押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第169話 火竜一頭、研究者二名

 

 ヴァルトが火竜を収納から出すと、採石場秘密基地の前から、開けていたはずの空が半分ほど消えた。

 

 黒褐色の胴が地面へ横たわり、畳まれた翼は資材置き場の手前まで伸びている。太い尾は緩やかに曲がりながら作業場の端を越え、その先を建物の陰へ隠していた。

 

 火山で対峙していた時よりも大きく見えた。

 

 あの場では、火と爪を避けるだけで精一杯だった。こうして動かなくなった身体を前にすると、閉じた口の隙間からのぞく牙の長さも、1枚ごとの鱗の厚みも、前脚だけで人間を覆えそうなことも、嫌になるほどよく分かる。

 

 澪は頭から背へ視線をたどり、首を反らせたまま翼を見た。次に尾の方を向き、全身を一度に見るのを諦めたらしく、また頭へ戻ってくる。

 

「火山灰を取りに行った結果が、これなんですよね」

 

「火山灰も、必要量は確保しています」

 

 ヴァルトは、そこだけは改めてはっきり答えた。

 

「それは聞きました」

 

 澪は火竜を見上げたまま言う。

 

「でも、火山灰と一緒に数えるには大きすぎます」

 

 真壁は火竜の前脚へ近づき、鱗へ手のひらを当てていた。胸部は内側から破裂しているが、背や四肢、翼の大半には目立った損傷がない。

 

「内部から崩したため、素材としては広く残っておりますな」

 

「素材として見るのが早いですね」

 

「ほかに、どのように見ればよろしいのですかな」

 

 澪は少し考えた。

 

「火竜です」

 

「それは鑑定せずとも分かります」

 

 真壁は鱗の重なりへ指を滑らせた。

 

 ヴァルトも胸部へ鑑定を向ける。巨大な魔石から伸びていた魔力経路が、鱗の裏、骨、内臓、火炎器官へ枝分かれしている。生命活動は止まっていても、身体がどのように魔力を巡らせていたかは、まだ構造として残っていた。

 

 澪は、火竜の両側で早くも調べ始めた2人を見比べた。

 

「これ、売るんですか」

 

 真壁の手が止まる。

 

 ヴァルトも魔力経路から顔を上げた。

 

「売る必要がありますかな」

 

 真壁の声には、本気で理由が分からない響きがあった。

 

「高く売れるんですよね」

 

「相場を決められる者がいるか分からないほどには」

 

 ヴァルトは王都で扱われていた竜種素材を思い返した。

 

 小さな牙や鱗の欠片でさえ、魔術師や武器職人が奪い合う。これほど状態のよい大型火竜が丸ごと出れば、値段以前に、誰へ渡すかで争いになるだろう。

 

「でしたら、なおさら売る必要はありませんな」

 

 真壁は再び火竜へ目を向けた。

 

「金へ換えれば、金としてしか使えません」

 

 鱗は魔術を散らす。

 

 牙は魔力を先端へ集める。

 

 骨には、天然の魔力経路が残っている。

 

 血や内臓には、薬へ使える成分がある。

 

 胸部の奥には、巨体を動かしていた魔石がある。

 

 そのどれも、後から金を積めば買い戻せるとは限らない。

 

 澪も火竜を眺めたあと、あっさり頷いた。

 

「売ってから、必要になったものを買う方が面倒ですね」

 

「買えれば、ですがな」

 

「では、売らない方向で」

 

 火竜一頭を前にした商会の判断は、それだけで終わった。

 

 誰も値札を考えなかった。

 

 真壁は鱗の下へ鑑定を重ね、ヴァルトは魔石から伸びる経路を追う。

 

「この鱗は、裏の膜までつながった状態で残したいです」

 

 ヴァルトが背の一部を示した。

 

「魔石との反応を見るためですかな」

 

「はい。骨と内臓も、一部は接続したまま調べたい」

 

「では、先に全身の構造を写しましょう」

 

 真壁が火竜へ手を置く。

 

 巨体が消えた。

 

 広い作業場には、押し潰された草と、火竜の形にへこんだ地面だけが残る。

 

 澪は急に戻ってきた空を見上げた。

 

「外で解体するわけではないんですね」

 

「外へ置く利点がありませんからな」

 

 秘密基地の壁面へ、真壁の収納内が映し出された。

 

 火竜は全身の形を崩さず、広い工程区画へ収まっている。血管も、骨も、内臓も、魔石から伸びる経路も、まだ何一つ切り離されていない。

 

 真壁の収納内には、すでにいくつかの区画が用意されていた。薬用組織を扱う場所、食肉を保存する場所、硬質素材を加工する場所、魔石と魔力経路を調べる場所まである。

 

 澪は投影を見上げた。

 

「いつ作ったんですか、その区画」

 

「昨夜ですな」

 

「休んでいましたか」

 

「身体は」

 

「収納の中で作業していたんですね」

 

 真壁は返事をせず、工程を動かした。

 

 火竜の全身へ淡い線が走る。

 

 血管、筋肉、皮膜、腱、骨、内臓の境目が、互いに重ならないよう浮かび上がった。

 

 真壁の指がわずかに動くと、全身から血液だけが抜き取られる。血管を裂いたのではない。中身だけが薬用区画へ移り、凝固した部分と液体部分へ分かれていった。

 

 収納内プラントが動き始める。

 

 血液は細胞、血漿、魔力を多く含む成分、毒性を持つ成分へ分けられ、透明な容器へ順に収まった。

 

 ヴァルトは身を乗り出す。

 

「血液だけを抜いたのですか」

 

「血管は残してあります。魔力経路とのつながりを見る必要があるでしょう」

 

「肉や内臓も、同じように」

 

「用途が確定したものから送ります」

 

 食用と鑑定された筋肉が、部位ごとに切り離されていく。

 

 刃物を入れる音はない。

 

 肉の形を潰すこともない。

 

 背、胸、尾、翼の付け根、首の肉が、周囲の膜や腱を残したまま外れ、洗浄工程を通って低温保存区画へ収まった。

 

 澪は、投影された火竜が静かに標本へ変わっていく様子を見つめた。

 

「外で包丁を持つ必要が、まったくありませんね」

 

「巨大なものほど、収納内工程に向いておりますな」

 

「解体業の人が見たら泣きそうです」

 

「火竜を日常的に扱う業者でなければ、仕事は奪わないでしょう」

 

「そこではありません」

 

 鱗はすべて外さず、魔力経路を追うための一部だけを残した。

 

 余剰分は硬質素材区画へ送られる。

 

 真壁が試料へ熱と圧力を加えると、鱗の表面がゆっくり軟化した。元の形を失った素材から不純物を分け、魔力を散らす内部構造をそろえ直す。

 

 薄く延ばして固めると、鱗とは違う滑らかな板材になった。

 

 ヴァルトが鑑定する。

 

「硬度も耐熱性も残っています。魔力分散の性質も失われていません」

 

「形は用途に合わせられますな」

 

 真壁は板材を緩やかに湾曲させ、再び固形化した。

 

 澪は腕を組む。

 

「鱗の形で使う必要もないんですね」

 

「重ねて防具にするなら元の形がよいでしょう。装甲板や魔道具の外殻なら、再成形した方が扱いやすい」

 

 牙も同じように工程へ入った。

 

 内部を調べる分は原形のまま残し、加工に回す一部だけを軟化させる。

 

 牙の中には、魔力を先端へ集める筋が通っていた。真壁はその部分を壊さずそろえ、細い針へ固める。

 

 ヴァルトが一本を受け取り、魔力を流す。

 

 根元から入った魔力はほとんど漏れず、針先へ集まった。

 

「術式を刻む道具に使えます」

 

「刃や穿孔具にもよいでしょうな」

 

「真壁さん」

 

 澪が投影された牙の残量を見る。

 

「全部を試験用にするつもりではありませんよね」

 

「原形保存分は確保してあります」

 

「残りは全部、試験用という意味では」

 

「用途が決まっていないものを、試験用と呼ぶことはありますな」

 

「聞いておいてよかったです」

 

 骨も、強度を担う部分と魔力を通しやすい部分へ分けられた。

 

 混合する割合を変えれば、板にも棒にも細い管にもできる。骨髄だけは薬用区画へ移され、内臓も薬効と毒性を見ながら、それぞれ別の工程へ送られていった。

 

 ヴァルトは、火竜の身体が姿を変えていくのを見ながら、かつての魔術院工房を思い出していた。

 

 職人が何日もかけて削り、熱し、失敗すれば素材ごと失う。

 

 真壁は削らない。

 

 必要な性質を残したまま、素材の内側から形を作り直している。

 

「真壁殿の加工は、元の姿を使う必要がないのですね」

 

「必要なのは素材の性質でしょう。牙や鱗の形とは限りません」

 

「普通の職人が聞けば、怒ると思います」

 

 澪が言う。

 

「完成品が同じなら、工程は短い方がよろしいでしょう」

 

 真壁はまるで気にしていなかった。

 

 収納内では、火竜の血が研究用の試料へ分かれ、鱗が板材となり、牙が術式針へ変わり、骨が魔道具の構造材へ整えられていた。

 

 ヴァルトが魔石周辺の経路を読み、真壁がその情報を受け取って、保存する部分と加工へ回す部分を切り替える。

 

「鱗の膜は、この範囲を残してください」

 

「3列ほどですかな」

 

「それで十分です。骨の魔力経路は、太さを変えたものを何種類か欲しいです」

 

「では、こちらを」

 

 2人の会話が急に速くなった。

 

 真壁が素材の形を変え、ヴァルトが魔力を流す。

 

 結果を見て、また形を変える。

 

 薄い板は曲面になり、細い骨材は輪になり、牙の成分から作った針はさらに細くなっていく。

 

 澪はしばらく眺めていた。

 

「楽しそうですね」

 

「興味深い素材ですからな」

 

「火竜の身体が、そのまま魔道具の構造になっています」

 

 2人とも否定しなかった。

 

 研究というより、珍しい材料を手に入れた者が、何を作れるか試して遊んでいるように見える。

 

 止める理由はない。

 

 売る予定もない。

 

 血も内臓も真壁の収納内にあり、外へ漏れない。火が出ても燃え移らず、毒性のあるものも密閉できる。

 

「では、心ゆくまでどうぞ」

 

 澪が言っても、返事はなかった。

 

 聞こえていないのではない。

 

 真壁は鱗板の厚みを変え、ヴァルトは骨材へ流す魔力の方向を確かめている。すでに次の試作へ入っていた。

 

 澪は2人の背中を見てから、静かに秘密基地へ戻った。

 

 大学の課題もある。

 

 押入商会の用事も残っている。

 

 何より、あの場に立ち続けていれば、完成していない試作品を持たされる気がした。

 

 扉を閉める直前、真壁の声が聞こえた。

 

「ヴァルト君、この形なら内部へ圧力を保持できますかな」

 

「結界を重ねれば可能です」

 

 澪は扉を閉めた。

 

 やはり、しばらく近づかない方がよさそうだった。

 

 

 

 

 

 真壁が最初に取りかかったのは、火竜が疲れにくい理由だった。

 

 あれほどの巨体を動かし、高熱の土地で暮らし、何度も火を吐く。それでも休めば、また同じ動きを繰り返す。

 

 単に身体が大きく、筋肉が強いだけでは説明がつかない。

 

 血液は酸素を効率よく運び、肝臓に似た器官は老廃物を速く処理していた。筋肉は細かな損傷からの回復が早く、神経と魔力経路も高い出力へ耐える。

 

 真壁は血液、骨髄、肝臓、筋肉、神経周辺の組織を少量ずつ工程へ入れ、反応を比べていった。

 

 濃すぎれば、人間由来の試験細胞が膨らむ。

 

 魔力成分を残しすぎると、細胞が熱を持つ。

 

 弱すぎれば一時的に代謝が上がるだけで、変化は定着しない。

 

 ヴァルトは、試料へ流した魔力の変化を見ていた。

 

「こちらは、魔力を通した直後だけ強くなります」

 

「一時的では意味がありませんな」

 

「疲労を感じなくさせるだけなら、もっと簡単では」

 

「身体の損傷を隠して動かせば、後で壊れます」

 

 真壁は試料の濃度を下げた。

 

「欲しいのは、無理をしていることに気づかなくなる薬ではありません。同じ仕事をしても、傷みにくい身体です」

 

「合理的です」

 

 ヴァルトは素直に頷いた。

 

「真壁さんが使うところまで考えると、少し不安ですけど」

 

 いつの間にか戻ってきていた澪が、作業台の向こうから口を挟んだ。

 

 手には大学の資料を抱えている。

 

「もう戻ったのですかな」

 

「数時間は経っています」

 

「そうでしたか」

 

「時間の感覚を失うほど遊ばないでください」

 

「研究ですな」

 

「楽しそうなので、どちらでもいいです」

 

 真壁は新しい試料を鑑定した。

 

 細胞は熱を持たず、代謝だけが上がっている。魔力を何度通しても崩れず、時間を置いても元へ戻らない。

 

 真壁の目が、わずかに細くなった。

 

「これは残しましょう」

 

 翌日、作業台には褐色の小瓶が並んでいた。

 

 中身より先に容器へ目を留めた澪が、少し眉を寄せる。

 

「なぜ、その瓶なんですか」

 

「遮光性があり、携帯しやすく、飲み切る量として適切です」

 

「ほかにも遮光瓶はありますよね」

 

「こちらが使いやすかったので」

 

 小型の栄養ドリンクにしか見えない瓶を、ヴァルトは手に取った。

 

「確かに携行には便利ですね」

 

「ヴァルトさんは納得しないでください」

 

 澪が鑑定する。

 

----------------------------------

竜血疲労耐久強化薬

品質:極上

効果:

疲労耐久度の恒久上昇

同一負荷に対する疲労上昇量を低減

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 澪の目が、恒久という文字で止まる。

 

「今日だけ元気になる薬ではないんですね」

 

「身体側を変えておりますからな」

 

「その説明を、もう少し重そうに言えませんか」

 

「火竜の性質をそのまま移したわけではありません。人間の細胞、神経、魔力経路へ合うよう調整してあります」

 

 ヴァルトも鑑定した。

 

「収納内プラントや魔術を使った時の疲労にも効くようですね」

 

「ええ。肉体労働に限りません」

 

 真壁は自分の瓶を開けた。

 

 澪が止めるより早い。

 

「もう飲むんですか」

 

「培養細胞で確認済みです」

 

「その培養細胞は、いつ作ったんですか」

 

「必要になった時ですな」

 

「必要になったらすぐ出てくるのが怖いんです」

 

 真壁は薬を飲み干した。

 

 ヴァルトも蓋へ手を掛ける。

 

「私も試します」

 

「止めても飲みますよね」

 

「はい」

 

 澪は2人を見てから、自分の瓶を持ち上げた。

 

「味まで栄養ドリンクではありませんよね」

 

「そこまでは寄せておりません」

 

「容器は寄せたんですね」

 

 口へ含むと、最初に苦味が来た。

 

 その後から、火竜の肉を食べた時に似た熱が喉を通り、胸の奥へ広がっていく。

 

 美味しくはない。

 

 だが、薬として覚悟したほど不味くもなかった。

 

「微妙に飲みやすいですね」

 

「吐き出されては困りますからな」

 

「恒久なら、一度でいいんですよね」

 

「ええ」

 

 変化は静かだった。

 

 急に力が湧くわけでも、眠気が吹き飛ぶわけでもない。

 

 3人は服用前と同じ工程を繰り返した。

 

 ヴァルトは収納内プラントで同量の鉱物を選別する。

 

 真壁は火竜組織を同じ精度で分離する。

 

 澪は地図と鑑定を並行して使い、時間を測った。

 

 作業を終えて疲労値を確認すると、増え方は以前より明らかに小さい。

 

「本当に上がりにくくなっています」

 

 澪は数値を見直した。

 

 疲れそのものが消えたわけではない。

 

 目も肩も、作業した分だけ重い。

 

 それでも集中が切れるまでの距離が、確実に伸びていた。

 

「身体へ定着しておりますな」

 

 真壁は結果を確認すると、すぐ次の試料へ手を伸ばした。

 

「真壁さん」

 

「何でしょう」

 

「試験は終わりました」

 

「疲労値には余裕があります」

 

「増えた余裕を、その場で使い切らないでください」

 

 ヴァルトも真壁の手元を見る。

 

「澪さんの言う通りです。真壁殿は薬効より、増えた作業時間を見ています」

 

「有用性を確認しているだけです」

 

「もう活用に入っています」

 

 真壁は少し考え、試料を置いた。

 

 澪が息をつく。

 

 その直後、真壁は別の容器を取り出した。

 

「では、こちらを進めましょう」

 

「研究全体を休んでください」

 

 

 

 

 

 疲労耐久薬を作る過程で、真壁は別の反応も見つけていた。

 

 心臓の周囲にあった組織は、血流が途切れかけた細胞を、すぐには死なせなかった。

 

 骨髄から分けた成分を加えると、損傷した血管がつながり始める。

 

 肝臓由来の成分は、毒と老廃物を急速に分解した。

 

 だが、全部を一度に混ぜれば治るわけではない。

 

 再生を急がせすぎると、傷口だけが先に閉じる。骨がずれたまま固まり、内部の出血が残る。魔力経路が肉体より遅れて再生すれば、外見は治っても術式を扱えなくなる。

 

 真壁は幾つもの組織片へ、順番を変えて薬液を加えた。

 

 ヴァルトは結界で環境を保ち、魔力経路の再接続を見ている。

 

 澪は完成が近いと呼ばれ、また作業台へ戻ってきた。

 

「こちらは血管がつながりました」

 

 澪が鑑定結果を読む。

 

「でも、内部の圧力が上がっています」

 

「止血が早すぎましたな」

 

 真壁が濃度を変える。

 

「こっちは筋肉だけ先に修復しています」

 

「骨格の固定を先にしましょう」

 

「こちらは魔力経路が、元と違う方向へ伸びています」

 

 真壁の手が即座に動き、試料が収納へ消えた。

 

「今のは早かったですね」

 

「術式の癖まで変わる可能性があります」

 

「治っても、以前と同じ魔術が使えなくなるんですか」

 

「場合によっては」

 

「もっと怖がってから捨ててください」

 

「捨てる判断が早い方が安全でしょう」

 

 ヴァルトは再生中の魔力経路を見ながら、興味深そうに口を開いた。

 

「治癒魔術では、生命力を補って本人の身体へ任せます。真壁殿の方法は、治る順番まで決めるのですね」

 

「瀕死なら、本人へ任せる余裕がないこともあるでしょう」

 

 真壁の指が一瞬だけ止まった。

 

 その理由を説明することはなく、すぐ次の工程へ移る。

 

 完成までに数日を要した。

 

 淡い赤色の薬液を、澪が鑑定する。

 

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エリクサー

品質:極上

効果:

瀕死状態からの急速回復

出血、骨折、筋肉、臓器損傷の修復

魔力経路の再接続

毒性物質の排出促進

条件:

生命反応が残っていること

死亡状態からの蘇生は不可

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 澪は表示を読み終えても、しばらく黙っていた。

 

「本当に、エリクサーなんですね」

 

「鑑定がそう呼ぶなら、そうなのでしょう」

 

 真壁は小瓶の栓を確かめている。

 

「もう少し驚いてもよい成果ではありませんか」

 

 ヴァルトが言うと、真壁は瓶を光へ透かした。

 

「保存状態を確認してからにしますかな」

 

「驚く順番が違うと思います」

 

 完成した薬は、一か所へ集めなかった。

 

 真壁、澪、ヴァルトが、それぞれ自分の収納へ分けて持つ。

 

「誰の分という分け方ではないんですね」

 

 澪が小瓶を収納しながら尋ねる。

 

「本人が瀕死なら、その者の収納から出させるわけにはいきませんからな」

 

「近くにいる者が持っていた方が確実です」

 

 ヴァルトも自分の収納へ移した。

 

 具体的な数は口にしない。

 

 誰がどれだけ持つかも、厳密には決めない。

 

 3人の誰かが近くにいれば取り出せる。それでよかった。

 

 真壁の研究は、そこでも終わらなかった。

 

 火竜の細胞は、長命な生き物にしては老化が少ない。

 

 分裂を繰り返しても損傷が蓄積しにくく、機能の落ちた細胞を排除する働きも強い。

 

 真壁は、それを恒久的な変化にはしなかった。

 

 期間を区切り、その間だけ老化の進行を止める。効果が切れれば、そこから再び通常の時間が進む。

 

 完成した薬を鑑定した澪は、額へ手を当てた。

 

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竜命薬

品質:極上

効果:

一定期間、細胞老化の進行を停止

細胞損傷を修復

身体機能を良好な状態に維持

薬効終了後、通常の老化が再開

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「不老の薬ですよね」

 

「一定期間に限れば」

 

「火竜を持ち帰って、疲れにくくなる薬を作って、エリクサーを作った後に、不老の薬まで作るものですか」

 

「再生機構を調べた延長ですな」

 

「延長が遠すぎます」

 

 真壁は竜命薬をすぐには服用しなかった。

 

 長期的な変化を確かめる必要がある。

 

 こちらも3人の収納へ分け、存在を外へ出さずに保持することになった。

 

 澪は自分の収納へ小瓶を入れながら、妙な気分になる。

 

 以前なら、日用品や商品、食材が中心だった。

 

 今は、瀕死から戻す薬と、老化を止める薬が入っている。

 

「収納の中身だけ見ると、何の商会か分かりませんね」

 

「押入商会でしょう」

 

 真壁が即答する。

 

「名前の話ではありません」

 

 

 

 

 

 真壁が薬に夢中になっている間、ヴァルトは火竜の魔石を調べ続けていた。

 

 魔石は大量の魔力を蓄えている。

 

 それだけなら理解できる。

 

 ヴァルトが注目したのは、魔石が攻撃を受けた場所へ、自動的に魔力を送り返していたことだった。

 

 火竜は、鱗1枚ごとに防御を考えていたわけではない。

 

 鱗が衝撃や魔力を拾い、魔石へ伝える。

 

 魔石は必要な場所へ必要な量だけ魔力を返し、鱗の防御を強める。

 

 眠っていても働く仕組みだった。

 

「これなら、持ち主が気づく前に結界を出せる」

 

 ヴァルトは、収納内で再成形した薄い鱗板と、細い骨材、魔石の小片を並べた。

 

 鱗板は感知部。

 

 骨材は術式を支える回路。

 

 魔石は魔力を蓄える器。

 

 境界魔術で所有者と外部を分け、結界魔術で防御面を先に組み、収納魔術で完成した術式を小さく畳んで魔石へ収める。

 

 真壁も横から投影をのぞき込んだ。

 

「必要な方向へだけ展開する方が、消費は少ないでしょうな」

 

「全身を常に覆うより効率的です」

 

「感知方向を分ければ、複数方向へも対応できますかな」

 

「できます。ただ、判定条件が増えます」

 

「試す価値はありますな」

 

 澪がいない間、2人は何度も試作品を作り直した。

 

 最初は、近づくものすべてに反応した。

 

 次は、魔力にしか反応せず、投げた木片を通した。

 

 その次は感度が高すぎて、真壁が近くを歩いただけで結界が開いた。

 

「味方登録が必要です」

 

「所有者の意思も拾えると便利でしょうな」

 

「境界へ一段加えます」

 

 失敗するたび、真壁が素材の形を変え、ヴァルトが術式を書き直す。

 

 澪が再び呼ばれたのは、試作品がようやく形になった頃だった。

 

「澪君、少々よろしいですかな」

 

 秘密基地の扉を開けた澪は、作業台に並ぶ褐色瓶と赤い魔石を見た。

 

「少々で済む量には見えません」

 

「澪さん、先にこちらを持ってください」

 

 ヴァルトが差し出したのは、赤い魔石を鱗板で囲んだ小さな部品だった。

 

「何ですか、これ」

 

「自動で結界が出ます」

 

 澪は開けた扉を、そのまま閉めたくなった。

 

 だが、ヴァルトが真面目な顔をしているので、諦めて戻る。

 

「私は何をすればいいですか」

 

「持っているだけで大丈夫です」

 

 澪が掌へ乗せる。

 

 ヴァルトが真壁を見る。

 

 真壁は作業台の端から木片を拾い、軽く投げた。

 

 木片が澪の肩へ届く寸前、薄い結界が開いた。

 

 乾いた音とともに木片が弾かれ、地面へ落ちる。

 

 澪は掌の魔石を見た。

 

「本当に勝手に出ました」

 

「魔力の流れは正常です」

 

 ヴァルトが鑑定している横で、澪は落ちた木片を拾おうとした。

 

 指先が近づく。

 

 結界が開く。

 

 木片は澪の手から逃げるように、もう一度地面を転がった。

 

「私が拾うのも駄目なんですか」

 

「接近物として判定したようです」

 

「防御としては忠実ですな」

 

 真壁が感心したように言う。

 

「生活には向いていません」

 

 真壁が湯飲みを差し出した。

 

 魔石が淡く光る。

 

 結界が開く直前、湯飲みが真壁の手から消えた。

 

「お茶も敵ですか」

 

「現状では」

 

「飲み物を排除する防具は困ります」

 

 ヴァルトは試作品を受け取り、術式を調整した。

 

 澪が自分から触れようとしている物。

 

 受け取る意思を持っている物。

 

 味方として登録した人物。

 

 日常の速さで近づく物。

 

 それらを通し、攻撃性のあるものだけを弾くよう境界を組み直す。

 

 再試験では、湯飲みは無事に澪の手へ渡った。

 

 真壁が投げた木片には反応する。

 

 ヴァルトが背後から飛ばした小石にも、澪が振り返る前に結界が開いた。

 

 最後に3方向から木片を飛ばす。

 

 魔石が短く光り、結界が前、横、後ろへ順に現れた。

 

 木片は一つも澪へ届かなかった。

 

 静かになった作業場で、澪は掌の魔石へ触れる。

 

「私が気づかなくても、守ってくれるんですね」

 

「そのために作りました」

 

 ヴァルトが答えると、澪の指が魔石を包むように閉じた。

 

 少し離れたところから見ていた真壁が、目を細める。

 

「ほぅ……」

 

 澪が顔を上げた。

 

 真壁は彼女ではなく、魔石を見ている。

 

 次に、結界が現れた空間へ視線を移す。

 

 右手が腰の脇へ下がり、何かの柄を握る形になった。

 

「真壁さん」

 

「何でしょう、澪君」

 

「今度は、その魔石で何を自動的に出すつもりですか」

 

「術式が自動展開される様子を見ていただけです」

 

「見るだけの手ではありませんでした」

 

 澪が真壁を鑑定する。

 

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状態:光刃改良検討中

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「まだ続いていますね」

 

「検討は継続するものでしょう」

 

「自動で出す方向へ進んでいませんか」

 

 真壁は答えず、ヴァルトへ向き直った。

 

「外部から再充填は可能ですかな」

 

「できます」

 

「結界の形を細長く固定することも」

 

「術式を組めば可能ですが」

 

「真壁さん」

 

 澪の声が少し低くなる。

 

「何でしょう」

 

「今ので、だいたい分かりました」

 

「便利な仕組みですな」

 

「感想で逃げないでください」

 

 真壁は魔石から目を離さなかった。

 

 右手も、まだ見えない柄を握っていた。

 

 

 

 

 

 試作品は、澪が身につけられるペンダントへ仕上げた。

 

 中心には赤い火竜魔石。

 

 周囲を薄く再成形した鱗で囲い、内部の術式は細い骨材で固定してある。

 

 服の中へ入れても邪魔にならず、正面から見ても火竜の素材とは分からない。

 

 澪が首へ掛けると、魔石が淡く光った。

 

 ヴァルトが所有者登録を行う。

 

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火竜魔石式自動結界

所有者:澪

蓄積魔力:100%

状態:待機

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「ありがとうございます」

 

 澪は胸元へ手を添えた。

 

「魔力が減った時は、私が補充します」

 

「雷から変換できるようにしてもよろしいですな」

 

 真壁が横から言う。

 

 ヴァルトは少し考えた。

 

「変換機構を加えれば可能です」

 

 2人の視線が、同時に澪の胸元へ集まる。

 

「渡した直後から改良を始めないでください」

 

 澪が言うと、真壁とヴァルトは揃って顔を上げた。

 

「同じ顔をしないでください」

 

 ヴァルトは視線を外し、自動結界の限界を説明した。

 

 蓄えられる魔力には上限がある。大きな攻撃を受ければ、一度で多くを失う。短時間に攻撃が続けば、次の展開が間に合わない場合もある。すべての危険を判定できるわけでもない。

 

「これがあるから、危険な場所へ入っても大丈夫という物ではないんですね」

 

「もちろんです。避けられなかった一撃を防ぐためのものです」

 

「最後の一枚ですな」

 

 真壁が言う。

 

 澪はすぐに真壁を見る。

 

「真壁さんの最後の一枚には使わせませんよ」

 

「まだ何も申しておりませんが」

 

「さっき『ほぅ』と言いました」

 

 真壁は否定しなかった。

 

 

 

 

 

 研究が一段落した夜、3人は火竜の背肉を焼いた。

 

 収納内で下処理は終わっている。

 

 毒性はなく、食用として問題もない。

 

 ただし火に強い肉らしく、表面へ焼き色がついても、中心はなかなか温まらなかった。

 

 真壁は厚い肉を見つめ、火加減を落とす。

 

「低温で中まで熱を入れ、最後に表面を焼く方がよろしいですな」

 

「薬を作った後に、普通に料理もするんですね」

 

「肉は食べるためにあるのでしょう」

 

「火竜の一部ですけど」

 

「鑑定では高級食材と出ております」

 

 ヴァルトも焼ける肉を見ながら頷いた。

 

「部位ごとの使い道を決めるにも、味は確かめた方がよいでしょう」

 

「2人とも、研究と言えば何でも通ると思っていませんか」

 

 澪の疑いをよそに、肉から香ばしい匂いが立ち始める。

 

 切り分けた一片を口へ入れると、濃い旨味の後から柔らかな脂が溶け、飲み込む頃には胸の奥が少し温かくなった。

 

 澪は警戒したまま、もう一切れ取る。

 

「おいしいです」

 

「鑑定は正確でしたな」

 

 真壁も静かに咀嚼する。

 

「侯爵家へ少量お持ちしてもよいでしょう」

 

 売る話は、最後まで出なかった。

 

 鱗は形を変えて装甲や外殻へ使える。

 

 牙は魔力を通す針や刃になる。

 

 骨は術式を支える構造材へ変わった。

 

 血と内臓からは薬が生まれ、魔石は澪を守る装置になった。

 

 肉は普通に美味しかった。

 

 完成した薬は、真壁、澪、ヴァルトがそれぞれ自分の収納へ保持している。具体的な数を口にする必要はない。必要な時、3人の誰かが取り出せればよい。

 

 澪の胸元では、火竜魔石が静かに待機していた。

 

 その向こうで、真壁はまだ時折、右手で見えない柄の長さを確かめている。

 

 火竜一頭には、金へ換える暇もないほど使い道があった。

 

 そして秘密基地には、その使い道を増やして遊ぶ者が2人もいた。

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