押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第163話 芽のある手

 

 侯爵家の応接室には、妙に静かな朝の光が差していた。窓辺の白いレースが揺れるたび、卓の上に置かれた封書の影もわずかに動く。その封を切り、伯爵領から届いた返答を読み上げているのは農政官エーリヒだった。声音は落ち着いているのに、文面の中身だけが落ち着いていなかった。

 

「ロートナー商会、ベッカー代理人、ならびにギデオン・ファルクらは、黒鎖系資金筋との関係が強く疑われる――とあります」

 

 澪は背筋を伸ばしたまま、膝の上で指先だけをそっと握った。やっぱり、で終わる話ではない。終わらないまま、ちゃんと黒い名前が繋がってしまった。安心していいのか、逆にもっと面倒になったのか、どちらかと聞かれれば後者である。

 

「処罰と捜査は伯爵領側で進めるそうですわ」

 

 セレスティナが穏やかに言った。穏やかに言っているのに内容は重い。その技術は、たぶん貴族の必修科目なのだろうと澪は思った。大学のシラバスに欲しいとは全く思わない。

 

「では、もう終わりではないのか」

 

 エレナが率直に口を開いた。子どもらしい、けれど空気は読んだ問いだった。

 

「ええ。表に出ていた手は折れましたが、肘や肩がどこに繋がっているかは、まだ見えておりません」

 

 真壁が静かに答えた。澪は横で、たとえが少し生々しいです、と思った。だが確かに分かりやすい。嫌な分かりやすさだった。

 

 アルベルトが顎に手を当てる。

 

「他領との産業競争か。あるいは税や流通を弱らせる意図か」

 

「国外の干渉という可能性も、消し切れません」

 

 エーリヒが言い足す。澪は心の中で、さらっと国外まで広げないでください、と呟いた。黒鎖だけでも十分面倒なのに、地図の範囲を勝手に広げないでほしい。

 

「目的が一つとは限りませんな」

 

 真壁が紅茶の湯気の向こうで目を細めた。

 

「金も欲しい。混乱も欲しい。報復もしたい。欲の向きが揃えば、愚かな策でも厄介になる」

 

 澪は、その言葉に小さく息を吐いた。欲張りな悪党ほど処理が面倒です、という要約でだいたい合っている。しかも真壁さんは、そういう相手を見ると少しだけ楽しそうな顔をするのが困る。たぶん今もしている。ほんの少しだけ。

 

 空気が重くなりかけたところで、真壁が杯を置いた。

 

「では、新しい葡萄酒蔵を見ていただきたい」

 

 澪は思わず横を見た。切り替えが早い。いや、ありがたい。ありがたいのだが、重い話から葡萄酒蔵への着地があまりにも滑らかすぎる。会話の路面が舗装されすぎている。

 

「見たい!」

 

 エレナが即答した。澪は少しだけ安心した。子どもはこうでなくては困る。今の部屋には率直さが足りなかった。

 

「私も参りましょう」

 

 セレスティナが微笑む。その笑みはやわらかいのに、もう社交の場でその蔵をどう見せるかまで考えていそうだった。

 

「もちろん、私も見ます」

 

 エーリヒが低く言った。農政官の目になっている。土と水と動線を見る顔だ。澪は心の中で、仮設の定義がまた一つ壊れますね、と先回りして思った。

 

 アルベルトが頷く。

 

「案内を頼む、真壁殿」

 

「承知しました」

 

 真壁が立ち上がる。澪はその背中を見ながら、今日も結局、静かな顔の人が一番場を動かしているなと思った。

 

 

 

 

 

 採石場秘密基地の隣に広がるそれを見た瞬間、アルベルトは言葉を失い、エーリヒは眉間に皺を寄せ、セレスティナは静かに微笑み、エレナは一歩前へ出た。

 

「すごい!」

 

 最初に言葉になったのは、それだった。実に正しい反応だと澪は思った。説明より先に出るべき言葉として、かなり優秀である。

 

 斜面には石垣が組まれ、葡萄棚がきれいに列を作っていた。風の抜ける向きまで考えられたらしい間隔で支柱が立ち、奥には石造りの蔵、その横には樽蔵、さらに圧搾場まである。看板だけはない。ないのに、誰が見ても何なのか分かる完成度だった。たぶん看板がないのは遠慮ではなく、まだ言い逃れを残しているだけである。

 

「葡萄の城ではないか!」

 

 エレナが声を上げる。澪は内心で、城ではないですが気持ちは分かります、と頷いた。むしろ、そう言いたくなるくらいには全部揃っていた。

 

「エレナ、走らないの」

 

 セレスティナが静かに言う。エレナの足が止まる。止まるが、目は止まっていない。きらきらしている。あれはもう走る代わりに視線が全力疾走している。

 

 エーリヒは無言で斜面を見回し、水の流れ、風向き、作業動線を目で追っていた。石垣の角度を見て、棚列の間隔を測るように歩き、蔵と圧搾場の距離まで確かめている。完全に仕事の顔だ。農政官というのは、たぶんこういう時に一番楽しそうになる生き物なのだろう。

 

「……真壁殿」

 

「何でしょう」

 

「これは何ですか」

 

 質問の形を取っていたが、ほとんど確認だった。エーリヒ自身、答えは分かっている。分かっているが、あえて言わせたいのだ。

 

 真壁は涼しい顔で答えた。

 

「葡萄樹保全用の仮設施設です」

 

 澪は目を閉じた。また来た。言うと思った。しかも一切の迷いがない。そこまで滑らかに言われると、一瞬こちらが仮設だったかもしれないと思いかけるが、絶対に違う。

 

「仮設の語に謝っていただきたい」

 

 エーリヒが即座に返した。澪は心の中で拍手した。ありがとうございます。今この場で最も必要な言葉でした。

 

「水はけがよく、風は通りすぎず、作業場と保管蔵の距離も短い。棚列も美しい。これを仮設と言われると、私が今まで見てきた仮設が泣きます」

 

 澪は、仮設にも感情があるんですね、と思ったが言わなかった。農政官をこれ以上刺激してはいけない。今たぶんかなり本気で怒っているし、同時にかなり感心もしている。面倒な二重状態である。

 

 セレスティナは石蔵を見上げていた。

 

「見栄えもよろしいですわね。晩餐の客を連れて来ても、十分に話題になります」

 

 澪は、社交の人は見る場所が違うなと思った。エーリヒが風と土を見るなら、セレスティナは見せた時の空気を見るのだ。どちらも怖い。怖いが頼もしい。

 

「やはりすごいではないか、真壁!」

 

 エレナが振り返る。真壁は軽く頷いた。

 

「保全には、見栄えも大事です」

 

 澪は内心で、その理屈で通す気なんですね、と呟いた。見栄えまで必要な保全はだいぶ終盤の保全である。

 

 アルベルトはようやく口を開いた。

 

「新産業として、十分すぎるな」

 

 その一言で場の空気が少し変わった。ただの避難先でも、ただの隠し場所でもない。侯爵領の新しい柱として、目の前の葡萄棚が立ち始めたのだと、澪にも分かった。

 

 

 

 

 

 葡萄棚のそばでは、風が葉の間を抜けるたびに、まだ新しい土の匂いが立ちのぼっていた。ゲルトとエルザは少し離れた場所に立ち、侯爵家の言葉を待っている。守られた人、ではなく、これから何かを担う人として見られているのが分かるからだろう。2人とも背筋の伸ばし方が、救出直後とはもう違っていた。

 

 アルベルトは葡萄棚を一望してから、静かに言った。

 

「この地を、侯爵領の葡萄酒事業の拠点として認める」

 

 ゲルトの肩がわずかに震えた。エルザも息を呑み、すぐに深く頭を下げる。澪はその様子を見ながら、ようやく“助かった”の先に進んだのだと感じた。ここからは再建ではなく、立ち上げだ。

 

「エーリヒ、農政面の支援を」

 

「承知しました」

 

 エーリヒは即座に答えた。

 

「ただし、土壌の定着、病害の観察、樽の扱い、収量の安定、どれも急げば崩れます。育てるなら、本気で見ます」

 

 澪は心の中で、ああ、農政官の顔だ、と思った。土と風と病を相手にする人の顔である。静かなのに、まったく甘くない。

 

「最初から安く広くは売らないよ」

 

 リュシアが腕を組んで言った。

 

「まず侯爵家の卓で評判を作る。少量でも、良いものだと知られれば値は守れる」

 

 澪は、その言葉が好きだった。安くしない、ではなく、値を守る。そこには、作る側の手を安売りしない響きがある。

 

「ありがとうございます」

 

 ゲルトが言った。少し掠れていたが、もう絶望の声ではない。

 

「俺たちは……ここで働けるのですか」

 

 その言い方に、澪は少しだけ引っかかった。雇われる側の言葉だ。けれどアルベルトはすぐにそれを正した。

 

「働いてもらうのではない。担ってもらうのだ」

 

 エルザが顔を上げる。ルカも父の横で背筋を伸ばし、ミナは母の裾を握ったまま侯爵を見ていた。

 

 真壁が静かに頷く。

 

「蔵を守る手と、葡萄を育てる手がここにある。それで十分ですな」

 

 澪は、その言葉に少しだけ救われた。余計な飾りがない。だからこそ、まっすぐ入ってくる。

 

 ゲルトは深く頭を下げ、エルザもそれに続いた。さっきまで“助けられた一家”だった人たちが、今はもう、この土地の担い手として立っている。

 

 風が葡萄棚を抜けていく。

 

 その音を聞きながら、澪は胸の奥で小さく息を吐いた。

 

 ここは、もう避難先ではない。

 ちゃんと始まる場所になったのだ。

 

「では、次は伯爵領との折衝ですな」

 

 真壁が言った。

 

 澪は心の中で、やっぱりまだ次があるんですね、とだけ呟いた。

 

 

 

 

 

 伯爵領との折衝という言葉が出た瞬間、さっきまで少し和らいでいた空気がまた引き締まった。葡萄棚の葉は風に揺れているのに、人間の方だけがぴたりと止まる。たぶん、折衝という言葉には独特の冷たさがある。話し合いなのに剣みたいな音がする。

 

「蔵主の承諾はある。証拠も証言もある」

 

 アルベルトが言う。

 

「だが、伯爵領としては表向き抗議をしてくるだろう」

 

 澪はそれはそうだと思った。いくら正しくても、いきなり葡萄棚ごと消えていたら、抗議くらいは来る。むしろ来なかったら逆に怖い。

 

「文書と使者はこちらで整えます」

 

 エーリヒが答える。その声には、もう面倒を引き受ける人の重さがあった。農政官は土だけでなく文書にも埋もれるらしい。大変だなと澪は思ったが、自分も似た方向へ進んでいるのであまり他人事ではない。

 

「お詫びの品も要るのではなくて?」

 

 セレスティナが、やわらかく言った。その一言で空気の角が少し丸くなる。さすがだなと澪は思った。重い話の角を丸めるのが上手すぎる。

 

「ならば灰駿を送ればよい!」

 

 エレナが即答した。

 

 澪は一拍遅れて、えっ、となった。謝罪に棹立ち巨馬像を送る文化は初めて聞きました。いや、この世界にもたぶん無いと思います。今この瞬間に爆誕した文化である可能性が高い。

 

 だが怖いのは、提案したのがエレナだけでは終わらなかったことだ。

 

「たしかに、謝意と敬意は伝わりますな」

 

 アルベルトが考え始めた。

 

 やめてください。領主まで真面目に考えないでください。謝罪の品が突然、威圧感の強い芸術品に寄っていっています。

 

「怒ってはおりませんが、忘れてもおりません、という、よい贈り物ですわね」

 

 セレスティナが少し楽しそうに言った。澪は心の中で、怖いです、と真顔になった。侯爵家の上品な冗談は、ときどき戦略兵器みたいな顔をする。

 

「伯爵家玄関の規模に合わせ、一回り小さくする必要がありますな」

 

 真壁まで前向きに言った。

 

「なんで前向きなんですか」

 

 澪は即座に言い返した。今のは言わない方がおかしい。謝罪の品をサイズ調整する方向で話を進めないでほしい。

 

「謝意は形に表れます」

 

 真壁が平然と答える。澪は、あなたの形がだいぶ大きいんですよ、と思った。しかも前脚が上がっている。謝罪で送られてきた相手の心臓に優しくない。

 

 エレナはきらきらした目で真壁を見上げた。

 

「伯爵家の門前に灰駿が立てば、余も見に行きたい!」

 

 セレスティナが笑いを堪えるように扇子を当てる。澪は、もうだめだ、この一家の中で自分しか正常な不安を抱いていない気がする、と少し遠い目になった。

 

「巨馬像の話はいったん脇に置きましょう」

 

 エーリヒが低く言った。農政官が一番冷静だった。ありがとうございます。本当にありがとうございます。今日いちばん地に足がついています。

 

 その時、セレスティナが葡萄棚の方へ目を向けた。

 

「ところで、葡萄の手入れを見せていただけませんか」

 

 エレナもすぐに乗る。

 

「見たい!」

 

 澪は、よかった、馬から離れた、と思った。会話の流れが正常な方向へ戻っただけでほっとする日が来るとは思わなかった。

 

 真壁が静かに頷く。

 

「では、エルザ殿とミナ君に願いましょう」

 

 澪はその横顔を見ながら、今度は何を見る気なんですか、と心の中で警戒した。たぶん、また何か見つける顔をしていたからである。

 

 

 

 

 

 若木の前に立つと、場の空気は自然に少し低くなった。さっきまで伯爵領だの折衝だの巨馬像だの言っていた大人たちが、一本の小さな木を前にすると声を落とす。それだけで、植物には人を少し静かにさせる力があるのかもしれないと澪は思った。

 

 エルザは若木のそばに立ち、ミナを自分の横へ呼んだ。ミナは最初、母の服の陰に半分隠れていたが、エレナが同じ目線までしゃがみ込むと、少しだけ顔を出した。

 

「今の木は、苦しいのか?」

 

 エレナが率直に聞く。

 

 セレスティナがすぐにやわらかく言った。

 

「エレナ、言い方を少し整えなさい」

 

 澪は内心で、でも分かりやすいです、と頷いた。子どもの質問は真っ直ぐでいい。大人が回りくどくなるところを、一気に木のところまで行く。

 

 真壁は若木の前で膝を折った。目線を下げる。相手がエルザでもミナでも、見下ろさない位置に自分を置く。その動きが自然すぎて、澪はこういうところなんだろうなと思った。たぶん懐かれる理由の半分くらいは、もうこの時点で始まっている。

 

「弱った木に触れた時、最初に何を感じますかな」

 

 真壁が静かに尋ねる。声は柔らかいのに、質問の中身は完全に技術者への敬意だった。教えてください、ではなく、分かっているものを丁寧に取り出す聞き方である。ずるい。非常にずるい。

 

「ええと……乾きすぎている時と、根が疲れている時では、少し違います」

 

 エルザが答える。最初は緊張していたが、真壁の聞き方が本気だと分かってから、声が安定してきた。

 

「葉の張りや、土の重さや、触った時の返り方が……少し」

 

 澪はその言葉を聞きながら、鑑定へ意識を向けた。若木の葉、土の乾き、枝先の沈み。そこへ重なるように、エルザの指先、ミナの手の置き方まで見る。まだ何かが起きているわけではない。けれど、起きる前を見ておかないと後との差が取れない。そんな予感があった。

 

「元気になると、どこが一番先に起きる?」

 

 エレナがまた聞く。セレスティナは小さく笑っている。たしなめるが、止めない。子どもの質問が場を和らげていると分かっているのだ。

 

「蔓の先です」

 

 今度はミナが答えた。声は小さいが、はっきりしていた。

 

「先っぽが、ちょっと起きるの」

 

 澪は、その言い方が妙に好きだと思った。専門用語ではない。だが、見る人の言葉だ。起きる。たぶんそれで十分なのだ。

 

 真壁はわずかに目を細める。

 

「若木と成木では、手の添え方は変わりますかな」

 

 澪は内心で、質問が本当に丁寧ですね、と少し感心した。聞いているのに試していない。ただ、ちゃんと学ぼうとしている。その姿勢がエルザをさらに話しやすくしていた。

 

「変わります。若木は、驚かせないように」

 

 エルザが言って、ミナを見る。

 

「ミナ、やってごらん」

 

 ミナがこくりと頷いた。小さな手が、若木へ伸びる。澪はその瞬間、鑑定へさらに集中した。ただ見るだけではだめだ。使っているやり方を見る。たぶん、そこが大事だと直感した。

 

 真壁も黙って若木を見ていた。その横顔は静かだったが、明らかに“見ている”顔だった。

 

 

 

 

 

 ミナの手が若木へ触れた瞬間、何か派手な光が走ったわけではなかった。風が止まることもなければ、葉が一斉に震えることもない。ただ、ほんの小さな差だけが積み重なっていく。

 

 乾いていた土が、少しだけ落ち着く。

 葉の張りが、ほんのわずかに戻る。

 項垂れていた蔓先が、言われた通り、少しだけ起きる。

 

「起きたぞ!」

 

 エレナが素直に声を上げた。澪は内心で、実況が早いです、と少し笑いそうになったが、自分も同じ気持ちだった。見えた。今、確かに前と後が違う。

 

 澪は鑑定を重ねた。触れる前の若木。触れている最中のミナの手。力ではない。押し込むような手つきではなく、何かを待つような置き方だ。そこへ、ほんの少しだけ対象の状態が寄っていく。土、葉、蔓。その前後差が、ばらばらではなく一つの流れで見えてきた。

 

「……そういうことですか」

 

 真壁が小さく言った。澪ははっとして横を向く。出た。この人が低く納得した時は、たいてい重要な何かが見えている。

 

「ただ眺めても芽は立たない」

 

 真壁が続ける。

 

「鑑定で、使う前と後、手つきと結果を結んで見る。それが必要ですな」

 

 澪は、その言葉にぞくりとした。分かる。今、自分もまさにそれをしていた。木を見ていたのではない。変化の前後と、ミナのやり方を、鑑定でつなげて見ていたのだ。

 

「え」

 

 思わず声が出た。自分を鑑定した瞬間、表示が変わっていたからだ。

 

 緑の手:芽あり

 

「また何か増えました」

 

 澪は正直に言った。真壁がこちらを見て、ほんの少しだけ口元を動かす。

 

「立ちましたな」

 

 澪は内心で、そんな落ち着いて言わないでください、と少し腹が立った。こっちは今、かなりびっくりしています。なのにあなたは、“やはりそうか”みたいな顔をしている。

 

「でも、これ……ただ見ていたんじゃない」

 

 澪は若木とミナの手を交互に見た。

 

「見て、比べて、意味をつないだ時に出てる」

 

「見たのではありません」

 

 真壁が静かに言う。

 

「学んだのです」

 

 澪はその言葉に息を呑んだ。たしかにそうだ。鑑定は確認のためだけの目ではない。使い方を見て、前後差を結び、理解する。その時、芽になる。つまり条件は、“鑑定しながらスキル使用の構造を観察学習すること”だ。

 

 すごい発見だと思った。思ったが、同時にかなり嫌な予感もした。今後、何かを見せられるたびに芽が増える可能性がありますよね。つまり、真壁さんの目の前であまり色々やらない方がいいのでは。いや、自分も含まれる。だめだ。逃げ場がない。

 

 エレナはそんなこととは無関係に若木を見ていた。

 

「今のは、ミナが起こしたのだな」

 

 ミナがこくりと頷く。エルザは娘を見る目になっていた。誇らしさと、少しの心配と、守ってやりたい気持ちが全部混ざった目だ。

 

 澪はもう一度、自分を鑑定した。表示は消えない。緑の手:芽あり。その事実がじわじわ効いてきて、今さら心臓が遅れて騒ぎ始める。増えました。しかも、増え方の条件まで分かりました。今日は発見として大きすぎませんか。

 

 真壁が低く頷く。

 

「今後、他の系統でも同じ可能性がありますな」

 

 澪は内心で、さらっと次の世界を広げないでください、と呻いた。けれど否定はできなかった。今、二人とも見てしまったのだから。

 

 

 

 

 

 見学が終わっても、ミナはすぐにはエルザの後ろへ戻らなかった。若木の前で膝を折ったままの真壁を見て、ためらいがちに一歩、また一歩と近づき、最後にはその袖をきゅっと握った。

 

 澪は、その光景を見て少し固まった。え、そっちなんですか。エレナではなく、セレスティナでもなく、なぜ真壁さんなんですか。今この場で一番懐かれそうに見えない人ですよね。

 

「この木は、君の手をよく覚えておりますな」

 

 真壁が静かに言う。澪は内心で、声が妙に優しいですね、と認めざるを得なかった。ずるい。普段からそのくらい穏やかに言ってください。いや、言っている時もある。こちらが聞き取れていないだけかもしれない。少し悔しい。

 

 ミナは無言で袖を握ったまま、こくりと頷いた。

 

「なぜだ」

 

 エレナが言った。完全に子どもの顔である。

 

「余の方が先に見ていたのに」

 

 澪は心の中で、そこ張り合うんですね、と少し笑った。だが分かる。分かるが、対象が真壁さんなのがやや納得いかない。もっとこう、柔らかい人ならまだ分かる。

 

「真壁は灰駿より子ども受けがよいのか?」

 

 エレナが真剣に続けた。澪は思わず目を伏せた。比較対象が巨馬像なの、かなり独特です。でもエレナ様らしいので、たぶんそれで正しい。

 

 セレスティナが笑いを堪えるように扇子を口元へ当てる。

 

「エレナ、張り合う相手を少し選びなさい」

 

 エレナは不満そうに口を尖らせたが、ミナの方を見る目には悪意がない。子ども同士の小さな張り合いである。澪はそれを見て少し安心した。侯爵家の娘と葡萄酒蔵の娘が、巨馬像より自然な距離で並んでいる。その方がたぶん健全だ。

 

「真壁さん」

 

「何でしょう、澪君」

 

「なんでミナちゃんは真壁さんに懐いてるんですか」

 

 澪は思わず聞いてしまった。かなり本気の疑問だった。問いとしては地味だが、今の自分には黒鎖の目的より少しだけ身近で不可解である。

 

「品格でしょうな」

 

 真壁が平然と答えた。

 

 澪は一瞬、無言になった。今ちょっと本気で腹が立ちました。いや、たぶん本当に半分くらいはそうなのだろう。悔しいが認めるしかない。認めるしかないのに腹が立つのが一番困る。

 

 エレナがむっとした顔で真壁を見る。澪は心の中で、あ、そこは私と同じ気持ちなんですね、と妙な連帯感を覚えた。

 

 その直後、澪はもう一度自分を鑑定した。

 

 緑の手:芽あり

 

 表示はやはりそこにあった。消えない。見間違いではない。侯爵領の新しい産業がここで動き出し、自分の中にも新しい芽が生えている。めでたい。たぶん、とてもめでたい。なのに気分が少し青いのは、今後また何か増える未来がかなりはっきり見えてしまったからだ。

 

 澪は無言で空を見上げた。

 

 葡萄棚の上を、やわらかな風が抜けていく。葉がこすれ合う音はまだ若く、けれど確かにここが新しい畑になりつつあることを告げていた。

 

 その風の中で、真壁の袖を握ったミナが小さく笑った。

 

 澪は、ため息をひとつだけ飲み込んだ。

 

 侯爵領の新しい葡萄酒事業と、自分の新しい芽は、どうやら同じ日に動き始めるらしい。

 

 

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