押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第173話 王都まで2時間

 

 移動日当日の朝、採石場秘密基地の格納場所には、出発準備を終えたエアカーが静かに浮いていた。

 

 澪は運転席へ座り、正面に並ぶ表示を順に確かめた。動力系統に異常はなく、車体を包む認識阻害境界も正常に起動している。助手席では真壁が収納内の荷物を確認しており、後部座席にはアルベルトとマルグリットがすでに乗り込んでいた。

 

「箱馬車と機械馬2頭、王都用の衣服、侯爵家の紋章板。すべて揃っています」

 

 真壁は確認を終えると、助手席の扉を閉めた。

 

 空を飛ぶ車で出発するのに、収納の中には箱馬車と馬まで入っている。旅支度として考えれば大荷物なのに、外から見える荷物はマルグリットの膝に置かれた小箱一つだけだった。

 

「マルグリット様、その箱は何ですか」

 

「帰りに使うかもしれませんから」

 

 マルグリットは小箱の蓋を指先で軽く撫でた。

 

 中へ何を入れるつもりなのかは言わなかった。しかし、隣に座るアルベルトが早くも疲れた顔をしたため、澪にも答えは分かった。

 

「母上。まだ何も決まっておりません」

 

「ええ。ですから、今は空の箱です」

 

 確かに箱は空なのだろう。

 

 ただし、空箱をわざわざ王都まで持っていく人は、帰りに何かを入れる気がかなりある。

 

「では、出発します」

 

 澪が操縦桿へ手を掛けると、エアカーは音もなく前へ滑り出した。

 

 秘密基地の格納場所を離れ、谷間を抜けるまでは低い高度を保つ。人家と街道から十分離れたところで、澪はゆっくりと機首を上げた。

 

 窓の下では、山裾を縫う細い川が朝日を返し、その隣を細い街道が寄り添うように伸びていた。畑を囲む小さな村も見えたが、屋根の形を数える間もなく後方へ流れていく。

 

「本当に、これで王都近郊まで2時間なのですね」

 

 マルグリットは窓の外を眺めながら、どこか楽しそうに言った。

 

「ええ。王都の警戒範囲へ入る前に着地し、そこからは箱馬車へ乗り換えます」

 

 真壁が答えると、マルグリットは満足そうに頷いた。

 

 王都へ入る直前だけ、この世界の常識へ戻る予定である。そこまでの移動方法については、常識の方に少し休んでもらうしかない。

 

「通常なら、途中で何度も宿を取る距離だ」

 

 アルベルトは眼下の街道を見つめたまま呟いた。

 

「これを領内の視察へ使えれば、移動に費やす日数は大きく減るだろう」

 

「同時に、見つかった後の説明へ費やす時間が増えます」

 

 真壁は淡々と返した。

 

 便利さを褒められているのに、普及ではなく発覚後の面倒を先に考えている。真壁もエアカーを気に入っているはずだが、人へ見せたいとは少しも思っていないらしい。

 

「それにしても、まったく揺れませんね」

 

 マルグリットが袖口を整えながら言った。

 

「長距離の移動で、身支度を崩す必要はありませんからな」

 

 真壁の声が、ほんの少しだけ満足そうになった。

 

 乗り物の快適さを褒められると、真壁は分かりにくく機嫌がよくなる。澪にはもう、そのわずかな違いが分かってしまう。

 

 飛行は順調だった。

 

 途中、遠くの空に大きな鳥型魔物が現れたが、澪は早めに進路をずらした。翼を広げた姿はエアカーより大きく見えたものの、こちらへ近づく様子はない。

 

「避けるのですか」

 

 アルベルトが尋ねる。

 

「はい。わざわざ戦う理由はありませんので」

 

 澪はそう答えながら、隣の真壁を横目で見た。

 

 戦えることと、戦う必要があることは別である。この考え方を、できれば王都から戻るまで全員に守ってもらいたい。

 

 鳥型魔物は一度こちらへ頭を向けたが、視線は長く続かなかった。認識阻害境界によって注意が散ったのか、何度か首を傾げたあと、別の方角へ飛び去っていく。

 

「効果は十分ですな」

 

 真壁が言った。

 

「急旋回も射撃もしていませんから」

 

 澪が返すと、真壁は窓の外へ視線を向けた。

 

 何も言わなかった。

 

 否定しないところを見ると、射撃の可能性を完全には忘れていないらしい。王都へ挨拶へ行くだけなのだから、ぜひ最後まで忘れていてほしい。

 

 

 

 

 

 出発から約2時間が過ぎた頃、窓の下の景色が大きく変わった。

 

 街道の数が増え、農地は細かく区切られ、王都へ荷を運ぶ馬車や旅人の列が遠くからでも見える。王都の外壁そのものはまだ見えなかったが、人と物の流れが一つの方向へ集まり始めていた。

 

「この先へ進む前に降りましょう」

 

 真壁が地図上の位置を確認する。

 

 澪は街道から外れた林と低い丘の間へエアカーを下ろした。地面へ降りると、真壁が周囲を鑑定し、人影や監視用の魔道具がないことを確かめる。

 

「周囲に問題はありません」

 

「では、境界を解除します」

 

 澪が操作すると、エアカーの輪郭が急に鮮明になった。

 

「同じ車体なのに、随分と大きく見えるな」

 

 アルベルトが外へ降りながら言った。

 

 澪も同じ感覚だった。認識阻害境界が働いている間は、目の前にある車体の大きさまで意識へ残りにくかったらしい。解除した途端、こんな物で空を飛んできたのかと改めて思う。

 

 真壁がエアカーを収納すると、林の中から巨大な車体が一瞬で消えた。

 

 続いて、濃い色の木材で作られた端正な箱馬車が姿を現す。さらに栗毛の機械馬が2頭、その横へ並んだ。

 

 真壁が馬具を取り付ける間、機械馬は胸をゆっくりと上下させ、時折耳を動かしている。近くで見ても、毛並みのよい馬にしか見えない。

 

「相変わらず、よくできていますね」

 

 マルグリットが1頭の首筋へ手を伸ばすと、機械馬は穏やかに首を下げた。

 

「マルグリット様を乗員として認識しています」

 

 真壁が説明する。

 

 機械馬はもう1頭も合わせるように首を下げた。

 

「礼儀正しい子たちですね」

 

 マルグリットは満足そうに微笑んだ。

 

「真壁さん。普通の馬は、侯爵夫人へ揃ってお辞儀をするんですか」

 

 澪が小声で尋ねると、真壁は手綱を確認したまま答えた。

 

「よく調教された馬なら、似た動作はするでしょう」

 

 似た動作ではある。

 

 ただし、目の前の2頭は乗員情報を読み取った上で、完全に挨拶している。マルグリットが喜んでいるため、澪はそれ以上追及しなかった。

 

 箱馬車の側面へ侯爵家の紋章板を取り付ける。

 

 アルベルトとマルグリットが乗る以上、身分を隠す必要はない。むしろ正規の紋章を示した方が、城門で余計な確認を受けずに済む。

 

 真壁が御者台へ座り、澪たち3人が車内へ入ると、機械馬は滑らかに歩き始めた。

 

 林の中の細い道から街道へ出ても、箱馬車はほとんど揺れない。車輪が石を踏んでも、座席へ伝わる振動はわずかだった。

 

「静かですね」

 

 マルグリットが窓の外を眺めながら言う。

 

「車軸と車体の間へ、振動を吸収する機構を入れてあります」

 

 真壁が御者台から答えた。

 

 普通の箱馬車へ乗り換えたはずなのに、説明を聞けば聞くほど普通から遠ざかっていく。

 

 王都へ近づくにつれて、街道を行く馬車と旅人の数が増えた。農産物を積んだ荷車の横を通った時、そちらを引く本物の馬が、機械馬へ興味を示して首を伸ばした。

 

 澪は窓からその様子を見て、思わず息を止める。

 

 人間より先に、本物の馬へ偽物だと見抜かれるかもしれない。

 

 栗毛の機械馬は片方だけ耳を伏せ、自然に少し距離を取った。もう片方は前を向いたまま、歩調を乱さない。

 

 本物の馬はしばらく鼻を動かしていたが、相手にされないと分かると興味を失った。

 

「問題ありませんでしたね」

 

 マルグリットが言った。

 

「はい」

 

 澪はようやく息を吐いた。

 

 王都の門へ着く前に、馬による審査があるとは思っていなかった。

 

 

 

 

 

 やがて、街道の先に王都の外壁が見えた。

 

 空を切り取るような高い石壁が左右へ伸び、その中央で巨大な城門が口を開けている。門前には商人や旅人だけでなく、職人らしい荷を背負った者や、列を整理する兵士まで集まり、人と馬車の流れが幾重にも重なっていた。

 

「領都とは、比べものになりませんね」

 

 澪が窓の外を見ながら言う。

 

「王国中から人と物が集まる場所だからな」

 

 アルベルトが答えた。

 

 侯爵家の紋章を見つけた門衛が、箱馬車を貴族用の列へ誘導する。

 

 アルベルトが窓を開けて身分証明を示すと、マルグリットの帰邸と、真壁と澪が侯爵家の客人であることも確認された。

 

 門衛は馬車へ一礼したあと、御者台の前へ立つ機械馬を眺めた。

 

「見事な栗毛ですな。よく手入れされている」

 

「長く働いてもらうためには、手入れが必要です」

 

 真壁は平然と答えた。

 

 本物の馬とは一言も言っていない。嘘をつかず、相手が勝手に抱いた前提だけを丁寧に放置する、真壁らしい返答だった。

 

 機械馬の片方が門衛へ耳を向け、もう片方は退屈そうに地面を一度踏んだ。

 

 2頭が同時に反応しないよう調整した意味を、澪は初めて理解した。秘密基地で見た時には少し不真面目な馬に見えたが、城門では見事に本物らしい。

 

「通ってよろしい」

 

 門衛が道を開ける。

 

 箱馬車は何事もなく王都の門を抜けた。

 

 何事もないように見せるために、空飛ぶ車と認識阻害境界と機械馬2頭を用意している。結果だけ見れば普通の入城だが、準備を並べると普通から最も遠い。

 

 門の内側には、広い石畳の大通りが伸びていた。

 

 何階もある石造りや煉瓦造りの建物が並び、窓から張り出した看板の下では、店主と客が大きな声で値段を交わしている。焼いた肉や香辛料の匂いに、革、煙、香水、馬の匂いまで混ざり、通りそのものが巨大な市場のようだった。

 

「左手の道を進めば大市場です。その先に商人ギルドがあります」

 

 アルベルトが窓越しに案内する。

 

「右側は工房街です。貴族街はもう少し先ですね」

 

 マルグリットも懐かしそうに街並みを眺めていた。

 

 澪は初めて見る王都へ目を奪われながら、御者台の真壁へも視線を向けた。

 

 真壁は建物の装飾ではなく、店の裏口へ荷を運び込む人足や、荷車が出入りする路地を見ている。

 

 王都へ着いて最初に確認するのが物流だった。

 

 真壁にとって街並みとは、物がどこから入り、どこへ消えていくかまで含めて景色らしい。

 

 

 

 

 

 貴族街へ入ると、大通りの喧騒が少しずつ遠ざかった。

 

 高い塀の向こうに庭園が広がり、整えられた並木の間には、広い門を備えた屋敷が並んでいる。その一角に建つヴァルディス侯爵邸へ箱馬車が近づくと、門番は紋章を確認してすぐに門を開いた。

 

 玄関前には使用人たちが並び、アルベルトとマルグリットを迎えた。

 

「随分と早いご到着でございました」

 

 家令は礼を崩さないまま、それでも驚きを隠し切れない様子だった。

 

「道がよかった」

 

 アルベルトが答える。

 

 空を飛んできたことを、道がよかったで済ませた。

 

 貴族の言葉は、事実を隠しながら嘘にもならないよう、よくできている。

 

 箱馬車は屋敷の奥にある馬車回しへ入り、ひとまず車庫と厩舎を借りることになった。

 

 厩務員が水桶と飼料を用意しようとしたため、アルベルトが先に声を掛ける。

 

「旅の直後だ。馬の世話はこちらで行うので、しばらく近づかなくてよい」

 

「承知いたしました」

 

 厩務員が下がったあと、澪は真壁へ小声で尋ねた。

 

「餌を置かれたら、どうするつもりだったんですか」

 

「食べる動作を追加することはできます」

 

「追加しないでください」

 

 真壁は、必要ならできると言っただけの顔をしている。

 

 食べる動作だけを付けても、食べた餌がどこへ消えるのかという問題が増える。真壁が消化機構まで考え始める前に、止められてよかった。

 

 客人用の離れへ案内されると、真壁は休むより先に室内を確認し始めた。

 

 床と壁。

 

 窓の位置。

 

 扉の鍵。

 

 外から見通せる場所がないこと。

 

 着地点として使えるだけの広さがあること。

 

「こちらを王都側の拠点として登録します」

 

「着いて最初に、帰る場所を作るんですね」

 

 澪が言うと、真壁は室内の中央へ立った。

 

「帰還手段を確保してから動く方がよいでしょう」

 

 観光地へ来た人が最初に帰り道を作るのは、慎重というより真壁らしい。

 

 アルベルトから、使用人をしばらく近づけないよう命じてもらい、真壁は地図上の位置と室内の安全を確定させる。

 

 やがて、転移先の登録名が表示された。

 

「王都ヴァルディス侯爵邸・客人離れ」

 

「これで、次からはここへ来られるんですね」

 

「条件が整えば」

 

 真壁は満足そうに頷いた。

 

 今回2時間かけて飛んできたことで、次回からは王都までの移動そのものを省略できる。11月の納品へ間に合わせることを考えれば、真壁にとって一番大きな成果は、まだクラウスに会う前に得られてしまった。

 

 客間へ移ると、家令からクラウスの予定が伝えられた。

 

「旦那様は朝から王宮へ上がっておられます。会議が続いておりますので、お戻りは早くても夕刻、遅ければ夜になるかと存じます」

 

「夜まで戻らないのですね」

 

 マルグリットは静かに言った。

 

 声は穏やかだったが、待たされることへの不満は隠れていない。

 

「宰相の職務ですから」

 

 アルベルトが答える。

 

「分かっています」

 

 マルグリットは頷いたあと、家令へ視線を向けた。

 

「それでは、先に例の箱を確認しておきましょう」

 

「父上がお戻りになってからです」

 

 アルベルトが間を置かず止めた。

 

 何の箱かは誰も口にしていないのに、親子の間では完全に通じている。

 

「開けて、数を確かめるだけです」

 

「開けた後に、数を確かめるだけで終わるとは思えません」

 

 アルベルトは母親をよく理解していた。

 

 澪も同意見だったが、侯爵家の親子の間へ参加する勇気はない。

 

「信用がありませんね」

 

「薬に関しては」

 

 アルベルトの返事には迷いがなかった。

 

 マルグリットは少しだけ目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。

 

 真壁は2人のやり取りを見届けると、澪へ顔を向けた。

 

「夜まで時間がありますな」

 

「そうですね」

 

「王都を見ておきましょう」

 

 澪は、ようやく普通の観光が始まるのだと思った。

 

 その時点では、まだそう信じていた。

 

 

 

 

 

 真壁と澪は侯爵邸を出て、商人街へ向かった。

 

 服装は、貴族の客人として目立つものではなく、裕福な地方商人と、その若い会長に見える程度へ整えてある。

 

 大通りへ戻ると、澪は店先へ並ぶ布や菓子、装飾品へ目を奪われた。一方の真壁は、馬車の通行量や荷下ろし場所、店舗の間口、裏手へ続く路地の幅まで確かめている。

 

「観光ですよね」

 

「もちろんです」

 

 真壁は即答した。

 

 その視線は、ちょうど香辛料店の裏へ荷を運び込む人足を追っていた。

 

 真壁にとって商業都市を見ることは観光なのだろう。澪が思い描いていたものと種類が違うだけらしい。

 

 商人街へ入ると、最初に香辛料の強い匂いが鼻をくすぐった。その先では鮮やかな布が店先から垂れ、金物店から響く金属音の向こうに、宝石を並べた小さな店や、薬草の束を吊るした薬種店が続いている。さらに奥には、澪にも用途の分からない遠方の品を扱う店まであった。

 

 ガラスを扱う店の前で、澪は足を止めた。

 

 棚に並ぶ小瓶には気泡が入り、形もわずかに違っている。それでも香水や薬を入れる容器として、高い値札が付けられていた。

 

「小さな瓶でも、かなり高いですね」

 

「同じ形と厚みで揃えることが難しいのでしょう」

 

 真壁は棚の商品ではなく、店の奥に積まれた箱まで見ている。

 

 澪は自分たちの収納に、形の揃った小瓶が入っていることを思い出した。

 

「真壁さん」

 

「何ですかな」

 

「観光だけですよね」

 

「市場の反応を見る程度です」

 

 程度の範囲が一つ広がった。

 

 しかも、反応を見られる品を持ってきている時点で、真壁は初めから商人ギルドへ寄るつもりだった可能性が高い。

 

 王都商人ギルドは、領都の支部よりはるかに大きな石造りの建物だった。正面には複数の受付が並び、奥では荷の鑑定や商談が行われている。出入りする者も、地方の行商人から大商会の代理人まで幅広い。

 

「せっかく王都まで来たのです。取引登録を済ませておきましょう」

 

 真壁が建物を見上げながら言った。

 

「登録だけですね」

 

「ええ。登録と、市場の反応を見る程度です」

 

 すでに登録以外の目的が、堂々と並んでいた。

 

 澪は、自分が止めなければ「程度」の中に販売まで入ると予想しながら、登録窓口へ向かった。

 

 受付の男性は、最初に真壁を見て頭を下げた。

 

「商会の代表者様でしょうか」

 

「代表はこちらの澪君です」

 

 真壁が澪を示す。

 

 受付の視線が、ほんの一瞬だけ止まった。

 

 年若い女性が会長だとは思っていなかったのだろう。澪はその反応を受け止め、背筋を伸ばした。

 

「押入商会の会長を務めています、澪です」

 

「失礼いたしました。王都での取引追加登録でございますね」

 

 受付は態度を改め、書類を差し出した。

 

 澪は用紙を手元へ引き寄せ、商会名の欄へ押入商会と記した。続いて会長名、所在地、取扱品を埋め、王都での連絡先にはヴァルディス侯爵邸を書く。最後の保証人欄へ侯爵家の名を書き込んだ時だけ、受付の目がわずかに見開かれた。

 

「王都では、どのような品をお扱いになる予定でしょうか」

 

「今回は、生活雑貨と工房用品の見本を少し持参しています」

 

 澪が答えると、真壁が収納から小型のガラス瓶を数本出した。

 

 形が揃い、厚みも均一で、気泡もほとんどない。

 

 受付の男性は瓶を一つ持ち上げ、窓から差し込む光へ透かした。

 

「これらは、すべて同じ工房で作られた物ですか」

 

「同じ規格で揃えています」

 

 真壁は大量生産という言葉を使わず、品質と形が揃っていることだけを説明した。

 

 続いて澪が見せる品を選び、歪みの少ない小型の手鏡と、裁縫針、糸切り鋏、作業手袋を机へ出してもらう。最後に爪切りを置くと、受付は小さな金具を手に取り、首を傾げた。

 

「これは、何に使う物でしょうか」

 

「爪を切る道具です」

 

 澪が答えると、受付は自分の指先と爪切りを見比べた。

 

「これで、爪を?」

 

「はい。刃物で削るより早く、形も整えやすいです」

 

 真壁が自分の手を出しかけたので、澪はその爪を見て止めた。

 

「真壁さんの爪は、もう切るところがありません」

 

「では、別の方に試していただきましょう」

 

 身だしなみがよすぎて、実演役になれない。

 

 真壁の几帳面さが、初めて商売の邪魔をした。

 

 受付から呼ばれた若い職員が、自分の爪で試すことになった。澪が刃の間へ爪先を入れ、てこの部分を押すよう説明すると、小さな音とともに爪が滑らかに切れる。

 

「これは早いですね」

 

 若い職員は驚いたように指先を眺めた。

 

「こちらの部分で角も整えられます」

 

 澪がヤスリを示すと、周囲の受付職員まで集まり始めた。

 

 商会登録の窓口だったはずなのに、いつの間にか小さな実演会場になっている。

 

「真壁さん。爪切りは、何個ありますか」

 

 澪が小声で尋ねる。

 

「通常在庫として、30個ほど」

 

 見本を見せるだけにしては、十分すぎる数だった。

 

 やはり真壁は、最初から反応がよければ売るつもりだったらしい。

 

「販売するかどうかは、私が決めますからね」

 

「もちろんです、会長」

 

 真壁は素直に答えた。

 

 素直すぎる返事は、すでに売れると分かっている人の余裕に聞こえた。

 

 

 

 

 

 生活雑貨を担当する鑑定職員が呼ばれ、さらにギルドへ出入りしていた商人2人が現物を見ることになった。

 

 一人は香水や薬瓶、輸入雑貨を扱う女性商人で、もう一人は服飾工房へ道具を卸している男性商人だった。

 

 押入商会の登録手続きは、そのまま商談室へ移った。

 

 澪は会長として中央の席へ座り、真壁には隣から品質や使用法を補足してもらう。

 

「この小瓶を、見本分も含めてすべて買い取りたいのですが」

 

 女性商人は、机に並んだ瓶を光へ透かしながら言った。

 

「王都での専売を認めていただけるなら、次回はさらに多く仕入れます」

 

 王都へ着いた当日に、いきなり専売の話が出た。

 

 珍しい品を見つけた時の動きは、領都の商人より明らかに早い。

 

「今回は市場の反応を確認するための販売です。最初から一つの商会へ絞るつもりはありません」

 

 澪は相手の目を見て答えた。

 

「継続供給についても、領地へ戻ってから判断します」

 

 女性商人は少し残念そうな顔をしたが、瓶そのものを手放す気はないらしい。

 

「では、裁縫針と鋏だけでも、服飾工房向けに優先していただけませんか」

 

 男性商人が続ける。

 

「針は品質が揃っています。糸を通す穴も滑らかですし、この鋏も細かな作業へ向いている」

 

「そちらも、今回は販売先を分けます。実際にどの用途で使われるか、比較したいので」

 

 澪はそう答えながら、自分の口から自然に市場調査の言葉が出たことへ少し驚いた。

 

 大学のゼミで考えていたことと、目の前の商談が重なっている。ただし授業では、爪切りを机へ並べた途端に王都の商人同士が取り合いを始めるところまでは想定していない。

 

「この爪を切る道具は、こちらで扱わせてください」

 

 女性商人が爪切りを手に取った。

 

「身だしなみ用品として、貴族家や裕福な家庭へ売れるでしょう」

 

「職人向けにも需要があります」

 

 男性商人がすぐに口を挟む。

 

「指先を使う仕事では、爪を短く整える必要がある。服飾工房へ卸すなら、こちらの方が適しています」

 

 一つの爪切りが、美容用品と職人工具の間で取り合いになっている。

 

 現代では売り場の端に置かれている日用品でも、用途を知らない市場へ持ち込むと商品分類から始まるらしい。

 

「今回は15個ずつに分けます」

 

 澪が決めると、2人の商人は揃って口を閉じた。

 

「販売後、どのような方が購入し、どう使われたか、可能な範囲で教えてください。次回の数量と条件を決める参考にします」

 

 どちらも独占は取れなかったものの、試験販売には応じた。

 

 手鏡は女性商人が評価したが、王都の貴族向けには少し小さいと言われた。作業手袋は男性商人が興味を示したものの、布手袋より価格が高いため、まず5組だけ試したいという。

 

 すべてが絶賛されるわけではない。

 

 その反応の差が、澪にはかえってありがたかった。何が売れ、何が値段で止まり、誰がどの用途を見つけるのか。それを知るために、王都まで来た意味がある。

 

 商談が進む途中で、澪は廊下に立つ男へ気づいた。

 

 王都の商会で働く者として不自然ではない服装をしているが、商品を買おうとはせず、受付へ質問もしない。男の視線は、押入商会の登録書類から机上の商品へ移り、最後に買い手となった2人の顔を順に確かめていた。

 

 袖口を留めている黒染めの革紐には、灰橋町で押収した荷札とよく似た編み方が使われている。

 

 同じ物とは言い切れない。

 

 それでも、商品より買い手の顔ばかり追う男を、偶然だと片づける気にはなれなかった。

 

 澪は男を見続けず、目の前の商人へ向き直った。

 

「ガラス瓶は、今回は20本までです」

 

「追加は難しいでしょうか」

 

「11月の納品を終えるまでは、新しい供給を約束できません」

 

 澪が答えている間に、廊下の男は静かに姿を消した。

 

 商談が一段落したところで、澪は真壁へ顔を向けず、小声で伝える。

 

「先ほど、灰橋町で見た荷札と似た革紐を付けた人がいました」

 

「顔は覚えましたかな」

 

 真壁も廊下を見なかった。

 

「はい。商品ではなく、私たちと買い手の顔を見ていました」

 

「結構。今は追わなくてよいでしょう」

 

「放っておくんですか」

 

「押入商会が王都へ来たことを、誰へ知らせるのか分かる方が有益です」

 

 真壁は目の前の売買条件を確認しながら答えた。

 

 捕まえたところで、ただの使い走りだと言い張るかもしれない。泳がせれば、王都で黒鎖商会が誰とつながっているのか見える可能性がある。

 

 王都へ来てから、まだ半日も経っていない。

 

 商会の登録を始め、商品を並べただけで、こちらを見張る者まで現れた。王都では品物だけでなく、噂も領都とは比べものにならない速さで動くらしい。

 

 試験販売がまとまると、澪は登録手数料と仲介料を支払い、王都での臨時取引許可証を受け取った。正式な追加登録証は、審査を終えた後に侯爵邸へ届けられる。

 

「次の出荷については、現在抱えている11月納品を終えてから検討します」

 

 澪が改めて伝えると、2人の商人は不満を隠さなかったが、それ以上の約束を求めることはなかった。

 

 王都まで来ても、先に約束した仕事が優先である。

 

 真壁だけでなく、会長である澪も、その線を動かすつもりはなかった。

 

 

 

 

 

 商人ギルドを出た時には、空が少し傾き始めていた。

 

 今度こそ普通に王都を歩こうと、2人は噴水のある広場へ向かった。中央には大きな時計塔が立ち、その周囲を囲むように書店や菓子店、魔道具を扱う店が並んでいる。

 

 澪は薄い生地の間へ木の実と蜜を挟んだ焼き菓子を買った。

 

「甘いですけど、おいしいですね」

 

「保存性も高そうですな」

 

 真壁は一口食べたあと、味より先に保存性を評価した。

 

 食べ歩きでも商売から離れられないらしい。

 

 真壁が時計塔を見上げたため、澪は構造の分析を始めるのではないかと警戒した。

 

「王都の象徴として、よく考えられていますな」

 

 珍しく、純粋に景観を褒めたように聞こえた。

 

「そうですね。遠くからでも見えます」

 

 澪が安心して頷く。

 

「塔を目印に人が集まるため、周囲の店舗と露店にも客が流れます」

 

 やはり続きがあった。

 

 真壁が見ているのは時計塔ではなく、時計塔を中心に生まれる商流だった。

 

 夕方が近づき、2人は侯爵邸へ戻った。

 

 澪の収納には、臨時取引許可証と販売明細、王都で買った菓子が入っている。真壁の収納には地図や価格表、書籍、魔道具の部品が増えていた。

 

 観光の土産より、調査資料の方が多い。

 

 屋敷へ戻ると、アルベルトが客間で書類を整理していた。

 

「王都は見られましたか」

 

「商人ギルドへ取引登録を申請して、持ってきた品を少し販売しました」

 

 澪が答えると、アルベルトの手が止まった。

 

「観光へ行かれたのでは」

 

「王都の商業を見てまいりました」

 

 真壁が答える。

 

 同じ説明を2度聞いても、観光には聞こえなかった。

 

「今日、初めて登録へ行ったのだろう」

 

「はい。登録の途中で商談になりました」

 

 澪が答えると、アルベルトはしばらく黙った。

 

 真壁と澪を数時間自由にした結果、押入商会へ王都の販路が一つ増えたことを理解したらしい。

 

「何を売ったのですか」

 

 マルグリットが興味を示す。

 

 澪がガラス瓶や鏡、裁縫道具、爪切りについて説明すると、マルグリットはすぐに爪切りへ関心を向けた。

 

「爪切りとは、どのような物ですか」

 

 真壁が予備を一つ出し、澪が使い方を説明する。

 

 マルグリットは仕組みを一度見ただけで理解し、自分の指先へ試した。

 

「これは便利ですね。王都で売れるでしょう」

 

「今日出した分は、全部売れました」

 

 澪が答える。

 

「今日、初めて見せた物がですか」

 

 アルベルトが尋ねた。

 

「用途を説明したら、2つの商会が扱いたいと言い出しました」

 

 爪切りを巡って専売の話まで出たことは、説明していても少し現実感がない。

 

 その時、家令が客間へ入ってきた。

 

「クラウス様をお乗せした王宮の馬車が、間もなく到着いたします」

 

 マルグリットが立ち上がり、アルベルトも手元の書類を整えた。

 

 真壁は商人ギルドの書類を収納へ戻し、澪も姿勢を正す。

 

 王都観光と商談の時間は終わった。

 

 ここからが、王都へ来た本来の目的である。

 

 正門の方角から、馬車が石畳を進む音が聞こえてきた。

 

 マルグリットは夫を迎えるため扉へ向かい、その途中で一度だけ、竜命薬が保管されている部屋の方角を見た。

 

「母上」

 

 アルベルトが声を掛ける。

 

「何ですか」

 

「父上がお戻りになってからです」

 

「まだ何も言っていませんよ」

 

 何も言っていないのに、息子には目的が分かっている。

 

 そこまで分かりやすいことの方が問題なのではないかと、澪は思った。

 

「クラウス様がお戻りになりました」

 

 廊下の向こうから家令の声が響く。

 

 朝には採石場秘密基地にいたはずなのに、今は王都の侯爵邸で、王国宰相の帰りを待っている。その間に押入商会の取引登録を申請し、商品を売り、黒鎖商会につながるかもしれない男にまで顔を見られた。

 

 今日一日が長かったのか、短かったのか、澪にはもう分からない。

 

 ただ、廊下の向こうから近づいてくる足音を聞いた瞬間、ここまでの出来事がすべて前座だったことだけは理解できた。

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