火竜の肉は、売られなかった。
売ろうという話すら出なかった。
それでも真壁の収納内には、食用として処理を終えた背肉や尾肉が、まだ十分すぎるほど残っていた。火竜一頭分なのだから当然だが、澪は保存区画に並ぶ肉を見ているうちに、自分たちだけで抱えているのが少し惜しくなった。
「リュシアさんとセルマさんにも、少し持っていきませんか」
澪が言うと、ヴァルトはすぐに頷いた。
「よいと思います。お二人には、何度も助けていただいています」
真壁は収納内の肉を見比べ、背肉と尾肉を別々に取り分けた。
「では、侯爵家にもお持ちしましょう」
「正式な献上にはしませんよね」
「記録へ残す性質の品ではありませんな」
真壁が肉の厚みをそろえ、筋と膜を取り除き、包みやすい形へ整えていく。
包装には、火竜とも押入商会とも書かれていない。
澪は無地の包みを見た。
「何も書かないんですか」
「名称を記せば、内緒になりません」
「あとで正体不明のお肉になりませんか」
「直接お渡しするのですから、問題ありません」
真壁は結び目の位置を変え、背肉と尾肉を見分けられるようにした。
見分けられるのは、今この場にいる3人だけである。
「むしろ、それを忘れた時が一番困りそうです」
「澪君なら鑑定すれば済むでしょう」
「一般家庭の冷蔵庫へ入った後の話です」
真壁は聞かなかったことにして、次に褐色の小瓶を取り出した。
竜血疲労耐久強化薬。
リュシアとセルマへは、それぞれ1本ずつ。
侯爵家へは6本入りの箱を1つ。
さらに、別の6本入りの箱も並べられた。
澪が箱を見た。
「竜命薬も持っていくんですか」
「ええ」
「そちらは、まだ私たちも飲んでいませんよね」
「長期効果を持つ薬です。すぐに服用するよう勧めるものではありません。鑑定結果を見た上で、侯爵家に判断していただきます」
ヴァルトが箱を見比べる。
「見た目だけでは、どちらか分かりません」
「箱の内側へ印を付けてあります」
「外側には」
「ありません」
澪は額へ手を当てた。
「内緒を優先しすぎて、飲み間違えないでくださいね」
「私が扱う限り、間違えませんな」
その返事は、自分以外が扱う場合について何も保証していなかった。
「侯爵家へは、真壁さんが行くんですよね」
「ええ」
「では、私とヴァルトさんで、リュシアさんとセルマさんへ持っていきます」
澪は肉の包みと小瓶を収納した。
真壁も侯爵家分を収める。
ただ食べ物を分けるだけのはずなのに、出発前の確認は密輸品でも扱うように慎重だった。
リュシア商会は、昼を過ぎると客足が少し落ち着いた。
澪とヴァルトが店へ入ると、帳場にいたリュシアがすぐに顔を上げた。
「今日は仕入れかい。それとも、また妙な相談かい」
「今日は、お裾分けです」
澪が答えると、リュシアの目がわずかに細くなった。
「お裾分けを持ってきた人間の顔じゃないね」
「食べ物ではあります」
「食べ物を渡す時に、そこから確認しなきゃならないのかい」
リュシアは店先の様子を見てから、2人を奥の部屋へ通した。
扉が閉まる。
澪が包みを卓上へ置く。
「まず、鑑定してください」
「ほら、やっぱり普通じゃない」
リュシアは嫌そうな顔をしながらも、包みへ鑑定を使った。
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火竜の背肉
状態:最良
品質:極上
特性:
高栄養
高い滋養
身体保温
希少高級食材
----------------------------------
表示を見たリュシアは、しばらく動かなかった。
包みを見る。
澪を見る。
ヴァルトを見る。
もう一度表示へ目を戻す。
「火竜」
「はい」
ヴァルトが答えた。
「火を吐く、あの竜かい」
「その火竜です」
リュシアは包みの上へ手を置いたまま、深く息を吸った。
「肉だけ、どこかから仕入れたわけじゃないんだろうね」
澪とヴァルトは黙った。
「その沈黙は、丸ごと持って帰った時の沈黙だよ」
「そこから先は、聞かないでください」
「もう聞かなくても分かったよ」
リュシアは椅子へ深く座り直した。
「売る気は」
「ありません」
澪とヴァルトの返事が重なった。
「商会を名乗っているくせに、そこだけ早いね」
「金に換えるより、素材として使った方がよかったので」
澪が答えると、リュシアは片眉を上げた。
「もう使った後なんだね」
今度は澪が黙った。
「分かった。これ以上は聞かないよ。聞くほど眠れなくなる気がする」
火竜肉の調理法を説明すると、リュシアはさらに嫌そうな顔をした。
「低い温度で中まで熱を入れて、最後に焼くのかい」
「はい。普通に焼くと、表面ばかり先に焦げます」
「肉まで火に強いんだね」
「生前の耐熱性が残っています」
ヴァルトが補足すると、リュシアは包みから手を離した。
「食べ物の説明に、生前を入れないでおくれ」
澪は続けて褐色の小瓶を置いた。
リュシアの顔が、さっきより険しくなる。
「まだあるのかい」
「こちらも鑑定してください」
「今度は食べ物じゃないね」
「薬です」
「それを先に言うと、余計に怖いよ」
リュシアが鑑定する。
----------------------------------
竜血疲労耐久強化薬
品質:極上
効果:
疲労耐久度の恒久上昇
同一負荷に対する疲労上昇量を低減
----------------------------------
「恒久」
リュシアはその2文字を、声に出して読んだ。
「一時的に元気になる薬じゃないんだね」
「違います。同じ仕事をしても、疲労値の上がり方が遅くなります」
「反動は」
「ありません」
ヴァルトが答える。
「ただし、身体へ定着します。服用前の状態には戻りません」
リュシアは小瓶を持ち上げ、光へ透かした。
「肉より、こっちの方が大ごとじゃないかい」
「私たちは3人とも飲みました」
「真壁もかい」
「真壁さんが最初です」
リュシアは少し考えた。
「それは安心材料にしていいのか、余計に心配すべきなのか迷うね」
「安全性は確認しています」
「真壁が最初に飲んだという時点で、確認より先に試してそうなんだよ」
澪は否定できなかった。
リュシアはその場では飲まず、小瓶を包みの隣へ置いた。
「店を閉めてから飲むよ。身体の変化を見るなら、その方がいいだろう」
「お願いします。疲れにくくなっても、仕事を増やさないでくださいね」
リュシアが澪を見る。
「あんたたちにだけは言われたくないよ」
最後に口外しないよう頼むと、リュシアは苦笑した。
「誰にも言わないよ。火竜を丸ごと扱える商会だなんて知られたら、商売の客より厄介なのが集まる」
「丸ごととは言っていません」
「まだ隠せているつもりだったのかい」
セルマは、澪が差し出した包みを受け取ると、手の中で重さを確かめた。
「お肉ね」
「分かりますか」
「包み方と重さを見れば、そのくらいは分かるわ。ただ、普通のお肉ではなさそうね」
「どうしてですか」
「澪が、渡す前から少し緊張しているもの」
澪は自分の頬へ手を当てた。
セルマは小さく笑い、包みを卓上へ置く。
「何のお肉なの?」
「先に鑑定してください」
セルマは澪を一度見てから、素直に鑑定を使った。
----------------------------------
火竜の尾肉
状態:最良
品質:極上
特性:
高栄養
高い滋養
脂肪分豊富
希少高級食材
----------------------------------
セルマは声を上げなかった。
表示を最後まで読み、それから包みへ視線を落とした。
「火竜」
「はい」
「比喩ではないのね」
「鑑定結果ですので、間違いありません」
ヴァルトが答えると、セルマは静かに彼を見た。
「どういう経緯で、火竜のお肉を持ち帰ることになったの」
「火山灰を採取しに行きました」
「そこまでは普通ね」
「鉱物を調べていたところ、火竜の巣へ入りました」
「その先から普通ではなくなったのね」
責める声ではない。
ただ、話の途中に大きな穴があることを、丁寧に示していた。
セルマはヴァルトの手や顔を見て、怪我が残っていないことを確かめる。
「無事に戻ってきたのなら、今はそれでいいわ。これ以上は聞かない方がよさそうね」
「ありがとうございます」
「澪たちは、もう食べたの?」
「はい。真壁さんが焼き方を調べました」
「真壁が料理をしたの?」
「普通の肉と同じようには焼けなかったので」
セルマの口元が少し緩む。
「食材でも、真壁は工程から入るのね」
尾肉は脂が多く、低い温度でゆっくり火を通すと柔らかくなる。
そう説明すると、セルマは真面目に頷いた。
「分かったわ。出所も、手に入れた量も聞かない。誰にも話さない」
澪は次に小瓶を出した。
「セルマさんには、こちらも」
「今度は薬ね」
「分かるんですか」
「お肉と同じ包みには見えないでしょう」
セルマが鑑定する。
----------------------------------
竜血疲労耐久強化薬
品質:極上
効果:
疲労耐久度の恒久上昇
同一負荷に対する疲労上昇量を低減
----------------------------------
セルマは小瓶を持ったまま、しばらく考えた。
「一時的に元気になるのではなく、これから先、同じ仕事をしても疲れにくくなるのね」
「はい。疲労値は今まで通り0から100%で増えます。ただ、同じ負荷を受けた時の増え方が遅くなります」
「元の身体へは戻せない」
「はい」
「澪も飲んだのね」
「飲みました」
「真壁とヴァルトさんも?」
「3人とも服用済みです」
ヴァルトが答える。
セルマは小瓶を掌の中でゆっくり回した。
「それなら、いただくわ」
「すぐに決めなくてもいいんですよ」
「澪が自分で飲んだものを、危険を隠したまま私へ渡すとは思っていないもの」
澪は返事を失った。
セルマはそんな澪を見て、穏やかに笑う。
「ただし、今すぐには飲まないわ。仕事が終わってから、落ち着いて身体の様子を確かめる」
「その方がいいと思います」
肉と薬を籠へ入れ、布を掛ける。
「夕食に火竜のお肉をいただいて、その後に竜血の薬。確かに、人へ話せる献立ではないわね」
「並べると、ずいぶん強そうですね」
「澪たちが持ってくるものは、最近いつもそうでしょう」
ヴァルトが籠を見る。
「肉にも滋養がありますので、同時に摂れば」
「ヴァルトさん、効果を足そうとしないでください」
セルマは、2人のやり取りを見て静かに笑った。
同じ頃、真壁はヴァルディス侯爵家の応接室にいた。
正式な献上ではない。
アルベルトへの私的な届け物として取り次いでもらい、儀礼用の広間ではなく、家族が使う小さな部屋へ通されている。
アルベルトの隣には妻のセレスティナ。
向かいには母のマルグリットと、妹のエレナ。
鑑定役としてエーリヒも同席していた。
真壁が包みを卓上へ置く。
「正式な献上品ではないと聞いたが」
アルベルトが包みを見る。
「ええ。今回は、お裾分けです」
「侯爵家へ持ってくるには、随分と物々しいお裾分けだな」
「少々、外では扱いにくい食材でして」
セレスティナが包みへ目を向ける。
「外では扱いにくいものを、私たちへ食べさせるのですか」
「安全性と味は確認しております」
エレナが真壁を見る。
「真壁がそう言うと、食事より先に何を試したのかが気になるな」
「用途を確かめただけです」
「その言い方が、すでに怪しい」
真壁はエーリヒへ包みを示した。
「エーリヒ殿、鑑定をお願いできますかな」
「承知しました」
エーリヒが鑑定を使う。
----------------------------------
火竜の背肉
状態:最良
品質:極上
特性:
高栄養
高い滋養
身体保温
希少高級食材
----------------------------------
エーリヒが黙った。
アルベルトが横を見る。
「どうした」
「火竜の肉です」
部屋が静かになる。
マルグリットは包みを見た。
セレスティナは真壁を見た。
エレナだけが少し身を乗り出し、鑑定表示を確かめる。
「火竜と出ているのか」
「間違いありません」
アルベルトの視線が真壁へ戻る。
「どこで手に入れたのだ」
「ゼグルド火山です」
「討伐したのは」
「ヴァルト君です」
「ヴァルト殿は、火竜を討伐しに行ったのか」
「火山灰の採取へ出かけました」
アルベルトが数秒黙った。
「話がつながっていないな」
「鉱物を追った先に、火竜の巣があったそうです」
セレスティナが静かに息をつく。
「そこで襲われ、倒して帰られたのですね」
「結果としては」
エレナが腕を組んだ。
「火山灰を取りに行った者が、火竜の肉まで持って帰るのか。押入商会の採取は、随分と範囲が広いな」
「本人も予定外だったようです」
エーリヒは包みをもう一度鑑定した。
「これほど状態のよい肉が取れたのであれば、ほかの部位も残ったのでしょうか」
真壁の目がわずかに細くなる。
「なかなか楽しい素材でしたな」
エーリヒが真壁を見る。
アルベルトも、その言葉が過去形であることに気づいた。
「すでに調べ終えたのだな」
「随分と楽しませてもらいました」
エレナが眉を上げる。
「その言い方では、何へ変えたのか聞かない方がよさそうだな」
「いずれ必要になれば、ご覧いただくこともあるでしょう」
「今は見せるつもりがない、ということか」
「ご賢察です」
エレナは呆れたようでいて、少し面白がっていた。
アルベルトは包みへ視線を戻す。
「公にしない判断は正しい。ヴァルト殿が大型火竜を倒したと知られれば、王都も他領も放っておかないだろう」
「素材まで押入商会が扱ったと分かれば、買い付けだけでは済みません」
エーリヒが続ける。
「献上の要求、研究への協力要請、保有量を探る者も現れます」
「そのため、正式な献上品にはいたしませんでした」
「記録には残さない。私的なお裾分けとして受け取ろう」
調理は、信頼できる料理人1人へ任せる。
真壁は、低い温度で内部まで熱を通し、最後に表面を焼くことだけを伝えた。
「肉になっても火に強いのか」
エレナが包みを見る。
「ええ。生前の性質が、多少残っています」
マルグリットが微笑む。
「食卓へ上がっても、まだ火竜なのですね」
「味はよいものです」
「すでに食べたのだな」
エレナがすぐに返す。
「食材としての用途確認です」
「それを試食と呼ぶのだろう」
「呼び方の違いですな」
「違わないと思うが」
火竜肉の話が一段落したところで、真壁は収納から箱を1つ取り出した。
蓋を開くと、褐色の小瓶が6本並んでいる。
「アルベルト殿。お疲れであれば、こちらを」
アルベルトが箱を見る。
「疲れているように見えるのか」
「ええ」
真壁は迷わなかった。
エーリヒが視線を伏せる。
領内の問題処理が続き、アルベルトが十分に休めていないことは、近くにいる者ほどよく知っている。
真壁は1本を取り出し、エーリヒへ渡した。
「鑑定をお願いします」
----------------------------------
竜血疲労耐久強化薬
品質:極上
効果:
疲労耐久度の恒久上昇
同一負荷に対する疲労上昇量を低減
----------------------------------
エーリヒは表示を読み終えた後も、小瓶を手放さなかった。
「疲れた時に飲み、疲労を消す薬ではありませんね」
「ええ。今後、同じ仕事をしても疲れにくい身体になります」
「恒久的に」
「その通りです」
アルベルトが真壁を見る。
「身体そのものを変える薬を、『お疲れであれば』と出したのか」
「疲れておられる方へ適した品ですからな」
「勧め方と効果の重さが釣り合っていない」
エレナが小瓶の箱を眺める。
「箱だけなら、持ち運びやすい薬に見える。真壁の出し方だけを見て、軽い薬だと思わない方がよさそうだな」
「安全性は確認済みです」
「そこではない」
真壁は薬の性質を説明した。
疲労を感じなくさせるだけではない。
同じ仕事、訓練、戦闘をしても疲労値の増え方そのものが遅くなる。
反動はない。
効果が切れることもない。
ただし、服用前の身体へは戻らない。
「真壁殿たちは、すでに服用したのか」
「私と澪君、ヴァルト君は服用済みです」
エーリヒが小瓶を見た。
「1人で何本も飲む必要は」
「ありません。1本で十分です」
真壁はアルベルトとエーリヒへ1本ずつ勧め、レオンハルトにも1本渡すよう告げた。
箱には3本残る。
アルベルトは蓋を閉じる前に、その3本を見た。
「残りは、私に任せていただけるのだな」
「ええ。ただし、効果が恒久であることを説明し、本人の了承を得てください」
「3本は王都へ送る」
真壁は送り先を尋ねなかった。
現侯爵を含め、誰へ渡すかは侯爵家の判断である。
アルベルトはエーリヒへ顔を向けた。
「書状には詳しい効果を書かない。信頼できる者に箱ごと運ばせる」
「承知しました」
これで終わりかと思ったところで、真壁はもう1つ箱を取り出した。
アルベルトが目を閉じた。
「まだあるのか」
「ええ。こちらも、お裾分けです」
「お裾分けという言葉が、だんだん信用できなくなってきたな」
エーリヒが慎重に1本を取り出した。
「先ほどとは別の薬ですか」
「鑑定をお願いいたします」
----------------------------------
竜命薬
品質:極上
効果:
一定期間、肉体の老化を停止
細胞損傷を修復
身体機能を良好な状態に維持
薬効終了後、通常の老化が再開
----------------------------------
エーリヒは表示を読み直した。
「不老とありますな」
「私の鑑定では、5年ほど」
真壁が答えた瞬間、部屋の空気が変わった。
マルグリットとセレスティナの目が、ほとんど同時に小瓶へ向く。
エレナは2人を見比べた。
「母上も義姉上も、先ほどまでとは目が違うな」
「エレナ」
セレスティナが静かに名を呼ぶ。
「事実を述べただけだ」
マルグリットが小瓶を見つめたまま尋ねる。
「真壁殿。それは、5年若返るという意味でしょうか」
「いいえ。若返りではありません」
真壁は即座に否定した。
「服用した時点より若い姿へ戻ることも、失われた年月を取り戻すこともありません。現在の身体を整え、その状態から老化の進行を5年間止める薬です」
白髪が必ず元の色へ戻るわけではない。
古い傷がすべて消えるわけでもない。
若い頃の身体へ戻す薬ではなく、服用時の身体を基準に、加齢に伴う損傷や機能低下を可能な範囲で修復し、その先の老化を止める。
「5年後には、止まっていた老化が一度に押し寄せるのですか」
セレスティナが尋ねる。
「いいえ。その時点から通常の老化が再開します」
エレナが小瓶を見る。
「つまり、母上も義姉上も今より若くなるわけではない。ただ、今の姿から先へ進まなくなるのだな」
「その理解で結構です」
アルベルトが2人を見る。
「若返りではないと分かっても、目の色は戻らないようだな」
「あなた」
セレスティナの声は穏やかだった。
目だけは箱から離れていない。
マルグリットも微笑んだまま言う。
「若返らなくとも、5年は5年です」
「母上は率直だな」
「こうした時に遠慮をしても、何にもなりません」
安全性について問われると、真壁は確認できている範囲を説明した。
人間由来の細胞と組織を使った試験では、有害な反応は出ていない。
鑑定結果とも一致している。
ただし、実際に5年を経過した後の状態は、これから確認していくことになる。
「すぐ服用する必要はありません。どなたが、いつ使うかは、ご家族で相談してください」
マルグリットが頷く。
「夫にも知らせなければなりませんね」
アルベルトは竜命薬の箱へ手を置いた。
「これは私が預かる。父上へも、書面へ詳細を残さず直接伝えよう」
「服用した者だけ姿が変わらなければ、いずれ周囲に気づかれるだろう」
エレナが言う。
「使用時期と対象は慎重に決める必要があります」
エーリヒも頷いた。
アルベルトは室内の者を見回した。
「今日ここで見聞きしたことは、外へ出さない。火竜の肉だけではない。薬の名、効果、数についても同様だ」
全員が了承する。
アルベルトは真壁へ向き直った。
「真壁殿。これらの薬を、今後ほかの家へ渡すお考えはあるのだろうか」
「流通はいたしません」
真壁は静かに答えた。
「疲労耐久強化薬も、竜命薬も、商品として扱う予定はありません」
金を積んでも買えない。
契約を結べば継続して手に入る品でもない。
今回、侯爵家へ渡したのは、これまで築いてきた関係があるからだった。
真壁はアルベルトへ視線を向けた。
「今後も、良いお付き合いを」
アルベルトは、火竜肉と2つの薬箱を見た。
「それほどの品を置いた後で言われると、随分と重い挨拶になるな」
「見返りを求めているわけではありません」
「承知している。だからこそ、軽く受け取れない」
エーリヒが竜命薬の箱へ蓋を戻した。
「口止めと管理については、侯爵家が責任を持ちます」
「お願いいたします」
エレナは真壁を見た。
「真壁は、火竜を楽しい素材だったと言ったな」
「ええ」
「侯爵家にとっても、随分と楽しいお裾分けになったようだ」
「お気に召したなら何よりです」
「まだ肉しか食べていない」
「そちらも、よい味です」
真壁が侯爵家を辞する前、外回りから戻ったレオンハルトが館へ入ってきた。
警備と領兵の再編が続いているらしく、顔には隠しきれない疲労が残っている。
アルベルトが箱から1本を取り出し、真壁へ渡した。
「真壁殿から説明していただいた方がよいだろう」
真壁はレオンハルトへ小瓶を差し出した。
「レオンハルト殿。お疲れであれば、こちらを」
「薬か」
「ええ」
「疲れが取れるのか」
「正確には、今後疲れにくくなります」
レオンハルトは小瓶を受け取り、そのまま栓へ手を掛けた。
「少々お待ちを」
「何だ」
「効果は恒久です。服用後、元の身体には戻りません」
レオンハルトの手が止まる。
「それを先に言え」
「栓を開ける前には間に合いました」
「そういう問題ではない」
真壁とエーリヒが薬の効果を説明した。
疲労を隠すのではない。
同じ戦闘や訓練でも疲労値が上がりにくくなる。
反動はない。
休息が不要になるわけでもない。
ただし、変化は恒久的である。
「真壁たちも飲んだのか」
「ええ」
「ならば、いただこう」
レオンハルトは栓を開け、一息に飲み干した。
「苦いな」
「薬ですからな」
「これで、今までより長く戦えるのだな」
「休息は必要です」
「長く戦えるのだな」
真壁は一拍置いた。
「結果としては」
エーリヒが額へ手を当てる。
「増えた余裕を、その日の仕事で使い切らないでください」
「心得た」
返事には、あまり信用がなかった。
その日の夜、リュシアは店を閉め、自宅へ戻ってから竜血疲労耐久強化薬を飲んだ。
飲んだ直後に目が冴えることも、急に身体が軽くなることもない。
翌日、普段どおり仕事を続け、夕方になって初めて違いに気づいた。
いつもなら重くなる肩が、まだ動く。
腰にも余裕がある。
疲労値の増え方も、確かに遅い。
「本当に、身体の方を変えたんだね」
増えた余裕で、もう一仕事片づけようとしたところで、澪の言葉を思い出した。
疲れにくくなっても、仕事を増やさないでくださいね。
リュシアは手を止めた。
「言われる相手が逆だと思うんだけどね」
それでも、追加の仕事は明日へ回した。
セルマも自宅で落ち着いてから薬を服用した。
翌日、普段どおり働き、呼吸の乱れが少ないことに気づく。
無理に限界を試そうとはせず、いつもの仕事をいつもの速さで終えた。
それでも夕方の疲労値は、明らかに低い。
「澪たちは、こんなものまで作るようになったのね」
驚きよりも、静かな感慨が先にあった。
澪とヴァルトが秘密基地へ戻ったのは、真壁より少し早かった。
しばらくして扉が開き、侯爵家から帰った真壁が入ってくる。
「リュシアさんもセルマさんも、誰にも話さないと約束してくださいました」
澪が報告すると、真壁も頷いた。
「侯爵家も同様です。正式な献上品ではなく、私的なお裾分けとして受け取っていただきました」
「エーリヒ殿が鑑定したのですか」
ヴァルトが尋ねる。
「ええ。火竜と分かった時は、なかなか見事な沈黙でしたな」
「ほかの素材について聞かれませんでしたか」
「聞かれました」
澪が真壁を見る。
「何と答えたんですか」
「なかなか楽しい素材でした、と」
澪は少し考え、その言葉が過去形だったことに気づいた。
「それで、もう元の姿では残っていないと伝わったんですね」
「アルベルト殿もエーリヒ殿も、理解が早くて助かりました」
「薬も渡したのですよね」
ヴァルトが確認する。
「疲労耐久強化薬を1箱。アルベルト殿、エーリヒ殿、レオンハルト殿が1本ずつ。残る3本は王都へ送られます」
「レオンハルトさんは、すぐ飲みましたか」
澪が尋ねる。
「説明を終えてから飲まれました」
「説明の途中で開けようとしませんでしたか」
「栓へ手を掛けたところで止めました」
「やはり」
ヴァルトが頷く。
「やはり、ではありません」
澪は額へ手を当てた。
「竜命薬も、渡したんですよね」
「ええ」
「マルグリット様とセレスティナ様は」
「若返りではないと説明しましたが、目の色は変わったままでしたな」
「5年老化しないのであれば、若返らなくとも十分な効果です」
ヴァルトが真面目に言う。
「私でも、少し気になります」
澪が答えると、真壁は頷いた。
「流通はしないと、明確に申し上げました」
「その後に、何と言ったんですか」
「今後も、良いお付き合いを」
澪が真壁を見る。
「薬を2箱置いた後で言ったんですか」
「ええ」
「商談ではないのに、商談より効きそうな言葉ですね」
「お裾分けですな」
火竜肉は商品棚へ並ばなかった。
リュシア商会の仕入れ記録にも、侯爵家の献上記録にも載らない。
竜血疲労耐久強化薬も、竜命薬も販売されない。
ただ、内緒で分けた相手の手元へ、火竜一頭分の成果がほんの少し移っただけである。
もっとも、その「ほんの少し」で、リュシアとセルマは疲れにくくなり、侯爵家には5年間老化を止める薬が6本残り、王都へは別の薬が3本送られることになった。
押入商会のお裾分けは、量だけ見れば少なかった。
中身だけが、まるで少なくなかった。