると消えてしまいそうだった。

 

 ルカは、火を見つめたまま黙っていた。

 

 もう話した。かなり話した。けれど、まだ眠らない。眠ったら、持ってきたものを奪われると思っているのかもしれない。あるいは、眠っている間に父と母が遠くへ行ってしまうと怖いのかもしれない。

 

 澪はルカに「寝てください」とは言えなかった。

 

 言うには、ルカの目が必死すぎた。

 

 真壁が、ゆっくりと澪を見た。

 

「澪君」

 

「はい」

 

 返事は出た。

 

 だが、自分の声が少し硬いことに、澪は気づいていた。

 

「助けたいかね?」

 

 澪は、すぐには答えられなかった。

 

 ミナの手を見る。小さな指が、澪の指に引っかかっている。力は弱い。それでも、離さないようにしている。

 

 ルカの布袋を見る。樽印札と、借用証の写しと、土地を奪う紙が入った袋。子どもが胸に抱えるには、あまりに重い。

 

 火の向こうの真壁を見る。

 

 真壁は急かさなかった。助ける、と言わせたい顔でもない。澪が頷けば動く。頷かなければ、それでも何かはするのだろう。だが、今ここで問われているのは、真壁の判断ではなく、澪自身の気持ちだった。

 

 ずるい聞き方だと思った。

 

 けれど、必要な聞き方でもあった。

 

 澪は、ゆっくり頷いた。

 

「……はい」

 

 声は小さかった。

 

 でも、出した。

 

 真壁の目が、ほんのわずかに細くなる。

 

「よろしい」

 

 短い言葉だった。

 

 それだけで、何かが決まった気がした。

 

 真壁は立ち上がった。火の光を背に受けると、その影が林の地面へ長く伸びる。ルカがびくりと肩を震わせたが、真壁はすぐに片手を上げた。

 

 急がせない。

 奪わない。

 ただ、行く。

 

 そういう手だった。

 

「飲みに行くんじゃないですよね」

 

 澪は思わず言った。

 

 言ってから、少しだけ場違いだったかと迷った。

 

 だが、言わずにはいられなかった。真壁は今、完全に助けに行く顔をしている。しているのだが、問題の始まりが葡萄酒である以上、釘は打っておきたい。

 

「無論です」

 

 真壁は即答した。

 

 早い。

 

 早すぎる。

 

 澪は目を細めた。

 

 即答が早い時の真壁は、だいたい少しだけ怪しい。悪いことをしているわけではない。けれど、自分に都合のいい余白を、言葉の裾に隠していることがある。

 

 真壁は、その視線を受けても涼しい顔だった。

 

「酒盃を追う趣味はありません」

 

 言い方は上品だった。

 

 澪は心の中で突っ込んだ。

 

 趣味はない、ではなく、仕事なら追う、という余白が残っています。

 

「今宵の相手は、酒ではなく土地を奪う手です。そして、取り返すべきは、人です」

 

 澪は口を閉じた。

 

 そう言われると、もう茶化せない。

 

 真壁は時々、逃げ道を自分で閉じるようなことを言う。優雅な言葉で飾っていても、芯だけは動かない。今もそうだった。

 

 ミナが、澪の膝で小さく身じろぎした。

 

 澪は反射的に髪を撫でる。

 

 この子を、母親のところへ返したい。

 

 そう思った瞬間、怖さが少し形を変えた。

 

「明日は少し、忙しくなる」

 

 真壁が言った。

 

「はい」

 

 澪は頷いた。

 

「怖いかね」

 

 その問いは、静かだった。

 

 澪は少しだけ迷った。

 

 強がることもできた。大丈夫です、と言うこともできた。けれど、膝の上のミナの軽さと、ルカの布袋の重さを感じたまま、嘘をつく気にはなれなかった。

 

「怖いです」

 

 澪は正直に言った。

 

 真壁は何も言わない。

 

 だから、澪は続けた。

 

「でも、助けたいです」

 

 ルカが顔を上げた。

 

 信じていいのか、まだ分からない顔だった。けれど、その目にほんの少しだけ何かが灯った。希望と言うには弱い。けれど、絶望だけではなくなった。

 

 真壁は、火の向こうで静かに頷いた。

 

「結構」

 

 その一言で、話は決まった。

 

 澪はミナの手を握り直した。

 

 まだ怖い。

 

 ワッパも怖い。

 荒くれ者も怖い。

 土地を奪う紙も、金貸しも、黒鎖の残り香も怖い。

 

 けれど、怖いから何もしない、という選択肢は、もう膝の上で眠る小さな重さに潰されていた。

 

 真壁は火の向こうで、夜明け前の葡萄畑を見ている。

 

 澪には、その横顔が少しだけ危うく見えた。

 

 品よく、静かに、そして確実に何かを取り返しに行く顔だった。

 

 

 

 

 夜明け前の空は、葡萄畑の上で薄く白み始めていた。

 

 火はもう消してある。灰は土で覆い、濡らした布で匂いを抑えた。真壁は林縁のくぼみを選び、ミナを毛布で包み、ルカには水袋と小さな笛を持たせた。倒木と葡萄籠の陰になっている場所で、道からは見えにくい。

 

「よいですかな。ここを動かぬことです」

 

 真壁はしゃがみ、ルカと目の高さを合わせた。

 

「誰かの足音が近づいたら、声を出さず、笛を1度だけ。吹けぬなら石を2つ打つ。それでよろしい」

 

 ルカは布袋を抱いたまま、硬い顔で頷いた。

 

 澪はミナの額に触れた。熱は高くない。呼吸もさっきより落ち着いている。けれど、ここに置いていくと思うと胸が詰まった。

 

 置いていく。

 

 その言葉が嫌だった。

 

 だが、連れていけばもっと危ない。澪にもそれは分かる。分かることと、納得できることは少し違う。

 

「すぐ戻ります」

 

 澪はルカに言った。

 

 ルカは返事をしなかった。代わりに、布袋をさらに強く抱いた。信じたい。でも信じきれない。そんな顔だった。

 

 澪は、無理に笑わなかった。

 

 子ども相手に、大丈夫です、と軽く言うには、これから向かう場所が重すぎる。

 

「澪君」

 

 真壁が呼んだ。

 

「はい」

 

「私は全体を見る。君も道と人の気配を重ねたまえ。違いがあれば、すぐに」

 

 澪は頷き、地図スキルへ意識を寄せた。

 

 葡萄棚の列、石垣、細い畑道、斜面の下の建物。輪郭が頭の中で薄く重なる。蔵らしい大きな建物の周囲に、いくつか人の反応があった。入口に2人。裏手に1人。中に数人。奥の小部屋か、搾汁場らしい場所に、動きの少ない反応が2つ。

 

 澪が言うより早く、真壁が静かに口を開いた。

 

「中に6。入口に2。裏に1。奥に動かぬ2」

 

 澪は小さく息を呑んだ。

 

 真壁の地図は、速い。

 

 こちらが見つけたものを、もう整えて持っている。

 

「私の方でも同じです。奥の2人は、ほとんど動いていません」

 

「結構」

 

 真壁は短く答えた。

 

 その声が静かすぎて、澪は少し怖くなった。

 

 怒っていないのではない。怒りを、きれいに畳んでしまった声だった。

 

 

 

 

 葡萄酒蔵は、夜明け前の斜面に沈むように建っていた。

 

 石造りの低い蔵と、木組みの作業場。隣には樽を運び込むための大きな戸があり、その前に荷車の轍が深く残っている。葡萄棚は周囲を囲むように広がり、古い石垣が畑を段に分けていた。

 

 美しい場所だったのだろう。

 

 澪は、そう思った。

 

 だが今は、建物の前に立つ男たちが、その美しさを雑に踏んでいた。空になった小樽が転がされ、葡萄棚の支柱には乱暴に縄が掛けられている。蔵の扉には新しい傷があり、古い家の気配の上に、知らない者の手垢がべったり乗っているようだった。

 

 真壁は正面へ向かわなかった。

 

 ワッパを低く滑らせ、葡萄棚の上を影のように越える。澪はまた真壁の背に掴まっていたが、今度は悲鳴をこらえた。

 

 怖い。

 

 怖いが、怖がっている場合ではない。

 

 それでも少しだけ、真壁の肋骨には申し訳ない。

 

「澪君」

 

「はい」

 

「裏手の男は」

 

「蔵の壁際です。こちらには気づいていません」

 

「よろしい」

 

 真壁はワッパを蔵の裏、石垣の陰へ静かに下ろした。

 

 足音を殺して降りる。澪も続いたが、着地の時に小石を踏みそうになり、慌てて足を止めた。真壁がちらりと見る。

 

 責める目ではない。

 

 ただ、実に静かな目だった。

 

 澪は心の中で謝った。

 

 石ころ相手にまで緊張する日が来るとは思わなかった。

 

 裏手の戸には、太い閂がかかっていた。

 

 真壁は収納から細い工具を取り出した。自分の道具である。扉に触れる前に、蝶番と木枠を見て、力の逃げる向きを確かめる。

 

「人の家の戸に、外から余計な手を加える。品のないことです」

 

 そう言って、真壁は工具を差し入れた。

 

 小さな金属音が1つ。

 

 それだけで閂がわずかに浮いた。真壁は焦らず、もう一度角度を変える。押すのではなく、なだめるような動きだった。

 

 澪は心の中で突っ込んだ。

 

 鍵開けまで上品にする必要はありますか。

 

 必要があるのかもしれない。

 

 真壁なら、盗みにも礼法があると言い出しかねない。

 

 戸が、細く開いた。

 

 蔵の中から、樽の匂いが流れてくる。湿った木、酒、澱、古い石の冷たさ。それに混じって、焦げたような匂いがあった。

 

 澪は顔をしかめた。

 

「何か、焦げています」

 

「樽印でしょうな」

 

 真壁の声が低くなる。

 

 中へ入ると、薄暗い蔵の壁際に樽が並んでいた。いくつかは古い印の上から焼き直されている。家の印を消そうとした跡がある。別の樽は、わざと涼しい場所から動かされ、作業場に近い温い場所へ移されたようだった。

 

 樽が怒っている。

 

 澪は一瞬そう思い、すぐに首を振った。

 

 また真壁の言葉に引きずられている。

 

 けれど、そう見えるほど、樽の扱いは乱暴だった。

 

「よい樽と、悪くされた樽が混ぜられていますね」

 

 澪は小声で言った。

 

「ええ。酒を殺さず、評判だけを傷つけるには、よい加減です」

 

 真壁は静かに答えた。

 

 澪は背筋が冷えた。

 

 よい加減、という言葉が嫌だった。

 

 相手は雑に壊しているのではない。壊れすぎないように傷つけている。売り物として最低限は残しながら、評判を落とす。そこに手慣れた悪意がある。

 

 奥の作業机には、紙が広げられていた。

 

 借用証。

 土地譲渡書。

 印を押す場所だけが、やけにはっきり空けられている。

 

 澪はそれを見て、胃の奥が重くなった。

 

 紙が、こんなに暴力的に見えることがあるのか。

 

 奥から男の声が聞こえた。

 

「さっさと押せ。もうこの蔵はうちのもんだ」

 

 乱暴な声だった。

 

 ルカの言葉が、澪の中で重なる。

 

 父さんの酒は悪くない。

 

 悪くされたんだ。

 

 真壁の顔から、余分な表情が消えた。

 

「澪君」

 

「はい」

 

「奥の2人は」

 

「同じ場所です。動いていません。たぶん、縛られています」

 

「では、先に声を止めましょう」

 

 声を止める。

 

 澪は一瞬、物騒な意味に聞こえて心臓が跳ねた。

 

 だが真壁は、ただ歩き出した。

 

 歩く音は小さい。だが、隠れる歩き方ではない。途中から、むしろ堂々としていた。蔵の裏から入り、樽の間を抜け、作業場へ出る。その姿は、侵入者というより、場違いなほど上品な客だった。

 

 その上品な客が、荒くれ者の背後に立った。

 

「葡萄酒の蔵で騒ぐとは、いかにも見苦しい」

 

 声が響いた。

 

 荒くれ者たちが一斉に振り向く。

 

 作業場には、腕の太い男が数人いた。腰に短剣。手には棍棒。机の前には、痩せた男と女が椅子に縛られている。女の頬には殴られた跡があった。男は唇を切っているが、目だけは折れていない。

 

 澪は息を呑んだ。

 

 ルカとミナの両親だ。

 

「な、なんだてめえ!」

 

 荒くれ頭らしい男が怒鳴った。

 

 真壁は、その怒声を少しだけ聞き流したように首を傾けた。

 

「名乗るほどの者ではありません」

 

 そして、作業場をぐるりと見た。

 

 焼き替えられた樽印。

 乱された樽。

 机の上の紙。

 縛られた夫婦。

 床に落ちた葡萄の枝。

 

 真壁の目が細くなる。

 

「ただ、少々、品を正しに参りました」

 

 澪は心の中で、出た、と思った。

 

 真壁の品という言葉は怖い。

 

 料理を褒める時にも使う。像を語る時にも使う。商人の金の流れにも使う。そして今、荒くれ者に向かって使った。

 

 つまり、この後かなり痛い。

 

「ふざけやがって!」

 

 男が棍棒を持ち上げた。

 

 真壁は消さなかった。

 

 相手の持ち物は、相手の持ち物だ。真壁はそれを勝手に収納へ入れない。代わりに、収納から自分の荷締め帯を引き出した。

 

 帯が、蛇のように男の手首へ巻いた。

 

 引く。

 

 男の手が下がり、棍棒の先が床を叩いた。

 

 次の瞬間、真壁の足が男の膝の外へ入る。軽く払ったようにしか見えなかったのに、男の体はあっさり崩れた。棍棒が床を転がる。

 

 真壁はそれを拾わない。

 

 蹴って樽の下へ滑らせた。

 

「人の物を勝手に懐へ入れる趣味はありません」

 

 真壁は静かに言った。

 

 澪は思った。

 

 今の状況で所有権を守るんですね。

 

 いや、大事だ。

 大事なのだが、荒くれ者を転がしながら言うことだろうか。

 

「てめえ!」

 

 別の男が短剣に手を伸ばした。

 

 澪の手が先に動いた。

 

「触らないでください」

 

 声は震えていた。

 

 けれど、指先の雷は震えなかった。

 

 青白い光が短く走る。

 

 男の肩口をかすめた雷が、身体の中へ短く沈む。男は目を見開き、膝から崩れ落ちた。短剣は鞘に入ったまま、腰ごと床へ沈む。

 

 澪は息を呑んだ。

 

 倒した。

 

 倒してしまった。

 

 けれど、男は息をしている。胸が上下している。真壁が一瞥し、静かに頷いた。

 

「よろしい。加減は効いております」

 

 澪は小さく息を吐いた。

 

 怖い。

 

 でも、止められた。

 

 ルカの布袋を思い出す。

 ミナの乾いた唇を思い出す。

 椅子に縛られた両親を見る。

 

 怖いままでいい。

 

 手は、止めない。

 

「魔術師か!」

 

 荒くれ者の1人が叫び、出口へ向かって走った。

 

 澪の地図に、その動きが赤く跳ねる。

 

「右へ抜けます」

 

「承知」

 

 真壁はすでに動いていた。

 

 収納から出した自前の投げ網が、男の足元へ低く滑る。足を取られた男が前につんのめる。真壁は近づきすぎず、荷締め帯を引く。男の腕が後ろへ回り、床に伏せる形で止まった。

 

 相手の武器は奪わない。

 

 だが、持つ手を使えなくする。

 

 澪はその処理の細かさに、場違いな感心をした。

 

 真壁の戦い方は、乱暴なのに雑ではない。

 

 そこが余計に怖い。

 

「入口の2人が入ります」

 

 澪が言うと同時に、作業場の戸が開いた。

 

「何の騒ぎだ!」

 

 入口の男たちが駆け込んでくる。

 

 真壁は顔を向けず、澪へ短く告げた。

 

「澪君、手前」

 

「はい」

 

 澪は両手を構えた。

 

 雷を強くしすぎない。

 倒す。

 止める。

 殺さない。

 

 頭の中でそれだけを繰り返す。

 

 先に踏み込んできた男が、澪を見て笑った。

 

「小娘が!」

 

 その言葉で、少しだけ怖さが引いた。

 

 小娘。

 

 そう思ってくれるなら、油断してくれる。

 

「すみません」

 

 澪は小さく言った。

 

 謝る相手を間違えている気もした。

 

 けれど、口から出た。

 

 青白い雷が、短く男の腕へ走る。

 

 男の体がびくりと跳ね、棍棒を取り落とした。澪はその棍棒を収納しない。蹴って、作業台の下へ滑らせる。

 

 真壁が横で淡々と言った。

 

「澪君、人に謝るより、足元を見る方が先です」

 

「はい」

 

 澪は返事をしながら思った。

 

 今それを言うんですね。

 

 確かに足元は大事だった。2人目の男が突っ込んでくる。真壁が投げた荷締め帯が男の足首を掠め、わずかに進路をずらす。澪の前へ、ちょうど肩が来た。

 

「そこです」

 

「はい」

 

 澪の雷が走る。

 

 男が崩れた。

 

 真壁がすぐに自前の縄で手首を縛る。手早い。無駄がない。相手の腰の短剣には触らず、鞘ごと布で巻いて腕から離すように押さえる。

 

「人の蔵で刃物を抜こうとする者は、少し休むべきですな」

 

 真壁は静かに言った。

 

 澪は思った。

 

 少し、の意味が広い。

 

 床には、荒くれ者が次々に転がっていた。

 

 息はある。

 動けない。

 武器は遠ざけられている。

 そして真壁の荷締め帯と縄で、少しずつ葡萄の房のようにまとめられていく。

 

 荒くれ頭だけが、まだ立っていた。

 

 顔は赤い。だが、目には怒りより焦りが出始めている。

 

「こ、この蔵は、もう俺たちのもんだ!」

 

 男が叫んだ。

 

 真壁は、ようやく荒くれ頭へ正面から向き直った。

 

「では、その蔵にふさわしく振る舞いたまえ」

 

 声は穏やかだった。

 

 穏やかすぎて、作業場の空気が冷えた。

 

「葡萄酒の蔵で暴れるとは、品がない」

 

「てめえ、何者だ!」

 

 真壁は、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「通りすがりの品質確認役、とでも申しておきましょう」

 

 澪は反射的に口を挟んだ。

 

「それはもう、かなり無理があると思います」

 

 真壁は聞こえなかったことにした。

 

 実に優雅に。

 

 そして、実に都合よく。

 

 

 

 

「品質確認だと……?」

 

 荒くれ頭の顔が、赤から黒に近づいた。

 

「ふざけやがって。ここはもう俺たちの蔵だ。出ていけ!」

 

 真壁は、その怒声を酒蔵の壁に染み込んだ湿り気ほどにも気にしなかった。むしろ、床に散らばった小枝、転がされた小樽、焼き替えられた樽印へ目をやる。その視線がひとつ動くたびに、荒くれ頭の顔色が悪くなる。

 

 たぶん、怒鳴っている相手が自分を見ていないのが不安なのだ。

 

 澪は少しだけ分かる気がした。

 

 真壁に観察されるのも怖いが、観察すらされないのも怖い。

 

「蔵主殿」

 

 真壁は、椅子に縛られている男へ声をかけた。

 

 痩せた男が、傷のある唇をわずかに動かす。ルカの父親、ゲルト・ハーゼルだろう。目だけが真壁を見ている。警戒と、わずかな期待と、諦め損ねた意地が混じった目だった。

 

「葡萄棚用の縄と、樽帯をお借りしても?」

 

 荒くれ者たちが一瞬、意味を取り損ねた顔をした。

 

 この状況で借り物の許可を取る者がいるとは、思わなかったのだろう。

 

 澪も少し思った。

 

 今それを確認するんですね。

 

 けれど、ゲルトの目が変わった。

 

 縛られたまま、彼は小さく頷いた。

 

「……使ってくれ」

 

 かすれた声だった。

 

 真壁は優雅に一礼した。

 

「感謝します」

 

「てめえら、勝手に話を進めてんじゃねえ!」

 

 荒くれ頭が棍棒を握り直した。

 

 真壁は、そこでようやく荒くれ頭を見た。

 

「では、あなた方とも話を進めましょう」

 

 静かな声だった。

 

 荒くれ頭が一歩踏み出す。

 

 同時に、真壁の手元がわずかに動いた。

 

 床へ、小さな金属片が散った。

 

 ぱらぱら、ではない。

 

 乾いた葡萄の種が石床を跳ねるような音だった。ただし、葡萄の種よりずっと嫌な形をしている。小さく尖り、どこから踏んでも痛そうな金属片が、荒くれ者たちの足元へ散る。

 

「なっ」

 

 先に踏んだ男が、悲鳴を上げた。

 

「いってえ!」

 

「何だこれ!」

 

 荒くれ者たちの足が止まる。

 

 止まるどころか、踏み替えようとしてまた踏む。怒鳴り声が、途端に情けない声へ変わった。棍棒を振るうには近づかなければならない。だが、近づくための床が、すでに敵になっている。

 

 澪は床を見た。

 

 マキビシ。

 

 真壁の収納から出たものだから、真壁の持ち物だ。相手の武器を消したわけではない。人の所有権は守りながら、足の裏には容赦がない。

 

 やり方が、ものすごく真壁だった。

 

「動かぬ方がよろしい」

 

 真壁が穏やかに言った。

 

「葡萄酒にも、人にも、無駄な揺れはよくありません」

 

「黙れ!」

 

 荒くれ頭が痛みに顔を歪めながら、それでも前へ出ようとした。

 

 澪の手が上がる。

 

 怖さはあった。

 

 指先の奥で、雷が薄く震えている。強くしすぎれば危ない。弱すぎれば止まらない。相手は大人の男で、こちらへ向かってくる。棍棒を持っている。怒っている。怖い。

 

 怖い。

 

 でも、椅子に縛られた両親がいる。

 

 林縁に、ルカとミナがいる。

 

「止まってください」

 

 澪の声は震えた。

 

 だが、雷はまっすぐ走った。

 

 青白い光が、荒くれ頭の肩口を打つ。男の身体が跳ね、棍棒が手から落ちた。膝が折れ、床に崩れる。息はある。胸は上下している。

 

 澪は一瞬、息を止めた。

 

「加減は効いております」

 

 真壁が言った。

 

 その言葉で、澪はようやく息を吸った。

 

「はい」

 

「次、左奥」

 

 真壁はもう次を見ていた。

 

 澪は地図を重ねる。

 

 蔵の中の反応が、頭の中で動く。樽の陰から1人、裏戸へ逃げようとしている。足元のマキビシを避けるために、作業台へ寄っている。

 

「左奥、作業台の裏。裏へ抜けます」

 

「よろしい」

 

 真壁は収納から、自分の荷締めベルトを引き出した。

 

 投げる、というより置くような動きだった。だが、ベルトは逃げる男の足元で弧を描き、足首に絡む。男が前へ倒れかけたところへ、真壁が一歩入る。

 

 無理に殴らない。

 

 肩を押し、重心をずらし、床へ転がす。

 

 倒れた男が起き上がる前に、澪の雷が短く走った。男の身体がびくりと跳ね、動きが止まる。

 

「すみません」

 

 澪は小さく言った。

 

「謝る相手は、後で選び直すとよろしい」

 

 真壁はそう言いながら、倒れた男の手首へ縄を回した。

 

 葡萄棚用の丈夫な縄だった。畑の風に耐え、実った房の重さを支えるための縄である。それが今、荒くれ者の腕を後ろでまとめている。

 

 澪は思った。

 

 縄も、まさかこういう実りを支えるとは思っていなかっただろう。

 

 入口の男たちが、遅れて状況を理解した。

 

「逃げろ!」

 

「外だ!」

 

 2人が同時に動く。

 

 澪の地図で、反応が左右に割れた。

 

「右が正面へ、左が樽の間です!」

 

「右を」

 

「はい」

 

 澪は右へ手を向けた。

 

 男はマキビシを避けて跳ぼうとした。だが、着地した足が痛みに崩れ、身体が横へ流れる。そこへ澪の雷が走った。短く、浅く、動きだけを刈るように。

 

 男が床に落ちる。

 

 真壁は左の男へ向かっていた。

 

 樽の間は狭い。男はそこを抜けて裏へ回ろうとしたが、真壁は追いかけなかった。自分の荷締めベルトを樽の間へ渡し、通路そのものを細くする。男が一瞬詰まったところで、葡萄棚用の縄が肩へかかった。

 

 引く。

 

 男の身体が樽にぶつからないよう、真壁は少しだけ力を逃がした。

 

 澪はそれを見て、妙なところで感心した。

 

 人は転がす。

 樽は守る。

 

 優先順位が、明確すぎる。

 

「酒蔵で暴れる者は、せめて樽に当たらぬよう倒れたまえ」

 

 真壁が淡々と言う。

 

「無茶言うな!」

 

 男が叫んだ。

 

「無茶をしているのは、そちらです」

 

 真壁は縄を締めた。

 

 男の声が詰まる。苦しめる締め方ではない。腕と足を使えなくする締め方だ。真壁の指が縄の余りを処理し、樽を締める鉄帯を外して補助に回す。

 

 鉄帯が、縄の上から固定される。

 

 荒くれ者が、ただの荷物に近づいていく。

 

 澪は、目の前の光景が少し信じられなかった。

 

 ほんの少し前まで、ここを占拠していた男たちだ。怒鳴り、脅し、紙に印を押させようとしていた。なのに今は、床で転がされ、縄で巻かれ、樽帯で締められている。

 

 真壁は殺さない。

 

 だが、自由にはしない。

 

 その中間を、あまりにも手際よく進む。

 

「奥、もう1人動きます!」

 

 澪は地図を見て叫んだ。

 

 作業場の隅、積まれた小樽の陰にいた男が、短剣へ手を伸ばしていた。両親の近くではない。だが、書類の机に近い。

 

 澪の足が勝手に動いた。

 

「触らないでください!」

 

 雷が走る。

 

 男の手が短剣に触れる前に、腕が跳ねた。男は目を剥き、膝から崩れた。机の上の土地譲渡書が、風で少しだけ揺れる。

 

 澪は息を荒くした。

 

 手が震えている。

 

 さっきより震えている。

 

 けれど、止まらなかった。

 

「澪君」

 

「はい」

 

「書類には触れず、そのまま見張りたまえ」

 

「分かりました」

 

 書類は動かさない。

 

 でも、見張ることはできる。

 

 澪は机の横に立ち、倒れた男と紙の間へ体を入れた。自分が壁になる。薄い壁かもしれない。けれど、ないよりはましだ。

 

 真壁は最後に残った荒くれ頭へ向かった。

 

 荒くれ頭は床に膝をついたまま、まだ完全には気絶していなかった。歯を食いしばり、真壁を睨む。

 

「お、俺たちは雇われただけだ……」

 

「では、雇い主の品格も知れますな」

 

 真壁は、自分の荷締めベルトを手に取った。

 

「腕を前へ」

 

「誰がするか!」

 

「では、後ろで」

 

 返事は優雅だった。

 

 作業は早かった。

 

 荒くれ頭が抵抗しようとした瞬間、澪の雷が足元へ浅く落ちる。直接打つのではなく、動き出しを止めるための雷だった。荒くれ頭の身体が硬直する。

 

 その隙に、真壁が腕を取り、転がし、縄を回す。

 

 葡萄棚用の縄。

 樽を締める鉄帯。

 荷締めベルト。

 

 それらが順に重なっていく。

 

 腕、胴、足。逃げられない。暴れられない。だが息はできる。声も出る。後で尋問もできる。実に真壁らしい、嫌な完成度だった。

 

 床に散ったマキビシを、真壁は自分の道具として回収していった。荒くれ者の武器には触れない。落ちた棍棒や短剣は、蹴って壁際へ寄せ、布をかぶせて足で遠ざけるだけにした。

 

「人の物は人の物」

 

 真壁が低く言った。

 

 澪は思った。

 

 その理屈で人をぐるぐる巻きにしているのは、どう整理すればいいのだろう。

 

 たぶん、今は考えない方がいい。

 

 やがて、荒くれ者たちは壁際に並べられた。

 

 並べられた、というより、置かれた。

 

 葡萄の房のように、まとめてぐるぐる巻きにされている。腕は使えず、足も動かせず、胴は荷締めベルトで固定され、外側を樽帯が押さえている。

 

 ただし、熟してはいない。

 

 むしろ品が悪い。

 

 真壁は少しだけ首を傾けた。

 

「この房は、値がつきませんな」

 

 澪は即座に言った。

 

「葡萄に失礼です」

 

 真壁は、ほんのわずかに口元を緩めた。

 

「確かに」

 

 低い火のない蔵に、縛られた荒くれ者たちの呻き声だけが残った。

 

 澪は手を下ろした。

 

 指先の雷はもう消えている。けれど、手の震えはまだ残っていた。

 

 怖かった。

 

 今も怖い。

 

 でも、椅子に縛られたままこちらを見る夫婦の目を見て、澪は思った。

 

 止まらなくてよかった。

 

 

 

 

 作業場の奥には、古い木の扉があった。外側から横木が渡され、荒くれ者たちが追加で打ちつけたらしい金具で固定されている。元からの蔵の扉ではなく、乱暴に閉じ込めるための手だった。

 

 澪は地図の中で動かない2つの光を見て、顔を上げた。

 

「真壁さん、そこです。中に2人います」

 

「結構」

 

 真壁は工具を差し入れ、後付けの横木を外した。壊すのではなく、外す。木が床に置かれ、金具が小さく鳴る。

 

 澪は声には出さなかった。

 

 人の物は勝手に収納しない。

 

 だから、蔵の扉は壊さない。

 

 でも、荒くれ者が監禁のために持ち込んだ横木は、容赦なく片づける。

 

 線引きが細かい。

 

 細かいが、たぶん大事なのだ。

 

 扉が開いた。

 

 中は、事務室と搾汁場の間のような部屋だった。壁際に書棚。隅に小さな圧搾具。床には葡萄の皮が乾いてこびりつき、机の上には使いかけのインクと押印用の台が置かれている。

 

 その中央に、男女がいた。

 

 椅子に縛られている。

 

 男は頬がこけ、唇の端が切れていた。服は汚れ、肩には縄の跡が食い込んでいる。女も同じように憔悴していた。髪は乱れ、頬に薄い痣がある。

 

 だが、目は折れていなかった。

 

 疲れている。

 傷ついている。

 それでも、まだどこかで踏ん張っている目だった。

 

「ご無事ですかな」

 

 真壁の声は、蔵の中に似合わないほど穏やかだった。

 

 男が口を開く。

 

 けれど、声が出ない。

 

 何かを言おうとして、喉が乾きすぎているのか、息だけが漏れた。女の方も真壁と澪を見て、次に扉の向こうの床へ転がされた荒くれ者たちを見た。状況が追いつかない顔だった。

 

「まず、水です」

 

 澪はすぐに動いた。

 

 収納から出された水袋と布を受け取り、女の口元へ近づける。ミナにした時と同じだ。急がない。飲ませすぎない。唇を湿らせ、少しだけ含ませる。

 

 女の喉が小さく動いた。

 

 その瞬間、澪の胸の奥で、固まっていたものが少しほどけた。

 

 生きている。

 

 ここまで間に合った。

 

「澪君」

 

「はい」

 

「子らを」

 

 真壁の言葉は短かった。

 

 澪は頷いた。

 

 蔵の外、林縁のくぼみに置いてきた小さな2つの反応を、地図で確かめる。まだそこにいる。近くに追手の反応はない。荒くれ者たちはすでにまとめられている。

 

 澪は走った。

 

 葡萄棚の間を抜け、石垣を回り、林縁へ戻る。ルカは、澪の顔を見た瞬間に立ち上がろうとしてよろめいた。ミナは毛布の中で目を開け、ぼんやりと澪を見る。

 

「見つかりました」

 

 澪は息を整える前に言った。

 

「お父さんとお母さん、います。生きています」

 

 ルカの顔が、変わった。

 

 疑う時間も、泣く時間もなかった。

 

 ただ、走り出した。

 

 ミナも立とうとしたが、足に力が入らない。澪はすぐに抱き上げた。軽い。軽すぎる。毛布ごと抱え、ルカの後を追う。

 

 葡萄棚が朝の薄い光を受けている。

 

 乾いた風が頬に当たる。

 

 澪は、息を切らしながら思った。

 

 怖いままでも、走れる。

 

 

 

 

「父さん!」

 

 ルカが事務室へ飛び込んだ。

 

 男が顔を上げる。

 

 声は出なかった。

 

 けれど、目だけで息子の名を呼んだ。

 

 真壁が縄を切る。切る前に、縛り方を見て、血の流れが悪くなっていないかを確かめる。乱暴に縄をほどかない。締まった部分を緩め、腕を支え、肩を急に動かさないようにした。

 

 ルカは父親の膝へ飛び込んだ。

 

 父親の腕が、震えながら息子を抱く。

 

 力は弱い。

 

 それでも、抱いた。

 

「ルカ……」

 

 ようやく、かすれた声が出た。

 

 それだけで、ルカの顔がぐしゃりと崩れた。

 

「父さん、父さん……!」

 

 澪はミナを下ろした。

 

 ミナは最初、足元がふらついた。けれど、母親の顔を見た瞬間、澪の手を離した。

 

「お母さん……!」

 

 泣きながら飛び込む。

 

 母親は自由になったばかりの腕で、娘を必死に抱きしめた。痩せた指がミナの背に回り、何度も髪を撫でる。

 

「ミナ、ミナ……生きて……」

 

 言葉になっていない。

 

 でも、澪には十分だった。

 

 澪は少し後ろへ下がった。

 

 家族の間に立っているのが、急に申し訳なくなったのだ。助けに来たのは確かだ。けれど、この抱擁は、この家のものだった。

 

 真壁も一歩引いた。

 

 荒くれ者を葡萄の房にした人とは思えないほど、静かな引き方だった。

 

「土地を奪う紙は、後で見ます」

 

 真壁が言った。

 

 ゲルトが顔を上げる。

 

 エルザも、ミナを抱いたまま真壁を見る。

 

「まずは、人を取り返しました」

 

 その言葉で、部屋の空気が少しだけ変わった。

 

 土地。

 蔵。

 借金。

 紙。

 印。

 

 それらが、いったん後ろへ下がる。

 

 ここにいるのは、父と母と、息子と娘だった。

 

 澪は唇を噛んだ。

 

 真壁のこういう言い方は、ずるい。

 

 大事な順番を、いちいち間違えない。

 

「失礼」

 

 真壁は家族のそばへ戻り、1人ずつ状態を確かめ始めた。

 

 まず父親。頬、手首、呼吸、瞳。次に母親。肩、指先、体温。ルカとミナも、改めて見る。

 

「鑑定」

 

 声は小さかった。

 

 澪には表示そのものは見えない。

 

 けれど、真壁の目がわずかに変わったのは分かった。

 

 真壁は父親の手を見た。

 

 痩せて、荒れて、爪の間に古い葡萄の色が染みた手。

 

 次に母親の手を見る。

 

 指先には土の跡があり、爪は短く切られている。傷だらけなのに、妙に綺麗な手だった。葡萄の枝を知っている手。土の乾きと湿りを、見なくても分かる手。

 

 真壁の視線が、ミナへ移る。

 

 小さな手が、母親の服を握っている。

 

 さらにルカへ。

 

 布袋を抱いたまま、父親にしがみついている少年。その目は泣いているのに、まだ樽印札を離していない。

 

 真壁の口元が、ほんのわずかに動いた。

 

「ほう」

 

 澪は反射的に真壁を見た。

 

 出た。

 

 真壁の「ほう」は危険である。

 

 珍しい鉱石を見つけた時。

 妙な素材を拾った時。

 妙に使える工程を思いついた時。

 

 だいたい、次に何かが増える。

 

「真壁さん」

 

「何でしょう」

 

「今、何を見ましたか」

 

「人です」

 

「それはそうです」

 

 澪は小さく返した。

 

 真壁は、少しだけ楽しげに目を細めた。

 

「父君は、醸造10」

 

 ゲルトが瞬きをした。

 

「母君は、緑の手10」

 

 エルザも息を呑む。

 

 真壁の視線が、子どもたちへ移る。

 

「ルカ君、醸造5。ミナ君、緑の手4」

 

 澪は家族を見た。

 

 父親は酒。

 母親は葡萄。

 息子は父の蔵を守ろうとし。

 娘は母の手を継いでいる。

 

 奪われそうになっていたのは、土地だけではなかった。

 

 蔵だけでもなかった。

 

 この家の手そのものだった。

 

「……すごいですね」

 

 澪は思わず言った。

 

 声に、羨ましさではなく、痛みが混じった。

 

 こんなものを、あの荒くれ者たちは紙で奪おうとしたのだ。

 

 真壁は、壁際のぐるぐる巻きの房をちらりと見た。

 

「見る目のない者ほど、値札だけを見ます」

 

 そして、家族へ視線を戻す。

 

「奇貨、居くべし」

 

 澪は眉を寄せた。

 

「真壁さん」

 

「はい」

 

「それ、今言うと少し商人が出すぎています」

 

「失礼。では言い換えましょう」

 

 真壁は、家族に向かって静かに告げた。

 

「ここで潰してよい手ではありません」

 

 ゲルトは、ルカを抱いたまま真壁を見た。

 

 エルザはミナの背を撫で続けている。

 

 まだ何も解決していない。

 

 土地を奪う紙は机にある。

 荒くれ者は縛っただけ。

 金貸しも、商会も、奥にいる。

 ラウゼン伯爵領の役人がどう出るかも分からない。

 

 けれど、澪は思った。

 

 まず、人は取り返した。

 

 その順番だけは、間違えていない。

 

 真壁は静かに立ち上がった。

 

 夜明けの光が、扉の隙間から蔵の中へ細く差し込んでいた。

 

 

 

 

 ゲルトは、ルカを抱いたまま床を見ていた。

 

 ミナは母の膝で泣き疲れ、浅く眠っている。エルザは娘の背を撫で続けていたが、その指先にも力はなかった。再会の熱が落ち着くほど、部屋の中には別の重さが戻ってくる。

 

 机の上の紙。

 

 焼き替えられた樽印。

 

 乱された樽。

 

 そして、奪われたと言われた畑と蔵。

 

 家族は戻った。

 

 だが、家はもう戻らない。

 

 そんな顔だった。

 

「畑も、蔵も、樽も、もうあいつらのものだ」

 

 ゲルトが、かすれた声で言った。

 

 声を出すだけで喉が痛むのだろう。言葉の端が乾いて割れている。

 

「俺たちには、何も残っていない」

 

 ルカが父親の服を握った。

 

「父さん……」

 

 ゲルトは息子の頭に手を置いた。

 

 慰める手だった。

 

 けれど、その手の方が震えていた。

 

 澪は何も言えなかった。

 

 取り返した、と言っても、荒くれ者を縛っただけだ。紙は机の上にある。借金の仕組みも、商会も、金貸しも、その奥にいる者も、まだ残っている。ここで簡単に「大丈夫です」と言えるほど、澪は強くなかった。

 

「残っています」

 

 真壁が言った。

 

 静かな声だった。

 

 だが、その声は床へ落ちたゲルトの視線を拾い上げるように、まっすぐ届いた。

 

 ゲルトが顔を上げる。

 

 真壁は、机の紙ではなく、ゲルトの手を見ていた。

 

「葡萄を見る目。発酵を読む鼻。樽を扱う手。酒の出来を覚えている舌」

 

 真壁の言葉は、ひとつずつ置かれた。

 

 急がない。

 

 煽らない。

 

 ただ、消えたと思い込んでいるものを、そこにあると示す言い方だった。

 

「それは、契約書では奪えません」

 

 ゲルトの唇が震えた。

 

 エルザの手が、ミナの背を撫でる途中で止まる。

 

 ルカは父親を見上げた。

 

 父親の酒は悪くない。

 

 そう言い続けた子どもの顔だった。

 

「だが、土地がなければ……」

 

 ゲルトの声は弱い。

 

 それでも、ただ泣き崩れる声ではなかった。職人が、作る場所を失った時の声だった。

 

 真壁は頷いた。

 

「土地は要ります。蔵も要ります。樽も、保管場所も、販路も要る。酒は気合いだけでは育ちませんからな」

 

 澪は少しだけ真壁を見た。

 

 そこで精神論にしないところが、真壁だった。

 

 希望を語っているのに、必要なものから目をそらさない。

 

「侯爵領へ来られよ」

 

 部屋の空気が止まった。

 

 ゲルトも、エルザも、ルカも、澪でさえ一瞬、言葉の意味を取り落とした。

 

「侯爵領へ……?」

 

 エルザが呟く。

 

「ええ」

 

 真壁は当然のように答えた。

 

「侯爵領には、いま葡萄酒の産地はありません」

 

 それは、慰めではない。

 

 むしろ、最初の条件としては悪い。

 

 澪は思った。

 

 ないんですね、と言いたくなる。

 

 だが、真壁はそこで止まらなかった。

 

「ですが、安定した保管蔵があります。領内の流通も立て直しの最中です。侯爵家は、道と倉を軽く見ません。リュシア殿の販路もある。売り先を選び、運び方を選び、酒を疲れさせずに届ける余地があります」

 

 ゲルトの目がわずかに動いた。

 

 酒を疲れさせずに。

 

 その言葉だけで、職人の耳が反応したのが分かった。

 

「そして、澪君がいる」

 

 急に名を出され、澪は背筋を伸ばした。

 

「はい」

 

 返事をしたものの、何を任されるのかまだ分からない。

 

 分からないが、真壁の横顔を見れば、逃げ道はあまりなさそうだった。

 

「樽ごとの仕込み日、保管場所、移送日、開栓日、味の評価。どこで何が変わったのか、残して追える者が必要です」

 

 真壁の声は落ち着いていた。

 

 澪は少しだけ息を吸った。

 

 あの侯爵家の杯からここまで来た理由は分かる。どこで酒が悪くされたのか。どこで温度に晒され、どこで澱を乱され、どこで評判を落とされたのか。

 

 それを見えないままにしておけば、また同じことが起きる。

 

「やります」

 

 澪は言った。

 

 声は大きくなかった。

 

 けれど、迷いは少なかった。

 

「樽ごとの仕込み日、保管場所、移送日、開栓日、味の評価を残します。同じ失敗を繰り返さないためです。悪くされたなら、どこで悪くされたのか分かるようにします」

 

 ゲルトが澪を見た。

 

 職人の目だった。

 

 若い娘に何が分かる、という目ではない。自分の酒を、雑に扱わないでくれるのかと確かめる目だった。

 

 澪はその目から逃げなかった。

 

 ミナの乾いた唇を思い出す。

 

 ルカが握っていた布袋を思い出す。

 

 侯爵家で真壁が杯を置いた瞬間を思い出す。

 

「私は、酒の味を全部分かるわけではありません」

 

 澪は正直に言った。

 

「でも、違いが出た場所を追うことはできます。残して、比べて、見落とさないようにします」

 

 ゲルトは、何も言わなかった。

 

 ただ、目の奥が少し揺れた。

 

 真壁が続ける。

 

「元の蔵以上の酒が作れます」

 

 その言葉に、ゲルトの顔が一瞬、強張った。

 

 職人にとって、元の蔵はただの建物ではないのだろう。父や祖父の手、染みついた香り、木の癖、石の冷たさ。それらを超えると言われて、すぐ頷けるはずがない。

 

 真壁も、それは分かっている顔だった。

 

「もちろん、明日いきなりではありません。葡萄の木には時間が要る。土も、水も、風も見なければならない」

 

 真壁はエルザを見た。

 

「ですが、緑の手を持つ者がいれば、土地は答えます。救える樽があれば救う。買い葡萄でも始められる。小さくても、まず火を戻す」

 

 エルザの指が、ミナの髪を撫でた。

 

 その手が、ほんの少しだけ強くなる。

 

「技術を守り、樽を守り、保管を整え、流通を守れば、品質は戻る」

 

 真壁はそこで一度言葉を切った。

 

 そして、ゲルトの目をまっすぐ見た。

 

「いや、戻すだけでは足りません」

 

 部屋の奥で、縛られた荒くれ者の1人が呻いた。

 

 誰もそちらを見なかった。

 

 今、部屋の中心にいるのは、奪った者たちではない。

 

 奪われかけた者たちだった。

 

「奪った者たちが、買い叩いたことを後悔する酒にする」

 

 真壁の声は、低く澄んでいた。

 

 怒鳴らない。

 

 飾りすぎない。

 

 だが、その言葉は蔵の石壁にしっかり残るように響いた。

 

 ゲルトは、ルカを抱いたまま目を閉じた。

 

 長い沈黙だった。

 

 その間に、朝の光が扉の隙間から少しずつ増えていく。乱された樽の影が短くなり、机の上の土地譲渡書の端が白く光った。

 

 紙はまだそこにある。

 

 だが、紙だけがすべてではなくなっていた。

 

「俺は……」

 

 ゲルトの声が震えた。

 

「俺は、また酒を造っていいのか」

 

 ルカが父親の服を握る手に力を込める。

 

 エルザが顔を上げる。

 

 ミナは眠ったまま、母の服を小さな手で握っていた。

 

 真壁は静かに頷いた。

 

「造るべきです」

 

 ゲルトの顔が歪んだ。

 

 泣くのをこらえる大人の顔だった。

 

 澪は目を伏せた。

 

 ここで泣くのは、自分ではない。

 

 真壁は、ほんの少しだけ壁際の荒くれ者たちへ視線を向けた。

 

「もっとも、その前に片づけるべき房がいくつかありますが」

 

 澪は即座に言った。

 

「やっぱり葡萄に失礼です」

 

「では、荷物ですな」

 

「荷物にも種類があります」

 

「難しい」

 

「難しくありません」

 

 エルザが、小さく笑った。

 

 本当に小さな笑いだった。

 

 けれど、その笑いが部屋に落ちた瞬間、ゲルトの肩から何かがひとつ抜けたように見えた。

 

 真壁はそれ以上、急がせなかった。

 

 侯爵領へ来るかどうか。

 

 すぐに決められることではない。

 

 家を失った直後に、次の家を選べと言われても、人はすぐには動けない。

 

 それでも、道は示された。

 

 澪は机の上の紙を見た。

 

 土地を奪う紙。

 

 借金を膨らませた紙。

 

 人の手を、蔵を、葡萄の未来を奪おうとした紙。

 

 そして、隣にいる真壁を見る。

 

 真壁はもう、その紙だけを見ていなかった。

 

 ゲルトの手。

 エルザの指。

 ルカの目。

 ミナの小さな手。

 

 そこに残っているものを見ていた。

 

 澪は思った。

 

 この人は、物を見る時に人を見る。

 

 だから、時々とんでもないものを拾ってくる。

 

 今回は、葡萄酒蔵だった。

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