夕方の葡萄酒蔵は、まだ新しい石の匂いと、移されたばかりの樽の匂いが半分ずつ混じっていた。外では葡萄棚を渡る風が葉を鳴らし、その音が開け放した窓から細く入り込んでくる。真壁はその音を聞きながら、長机の向こうに並んだ顔ぶれを見渡した。リュシア、セルマ、エーリヒ、そして澪。わざわざ呼ばれた側は、誰もが「普通の相談ではない」と分かる面子だった。
「澪君。人材を増やそう」
真壁が言った。
また始まった、と澪は思った。開口一番で主語が大きい。人材を増やそう、で済むなら世の中たぶんもう少し楽である。しかもこの人が言う「増やそう」は、だいたい増やす側の苦労を一拍遅れでこちらへ流してくる。
「言ってることは分かります」
澪はそう答えてから、ひとつ息を挟んだ。
「分かりますけど、その入口が重すぎますよね」
言った瞬間、セルマが腕を組んでうんうんと頷いた。錬金術師はたぶん、真壁の「大きい言い方」に何度か巻き込まれている。顔つきに慣れがあった。
「わたし、呼ばれた時点で嫌な予感しかしなかったんだけどね」
セルマが言った。
「また何か増やす気だろう?」
だいたい合っています、と澪は思った。しかも増えるのは人材だけではない。仕事もだ。そこまで込みで真壁案件である。
エーリヒは少しだけ眉を上げていた。農政官らしい落ち着いた顔だが、今の話が自分に関わるかどうかを測っている目だった。真壁はそのエーリヒを見たまま、静かに続けた。
「だからこそ、今日は“見る者”を集めました」
リュシアが片眉を上げる。セルマはさらに嫌そうな顔をした。澪はそこで、ああ、と理解した。ここにいるのは、たまたま都合のいい顔ぶれではない。鑑定持ち、あるいはそこに近い者だ。
真壁がエーリヒへ視線を向ける。
「エーリヒ殿。少々、失礼」
エーリヒが頷くと、真壁は短く鑑定をかけた。澪も続ける。農政官の肩越しに見える表示は、予想通りだった。
鑑定:芽あり。
「……言われてみれば、葉色や湿りの違いを見る癖はあります」
エーリヒが低く言う。
「それが、そこへ繋がるのですか」
いい質問だ、と澪は思った。たぶん今この場で一番まともに知りたいことを、ちゃんと短く聞いている。農政官はやはり要点を外さない。
「だから今日は、鑑定持ちと芽あり候補だけ呼んだんですね」
澪が言うと、真壁は頷いた。
「今日は、誰に何を覚えさせるかの話ではありません」
真壁が言った。
「どうすれば芽の立つ人間を増やせるか。その入口を広げる話です」
また入口からして大工事だな、と澪は思った。しかもこの人は、入口と言いながらもう門柱くらいは建てる気でいる。普通の入口はそんなに立派ではない。
同じ長机を囲んでいるのに、話の中身が少し変わると空気の質も変わる。さっきまで「誰を集めたのか」という確認だったものが、今は「何が必要なのか」という整理になっていた。澪は自分の頭の中で、前話で見つけた条件を順に並べ直した。こういう時、自分はわりとすぐ整理できる。できるのだが、整理できたからといって楽になるわけではないのが面倒だった。
「まず、鑑定が必要です」
澪は指を一本立てた。
「これは前提です。これがないと入口にも立てません」
改めて言葉にすると重い。たぶん、この段階でかなりの人が落ちる。世の中そんなに鑑定持ちで溢れていない。
「それで?」
リュシアが先を促す。商人の“続けな”は短い。だが、ちゃんと続きを受ける声だった。
「鑑定があっても、ただ見ただけじゃ芽は立ちません」
澪は二本目の指を立てた。
「術者の手つき、対象の使う前、使っている最中、使った後。その前後差を比べて、何が変わったかを意味として繋げる必要があります」
セルマがそこで小さく鼻を鳴らした。
「錬金でも同じだよ。鍋を眺めてるだけの弟子は、だいたい泡を見てるつもりで何も見てない」
その言い方に、澪は少しだけ笑いそうになった。錬金術師の弟子は大変だな、と思う。いや、商会の子どもたちもたぶん別方向で大変だ。
「結局、先に必要なのはスキルじゃなくて観察力なんです」
澪は言った。
「雑に見てるだけだと、たぶん何も起きません」
真壁がその言葉を受けた。
「見ているつもりの者は多い」
真壁は穏やかに言った。
「だが、違いを拾い、前後を結び、意味にする者は少ない」
相変わらず言い方が綺麗ですけど、要するに“ちゃんと見ろ”です、と澪は思った。真壁の台詞はいつも少し磨かれすぎている。内容が正しいだけに反論しづらいのが困る。
エーリヒは腕を組み、机の上の葡萄の葉へ視線を落とした。
「農政でも同じです」
彼は言った。
「葉色が悪い、で終わる者と、なぜ悪いかを追う者では結果が違う」
それは本当にその通りなのだろう。エーリヒの言い方には、現場で何度も痛い目を見てきた人の実感があった。
「商売だってそうさ」
リュシアが肩をすくめた。
「値札を見る前に、品の癖も、人の顔色も見てる。そこを飛ばして儲け話だけ追うやつは、だいたい騙される」
商人の教訓はいつも少し怖い。怖いが、妙に納得感がある。
「錬金はもっと露骨だよ」
セルマが続けた。
「色、匂い、泡、沈み。そこを見てないやつは鍋の前に立つ資格がない」
資格が急に厳しいな、と澪は思った。だが、爆発するよりは厳しくてよいのかもしれない。錬金鍋の失敗は、たぶん商談の失敗より音が大きい。
そこで澪は、ほとんど独り言のつもりで言った。
「じゃあ、まず観察を教える授業が要りますね」
言った瞬間、真壁とリュシアが同時にこちらを見た。
嫌な予感しかしなかった。
その二人が同じタイミングでこちらを見る時、だいたい次の仕事がこちらへ寄ってくる。経験則として、もうかなり信頼できる予感である。
「澪君。以前、侯爵領内事業所で、子らに教えていたことがあったそうですな」
真壁が言った。
やっぱり拾った。澪は心の中で天を仰いだ。そこをいま思い出しますか。しかも、そんな柔らかい声で逃げ場を塞ぐんですか。
「ありましたけど」
澪は少しだけ嫌そうな顔をした。
「いきなりそこ拾います?」
「拾えるものは拾います」
本当にそういう人なんですよね、この人、と澪は思った。落ちている素材も、話の切れ端も、将来の面倒も、全部いったん拾う。あとで分類する気はあるのだろうが、こちらからすると拾われた時点で半分仕事である。
観念して、澪は自分が前にやっていたことを説明した。
「いきなりスキルの話をしても無理なんです」
澪は言う。
「でも、“見る”“比べる”“変化を言葉にする”“予想して確かめる”なら教えられます。要するに、小学生の理科みたいなことです」
セルマが口元を緩める。
「ずいぶん可愛い言い方だね」
可愛いでしょうか。こっちはわりと本気です、と澪は思った。だが、言っていることはたしかに理科だった。色水でも、土でも、葉っぱでも、変化を見て比べる。スキルの前に必要なのは、そういう筋肉だ。
「場所は孤児院の離れが使えます」
澪は続けた。
「あそこ、机と椅子があって学校みたいですし、子どもを集めて話すにはちょうどいいです」
リュシアが頷いた。
「たしかに、あそこなら授業っぽいこともやりやすいね」
学校っぽい、という言い方に少しだけ温かいものが混じる。孤児院の離れは、もともとそういう役割も持ち始めていたのだろう。澪はそこへ、自分の知っている“理科みたいなもの”を少し足せる。
「ただし」
澪はそこで声を少し強めた。
「私の予定だと週1くらいが限界です。それ以上はたぶん大学と店とこっちが潰れます」
ここは大事だった。最初に言っておかないと、真壁は静かな顔で週3くらいまで話を伸ばしかねない。
リュシアが吹き出しそうになって口元を押さえた。セルマは露骨に笑っている。エーリヒだけが真面目に「妥当な線だ」と頷いていた。農政官はたぶん、時間配分の現実を分かってくれる側だ。
「十分ですな」
真壁が落ち着いて言った。
十分じゃないです。たぶん勝手に広がります、と澪は思った。しかも真壁の「十分」は、始めるには十分、という意味であって、仕事量が軽いという意味ではまったくない。そこを混同してはいけない。
「子どもには澪。では、大人はどうします」
エーリヒが言う。その切り替えの早さは助かる。話が学校のようになったところで、ちゃんと次の現実へ戻してくれる。
そこで澪は、ああ、この話は本当に領内全体へ広がるのだなと理解した。離れの机の上だけで終わる話ではない。畑にも、店にも、工房にも繋がっていく。
つまり、やはり増えるのである。仕事が。
同じ机を囲んでいるのに、ここから先だけは少し空気が張った。観察を教える、までは方針だ。だが、鑑定を立てるとなると話は一歩深くなる。しかも相手はエーリヒだ。農政官であり、この先の育成側へ回る人間である以上、中途半端では困る。
「エーリヒさんには、今ここで立てた方がいいです」
澪は真顔で言った。
「育成を回す側になるなら、芽ありのままでは足りません」
エーリヒが少し目を見開いた。普段は落ち着いた人でも、さすがに「今ここで」と言われればそうなる。澪はむしろ、その驚き方に少し安心した。普通だ。普通の反応である。
「今、この場でですか」
エーリヒが聞く。
「はい」
澪は頷いた。
「少なくともLv3までは要ります。私、自分の状態をちゃんと追えるようになったの、鑑定Lv3からでした」
自分で言いながら、あの時のことを思い出す。Lv1やLv2では、見えることは見えても、まだ輪郭が薄かった。Lv3になって初めて、自分の変化まできちんと追えた。なら、育てる側に立つエーリヒにはそこまで必要だ。
「芽がある以上、遅らせる理由はありませんな」
真壁が静かに言った。
相変わらず即断が早い。だが、今回は澪も同意だった。珍しいこともあるものだと少し思う。
エーリヒは考え込んだ。短い沈黙だったが、軽くはない。農政官として現場を見てきた自分が、今ここで一段違う目を持つ。その意味を、きちんと量っている顔だった。
「農政に役立つなら、受けます」
やがて彼はそう言った。
よし、と澪は思った。ここで躊躇われると、話が全部一段曖昧になる。だがエーリヒは引かなかった。やはり責任を持つ人は違う。
真壁が澪へ視線を送る。やれという顔だった。澪は内心で、結局こうなるんですよね、と小さくため息をついたが、もう拒否する理由もない。
澪は意識を集中し、エーリヒの中に立っていた芽へ手を伸ばした。使うたびに不思議な感覚だと思う。数字を足すようでいて、そうではない。曖昧だった輪郭へ、線を足していく感じに近い。
その瞬間、エーリヒがわずかに目を細めた。
「……見え方が、違う」
机の上の葡萄の葉を持ち上げる。次に土を見る。農政官らしい。最初に自分の手を見るのではなく、葉と土を見る。その順番が、妙によかった。
「変な感じ、しますよね」
澪は少しだけ笑った。
「でも、たぶんすぐ慣れます」
自分の時と同じだ。世界が急に派手になるわけではない。ただ、見慣れていたものに一段だけ整理された線が入る。見えていたはずの違いが、ちゃんと違いとして立つようになる。
真壁は満足げに頷いた。
いま、だいぶ機嫌がいいなと澪は思った。新しい蔵ができ、人材育成の入口が見え、農政官に鑑定Lv3が立ったのだから当然かもしれない。だが、この人が満足げな時ほど、次の段取りもすでに半分できている気がして怖い。
エーリヒに鑑定が立ったことで、場の空気は少しだけ変わった。方針の相談から、一歩だけ現実へ寄ったのだ。そこで今度は、話が役割から願いへとずれていった。ずれた、というより、やっと人間の中身へ届いたのかもしれない。
「大人でもいいなら、わたしは収納を覚えたい」
最初に言ったのはセルマだった。
澪は少しだけ驚いて、彼女を見た。セルマはもう十分できる人だと思っていたからだ。錬金術師としてやっていけているし、鑑定もある。だが、できる人でも欲しい道はあるらしい。
「材料も、試作品も、危ないもんもあるからね」
セルマは肩をすくめた。
「収納があれば、仕事の幅が変わる」
たしかにその通りだ、と澪は思った。錬金術師の机はいつも混み合っている印象がある。そこへ収納が入れば、世界はだいぶ変わるだろう。たぶん爆発の確率も少し下がる。下がってほしい。
「私は農政官です」
エーリヒは迷わなかった。
「ならば、緑の手は身につけたい」
その欲しがり方、正しすぎて反則です、と澪は思った。誰も文句が言えない。欲しい理由が完全に職責である。しかも本人に鑑定Lv3が立ったばかりなので、勢いとしても強い。
リュシアは少し考えてから、ふっと笑った。
「私は今のままでも商人としてやるさ」
そう言って肩をすくめる。
「特にこれ、ってのはないね」
そこで終わるのかと思ったら、リュシアは少しだけ目を細めた。
「でも、トトたちには道を広げてやりたい」
澪はその言葉を聞いて、ああ、と思った。リュシアはやはりそういう人だ。自分の利より先に、手元の子どもたちの先を見る時がある。
「商人になるにしろ、ならないにしろ、見えるものが増えるなら悪くない」
その言い方が好きだと澪は思った。押しつけではない。選択肢を広げる、という言い方だ。大人の都合で道を決めるのではなく、見える範囲を広げて本人に選ばせる。その方が、ずっとリュシアらしい。
真壁は一つずつ受けていった。
「結構」
軽い相槌ではない。願いとして受け取っている声だった。澪はそれを聞きながら、話の重みがようやく腑に落ちてきた。これはスキルの遊びではない。大人の仕事の幅であり、子どもの未来の枝分かれだ。
だからこそ、雑にはできない。
「ならば、それぞれの現場で観察眼を育てる場を作りましょう」
真壁が言った。
また静かな顔で話を大きくしたな、と澪は思った。けれど今度ばかりは、その大きさが無理には聞こえなかった。もう、ここに座っている全員の中に、同じ方向の火がついていたからだ。
話が地に足をつけたのは、それぞれの役割を口にし始めてからだった。空論は立派に見えても、誰がどこで何をするかまで落ちないと、だいたい風と一緒に飛んでいく。今日はその点、飛びようがなかった。机の上にいる顔ぶれが、みんな飛ばさない人たちだったからだ。
「私は農政からやります」
エーリヒが言う。
「苗木、若木、病葉、土の湿り、畝ごとの差を見る場を作る。鑑定芽ありが出たら、すぐ連絡します」
さっそく仕事の言い方だなと澪は思った。しかも鑑定Lv3が立ったばかりなのに、もう“見る場を作る”側へ回っている。速い。農政官は仕事の組み立てが速い。
「私は店だね」
リュシアが続けた。
「トトたちに、傷、重さ、古さ、人の目線、言葉の間を見せる。芽が出たら知らせるよ」
人の目線と言葉の間、のところで、澪は少しだけ背筋が伸びた。商売はやはり怖い。怖いが、見抜く目としてはたぶんとても強い。
「わたしは弟子たちだ」
セルマが言った。
「色、匂い、泡、沈殿、熱の入り方。そこを見せる。芽が出たら連絡する」
錬金術師の授業は、理科というよりすでに化学実験寄りだなと澪は思った。しかも失敗するとたぶんもっと大きな音がする。
「私は週1で孤児院の離れに行きます」
澪も言った。
「子どもたちに、見る、比べる、変化を言葉にする、予想して確かめる、結果を話す、っていう授業をします。芽が出た子がいたら……できる範囲で、私も見ます」
ここで“できる範囲で”を入れたのは大事だった。入れないと真壁が無限に拡大解釈する。
だが、その努力はたぶん半分しか通じていなかった。
「私は全体を見ます」
真壁が言う。
「鑑定持ち、芽あり、観察に向く者を拾う。芽が出たら、私か澪君がスキルポイントを割り振って有効化する」
結局そこまで入るのか、と澪は思った。しかも自然な顔で言った。決まっていたかのような口ぶりである。いや、たぶんこの人の中ではだいぶ前から決まっていた。
「なんで最終的に私も実行役に入ってるんですか」
澪は聞かずにいられなかった。
「発見者ですからな」
真壁が即答する。
発見者にだいたい実務が返ってくるの、納得いきません、と澪は思った。科学史の裏側が少し見えた気がする。たぶん何か見つけた人は、だいたい次の面倒も引き受けていたのだ。
リュシアが横で笑った。セルマは「いつものことだね」と顔に書いてある。エーリヒだけが少し真面目に頷いてしまった。そこは頷かないでほしかった。こちらの不満が急に正式な役職みたいになる。
それでも、誰も反対しなかった。
成果はまだない。新しいスキルを得た者も、まだエーリヒの鑑定くらいだ。だが、道筋は通った。偶然や天才だけに頼らない入口が、ようやく形になったのだ。
打ち合わせが終わる頃には、葡萄棚の上の光が少し傾いていた。葉の影が長くなり、石蔵の壁にもやわらかな金色が差している。さっきまで机を囲んでいた面々は少しずつ散り、外の風がまた葡萄の葉を鳴らしていた。
「澪君。芽は偶然だけでは育ちません」
真壁が、並んで歩きながら言った。
その言い方は落ち着いていた。落ち着きすぎていて、こちらの疲れが少しだけ浮く。
「分かります」
澪は答えた。
「分かりますけど、毎回その先に仕事が山ほどあるんですよ」
言ってから、自分でも少しだけ情けなくなった。だが本音なのだから仕方がない。嬉しさと疲れは両立する。むしろ最近は、だいたいセットで来る。
「結構」
真壁が言う。
よくないです、と澪は思った。本当によくない。その一言で済む量ではない。孤児院の離れ、農政の畑、商会の店先、セルマの作業場。全部が“見る力を育てる場”になり始めている。良いことだ。とても良いことだ。良いことなのに、澪の予定表だけは少し青ざめる気配がある。
外へ目を向けると、葡萄棚を風が抜けていった。葉が擦れる音は細かく、けれどどこか気持ちがいい。まだ人は足りない。芽も少ない。けれど、育て方は見えた。
澪はふと、自分の中に生えた「緑の手:芽あり」を思い出した。あれは自分だけの偶然ではなく、誰かにも起こせるかもしれない変化になったのだと思う。
そのことは、少しだけ嬉しかった。
同時に、少しだけ遠い目にもなった。
なぜなら、たぶんまた仕事が増えるからである。