南部辺境から火竜が消えた。
その報告が王都へ届いた日から、王国宰相クラウス・ヴァルディス侯爵の仕事は減るどころか、見事に増えた。
長年、ゼグルド火山周辺への進出を阻んできた大型火竜である。
火竜がいる間は、近づけないという一言で済んだ。
街道は通せない。
鉱脈も調べられない。
警備拠点も置けない。
火山灰や軽石を採取しようとする者が出れば、命が惜しければ戻れと命じればよかった。
ところが、その火竜が見えなくなった。
途端に、軍務局は安全確認を求め、鉱山局は調査許可を求め、街道局は新しい経路案を持ち込み、南部の商人たちは土地の貸与について問い合わせてきた。
危険が消えると、仕事は増える。
クラウスは宰相になって長いが、世の中が親切でないことだけは毎日新鮮に確認できた。
「火竜の巣から南へ抜ける街道案は、いったん保留だ」
王宮の会議室でクラウスが告げると、街道局の長官が地図へ身を乗り出した。
「しかし閣下、火竜の活動はすでに確認されておりません。今こそ測量隊を――」
「火竜がいないことと、安全であることは同じではない」
長官の口が閉じた。
火竜が消えた空白へ、別の大型魔物が入り込む可能性がある。火竜が何かに追われて移動したのなら、その何かの方が危険かもしれない。
そこまで説明しなくても分かってほしかった。
長官職とは、説明される前に分かる者が就く役職ではなかったのか。
クラウスは胸中だけで問いかけ、答えが期待できないので自分で諦めた。
「軍務局は巣の周囲と水場を調査。鉱山局は現地へ入らず、既存資料から候補地を絞れ。街道局は3案すべてについて、必要人員と費用を出しておくように」
「すべて進めるのですか」
「現地へ入るのは安全を確認してからだ。準備まで止めろとは言っていない」
今度は鉱山局の長官が資料をめくり始めた。
「では、調査隊の編成は先に」
「編成案までだ。出発させるな」
「承知しました」
返事は早かった。
理解したかどうかは、後ほど届く書類を見なければ分からない。
会議とは、言葉を交わす場ではない。
言った通りの書類が後で届くことを祈る場である。
クラウスは冷めた茶へ手を伸ばし、口をつける前に次の報告書を差し出された。
「南部辺境警備隊から、火竜の巣周辺について追加報告です」
「読め」
「戦闘痕と思われる焼損と岩盤の破壊を確認。ただし、大規模討伐隊が展開した痕跡はありません」
「遺体は」
「確認されておりません」
「血痕は」
「ごくわずかです」
クラウスは報告書へ目を落とした。
大型火竜が戦った。
胸部周辺で爆発が起きた。
火竜は戻らない。
遺体もない。
それなのに、荷車も天幕も、多人数が野営した跡もない。
「単独、あるいは少人数か」
「その可能性があります」
「火竜を倒し、遺体まで運び去れる少人数か」
口にしてから、クラウスは眉間を押さえた。
自分で言った内容なのに、まるで意味が分からなかった。
大型火竜は、倒すだけでも軍事行動になる。
それを少人数で倒し、何トンあるかも分からない巨体を持ち去った者がいる。
そのような者が王国内を歩いているなら、宰相として把握しておくべきだった。
把握できていない時点で、できれば考えたくない相手でもあった。
「討伐者の捜索を始めますか」
軍務官が尋ねた。
「まだよい」
クラウスは即答した。
「確認すべきは土地の安全だ。誰が倒したかではない」
軍務官は意外そうな顔をしたが、反論せず頭を下げた。
追えば見つかる相手なら、そもそも遺体だけきれいに消えてはいない。
見つからない相手を追うために人員を使い、さらに相手へこちらの関心まで知らせる。
それは調査ではない。
自分から藪へ入り、棒を振り回しながら、何か出てこないかと期待する行為である。
宰相の仕事は、藪から出てきたものに噛まれることではなかった。
会議を3つ終え、決裁書を2束処理し、王宮からヴァルディス家の王都邸へ戻った頃には、日が落ちていた。
クラウスが外套を侍従へ渡すと、家令が廊下の先で待っていた。
「領地より、使者が到着しております」
「急報か」
「アルベルト様ご本人の封蝋がございます。ただし、公文ではなく私信です」
クラウスの足が止まった。
公文では書けない。
使者へ口頭で伝えず、私信として父親本人へ送る。
その時点で、よい知らせではない可能性が高い。
「荷物もございます」
「大きいのか」
「いいえ。片手で持てる箱が2つです」
危険な知らせにしては小さい。
小さいから安全とも限らない。
政治の世界では、戦争を始める書状も紙1枚で足りる。
クラウスは執務室へ入り、使者を通させた。
領地から来た家臣は、旅装のまま片膝をつく。
「アルベルト様より、侯爵閣下ご本人へ直接お渡しするよう命じられております」
「中身について聞いているか」
「何も。ただ、道中では決して開けず、他者の手へ渡さぬようにと」
「ご苦労だった。今夜は休め」
使者を下がらせ、家令にも退出を命じる。
室内へ残したのは、侯爵家に長く仕え、鑑定を使える老執事1人だけだった。
机の上には、アルベルトの私信と、細長い箱が2つ。
箱は同じ大きさだった。
クラウスは箱へ手を伸ばさず、まず手紙を開く。
文面は簡潔だった。
『南部の懸案について、再出現の可能性はありません』
クラウスの指が止まる。
火竜は移動したのではない。
戻らないと断言できる状態にある。
『経緯および関係者については、書面へ残せません』
クラウスは目を閉じた。
息子は有能である。
有能な息子が、書面へ残せないと明記した。
つまり、続きを書き忘れたのではない。
父親なら察しろという意味だった。
宰相には国中から毎日、察してほしい文書が届く。
せめて実の息子くらい、普通に書いてほしかった。
『南部の開発については、別の大型魔物への警戒を維持しつつ、準備を進めて問題ありません』
ここまでは朗報だった。
次の段落から、急に話が箱へ移る。
『同封の2種は、侯爵家の外へ出さず、信頼できる鑑定役1名のみを同席させてご確認ください』
『名称、効果、数量、入手経路について、記録を残さないでください』
『一方は、こちらで3名が使用済みです』
『他方は、若返りをもたらすものではありません』
クラウスは手紙を机へ置いた。
「何を送った、アルベルト」
老執事は何も答えなかった。
自分へ聞かれていないと分かっている。
それでも返事をしないところが、長年仕えている者の賢明さだった。
「一方は3名が使用済み。もう一方は若返りではない」
クラウスは文面をもう一度見た。
「何を説明していて、何を説明していないのだ」
少なくとも、普通の薬ではない。
普通の薬なら、若返らないことをわざわざ書く必要はない。
風邪薬へ「空を飛べません」と注意書きを加える者はいない。
飛べると誤解する余地がある薬だから、若返らないと先に釘を刺したのだ。
箱を開ける前から、クラウスはすでに疲れていた。
薬が届いたのだから、ちょうどよいと考えるには、まだ中身が分からなさすぎた。
「扉を施錠しろ」
「承知しました」
「この部屋へ、誰も入れるな。鑑定結果も書き留める必要はない」
老執事が扉を確かめて戻る。
クラウスは最初の箱を開けた。
中には褐色の小瓶が3本収められている。
残りの仕切りには何もない。
「最初は6本だったようだな」
「そのように見受けられます」
「3名が使用済みというのは、これか」
クラウスが1本を老執事へ渡す。
「鑑定を」
老執事の視線が瓶へ落ちる。
間もなく、表情がわずかに固まった。
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竜血疲労耐久強化薬
品質:極上
効果:
疲労耐久度の恒久上昇
同一負荷に対する疲労上昇量を低減
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「読み上げろ」
「竜血疲労耐久強化薬。疲労に対する耐久力を恒久的に高め、同じ負荷を受けた場合の疲労上昇量を減少させます」
「恒久的に」
「はい」
「疲労を回復する薬ではないのか」
「現在の疲労を取り除くものではありません。肉体そのものを、疲れにくい状態へ変化させるようです」
クラウスは3本の瓶を見た。
自分の机に積まれた書類が、視界の端へ入る。
南部開発。
王国予算。
国境警備。
貴族間の紛争。
王宮人事。
薬がクラウスを見ているわけではない。
だが、今の自分を狙い澄まして王都まで来たようにしか見えなかった。
「副作用は」
「鑑定上は確認されません。薬効が切れた後の反動もないようです」
「元へは戻るのか」
「戻りません」
「息子たちは飲んだのだな」
「一方は3名が使用済みとありますので、恐らく」
アルベルト。
鑑定役。
そして、もう1人。
クラウスは領地で現在動いている者を思い浮かべた。
「レオンハルトまで飲んでいそうだな」
「可能性は高いかと」
あの男は「疲れにくくなる」と聞いた時点で蓋を開ける。
効果が恒久だという説明は、開ける前に間に合ったのだろうか。
アルベルトが手紙を書けている以上、大きな問題は起きていない。
問題が起きていないことと、手順が正しかったことは別だった。
「こちらは後だ」
クラウスは瓶を箱へ戻した。
「もう一つを確認する」
2つ目の箱を開ける。
こちらにも、褐色の瓶が3本。
老執事が1本を手に取った。
鑑定を使った直後、今度は明らかに呼吸が止まった。
「どうした」
「侯爵閣下」
「読め」
老執事が一度だけ喉を整える。
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竜命薬
品質:極上
効果:
一定期間、肉体の老化を停止
細胞損傷を修復
身体機能を良好な状態に維持
薬効終了後、通常の老化が再開
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「不老とあります」
クラウスは黙った。
疲労耐久強化薬を見た直後である。
多少のことでは驚かないつもりだった。
多少ではなかった。
「期間は」
「詳細鑑定では、およそ5年です」
クラウスは椅子の背へ身体を預けた。
机の上には、南部辺境から届いた小瓶が3本。
飲めば5年間、老化しない。
しかも、薬効終了後に5年分の老化がまとめて押し寄せるわけではなく、その時点から普通に時間が進み始める。
息子の手紙には、若返りではないとだけ書かれていた。
確かに若返りではない。
その一文で片づけるには、効果が少々大きすぎた。
「アルベルトは、なぜ『5年間老化しない』と書かなかった」
「名称や効果を記録へ残さぬためかと」
「分かっている」
分かってはいる。
それでも父親としては、箱を開ける前にもう少し心の準備が欲しかった。
火竜が戻らないという報告から、疲れにくい身体と5年間の不老へ進む手紙など、王国宰相の職歴にも前例がない。
「若返りではないのだな」
「はい。現在より若い肉体へ戻るものではありません」
「白髪が戻るわけでもない」
「必ず戻るという効果はありません。服用時点の身体を整え、加齢による変化を止めるものです」
「すでに受けた老化を、すべて消すのではない」
「その通りです」
「5年後は」
「止まっていた老化が一度に現れることはありません。そこから通常の老化が再開します」
クラウスは瓶を見つめた。
若返らない。
それでも、5年間老いない。
宰相として働ける期間が5年延びる。
身体機能の低下を抑えたまま、国政へ関われる。
使わず保管しておく理由はなかった。
ただし、この薬の存在を王宮へ知らせる理由は、さらにない。
「この2種について、陛下にも申し上げない」
老執事がクラウスを見る。
「陛下にも、ですか」
「これは王国へ献上された品ではない。ヴァルディス家へ、私的に預けられたものだ」
薬名から、消えた火竜とのつながりは推測できる。
火竜を倒した者。
遺体を持ち去った者。
血から薬を作った者。
アルベルトが書面へ一切の名を残さなかったのは、その相手を守るためだった。
王宮へ報告すれば、誰が作ったのか必ず問われる。
知らないと答えれば、調査が始まる。
知っていて伏せれば、宰相として国王へ虚偽を述べることになる。
ならば、最初から薬の存在を王国の案件にしなければよい。
「記録へ残さない。王宮へ持ち込まない。侯爵家の外へ出さない」
「承知しました」
「鑑定したことも、忘れろ」
「努めます」
クラウスは老執事の顔を見た。
「忘れられるのか」
「5年間老化しない薬を見た記憶を消すのは、少々難しいかと」
「正直で結構だ」
正直すぎる気もした。
だが、この場で「すでに忘れました」と答える者の方が信用できない。
クラウスは竜命薬を1本、自分の前へ置いた。
「私はこれを服用する」
「今夜、ですか」
「使わずに老いてから飲めば、老いた状態で5年止まるだけだろう」
「理屈の上では、その通りです」
「ならば早い方がよい」
即断ではある。
しかし、衝動ではない。
クラウスは宰相として、自分の健康状態が国政へ与える影響を理解していた。
現時点で大きな病はない。
判断力も衰えていない。
今の状態を5年間保てるなら、効果を最も活用できる時期は今だった。
「残る2本は、家族内で決める」
侯爵家の外へは出さない。
王族にも渡さない。
重臣への恩賞にも使わない。
薬を国家へ差し出すより、その出所へつながる秘密を守る方が重要だった。
一度でも約定を破れば、次に何かが起きても、こちらへは知らされなくなる。
目の前の2本を王国へ渡す利益より、秘密を預けてもらえる関係を失う損害の方が大きい。
「アルベルトも、そのために名を書かなかったのだろう」
「はい」
「息子に教えられるまでもない」
クラウスはそう言った。
手紙が届くまで、火竜の討伐者を探すかどうか考えていたことは胸へしまった。
教えられてはいない。
少しだけ、先に止められただけである。
クラウスは先に竜血疲労耐久強化薬を服用した。
老執事へ毒性と服用量を確認させ、褐色瓶の蓋を開ける。
口へ入れた瞬間、濃い苦味が舌へ広がった。
遅れて、喉から胸へ温かさが落ちていく。
クラウスは空の瓶を見た。
「苦いな」
「薬でございますので」
「アルベルトの手紙には書いていなかった」
「効果に比べれば、優先順位が低かったのでは」
「飲む者には重要だ」
火竜討伐の秘密。
恒久的な身体強化。
5年間の不老。
それらより味の情報を先に書けとは言わない。
だが最後に一行くらい、「苦い」と記せたはずである。
息子の配慮不足を発見したことで、クラウスは少し安心した。
どれほど有能になっても、まだ父親が指摘できるところは残っている。
続いて竜命薬を手に取る。
「続けて服用して問題はないか」
老執事が鑑定を重ねる。
「競合する反応はありません。ただ、同時に服用する必要もないようです」
「では明日にする」
慎重なのではない。
苦い薬を立て続けに2本飲みたくなかった。
王国宰相にも、守りたい尊厳はある。
服用直後、肩の重さは消えなかった。
目の奥の疲労も残っている。
「変化がないな」
「現在までに蓄積した疲労を消す薬ではございません」
「承知している」
承知していた。
少し期待しただけである。
口には出さないつもりだったが、すでに出していた。
クラウスは机の上の書類へ手を伸ばし、途中で止めた。
「今夜は休む」
老執事が一瞬だけ目を見開いた。
「何だ」
「いえ。大変よいご判断かと」
「普段、私が判断を誤っているように聞こえるな」
「そのようなことは」
否定までに、わずかな間があった。
長く仕えすぎた者は、ときどき沈黙で本音を述べる。
翌朝、クラウスは竜命薬も服用した。
やはり苦かった。
昨日より覚悟していた分だけ、腹は立たなかった。
そのまま王宮へ出仕し、南部辺境開発会議へ臨む。
「火竜については、活動が確認されなくなったとだけ公表する」
軍務局の長官が顔を上げた。
「討伐された可能性は伏せるのですか」
「確証がない」
正確には、書面へ出せる確証がない。
「討伐者の捜索は」
「行わない」
「しかし、火竜を倒せる者が国内にいる可能性があります」
「王国へ敵意があるなら、火竜を倒した後に南部を荒らしている。何も起きていない者を、こちらから追い回す必要はない」
「では、遺体の行方についても」
「調査対象から外せ」
長官は納得しきれない顔をした。
だが、宰相命令へ逆らうほどではない。
クラウスは次の地図を開く。
「軍は大型魔物の流入を監視。街道局は北側と東側の2案を優先。鉱山局は火竜の巣から十分に離れた区域から調査を始めろ」
「南側は」
「地熱と崩落の調査が先だ」
指示が次々に決まる。
昼を過ぎても、思考は鈍らない。
午後の決裁へ移っても、集中が切れない。
普段なら一度、目を閉じたくなる時間になっても、まだ余裕があった。
側近が机の横から声をかける。
「本日は、まだお疲れのご様子がありませんな」
「普段は疲れて見えていたのか」
「午後になると、返事が短くなられます」
「簡潔に答えていただけだ」
「今日は説明が長うございます」
クラウスは側近を見た。
それは薬の効果なのか。
単に、余計なことを言われて腹が立っただけなのか。
判別は難しかった。
夕刻、予定していた会議がすべて終わる。
机には、明日処理する予定の資料が積まれていた。
まだできる。
今なら、あと1束は片づけられる。
クラウスが手を伸ばすと、側近が資料の上へ別の紙を置いた。
「本日の予定は、ここまでです」
「まだ働ける」
「薬の効果を確認するためにも、これまでと同じ時間で終えていただくべきかと」
正論だった。
正論は、疲れている時より、疲れていない時の方が腹立たしいことがある。
「誰から聞いた」
「何をでしょう」
「仕事を増やすなという考え方だ」
「誰からも。人として自然な判断です」
クラウスは黙った。
領地の者から秘密が漏れたわけではない。
ただ王都にも、同じことを考える者がいただけだった。
逃げ道がなくなった。
「明日へ回せ」
「承知しました」
側近は勝った顔をしなかった。
長年クラウスへ仕えているだけあって、その程度の節度は持っている。
口元がほんの少し動いたことまでは、見なかったことにしてやった。
夜、クラウスはアルベルトへの返書を書いた。
薬名は書かない。
火竜とも書かない。
討伐者も、加工した者も、届け主も書かない。
『2種、確かに受領した』
『いずれも鑑定を行い、説明の意味を理解した』
『双方とも私が使用した。現時点で異常はない』
『残る品は侯爵家の外へ出さず、存在、名称、効果、数量、由来について記録を残さない』
『南部の懸案は、活動停止として処理する』
『関係者および遺体の行方について、調査は行わない』
『約定は、ヴァルディス家当主として守る』
そこまで書き、少し考えて一文を加える。
『届け主へ、礼を伝えてほしい。今後も良い付き合いを望む』
クラウスは筆を置き、薬の空瓶へ目を向けた。
さらに追伸を書く。
『前者は、かなり苦い。次回は先に記すように』
数秒眺めてから、その一文へ線を引いた。
国家宰相から息子へ送る機密書簡の最後に、薬の味への苦情を残すべきではない。
残すべきではないが、伝えるべきではある。
「使者へ、口頭で一言伝えさせろ」
老執事が尋ねる。
「どのように」
「薬が苦かった、と」
「それだけでございますか」
「それだけだ」
老執事は頭を下げた。
おそらく、領地へ戻った使者は、国家機密を運ぶより緊張しながら、宰相の味の感想をアルベルトへ伝えることになる。
それでよい。
機密は書面へ残さない。
苦味も、できれば次から残さない。
南部から火竜が消えたことで、新しい街道と鉱山の計画が動き始めた。
誰が火竜を倒したのかは、公文書へ残らない。
火竜から作られた2種の薬が、王国宰相の身体へ入ったことも、記録には載らない。
表向きには、南部開発の会議が順調に進み、宰相が以前より少し疲れにくくなっただけだった。
ただし、仕事を増やさず帰宅したクラウスを見て、王都邸の使用人たちは薬の存在よりも大きな異変を感じていた。