押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第166話 4時間かからぬ往復

 

 侯爵家の正門前は、朝の光を受けて白い石畳がまだ少し冷えていた。門柱の影は細長く伸び、出立の支度を整えた従者たちが控えている。その空気の中で、いつもの馬車でも騎乗でもない、灰銀色の細い車体が静かに前庭へ入ってきた時、最初に足を止めたのはアルベルトだった。

 

 低い。長い。上品ではある。だが、四隅だけが妙に厚い。

 

 見慣れぬ車だ、と言ってしまえばそれまでだが、見慣れぬだけで済ませるには、どこか含みがありすぎる形だった。屋根と側面の継ぎ目に、何かを畳んでいる気配がある。レオンハルトは反射的に下回りと四隅を見、エーリヒは「また真壁殿だな」と心の中だけでため息をついた。

 

「……真壁殿、これは」

 

 アルベルトが問う。

 

 領主としての声音は崩していない。だが、問いそのものは驚きを隠していなかった。

 

「4座空陸機です」

 

 真壁は平然と答えた。

 

 その答え方がいちばん腹立たしい、と澪なら思っただろうが、今日ここに澪はいない。代わりにレオンハルトが眉を寄せた。

 

「空陸、だと」

 

 武人らしく、彼は美しさより先に使い道を測る目をしている。空を飛ぶならどれほど速いか。どれほどの人数を運べるか。地上で止まった時、どこが弱いか。考えていることがだいぶ物騒だが、真壁はそこをむしろ少し気に入った。

 

「まだ車にしか見えませんが」

 

 エーリヒが言った。

 

 農政官らしく、見えている事実から入る言い方だった。

 

「見かけはそうですな」

 

 真壁は短く返し、そのまま少し離れたところへ目を向けた。

 

 今日、伯爵家へ贈る灰駿は、別に用意されていた。布を払われた灰色の巨馬像は、朝の光を受けても相変わらず堂々としている。大きい。高い。目立つ。贈り物としてはだいぶ強い。

 

「先にこちらを」

 

 真壁がそう言って手を伸ばした瞬間、灰駿が音もなく消えた。

 

 アルベルトが黙る。レオンハルトが目を細める。エーリヒが一度だけ瞬きをした。

 

「今、消えたのだが」

 

「収納しました」

 

 真壁は本当に何でもないことのように答えた。

 

 目の前で巨大な像が消えるのを見せられて、その返しがそれだけで済むのは、真壁だけである。

 

「分かっていたが、目の前でやられると分からん」

 

 レオンハルトが言った。

 

 その率直さに、真壁はほんの少しだけ口元を動かした。

 

「お乗りください。本日は、私、アルベルト殿、レオンハルト殿、エーリヒ殿の4名です」

 

 扉が開く。内装は妙に上等だった。2列2席。座面は硬すぎず、しかし沈み込みもしない。視界は広く、内装の木目も金具も、無駄な飾りには走っていないのに、不思議と安っぽく見えない。

 

「妙に座り心地がよさそうだな」

 

 アルベルトが言う。

 

「長距離移動ですので」

 

 真壁が答える。

 

 悪ふざけではない。少なくとも、客を乗せる気だけは本気だ。

 

 その事実が、かえって少し恐ろしかった。

 

 

 

 全員が乗り込むと、車内には一瞬だけ妙な静けさが満ちた。外見が普通ではないからといって、乗り込んだ瞬間まで普通ではなくなるわけではない。むしろ、妙に静かで、妙に快適で、妙に視界が広い。その“妙に”の積み重ねが嫌だった。

 

「シートベルトを」

 

 真壁が言った。

 

 アルベルトが手元の帯を見る。レオンハルトがそれを持ち上げ、エーリヒは真っ先に自分の腰へ回した。見慣れない仕組みだが、留め方自体は単純だ。

 

「必要なのか」

 

 レオンハルトが聞く。

 

「必要です」

 

 真壁は即答した。

 

 武人は、自分が必要だと判断したものには早い。レオンハルトは少しだけ不満そうだったが、すぐに留めた。

 

「では、飛行形態へ移ります」

 

 真壁が言う。

 

「……飛行形態?」

 

 アルベルトがゆっくり聞き返す。

 

「今ここでか」

 

 レオンハルトが言い、エーリヒがさらに続けた。

 

「まだ侯爵家の前庭ですが」

 

 どれももっともだった。真壁はそのどれにも揺れず、ただ起動系へ手を置いた。

 

 低い唸りが床下から立ち上がる。

 

 車高がわずかに変わる。

 

 窓の外、四隅の継ぎ目が静かに開いた。外装の一部が割れるように退き、そこから細く強いアームがぬるりと伸びる。先端の格納部が開き、二重反転の回転翼ユニットが姿を見せた。

 

 アルベルトは黙った。

 

 レオンハルトは完全に声を失った。

 

 エーリヒだけが「本当に変形した」と心の中で一度言語化してから、それでもまだ信じ切れずにもう一度窓の外を見た。

 

 真壁はその反応に構わず操作を続ける。回転翼が静かに回り始め、風が石畳を撫で、前庭の砂を少し浮かせる。門番たちは揃って空を見上げ、従者の一人は口を開けたまま固まった。

 

「……空だな」

 

 アルベルトが短く言う。

 

 その一言のあと、機体は侯爵家の前庭から滑るように浮いた。

 

 馬車でも自動車でもない。飛竜でもない。だが、たしかに空だった。

 

 侯爵家の白い屋根が、静かに下へ離れていく。

 

「速い」

 

 最初に口を開いたのはレオンハルトだった。

 

「しかも街道を見なくてよいのか」

 

 着眼点が完全に武人である。

 

「ええ」

 

 真壁は短く答えた。

 

「道は、地上に任せればよろしい」

 

 いちいち言い方が上品だなと、アルベルトは内心で少しだけ可笑しく思った。

 

「……畝の流れまで見える」

 

 エーリヒが窓の外を見たまま言う。

 

 農政官らしい感想だった。地面で見ていたものが、空からだと別の形で見える。川の流れ、畑の曲がり、水の残り方。土地そのものが、一段整理されて下に広がっている。

 

「真壁殿」

 

 アルベルトが言った。

 

「便利、では済まんな」

 

「結構」

 

 真壁は一言で受けた。

 

 街道も川も森も、下へ置いて進む。普通なら半日がかりの道行きが、あまりに平然と縮んでいく。その短さの方が、乗っている者にはむしろ不気味だった。

 

「伯爵家の目の前へ飛び込むのは品がありません」

 

 真壁が前を見たまま言う。

 

「少し離れたところへ降ります」

 

 エーリヒはそこで少しだけ安心した。そこはあるのか、と思ったのである。飛ぶ機械を作る人間が、見せ方と礼儀の速度まで気にしている。そこは救いだった。

 

 

 

 伯爵領の外れにある林縁の平地へ、4座空陸機は静かに降りた。回転翼が止まり、アームが畳まれ、巨鳥じみた輪郭がまた低い灰銀の車体へ戻っていく。その変化を、レオンハルトは一度も目を逸らさず見ていた。

 

「……戻るのか」

 

「戻ります」

 

 真壁はあまりにも普通に答えた。

 

 その返しが軽いからこそ、いま起こったことの異様さが余計に浮く。車に見えるものが飛び、飛ぶものが車へ戻る。言葉にすれば簡単だが、目の前でやられると話は別だ。

 

「本当に空陸機なのですね」

 

 エーリヒが言った。

 

 それまで半分は名前負けを疑っていたのだろう。往復変形を見せつけられてしまえば、さすがに認めるしかない。

 

 アルベルトはそこで初めて、わずかに口元を緩めた。

 

「では、ここからは礼儀の速度で行こう」

 

「承知しました」

 

 そこからは本当に普通の来客の顔だった。車は街道の端を滑るように進み、伯爵家の門前へ数分で着く。つい先ほどまで空を飛んでいた痕跡など、外からはほとんど分からない。

 

 門前の番兵たちは、見慣れない灰銀の車体に一瞬だけ視線を留めた。だが、先触れのあった侯爵家一行だと分かると、すぐに姿勢を正した。

 

 アルベルトが降り、名を告げる。

 

 その一動作だけで、門の空気が整った。侯爵家当主自らの来訪である。相手が伯爵家であればなおさら、門前での迷いは長く続かない。

 

 一行は通常の来客として通され、伯爵家の前庭へ入った。砂利はきれいに掃かれ、石造りの館も古いながらよく整えられている。下位とはいえ伯爵家であり、領を預かる家の矜持は、こういう手入れの端々に出るものだ。

 

 会談室へ通されると、空気は当然ながら硬かった。伯爵はすでに席についており、その脇には家令らしき男と、数人の側近が控えている。侯爵家の方がかなり上であることは、座り方ひとつで分かる。だが、だからといって伯爵家に面子が無いわけでもない。むしろ格の差があるからこそ、表の礼儀はより濃くなる。

 

「ようこそお越しくださいました」

 

 伯爵は立ち上がり、侯爵家へ礼を取った。その声音には控えの姿勢がある。だが、完全に従うだけの色ではない。領を持つ者としての硬さが残っていた。

 

「本日は、先般の件につき、あらためてお話に参りました」

 

 アルベルトが応じる。

 

 座が整えられ、会談が始まる。

 

「ずいぶん大胆な保全をされたものですな」

 

 伯爵がまず言った。

 

 言葉は整っているが、中には抗議がある。葡萄樹も蔵材も、ある朝まとめて消えていれば当然だ。

 

「大胆であったことは認めます」

 

 アルベルトは正面から受けた。

 

「だが、不正の上へ積まれた権利まで認めるつもりはありません」

 

 エーリヒが横で文書を差し出す。証言、押収帳簿、契約の瑕疵、黒鎖系資金筋との繋がり。伯爵家側はそれを受け取り、静かに目を通した。

 

 空気はまだ硬い。そこで真壁が初めて口を開いた。

 

「黒鎖が、まだ動いております」

 

 声は低く、だが押しつけがましくはなかった。

 

 伯爵が視線を上げる。

 

「以前、侯爵領でも気づくのが遅れました」

 

 真壁は続けた。

 

「その結果、領内には混乱が生じた。賄賂、汚職、流通の締めつけ、産業の疲弊。残った部分から、じわじわと腐っていく」

 

 会談室の空気が少しだけ変わる。黒鎖の名が出た時、伯爵の表情から一瞬だけ形式が外れた。そこには怒りというより、嫌な既視感があった。

 

「あの葡萄園も、その一部でした」

 

 真壁は言う。

 

「流通を縛り、評判を削り、資金を詰まらせ、産地そのものを弱らせる。ゆえに保全した。何か悪いことがありましょうか」

 

 言い方は最後まで品があった。だが、中身は強い。お前たちの面子より、腐敗を止める方が先だと、真壁は上品に言っている。

 

 伯爵はしばらく黙っていた。侯爵家の方がかなり上である。その前提は会談の最初から共有されている。だが、今の言葉は単なる格の押しつけではなかった。実際に自領でも、黒鎖のようなものに根を張られればどうなるか。それは伯爵にも分かる。

 

「……結局、黒鎖の根を断たねばならぬ、ということですな」

 

 伯爵が低く言った。

 

「残った部分から、また腐っていく」

 

「その通りです」

 

 真壁は答えた。

 

 伯爵はゆっくり頷いた。

 

「分かった」

 

 その一言で、会談の軸は抗議から実務へ戻った。

 

 空気が少しだけ解けたところで、アルベルトが礼を尽くした声音で言う。

 

「本日は、謝意の形もお持ちしました」

 

 そこで真壁が一歩前へ出る。多くは語らない。控えていた従者が一瞬だけ身構える。

 

 真壁が手を開く。

 

 次の瞬間、そこへ灰駿が現れた。

 

 もちろん会談室のど真ん中で棹立ち巨馬が立ち上がるわけではない。だが、披露のために整えられた広間側へ向けて、覆いを払われた形で姿を見せる。充分だった。充分すぎた。

 

 伯爵が完全に黙る。

 

 家令も、側近も、声を失う。

 

「……は?」

 

 伯爵がようやく漏らしたのは、その一語だった。

 

「侯爵家より、謝意と敬意の形です」

 

 アルベルトが静かに言う。

 

 伯爵は灰駿を見上げた。謝意と敬意の形としては、かなり物理的に強い。受け取る側の気持ちをやや置いていく規模である。

 

 そこへ真壁が、事前に預かっていたもう一つの贈り物を出す。今度は常識的な大きさだった。深い色の箱に収められた、侯爵家名義の上等なガラス酒器一式。伯爵家の卓へそのまま出せる品であり、受け取って面子を立てるにはちょうどよい。

 

 家令がそこでようやく現実へ戻った顔になる。伯爵も一度咳払いをした。巨大な灰駿の衝撃だけでは会談が終わらないことを、ここで思い出したらしい。

 

「……抗議は残る」

 

 伯爵が言った。

 

「だが、事情と証拠は理解した」

 

「感謝いたします」

 

 アルベルトが応じる。

 

 エーリヒが今後の文書処理と確認を詰める。伯爵家の家令もそれに合わせる。レオンハルトはほぼ喋らないが、座にいるだけで圧になる。真壁はまた静かに引いた位置へ戻る。自分が言うべきところだけ言い、あとは実務へ戻す。その振る舞いは妙に整っていた。

 

 退出の際、伯爵は灰駿をもう一度見てから、低く言った。

 

「これは……目立ちますな」

 

「左様です」

 

 真壁が短く答えた。

 

 それ以上の説明が要らないあたりが、いちばんひどいと思ったのは、たぶん家令である。

 

 

 

 伯爵家を出る時、一行はきわめて普通の来客の顔をしていた。車形態の4座空陸機は、あくまで“少し変わった車”として門前から離れる。伯爵家の視界から消えるまでは、礼儀の速度である。

 

 林縁の平地まで戻ると、レオンハルトが短く聞いた。

 

「ここで飛ぶのか」

 

「いえ」

 

 真壁は車体から降りて答えた。

 

「一旦しまいます」

 

 そこで4座空陸機が収納へ消える。

 

 アルベルトも、レオンハルトも、エーリヒも、もう声を上げはしなかった。驚きの回数が多すぎると、人はだんだん静かになるらしい。

 

「……戻り方までおかしい」

 

 エーリヒがぽつりと言った。

 

 とても正しい総括だとアルベルトは思った。

 

 次の瞬間、真壁が転移を開く。

 

 秘密基地へ戻るまでにかかる時間は、ほとんど“移動”と呼ぶのも気が引ける短さだった。さっきまで伯爵領の林縁にいたのに、次の瞬間には採石場秘密基地のそばに立っている。

 

 レオンハルトが一度だけ空を見た。何か言いたかったのだろうが、うまくまとまらなかったらしい。

 

 真壁は何事もなかったように4座空陸機を再び出し、今度は普通の車として侯爵家へ向けて走らせた。

 

 アルベルトは途中で懐中時計を見た。

 

「……早すぎるな」

 

 その短い言葉が、今日一日のすべてをよく表していた。伯爵領へ赴き、会談し、抗議を受け、灰駿を贈り、別の品を渡し、手打ちにして帰ってくる。普通なら半日が消える。だが、今日まだ四時間も経っていない。

 

「もう一度乗れと言われたら、少し考える」

 

 レオンハルトが言った。

 

 それは武人としてはかなり正直な感想だった。たぶん嫌ではない。だが、平気とも言いたくない。その中間にある、実に人間らしい答えである。

 

「便利、では済まないと申し上げた意味が、より深くなりました」

 

 エーリヒが言った。

 

 真壁は最後まで落ち着いている。

 

「実用機です」

 

 またそれですか、と澪なら思っただろう。だが今日は誰も言い返さなかった。役に立ちすぎていて、否定しづらいからだ。

 

 侯爵家の門が見えてくる。門番たちは、行きよりあまりに早い帰着にまず驚き、それから車体の後部を見て、さらに一瞬だけ目を丸くした。何か大変な用向きだったはずなのに、もう戻ったのか、と。

 

 アルベルトが降り立ち、時計をもう一度見た。

 

 まだ、四時間も経っていない。

 

 伯爵領へ赴き、会談し、贈り物を渡し、何とか手打ちにして戻ってきた。それでも、まだ四時間もかかっていなかった。

 

 真壁の機動力は、また一段、ろくでもない方向へ伸びていた。

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