押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

164 / 165
第164話 見る力の育て方

 

 

 夕方の葡萄酒蔵は、まだ新しい石の匂いと、移されたばかりの樽の匂いが半分ずつ混じっていた。外では葡萄棚を渡る風が葉を鳴らし、その音が開け放した窓から細く入り込んでくる。真壁はその音を聞きながら、長机の向こうに並んだ顔ぶれを見渡した。リュシア、セルマ、エーリヒ、そして澪。わざわざ呼ばれた側は、誰もが「普通の相談ではない」と分かる面子だった。

 

「澪君。人材を増やそう」

 

 真壁が言った。

 

 また始まった、と澪は思った。開口一番で主語が大きい。人材を増やそう、で済むなら世の中たぶんもう少し楽である。しかもこの人が言う「増やそう」は、だいたい増やす側の苦労を一拍遅れでこちらへ流してくる。

 

「言ってることは分かります」

 

 澪はそう答えてから、ひとつ息を挟んだ。

 

「分かりますけど、その入口が重すぎますよね」

 

 言った瞬間、セルマが腕を組んでうんうんと頷いた。錬金術師はたぶん、真壁の「大きい言い方」に何度か巻き込まれている。顔つきに慣れがあった。

 

「わたし、呼ばれた時点で嫌な予感しかしなかったんだけどね」

 

 セルマが言った。

 

「また何か増やす気だろう?」

 

 だいたい合っています、と澪は思った。しかも増えるのは人材だけではない。仕事もだ。そこまで込みで真壁案件である。

 

 エーリヒは少しだけ眉を上げていた。農政官らしい落ち着いた顔だが、今の話が自分に関わるかどうかを測っている目だった。真壁はそのエーリヒを見たまま、静かに続けた。

 

「だからこそ、今日は“見る者”を集めました」

 

 リュシアが片眉を上げる。セルマはさらに嫌そうな顔をした。澪はそこで、ああ、と理解した。ここにいるのは、たまたま都合のいい顔ぶれではない。鑑定持ち、あるいはそこに近い者だ。

 

 真壁がエーリヒへ視線を向ける。

 

「エーリヒ殿。少々、失礼」

 

 エーリヒが頷くと、真壁は短く鑑定をかけた。澪も続ける。農政官の肩越しに見える表示は、予想通りだった。

 

 鑑定:芽あり。

 

「……言われてみれば、葉色や湿りの違いを見る癖はあります」

 

 エーリヒが低く言う。

 

「それが、そこへ繋がるのですか」

 

 いい質問だ、と澪は思った。たぶん今この場で一番まともに知りたいことを、ちゃんと短く聞いている。農政官はやはり要点を外さない。

 

「だから今日は、鑑定持ちと芽あり候補だけ呼んだんですね」

 

 澪が言うと、真壁は頷いた。

 

「今日は、誰に何を覚えさせるかの話ではありません」

 

 真壁が言った。

 

「どうすれば芽の立つ人間を増やせるか。その入口を広げる話です」

 

 また入口からして大工事だな、と澪は思った。しかもこの人は、入口と言いながらもう門柱くらいは建てる気でいる。普通の入口はそんなに立派ではない。

 

 

 

 

 

 

 同じ長机を囲んでいるのに、話の中身が少し変わると空気の質も変わる。さっきまで「誰を集めたのか」という確認だったものが、今は「何が必要なのか」という整理になっていた。澪は自分の頭の中で、前話で見つけた条件を順に並べ直した。こういう時、自分はわりとすぐ整理できる。できるのだが、整理できたからといって楽になるわけではないのが面倒だった。

 

「まず、鑑定が必要です」

 

 澪は指を一本立てた。

 

「これは前提です。これがないと入口にも立てません」

 

 改めて言葉にすると重い。たぶん、この段階でかなりの人が落ちる。世の中そんなに鑑定持ちで溢れていない。

 

「それで?」

 

 リュシアが先を促す。商人の“続けな”は短い。だが、ちゃんと続きを受ける声だった。

 

「鑑定があっても、ただ見ただけじゃ芽は立ちません」

 

 澪は二本目の指を立てた。

 

「術者の手つき、対象の使う前、使っている最中、使った後。その前後差を比べて、何が変わったかを意味として繋げる必要があります」

 

 セルマがそこで小さく鼻を鳴らした。

 

「錬金でも同じだよ。鍋を眺めてるだけの弟子は、だいたい泡を見てるつもりで何も見てない」

 

 その言い方に、澪は少しだけ笑いそうになった。錬金術師の弟子は大変だな、と思う。いや、商会の子どもたちもたぶん別方向で大変だ。

 

「結局、先に必要なのはスキルじゃなくて観察力なんです」

 

 澪は言った。

 

「雑に見てるだけだと、たぶん何も起きません」

 

 真壁がその言葉を受けた。

 

「見ているつもりの者は多い」

 

 真壁は穏やかに言った。

 

「だが、違いを拾い、前後を結び、意味にする者は少ない」

 

 相変わらず言い方が綺麗ですけど、要するに“ちゃんと見ろ”です、と澪は思った。真壁の台詞はいつも少し磨かれすぎている。内容が正しいだけに反論しづらいのが困る。

 

 エーリヒは腕を組み、机の上の葡萄の葉へ視線を落とした。

 

「農政でも同じです」

 

 彼は言った。

 

「葉色が悪い、で終わる者と、なぜ悪いかを追う者では結果が違う」

 

 それは本当にその通りなのだろう。エーリヒの言い方には、現場で何度も痛い目を見てきた人の実感があった。

 

「商売だってそうさ」

 

 リュシアが肩をすくめた。

 

「値札を見る前に、品の癖も、人の顔色も見てる。そこを飛ばして儲け話だけ追うやつは、だいたい騙される」

 

 商人の教訓はいつも少し怖い。怖いが、妙に納得感がある。

 

「錬金はもっと露骨だよ」

 

 セルマが続けた。

 

「色、匂い、泡、沈み。そこを見てないやつは鍋の前に立つ資格がない」

 

 資格が急に厳しいな、と澪は思った。だが、爆発するよりは厳しくてよいのかもしれない。錬金鍋の失敗は、たぶん商談の失敗より音が大きい。

 

 そこで澪は、ほとんど独り言のつもりで言った。

 

「じゃあ、まず観察を教える授業が要りますね」

 

 言った瞬間、真壁とリュシアが同時にこちらを見た。

 

 嫌な予感しかしなかった。

 

 その二人が同じタイミングでこちらを見る時、だいたい次の仕事がこちらへ寄ってくる。経験則として、もうかなり信頼できる予感である。

 

 

 

 

 

 

「澪君。以前、侯爵領内事業所で、子らに教えていたことがあったそうですな」

 

 真壁が言った。

 

 やっぱり拾った。澪は心の中で天を仰いだ。そこをいま思い出しますか。しかも、そんな柔らかい声で逃げ場を塞ぐんですか。

 

「ありましたけど」

 

 澪は少しだけ嫌そうな顔をした。

 

「いきなりそこ拾います?」

 

「拾えるものは拾います」

 

 本当にそういう人なんですよね、この人、と澪は思った。落ちている素材も、話の切れ端も、将来の面倒も、全部いったん拾う。あとで分類する気はあるのだろうが、こちらからすると拾われた時点で半分仕事である。

 

 観念して、澪は自分が前にやっていたことを説明した。

 

「いきなりスキルの話をしても無理なんです」

 

 澪は言う。

 

「でも、“見る”“比べる”“変化を言葉にする”“予想して確かめる”なら教えられます。要するに、小学生の理科みたいなことです」

 

 セルマが口元を緩める。

 

「ずいぶん可愛い言い方だね」

 

 可愛いでしょうか。こっちはわりと本気です、と澪は思った。だが、言っていることはたしかに理科だった。色水でも、土でも、葉っぱでも、変化を見て比べる。スキルの前に必要なのは、そういう筋肉だ。

 

「場所は孤児院の離れが使えます」

 

 澪は続けた。

 

「あそこ、机と椅子があって学校みたいですし、子どもを集めて話すにはちょうどいいです」

 

 リュシアが頷いた。

 

「たしかに、あそこなら授業っぽいこともやりやすいね」

 

 学校っぽい、という言い方に少しだけ温かいものが混じる。孤児院の離れは、もともとそういう役割も持ち始めていたのだろう。澪はそこへ、自分の知っている“理科みたいなもの”を少し足せる。

 

「ただし」

 

 澪はそこで声を少し強めた。

 

「私の予定だと週1くらいが限界です。それ以上はたぶん大学と店とこっちが潰れます」

 

 ここは大事だった。最初に言っておかないと、真壁は静かな顔で週3くらいまで話を伸ばしかねない。

 

 リュシアが吹き出しそうになって口元を押さえた。セルマは露骨に笑っている。エーリヒだけが真面目に「妥当な線だ」と頷いていた。農政官はたぶん、時間配分の現実を分かってくれる側だ。

 

「十分ですな」

 

 真壁が落ち着いて言った。

 

 十分じゃないです。たぶん勝手に広がります、と澪は思った。しかも真壁の「十分」は、始めるには十分、という意味であって、仕事量が軽いという意味ではまったくない。そこを混同してはいけない。

 

「子どもには澪。では、大人はどうします」

 

 エーリヒが言う。その切り替えの早さは助かる。話が学校のようになったところで、ちゃんと次の現実へ戻してくれる。

 

 そこで澪は、ああ、この話は本当に領内全体へ広がるのだなと理解した。離れの机の上だけで終わる話ではない。畑にも、店にも、工房にも繋がっていく。

 

 つまり、やはり増えるのである。仕事が。

 

 

 

 

 

 

 同じ机を囲んでいるのに、ここから先だけは少し空気が張った。観察を教える、までは方針だ。だが、鑑定を立てるとなると話は一歩深くなる。しかも相手はエーリヒだ。農政官であり、この先の育成側へ回る人間である以上、中途半端では困る。

 

「エーリヒさんには、今ここで立てた方がいいです」

 

 澪は真顔で言った。

 

「育成を回す側になるなら、芽ありのままでは足りません」

 

 エーリヒが少し目を見開いた。普段は落ち着いた人でも、さすがに「今ここで」と言われればそうなる。澪はむしろ、その驚き方に少し安心した。普通だ。普通の反応である。

 

「今、この場でですか」

 

 エーリヒが聞く。

 

「はい」

 

 澪は頷いた。

 

「少なくともLv3までは要ります。私、自分の状態をちゃんと追えるようになったの、鑑定Lv3からでした」

 

 自分で言いながら、あの時のことを思い出す。Lv1やLv2では、見えることは見えても、まだ輪郭が薄かった。Lv3になって初めて、自分の変化まできちんと追えた。なら、育てる側に立つエーリヒにはそこまで必要だ。

 

「芽がある以上、遅らせる理由はありませんな」

 

 真壁が静かに言った。

 

 相変わらず即断が早い。だが、今回は澪も同意だった。珍しいこともあるものだと少し思う。

 

 エーリヒは考え込んだ。短い沈黙だったが、軽くはない。農政官として現場を見てきた自分が、今ここで一段違う目を持つ。その意味を、きちんと量っている顔だった。

 

「農政に役立つなら、受けます」

 

 やがて彼はそう言った。

 

 よし、と澪は思った。ここで躊躇われると、話が全部一段曖昧になる。だがエーリヒは引かなかった。やはり責任を持つ人は違う。

 

 真壁が澪へ視線を送る。やれという顔だった。澪は内心で、結局こうなるんですよね、と小さくため息をついたが、もう拒否する理由もない。

 

 澪は意識を集中し、エーリヒの中に立っていた芽へ手を伸ばした。使うたびに不思議な感覚だと思う。数字を足すようでいて、そうではない。曖昧だった輪郭へ、線を足していく感じに近い。

 

 その瞬間、エーリヒがわずかに目を細めた。

 

「……見え方が、違う」

 

 机の上の葡萄の葉を持ち上げる。次に土を見る。農政官らしい。最初に自分の手を見るのではなく、葉と土を見る。その順番が、妙によかった。

 

「変な感じ、しますよね」

 

 澪は少しだけ笑った。

 

「でも、たぶんすぐ慣れます」

 

 自分の時と同じだ。世界が急に派手になるわけではない。ただ、見慣れていたものに一段だけ整理された線が入る。見えていたはずの違いが、ちゃんと違いとして立つようになる。

 

 真壁は満足げに頷いた。

 

 いま、だいぶ機嫌がいいなと澪は思った。新しい蔵ができ、人材育成の入口が見え、農政官に鑑定Lv3が立ったのだから当然かもしれない。だが、この人が満足げな時ほど、次の段取りもすでに半分できている気がして怖い。

 

 

 

 

 

 

 エーリヒに鑑定が立ったことで、場の空気は少しだけ変わった。方針の相談から、一歩だけ現実へ寄ったのだ。そこで今度は、話が役割から願いへとずれていった。ずれた、というより、やっと人間の中身へ届いたのかもしれない。

 

「大人でもいいなら、わたしは収納を覚えたい」

 

 最初に言ったのはセルマだった。

 

 澪は少しだけ驚いて、彼女を見た。セルマはもう十分できる人だと思っていたからだ。錬金術師としてやっていけているし、鑑定もある。だが、できる人でも欲しい道はあるらしい。

 

「材料も、試作品も、危ないもんもあるからね」

 

 セルマは肩をすくめた。

 

「収納があれば、仕事の幅が変わる」

 

 たしかにその通りだ、と澪は思った。錬金術師の机はいつも混み合っている印象がある。そこへ収納が入れば、世界はだいぶ変わるだろう。たぶん爆発の確率も少し下がる。下がってほしい。

 

「私は農政官です」

 

 エーリヒは迷わなかった。

 

「ならば、緑の手は身につけたい」

 

 その欲しがり方、正しすぎて反則です、と澪は思った。誰も文句が言えない。欲しい理由が完全に職責である。しかも本人に鑑定Lv3が立ったばかりなので、勢いとしても強い。

 

 リュシアは少し考えてから、ふっと笑った。

 

「私は今のままでも商人としてやるさ」

 

 そう言って肩をすくめる。

 

「特にこれ、ってのはないね」

 

 そこで終わるのかと思ったら、リュシアは少しだけ目を細めた。

 

「でも、トトたちには道を広げてやりたい」

 

 澪はその言葉を聞いて、ああ、と思った。リュシアはやはりそういう人だ。自分の利より先に、手元の子どもたちの先を見る時がある。

 

「商人になるにしろ、ならないにしろ、見えるものが増えるなら悪くない」

 

 その言い方が好きだと澪は思った。押しつけではない。選択肢を広げる、という言い方だ。大人の都合で道を決めるのではなく、見える範囲を広げて本人に選ばせる。その方が、ずっとリュシアらしい。

 

 真壁は一つずつ受けていった。

 

「結構」

 

 軽い相槌ではない。願いとして受け取っている声だった。澪はそれを聞きながら、話の重みがようやく腑に落ちてきた。これはスキルの遊びではない。大人の仕事の幅であり、子どもの未来の枝分かれだ。

 

 だからこそ、雑にはできない。

 

「ならば、それぞれの現場で観察眼を育てる場を作りましょう」

 

 真壁が言った。

 

 また静かな顔で話を大きくしたな、と澪は思った。けれど今度ばかりは、その大きさが無理には聞こえなかった。もう、ここに座っている全員の中に、同じ方向の火がついていたからだ。

 

 

 

 

 

 

 話が地に足をつけたのは、それぞれの役割を口にし始めてからだった。空論は立派に見えても、誰がどこで何をするかまで落ちないと、だいたい風と一緒に飛んでいく。今日はその点、飛びようがなかった。机の上にいる顔ぶれが、みんな飛ばさない人たちだったからだ。

 

「私は農政からやります」

 

 エーリヒが言う。

 

「苗木、若木、病葉、土の湿り、畝ごとの差を見る場を作る。鑑定芽ありが出たら、すぐ連絡します」

 

 さっそく仕事の言い方だなと澪は思った。しかも鑑定Lv3が立ったばかりなのに、もう“見る場を作る”側へ回っている。速い。農政官は仕事の組み立てが速い。

 

「私は店だね」

 

 リュシアが続けた。

 

「トトたちに、傷、重さ、古さ、人の目線、言葉の間を見せる。芽が出たら知らせるよ」

 

 人の目線と言葉の間、のところで、澪は少しだけ背筋が伸びた。商売はやはり怖い。怖いが、見抜く目としてはたぶんとても強い。

 

「わたしは弟子たちだ」

 

 セルマが言った。

 

「色、匂い、泡、沈殿、熱の入り方。そこを見せる。芽が出たら連絡する」

 

 錬金術師の授業は、理科というよりすでに化学実験寄りだなと澪は思った。しかも失敗するとたぶんもっと大きな音がする。

 

「私は週1で孤児院の離れに行きます」

 

 澪も言った。

 

「子どもたちに、見る、比べる、変化を言葉にする、予想して確かめる、結果を話す、っていう授業をします。芽が出た子がいたら……できる範囲で、私も見ます」

 

 ここで“できる範囲で”を入れたのは大事だった。入れないと真壁が無限に拡大解釈する。

 

 だが、その努力はたぶん半分しか通じていなかった。

 

「私は全体を見ます」

 

 真壁が言う。

 

「鑑定持ち、芽あり、観察に向く者を拾う。芽が出たら、私か澪君がスキルポイントを割り振って有効化する」

 

 結局そこまで入るのか、と澪は思った。しかも自然な顔で言った。決まっていたかのような口ぶりである。いや、たぶんこの人の中ではだいぶ前から決まっていた。

 

「なんで最終的に私も実行役に入ってるんですか」

 

 澪は聞かずにいられなかった。

 

「発見者ですからな」

 

 真壁が即答する。

 

 発見者にだいたい実務が返ってくるの、納得いきません、と澪は思った。科学史の裏側が少し見えた気がする。たぶん何か見つけた人は、だいたい次の面倒も引き受けていたのだ。

 

 リュシアが横で笑った。セルマは「いつものことだね」と顔に書いてある。エーリヒだけが少し真面目に頷いてしまった。そこは頷かないでほしかった。こちらの不満が急に正式な役職みたいになる。

 

 それでも、誰も反対しなかった。

 

 成果はまだない。新しいスキルを得た者も、まだエーリヒの鑑定くらいだ。だが、道筋は通った。偶然や天才だけに頼らない入口が、ようやく形になったのだ。

 

 

 

 

 

 

 打ち合わせが終わる頃には、葡萄棚の上の光が少し傾いていた。葉の影が長くなり、石蔵の壁にもやわらかな金色が差している。さっきまで机を囲んでいた面々は少しずつ散り、外の風がまた葡萄の葉を鳴らしていた。

 

「澪君。芽は偶然だけでは育ちません」

 

 真壁が、並んで歩きながら言った。

 

 その言い方は落ち着いていた。落ち着きすぎていて、こちらの疲れが少しだけ浮く。

 

「分かります」

 

 澪は答えた。

 

「分かりますけど、毎回その先に仕事が山ほどあるんですよ」

 

 言ってから、自分でも少しだけ情けなくなった。だが本音なのだから仕方がない。嬉しさと疲れは両立する。むしろ最近は、だいたいセットで来る。

 

「結構」

 

 真壁が言う。

 

 よくないです、と澪は思った。本当によくない。その一言で済む量ではない。孤児院の離れ、農政の畑、商会の店先、セルマの作業場。全部が“見る力を育てる場”になり始めている。良いことだ。とても良いことだ。良いことなのに、澪の予定表だけは少し青ざめる気配がある。

 

 外へ目を向けると、葡萄棚を風が抜けていった。葉が擦れる音は細かく、けれどどこか気持ちがいい。まだ人は足りない。芽も少ない。けれど、育て方は見えた。

 

 澪はふと、自分の中に生えた「緑の手:芽あり」を思い出した。あれは自分だけの偶然ではなく、誰かにも起こせるかもしれない変化になったのだと思う。

 

 そのことは、少しだけ嬉しかった。

 

 同時に、少しだけ遠い目にもなった。

 

 なぜなら、たぶんまた仕事が増えるからである。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。