押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第171話 王都へ届いた二箱

 

 南部辺境から火竜が消えた。

 

 その報告が王都へ届いた日から、王国宰相クラウス・ヴァルディス侯爵の仕事は減るどころか、見事に増えた。

 

 長年、ゼグルド火山周辺への進出を阻んできた大型火竜である。

 

 火竜がいる間は、近づけないという一言で済んだ。

 

 街道は通せない。

 

 鉱脈も調べられない。

 

 警備拠点も置けない。

 

 火山灰や軽石を採取しようとする者が出れば、命が惜しければ戻れと命じればよかった。

 

 ところが、その火竜が見えなくなった。

 

 途端に、軍務局は安全確認を求め、鉱山局は調査許可を求め、街道局は新しい経路案を持ち込み、南部の商人たちは土地の貸与について問い合わせてきた。

 

 危険が消えると、仕事は増える。

 

 クラウスは宰相になって長いが、世の中が親切でないことだけは毎日新鮮に確認できた。

 

「火竜の巣から南へ抜ける街道案は、いったん保留だ」

 

 王宮の会議室でクラウスが告げると、街道局の長官が地図へ身を乗り出した。

 

「しかし閣下、火竜の活動はすでに確認されておりません。今こそ測量隊を――」

 

「火竜がいないことと、安全であることは同じではない」

 

 長官の口が閉じた。

 

 火竜が消えた空白へ、別の大型魔物が入り込む可能性がある。火竜が何かに追われて移動したのなら、その何かの方が危険かもしれない。

 

 そこまで説明しなくても分かってほしかった。

 

 長官職とは、説明される前に分かる者が就く役職ではなかったのか。

 

 クラウスは胸中だけで問いかけ、答えが期待できないので自分で諦めた。

 

「軍務局は巣の周囲と水場を調査。鉱山局は現地へ入らず、既存資料から候補地を絞れ。街道局は3案すべてについて、必要人員と費用を出しておくように」

 

「すべて進めるのですか」

 

「現地へ入るのは安全を確認してからだ。準備まで止めろとは言っていない」

 

 今度は鉱山局の長官が資料をめくり始めた。

 

「では、調査隊の編成は先に」

 

「編成案までだ。出発させるな」

 

「承知しました」

 

 返事は早かった。

 

 理解したかどうかは、後ほど届く書類を見なければ分からない。

 

 会議とは、言葉を交わす場ではない。

 

 言った通りの書類が後で届くことを祈る場である。

 

 クラウスは冷めた茶へ手を伸ばし、口をつける前に次の報告書を差し出された。

 

「南部辺境警備隊から、火竜の巣周辺について追加報告です」

 

「読め」

 

「戦闘痕と思われる焼損と岩盤の破壊を確認。ただし、大規模討伐隊が展開した痕跡はありません」

 

「遺体は」

 

「確認されておりません」

 

「血痕は」

 

「ごくわずかです」

 

 クラウスは報告書へ目を落とした。

 

 大型火竜が戦った。

 

 胸部周辺で爆発が起きた。

 

 火竜は戻らない。

 

 遺体もない。

 

 それなのに、荷車も天幕も、多人数が野営した跡もない。

 

「単独、あるいは少人数か」

 

「その可能性があります」

 

「火竜を倒し、遺体まで運び去れる少人数か」

 

 口にしてから、クラウスは眉間を押さえた。

 

 自分で言った内容なのに、まるで意味が分からなかった。

 

 大型火竜は、倒すだけでも軍事行動になる。

 

 それを少人数で倒し、何トンあるかも分からない巨体を持ち去った者がいる。

 

 そのような者が王国内を歩いているなら、宰相として把握しておくべきだった。

 

 把握できていない時点で、できれば考えたくない相手でもあった。

 

「討伐者の捜索を始めますか」

 

 軍務官が尋ねた。

 

「まだよい」

 

 クラウスは即答した。

 

「確認すべきは土地の安全だ。誰が倒したかではない」

 

 軍務官は意外そうな顔をしたが、反論せず頭を下げた。

 

 追えば見つかる相手なら、そもそも遺体だけきれいに消えてはいない。

 

 見つからない相手を追うために人員を使い、さらに相手へこちらの関心まで知らせる。

 

 それは調査ではない。

 

 自分から藪へ入り、棒を振り回しながら、何か出てこないかと期待する行為である。

 

 宰相の仕事は、藪から出てきたものに噛まれることではなかった。

 

 

 

 

 

 会議を3つ終え、決裁書を2束処理し、王宮からヴァルディス家の王都邸へ戻った頃には、日が落ちていた。

 

 クラウスが外套を侍従へ渡すと、家令が廊下の先で待っていた。

 

「領地より、使者が到着しております」

 

「急報か」

 

「アルベルト様ご本人の封蝋がございます。ただし、公文ではなく私信です」

 

 クラウスの足が止まった。

 

 公文では書けない。

 

 使者へ口頭で伝えず、私信として父親本人へ送る。

 

 その時点で、よい知らせではない可能性が高い。

 

「荷物もございます」

 

「大きいのか」

 

「いいえ。片手で持てる箱が2つです」

 

 危険な知らせにしては小さい。

 

 小さいから安全とも限らない。

 

 政治の世界では、戦争を始める書状も紙1枚で足りる。

 

 クラウスは執務室へ入り、使者を通させた。

 

 領地から来た家臣は、旅装のまま片膝をつく。

 

「アルベルト様より、侯爵閣下ご本人へ直接お渡しするよう命じられております」

 

「中身について聞いているか」

 

「何も。ただ、道中では決して開けず、他者の手へ渡さぬようにと」

 

「ご苦労だった。今夜は休め」

 

 使者を下がらせ、家令にも退出を命じる。

 

 室内へ残したのは、侯爵家に長く仕え、鑑定を使える老執事1人だけだった。

 

 机の上には、アルベルトの私信と、細長い箱が2つ。

 

 箱は同じ大きさだった。

 

 クラウスは箱へ手を伸ばさず、まず手紙を開く。

 

 文面は簡潔だった。

 

『南部の懸案について、再出現の可能性はありません』

 

 クラウスの指が止まる。

 

 火竜は移動したのではない。

 

 戻らないと断言できる状態にある。

 

『経緯および関係者については、書面へ残せません』

 

 クラウスは目を閉じた。

 

 息子は有能である。

 

 有能な息子が、書面へ残せないと明記した。

 

 つまり、続きを書き忘れたのではない。

 

 父親なら察しろという意味だった。

 

 宰相には国中から毎日、察してほしい文書が届く。

 

 せめて実の息子くらい、普通に書いてほしかった。

 

『南部の開発については、別の大型魔物への警戒を維持しつつ、準備を進めて問題ありません』

 

 ここまでは朗報だった。

 

 次の段落から、急に話が箱へ移る。

 

『同封の2種は、侯爵家の外へ出さず、信頼できる鑑定役1名のみを同席させてご確認ください』

 

『名称、効果、数量、入手経路について、記録を残さないでください』

 

『一方は、こちらで3名が使用済みです』

 

『他方は、若返りをもたらすものではありません』

 

 クラウスは手紙を机へ置いた。

 

「何を送った、アルベルト」

 

 老執事は何も答えなかった。

 

 自分へ聞かれていないと分かっている。

 

 それでも返事をしないところが、長年仕えている者の賢明さだった。

 

「一方は3名が使用済み。もう一方は若返りではない」

 

 クラウスは文面をもう一度見た。

 

「何を説明していて、何を説明していないのだ」

 

 少なくとも、普通の薬ではない。

 

 普通の薬なら、若返らないことをわざわざ書く必要はない。

 

 風邪薬へ「空を飛べません」と注意書きを加える者はいない。

 

 飛べると誤解する余地がある薬だから、若返らないと先に釘を刺したのだ。

 

 箱を開ける前から、クラウスはすでに疲れていた。

 

 薬が届いたのだから、ちょうどよいと考えるには、まだ中身が分からなさすぎた。

 

「扉を施錠しろ」

 

「承知しました」

 

「この部屋へ、誰も入れるな。鑑定結果も書き留める必要はない」

 

 老執事が扉を確かめて戻る。

 

 クラウスは最初の箱を開けた。

 

 中には褐色の小瓶が3本収められている。

 

 残りの仕切りには何もない。

 

「最初は6本だったようだな」

 

「そのように見受けられます」

 

「3名が使用済みというのは、これか」

 

 クラウスが1本を老執事へ渡す。

 

「鑑定を」

 

 老執事の視線が瓶へ落ちる。

 

 間もなく、表情がわずかに固まった。

 

----------------------------------

竜血疲労耐久強化薬

品質:極上

効果:

疲労耐久度の恒久上昇

同一負荷に対する疲労上昇量を低減

----------------------------------

 

「読み上げろ」

 

「竜血疲労耐久強化薬。疲労に対する耐久力を恒久的に高め、同じ負荷を受けた場合の疲労上昇量を減少させます」

 

「恒久的に」

 

「はい」

 

「疲労を回復する薬ではないのか」

 

「現在の疲労を取り除くものではありません。肉体そのものを、疲れにくい状態へ変化させるようです」

 

 クラウスは3本の瓶を見た。

 

 自分の机に積まれた書類が、視界の端へ入る。

 

 南部開発。

 

 王国予算。

 

 国境警備。

 

 貴族間の紛争。

 

 王宮人事。

 

 薬がクラウスを見ているわけではない。

 

 だが、今の自分を狙い澄まして王都まで来たようにしか見えなかった。

 

「副作用は」

 

「鑑定上は確認されません。薬効が切れた後の反動もないようです」

 

「元へは戻るのか」

 

「戻りません」

 

「息子たちは飲んだのだな」

 

「一方は3名が使用済みとありますので、恐らく」

 

 アルベルト。

 

 鑑定役。

 

 そして、もう1人。

 

 クラウスは領地で現在動いている者を思い浮かべた。

 

「レオンハルトまで飲んでいそうだな」

 

「可能性は高いかと」

 

 あの男は「疲れにくくなる」と聞いた時点で蓋を開ける。

 

 効果が恒久だという説明は、開ける前に間に合ったのだろうか。

 

 アルベルトが手紙を書けている以上、大きな問題は起きていない。

 

 問題が起きていないことと、手順が正しかったことは別だった。

 

「こちらは後だ」

 

 クラウスは瓶を箱へ戻した。

 

「もう一つを確認する」

 

 2つ目の箱を開ける。

 

 こちらにも、褐色の瓶が3本。

 

 老執事が1本を手に取った。

 

 鑑定を使った直後、今度は明らかに呼吸が止まった。

 

「どうした」

 

「侯爵閣下」

 

「読め」

 

 老執事が一度だけ喉を整える。

 

----------------------------------

竜命薬

品質:極上

効果:

一定期間、肉体の老化を停止

細胞損傷を修復

身体機能を良好な状態に維持

薬効終了後、通常の老化が再開

----------------------------------

 

「不老とあります」

 

 クラウスは黙った。

 

 疲労耐久強化薬を見た直後である。

 

 多少のことでは驚かないつもりだった。

 

 多少ではなかった。

 

「期間は」

 

「詳細鑑定では、およそ5年です」

 

 クラウスは椅子の背へ身体を預けた。

 

 机の上には、南部辺境から届いた小瓶が3本。

 

 飲めば5年間、老化しない。

 

 しかも、薬効終了後に5年分の老化がまとめて押し寄せるわけではなく、その時点から普通に時間が進み始める。

 

 息子の手紙には、若返りではないとだけ書かれていた。

 

 確かに若返りではない。

 

 その一文で片づけるには、効果が少々大きすぎた。

 

「アルベルトは、なぜ『5年間老化しない』と書かなかった」

 

「名称や効果を記録へ残さぬためかと」

 

「分かっている」

 

 分かってはいる。

 

 それでも父親としては、箱を開ける前にもう少し心の準備が欲しかった。

 

 火竜が戻らないという報告から、疲れにくい身体と5年間の不老へ進む手紙など、王国宰相の職歴にも前例がない。

 

「若返りではないのだな」

 

「はい。現在より若い肉体へ戻るものではありません」

 

「白髪が戻るわけでもない」

 

「必ず戻るという効果はありません。服用時点の身体を整え、加齢による変化を止めるものです」

 

「すでに受けた老化を、すべて消すのではない」

 

「その通りです」

 

「5年後は」

 

「止まっていた老化が一度に現れることはありません。そこから通常の老化が再開します」

 

 クラウスは瓶を見つめた。

 

 若返らない。

 

 それでも、5年間老いない。

 

 宰相として働ける期間が5年延びる。

 

 身体機能の低下を抑えたまま、国政へ関われる。

 

 使わず保管しておく理由はなかった。

 

 ただし、この薬の存在を王宮へ知らせる理由は、さらにない。

 

「この2種について、陛下にも申し上げない」

 

 老執事がクラウスを見る。

 

「陛下にも、ですか」

 

「これは王国へ献上された品ではない。ヴァルディス家へ、私的に預けられたものだ」

 

 薬名から、消えた火竜とのつながりは推測できる。

 

 火竜を倒した者。

 

 遺体を持ち去った者。

 

 血から薬を作った者。

 

 アルベルトが書面へ一切の名を残さなかったのは、その相手を守るためだった。

 

 王宮へ報告すれば、誰が作ったのか必ず問われる。

 

 知らないと答えれば、調査が始まる。

 

 知っていて伏せれば、宰相として国王へ虚偽を述べることになる。

 

 ならば、最初から薬の存在を王国の案件にしなければよい。

 

「記録へ残さない。王宮へ持ち込まない。侯爵家の外へ出さない」

 

「承知しました」

 

「鑑定したことも、忘れろ」

 

「努めます」

 

 クラウスは老執事の顔を見た。

 

「忘れられるのか」

 

「5年間老化しない薬を見た記憶を消すのは、少々難しいかと」

 

「正直で結構だ」

 

 正直すぎる気もした。

 

 だが、この場で「すでに忘れました」と答える者の方が信用できない。

 

 クラウスは竜命薬を1本、自分の前へ置いた。

 

「私はこれを服用する」

 

「今夜、ですか」

 

「使わずに老いてから飲めば、老いた状態で5年止まるだけだろう」

 

「理屈の上では、その通りです」

 

「ならば早い方がよい」

 

 即断ではある。

 

 しかし、衝動ではない。

 

 クラウスは宰相として、自分の健康状態が国政へ与える影響を理解していた。

 

 現時点で大きな病はない。

 

 判断力も衰えていない。

 

 今の状態を5年間保てるなら、効果を最も活用できる時期は今だった。

 

「残る2本は、家族内で決める」

 

 侯爵家の外へは出さない。

 

 王族にも渡さない。

 

 重臣への恩賞にも使わない。

 

 薬を国家へ差し出すより、その出所へつながる秘密を守る方が重要だった。

 

 一度でも約定を破れば、次に何かが起きても、こちらへは知らされなくなる。

 

 目の前の2本を王国へ渡す利益より、秘密を預けてもらえる関係を失う損害の方が大きい。

 

「アルベルトも、そのために名を書かなかったのだろう」

 

「はい」

 

「息子に教えられるまでもない」

 

 クラウスはそう言った。

 

 手紙が届くまで、火竜の討伐者を探すかどうか考えていたことは胸へしまった。

 

 教えられてはいない。

 

 少しだけ、先に止められただけである。

 

 

 

 

 

 クラウスは先に竜血疲労耐久強化薬を服用した。

 

 老執事へ毒性と服用量を確認させ、褐色瓶の蓋を開ける。

 

 口へ入れた瞬間、濃い苦味が舌へ広がった。

 

 遅れて、喉から胸へ温かさが落ちていく。

 

 クラウスは空の瓶を見た。

 

「苦いな」

 

「薬でございますので」

 

「アルベルトの手紙には書いていなかった」

 

「効果に比べれば、優先順位が低かったのでは」

 

「飲む者には重要だ」

 

 火竜討伐の秘密。

 

 恒久的な身体強化。

 

 5年間の不老。

 

 それらより味の情報を先に書けとは言わない。

 

 だが最後に一行くらい、「苦い」と記せたはずである。

 

 息子の配慮不足を発見したことで、クラウスは少し安心した。

 

 どれほど有能になっても、まだ父親が指摘できるところは残っている。

 

 続いて竜命薬を手に取る。

 

「続けて服用して問題はないか」

 

 老執事が鑑定を重ねる。

 

「競合する反応はありません。ただ、同時に服用する必要もないようです」

 

「では明日にする」

 

 慎重なのではない。

 

 苦い薬を立て続けに2本飲みたくなかった。

 

 王国宰相にも、守りたい尊厳はある。

 

 服用直後、肩の重さは消えなかった。

 

 目の奥の疲労も残っている。

 

「変化がないな」

 

「現在までに蓄積した疲労を消す薬ではございません」

 

「承知している」

 

 承知していた。

 

 少し期待しただけである。

 

 口には出さないつもりだったが、すでに出していた。

 

 クラウスは机の上の書類へ手を伸ばし、途中で止めた。

 

「今夜は休む」

 

 老執事が一瞬だけ目を見開いた。

 

「何だ」

 

「いえ。大変よいご判断かと」

 

「普段、私が判断を誤っているように聞こえるな」

 

「そのようなことは」

 

 否定までに、わずかな間があった。

 

 長く仕えすぎた者は、ときどき沈黙で本音を述べる。

 

 

 

 

 

 翌朝、クラウスは竜命薬も服用した。

 

 やはり苦かった。

 

 昨日より覚悟していた分だけ、腹は立たなかった。

 

 そのまま王宮へ出仕し、南部辺境開発会議へ臨む。

 

「火竜については、活動が確認されなくなったとだけ公表する」

 

 軍務局の長官が顔を上げた。

 

「討伐された可能性は伏せるのですか」

 

「確証がない」

 

 正確には、書面へ出せる確証がない。

 

「討伐者の捜索は」

 

「行わない」

 

「しかし、火竜を倒せる者が国内にいる可能性があります」

 

「王国へ敵意があるなら、火竜を倒した後に南部を荒らしている。何も起きていない者を、こちらから追い回す必要はない」

 

「では、遺体の行方についても」

 

「調査対象から外せ」

 

 長官は納得しきれない顔をした。

 

 だが、宰相命令へ逆らうほどではない。

 

 クラウスは次の地図を開く。

 

「軍は大型魔物の流入を監視。街道局は北側と東側の2案を優先。鉱山局は火竜の巣から十分に離れた区域から調査を始めろ」

 

「南側は」

 

「地熱と崩落の調査が先だ」

 

 指示が次々に決まる。

 

 昼を過ぎても、思考は鈍らない。

 

 午後の決裁へ移っても、集中が切れない。

 

 普段なら一度、目を閉じたくなる時間になっても、まだ余裕があった。

 

 側近が机の横から声をかける。

 

「本日は、まだお疲れのご様子がありませんな」

 

「普段は疲れて見えていたのか」

 

「午後になると、返事が短くなられます」

 

「簡潔に答えていただけだ」

 

「今日は説明が長うございます」

 

 クラウスは側近を見た。

 

 それは薬の効果なのか。

 

 単に、余計なことを言われて腹が立っただけなのか。

 

 判別は難しかった。

 

 夕刻、予定していた会議がすべて終わる。

 

 机には、明日処理する予定の資料が積まれていた。

 

 まだできる。

 

 今なら、あと1束は片づけられる。

 

 クラウスが手を伸ばすと、側近が資料の上へ別の紙を置いた。

 

「本日の予定は、ここまでです」

 

「まだ働ける」

 

「薬の効果を確認するためにも、これまでと同じ時間で終えていただくべきかと」

 

 正論だった。

 

 正論は、疲れている時より、疲れていない時の方が腹立たしいことがある。

 

「誰から聞いた」

 

「何をでしょう」

 

「仕事を増やすなという考え方だ」

 

「誰からも。人として自然な判断です」

 

 クラウスは黙った。

 

 領地の者から秘密が漏れたわけではない。

 

 ただ王都にも、同じことを考える者がいただけだった。

 

 逃げ道がなくなった。

 

「明日へ回せ」

 

「承知しました」

 

 側近は勝った顔をしなかった。

 

 長年クラウスへ仕えているだけあって、その程度の節度は持っている。

 

 口元がほんの少し動いたことまでは、見なかったことにしてやった。

 

 

 

 

 

 夜、クラウスはアルベルトへの返書を書いた。

 

 薬名は書かない。

 

 火竜とも書かない。

 

 討伐者も、加工した者も、届け主も書かない。

 

『2種、確かに受領した』

 

『いずれも鑑定を行い、説明の意味を理解した』

 

『双方とも私が使用した。現時点で異常はない』

 

『残る品は侯爵家の外へ出さず、存在、名称、効果、数量、由来について記録を残さない』

 

『南部の懸案は、活動停止として処理する』

 

『関係者および遺体の行方について、調査は行わない』

 

『約定は、ヴァルディス家当主として守る』

 

 そこまで書き、少し考えて一文を加える。

 

『届け主へ、礼を伝えてほしい。今後も良い付き合いを望む』

 

 クラウスは筆を置き、薬の空瓶へ目を向けた。

 

 さらに追伸を書く。

 

『前者は、かなり苦い。次回は先に記すように』

 

 数秒眺めてから、その一文へ線を引いた。

 

 国家宰相から息子へ送る機密書簡の最後に、薬の味への苦情を残すべきではない。

 

 残すべきではないが、伝えるべきではある。

 

「使者へ、口頭で一言伝えさせろ」

 

 老執事が尋ねる。

 

「どのように」

 

「薬が苦かった、と」

 

「それだけでございますか」

 

「それだけだ」

 

 老執事は頭を下げた。

 

 おそらく、領地へ戻った使者は、国家機密を運ぶより緊張しながら、宰相の味の感想をアルベルトへ伝えることになる。

 

 それでよい。

 

 機密は書面へ残さない。

 

 苦味も、できれば次から残さない。

 

 南部から火竜が消えたことで、新しい街道と鉱山の計画が動き始めた。

 

 誰が火竜を倒したのかは、公文書へ残らない。

 

 火竜から作られた2種の薬が、王国宰相の身体へ入ったことも、記録には載らない。

 

 表向きには、南部開発の会議が順調に進み、宰相が以前より少し疲れにくくなっただけだった。

 

 ただし、仕事を増やさず帰宅したクラウスを見て、王都邸の使用人たちは薬の存在よりも大きな異変を感じていた。

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