押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第162話 土地だけ残してやりました

 真壁は、壁際へ視線を移した。

 

 そこには、荒くれ者たちが並んでいる。

 

 葡萄棚用の縄で腕を封じられ、荷締めベルトで胴を締められ、樽帯で外側を押さえられている。呻き声だけは立派だが、動きはほとんどない。

 

 先ほどまで蔵の主のように怒鳴っていた男たちは、いまや壁際の出来の悪い飾りだった。

 

 

 雷の震えは、もうだいぶ引いている。

 

 代わりに、別の緊張が来ていた。

 

 ここからは殴る話ではない。

 喋らせる話だ。

 

「さて、諸君」

 

 真壁は、ぐるぐる巻きの荒くれ者たちの前に立った。

 

 声は穏やかだった。

 

 穏やかすぎて、かえって逃げ場がない。

 

「黒鎖の名が、今どう出回っているか知っているかね」

 

 荒くれ頭の顔が、わずかに引きつった。

 

「し、知らねえよ。俺たちは雇われただけだ」

 

「そうでしょうな」

 

 真壁は頷いた。

 

 理解した、という顔ではない。

 

 もう何度も聞いた、という顔だった。

 

「君たちは、いつもそう言う。雇われただけ。運んだだけ。見張っただけ。脅しただけ。実に便利な言葉です」

 

 荒くれ者の1人が、目を逸らした。

 

 別の1人は、縄の中で肩を動かそうとして、樽帯に阻まれた。鉄がきしむ音が小さく鳴る。蔵の中では、その音すら妙に大きく聞こえた。

 

「だが、黒鎖系の筋は今、国家転覆罪、領内反乱、大量殺害未遂、魔物災害誘発の名で追われています」

 

 空気が凍った。

 

 ゲルトが息を呑む。

 

 エルザはミナを抱く腕に力を込めた。

 

 ルカは父親の服を握ったまま、真壁と荒くれ者たちを見比べている。

 

「こ、国家……?」

 

 荒くれ頭の声が裏返った。

 

「国家転覆罪です」

 

 真壁は、丁寧に繰り返した。

 

 丁寧すぎる言葉は、時に刃物より刺さる。

 

 澪はそう思った。

 

 怒鳴られるより怖い。脅されるより逃げにくい。意味を噛み砕いて、口の中へ入れ直されるような怖さがある。

 

「この家を脅し、樽を傷ませ、契約書をすり替え、土地を奪う手伝いをした。もしそれが黒鎖系の資金筋から出ているなら、君たちはただの荒くれ者ではありません」

 

 真壁は、荒くれ者たちを見下ろした。

 

「反乱の手足です」

 

 誰かの喉が鳴った。

 

 威勢のいい声は、もう出ない。

 

 先ほどまで「俺たちの蔵だ」と怒鳴っていた男たちが、急に自分たちの立つ場所を見失った顔になった。いや、立ってはいない。ぐるぐる巻きで壁際に転がされている。

 

 だが、足元が消えた顔だった。

 

「ま、待てよ。俺たちは本当に雇われただけだ。そんな大それた話なんか知らねえ」

 

「知らなかったことは、罪を消しません」

 

 真壁は静かに言った。

 

「ただし、知らなかった者が、知った後にどう動くかは別です」

 

 荒くれ者たちの目が、わずかに動いた。

 

 希望。

 

 澪には、それが浮かぶのが分かった。

 

 真壁も分かっているはずだった。

 

「だから、取引です」

 

 真壁は、わざと少し間を置いた。

 

「この家族に協力しなさい。誰に雇われたか。どの商会名を使ったか。どこで樽を傷ませたか。契約書の原本はどこか。中継倉庫はどこか。借用証を膨らませた帳簿は誰が持っているか」

 

 荒くれ者たちは、真壁の言葉を追っていた。

 

 追うだけで精一杯の顔だ。

 

「話すなら、今ここで黒鎖の一味として扱うのは見逃します」

 

 希望が、はっきり浮かんだ。

 

 荒くれ頭の顔に、助かった、という色が走る。

 

 次の瞬間、真壁が続けた。

 

「逃がすとは言っておりません」

 

 希望が消えた。

 

 澪は思わず目を伏せた。

 

 消えるのが早かった。

 

 葡萄酒の香りより早く飛んだ。

 

「証人として扱う余地を作る、という意味です。命と立場を軽くする道は、まだ残っている。だが、それはこの家族に協力した者だけです」

 

 真壁の声は、まったく荒くない。

 

 だからこそ、嘘が混じっていないように聞こえた。

 

 荒くれ者たちは互いに顔を見ようとした。だが、縄と樽帯で首も胴も動きにくい。結果、全員が妙に不自由な角度で目だけを動かすことになった。

 

「協力って、何を……」

 

 手下の1人が言った。

 

 真壁は、その男へ視線を向けた。

 

「まず、縄の中で静かに喋ることです」

 

 そして、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「品よく」

 

 澪は心の中で呟いた。

 

 それは無理では。

 

 荒くれ者に品よく喋れというのは、樽に足を生やして歩かせるより難しそうだった。

 

 けれど、男は必死だった。

 

「お、俺は知らねえことも多い。けど、原本の場所は聞いた。丘下の古い倉庫だ。昔の石灰倉庫。今はロートナー商会の荷置き場ってことになってる」

 

 真壁の目が細くなる。

 

「ロートナー商会」

 

「表の名だ。本当の雇い主は別だって、グンターが言ってた」

 

「おい、ヨルン!」

 

 荒くれ頭が怒鳴ろうとした。

 

 澪の指先に、短く雷が灯る。

 

 荒くれ頭は、それを見て口を閉じた。

 

 澪は自分の手を見た。

 

 震えていない。

 

 さっきまで、雷を出すたびに息が詰まった。今も怖くないわけではない。けれど、ここで止めなければ、また誰かが脅される。

 

 なら、止める。

 

「続けてください」

 

 澪は言った。

 

 自分の声が思ったより落ち着いていて、少し驚いた。

 

 ヨルンと呼ばれた男は、青ざめた顔で頷いた。

 

「帳簿は、丘下の倉庫じゃねえ。ベッカーの代理人が持ってる。黒い革表紙のやつだ。表の帳簿と裏の帳簿があって、裏の方に……鎖みてえな飾り印がある」

 

 真壁が収納から自分の紙と筆記具を出し、澪へ渡す。

 

 澪は受け取った。

 

 手は、もう震えていない。

 

「書けます」

 

 澪は言った。

 

 真壁が、短く頷く。

 

「結構」

 

 澪は紙に要点を書き始めた。

 

 丘下の古い石灰倉庫。

 表の名、ロートナー商会。

 ベッカーの代理人。

 黒い革表紙。

 表帳簿と裏帳簿。

 鎖を丸めたような飾り印。

 

 文字にすると、ぼんやりしていた悪意が形を持つ。

 

 それが少し怖かった。

 

 だが、形があれば追える。

 

「樽を傷ませた倉庫は」

 

 真壁が問う。

 

 ヨルンは唇を舐めた。

 

「川沿いの中継倉庫だ。ここから出した樽を、わざと半日置く。日が当たる場所にな。急いで運べる時も、馬車がないって言って遅らせる。揺れの強い道を選ぶ奴もいた」

 

 ゲルトの顔が歪んだ。

 

「俺の樽を……」

 

 ルカが父親の服を握る。

 

「父さんの酒は悪くない」

 

 小さな声だった。

 

 でも、部屋の中にしっかり届いた。

 

 真壁はヨルンを見たまま、言った。

 

「噂を流した者は」

 

「酒場だ。ハーゼルの酒は酸い、薄い、古いって。買い手の商人に先に吹き込む。で、値を下げる。値を下げてから、買えなかった分を借金に乗せるって」

 

 澪は書いた。

 

 酒場。

 評判操作。

 酸い、薄い、古い。

 買い叩き。

 未納分を借金化。

 

 書きながら、胸の中が冷たくなっていく。

 

 ルカの言ったことは、正しかった。

 

 父親の酒は悪くない。

 

 悪くされたのだ。

 

 そして、悪いと言いふらされた。

 

「契約書の原本は、丘下の倉庫で間違いないですか」

 

 澪が聞いた。

 

 ヨルンは一瞬、澪を見た。

 

 小娘、と侮る目はなかった。

 

 雷で倒された者たちの仲間として、彼はもう澪を軽く見ていない。

 

「あ、ああ。金庫に入ってる。鍵はギデオンが持ってる。ファルク買付商会の現場の男だ。明けてから来るはずだった。正式に蔵を押さえるって」

 

「ギデオン・ファルク」

 

 澪は書いた。

 

「ファルク買付商会」

 

「そいつが、土地譲渡書を持ってくる。ここにあるのは写しだ。本物は原本と一緒にするって聞いた」

 

 真壁の口元が、ほんの少しだけ動いた。

 

「なるほど。朝の客が来るわけですな」

 

 その言い方に、澪は背筋が伸びた。

 

 真壁の中で、また何かが組み上がった気がした。

 

 たぶん、かなり嫌な歓迎の仕方だ。

 

「他には」

 

 真壁が問う。

 

 ヨルンは荒くれ頭をちらりと見た。

 

 荒くれ頭は睨んでいたが、澪の雷を見てから口を開けないでいる。

 

「役人だ」

 

 ヨルンが言った。

 

 部屋の空気が、また少し重くなった。

 

「名前は知らねえ。でも、土地の紙を通す役人がいる。銀の縁の眼鏡をしてた。ベッカーの代理人と一緒に来た。紙は問題ない、押せば終わるって言ってた」

 

 真壁は静かに聞いていた。

 

 澪は書く。

 

 銀縁の眼鏡。

 土地書類を通す役人。

 ベッカー代理人と同行。

 

「保管料、輸送保証金、返品損の名目を積んだ者は」

 

「ベッカーの人間だ。俺たちは紙のことまでは知らねえ。ただ、返しても返しても減らねえようにしてるって、酒場で笑ってた奴がいた」

 

 ゲルトが拳を握った。

 

 縄の跡が残る手だった。

 

 澪は、その手を見て筆を止めそうになった。

 

 止めない。

 

 書く。

 

 ここで感情だけになれば、また紙に負ける。

 

「名前」

 

 真壁が言った。

 

 短い。

 

 ヨルンは震えた。

 

「エーミール。エーミール・ロートナー。あと、ベッカーの代理人は、ローレンツって呼ばれてた」

 

 澪は書いた。

 

 エーミール・ロートナー。

 ローレンツ・ベッカー。

 

 紙の上に、名前が落ちる。

 

 名前があれば、追える。

 

 真壁は、壁際の荒くれ者たち全員を見た。

 

「ほかに喋る者は」

 

 数秒の沈黙。

 

 それから、別の男が口を開いた。

 

「川沿いの中継倉庫の裏に、壊した樽印がある。焼き替えた時の古い印だ。捨てるなって言われて、木箱に入れた。証拠になるかは知らねえ」

 

「なります」

 

 澪は即答した。

 

 男がびくりとした。

 

 澪自身も少し驚いた。

 

 だが、分かる。

 

 樽印は家の印だ。焼き替えた跡が残っているなら、悪くされた樽と蔵元を切り離す工作の証拠になる。

 

「場所は」

 

「倉庫の裏、藁束の下」

 

 澪は書く。

 

 川沿い中継倉庫。

 裏の藁束。

 壊した樽印。

 

「よろしい」

 

 真壁は静かに言った。

 

「諸君。いま喋ったことは、君たちの命綱です。細いですが、無いよりましでしょう」

 

 荒くれ者たちは誰も笑わなかった。

 

 笑える言葉ではない。

 

「ただし、ひとつでも偽りがあれば、その命綱は葡萄の蔓より脆いものになります」

 

 澪は思った。

 

 葡萄の蔓に失礼です、と言うべきだろうか。

 

 だが、今は言わなかった。

 

 書くことがある。

 

 そして、書いたものを守る必要がある。

 

「澪君」

 

 真壁が呼んだ。

 

「はい。書けます」

 

 澪は顔を上げずに答えた。

 

 筆先は止まっていない。

 

 もう震えていない。

 

 真壁の声が、少しだけ柔らかくなる。

 

「結構」

 

 その一言が、澪の背中を押した。

 

 蔵の外では、夜明けの光が葡萄棚を白く照らし始めている。

 

 家族は、まだ寄り添っている。

 

 荒くれ者たちは、縄の中で黙っている。

 

 机の上には土地を奪う紙があり、澪の手元にはそれを追うための言葉が増えていく。

 

 葡萄酒を悪くした道。

 借金を膨らませた紙。

 家を奪おうとした名前。

 

 それらが、ようやく逃げ場を失い始めていた。

 

 

 

 

 荒くれ者たちの証言が重なるほど、朝の足音が近づいてくるようだった。

 

 丘下の古い石灰倉庫。

 ロートナー商会。

 ギデオン・ファルク。

 ベッカーの代理人、ローレンツ。

 

 土地譲渡書の原本は別にあり、正式に蔵を押さえる者が、夜明けの後に来る。

 

 澪はその言葉を聞きながら、扉の外へ目を向けた。

 

 葡萄棚が、朝の光に白く浮かび始めている。乾いた風が葉を揺らし、石垣の上に細い影が落ちていた。きっと昨日までは、ここで当たり前のように家族が働いていたのだ。

 

 その当たり前が、紙と印と金貸しの言葉で奪われようとしている。

 

「土地と蔵の話は、すぐには片づきませんな」

 

 真壁が静かに言った。

 

 ゲルトの顔が沈む。

 

 エルザは、ミナを抱いたまま唇を結んだ。

 

 荒くれ者を縛った。証言も取った。家族も助けた。

 

 だが、それだけで土地の名義がきれいに戻るわけではない。相手は紙を用意している。役人も絡んでいる。合法に見える形を、すでに作っている。

 

 澪にも、それくらいは分かった。

 

 だからこそ、胸の奥が重くなる。

 

「だが、いま守らねばならぬものがあります」

 

 真壁は、机の上の土地譲渡書を見なかった。

 

 蔵の奥に並ぶ樽。

 扉の外に広がる葡萄棚。

 ゲルトの荒れた手。

 エルザの土の染みた指。

 

 その順に見た。

 

「彼らが欲しがったのは、土地ではない」

 

 真壁の声が、少しだけ低くなった。

 

「土地に根づいた技術と葡萄です。ならば、土地だけ残してやればよい」

 

 澪は思わず真壁を見た。

 

 言い方が上品なのに、内容がかなり過激だった。

 

 土地だけ残してやればよい。

 

 それはつまり、土地から大事なものを持っていくという意味ではないだろうか。

 

 ゲルトも、同じ意味に気づいたのだろう。目を見開いた。

 

「木まで……持っていけるのか」

 

 声は、疑いよりも恐れに近かった。

 

 葡萄の木を持っていく。

 

 普通なら、そんな言葉は冗談にもならない。畑に根を張った木は、そこにあるものだ。家の柱や樽とは違う。持ち上げて運べるものではない。

 

 だが、真壁は普通ではない。

 

 それを、澪は嫌というほど知っている。

 

「根を傷めず、周囲の土ごとなら可能です」

 

 真壁は当然のように言った。

 

「ただし、所有者の承諾が要ります。これは盗みではなく、財産の保全でなければならない」

 

 その言い方で、澪は少しだけ息を吐いた。

 

 そういう線は、やはり引くのだ。

 

 荒くれ者の横木は片づける。相手の武器は収納しない。蔵の物を動かすなら、蔵主の許可を取る。葡萄の木を動かすなら、持ち主の承諾を得る。

 

 真壁は危ない。

 

 だが、雑ではない。

 

「財産の……保全」

 

 エルザが呟いた。

 

 真壁は頷く。

 

「強迫で奪われる前に、人と技術と葡萄を逃がす。土地は後で争えます。蔵も、紙も、名義も、証言と証拠を積めば争う道はある。ですが、葡萄の木は今日失えば戻りません」

 

 ゲルトの喉が鳴った。

 

 エルザは、ミナをそっと澪に預けた。

 

 澪は慌てて受け取る。ミナはまだ眠っていた。小さな手が澪の服を掴む。軽い。けれど、その軽さが澪の足をその場に縫い止めた。

 

 エルザはふらつきながら立った。

 

 ゲルトも、ルカに支えられるようにして立ち上がる。

 

 真壁は急かさなかった。

 

 荒くれ者たちは壁際で黙っていた。さっきまで蔵を奪おうとしていた男たちが、今は縄の中で、葡萄の木をどう扱うかを見せられている。

 

 澪は少しだけ思った。

 

 たぶん、これが一番こたえる。

 

 奪ったつもりのものが、目の前で価値ごと逃げていくのだから。

 

 

 

 

 外へ出ると、朝の光が斜面を照らしていた。

 

 葡萄棚が段々に並び、石垣が古い畑を支えている。手入れが止まった列もある。枝が荒れ、支柱から外れた蔓が風に揺れている。けれど、すべてが死んでいるわけではなかった。

 

 生きている木がある。

 

 澪にも、それだけは分かった。

 

 エルザは、畑の奥へゆっくり歩いた。

 

 足元が危うい。澪はミナを抱いたまま、思わず近づこうとした。だが、ゲルトが先に妻の肘を支える。ルカも父の横に並んだ。

 

 家族が、1本の古い葡萄の木の前で止まる。

 

 他の木より幹が太い。低くねじれ、古い皮が裂け、何度も切られ、何度も伸びた跡がある。若い木のような勢いはない。だが、そこに立っているだけで、長くこの畑を見てきたことが分かった。

 

 エルザが、その幹に手を置いた。

 

 指先が震えている。

 

「この木は、祖父の代から……」

 

 言葉が途中で切れた。

 

 それ以上は、言わなくても分かった。

 

 祖父の代から。

 

 父へ渡り、夫へ渡り、子どもたちの前に立っていた木。

 

 紙の細字で奪うには、あまりにも長い時間だった。

 

 真壁は、古い木の前で足を止めた。

 

 いつものように、すぐには触れない。まず見る。根元の土、石垣の位置、支柱、枝の伸び方。木そのものだけでなく、木が生きている場所を見ている。

 

「ならば、なおさら置いていけませんな」

 

 エルザの顔が歪んだ。

 

 泣きそうで、泣かない顔だった。

 

「本当に……連れていけるのですか」

 

「ええ」

 

 真壁は、静かに頷いた。

 

「幹だけを抜けば殺します。根だけを守っても、土が変わりすぎれば弱る。周囲の土を大きく取り、根を眠らせるように包む。植え直す場所は、こちらで用意します」

 

 澪は真壁を見た。

 

 用意します。

 

 その一言の中に、採石場の秘密基地とか、収納内の謎空間とか、侯爵領の旧坑道保管蔵とか、いろいろなものが勝手に詰め込まれている気がした。

 

 また増える。

 

 澪は確信した。

 

 葡萄酒蔵が、増える。

 

「真壁さん」

 

「何でしょう」

 

「今、かなり大きいことを言っています」

 

「葡萄の根は小さくありませんからな」

 

「そういう意味ではありません」

 

 真壁は聞いているのかいないのか、古い木の周りをゆっくり歩いた。

 

 地面に手をかざし、根の広がりを読むように目を細める。鑑定を使っているのだろう。澪には見えないが、真壁の視線が土の中を追っているのが分かる。

 

 ゲルトが、低い声で言った。

 

「持っていってくれ」

 

 エルザが夫を見る。

 

 ゲルトは、古い木から目を離さなかった。

 

「畑を全部守れるなら、守りたい。蔵も、樽も、ここにあるもの全部だ。だが、あいつらに踏まれるくらいなら……」

 

 声が詰まる。

 

 ルカが父の服を握った。

 

「父さん」

 

「この木を、頼む」

 

 ゲルトは、真壁へ向き直った。

 

「俺たちのものだ。俺が許す。エルザも……」

 

 エルザは幹に手を置いたまま、ゆっくり頷いた。

 

「お願いします」

 

 その言葉は、祈りに近かった。

 

 真壁は深く頭を下げた。

 

「承りました」

 

 優雅だった。

 

 けれど、ただの礼ではなかった。

 

 それは、葡萄の木を物としてではなく、家の一部として預かる礼だった。

 

 真壁が、古い葡萄の木の前に立つ。

 

「では、始めます」

 

 その声に、家族が一歩下がった。

 

 澪もミナを抱いたまま、少し離れる。

 

 真壁は、地面へ手を向けた。

 

 土が、静かに切り取られていく。

 

 音はほとんどない。根を引きちぎる音も、幹を揺らす音もない。ただ、地面の一部が、まるで最初からそういう形だったかのように、古い木と周囲の土ごと輪郭を持つ。

 

 そして、消えた。

 

 古い葡萄の木があった場所に、丸く土の抜けた跡だけが残る。

 

 エルザが口元を押さえた。

 

 ゲルトは、息を止めたままその跡を見ていた。

 

 ルカは目を丸くしている。

 

 ミナは澪の腕の中で、ぼんやりと呟いた。

 

「木、ねんねしたの……?」

 

 澪は少し迷ってから、頷いた。

 

「はい。お引っ越しのために、少しだけ寝てもらっています」

 

 真壁が、ちらりと澪を見た。

 

 その目が、少しだけ笑っている。

 

「よい表現です」

 

「真壁さんに褒められると、不安になります」

 

「なぜです」

 

「だいたい次に増えるからです」

 

 真壁は答えなかった。

 

 答えなかったことが、答えだった。

 

 

 

 

 そこから先は、作業というより、畑が静かに畳まれていく時間だった。

 

 真壁が札を置く。

 エルザが残す木を指す。

 ゲルトが樽に使った葡萄の系統を告げる。

 澪が地図上に番号を置く。

 

 全部を丁寧に書いている時間はない。

 

 だが、どの木がどの土から来たのか。

 どれが母株で、どれが苗木なのか。

 どの列が井戸側で、どの列が石垣沿いなのか。

 

 それだけは、失えば終わる。

 

「北石垣沿いを1。古木列を2。南列を3。井戸側を4。苗木床を5。母株を6にします」

 

「結構」

 

 真壁は短く答えた。

 

 古い木が、土ごと消える。

 若木が、根を抱えたまま消える。

 苗木が、畝ごと消える。

 挿し木用の枝が、湿った布に包まれて消える。

 

 枝が折れる音も、根が裂ける音もない。

 

 ただ、さっきまで葡萄棚だった場所に、きれいな空白が増えていく。

 

 ミナがエルザの腕の中で、ぼんやりと呟いた。

 

「木、また寝た……」

 

「ええ」

 

 真壁が答えた。

 

「引っ越しの支度です」

 

 澪は思った。

 

 引っ越し。

 

 表現は優しい。

 

 やっていることは、畑の心臓を抜いている。

 

 けれど、抜かなければ踏まれる。切られる。別の印を焼かれる。悪くされた樽と同じように、葡萄の木まで利用される。

 

 なら、抜くしかない。

 

 澪は番号を追いながら、消えていく畑を見た。

 

 葡萄棚が短くなる。

 支柱が外される。

 棚線が巻かれる。

 剪定道具が消える。

 土の袋が番号ごとに消える。

 

 畑の形が、少しずつ、少しずつ、ただの斜面へ戻っていく。

 

 早い。

 

 早すぎる。

 

 そして、手際がよすぎる。

 

「真壁さん」

 

「何でしょう、澪君」

 

「これ、更地にしてますよね」

 

「保全です」

 

「更地にしてますよね」

 

「結果として、地面がよく見えるようになります」

 

「更地にしてますよね」

 

 真壁は少しだけ目を伏せた。

 

「言葉とは、時に人を追い詰める」

 

 澪は真壁を見た。

 

 追い詰めているのは、言葉だろうか。

 

 それとも、この見事な作業結果だろうか。

 

 たぶん両方だった。

 

 蔵の中も、長くはかからなかった。

 

 ゲルトが救える樽を指す。

 真壁が状態を見て分ける。

 澪が番号を合わせる。

 

 悪くされた樽は証拠として。

 助かる樽は酒として。

 澱と酵母の残る容器は、ゲルトが青い顔で「それは捨てないでくれ」と言ったので、真壁が妙に慎重な手つきで保全した。

 

 圧搾機。

 発酵桶。

 樽材。

 樽印。

 仕込みの記録。

 樽番号の控え。

 納品の紙。

 商会印のある書類。

 偽の帳簿らしき束。

 

 全部を細かく見せれば、きっと立派な作業だったのだろう。

 

 だが、澪の目には、ただ蔵の中身が静かに消えていくようにしか見えなかった。

 

 空になっていく。

 

 けれど、失われているわけではない。

 

 守るために、消えている。

 

「証拠紙束1。商会印あり。蔵主承諾済みの記録とは別にします」

 

「承知」

 

「樽番号の控え、こちらは蔵主側です」

 

「よろしい」

 

 澪は最低限だけを書き残す。

 

 紙を増やして人を縛るためではない。

 

 後で奪われたものと守ったものを、きちんと分けるための記録だった。

 

 やがて作業小屋が空になり、蔵の中も広くなりすぎた。

 

 真壁は、最後に建物そのものを見た。

 

「これも、使える部分は保全します」

 

 澪は反射的に顔を上げた。

 

「建物もですか」

 

「石材、梁、扉、床材。慣れた蔵の匂いは、酒にとっても無縁ではありません」

 

「今、建物まで荷造りする話をしていますか」

 

「保全です」

 

 澪はもう、反論しなかった。

 

 反論するには、目の前で石造りの蔵が静かに畳まれていく光景が強すぎた。

 

 建物が壊れるのではない。

 

 分解され、抜き取られ、順番に収納されていく。

 

 蔵が、荷造りされていた。

 

 澪は心の中で思った。

 

 建物の荷造り。

 

 たぶん、普通の言葉ではない。

 

 けれど今、目の前で起きている。

 

 

 

 

 夜明け前、葡萄畑は更地になった。

 

 支柱もない。

 棚線もない。

 古い母株もない。

 若木も、苗木もない。

 作業小屋もない。

 蔵もない。

 樽もない。

 圧搾機もない。

 

 あるのは、朝露に濡れた土と、石垣と、昨日までここが葡萄畑であり葡萄酒蔵だったという事実だけだった。

 

 丘の向こうが明るくなる。

 

 買収側が来るまで、もう長くはない。

 

 澪は畑の端に立ち、全体を見た。

 

 頭の中の地図には、番号がびっしり残っている。

 

 けれど、目の前には何もない。

 

 何もない、というには語弊がある。

 

 土はある。

 石垣もある。

 風もある。

 

 ただ、葡萄畑を葡萄畑にしていたものは、すべて消えている。

 

「……本当に、更地ですね」

 

 澪は呟いた。

 

 真壁は隣に立った。

 

「保全です」

 

「はい。保全された結果、更地です」

 

 真壁は反論しなかった。

 

 なぜなら、見事な更地だったからである。

 

 エルザが、ぽつりと笑った。

 

 泣いた後の、細い笑いだった。

 

 ゲルトも、肩を落としたまま、それでも口元を少しだけ歪めた。

 

「ひどいな」

 

 ゲルトが言った。

 

「でも、あいつらに渡すより、ずっといい」

 

 ルカは、土だけになった畑を見ていた。

 

「父さんの木、戻る?」

 

 ゲルトは答えられなかった。

 

 代わりに、真壁が答えた。

 

「戻すのではありません」

 

 ルカが真壁を見る。

 

「植え直すのです。元より、よい場所へ」

 

 澪は真壁を横目で見た。

 

 また大きいことを言っている。

 

 けれど今度は、不思議と無理には聞こえなかった。

 

 収納の中には、古木も若木も苗木も母株もある。土もある。支柱も棚線も道具もある。仕込みの記録も、樽も、澱も、印もある。

 

 そして、ゲルトの手と、エルザの手がある。

 

 何も残っていないわけではない。

 

 むしろ、大事なものはごっそり残した。

 

 ただし、目の前の土地は更地である。

 

「真壁さん」

 

「何でしょう」

 

「買収側、来たら驚きますね」

 

「土地をお望みだったのでしょう」

 

 真壁は穏やかに言った。

 

「望みどおり、土地はあります」

 

「更地ですけど」

 

「よく見える土地です」

 

「更地ですけど」

 

「見晴らしもよろしい」

 

「更地ですけど」

 

 真壁は朝日に向かって、静かに息を吐いた。

 

「澪君」

 

「はい」

 

「言葉とは、時に人を逃がしませんな」

 

「更地ですから」

 

 真壁は、今度こそ何も言わなかった。

 

 乾いた風が吹き、葡萄のなくなった畑を撫でていく。

 

 その更地の下に、奪われるはずだった未来はもうなかった。

 

 それは、侯爵領へ運ばれている。

 

 

 

 

 朝が完全に明ける頃、丘の下から馬車の音が上がってきた。

 

 乾いた道に車輪がきしむ。馬の鼻息。金具の鳴る音。男たちの話し声。勝ちに来た者の足音だった。

 

 ギデオン・ファルクは、馬車の中で手袋を直していた。

 

 正式な買付。

 正式な押収。

 正式な引き渡し。

 

 そのための書類は、箱の中に揃っている。署名欄も、押印欄も、証人欄もある。あとは、昨日まで抵抗していた蔵主に最後の形を取らせるだけだった。

 

 葡萄畑と蔵を押さえる。

 

 樽も、道具も、販路も、家名も、まとめてこちらのものにする。

 

 そのはずだった。

 

 馬車が丘を上がる。

 

 先に顔を出した従者が、妙な声を出した。

 

「……旦那」

 

「何だ」

 

「畑が」

 

 ギデオンは舌打ちして馬車の外を見た。

 

 そして、固まった。

 

 昨日まで葡萄畑だった斜面には、何もなかった。

 

 棚がない。

 

 支柱がない。

 

 棚線がない。

 

 古い母株も、若木も、苗木もない。

 

 蔵もない。

 

 建屋もない。

 

 作業小屋もない。

 

 圧搾機も、発酵桶も、樽も、樽材もない。

 

 そこにあるのは、朝露に濡れた土と、石垣と、昨日までここが葡萄畑であり葡萄酒蔵であったという事実だけだった。

 

「……何だ、これは」

 

 ギデオンは馬車から降りた。

 

 靴が土を踏む。柔らかい。ところどころ、根鉢ごと抜かれたように土が丸く沈んでいる。石垣だけが残り、畑の輪郭だけがかろうじて分かる。

 

 だが、肝心の葡萄がない。

 

「畑はどうした!」

 

 声が裏返った。

 

「建屋はどうした!」

 

 従者たちも慌てて走り回った。

 

「葡萄がない!」

 

「木はどうした!」

 

「蔵までないぞ!」

 

「樽はどこだ!」

 

「圧搾機もありません!」

 

 叫び声ばかりが、朝の更地に響いた。

 

 誰も答えない。

 

 答える者がいない。

 

 押さえるはずだった蔵主一家の姿もない。荒くれ者たちの姿もない。見張りの者もいない。あるのは土地だけだった。

 

 ギデオンは更地を歩き回った。

 

 石垣の陰を見る。

 土台の跡を見る。

 蔵があった場所へ向かう。

 作業小屋の跡を蹴る。

 井戸の周りを覗く。

 

 何もない。

 

 物がないというより、価値だけを丁寧に抜かれたようだった。

 

 土地は残っている。

 

 たしかに残っている。

 

 だが、欲しかったものは土地ではなかった。

 

 葡萄だった。

 樽だった。

 蔵だった。

 道具だった。

 ハーゼル家の名で造られた酒だった。

 

 それらが、きれいに消えている。

 

「ふざけるな……」

 

 ギデオンは低く呟いた。

 

 その声には怒りより、焦りが混じっていた。

 

「探せ! どこかに運び出した跡があるはずだ!」

 

 従者たちは散った。

 

 だが、荷車で運び出した跡は見つからない。棚材を引きずった跡もない。樽を転がした跡もない。大量の木を抜いたなら残るはずの乱れも、妙に少ない。

 

 ただ、そこにあったものが、そこから無くなっている。

 

 それだけだった。

 

「旦那、荒くれの連中もいません」

 

「グンターはどうした」

 

「分かりません」

 

「ヨルンも?」

 

「いません」

 

 ギデオンの顔色が変わった。

 

 その2人がいない。

 

 それは、物が消えたことより嫌な意味を持っていた。

 

「戻るぞ」

 

 ギデオンは歯を食いしばった。

 

「商会で立て直す。書類を出せ。伯爵家へ抗議する。土地だけでも押さえれば――」

 

 そこで言葉が止まった。

 

 土地だけ。

 

 自分で言ったその言葉が、空っぽの畑に吸い込まれる。

 

 土地だけはある。

 

 望み通り、土地だけは残っている。

 

 ギデオンは、誰もいない更地を睨んだ。

 

「ただで済むと思うな」

 

 その言葉に答える者は、やはりいなかった。

 

 

 

 

 ロートナー商会の前には、伯爵家の騎士団がいた。

 

 ギデオンの馬車が戻った時、商会の扉はすでに押さえられていた。騎士たちが出入りし、帳簿箱や書類束を運び出している。商会の看板は朝日に照らされているのに、ひどく薄汚れて見えた。

 

 ギデオンは馬車から降りた。

 

 先頭の騎士が、冷たい目でこちらを見た。

 

「ギデオン・ファルクだな」

 

「私は正式な買付のために――」

 

「ロートナー商会、ベッカー金融取引所代理人、ならびにファルク買付商会による強迫、詐欺的契約、証拠隠滅、領内流通妨害の疑いで同行を求める」

 

 騎士の声は硬かった。

 

 ギデオンは一歩下がった。

 

「待て。誤解だ。私は書類を整えただけで――」

 

「書類はすでに押収中だ」

 

 騎士は言った。

 

「丘下の古い石灰倉庫、川沿いの中継倉庫、藁束の下に隠された樽印、黒い革表紙の裏帳簿。荒くれ者たちの証言とも照合する」

 

 商会の奥から、黒い革表紙の帳簿が運び出された。

 

 別の騎士が木箱を抱えて出てくる。壊された樽印。焼き替えの跡が残る木片。隠してあったものだ。

 

 ギデオンの喉が鳴った。

 

「グンター……」

 

 その名を漏らした時、商会脇の荷車から声がした。

 

「俺は喋ったぞ! 証人だ! 証人って言われた!」

 

 縄でぐるぐる巻きにされたグンター・ロッツが、荷車の上で必死に叫んでいた。

 

 隣では、ヨルンが青い顔をして下を向いている。

 

 騎士の1人が、冷ややかに言った。

 

「逃がすとは言われていないそうだな」

 

 グンターは黙った。

 

 ギデオンも黙った。

 

 希望が消えるのは、早かった。

 

「同行願おう」

 

 騎士が手を上げる。

 

 従者たちが逃げようとしたが、すでに道は塞がれていた。商会の裏口にも騎士がいる。帳簿室の窓にも見張りが立っている。

 

 ギデオンは、捕らえられながら商会の中を見た。

 

 契約書。

 商会印。

 帳簿。

 樽印。

 輸送記録。

 噂を流した酒場への支払い控え。

 

 隠していたものが、次々に朝の光へ出されていく。

 

 さっき見た更地が、頭の中に蘇った。

 

 土地は残っていた。

 

 だが、本当に欲しかったものは、すでにどこにもない。

 

 ギデオンは歯を食いしばった。

 

 騎士に腕を取られ、馬車ではなく、伯爵家の護送用の荷車へ向かわされる。

 

 ロートナー商会の前に、朝の光が差していた。

 

 昨日まで自分たちの勝ち筋だと思っていた紙が、今日は縄のように首へかかっている。

 

 商会の扉が閉ざされる。

 

 木の軋む音が、やけに大きく響いた。

 

 

 

 

 採石場秘密基地の隣に、葡萄棚が並んでいた。

 

 澪は、しばらく何も言えなかった。

 

 石と砂と鉱物の匂いがするはずの場所である。重砂を分け、鉱石を積み、真壁が何かを始めるたびに施設が増える、あの採石場である。

 

 その隣に、葡萄棚があった。

 

 しかも、1列や2列ではない。斜面を選んで石垣が積まれ、列ごとに支柱が立ち、棚線が張られ、根鉢ごと運ばれた葡萄の木が、元の土を抱えたまま仮植えされている。

 

 仮植え、のはずだった。

 

 だが、石垣の積み方が仮ではない。

 

 水の流れを受ける溝もある。風を抜くための低い通路もある。日当たりを考えたらしい段差もある。さらに奥には、石造りの建物があった。

 

 澪はそこを見た。

 

 醸造蔵に見える。

 

 その隣に、樽蔵に見える建物がある。

 

 さらに、圧搾場に見える屋根付きの場所がある。

 

 ついでに、窓の小さな部屋まである。長机が置けそうで、杯を並べたらちょうどよさそうな広さだった。

 

 試飲室に見える。

 

 看板だけは、まだなかった。

 

「真壁さん」

 

「何でしょう、澪君」

 

「これ、ワイナリーですよね」

 

 真壁は、採石場の石壁を背景に、少しだけ首を傾けた。

 

「葡萄樹保全用の仮設施設です」

 

「葡萄棚があります」

 

「保全には必要です」

 

「石造りの醸造蔵があります」

 

「温度管理上、必要です」

 

「樽蔵があります」

 

「品質管理上、必要です」

 

「圧搾場があります」

 

「果汁を得るには必要です」

 

「試飲室みたいな部屋があります」

 

「品質確認上、必要です」

 

 澪は黙って真壁を見た。

 

 真壁も澪を見た。

 

 逸らさない。

 

 逸らしたら負けである。

 

「ワイナリーですよね」

 

「……葡萄酒蔵ですな」

 

「言い換えましたね」

 

「異世界の語感に合わせました」

 

「内容は変わっていません」

 

「呼び名とは、時に施設の品を整えます」

 

「施設の規模は整いすぎています」

 

 真壁は答えなかった。

 

 答えないことが、答えだった。

 

 澪はもう一度、採石場の隣に広がる葡萄棚を見た。

 

 朝の更地から保全されたものが、ここに並んでいる。木はまだ驚いているように見えた。根鉢ごと元の土を抱え、見慣れない風の中に置かれている。だが、葉は垂れきっていない。古い母株も、若木も、苗木も、それぞれ番号札をつけられて、列の中に収まっていた。

 

 更地にしたのではない。

 

 移したのだ。

 

 そう思うと、少しだけ胸の重さが変わった。

 

 ただし、見た目は完全に葡萄酒蔵だった。

 

 

 

 

 ハーゼル家の4人は、葡萄棚の前で足を止めた。

 

 ゲルトは最初、言葉を失った。

 

 エルザはミナの手を引いていたが、古い母株を見つけた瞬間、その手を離しそうになった。澪がそっとミナの肩に手を添える。ミナは自分の母がどこへ向かうのか分かっているようで、黙って見上げていた。

 

 エルザは古い母株の前に膝をついた。

 

 手を伸ばす。

 

 指先が幹に触れた途端、顔が崩れた。

 

「……本当に」

 

 声が震える。

 

「本当に、連れてきてくださったんですね」

 

 古い幹は、ハーゼル谷にあった時と同じ傷を持っていた。祖父の代からの剪定跡、古い支柱で擦れた跡、枝を落とした跡。新しい土地の中で、その木だけが古い時間を抱えている。

 

 エルザは声を殺して泣いた。

 

 ミナが母の隣にしゃがみ、小さな手で幹に触れる。

 

「木、起きた?」

 

「まだ、少し眠っているところです」

 

 澪は小さく言った。

 

「でも、生きています」

 

 ミナは、ほっとしたように幹を撫でた。

 

 ゲルトは、別の場所で土を見ていた。

 

 膝をつき、根鉢の縁の土を指で崩す。元の畑の土が、根を包んで残っている。乾き具合も、粒の混じり方も、見覚えがあるのだろう。ゲルトの顔に、信じられないものを見る色が浮かぶ。

 

「本当に……持ってきたのか」

 

「ええ」

 

 真壁は静かに答えた。

 

「根鉢ごと、元の土ごと。畑ごとの土壌サンプルも保全しております。配置は澪君の番号に従いました」

 

 ゲルトは澪を見た。

 

 澪は少し背筋を伸ばした。

 

「元の畑の列番号と、こちらの仮植え位置を対応させています。北石垣沿いの木、井戸側の若木、南列の母株、苗木床から来た苗木。混ざらないようにしてあります」

 

 ゲルトは何かを言おうとして、言葉を飲み込んだ。

 

 代わりに、土に触れた手を握った。

 

 その手は震えていた。

 

 だが、昨日のような絶望の震えではなかった。

 

「土地は後で争えます」

 

 真壁が言った。

 

「だが、葡萄の木は今日失えば戻りません。技術者も同じです。ならば、先に命を移す」

 

 ゲルトは目を閉じた。

 

 ルカは父親の横で、葡萄棚を見ていた。

 

「父さんの木、ある」

 

「ああ」

 

 ゲルトは、かすれた声で答えた。

 

「あるな」

 

 ルカの顔に、ようやく子どもらしい表情が戻った。

 

 泣きそうで、笑いそうで、どちらにもなりきれない顔だった。

 

 澪はその顔を見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 

 更地にした価値は、たぶんここにある。

 

 真壁はそれを「保全」と呼んだ。

 

 澪は、少しだけ認めてもよい気がした。

 

 ただし、葡萄酒蔵であることは別問題だった。

 

 

 

 

 石造りの建物の中には、救えた樽が並べられていた。

 

 まだ完全な蔵ではない、と真壁は言った。

 

 澪は信じなかった。

 

 壁の厚さ、床の排水、樽の置き台、温度が安定しそうな奥の部屋、風を入れすぎない扉。どう見ても本気だった。

 

 ゲルトは樽の前に立ち、1つずつ状態を確かめていく。澱が乱された樽。温い場所に置かれて傷んだ樽。まだ救えそうな樽。原因を見るために残すべき樽。

 

 エルザは葡萄棚へ戻り、ミナと一緒に若木の葉を見ている。ルカは樽印を見つめていた。焼き替えられた印と、元のハーゼル家の印が、別に保管されている。

 

 奪われたものと、守ったもの。

 

 同じ印が、違う意味を持って並んでいた。

 

「すぐに元通りの葡萄酒は作れません」

 

 ゲルトが言った。

 

 その声には、悔しさがあった。

 

 だが、諦めだけではない。

 

「木は根を落ち着かせないといけない。土も見る必要がある。今ある樽も、全部が助かるわけじゃない」

 

「承知しております」

 

 真壁は頷いた。

 

「まずは救えた樽の状態確認。澱と酵母の保護。買い葡萄での試験醸造。畑の植え替えと定着。樽番号管理。仕込み日、保管場所、移送日、開栓日、味の評価」

 

 澪はその言葉を聞きながら、紙に項目を作っていた。

 

 今度は隠さない。

 

 これは、人を縛る紙ではない。

 

 酒を守る紙だ。

 

「侯爵家の食事会や晩餐で出せる上級酒を、最初の目標にしましょう」

 

 真壁が言った。

 

 ゲルトが目を丸くする。

 

「侯爵家に出す酒……?」

 

「ええ。粗く広く売るより、まずは少量高品質。評判を作るべきです」

 

「その通りだね」

 

 扉のところで、リュシアが腕を組んでいた。

 

 いつ来たのか分からない。

 

 澪は驚いたが、真壁は驚かなかった。たぶん、呼んでいたのだ。

 

 リュシアは葡萄棚を見て、石蔵を見て、樽を見て、最後に真壁を見た。

 

「看板がないだけの葡萄酒蔵じゃないか」

 

「保全施設です」

 

「商売人にそれは通らないよ」

 

 リュシアはあっさり言った。

 

 澪は心の中で拍手した。

 

 そうです。もっと言ってください。

 

 リュシアはゲルトへ向き直る。

 

「商売にするなら、最初から安く売るんじゃないよ。安く出した酒は、後から値を上げるのが難しい。侯爵家の食事会で使って、評判を作ってからだ。セレスティナ様の社交に乗れば、少量でも名は広がる」

 

 ゲルトは圧倒されたように頷いた。

 

 職人の顔に、商売の風が当たっている。

 

 エルザも葡萄棚の方から話を聞いていた。土の人間と酒の人間だけでは、守れないものがある。今回、それを嫌というほど見たはずだった。

 

「樽ごとの記録表を作ります」

 

 澪は紙を持ち上げた。

 

「仕込み日、使用した葡萄、畑の区画、保管場所、移送日、開栓日、温度変化、澱の状態。味の評価も、感想だけではなく項目で残します。香り、酸味、渋み、甘み、澄み、余韻。誰が飲んだかも分けます」

 

 真壁が満足げに頷いた。

 

「結構。感性と記録が揃えば、酒は強い」

 

「飲む理由がまた増えましたね」

 

「品質確認です」

 

「はい。記録します」

 

 真壁は沈黙した。

 

 逃げ場はない。

 

 澪は筆先を紙に置いたまま、真壁を見た。

 

「品質確認の杯数も、記録します」

 

 真壁は、ほんの少しだけ目を伏せた。

 

「……それも必要ですな」

 

「必要です」

 

 リュシアが笑った。

 

「いいじゃないか。飲む方にも手綱は要る」

 

「私は馬ではありません」

 

 真壁が静かに言う。

 

 澪は即答した。

 

「灰駿を作った人が言うと説得力が変です」

 

 リュシアが声を出して笑った。

 

 ゲルトも、少し遅れて笑った。

 

 エルザも葡萄棚の前で、小さく笑った。

 

 笑い声はまだ弱い。

 

 けれど、確かにあった。

 

 

 

 

 採石場秘密基地の隣に、葡萄棚が風に揺れていた。

 

 石と砂と鉱物の匂いがしていた場所に、葡萄の葉と樽材の匂いが混じり始めている。まだ酒の香りは薄い。だが、澱を守る容器があり、救えた樽があり、土を抱えた母株がある。

 

 ゲルトは樽の前で立ち止まり、エルザは古い葡萄の木に水をやる場所を確かめている。

 

 ルカは父親の樽印札を、新しい保管棚の前で握っていた。

 

 ミナは若木の前で、葉に小さく手を振っている。

 

 リュシアはもう販路の計算を始めていた。誰へ売るか。どこで出すか。どの価格から始めるか。彼女の目は、すでに葡萄棚の向こうに客の顔を見ている。

 

 澪は紙に最後の見出しを書いた。

 

 真壁はそれを横から見ていた。

 

「澪君」

 

「はい」

 

「そこには、何と」

 

 澪は筆を止めずに答えた。

 

「葡萄酒蔵です」

 

「仮設保全施設では」

 

「葡萄酒蔵です」

 

「まだ看板もありません」

 

「看板がない葡萄酒蔵です」

 

 真壁はしばらく黙っていた。

 

 それから、静かに言った。

 

「言葉とは、時に施設の未来を決めますな」

 

「未来というより、現状です」

 

 澪は顔を上げた。

 

 葡萄棚が風に揺れている。

 

 石造りの蔵がある。

 

 樽蔵がある。

 

 圧搾場がある。

 

 試飲室らしき部屋もある。

 

 看板だけがない。

 

 それだけだった。

 

 真壁はそれを「仮設保全施設」と呼んだ。

 

 澪は記録表に「葡萄酒蔵」と書いた。

 

 リュシアは販路の計算を始めた。

 

 看板が出るのは、時間の問題だった。

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