六畳間の机の上には、小金貨の入った布袋と、開きっぱなしの帳面と、飲み終えたペットボトルが一本並んでいた。
澪はその横にスマホを置き、税金の検索画面を閉じた。閉じたからといって、税金という文字が頭から消えるわけではない。むしろ、見なかったことにしようとした分だけ、布袋の重さが机の端で主張してくる。
「日本側の小皿も必要……」
小さくつぶやいてから、澪は首を振った。今はそこへ深く沈むと戻ってこられない。リュシアに言われた水飴の分量を考えなければならない。
スマホの相談画面を開き、澪はゆっくり入力した。
黒砂糖十グラム。水飴。糖分。甘さの違い。補水飲料に使う量。
送信して、しばらく待つ。
画面に返ってきた文章を、澪は眉を寄せながら読んだ。黒砂糖十グラムは糖分として九グラム弱。水飴十グラムも糖分はある。ただし、甘味としては砂糖より弱く感じやすい。同じ甘さに近づけたいなら、水飴は多めに必要。
そこまでは分かる。
問題は、その先だった。
補水飲料は菓子ではない。水飴を増やしすぎると粘り、後味、洗いにくさが出る。甘い匂いが残りやすく、虫や汚れにも注意。
澪は、まだ見ぬ水飴を想像した。木べらに絡み、糸を引き、トトがじっと見て、エレナが「品質確認だ」と言いながら指を伸ばす。そこまで見えた気がして、澪はスマホを持ったまま固まった。
「水飴を増やしたら、別の意味で危ない」
甘さを黒砂糖版に合わせることだけを考えると、面倒なことになる。飲むのは菓子を食べたい子供ではなく、暑い中で荷を運ぶ子供たちだ。喉に残らず、もう一口飲めるくらいの方がいい。
澪は帳面にゆっくり書いた。
黒砂糖版は五百ミリに八から十グラム。水飴版は十二から十五グラム。塩とクエン酸は、入れすぎない。甘さをそろえるのではなく、暑い時に飲める甘さにする。
数字を書いたあと、澪はその下へ小さく足した。
最後はリュシアとトトの舌で決める。
相談画面は計算してくれる。けれど、トトがもう一杯と言うかどうかまでは、画面には分からない。
市場の通りは、昼前からすでに賑やかだった。
焼き物の匂い、干した魚の匂い、油を温める匂い、香草を刻む匂いが、狭い道に重なっている。澪は帳面を胸に抱え、リュシアの後ろを歩いた。小金貨を小皿へ分けた日のことが頭に残っていて、何かを買うだけでも、これはどの皿から出すお金なのだろうと考えてしまう。
「顔が固いね」
リュシアが横目で言った。
「買い物って、こんなに緊張するものなんですね」
「緊張してるうちは、無駄遣いしにくいよ」
「それは、いいことなんでしょうか」
「悪くはないね。面白くはないけど」
屋台から少し離れた一角に、甘い匂いのする店があった。干した果物を固めた菓子、麦芽の飴、布をかけた壺、浅い木箱に並んだ硬い飴が、狭い店先に所狭しと置かれている。
澪が足を止めた時、背後で小さな足音が止まった。
振り返ると、トトがいた。
「トト、いつからいました?」
「甘い匂いがしたところから」
リュシアが腕を組む。
「つまり最初からだね」
「違う。甘い匂いがしたところから」
「だいたい最初だよ」
トトは納得していない顔をしたが、目はもう店先の壺へ向いていた。
飴屋の店主は、リュシアを見ると片手を上げた。年配の女で、腕まくりをした手に、飴の艶が少し残っている。リュシアとは顔見知りらしく、余計な挨拶は短かった。
「今日は何だい。屋台で菓子でも出すのかい」
「飲み物に使う甘味を見たいんだよ。黒砂糖ばかりじゃ続かない」
「なら、こっちだね」
店主は、布を外して壺を見せた。
澪は、中をのぞき込んで、思わず息を止めた。
透明なシロップではなかった。少し琥珀色で、重たそうな艶があり、店主が木べらを差し込んですくうと、粘る飴が糸を引いてゆっくり持ち上がった。光を受けて、細い糸が伸びる。澪の知っている扱いやすい水飴とは違う。
「これ、どうやって量るんですか」
思わず声に出た。
リュシアが少し笑う。
「だから見に来たんだよ」
店主は、澪の顔を見て声を立てて笑った。
「菓子に使うなら目で見る。そんなに顔を固くするもんじゃない」
澪は、目で見るのが一番困ると思った。
秤はある。柄杓もある。だが、木べらに絡んで戻っていかないものを、どう正確に測るのか。帳面に書いた十二から十五グラムという数字が、急に遠くなった。
「何をしている」
予想していたようで、予想より早く、その声は来た。
少年服姿のエレナ・ヴァルディスが、護衛を連れて店先に現れた。帽子の下から赤い髪が少しこぼれている。目はもう、水飴の壺に釘付けだった。
護衛の顔色は最初から悪い。
飴屋の店主は「姫様」と言って少し姿勢を正したが、リュシアが先に手を上げた。
「今日は買い物です。遊びではありません」
「買い物なら、品を見る必要がある」
エレナは壺へ一歩近づいた。
「品質確認だ」
その指が水飴へ伸びた瞬間、澪、リュシア、護衛の手が同時に動いた。
護衛はエレナの手首を押さえ、リュシアは壺の前に立ち、澪は木べらを抱えるように持ち上げていた。
エレナがむっとする。
「まだ触っていない」
「触る前に止めました」
護衛は真顔だった。
「姫様の品質確認は、だいたいつまみ食いです」
リュシアも真顔だった。
「飲み物に使うものなので、指はだめです」
澪も真顔だった。
エレナは三人を順番に見たあと、少し考えた。
「なら木べらならよいのか」
「そういう意味ではありません」
澪は即答した。
横では、トトが木べらをじっと見ていた。
「トト」
リュシアが名前を呼ぶと、トトはすぐに言った。
「まだ舐めてない」
「まだ、って言ったね」
トトは口を閉じた。
飴屋の店主は慣れた顔で笑っている。
「子供はみんなそうだよ。姫様も似たようなもんだ」
護衛が何か言いかけて、やめた。否定しづらかったのだろう。
エレナは胸を張る。
「私は子供ではない」
トトが小声で言った。
「さっき指出した」
「品質確認だ」
「舐める気だった」
「確認だ」
その二人を見て、澪は、今日の敵は水飴ではなく水飴に向かう手かもしれないと思った。
リュシアは、壺を指しながら店主と話し始めた。
上等なものは香りがよく、色もきれいだが値が張る。安いものは量を取れるが、焦げた匂いや雑味が混じることがある。菓子にするなら少しの癖も味になるが、飲み物に薄く使うなら、変な匂いは目立つ。
澪はそのやり取りを聞きながら、帳面を開いた。
店主が別の壺を出す。さっきより色は少し濃いが、匂いは悪くない。木べらで持ち上げると、重く伸びて、ゆっくり落ちる。
「黒砂糖は、味を見せる時には強い。でも、毎日使うなら腹に優しい値じゃない」
リュシアは澪へ言った。
「こっちは香りは弱いけど、続けるには向いてる。水にすぐ入れたら底で粘るから、先に湯でゆるめる」
店主もうなずく。
「冷たい水に落とす客はいないね。鍋で少しゆるめる。菓子でもそうするんだよ。薄く使うなら、焦げ臭くない壺を選びな。安いだけで選ぶと、子供が飲まない」
「子供は飲まないんですか」
「甘けりゃ何でも飲むと思ったら間違いだよ。変な匂いは、ちゃんと嫌がる」
澪はトトを見た。トトは壺を見ている。すでに飲む前から何かを判断していそうだった。
安ければいいわけではない。
リュシアが前に言っていたことが、また別の形で出てきた。安く続けるための水飴でも、安すぎて飲まれなければ意味がない。黒砂糖は香りを見せる分。水飴は毎日飲む分。澪はそう書こうとして、手を止めた。
短く書けば簡単だ。
でも、実際には壺ごとに匂いが違う。子供が飲む。屋台で湯を使う。洗う手間もある。簡単な言葉で済ませると、またあとで困る気がした。
澪はリュシアの言葉を思い出しながら、帳面に少し長く書いた。
黒砂糖は香りを見せる時。水飴は、毎日飲む分に試す。ただし焦げた匂いの強いものは避ける。
書き終える前に、エレナが壺をのぞき込んだ。
「黒砂糖より地味だな」
「地味でも続く方が強い時があります」
澪が言うと、エレナは少しだけ考えた。
「では、これは市場向きか」
「たぶん」
「屋敷向きではないのか」
「屋敷には黒砂糖版を見せた方が、分かりやすいかもしれません」
エレナは満足そうにうなずいた。自分用の甘い方を確保した顔だった。
護衛がそれを見て、また少し顔色を悪くした。
リュシアは、小さな小樽一つ分の水飴を買うことにした。
店主が蓋をし、樽の口をしっかり布で押さえる。大きさは抱えられないほどではない。だが、中身が水飴なので、見た目よりずっと重い。持ち上げた店主の腕に力が入った。
「横にしたらだめだよ。漏れたら面倒だからね」
「俺、運べる」
トトがすぐに言った。
「途中で舐める」
リュシアもすぐに返した。
「舐めない」
「今、樽を見て唇を舐めた」
「乾いてた」
「水を飲みな」
トトは不満そうに口を尖らせる。
エレナも手を出した。
「私なら落とさぬ」
護衛の反応は、トトの時より早かった。
「落とす心配だけではありません」
澪が思わず言う。
「舐める心配ですね」
「はい」
護衛は深くうなずいた。
「私まで一緒にするな」
エレナは怒ったが、さっき指を伸ばしたところを全員に見られているので、説得力は弱かった。
澪は小樽の縁に手を置いた。
「収納で運びます」
頭の中に、在庫表のような感覚を開く。最近は、ただ入れるよりも、名前と数と使い道を意識した方が安定する。リュシアに教わったやり方だ。
水飴入り小樽。数量、一。内容物、水飴。用途、補水飲料用甘味。飴屋から購入。封あり。飲料用。指を入れない。洗浄用と混ぜない。
そこまで意識すると、小樽の重みがふっと手から消えた。
トトとエレナが同時に「あ」と言った。店主も目を丸くしたが、リュシアは初めて見る顔ではなかった。むしろ、澪の方を確認するように見た。
「飲料用って入れたね」
「入れました」
「指を入れないも?」
「入れました」
「そこが一番大事かもしれないね」
トトとエレナが同時に不満そうな顔をした。
護衛は、二人を見比べてから、深くため息をついた。
屋台裏へ戻ると、澪は大鍋の前で立ち止まった。
小樽をそのまま出して、木べらですくう。普通ならそうする。けれど、さっき見た水飴の粘りを思い出すと、小樽の縁も、木べらも、手元も、全部べたべたになる未来が見えた。
澪は大鍋の内側を見た。
飲料作成用。洗浄済み。火にかけない。洗浄剤を入れない。
頭の中で、前に登録した内容が浮かぶ。
「これ、中身だけ大鍋に出せたり……しますかね」
リュシアが眉を上げた。
「やるなら、鍋の中だけにしなよ」
「はい」
澪は大鍋の底を見つめた。収納の中にある水飴入り小樽を思い浮かべる。小樽そのものではなく、中身だけ。全部ではなく、使う分だけ。いや、細かく指定できる気はしない。せめて、大きな塊で、鍋の中へ。
そう意識した瞬間、大鍋の底に琥珀色の塊がどろりと落ちた。
音は大きくない。けれど、粘るものが金属の底に乗る鈍い感じが、屋台裏の空気を一瞬止めた。
トトが歓声を上げる。
「出た!」
エレナが身を乗り出す。
「今、樽はどこへ行った」
護衛が慌ててエレナの肩を押さえた。
「エレナ様、鍋に近づかないでください」
澪自身も、成功したことに驚いていた。小樽は収納の中に残っている感覚がある。中身の一部だけが、大鍋へ移った。だが、量は思ったより大きい。細かい調整をしたというより、どろりとまとまりが落ちた感じだった。
「……出ました」
「便利だけど、まだ雑だね」
リュシアはすぐに小鍋へ湯を用意し始めた。
「飲み物にするなら、ここから伸ばすよ」
澪はうなずいた。
収納は便利になった。だが、計量まで勝手にやってくれるわけではない。結局、湯も、木べらも、秤も、リュシアの手つきも必要だった。
小鍋の湯へ水飴を少し移すだけでも、思ったより時間がかかった。
木べらに絡む。離れない。伸びる。切れたと思うと、また細い糸が鍋へ戻っていく。澪は秤の上に器を置き、木べらから落ちる分を待ったが、数字が少しずつしか動かない。
トトは、その糸を目で追っていた。
エレナも目で追っていた。
護衛はエレナの手元を見ていた。
「トト」
リュシアが呼ぶ。
「まだ舐めてない」
「今はまだ何も言ってないよ」
「先に言った」
「言わなくても分かるからね」
トトは少し悔しそうだった。
澪が水飴をそのまま大鍋へ落とそうとすると、リュシアが手を止めた。
「そのまま落とすと、底で固まる。先に湯で伸ばすんだよ」
「はい」
澪は小鍋の湯へ水飴を入れ、木べらでゆっくり動かした。水飴はすぐにはなじまない。湯の中で重く揺れ、少しずつゆるんでいく。現代側のさらっとしたシロップを思い浮かべていた自分を、澪は少しだけ反省した。
ようやく湯になじんだところで、塩を少量入れる。クエン酸もほんの少し。大鍋の水へ、ゆるめた水飴液を少しずつ加えていく。
全部入れればいいわけではない。
澪は帳面の数字を思い出しながらも、リュシアの顔とトトの反応を見た。計算は出発点だ。飲むのはこの場の人間である。
「少し、味見しましょう」
澪が言うと、トトの顔が明るくなった。
「味見は舐めるのと違う?」
「違います。器で飲みます」
「木べらは?」
「木べらはだめです」
トトは少しだけ肩を落とした。
水飴版の補水飲料は、黒砂糖版よりずっとおとなしい味だった。
色は薄く、香りも弱い。最初の一口は、澪にも少し物足りなく感じた。黒砂糖のような分かりやすい甘い香りがない。口に入れた時の満足感も控えめだ。
トトは器を両手で持って、正直に言った。
「黒い甘いやつの方がうまい」
澪は少し落ち込んだ。
やっぱりそうか、と思った。子供にとって分かりやすい甘さは強い。黒砂糖版を知っているなら、水飴版は薄く感じるだろう。
だが、トトは器を差し出した。
「でも、こっちはもう一杯飲める」
澪は顔を上げた。
リュシアがうなずく。
「それでいい。これは菓子じゃない。荷を運ぶ前に飲んで、倒れないためのものだよ」
トトはもう一口飲んで、首を傾げた。
「甘いのに、あとで喉が変にならない」
「そこが大事です」
澪は少し安心した。
エレナも器を持ち、慎重に飲んだ。こちらは味わう顔が明らかに貴族の娘だった。目を細め、しばらく黙る。
「黒砂糖の方が姫様向きだな」
護衛がすぐに聞いた。
「エレナ様、それは自分用という意味ですか」
「品質の違いを述べただけだ」
「では、持ち帰るとは言っていませんね」
「まだ言っていない」
護衛はその「まだ」に反応していたが、澪はそれどころではなかった。
黒砂糖版は、香りを見せる特別用。
水飴版は、毎日飲むための市場用。
同じ補水飲料でも、役割が違う。そう考えると、さっきの薄さは失敗ではなく、むしろ狙うべきところなのかもしれない。
問題は、味見のあとに出てきた。
木べらに水飴が残る。小鍋の底にも少し残る。洗おうとすると、湯でゆるんだ飴が指へ伸びそうになる。澪は布で拭き取ろうとして、布までべたつく未来が見えて手を止めた。
トトは木べらを見ている。
エレナも木べらを見ている。
護衛は、エレナと木べらの間に立った。
「水飴の方が面白いな」
エレナが言った。
「面白いと危険は近いです」
護衛が答えた。
澪は、その言葉に妙に納得した。
リュシアは水飴のついた木べらを別の器に置き、トトの手が伸びる前に軽く払った。
「これは飲み物用。舐める用じゃない」
「まだ舐めてない」
「また、まだって言ったね」
リュシアはさらに、湯をくぐらせた木べらを澪に見せた。
「水飴を触った道具は、飲み口に近づけない方がいいね。甘い匂いが残ると虫も来る。フタの溝に入ったら、洗うのが面倒だよ」
澪は、ペットボトルのフタを思い出してぞっとした。あの細かい溝に水飴が入ったら、確かに大変だ。洗いにくいだけではなく、甘い匂いが残る。
「水飴は、ペットボトルへ直接入れない」
澪が言うと、リュシアはうなずいた。
「先に湯で伸ばす。余ったのは長く置かない。子供に任せる時は、澪か私がいる時だけだね」
「姫様は?」
「護衛さんがいる時だけ」
エレナが抗議しようとしたが、護衛が深くうなずいた。
「承知しました」
「私はまだ何もしていない」
「何もしていない今のうちに決めます」
エレナはむっとしたが、木べらから目を離していなかった。説得力は弱い。
澪は、水飴が安いと聞いて少し安心していた自分を、ここで訂正した。
安い材料には、安い材料なりの面倒がある。
片付けが進むころ、澪は洗った木べらを布で拭きながら考えていた。
現代側で集める容器は必要だ。水やお茶が入っていたものだけ、出所が分かるものだけにする。クエン酸と塩は少量で済むので、買い置きできる。タオルと扇子は数が要るから、通販を使うことになるだろう。
一方で、甘味はこの市場で買える。
湯はリュシアの屋台で用意できる。大鍋もある。子供たちの手もある。もちろん、その手には駄賃が必要になる。市場の札を持つ者へ渡す分も、場所を使う分も、忘れてはいけない。
澪が黙っていると、リュシアが横から言った。
「澪の向こうでしか手に入らない物は、澪が持ってくる。こっちで買える物は、こっちで買う。その方が続く」
「持ってくるだけなら、簡単だった気がします」
「簡単だった?」
「いえ、簡単ではないんですけど。考える場所が、一つだけだったので」
澪は布を絞った。水飴の匂いがまだ少し残っている。
「続けるなら、こっちの材料と人に混ぜないといけないんですね」
リュシアは少し笑った。
「ようやく屋台の顔になってきたね」
「嬉しいような、怖いような」
「商売はだいたい両方だよ」
その言い方があまりに自然で、澪は返す言葉に困った。
押入商会は、ただ現代品を持ち込むだけのものではなくなってきている。現代の容器、現代のクエン酸と塩、異世界の水飴、リュシアの屋台、子供たちの手、エレナの騒ぎ。全部が混ざって、ようやく一つの商品になる。
その商品は、作るより続ける方が難しい。
澪は、帳面に水飴の文字を書きかけて、また手を止めた。たぶん、水飴だけでは足りない。木べらの扱い、壺の置き場所、誰が触るか、舐めていないかの見張りまで書く必要がある。
帳面は、今日もまた厚くなる。
「私も量る」
エレナが言った。
澪は、反射的にリュシアを見た。リュシアは水飴の壺を見て、エレナを見て、護衛を見た。
「舐めない」
「舐めない」
「増やさない」
「増やさない」
「木べらを壺に戻さない」
「戻さない」
「指で触らない」
「触らない」
「護衛さんが横に立つ」
「……それは必要か」
「必要です」
護衛が即答した。
「澪が見ている時だけ」
リュシアが最後に言うと、エレナは少し不満そうにした。だが、量ること自体にはかなり興味があるらしく、うなずいた。
「私は学ぶ女だ」
「なら、次は舐めないことも学んでください」
「まだ舐めていない」
エレナは木べらを持ち、水飴をすくった。琥珀色の飴が重たく伸びる。糸がなかなか切れない。エレナは真剣な顔で待った。
トトが横から言う。
「姫様、飴に負けてる」
エレナの眉がぴくりと動いた。
「負けていない」
護衛が静かに言う。
「飴に勝たなくてよいです」
澪は笑いそうになりながら、秤の数字を見た。エレナは少し多く入れようとした気配があった。だが、澪の視線に気づくと、木べらの先を戻して、ちゃんと量を合わせた。
意外に真面目だ。
澪がそう思った瞬間、エレナは得意げに胸を張った。
「見たか」
「見ました。ちゃんと量れてました」
「そうだろう」
護衛が小さく安堵した。
「舐めませんでした」
「それも見ました」
エレナはますます得意げになった。
リュシアが水飴の壺に布をかける。
「じゃあ、今日はここまで」
その言葉に、トトが木べらを見た。
木べらには、まだ水飴が少し残っていた。
「トト」
リュシアが言った。
トトは木べらから目を離さずに答えた。
「まだ舐めてない」
リュシアが一歩近づく。
トトは木べらから一歩離れた。
なぜかエレナも一歩離れた。
護衛は、エレナが離れたことに心からほっとした顔をした。
澪は帳面を開いたまま、ペンを止めた。水飴、と書くだけでは足りない。木べらの置き場所。壺の扱い。誰が触っていいか。湯でゆるめること。ペットボトルへ直接入れないこと。舐めていないか見張ること。
最後の項目は、書くべきか迷う。
リュシアが木べらを別の器へ入れ、トトから遠ざけた。トトは残念そうにしたが、まだ粘っている。エレナも、表情だけは平静を装っているが、視線が器へ向かっていた。
澪は小さく息を吐いた。
水飴は黒砂糖より安い。
それは確かだった。
でも、安い材料には、安い材料なりの騒ぎ方があった。