押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第165話 空飛ぶクルマ

 

 葡萄酒蔵の外では、夕方の風が新しい棚を抜け、まだ若い葉を擦り合わせていた。石垣の影は長く、圧搾場の屋根の端には赤みの薄い光が残っている。ワイナリーらしい静かな景色だ、と澪は少しだけ気を緩めていた。こういう、風と葉と木と石だけが働いている時間帯は好きだ。誰も急に何かを作り始めないからである。

 

 その安心は、真壁の一言で終わった。

 

「澪君。灰駿は伯爵家へ贈る運びとなりました」

 

 本当に贈るんですね、と澪は思った。あの食事会の場で半分くらい冗談だと信じたかった話が、きっちり現実の段取りへ育っている。侯爵家は、ときどき上品な顔で恐ろしい速度の実務化をする。

 

「ゆえに侯爵家へ赴き、引き取りの手伝いもすることになります」

 

「そこまでは分かります」

 

 澪は頷いた。そこまでは、である。その先が怪しい。真壁が情報を二行で済ませた時は、その後ろに十行分の面倒が控えていることが多い。

 

 案の定、真壁は間を置かず続けた。

 

「複数人移動できる高速の移動手段が欲しい」

 

 来た、と澪は思った。報告の顔をして始まり、途中から機材の話へ着地する。真壁案件の典型である。

 

「言いたいことは分かります」

 

 澪は正直に言った。

 

「でも、その言い方をされると、絶対にろくでもない方向へ行きますよね」

 

 経験則です、と澪は心の中で付け足した。かなり当たる経験則である。しかも当たってほしくない方向で、だいたい当たる。

 

 真壁は気を悪くした様子もなく、むしろ少し満足げだった。

 

「ハイエースは人も荷も乗りますが、道を行く。ワッパは道を選びませんが、2人までです」

 

 それはそうだ、と澪は思う。灰駿の贈呈となれば、使者役、付き添い、場合によっては護衛、荷もある。ワッパは速いが二人、ハイエースは積めるが道に縛られる。理屈だけなら、たしかに今ある足は少し足りない。

 

「つまり今足りないのは、“道を選ばず4人くらい乗れて、しかも速い足”です」

 

 澪がそう整理すると、真壁は静かに頷いた。

 

「結構。話が早い」

 

 褒められても嬉しくないです、と澪は思った。いま設計図の入口に立たされた気しかしません。真壁の“話が早い”は、話がまとまったという意味ではない。次の暴走へ滑らかに接続できた、という意味である。

 

「4人乗りが欲しい」

 

 真壁は落ち着いて言った。

 

 欲しい、で済む規模ではない気がするのですが、と澪は思った。だがこの人は本気で欲しい時ほど声が静かになる。つまり、すでにだいぶ欲しいのだ。叶える算段も半分くらい立っている顔だった。

 

 

 

 

 

 

 話はそのまま石蔵の中へ持ち込まれた。真壁は作業机の上へ紙を広げ、炭筆で簡単な線を引き始める。そうなった時点で、もう嫌な予感は確信に変わる。机と紙と真壁が揃うと、だいたい何かの形が生まれるからだ。

 

「ハイエースは道が必要です」

 

 澪は改めて言った。

 

「ワッパは道を無視できますけど、2人です。つまり今足りないのは、“道を選ばず4人乗れる足”です」

 

 自分で言っていて嫌な予感しかしません、と澪は思う。条件を整理すると真壁さんが喜ぶのだ。敵に地図を渡している気分である。

 

「その通り」

 

 真壁は炭筆を動かしながら言った。

 

「ワッパを大型化する手もありますが、あれは気楽さが利点です」

 

「気楽さって言い方で済ませていい乗り物じゃないと思うんですが」

 

 澪はすぐ返した。落ちたら終わる乗り物に対して、気楽という評価軸はどうなんでしょう。そこだけ妙に散歩用みたいな扱いをするのはやめてほしい。

 

 真壁は気にせず、紙の上に長方形の車体らしきものを置き、その四隅へ小さな丸を記した。ワッパのように細くない。ハイエースほど四角くもない。低い車体の四隅だけが少し厚く描かれている。

 

「となれば別系統ですな」

 

 真壁は言った。

 

「欲しいのは、空陸兼用の4座実用機です」

 

「言い方だけは上品ですけど、要求性能がだいぶ重いです」

 

 澪は紙の上の輪郭を見ながら言った。しかも“実用機”って、自分で言い始めました。趣味と実務の境目が危ういです。いや、もう半分越えている気もします。

 

 真壁の炭筆は止まらない。低い鼻先、広めの窓、二列二席。四隅の外装にだけ厚みを残し、屋根と側面の継ぎ目には何かを畳み込む余白を取る。まだ粗い線なのに、もう普通の車ではないことだけは分かる。

 

 ここで澪は、少しだけ現代側の知識を出した。止める材料のつもりだった。少なくとも、ホバーカーのような完全SFではないと線を引いておきたかった。

 

「ちなみに、完全なホバーカーみたいなのはまだSFです」

 

 澪は言う。

 

「でも、空飛ぶクルマっていうか、ドローン寄りのeVTOLなら、実際に飛んでるものはあります」

 

 言ってしまいました、と澪は思った。説得材料のつもりだったんですけど、たぶん燃料です。真壁の目が細くなった時点で分かる。

 

「ほう。ならば、読む価値がありますな」

 

 はい、やっぱり燃料でした、と澪は思った。止める方向ではなく、“現実の範囲で一番近いものを見せる”流れになってしまった。こうなるともう、夢物語を否定したところで意味はない。現実の技術が真壁の遊び場になり始めるだけである。

 

 紙の上では、四隅の小さな丸が、もう少し大きなものへ変わりつつあった。そこから何かが生える。たぶん回る。しかもかなり滑らかに。

 

 澪はその図を見ながら、まだ形にもなっていないのに、もう“普通の車じゃないもの”の輪郭だけは見えてしまっていることに気づいた。嫌な予感というのは、図面の上で育つとだいぶ逃げにくい。

 

 

 

 

 

 

 現代側の部屋に戻ると、真壁の目の色が少し変わった。資料、記事、画像、動画。ノートパソコンの画面に次々と映る機体や実証映像を見ながら、真壁は珍しく隠そうともせず楽しそうだった。技術者の顔である。非常に良くない。

 

「なるほど。eVTOL」

 

 真壁が小さく言った。

 

「垂直離着陸。しかも機構の芯は、巨大化したドローンに近い。実に結構」

 

 出ました、危ない“結構”です、と澪は思った。設計が始まる音がしました。普通の結構と違って、部材調達まで進む気配があります。

 

「なんか今、すごく嫌な結構が出ました」

 

 澪が言うと、真壁は画面を見たまま頷いた。

 

「ホバーカーのように浮いて滑るのではなく、現代の実在解は回転翼ですな」

 

 そこだけは妙に冷静で正確だった。澪は少しだけ悔しく思う。真壁は興が乗っても、技術の線引きだけは雑にならない。

 

「ホバーカーみたいに浮いて滑るんじゃなくて、今あるのはむしろ“飛ぶドローンに人が乗る”寄りです」

 

 澪は補足する。

 

「静かで、電動で、その場で上がれる。そういう方向」

 

 これ以上詳しく言うと真壁さんがさらに喜ぶので、この辺で止めたいです、と澪は思った。だが真壁はそこで充分だったらしい。

 

「通常時は車体形状。飛行時は展開して回転翼。よろしい。実に分かりやすい」

 

「分かりやすいで済ませるには、だいぶ飛びますよね」

 

 澪は顔をしかめた。しかも“展開”を当然みたいに入れました。変形前提なのが非常に嫌です。

 

 真壁はさらに資料を見て、ほとんど独り言のように続ける。

 

「去年も大阪の空を飛んでいた、と。ならば概念としては十分。フレームは総チタンでよいでしょう。軽く、強く、美しい」

 

 最後の“美しい”が危険なんです、と澪は思った。性能だけで止まらなくなります。真壁が“美しい”を入れた瞬間、その機械は実用品から作品に片足を突っ込む。しかも今回は空を飛ぶ作品だ。迷惑である。

 

 紙の上には、新しい輪郭が育っていった。四隅に格納部。展開アーム。低い車体。4人乗り。地上では車。飛ぶ時は大きなドローン。現代のeVTOLを見ているはずなのに、出てくるのはだいぶ真壁味の強い何かだった。

 

 澪は、ああ、これはもう止まらないやつだ、と理解した。ここで止めるには、物理法則くらい強い制約が要る。だが異世界と真壁の前では、その物理法則も時々押し負ける。

 

「一人では少々手が足りませんな」

 

 真壁がふっと言う。

 

 来ました、と澪は思った。誰か巻き込む流れです。しかも候補はたぶん一人しかいません。合理的で、図面が読めて、真壁の無茶に付き合える。つまりヴァルトである。だいぶ逃げられない人選だった。

 

 

 

 

 

 

 予想は外れなかった。秘密基地の作業場へ連れてこられたヴァルトは、机の上に広げられた図面と、横に並べられた現代側の資料とを見比べて、しばらく本当に黙っていた。

 

 その沈黙はとても正常だった。

 

 澪はむしろ安心した。よかった、自分だけではない。これを見せられて最初に黙るのは、たぶん健全な人間の反応である。

 

「……空を飛ぶ車、ですか」

 

 ヴァルトがようやく言った。

 

 正常な反応です、と澪は思った。むしろ私もそう言いたいです。もっと言えば、その一言だけで今日の会話を終わらせたいです。

 

 だが真壁は、落ち着き払って言った。

 

「2026年では、すでに飛んでおります」

 

 言い方が危険です。すごく危険です、と澪は思った。真壁の質の悪いところは、嘘を大きくつかないことだ。だからこそ、聞いた方が自分の頭で都合よく補完してしまう。

 

 ヴァルトは少し驚き、少し感心したように資料へ目を戻した。

 

「もうそこまで進んでいたのですか」

 

 進んでいた、の定義がだいぶ揺れています、と澪は思った。そこを今つついた方がいいのか、もう遅いのか、一瞬迷う。だが真壁の横で、いま「いや、普通にあるわけではなくてですね」と細かく訂正し始めたら、たぶん負ける。何に負けるのかは分からないが、負ける気がした。

 

「去年も大阪の空を飛んでいたそうです」

 

 真壁はさらに続けた。

 

「時間旅行こそまだですが、空は飛べます」

 

 微妙に嘘は言ってないのが腹立たしいです、と澪は思った。全面的に真実でもありませんけど。情報の置き方が絶妙にずるい。空飛ぶ車が“普通にある”とは言っていないのに、ヴァルトの頭の中ではそこへ寄っていく。

 

 ヴァルトは図面の上へ指を置いた。車体の四隅に描かれた展開アームと、その先の回転翼ユニットをじっと見る。

 

「2026年なら、そういう時代かもしれませんね」

 

 そういう時代なんでしょうか、と澪は思った。いや、一部そういう映像はあった。でも“時代”と言い切るにはまだ少し早い気がする。けれど、ここで真壁の説明を訂正しても、たぶんもうヴァルトの中では“未来技術”として整理されてしまっている。

 

「では、それを真壁様が異世界仕様に組み直すわけですね」

 

 そこも理解が早いんですよね、この人、と澪は思った。手伝う側として優秀なのがまた困る。ヴァルトは合理的に状況を飲み込んでしまう。だから真壁にとって非常に使いやすい。

 

 真壁は満足げに頷いた。

 

「部材整理、図面読みの補助、境界魔術的な安全確認、作業補助。一人では3日、二人なら2日半で済むかもしれません」

 

 その短縮の仕方、たぶん普通の工学ではありません、と澪は思った。人手が増えると半日縮む理屈が分からない。たぶん異世界側の収納と加工と真壁の気合いが混ざっている。つまり、再現性のない短縮だ。

 

「では、展開アーム部から進めましょう」

 

 ヴァルトはもう働く気になっていた。会話が早い。すでに作る人の顔です。染まるのも早い。便利ですが危ないです。

 

「では、しばらく秘密基地に籠もります」

 

 真壁が言った。

 

 でしょうね、と澪は思った。もう目が完全に技術者の目です。止まりません。しかも今回は補助役まで確保しました。だいぶ強いです。

 

 

 

 

 

 

 真壁は最後の確認のように澪を振り返った。ヴァルトは横で資料を抱え、すでに働く人の顔になっている。少し楽しそうですらある。たぶん頭の中では、2026年の未来技術に触れている気分なのだろう。完全に間違ってはいない。完全に正しくもない。そのあたりが今回のいちばん厄介なところだった。

 

「澪君。しばらくこちらにおります」

 

「何を作る気か、聞いてもいいですか」

 

 澪は念のため聞いた。もう分かっているが、言わせることには意味がある。たまに声に出させると、自分でもおかしさに気づく人がいるからだ。真壁はたぶん気づかない。

 

「4座空陸機です」

 

 やっぱり正式名称がつきました、と澪は思った。嫌な予感しかしません。名前がついた時点で、もう半分完成しているような顔をするのはやめてほしい。

 

 ヴァルトはその横で図面を抱えたまま、少しだけ誇らしげだった。完全に“未来の空飛ぶ車づくりを手伝う人”の顔である。誰の未来なんですか、それは、と澪は思う。たぶん真壁さんの未来です。かなり強めの。

 

「どれくらい籠もるんですか」

 

「3日ほどで形にはなるでしょう」

 

 その“形になる”が一番信用できません、と澪は思った。真壁の“形になる”は、だいたいこちらの想像より二段階くらい先まで行っている。しかも今回はヴァルトまでいる。加速する未来しか見えない。

 

「止めた方がいいですか」

 

 澪は半ば本気で聞いた。いちおう聞くだけ聞きます。どうせ止まらないと思いますけど。聞かずに放置すると、あとで“同意したものとみなします”みたいな空気を出される気がする。

 

「止まりませんな」

 

 真壁は即答した。

 

 でしょうね、と澪は思った。聞く前から知っていました。知っていましたけど、せめて一拍くらい考えるふりをしてほしかったです。

 

 真壁とヴァルトは、そのまま押入れの向こうへ消えた。作業場へ向かう足取りに迷いがない。澪だけが少しその場に残り、閉まった襖を見た。

 

 止めた方がよかったのでは。

 

 頭の中でその言葉が一度だけ回る。だが、真壁の目が完全に“面白いものを作る人”の目だったので、たぶん止まらない。止めてもたぶん、もっと静かに続ける。

 

 澪は長く息を吐いた。

 

 押入れの木枠は黙っている。大学の課題も、葡萄酒蔵も、孤児院の離れも、今は全部そのままなのに、この向こうだけが高速で未来へ進み始めている気がした。

 

 3日後――

 

 

 

 

 

 

 採石場秘密基地の奥には、車にしては翼の気配があり、飛行機にしては地面に近すぎるものがあった。

 

 澪は、そこへ着いた瞬間に立ち止まった。灰銀色の鈍い光を持つ車体が、朝の薄い光を受けて静かに置かれている。低く細い実用車に見える。見えるのだが、四隅の外装が妙に厚い。屋根の継ぎ目も、側面の線も、どう見ても何かを畳んでいる輪郭だ。普通の車が隠す必要のないものを、明らかに隠している。

 

 横にはヴァルトが立っていた。少し誇らしげな顔である。完全に“未来の空飛ぶ車づくりを手伝った男”の顔だ。誰の未来なんですか、それは、と澪は思った。たぶん彼の中では、2026年日本はもうかなり自由に飛んでいる。

 

「……真壁さん」

 

「何でしょう、澪君」

 

「それ、もう“足”じゃないですよね」

 

 知ってましたけど、知ってましたけど、やっぱりそうなりました、と澪は思った。足、という単語に対して無駄に立派すぎる。むしろ野望に近い。

 

「4座空陸機です」

 

 正式名称で押し切るの、やめてほしいです、と澪は思った。言い張られると現実が負ける。しかも本当に形になっているから困る。フレームの線は無駄に美しく、四隅のユニットはまだ畳まれているのに、開けば何が出るか分かってしまう。嫌な説得力があった。

 

「2026年仕様を参考にしております」

 

 ヴァルトが少し得意げに補足した。

 

 誰の2026年なんですか、それ、と澪は思った。いや、たしかに2026年の資料は見た。見たが、こうして灰銀の実体になって目の前へ置かれると、資料だったものが急に真壁の趣味と融合している。

 

 真壁が収納から小さな機器を出した。黒くて軽い、耳へ掛けるタイプのヘッドセットだった。

 

「澪君。これを。飛行中も会話できます」

 

「なんでそんな普通に無線機まで用意してるんですか」

 

 澪は反射的に聞いた。準備が良すぎて余計に怖いです。最初から飛ばす気満々だったんですよね。しかも“飛んだあと説明する”ではなく、“飛びながら会話する”つもりだったのだ。逃げ場がない。

 

「地上との連携は重要です」

 

 真壁は平然と言った。

 

 正論で押されると何も言えません、と澪は思った。しかも今回に限って本当に必要そうなのが悔しいです。

 

 嫌そうにヘッドセットをつけた澪の前で、真壁は機体へ触れた。低く澄んだ唸りが車体の内側から立ち上がる。車高がわずかに変わり、継ぎ目が静かに開く。四隅の外装が割れ、内側からアームがぬるりと伸びた。先端の格納部が開き、回転翼ユニットが姿を見せる。

 

「……変形しましたよね」

 

 そこはもう少し特別扱いしてください、と澪は思った。普通の返事で済ませる変形じゃないです。車がいま巨大ドローンの顔を見せ始めています。

 

「しましたな」

 

 真壁の返事は軽かった。軽いのに、機体の方は軽くない。四隅に展開したアームが、完全に“地上の車”の領分からはみ出している。

 

「実に滑らかです。展開時の捻れも抑えられています」

 

 ヴァルトが感心して言う。感想が完全に開発側なんですよね、この人もだいぶ染まっています、と澪は思った。

 

 ヘッドセットの向こうで、真壁の声がした。

 

『聞こえますかな、澪君』

 

「聞こえてます。……それがまた嫌です」

 

 飛ぶ前から会話できるの、本当に逃げ場がない感じしかしません、と澪は思った。

 

 その頃、隣の葡萄棚ではルカが最初に気づいた。

 

「父さん、何あれ」

 

 ゲルトが顔を上げ、エルザも手を止める。ミナは素直に見上げた。最初はまだ車に見える。だが四隅からアームが伸び、回転翼が開くのを見て、全員の動きが止まった。

 

「荷車……?」

 

 エルザが言う。いまのところ、たしかに見た目はまだ荷車です。でもそこまでです、と澪は思う。そこから先は、かなり空です。

 

 ローターが回り始めた。風が地面を撫で、砂が少し浮く。葡萄棚の葉が揺れる。澪は本能で一歩下がった。

 

「真壁さん。それ、ほんとに今ここで飛ばすんですか」

 

『試験は済んでおります』

 

 その“済んでおります”が全然安心材料になりません、と澪は思った。誰がどこで何回試験したんですか。聞かなくても答えは半分分かる。真壁さんと、たぶんヴァルトです。だいぶ強い人たちだけで安全を証明しないでください。

 

 機体が地面を離れた。

 

 ほんの少し浮き、姿勢を整え、それから滑るように上がっていく。

 

「飛んだ!」

 

 ルカが叫んだ。ミナは口を開けたまま見上げ、エルザは思わず胸元で手を組む。ゲルトは職人らしく揺れ方を見ていたが、顔には驚きがはっきり出ていた。

 

「……本当に飛ぶのか」

 

 私も同じことを思っています、と澪は思った。分かっていましたけど、実際に飛ぶと話が違います。風景の中に“飛ぶ車”が入ると、急に世界が少しおかしく見える。

 

 機体は採石場の上で一度静止し、それから前へ滑る。葡萄棚の列を越え、石蔵の屋根の上を抜ける。灰銀の機体が光を受けて少しだけ光った。真壁は無駄に暴れない。安定、静止、前進、旋回、再上昇。あくまで実用機の試験飛行として見せる。そこが逆に怖い。本当に使う気だと分かるからだ。

 

「安定しています。やはり4基8ローターで正解でした」

 

 ヴァルトの“やはり”が怖いです、と澪は思った。事前に何回かやってる顔です。

 

『澪君。会話の明瞭度はどうです』

 

「良好です。……だから嫌なんですって」

 

 普通に報告できるのがさらに嫌です、と澪は思った。だんだん実用機っぽく見えてくるのが悔しいです。

 

 やがて機体は滑るように戻ってきて、静かに降りた。ローターが止まり、アームが畳まれ、巨大ドローンの顔がまた上品な灰銀の車体へ戻る。

 

「……戻りましたね」

 

 そこも普通に返さないでください、と澪は思った。変形の往復が終わったんですよ。大事件です。

 

「戻りましたな」

 

 ルカはまだ興奮していた。ミナはエルザの手を握ったまま見つめている。エルザは少し呆れつつ、少し笑ってしまっている。ゲルトが低く呟いた。

 

「侯爵領って、こんなものまで飛ぶのか……」

 

 違います。たぶん違います。これは真壁さんが勝手に飛ばしています、と澪は思った。侯爵領の責任範囲を広げないでください。

 

 真壁が降りてくる。ヴァルトは満足げ。澪は機体を見て、真壁を見て、もう一度機体を見る。

 

「真壁さん」

 

「何でしょう、澪君」

 

「やっぱり3日で、ろくでもないものを飛ばしましたね」

 

 しかも普通に安定飛行まで見せました。余計にろくでもないです、と澪は思った。

 

「実用機です」

 

 言い張られると、だんだんそういう気がしてくるのが悔しいです、と澪は思う。

 

 葡萄棚の向こうでは、まだ空を見上げているルカとミナがいる。少し呆れた顔のゲルトとエルザがいる。満足げなヴァルトがいて、平然としている真壁がいる。そして澪は、頭痛の予感と一緒に、その光景を見ていた。

 

 真壁さんは、やっぱり3日でろくでもないものを形にした。

 

 しかも今回は、ちゃんと飛ばした。

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