押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第17話 姫様、舐めてはいけません

 

 六畳間の机の上には、小金貨の入った布袋と、開いたままの帳面、それに飲み終えたペットボトルが並んでいた。

 

 澪はスマホの税金検索を閉じたが、机の端に置いた布袋を見ると、閉じたはずの画面が頭の中だけで勝手に開き直す。

 

「……ゲンダイ側にも小皿が要りますね」

 

 昨日リュシアが並べた小皿を思い出して、澪は布袋を少し遠ざけた。

 

 今そちらへ考え始めると、たぶん水飴までたどり着けない。

 

 澪は相談画面を開き直し、黒砂糖10gと水飴の糖分、それから補水飲料に使う量を入力した。

 

 返ってきた説明を読みながら、帳面へ数字を書き移していく。

 

 黒砂糖10gなら糖分は9g弱で、水飴にも糖分はあるものの、同じ量では甘さを弱く感じやすいらしい。

 

「同じ甘さにするなら、水飴を増やす……」

 

 そこで澪のペンが止まった。

 

 甘さだけを追えば量は増やせるが、水飴が多くなれば粘りも残り、洗いにくくなって甘い匂いも強くなる。

 

 木べらから糸を引く水飴の向こうにトトの顔が浮かび、その隣から「品質確認だ」と指を伸ばすエレナまで、まだ見てもいないのに妙にはっきり想像できた。

 

「水飴を増やしたら、別の意味で危ないですね」

 

 飲むのは菓子を食べる子供ではなく、暑い市場で荷を運ぶ子供たちだ。

 

 喉に甘さが残るより、もう一口飲みたくなるくらいの方がいい。

 

 澪は帳面へ、黒砂糖版は500mlに8~10g、水飴版は12~15gと書き、塩とクエン酸には入れすぎないよう印をつけた。

 

 最後に少し考えて、その下へもう1行だけ書き足す。

 

『最後はリュシアとトトの舌で決める』

 

 相談画面なら糖分は計算できる。

 

 けれど、トトが器を差し出して「もう一杯」と言うかどうかまでは、たぶん計算してくれない。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 市場の通りは昼前から人で埋まり、焼き物と干し魚と温めた油、それに刻んだ香草の匂いが狭い道へ重なっていた。

 

 澪は帳面を胸に抱え、リュシアの半歩後ろを歩く。

 

 昨日、小金貨を小皿へ分けたせいで、何かを見るたびに「これはどの皿から出すお金だろう」と考える癖がついていた。

 

「顔が固いね」

 

 リュシアが横目で笑った。

 

「買い物って、こんなに緊張するものでしたっけ」

 

「緊張してるうちは、無駄遣いしにくいよ」

 

「それは良いことなんでしょうか」

 

「悪くはないね、面白くもないけど」

 

 甘い匂いが強くなったところで、リュシアが通りの端へ曲がった。

 

 干した果物を固めた菓子や麦芽の飴が並ぶ店先には、布をかけた壺がいくつも置かれている。

 

 澪が足を止めると、背後でも小さな足音がぴたりと止まった。

 

 振り返ると、トトがいた。

 

「トト、いつからいました?」

 

「甘い匂いがしたところから」

 

 リュシアが腕を組んだ。

 

「それ、ほとんど最初からだよ」

 

「違うよ、甘い匂いがしたところから」

 

「同じようなもんだね」

 

 トトは不満そうに眉を寄せたが、目だけはもう壺へ向いている。

 

 店主はリュシアを見ると片手を上げ、菓子でも出すのかと気軽に声をかけてきた。

 

「飲み物に使う甘味を見たいんだよ、黒砂糖ばかりじゃ続かないからね」

 

「なら、こっちだ」

 

 年配の店主が布を外すと、壺の中で琥珀色の水飴が重たそうな艶を返した。

 

 木べらですくい上げると、飴はすぐには落ちず、細い糸を引きながらゆっくり伸びていく。

 

 澪は自分が想像していた、さらりとしたシロップとはまるで違う物を見て黙った。

 

「これ、どうやって量るんですか」

 

 リュシアが少し笑った。

 

「だから見に来たんだよ」

 

 店主まで声を立てて笑う。

 

「菓子なら目で見るよ、そんなに怖い顔をするもんじゃない」

 

 澪には、その「目で見る」がいちばん怖かった。

 

 秤はあるし器もあるが、木べらに絡んで壺へ戻っていかない物を12~15gだけ取れと言われても、帳面の数字ほど素直にはいきそうにない。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「何をしている」

 

 聞き覚えのある声に、澪は水飴の糸から顔を上げた。

 

 少年服姿のエレナがオスカーを連れて立っており、帽子の下から赤い髪をのぞかせながら、まっすぐ壺を見ている。

 

 オスカーはその視線の先を確認しただけで、すでに少し疲れた顔になった。

 

「今日は買い物です、遊びではありません」

 

 澪が先に言うと、エレナは当然のように胸を張った。

 

「買い物なら品を見る必要がある」

 

「見るだけなら、どうぞ」

 

「品質確認も必要だ」

 

 エレナが壺へ一歩寄った。

 

 指先が水飴へ伸びた瞬間、澪は木べらを持ち上げ、リュシアは壺の前へ入り、オスカーはエレナの手首をつかんだ。

 

「まだ触っていないぞ」

 

「触る前に止めました」

 

 オスカーは真顔だった。

 

「姫様の品質確認は、だいたいつまみ食いだからね」

 

 リュシアも真顔だった。

 

「飲み物に使う物なので、指はだめです」

 

 澪も真顔で続いた。

 

 エレナは三人を順に見てから、木べらへ視線を移した。

 

「なら、木べらならよいのか」

 

「そういう意味ではありません」

 

 澪が即答すると、横でトトが木べらをじっと見た。

 

「トト」

 

 リュシアが呼ぶより早く、トトは両手を背中へ回した。

 

「まだ舐めてない」

 

「まだ、って言ったね」

 

「見てるだけ」

 

 エレナがトトを見た。

 

「お前も舐めたいのだろう」

 

「舐めたいよ」

 

 あまりに迷いのない返事で、店主が吹き出した。

 

「なら同じではないか」

 

「でも、まだ触ってない」

 

「私も触っていない」

 

「姫様は指出したじゃん」

 

「品質確認だ」

 

「舐める気だった」

 

「確認だ」

 

 オスカーが口を開きかけて、そっと閉じた。

 

 どちらを止めればいいのか迷ったらしい。

 

 リュシアは笑いを噛み殺しながら壺の前を動かず、澪も木べらをエレナとトトの両方から少し遠ざけた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 リュシアは二人の視線を壺から外させるように、店主へ別の水飴も見せてくれと頼んだ。

 

 上等な物は色が澄んで香りも良いが、そのぶん値が張るらしい。

 

 安い物は量を取れる代わりに、焦げた匂いや雑味が混じることがあるという。

 

「菓子なら少しくらい癖があっても味になるけど、薄い飲み物だと変な匂いだけ残るんだよ」

 

 店主が別の壺を出すと、さっきより色は濃いものの、鼻につく匂いはなかった。

 

 木べらから落ちる水飴は重く、糸を引きながらゆっくり壺へ戻っていく。

 

「黒砂糖は香りを見せるには強いけど、毎日使うには高いからね」

 

 リュシアが澪へ言った。

 

「こっちは地味だけど、続けるならこっちだよ」

 

 店主もうなずいた。

 

「冷たい水へそのまま落とすんじゃなくて、先に湯でゆるめな」

 

 澪は帳面を開きながら、トトへ目を向けた。

 

「安い水飴だと、子供は飲まないこともあるんですか」

 

「甘けりゃ何でも喜ぶと思ったら大間違いさ」

 

 店主が笑った。

 

「変な匂いは、子供の方がよく気づくよ」

 

 トトは壺を見たまま鼻を少し動かした。

 

「これは変じゃない」

 

「もう判定してるんですか」

 

「匂いは分かるよ」

 

 エレナが別の壺へ目をやった。

 

「高い方が良い物なのだろう」

 

「良い物ではあるけど、毎日使えるかは別だね」

 

 リュシアに返され、エレナは少し考えた。

 

「では、こちらは市場向きか」

 

「たぶん、そうなります」

 

「屋敷向きではないのか」

 

「屋敷へ見せるなら、黒砂糖版の方が分かりやすいと思います」

 

 エレナは満足そうにうなずいた。

 

 オスカーがその顔を見て、嫌な予感を覚えたように眉を寄せる。

 

「エレナ様、黒砂糖版を御自分用に確保する話ではありません」

 

「まだ何も言っていないぞ」

 

「お顔が少し」

 

「顔で決めつけるな」

 

 トトが壺を見ながら小さく言った。

 

「姫様、甘い方好きなんだ」

 

「品質の違いが分かるだけだ」

 

 澪は笑いそうになるのをこらえながら、黒砂糖は香りを見せる時、水飴は毎日飲む分と帳面へ書き、焦げ臭い物は避けると付け足した。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 リュシアは、試すならまず小さな小樽一つで十分だと決めた。

 

 店主が蓋を締め、樽の口へ布を巻く。

 

 大きさだけなら子供でも抱えられそうだが、中身が水飴なので、持ち上げた店主の腕にはしっかり力が入っていた。

 

「横にしたら駄目だよ、漏れたら面倒だからね」

 

「俺、運べる」

 

 トトがすぐ手を上げた。

 

「途中で舐める」

 

「舐めないよ」

 

「今、樽を見て唇を舐めた」

 

「乾いてたんだよ」

 

「じゃあ水を飲みな」

 

 トトが口を尖らせた横から、今度はエレナが手を出した。

 

「私なら落とさぬ」

 

「エレナ様」

 

 オスカーの反応は、トトの時より速かった。

 

「まだ持ってもいないぞ」

 

「落とすことだけを心配しているのではありません」

 

 澪は思わずオスカーを見た。

 

「舐める心配ですね」

 

「はい」

 

 オスカーが深くうなずく。

 

「私までトトと一緒にするな」

 

「俺、まだ何もしてないよ」

 

「私もだ」

 

「姫様は指出したじゃん」

 

「確認だと言っている」

 

 店主が笑いながら小樽を澪の前へ置いた。

 

 これ以上運搬係を決めると別の話になりそうなので、澪は小樽の縁へ手を置く。

 

「収納で運びます」

 

 収納へ入れる前に、澪は小樽を補水飲料用の水飴として意識した。

 

 飴屋で買った封のある小樽で、飲料用に使い、洗浄用の物とは混ぜず、誰かが指を入れた物にも混ぜないよう頭の中で分ける。

 

 小樽の重みが手から消えた。

 

「あ」

 

 トトとエレナの声が重なる。

 

 店主は目を丸くしたが、リュシアは小樽が消えたことより澪の顔を見た。

 

「飲料用って分けたね」

 

「はい」

 

「指を入れない、も?」

 

「入れました」

 

「そこは大事だね」

 

 トトとエレナが同時に不満そうな顔をした。

 

 オスカーは二人を見比べて、今日何度目か分からないため息をついた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 屋台裏へ戻ると、澪は大鍋の前で足を止めた。

 

 小樽を出して木べらですくうのが普通なのだろうが、さっき見た水飴の粘りを思い出すと、小樽の縁も木べらも手元も全部べたつく未来しか浮かばない。

 

 澪は洗ってある大鍋の内側を見る。

 

 飲料用で、火にはかけず、洗浄剤も入れないよう分けてある鍋だ。

 

「これ、中身だけ大鍋へ出せたりしますかね」

 

 リュシアが眉を上げた。

 

「やるなら鍋の中だけにしなよ」

 

「はい」

 

 澪は収納の中にある小樽を思い浮かべた。

 

 樽そのものではなく、水飴の中身だけを大鍋へ移す。

 

 全部はいらないし、12gだけと細かく指定できる自信もないので、まずは使える程度の塊を出すつもりで意識を絞る。

 

 次の瞬間、大鍋の底へ琥珀色の塊がどろりと落ちた。

 

 水では出ない鈍い音に、屋台裏の空気が一瞬だけ止まる。

 

「出た!」

 

 トトが声を上げた。

 

「今、樽はどこへ行った」

 

 エレナが鍋へ身を乗り出す。

 

「エレナ様、近づかないでください」

 

 オスカーが肩を押さえて引き戻した。

 

「見るだけだ」

 

「先ほども同じことをおっしゃいました」

 

「先ほどは品質確認だ」

 

「今回は何の確認ですか」

 

 エレナが少し考えた。

 

「収納確認だ」

 

 オスカーが目を閉じた。

 

 澪は笑う余裕もなく鍋の中を確認する。

 

 小樽は収納の中に残っており、水飴の一部だけが外へ出た感覚もある。

 

 ただし、大鍋に落ちた量はどう見ても12~15gではない。

 

「……出せましたけど、細かくは無理ですね」

 

「便利だけど、まだ雑だね」

 

 リュシアはそう言いながら、もう小鍋へ湯を用意し始めていた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 便利に出せても、必要な量へ勝手に揃ってくれるわけではない。

 

 澪は器を秤へ載せ、木べらで水飴を少しずつ移した。

 

 水飴は木べらへ絡みつき、切れたと思えば細い糸を引いて戻る。

 

 数字はなかなか増えないのに、木べらだけは着実にべたついていった。

 

 トトがその糸を目で追う。

 

 エレナも同じように目で追う。

 

 オスカーだけは、水飴ではなくエレナの右手を見ていた。

 

「トト」

 

「まだ舐めてない」

 

「今は何も言ってないよ」

 

「先に言った」

 

「言わなくても分かるからね」

 

 トトが少し悔しそうな顔をした。

 

 澪が量った水飴をそのまま大鍋へ落とそうとすると、リュシアが手を伸ばして止める。

 

「そのまま入れたら底で粘るよ、先に湯で伸ばしな」

 

「はい」

 

 小鍋の湯へ水飴を入れ、木べらでゆっくり混ぜる。

 

 最初は重たい塊のまま湯の中を逃げていた水飴も、温まるにつれて少しずつほどけていった。

 

 澪がゲンダイで見慣れたシロップとは、扱い方からして違う。

 

 水飴が湯になじんだところで塩を少量入れ、クエン酸もほんの少しだけ加える。

 

 ゆるめた水飴液を大鍋へ移しながら、澪は帳面に書いた12~15gの数字を見直した。

 

 数字どおりに入れることより、実際に飲める味へ合わせる方が大事だ。

 

 澪はリュシアを見る。

 

 次にトトを見る。

 

「少し、味見しましょう」

 

 トトの顔が一気に明るくなった。

 

「味見は舐めるのと違う?」

 

「違います、器で飲みます」

 

「木べらは?」

 

「木べらはだめです」

 

 明るくなった顔が、少しだけ戻った。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 水飴版の補水飲料は、黒砂糖版より色も香りもずっと控えめだった。

 

 澪も一口飲んでみたが、最初に口へ入った時の分かりやすい甘さは弱い。

 

 トトは器を両手で持ち、少し考えてから正直に言った。

 

「黒い甘いやつの方がうまい」

 

 澪の肩がわずかに落ちた。

 

 やはり子供には、黒砂糖の方が受けるのかもしれない。

 

 ところがトトは残った飲み物をもう一口飲み、空になった器をそのまま澪へ差し出した。

 

「でも、こっちはもう一杯飲める」

 

 澪は顔を上げた。

 

 リュシアが満足そうにうなずく。

 

「それでいいんだよ、これは菓子じゃなくて、荷を運ぶ前に飲んで倒れないための物だからね」

 

 トトは自分の舌を確かめるように口を動かした。

 

「甘いけど、あとで喉が変にならない」

 

「そこ、大事です」

 

 澪は帳面の数字へ小さく丸をつけた。

 

 今度はエレナが器を受け取り、背筋まで伸ばして慎重に口をつける。

 

 さっきまで指を伸ばしていた人と同じとは思えないほど、飲み方だけは妙に上品だった。

 

「黒砂糖の方が姫様向きだな」

 

 エレナが目を細めて言う。

 

 オスカーがすぐ横から入った。

 

「エレナ様、それは御自分用という意味でしょうか」

 

「品質の違いを述べただけだ」

 

「では、持ち帰るとはおっしゃっていませんね」

 

「まだ言っていない」

 

 オスカーの眉が動いた。

 

「その『まだ』は必要ですか」

 

「先の可能性まで否定する必要はなかろう」

 

「必要があります」

 

 トトが器を抱えたままエレナを見た。

 

「姫様、やっぱり甘い方ほしいんじゃん」

 

「品質の高い方を正しく評価しているだけだ」

 

「俺はこっちもう一杯」

 

「聞いていない」

 

 リュシアが肩を揺らして笑った。

 

 澪は二人のやり取りを聞きながら、黒砂糖版は香りを見せたい時に使い、水飴版は市場で毎日飲む方へ回すと帳面へ書いた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 味見が終わると、今度は水飴そのものの面倒さが残った。

 

 木べらには薄く飴が絡み、小鍋の底にも甘い膜が残っている。

 

 澪が布で拭こうとすると、水飴は布へ移るだけで、今度は布の方がべたつきそうだった。

 

 トトは木べらを見ている。

 

 エレナも木べらを見ている。

 

 オスカーは二人と木べらの間へ半歩だけ位置を変えた。

 

「水飴の方が面白いな」

 

 エレナが言う。

 

「面白いと危険は近いです」

 

 オスカーが即答した。

 

「水飴が危険なのではない」

 

「姫様が近づくと危険が増えます」

 

「私のせいにするな」

 

 トトが木べらを見たまま口を挟む。

 

「姫様、さっき指出したし」

 

「品質確認だ」

 

「またそれ言ってる」

 

 リュシアは水飴のついた木べらを別の器へ置いた。

 

「これは飲み物用だから、舐める用じゃないよ」

 

「まだ舐めてない」

 

「また『まだ』って言ったね」

 

 トトは口を閉じた。

 

 リュシアは湯をくぐらせた木べらを澪へ見せる。

 

「甘い匂いが残るから、水飴を触った道具は飲み口の近くへ持っていかない方がいいね」

 

 澪はペットボトルのフタを思い出した。

 

 あの細い溝へ水飴が入り込んだら、洗うだけでもかなり面倒だ。

 

「水飴はペットボトルへ直接入れないようにします」

 

「先に湯で伸ばして、余ったのは長く置かない方がいいね」

 

「子供たちに任せる時は?」

 

「澪か私がいる時だね」

 

 トトが少しだけ不満そうな顔をする。

 

「姫様は?」

 

 エレナがすぐこちらを見た。

 

 澪より先に、リュシアがオスカーを指した。

 

「オスカーがいる時だけ」

 

「承知しました」

 

 本人より先にオスカーが答えた。

 

「私はまだ何もしていないぞ」

 

「何もしていない今のうちに決めておきます」

 

 オスカーが言うと、エレナはむっとした。

 

 その視線だけは、まだ木べらへ向いていた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 片付けが進むころ、澪は洗った木べらを布で拭きながら、屋台のまわりを見渡した。

 

 水飴はこの市場で買える。

 

 湯はリュシアの屋台で用意でき、大鍋もここにある。

 

 子供たちに手伝ってもらうなら、その分の駄賃も最初から小皿へ分ければいい。

 

 市場の札を持つ人へ渡す分や場所を使う分も、昨日と同じように先に取り分けておけば迷わずに済む。

 

 ゲンダイ側から持ってくる物は、出所の分かる水やお茶の空き容器と、少量で済むクエン酸や塩、それから数が必要になるタオルや扇子くらいになりそうだった。

 

 タオルと扇子は、まとめて通販で揃えることになるだろう。

 

 リュシアが澪の手元を見ながら言う。

 

「澪の向こうでしか手に入らない物は澪が持ってくる、こっちで買える物はこっちで買う」

 

「その方が続きますよね」

 

「その方が、あんたも全部抱えなくて済むよ」

 

 澪は木べらを拭く手を止めた。

 

「持ってくるだけなら、考える場所が一つで済んだんですけどね」

 

「簡単だった?」

 

「簡単ではないですけど」

 

 リュシアが笑う。

 

「じゃあ今の方が、商売らしくなってきたってことだね」

 

「嬉しいような、怖いような」

 

「商売なんて、だいたいそんなもんだよ」

 

 澪は返事の代わりに布を絞った。

 

 水飴の甘い匂いが、まだ少しだけ手元へ残る。

 

 帳面へ水飴と書きかけたところで、澪はまたペンを止めた。

 

 木べらをどこへ置くか、壺を誰が触るか、湯でどうゆるめるかまで決めないと、次に同じ物を作る時に迷いそうだった。

 

「帳面、また増えてるね」

 

 トトが横からのぞく。

 

「増やしているのは、だいたい皆さんです」

 

「俺?」

 

「今日は姫様もかなり」

 

「なぜ私まで入る」

 

 エレナがすぐ反応した。

 

 オスカーだけは何も言わず、当然だという顔でうなずいていた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「私も量る」

 

 エレナが言った。

 

 澪は反射的にリュシアを見る。

 

 リュシアは水飴の壺を見て、エレナを見て、最後にオスカーを見た。

 

「舐めない」

 

「舐めぬ」

 

「勝手に増やさない」

 

「増やさぬ」

 

「木べらを壺へ戻さない」

 

「戻さぬ」

 

「指で触らない」

 

「触らぬ」

 

「オスカーが横に立つ」

 

 エレナが眉を寄せた。

 

「……それは必要か」

 

「必要です」

 

 オスカーが一切迷わず答えた。

 

「それから澪が見ている時だけ」

 

 リュシアが条件を足すと、エレナは少し不満そうにしながらもうなずいた。

 

「私は学ぶ女だ」

 

「なら、舐めないことも覚えてください」

 

「まだ舐めていないぞ」

 

「その『まだ』をやめていただけると助かります」

 

 トトが横で笑った。

 

 エレナは木べらを持ち、水飴を慎重にすくい上げる。

 

 琥珀色の飴が重たく伸び、糸がなかなか切れない。

 

 エレナは真剣な顔で待った。

 

「姫様、飴に負けてる」

 

 トトが言う。

 

 エレナの眉がぴくりと動いた。

 

「負けていない」

 

「ずっと待ってるじゃん」

 

「待つのも技術だ」

 

「姫様、飴に勝つ必要はありません」

 

 オスカーが静かに言った。

 

「お前はどちらの味方なのだ」

 

「エレナ様をお守りするのが私の役目です」

 

「なら私を応援しろ」

 

「適量を量ってください」

 

 澪は笑いそうになるのをこらえながら秤の数字を見た。

 

 エレナは少し多く入れかけたが、澪の視線に気づくと木べらを戻し、きちんと数字を合わせる。

 

 意外なほど真面目だった。

 

 エレナは澪の顔を見ると、得意げに胸を張った。

 

「見たか」

 

「見ました、ちゃんと量れてました」

 

「そうだろう」

 

 オスカーが小さく息を吐く。

 

「舐めませんでした」

 

「それも見ました」

 

「そこまで報告しなくてよい」

 

「本日の重要事項です」

 

 トトが腹を抱えて笑い、リュシアまで肩を揺らした。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 リュシアが水飴の壺へ布をかけた。

 

「じゃあ、今日はここまで」

 

 その声で、トトの目が木べらへ動いた。

 

 先にはまだ、水飴が少し残っている。

 

「トト」

 

「見てるだけ」

 

 今度は「まだ舐めてない」とは言わなかった。

 

 リュシアが一歩近づくと、トトは木べらを見たまま自分から一歩下がった。

 

 なぜかエレナまでつられて一歩下がる。

 

 オスカーの顔から、ほんの少しだけ力が抜けた。

 

 エレナがトトを見る。

 

「そこまで食べたいなら、舐めればよいではないか」

 

 トトは木べらを見て、それからエレナを見た。

 

「だめだよ、売るやつだろ」

 

 リュシアの口元がふっとゆるんだ。

 

 澪も帳面へ向けていた目を上げる。

 

「なに?」

 

 トトが不思議そうに聞く。

 

「いや、何でもないよ」

 

 リュシアは笑ったまま木べらを持ち上げた。

 

 オスカーがゆっくりエレナへ顔を向ける。

 

「姫様」

 

「なんだ」

 

「トトを見習ってください」

 

「なぜ私がトトを見習わねばならぬのだ」

 

「売り物へ勝手に手を出さないところです」

 

「私も出していない」

 

「指を出したじゃん」

 

「品質確認だ」

 

「またそれだ」

 

「トト、お前はどちらの味方なのだ」

 

「売り物の味方」

 

 リュシアがとうとう声を上げて笑った。

 

 澪もこらえきれずに笑いながら、開いた帳面へ木べらは使用後すぐ別にして洗うと書き足した。

 

 その下へ「舐めないこと」と書くか少し迷ったが、さすがにやめておく。

 

 リュシアが木べらを湯の入った洗い桶へ放り込んだ。

 

「あっ」

 

 トトとエレナの声がぴったり重なった。

 

 オスカーは目を閉じ、澪はまた笑ってしまった。

 

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