押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第17話 姫様、舐めてはいけません

 

 六畳間の机の上には、小金貨の入った布袋と、開きっぱなしの帳面と、飲み終えたペットボトルが一本並んでいた。

 

 澪はその横にスマホを置き、税金の検索画面を閉じた。閉じたからといって、税金という文字が頭から消えるわけではない。むしろ、見なかったことにしようとした分だけ、布袋の重さが机の端で主張してくる。

 

「日本側の小皿も必要……」

 

 小さくつぶやいてから、澪は首を振った。今はそこへ深く沈むと戻ってこられない。リュシアに言われた水飴の分量を考えなければならない。

 

 スマホの相談画面を開き、澪はゆっくり入力した。

 

 黒砂糖十グラム。水飴。糖分。甘さの違い。補水飲料に使う量。

 

 送信して、しばらく待つ。

 

 画面に返ってきた文章を、澪は眉を寄せながら読んだ。黒砂糖十グラムは糖分として九グラム弱。水飴十グラムも糖分はある。ただし、甘味としては砂糖より弱く感じやすい。同じ甘さに近づけたいなら、水飴は多めに必要。

 

 そこまでは分かる。

 

 問題は、その先だった。

 

 補水飲料は菓子ではない。水飴を増やしすぎると粘り、後味、洗いにくさが出る。甘い匂いが残りやすく、虫や汚れにも注意。

 

 澪は、まだ見ぬ水飴を想像した。木べらに絡み、糸を引き、トトがじっと見て、エレナが「品質確認だ」と言いながら指を伸ばす。そこまで見えた気がして、澪はスマホを持ったまま固まった。

 

「水飴を増やしたら、別の意味で危ない」

 

 甘さを黒砂糖版に合わせることだけを考えると、面倒なことになる。飲むのは菓子を食べたい子供ではなく、暑い中で荷を運ぶ子供たちだ。喉に残らず、もう一口飲めるくらいの方がいい。

 

 澪は帳面にゆっくり書いた。

 

 黒砂糖版は五百ミリに八から十グラム。水飴版は十二から十五グラム。塩とクエン酸は、入れすぎない。甘さをそろえるのではなく、暑い時に飲める甘さにする。

 

 数字を書いたあと、澪はその下へ小さく足した。

 

 最後はリュシアとトトの舌で決める。

 

 相談画面は計算してくれる。けれど、トトがもう一杯と言うかどうかまでは、画面には分からない。

 

 

 

 

 

 市場の通りは、昼前からすでに賑やかだった。

 

 焼き物の匂い、干した魚の匂い、油を温める匂い、香草を刻む匂いが、狭い道に重なっている。澪は帳面を胸に抱え、リュシアの後ろを歩いた。小金貨を小皿へ分けた日のことが頭に残っていて、何かを買うだけでも、これはどの皿から出すお金なのだろうと考えてしまう。

 

「顔が固いね」

 

 リュシアが横目で言った。

 

「買い物って、こんなに緊張するものなんですね」

 

「緊張してるうちは、無駄遣いしにくいよ」

 

「それは、いいことなんでしょうか」

 

「悪くはないね。面白くはないけど」

 

 屋台から少し離れた一角に、甘い匂いのする店があった。干した果物を固めた菓子、麦芽の飴、布をかけた壺、浅い木箱に並んだ硬い飴が、狭い店先に所狭しと置かれている。

 

 澪が足を止めた時、背後で小さな足音が止まった。

 

 振り返ると、トトがいた。

 

「トト、いつからいました?」

 

「甘い匂いがしたところから」

 

 リュシアが腕を組む。

 

「つまり最初からだね」

 

「違う。甘い匂いがしたところから」

 

「だいたい最初だよ」

 

 トトは納得していない顔をしたが、目はもう店先の壺へ向いていた。

 

 飴屋の店主は、リュシアを見ると片手を上げた。年配の女で、腕まくりをした手に、飴の艶が少し残っている。リュシアとは顔見知りらしく、余計な挨拶は短かった。

 

「今日は何だい。屋台で菓子でも出すのかい」

 

「飲み物に使う甘味を見たいんだよ。黒砂糖ばかりじゃ続かない」

 

「なら、こっちだね」

 

 店主は、布を外して壺を見せた。

 

 澪は、中をのぞき込んで、思わず息を止めた。

 

 透明なシロップではなかった。少し琥珀色で、重たそうな艶があり、店主が木べらを差し込んですくうと、粘る飴が糸を引いてゆっくり持ち上がった。光を受けて、細い糸が伸びる。澪の知っている扱いやすい水飴とは違う。

 

「これ、どうやって量るんですか」

 

 思わず声に出た。

 

 リュシアが少し笑う。

 

「だから見に来たんだよ」

 

 店主は、澪の顔を見て声を立てて笑った。

 

「菓子に使うなら目で見る。そんなに顔を固くするもんじゃない」

 

 澪は、目で見るのが一番困ると思った。

 

 秤はある。柄杓もある。だが、木べらに絡んで戻っていかないものを、どう正確に測るのか。帳面に書いた十二から十五グラムという数字が、急に遠くなった。

 

 

 

 

 

「何をしている」

 

 予想していたようで、予想より早く、その声は来た。

 

 少年服姿のエレナ・ヴァルディスが、護衛を連れて店先に現れた。帽子の下から赤い髪が少しこぼれている。目はもう、水飴の壺に釘付けだった。

 

 護衛の顔色は最初から悪い。

 

 飴屋の店主は「姫様」と言って少し姿勢を正したが、リュシアが先に手を上げた。

 

「今日は買い物です。遊びではありません」

 

「買い物なら、品を見る必要がある」

 

 エレナは壺へ一歩近づいた。

 

「品質確認だ」

 

 その指が水飴へ伸びた瞬間、澪、リュシア、護衛の手が同時に動いた。

 

 護衛はエレナの手首を押さえ、リュシアは壺の前に立ち、澪は木べらを抱えるように持ち上げていた。

 

 エレナがむっとする。

 

「まだ触っていない」

 

「触る前に止めました」

 

 護衛は真顔だった。

 

「姫様の品質確認は、だいたいつまみ食いです」

 

 リュシアも真顔だった。

 

「飲み物に使うものなので、指はだめです」

 

 澪も真顔だった。

 

 エレナは三人を順番に見たあと、少し考えた。

 

「なら木べらならよいのか」

 

「そういう意味ではありません」

 

 澪は即答した。

 

 横では、トトが木べらをじっと見ていた。

 

「トト」

 

 リュシアが名前を呼ぶと、トトはすぐに言った。

 

「まだ舐めてない」

 

「まだ、って言ったね」

 

 トトは口を閉じた。

 

 飴屋の店主は慣れた顔で笑っている。

 

「子供はみんなそうだよ。姫様も似たようなもんだ」

 

 護衛が何か言いかけて、やめた。否定しづらかったのだろう。

 

 エレナは胸を張る。

 

「私は子供ではない」

 

 トトが小声で言った。

 

「さっき指出した」

 

「品質確認だ」

 

「舐める気だった」

 

「確認だ」

 

 その二人を見て、澪は、今日の敵は水飴ではなく水飴に向かう手かもしれないと思った。

 

 

 

 

 

 リュシアは、壺を指しながら店主と話し始めた。

 

 上等なものは香りがよく、色もきれいだが値が張る。安いものは量を取れるが、焦げた匂いや雑味が混じることがある。菓子にするなら少しの癖も味になるが、飲み物に薄く使うなら、変な匂いは目立つ。

 

 澪はそのやり取りを聞きながら、帳面を開いた。

 

 店主が別の壺を出す。さっきより色は少し濃いが、匂いは悪くない。木べらで持ち上げると、重く伸びて、ゆっくり落ちる。

 

「黒砂糖は、味を見せる時には強い。でも、毎日使うなら腹に優しい値じゃない」

 

 リュシアは澪へ言った。

 

「こっちは香りは弱いけど、続けるには向いてる。水にすぐ入れたら底で粘るから、先に湯でゆるめる」

 

 店主もうなずく。

 

「冷たい水に落とす客はいないね。鍋で少しゆるめる。菓子でもそうするんだよ。薄く使うなら、焦げ臭くない壺を選びな。安いだけで選ぶと、子供が飲まない」

 

「子供は飲まないんですか」

 

「甘けりゃ何でも飲むと思ったら間違いだよ。変な匂いは、ちゃんと嫌がる」

 

 澪はトトを見た。トトは壺を見ている。すでに飲む前から何かを判断していそうだった。

 

 安ければいいわけではない。

 

 リュシアが前に言っていたことが、また別の形で出てきた。安く続けるための水飴でも、安すぎて飲まれなければ意味がない。黒砂糖は香りを見せる分。水飴は毎日飲む分。澪はそう書こうとして、手を止めた。

 

 短く書けば簡単だ。

 

 でも、実際には壺ごとに匂いが違う。子供が飲む。屋台で湯を使う。洗う手間もある。簡単な言葉で済ませると、またあとで困る気がした。

 

 澪はリュシアの言葉を思い出しながら、帳面に少し長く書いた。

 

 黒砂糖は香りを見せる時。水飴は、毎日飲む分に試す。ただし焦げた匂いの強いものは避ける。

 

 書き終える前に、エレナが壺をのぞき込んだ。

 

「黒砂糖より地味だな」

 

「地味でも続く方が強い時があります」

 

 澪が言うと、エレナは少しだけ考えた。

 

「では、これは市場向きか」

 

「たぶん」

 

「屋敷向きではないのか」

 

「屋敷には黒砂糖版を見せた方が、分かりやすいかもしれません」

 

 エレナは満足そうにうなずいた。自分用の甘い方を確保した顔だった。

 

 護衛がそれを見て、また少し顔色を悪くした。

 

 

 

 

 

 リュシアは、小さな小樽一つ分の水飴を買うことにした。

 

 店主が蓋をし、樽の口をしっかり布で押さえる。大きさは抱えられないほどではない。だが、中身が水飴なので、見た目よりずっと重い。持ち上げた店主の腕に力が入った。

 

「横にしたらだめだよ。漏れたら面倒だからね」

 

「俺、運べる」

 

 トトがすぐに言った。

 

「途中で舐める」

 

 リュシアもすぐに返した。

 

「舐めない」

 

「今、樽を見て唇を舐めた」

 

「乾いてた」

 

「水を飲みな」

 

 トトは不満そうに口を尖らせる。

 

 エレナも手を出した。

 

「私なら落とさぬ」

 

 護衛の反応は、トトの時より早かった。

 

「落とす心配だけではありません」

 

 澪が思わず言う。

 

「舐める心配ですね」

 

「はい」

 

 護衛は深くうなずいた。

 

「私まで一緒にするな」

 

 エレナは怒ったが、さっき指を伸ばしたところを全員に見られているので、説得力は弱かった。

 

 澪は小樽の縁に手を置いた。

 

「収納で運びます」

 

 頭の中に、在庫表のような感覚を開く。最近は、ただ入れるよりも、名前と数と使い道を意識した方が安定する。リュシアに教わったやり方だ。

 

 水飴入り小樽。数量、一。内容物、水飴。用途、補水飲料用甘味。飴屋から購入。封あり。飲料用。指を入れない。洗浄用と混ぜない。

 

 そこまで意識すると、小樽の重みがふっと手から消えた。

 

 トトとエレナが同時に「あ」と言った。店主も目を丸くしたが、リュシアは初めて見る顔ではなかった。むしろ、澪の方を確認するように見た。

 

「飲料用って入れたね」

 

「入れました」

 

「指を入れないも?」

 

「入れました」

 

「そこが一番大事かもしれないね」

 

 トトとエレナが同時に不満そうな顔をした。

 

 護衛は、二人を見比べてから、深くため息をついた。

 

 

 

 

 

 屋台裏へ戻ると、澪は大鍋の前で立ち止まった。

 

 小樽をそのまま出して、木べらですくう。普通ならそうする。けれど、さっき見た水飴の粘りを思い出すと、小樽の縁も、木べらも、手元も、全部べたべたになる未来が見えた。

 

 澪は大鍋の内側を見た。

 

 飲料作成用。洗浄済み。火にかけない。洗浄剤を入れない。

 

 頭の中で、前に登録した内容が浮かぶ。

 

「これ、中身だけ大鍋に出せたり……しますかね」

 

 リュシアが眉を上げた。

 

「やるなら、鍋の中だけにしなよ」

 

「はい」

 

 澪は大鍋の底を見つめた。収納の中にある水飴入り小樽を思い浮かべる。小樽そのものではなく、中身だけ。全部ではなく、使う分だけ。いや、細かく指定できる気はしない。せめて、大きな塊で、鍋の中へ。

 

 そう意識した瞬間、大鍋の底に琥珀色の塊がどろりと落ちた。

 

 音は大きくない。けれど、粘るものが金属の底に乗る鈍い感じが、屋台裏の空気を一瞬止めた。

 

 トトが歓声を上げる。

 

「出た!」

 

 エレナが身を乗り出す。

 

「今、樽はどこへ行った」

 

 護衛が慌ててエレナの肩を押さえた。

 

「エレナ様、鍋に近づかないでください」

 

 澪自身も、成功したことに驚いていた。小樽は収納の中に残っている感覚がある。中身の一部だけが、大鍋へ移った。だが、量は思ったより大きい。細かい調整をしたというより、どろりとまとまりが落ちた感じだった。

 

「……出ました」

 

「便利だけど、まだ雑だね」

 

 リュシアはすぐに小鍋へ湯を用意し始めた。

 

「飲み物にするなら、ここから伸ばすよ」

 

 澪はうなずいた。

 

 収納は便利になった。だが、計量まで勝手にやってくれるわけではない。結局、湯も、木べらも、秤も、リュシアの手つきも必要だった。

 

 

 

 

 

 小鍋の湯へ水飴を少し移すだけでも、思ったより時間がかかった。

 

 木べらに絡む。離れない。伸びる。切れたと思うと、また細い糸が鍋へ戻っていく。澪は秤の上に器を置き、木べらから落ちる分を待ったが、数字が少しずつしか動かない。

 

 トトは、その糸を目で追っていた。

 

 エレナも目で追っていた。

 

 護衛はエレナの手元を見ていた。

 

「トト」

 

 リュシアが呼ぶ。

 

「まだ舐めてない」

 

「今はまだ何も言ってないよ」

 

「先に言った」

 

「言わなくても分かるからね」

 

 トトは少し悔しそうだった。

 

 澪が水飴をそのまま大鍋へ落とそうとすると、リュシアが手を止めた。

 

「そのまま落とすと、底で固まる。先に湯で伸ばすんだよ」

 

「はい」

 

 澪は小鍋の湯へ水飴を入れ、木べらでゆっくり動かした。水飴はすぐにはなじまない。湯の中で重く揺れ、少しずつゆるんでいく。現代側のさらっとしたシロップを思い浮かべていた自分を、澪は少しだけ反省した。

 

 ようやく湯になじんだところで、塩を少量入れる。クエン酸もほんの少し。大鍋の水へ、ゆるめた水飴液を少しずつ加えていく。

 

 全部入れればいいわけではない。

 

 澪は帳面の数字を思い出しながらも、リュシアの顔とトトの反応を見た。計算は出発点だ。飲むのはこの場の人間である。

 

「少し、味見しましょう」

 

 澪が言うと、トトの顔が明るくなった。

 

「味見は舐めるのと違う?」

 

「違います。器で飲みます」

 

「木べらは?」

 

「木べらはだめです」

 

 トトは少しだけ肩を落とした。

 

 

 

 

 

 水飴版の補水飲料は、黒砂糖版よりずっとおとなしい味だった。

 

 色は薄く、香りも弱い。最初の一口は、澪にも少し物足りなく感じた。黒砂糖のような分かりやすい甘い香りがない。口に入れた時の満足感も控えめだ。

 

 トトは器を両手で持って、正直に言った。

 

「黒い甘いやつの方がうまい」

 

 澪は少し落ち込んだ。

 

 やっぱりそうか、と思った。子供にとって分かりやすい甘さは強い。黒砂糖版を知っているなら、水飴版は薄く感じるだろう。

 

 だが、トトは器を差し出した。

 

「でも、こっちはもう一杯飲める」

 

 澪は顔を上げた。

 

 リュシアがうなずく。

 

「それでいい。これは菓子じゃない。荷を運ぶ前に飲んで、倒れないためのものだよ」

 

 トトはもう一口飲んで、首を傾げた。

 

「甘いのに、あとで喉が変にならない」

 

「そこが大事です」

 

 澪は少し安心した。

 

 エレナも器を持ち、慎重に飲んだ。こちらは味わう顔が明らかに貴族の娘だった。目を細め、しばらく黙る。

 

「黒砂糖の方が姫様向きだな」

 

 護衛がすぐに聞いた。

 

「エレナ様、それは自分用という意味ですか」

 

「品質の違いを述べただけだ」

 

「では、持ち帰るとは言っていませんね」

 

「まだ言っていない」

 

 護衛はその「まだ」に反応していたが、澪はそれどころではなかった。

 

 黒砂糖版は、香りを見せる特別用。

 

 水飴版は、毎日飲むための市場用。

 

 同じ補水飲料でも、役割が違う。そう考えると、さっきの薄さは失敗ではなく、むしろ狙うべきところなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 問題は、味見のあとに出てきた。

 

 木べらに水飴が残る。小鍋の底にも少し残る。洗おうとすると、湯でゆるんだ飴が指へ伸びそうになる。澪は布で拭き取ろうとして、布までべたつく未来が見えて手を止めた。

 

 トトは木べらを見ている。

 

 エレナも木べらを見ている。

 

 護衛は、エレナと木べらの間に立った。

 

「水飴の方が面白いな」

 

 エレナが言った。

 

「面白いと危険は近いです」

 

 護衛が答えた。

 

 澪は、その言葉に妙に納得した。

 

 リュシアは水飴のついた木べらを別の器に置き、トトの手が伸びる前に軽く払った。

 

「これは飲み物用。舐める用じゃない」

 

「まだ舐めてない」

 

「また、まだって言ったね」

 

 リュシアはさらに、湯をくぐらせた木べらを澪に見せた。

 

「水飴を触った道具は、飲み口に近づけない方がいいね。甘い匂いが残ると虫も来る。フタの溝に入ったら、洗うのが面倒だよ」

 

 澪は、ペットボトルのフタを思い出してぞっとした。あの細かい溝に水飴が入ったら、確かに大変だ。洗いにくいだけではなく、甘い匂いが残る。

 

「水飴は、ペットボトルへ直接入れない」

 

 澪が言うと、リュシアはうなずいた。

 

「先に湯で伸ばす。余ったのは長く置かない。子供に任せる時は、澪か私がいる時だけだね」

 

「姫様は?」

 

「護衛さんがいる時だけ」

 

 エレナが抗議しようとしたが、護衛が深くうなずいた。

 

「承知しました」

 

「私はまだ何もしていない」

 

「何もしていない今のうちに決めます」

 

 エレナはむっとしたが、木べらから目を離していなかった。説得力は弱い。

 

 澪は、水飴が安いと聞いて少し安心していた自分を、ここで訂正した。

 

 安い材料には、安い材料なりの面倒がある。

 

 

 

 

 

 片付けが進むころ、澪は洗った木べらを布で拭きながら考えていた。

 

 現代側で集める容器は必要だ。水やお茶が入っていたものだけ、出所が分かるものだけにする。クエン酸と塩は少量で済むので、買い置きできる。タオルと扇子は数が要るから、通販を使うことになるだろう。

 

 一方で、甘味はこの市場で買える。

 

 湯はリュシアの屋台で用意できる。大鍋もある。子供たちの手もある。もちろん、その手には駄賃が必要になる。市場の札を持つ者へ渡す分も、場所を使う分も、忘れてはいけない。

 

 澪が黙っていると、リュシアが横から言った。

 

「澪の向こうでしか手に入らない物は、澪が持ってくる。こっちで買える物は、こっちで買う。その方が続く」

 

「持ってくるだけなら、簡単だった気がします」

 

「簡単だった?」

 

「いえ、簡単ではないんですけど。考える場所が、一つだけだったので」

 

 澪は布を絞った。水飴の匂いがまだ少し残っている。

 

「続けるなら、こっちの材料と人に混ぜないといけないんですね」

 

 リュシアは少し笑った。

 

「ようやく屋台の顔になってきたね」

 

「嬉しいような、怖いような」

 

「商売はだいたい両方だよ」

 

 その言い方があまりに自然で、澪は返す言葉に困った。

 

 押入商会は、ただ現代品を持ち込むだけのものではなくなってきている。現代の容器、現代のクエン酸と塩、異世界の水飴、リュシアの屋台、子供たちの手、エレナの騒ぎ。全部が混ざって、ようやく一つの商品になる。

 

 その商品は、作るより続ける方が難しい。

 

 澪は、帳面に水飴の文字を書きかけて、また手を止めた。たぶん、水飴だけでは足りない。木べらの扱い、壺の置き場所、誰が触るか、舐めていないかの見張りまで書く必要がある。

 

 帳面は、今日もまた厚くなる。

 

 

 

 

 

「私も量る」

 

 エレナが言った。

 

 澪は、反射的にリュシアを見た。リュシアは水飴の壺を見て、エレナを見て、護衛を見た。

 

「舐めない」

 

「舐めない」

 

「増やさない」

 

「増やさない」

 

「木べらを壺に戻さない」

 

「戻さない」

 

「指で触らない」

 

「触らない」

 

「護衛さんが横に立つ」

 

「……それは必要か」

 

「必要です」

 

 護衛が即答した。

 

「澪が見ている時だけ」

 

 リュシアが最後に言うと、エレナは少し不満そうにした。だが、量ること自体にはかなり興味があるらしく、うなずいた。

 

「私は学ぶ女だ」

 

「なら、次は舐めないことも学んでください」

 

「まだ舐めていない」

 

 エレナは木べらを持ち、水飴をすくった。琥珀色の飴が重たく伸びる。糸がなかなか切れない。エレナは真剣な顔で待った。

 

 トトが横から言う。

 

「姫様、飴に負けてる」

 

 エレナの眉がぴくりと動いた。

 

「負けていない」

 

 護衛が静かに言う。

 

「飴に勝たなくてよいです」

 

 澪は笑いそうになりながら、秤の数字を見た。エレナは少し多く入れようとした気配があった。だが、澪の視線に気づくと、木べらの先を戻して、ちゃんと量を合わせた。

 

 意外に真面目だ。

 

 澪がそう思った瞬間、エレナは得意げに胸を張った。

 

「見たか」

 

「見ました。ちゃんと量れてました」

 

「そうだろう」

 

 護衛が小さく安堵した。

 

「舐めませんでした」

 

「それも見ました」

 

 エレナはますます得意げになった。

 

 リュシアが水飴の壺に布をかける。

 

「じゃあ、今日はここまで」

 

 その言葉に、トトが木べらを見た。

 

 木べらには、まだ水飴が少し残っていた。

 

 

 

 

 

「トト」

 

 リュシアが言った。

 

 トトは木べらから目を離さずに答えた。

 

「まだ舐めてない」

 

 リュシアが一歩近づく。

 

 トトは木べらから一歩離れた。

 

 なぜかエレナも一歩離れた。

 

 護衛は、エレナが離れたことに心からほっとした顔をした。

 

 澪は帳面を開いたまま、ペンを止めた。水飴、と書くだけでは足りない。木べらの置き場所。壺の扱い。誰が触っていいか。湯でゆるめること。ペットボトルへ直接入れないこと。舐めていないか見張ること。

 

 最後の項目は、書くべきか迷う。

 

 リュシアが木べらを別の器へ入れ、トトから遠ざけた。トトは残念そうにしたが、まだ粘っている。エレナも、表情だけは平静を装っているが、視線が器へ向かっていた。

 

 澪は小さく息を吐いた。

 

 水飴は黒砂糖より安い。

 

 それは確かだった。

 

 でも、安い材料には、安い材料なりの騒ぎ方があった。

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