六畳間の机の上には、小金貨の入った布袋と、開いたままの帳面、それに飲み終えたペットボトルが並んでいた。
澪はスマホの税金検索を閉じたが、机の端に置いた布袋を見ると、閉じたはずの画面が頭の中だけで勝手に開き直す。
「……ゲンダイ側にも小皿が要りますね」
昨日リュシアが並べた小皿を思い出して、澪は布袋を少し遠ざけた。
今そちらへ考え始めると、たぶん水飴までたどり着けない。
澪は相談画面を開き直し、黒砂糖10gと水飴の糖分、それから補水飲料に使う量を入力した。
返ってきた説明を読みながら、帳面へ数字を書き移していく。
黒砂糖10gなら糖分は9g弱で、水飴にも糖分はあるものの、同じ量では甘さを弱く感じやすいらしい。
「同じ甘さにするなら、水飴を増やす……」
そこで澪のペンが止まった。
甘さだけを追えば量は増やせるが、水飴が多くなれば粘りも残り、洗いにくくなって甘い匂いも強くなる。
木べらから糸を引く水飴の向こうにトトの顔が浮かび、その隣から「品質確認だ」と指を伸ばすエレナまで、まだ見てもいないのに妙にはっきり想像できた。
「水飴を増やしたら、別の意味で危ないですね」
飲むのは菓子を食べる子供ではなく、暑い市場で荷を運ぶ子供たちだ。
喉に甘さが残るより、もう一口飲みたくなるくらいの方がいい。
澪は帳面へ、黒砂糖版は500mlに8~10g、水飴版は12~15gと書き、塩とクエン酸には入れすぎないよう印をつけた。
最後に少し考えて、その下へもう1行だけ書き足す。
『最後はリュシアとトトの舌で決める』
相談画面なら糖分は計算できる。
けれど、トトが器を差し出して「もう一杯」と言うかどうかまでは、たぶん計算してくれない。
◇ ◇ ◇
市場の通りは昼前から人で埋まり、焼き物と干し魚と温めた油、それに刻んだ香草の匂いが狭い道へ重なっていた。
澪は帳面を胸に抱え、リュシアの半歩後ろを歩く。
昨日、小金貨を小皿へ分けたせいで、何かを見るたびに「これはどの皿から出すお金だろう」と考える癖がついていた。
「顔が固いね」
リュシアが横目で笑った。
「買い物って、こんなに緊張するものでしたっけ」
「緊張してるうちは、無駄遣いしにくいよ」
「それは良いことなんでしょうか」
「悪くはないね、面白くもないけど」
甘い匂いが強くなったところで、リュシアが通りの端へ曲がった。
干した果物を固めた菓子や麦芽の飴が並ぶ店先には、布をかけた壺がいくつも置かれている。
澪が足を止めると、背後でも小さな足音がぴたりと止まった。
振り返ると、トトがいた。
「トト、いつからいました?」
「甘い匂いがしたところから」
リュシアが腕を組んだ。
「それ、ほとんど最初からだよ」
「違うよ、甘い匂いがしたところから」
「同じようなもんだね」
トトは不満そうに眉を寄せたが、目だけはもう壺へ向いている。
店主はリュシアを見ると片手を上げ、菓子でも出すのかと気軽に声をかけてきた。
「飲み物に使う甘味を見たいんだよ、黒砂糖ばかりじゃ続かないからね」
「なら、こっちだ」
年配の店主が布を外すと、壺の中で琥珀色の水飴が重たそうな艶を返した。
木べらですくい上げると、飴はすぐには落ちず、細い糸を引きながらゆっくり伸びていく。
澪は自分が想像していた、さらりとしたシロップとはまるで違う物を見て黙った。
「これ、どうやって量るんですか」
リュシアが少し笑った。
「だから見に来たんだよ」
店主まで声を立てて笑う。
「菓子なら目で見るよ、そんなに怖い顔をするもんじゃない」
澪には、その「目で見る」がいちばん怖かった。
秤はあるし器もあるが、木べらに絡んで壺へ戻っていかない物を12~15gだけ取れと言われても、帳面の数字ほど素直にはいきそうにない。
◇ ◇ ◇
「何をしている」
聞き覚えのある声に、澪は水飴の糸から顔を上げた。
少年服姿のエレナがオスカーを連れて立っており、帽子の下から赤い髪をのぞかせながら、まっすぐ壺を見ている。
オスカーはその視線の先を確認しただけで、すでに少し疲れた顔になった。
「今日は買い物です、遊びではありません」
澪が先に言うと、エレナは当然のように胸を張った。
「買い物なら品を見る必要がある」
「見るだけなら、どうぞ」
「品質確認も必要だ」
エレナが壺へ一歩寄った。
指先が水飴へ伸びた瞬間、澪は木べらを持ち上げ、リュシアは壺の前へ入り、オスカーはエレナの手首をつかんだ。
「まだ触っていないぞ」
「触る前に止めました」
オスカーは真顔だった。
「姫様の品質確認は、だいたいつまみ食いだからね」
リュシアも真顔だった。
「飲み物に使う物なので、指はだめです」
澪も真顔で続いた。
エレナは三人を順に見てから、木べらへ視線を移した。
「なら、木べらならよいのか」
「そういう意味ではありません」
澪が即答すると、横でトトが木べらをじっと見た。
「トト」
リュシアが呼ぶより早く、トトは両手を背中へ回した。
「まだ舐めてない」
「まだ、って言ったね」
「見てるだけ」
エレナがトトを見た。
「お前も舐めたいのだろう」
「舐めたいよ」
あまりに迷いのない返事で、店主が吹き出した。
「なら同じではないか」
「でも、まだ触ってない」
「私も触っていない」
「姫様は指出したじゃん」
「品質確認だ」
「舐める気だった」
「確認だ」
オスカーが口を開きかけて、そっと閉じた。
どちらを止めればいいのか迷ったらしい。
リュシアは笑いを噛み殺しながら壺の前を動かず、澪も木べらをエレナとトトの両方から少し遠ざけた。
◇ ◇ ◇
リュシアは二人の視線を壺から外させるように、店主へ別の水飴も見せてくれと頼んだ。
上等な物は色が澄んで香りも良いが、そのぶん値が張るらしい。
安い物は量を取れる代わりに、焦げた匂いや雑味が混じることがあるという。
「菓子なら少しくらい癖があっても味になるけど、薄い飲み物だと変な匂いだけ残るんだよ」
店主が別の壺を出すと、さっきより色は濃いものの、鼻につく匂いはなかった。
木べらから落ちる水飴は重く、糸を引きながらゆっくり壺へ戻っていく。
「黒砂糖は香りを見せるには強いけど、毎日使うには高いからね」
リュシアが澪へ言った。
「こっちは地味だけど、続けるならこっちだよ」
店主もうなずいた。
「冷たい水へそのまま落とすんじゃなくて、先に湯でゆるめな」
澪は帳面を開きながら、トトへ目を向けた。
「安い水飴だと、子供は飲まないこともあるんですか」
「甘けりゃ何でも喜ぶと思ったら大間違いさ」
店主が笑った。
「変な匂いは、子供の方がよく気づくよ」
トトは壺を見たまま鼻を少し動かした。
「これは変じゃない」
「もう判定してるんですか」
「匂いは分かるよ」
エレナが別の壺へ目をやった。
「高い方が良い物なのだろう」
「良い物ではあるけど、毎日使えるかは別だね」
リュシアに返され、エレナは少し考えた。
「では、こちらは市場向きか」
「たぶん、そうなります」
「屋敷向きではないのか」
「屋敷へ見せるなら、黒砂糖版の方が分かりやすいと思います」
エレナは満足そうにうなずいた。
オスカーがその顔を見て、嫌な予感を覚えたように眉を寄せる。
「エレナ様、黒砂糖版を御自分用に確保する話ではありません」
「まだ何も言っていないぞ」
「お顔が少し」
「顔で決めつけるな」
トトが壺を見ながら小さく言った。
「姫様、甘い方好きなんだ」
「品質の違いが分かるだけだ」
澪は笑いそうになるのをこらえながら、黒砂糖は香りを見せる時、水飴は毎日飲む分と帳面へ書き、焦げ臭い物は避けると付け足した。
◇ ◇ ◇
リュシアは、試すならまず小さな小樽一つで十分だと決めた。
店主が蓋を締め、樽の口へ布を巻く。
大きさだけなら子供でも抱えられそうだが、中身が水飴なので、持ち上げた店主の腕にはしっかり力が入っていた。
「横にしたら駄目だよ、漏れたら面倒だからね」
「俺、運べる」
トトがすぐ手を上げた。
「途中で舐める」
「舐めないよ」
「今、樽を見て唇を舐めた」
「乾いてたんだよ」
「じゃあ水を飲みな」
トトが口を尖らせた横から、今度はエレナが手を出した。
「私なら落とさぬ」
「エレナ様」
オスカーの反応は、トトの時より速かった。
「まだ持ってもいないぞ」
「落とすことだけを心配しているのではありません」
澪は思わずオスカーを見た。
「舐める心配ですね」
「はい」
オスカーが深くうなずく。
「私までトトと一緒にするな」
「俺、まだ何もしてないよ」
「私もだ」
「姫様は指出したじゃん」
「確認だと言っている」
店主が笑いながら小樽を澪の前へ置いた。
これ以上運搬係を決めると別の話になりそうなので、澪は小樽の縁へ手を置く。
「収納で運びます」
収納へ入れる前に、澪は小樽を補水飲料用の水飴として意識した。
飴屋で買った封のある小樽で、飲料用に使い、洗浄用の物とは混ぜず、誰かが指を入れた物にも混ぜないよう頭の中で分ける。
小樽の重みが手から消えた。
「あ」
トトとエレナの声が重なる。
店主は目を丸くしたが、リュシアは小樽が消えたことより澪の顔を見た。
「飲料用って分けたね」
「はい」
「指を入れない、も?」
「入れました」
「そこは大事だね」
トトとエレナが同時に不満そうな顔をした。
オスカーは二人を見比べて、今日何度目か分からないため息をついた。
◇ ◇ ◇
屋台裏へ戻ると、澪は大鍋の前で足を止めた。
小樽を出して木べらですくうのが普通なのだろうが、さっき見た水飴の粘りを思い出すと、小樽の縁も木べらも手元も全部べたつく未来しか浮かばない。
澪は洗ってある大鍋の内側を見る。
飲料用で、火にはかけず、洗浄剤も入れないよう分けてある鍋だ。
「これ、中身だけ大鍋へ出せたりしますかね」
リュシアが眉を上げた。
「やるなら鍋の中だけにしなよ」
「はい」
澪は収納の中にある小樽を思い浮かべた。
樽そのものではなく、水飴の中身だけを大鍋へ移す。
全部はいらないし、12gだけと細かく指定できる自信もないので、まずは使える程度の塊を出すつもりで意識を絞る。
次の瞬間、大鍋の底へ琥珀色の塊がどろりと落ちた。
水では出ない鈍い音に、屋台裏の空気が一瞬だけ止まる。
「出た!」
トトが声を上げた。
「今、樽はどこへ行った」
エレナが鍋へ身を乗り出す。
「エレナ様、近づかないでください」
オスカーが肩を押さえて引き戻した。
「見るだけだ」
「先ほども同じことをおっしゃいました」
「先ほどは品質確認だ」
「今回は何の確認ですか」
エレナが少し考えた。
「収納確認だ」
オスカーが目を閉じた。
澪は笑う余裕もなく鍋の中を確認する。
小樽は収納の中に残っており、水飴の一部だけが外へ出た感覚もある。
ただし、大鍋に落ちた量はどう見ても12~15gではない。
「……出せましたけど、細かくは無理ですね」
「便利だけど、まだ雑だね」
リュシアはそう言いながら、もう小鍋へ湯を用意し始めていた。
◇ ◇ ◇
便利に出せても、必要な量へ勝手に揃ってくれるわけではない。
澪は器を秤へ載せ、木べらで水飴を少しずつ移した。
水飴は木べらへ絡みつき、切れたと思えば細い糸を引いて戻る。
数字はなかなか増えないのに、木べらだけは着実にべたついていった。
トトがその糸を目で追う。
エレナも同じように目で追う。
オスカーだけは、水飴ではなくエレナの右手を見ていた。
「トト」
「まだ舐めてない」
「今は何も言ってないよ」
「先に言った」
「言わなくても分かるからね」
トトが少し悔しそうな顔をした。
澪が量った水飴をそのまま大鍋へ落とそうとすると、リュシアが手を伸ばして止める。
「そのまま入れたら底で粘るよ、先に湯で伸ばしな」
「はい」
小鍋の湯へ水飴を入れ、木べらでゆっくり混ぜる。
最初は重たい塊のまま湯の中を逃げていた水飴も、温まるにつれて少しずつほどけていった。
澪がゲンダイで見慣れたシロップとは、扱い方からして違う。
水飴が湯になじんだところで塩を少量入れ、クエン酸もほんの少しだけ加える。
ゆるめた水飴液を大鍋へ移しながら、澪は帳面に書いた12~15gの数字を見直した。
数字どおりに入れることより、実際に飲める味へ合わせる方が大事だ。
澪はリュシアを見る。
次にトトを見る。
「少し、味見しましょう」
トトの顔が一気に明るくなった。
「味見は舐めるのと違う?」
「違います、器で飲みます」
「木べらは?」
「木べらはだめです」
明るくなった顔が、少しだけ戻った。
◇ ◇ ◇
水飴版の補水飲料は、黒砂糖版より色も香りもずっと控えめだった。
澪も一口飲んでみたが、最初に口へ入った時の分かりやすい甘さは弱い。
トトは器を両手で持ち、少し考えてから正直に言った。
「黒い甘いやつの方がうまい」
澪の肩がわずかに落ちた。
やはり子供には、黒砂糖の方が受けるのかもしれない。
ところがトトは残った飲み物をもう一口飲み、空になった器をそのまま澪へ差し出した。
「でも、こっちはもう一杯飲める」
澪は顔を上げた。
リュシアが満足そうにうなずく。
「それでいいんだよ、これは菓子じゃなくて、荷を運ぶ前に飲んで倒れないための物だからね」
トトは自分の舌を確かめるように口を動かした。
「甘いけど、あとで喉が変にならない」
「そこ、大事です」
澪は帳面の数字へ小さく丸をつけた。
今度はエレナが器を受け取り、背筋まで伸ばして慎重に口をつける。
さっきまで指を伸ばしていた人と同じとは思えないほど、飲み方だけは妙に上品だった。
「黒砂糖の方が姫様向きだな」
エレナが目を細めて言う。
オスカーがすぐ横から入った。
「エレナ様、それは御自分用という意味でしょうか」
「品質の違いを述べただけだ」
「では、持ち帰るとはおっしゃっていませんね」
「まだ言っていない」
オスカーの眉が動いた。
「その『まだ』は必要ですか」
「先の可能性まで否定する必要はなかろう」
「必要があります」
トトが器を抱えたままエレナを見た。
「姫様、やっぱり甘い方ほしいんじゃん」
「品質の高い方を正しく評価しているだけだ」
「俺はこっちもう一杯」
「聞いていない」
リュシアが肩を揺らして笑った。
澪は二人のやり取りを聞きながら、黒砂糖版は香りを見せたい時に使い、水飴版は市場で毎日飲む方へ回すと帳面へ書いた。
◇ ◇ ◇
味見が終わると、今度は水飴そのものの面倒さが残った。
木べらには薄く飴が絡み、小鍋の底にも甘い膜が残っている。
澪が布で拭こうとすると、水飴は布へ移るだけで、今度は布の方がべたつきそうだった。
トトは木べらを見ている。
エレナも木べらを見ている。
オスカーは二人と木べらの間へ半歩だけ位置を変えた。
「水飴の方が面白いな」
エレナが言う。
「面白いと危険は近いです」
オスカーが即答した。
「水飴が危険なのではない」
「姫様が近づくと危険が増えます」
「私のせいにするな」
トトが木べらを見たまま口を挟む。
「姫様、さっき指出したし」
「品質確認だ」
「またそれ言ってる」
リュシアは水飴のついた木べらを別の器へ置いた。
「これは飲み物用だから、舐める用じゃないよ」
「まだ舐めてない」
「また『まだ』って言ったね」
トトは口を閉じた。
リュシアは湯をくぐらせた木べらを澪へ見せる。
「甘い匂いが残るから、水飴を触った道具は飲み口の近くへ持っていかない方がいいね」
澪はペットボトルのフタを思い出した。
あの細い溝へ水飴が入り込んだら、洗うだけでもかなり面倒だ。
「水飴はペットボトルへ直接入れないようにします」
「先に湯で伸ばして、余ったのは長く置かない方がいいね」
「子供たちに任せる時は?」
「澪か私がいる時だね」
トトが少しだけ不満そうな顔をする。
「姫様は?」
エレナがすぐこちらを見た。
澪より先に、リュシアがオスカーを指した。
「オスカーがいる時だけ」
「承知しました」
本人より先にオスカーが答えた。
「私はまだ何もしていないぞ」
「何もしていない今のうちに決めておきます」
オスカーが言うと、エレナはむっとした。
その視線だけは、まだ木べらへ向いていた。
◇ ◇ ◇
片付けが進むころ、澪は洗った木べらを布で拭きながら、屋台のまわりを見渡した。
水飴はこの市場で買える。
湯はリュシアの屋台で用意でき、大鍋もここにある。
子供たちに手伝ってもらうなら、その分の駄賃も最初から小皿へ分ければいい。
市場の札を持つ人へ渡す分や場所を使う分も、昨日と同じように先に取り分けておけば迷わずに済む。
ゲンダイ側から持ってくる物は、出所の分かる水やお茶の空き容器と、少量で済むクエン酸や塩、それから数が必要になるタオルや扇子くらいになりそうだった。
タオルと扇子は、まとめて通販で揃えることになるだろう。
リュシアが澪の手元を見ながら言う。
「澪の向こうでしか手に入らない物は澪が持ってくる、こっちで買える物はこっちで買う」
「その方が続きますよね」
「その方が、あんたも全部抱えなくて済むよ」
澪は木べらを拭く手を止めた。
「持ってくるだけなら、考える場所が一つで済んだんですけどね」
「簡単だった?」
「簡単ではないですけど」
リュシアが笑う。
「じゃあ今の方が、商売らしくなってきたってことだね」
「嬉しいような、怖いような」
「商売なんて、だいたいそんなもんだよ」
澪は返事の代わりに布を絞った。
水飴の甘い匂いが、まだ少しだけ手元へ残る。
帳面へ水飴と書きかけたところで、澪はまたペンを止めた。
木べらをどこへ置くか、壺を誰が触るか、湯でどうゆるめるかまで決めないと、次に同じ物を作る時に迷いそうだった。
「帳面、また増えてるね」
トトが横からのぞく。
「増やしているのは、だいたい皆さんです」
「俺?」
「今日は姫様もかなり」
「なぜ私まで入る」
エレナがすぐ反応した。
オスカーだけは何も言わず、当然だという顔でうなずいていた。
◇ ◇ ◇
「私も量る」
エレナが言った。
澪は反射的にリュシアを見る。
リュシアは水飴の壺を見て、エレナを見て、最後にオスカーを見た。
「舐めない」
「舐めぬ」
「勝手に増やさない」
「増やさぬ」
「木べらを壺へ戻さない」
「戻さぬ」
「指で触らない」
「触らぬ」
「オスカーが横に立つ」
エレナが眉を寄せた。
「……それは必要か」
「必要です」
オスカーが一切迷わず答えた。
「それから澪が見ている時だけ」
リュシアが条件を足すと、エレナは少し不満そうにしながらもうなずいた。
「私は学ぶ女だ」
「なら、舐めないことも覚えてください」
「まだ舐めていないぞ」
「その『まだ』をやめていただけると助かります」
トトが横で笑った。
エレナは木べらを持ち、水飴を慎重にすくい上げる。
琥珀色の飴が重たく伸び、糸がなかなか切れない。
エレナは真剣な顔で待った。
「姫様、飴に負けてる」
トトが言う。
エレナの眉がぴくりと動いた。
「負けていない」
「ずっと待ってるじゃん」
「待つのも技術だ」
「姫様、飴に勝つ必要はありません」
オスカーが静かに言った。
「お前はどちらの味方なのだ」
「エレナ様をお守りするのが私の役目です」
「なら私を応援しろ」
「適量を量ってください」
澪は笑いそうになるのをこらえながら秤の数字を見た。
エレナは少し多く入れかけたが、澪の視線に気づくと木べらを戻し、きちんと数字を合わせる。
意外なほど真面目だった。
エレナは澪の顔を見ると、得意げに胸を張った。
「見たか」
「見ました、ちゃんと量れてました」
「そうだろう」
オスカーが小さく息を吐く。
「舐めませんでした」
「それも見ました」
「そこまで報告しなくてよい」
「本日の重要事項です」
トトが腹を抱えて笑い、リュシアまで肩を揺らした。
◇ ◇ ◇
リュシアが水飴の壺へ布をかけた。
「じゃあ、今日はここまで」
その声で、トトの目が木べらへ動いた。
先にはまだ、水飴が少し残っている。
「トト」
「見てるだけ」
今度は「まだ舐めてない」とは言わなかった。
リュシアが一歩近づくと、トトは木べらを見たまま自分から一歩下がった。
なぜかエレナまでつられて一歩下がる。
オスカーの顔から、ほんの少しだけ力が抜けた。
エレナがトトを見る。
「そこまで食べたいなら、舐めればよいではないか」
トトは木べらを見て、それからエレナを見た。
「だめだよ、売るやつだろ」
リュシアの口元がふっとゆるんだ。
澪も帳面へ向けていた目を上げる。
「なに?」
トトが不思議そうに聞く。
「いや、何でもないよ」
リュシアは笑ったまま木べらを持ち上げた。
オスカーがゆっくりエレナへ顔を向ける。
「姫様」
「なんだ」
「トトを見習ってください」
「なぜ私がトトを見習わねばならぬのだ」
「売り物へ勝手に手を出さないところです」
「私も出していない」
「指を出したじゃん」
「品質確認だ」
「またそれだ」
「トト、お前はどちらの味方なのだ」
「売り物の味方」
リュシアがとうとう声を上げて笑った。
澪もこらえきれずに笑いながら、開いた帳面へ木べらは使用後すぐ別にして洗うと書き足した。
その下へ「舐めないこと」と書くか少し迷ったが、さすがにやめておく。
リュシアが木べらを湯の入った洗い桶へ放り込んだ。
「あっ」
トトとエレナの声がぴったり重なった。
オスカーは目を閉じ、澪はまた笑ってしまった。