押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第174話 宰相の借り

 

 王宮の馬車が正門をくぐったのは、空がすっかり茜色を失い、侯爵邸の窓へ灯りがともり始めた頃だった。

 

 応接室で待っていた澪にも、石畳を踏む車輪の音が聞こえた。ほどなく玄関の方が慌ただしくなり、家令の声に続いて、低く落ち着いた男の声が廊下を近づいてくる。

 

 王国宰相クラウス・ヴァルディス侯爵は、朝から王宮で会議を続けていたと聞いている。

 

 それでも応接室へ入ってきた姿には、疲れを見せまいとする隙のなさがあった。背筋は伸び、衣服の乱れもない。ただ、目の下にわずかな影があり、椅子へ向かう足取りにも、今日一日で何人分もの話を聞いた重さが残っていた。

 

「お帰りなさいませ、あなた」

 

 マルグリットが立ち上がって迎える。

 

「ただいま戻った」

 

 クラウスは妻へ応じ、次にアルベルト、真壁、澪へ視線を移した。

 

「随分と早く着いたものだな」

 

「道がよかったので」

 

 アルベルトが答えると、クラウスは息子をしばらく見つめた。

 

 澪には、その顔が「王都まで何日も掛かる道が、少しよかった程度でなぜ今日のうちに着く」と訴えているように見えた。しかし玄関先で問い詰めるのはやめたらしく、侯爵は小さく息を吐くだけに留めた。

 

「詳しい話は中で聞こう」

 

「その前に、例の箱を確認してもよろしいでしょうか」

 

 マルグリットが穏やかに尋ねる。

 

 夫が帰宅して最初に確かめたいのが薬箱らしい。

 

「久しぶりに会った夫より、箱の方が気になるようだな」

 

 クラウスの声は落ち着いていたが、目だけが少し寂しそうだった。

 

「あなたは逃げませんが、薬は誰かが飲むかもしれませんから」

 

 マルグリットは微笑んで答えた。

 

 夫への信頼と薬への警戒を、同じ一言で成立させてしまった。クラウスの眉がわずかに動いたが、反論の形を見つけられなかったらしい。

 

「母上は、到着してすぐにも箱を開けようとなさいました」

 

 アルベルトが告げる。

 

「数を確認しようとしただけです」

 

「確認した後に、数を減らさない保証がありません」

 

 息子から母へ向ける言葉としては、ずいぶん直接的だった。

 

「私を何だと思っているのです」

 

「竜命薬を欲しがっている母上です」

 

 アルベルトは一歩も退かなかった。

 

 クラウスは妻と息子を交互に見たあと、額を押さえた。王宮でどれほど難しい議題を処理してきたのかは知らないが、帰宅直後に始まった薬を巡る親子の攻防は、宰相の想定外だったようである。

 

「まず、真壁殿と澪会長の話を聞く。その後で家族の話だ」

 

「承知しました」

 

 マルグリットは素直に頷いた。

 

 素直すぎる返事に、アルベルトはかえって警戒している。澪にも、話し合いが終わるまで薬箱が無事なのか少し心配になった。

 

 

 

 

 

 応接室から使用人が下がり、扉が閉められた。

 

 室内に残ったのは、クラウス、マルグリット、アルベルト、真壁、澪の5人だけだった。

 

 クラウスは上着をわずかに緩めると、深く腰掛けた。

 

「王都へ届いた二箱は、私が確認した」

 

 その声から、玄関で見せた疲れが消えている。ここからは夫でも父でもなく、王国宰相として話すつもりなのだろう。

 

「竜血疲労耐久強化薬と、竜命薬。どちらも鑑定結果に偽りはなく、私自身が1本ずつ服用した」

 

「身体に異常はございませんかな」

 

 真壁が尋ねる。

 

「ない。疲労の蓄積は明らかに緩くなり、竜命薬についても、鑑定上は説明どおりだ」

 

 そこでクラウスは一度言葉を切り、真壁と澪を順に見た。

 

「だからこそ、問いただす前に言っておかねばならん」

 

 侯爵は膝の上で手を組んだ。

 

「水害の後にも農地が残った。町も守られた。大豆とさつまいもが入り、肥料によって痩せた土地にも収穫の見込みが生まれた。新しい装身具や爪の彩り、動物像は工房へ仕事を生み、保全されたワイナリーも領の資産として戻ってきた」

 

 澪は黙って聞いていた。

 

 自分たちは、その場で必要だと思ったことを一つずつ進めてきたつもりだった。しかし王都にいて報告を受け取るクラウスには、まったく違う景色が見えていたらしい。

 

「10トンの鉄は職人と建設を支え、冷風箱は食料と薬の扱いを変えた。ゴブリンの群れを止め、黒鎖商会と腐った代官を排し、冬を越すための備えを整え、バルタザールを領から除き、侯爵家の蔵まで用意してもらった」

 

 クラウスはそこで息を吐いた。

 

 口に出して並べるうちに、自分でも量の多さを再確認したのかもしれない。

 

「領内の報告を読むたび、押入商会の名が出てくる。農地を見ても、工房を見ても、治安の報告を見てもだ」

 

 澪は少しだけ居心地が悪くなった。

 

 感謝されるのは嬉しい。けれど、これだけまとめて言われると、自分たちが侯爵領のあらゆる場所へ勝手に入り込んでいるようにも聞こえる。

 

「そのうえ今度は、火竜の肉と、国家がいくら積んでも手に入らぬ薬まで届いた」

 

 クラウスは背もたれから身を起こした。

 

「ヴァルディス家当主として礼を言う。侯爵領は、あなた方に大きな恩がある」

 

「お役に立てたのであれば結構です」

 

 真壁は、過分な感謝へ浮かれることなく答えた。

 

 いつもの調子だったが、クラウスが礼から始めたことには満足しているように見えた。

 

「そのうえで、宰相として聞かなければならぬ」

 

 来た、と澪は身構えた。

 

「南部の火竜を討ったのは、誰だ」

 

「ヴァルト君です」

 

 真壁はためらわなかった。

 

 クラウスの目が細くなる。

 

「単独でか」

 

「ええ。1人で討ち、遺骸を持ち帰りました」

 

 室内の空気が変わった。

 

 火竜が消えた理由を押入商会へ結びつけていたとしても、討伐者がヴァルト1人だとは考えていなかったのだろう。

 

「どうやって倒した」

 

「それは本人の領分です」

 

「遺骸はどこにある」

 

「こちらで保管し、必要な処理を行っています」

 

「薬は、その遺骸から作ったのだな」

 

「ええ」

 

 真壁は嘘をつかない。

 

 けれど、答える範囲は鋭く切り分けている。クラウスが少しでも加工方法へ近づこうとすれば、そこだけ扉が閉まるようだった。

 

「残っている素材の量は」

 

「お答えできません」

 

 真壁は淡々としていた。

 

 クラウスの眉間に皺が寄る。

 

 澪には、その額の奥から「火竜を倒した者も、遺骸の量も、薬の作り方も分からぬまま、私は宰相をしているのか」と絶叫が聞こえてくるようだった。

 

 実際に声へ出さないあたりが、王国宰相の忍耐なのだろう。

 

「なぜ、そこまで隠す」

 

「私たちが求めているのは、名誉ではありませんからな」

 

 真壁はクラウスの目を見た。

 

「爵位も勲章も必要ありません。王宮へ出仕するつもりも、火竜討伐の功績を公表するつもりもない。押入商会と仲間たちの秘密を守ったまま、今の場所で商売を続けられれば、それでよろしい」

 

 クラウスは澪へ視線を移した。

 

「それが押入商会の総意か、澪会長」

 

 澪は背筋を伸ばした。

 

 真壁に任せて頷くだけではいけない。押入商会の会長として尋ねられている。

 

「はい。侯爵家や領内のお役に立てることは、私たちも嬉しく思っています」

 

 声が震えないよう、言葉を一つずつ選ぶ。

 

「ですが、そのために王宮へ出入りしたり、私たちが何を持ち、何を作れるのかを大勢の方へ説明したりすることは望んでいません。今の暮らしと商会を守りたいです」

 

「王家の庇護があれば、今より強く守れる」

 

 クラウスはすぐに返した。

 

「私は、あなた方を陛下へ紹介したい。功績を認めさせ、正式な保護を得るためだ」

 

 悪意ではない。

 

 クラウスは押入商会を王家へ差し出したいのではなく、王国の頂点へ話を通し、誰にも手出しできない立場へ置きたいのだろう。

 

「侯爵家だけで抱え続ければ、いずれ私が国家へ重大な情報を隠したと疑われる。別の貴族や王宮の役人が先に気づけば、私だけでは守り切れぬこともある」

 

「秘密を守る者を増やせば、秘密が守りやすくなるとは限りません」

 

 真壁が静かに返す。

 

 クラウスは口を閉じた。

 

 王へ伝えれば、王だけで終わるはずがない。側近、侍従、軍務、財務、宮廷魔術師、王室御用商人。秘密を守るための会議を開くだけで、秘密を知る者が一部屋分増えそうだった。

 

「王家へ認めていただくことより、今の場所で静かに商売を続けることを優先したいです」

 

 澪は重ねた。

 

 クラウスの顔に、宰相としての理屈と、押入商会の不安を理解する気持ちがせめぎ合っている。

 

 その目が「王家の保護を断る商会を、どうやって王家から守れというのだ」と叫んでいるように見えた。

 

 声に出されたら答えられないため、澪は気づかないふりをした。

 

「……分かった」

 

 やがてクラウスが言った。

 

「今すぐ陛下へ紹介することはしない。ただし、王家へ話さなければ守れぬ状況になった時は、必ず事前に相談させてもらう」

 

「それで結構です」

 

 真壁が頷く。

 

 完全な安心ではない。

 

 それでも、クラウスが押し切らなかったことは大きかった。

 

 

 

 

 

「では、もう一人について聞こう」

 

 クラウスは話を移した。

 

「火竜を単独で討ったヴァルトという男が、なぜ王都へ来ていない」

 

「現在、マールヴェインの森へ入っています」

 

「何をしている」

 

「増えた魔物を間引いております。このまま放置すれば、いずれスタンピードへ発展する可能性がありますので」

 

 クラウスの表情が変わった。

 

「すでにスタンピードが発生しているのか」

 

「いいえ。発生させないための間引きです」

 

 真壁は、森で複数の魔物が増えていること、ヴァルトが境界と結界、地形を使って少数ずつ仕留めていることを説明した。

 

 森を焼かない。

 

 大軍を入れて魔物を刺激しない。

 

 死骸を残して別の魔物を呼ばない。

 

 森の均衡を崩さないよう、増えすぎた種類を順に減らしている。

 

「単独で続けているのか」

 

「ええ」

 

「なぜ領主へ報告しなかった」

 

 クラウスの声が低くなる。

 

 澪の肩がわずかに強張った。

 

 怒っている。

 

 ただし、秘密を隠されたことより、領内の危険を領主が知らされていなかったことへ怒っているようだった。

 

「ヴァルト君の手に余る状態ではありませんでしたので」

 

「それを決めるのは、彼だけではない」

 

 クラウスは即座に返した。

 

「領軍を森へ押し込むつもりはない。大勢を入れれば、彼の狩りを乱すことも分かる。だが領主が森の異常を何も知らぬまま、1人の術者へ任せ続けるわけにもいかん」

 

 もっともだった。

 

 ヴァルトが強いから大丈夫ではない。強いヴァルトが、誰にも知られず危険を処理し続ける状態そのものが問題なのだ。

 

「今後は、魔物の数、生息域、増減の傾向を侯爵家へ報告してもらう」

 

「ヴァルト君の素性ではなく、森の状況についてであれば」

 

「それでよい。必要なら補給や周辺村への警戒はこちらで行う。狩りそのものへ、余計な口を出すつもりはない」

 

 クラウスは領主としての線を引いた。

 

 任せるが、丸投げはしない。

 

 邪魔はしないが、何も知らないまま恩恵だけを受け取り続けることもしない。

 

 澪は、その形ならヴァルトも受け入れられるのではないかと思った。

 

 クラウスはそこで目を細め、真壁を見た。

 

「ヴァルト、か」

 

 その名をゆっくりと繰り返す。

 

「境界術と結界術を自在に扱い、大容量の収納を持ち、単独で火竜を討つ。しかも王都へ近づこうとせず、過去を伏せている」

 

 真壁は黙っている。

 

「それほどの術者が、王国に何人もいるとは思えぬ」

 

 クラウスの声には、もう問いの響きがなかった。

 

「王立魔術院境界課のオスヴァルト師だな」

 

 澪は息を止めた。

 

 気づかないはずはなかった。

 

 クラウスは王国宰相である。失踪した高位魔術師の情報を知らずにいる方が不自然だった。

 

「本人は、今はヴァルトと名乗っています」

 

 真壁は否定しなかった。

 

 肯定もしなかった。

 

 それでもクラウスには十分だったらしい。

 

「生きていたか」

 

 侯爵は椅子へ深く背を預けた。

 

 その顔に、いくつもの考えが同時に浮かんでは消える。

 

 王立魔術院が捜している術者。

 

 火竜を単独で討った男。

 

 今も侯爵領の森で、スタンピードの芽を摘んでいる人物。

 

 宰相としては所在を報告すべきで、領主としては頭を下げるべき相手だった。

 

 クラウスの内心が聞こえるなら、きっと「どうして私の領地には、国家へ報告すべき秘密が次から次へと勝手に集まるのだ」と絶叫している。

 

 その原因の一部が目の前に座っているため、澪は視線を少し下げた。

 

「魔術院は、今もオスヴァルト師の捜索を続けている」

 

 クラウスが言った。

 

「表向きにはな。失踪した高位魔術師を、そのままにしておくわけにはいかん」

 

 真壁の表情は変わらない。

 

「しかし、侯爵家は彼にも大きな借りがある」

 

 クラウスの指が、肘掛けを一度だけ叩いた。

 

「火竜を倒し、森を守っている男へ、礼の代わりに追手を差し向けるほど落ちてはいない」

 

 澪は顔を上げた。

 

「オスヴァルト師の積極捜索は、私が終わらせる」

 

 室内が静まり返った。

 

「専任の人員を外し、各地への照会も止める。新しい確証が出ない限り、魔術院から追手は出させん。継続捜索ではなく、情報待ちへ切り替える」

 

「そこまでして、よろしいのですかな」

 

 真壁が尋ねる。

 

「よいわけがない。宰相としてはな」

 

 クラウスは苦い顔をした。

 

 その目は「よいわけがあるか。国家級の術者を見つけておきながら、私が自分で捜索を止めるのだぞ」と、今度こそはっきり叫んでいるように見えた。

 

「だが領主としては、彼を守らねば恩知らずになる。魔術院内に個人的な執着を持つ者までは止め切れんが、王国の命令として追わせることはしない。侯爵領にいる限り、こちらで守る」

 

 クラウスは真壁を正面から見た。

 

「オスヴァルト師の件は、私が終わらせる」

 

 真壁はしばらく宰相の顔を見つめた。

 

「結構」

 

 短い一言が落ちる。

 

 それから、真壁はゆっくりと頷いた。

 

「非常に結構です」

 

 その声を聞いた途端、澪の胸の奥に押し込めていたものが緩んだ。

 

 ヴァルトが王国の命令で追われることはなくなる。

 

 王立魔術院から追手が送られ、秘密基地へまで捜索の手が伸びる可能性も大きく減る。

 

 安心したと思った時には、視界が滲んでいた。

 

 慌てて俯いたが、頬を伝った涙までは止められない。

 

「澪会長?」

 

 クラウスの声が裏返りかけた。

 

 顔を上げると、王国宰相が明らかに慌てていた。

 

「いえ、すみません。安心しただけです」

 

 澪は目元を押さえた。

 

 泣くつもりなどなかったのに、止めようとすると余計に涙が出てくる。

 

「私は、何かまずい言い方をしただろうか」

 

 クラウスがアルベルトを見る。

 

「父上。よい意味で泣いておられます」

 

「それは分かっている」

 

 クラウスは澪と息子を交互に見た。

 

「分かっているが、こういう場合はどうすればよいのだ」

 

 分かっている人の慌て方ではなかった。

 

 王国の軍務や税制は処理できても、安心して泣き出した若い女性への対応は、宰相府の職務範囲に入っていないらしい。

 

「あなたは、女性が安心して泣く場面に慣れておりませんから」

 

 マルグリットが澪へ布を差し出した。

 

「宰相の職務で、慣れる機会があると思うか」

 

 クラウスは本気で困っていた。

 

 澪は布を受け取り、涙を拭きながら頭を下げた。

 

「本当に、ありがとうございます」

 

「いや、礼を言われることなのだが……泣かれると、こちらが何かしたように見えるではないか」

 

 何かはした。

 

 ヴァルトを追う仕組みを止めてくれた。

 

 ただしクラウスが心配しているのは、功績ではなく、この場へ誰かが入ってきた時の見え方らしい。

 

 真壁はそんな宰相を眺め、もう一度小さく頷いた。

 

「非常に結構ですな」

 

「真壁殿。今は何を評価している」

 

「すべてです」

 

 それでは何も分からない。

 

 クラウスの眉間へ、今日一番深い皺が刻まれた。

 

 

 

 

 

 澪が落ち着いたところで、双方の約束が確認された。

 

 押入商会を直ちに王家へ紹介しないこと。

 

 王家へ話す必要が生じた時は、必ず事前に澪と真壁へ相談すること。

 

 火竜の討伐者、遺骸、薬の製造方法を外へ出さないこと。

 

 ヴァルトがオスヴァルト師であると正式な報告には残さず、魔術院の積極捜索を終わらせること。

 

 一方で押入商会も、王国や侯爵領へ重大な被害が出る危険を見つけた場合には報告し、マールヴェインの森の魔物増加について定期的に情報を渡す。

 

 侯爵家が守り、押入商会も必要な情報を返す。

 

 互いに秘密だけを押しつけるのではなく、信頼を維持するための線が引かれた。

 

「では、続きは食後にいたしましょう」

 

 真壁が席を立った。

 

 クラウスが怪訝そうに顔を上げる。

 

「まだ続きがあるのか」

 

「侯爵閣下は王宮からお戻りになったばかりです。空腹のままでは、よい判断もできません」

 

 真壁は控えていた家令を呼んだ。

 

「厨房へ、こちらを渡していただきたい」

 

 収納から、味噌と醤油の容器が出される。

 

 次に蜂蜜。

 

 下処理を済ませた鰻。

 

 火竜の腹肉を入れた保冷容器。

 

 家令は一つずつ受け取っていたが、火竜の肉だと聞いたところで、動きがわずかに止まった。

 

「火を通しすぎず、最後に表面を香ばしく仕上げるよう料理長へお伝えください」

 

「承知いたしました」

 

 家令は平静を保ちながら答えた。

 

 王国宰相の晩餐へ火竜肉を追加する仕事を、日常の献立変更と同じ顔で受け止める。侯爵家の使用人も大変である。

 

 真壁はさらに、濃い色の瓶を取り出した。

 

「こちらは、保全したワイナリーに残っていた上級品です。状態のよいものを選びました」

 

 採石場秘密基地の横へ丸ごと保全した、あのワイナリーの酒だった。

 

 家令は瓶を灯りへ透かし、慎重に受け取る。

 

 真壁はそこで終わらず、別の瓶まで収納から出した。

 

「こちらは食後に。リュシア商会の芋焼酎です」

 

 澪はその瓶に見覚えがあった。

 

「真壁さん。それは秘蔵していた方ですよね」

 

「こういう時のために取っておいたものです」

 

 真壁は平然としていた。

 

 王国宰相と国家級の秘密について協議し、失踪した高位魔術師の捜索を止めてもらった夜は、確かに秘蔵酒を開ける理由として十分なのかもしれない。

 

「味噌は汁物に。鰻は醤油と蜂蜜で焼いてください。火竜の腹肉にはワインを合わせ、芋焼酎は食後に少量ずつ」

 

「承知いたしました」

 

 家令は味噌と醤油から始まり、蜂蜜、鰻、火竜肉、上級ワイン、秘蔵の芋焼酎まで抱え、とうとう別の使用人を呼んだ。

 

「真壁殿」

 

 クラウスが並んだ食材を見た。

 

「今夜は、家族で簡単に食事をする予定だったのだが」

 

「結構ではありませんか。材料は揃っています」

 

 真壁は満足そうに答えた。

 

 簡単な食事という言葉を、料理を減らす相談ではなく、材料が足りないという報告として受け取ったらしい。

 

 クラウスの顔には「なぜ我が家の簡単な夕食へ火竜が加わるのだ」と書かれていた。

 

 口へ出さなかったのは、宰相としてではなく、家の主人としての意地だろう。

 

 

 

 

 

 最初に運ばれてきたのは、味噌を溶いた温かな汁物だった。

 

 クラウスは馴染みのない香りへ少し警戒しながら口をつけたが、一口飲むと表情を緩めた。

 

「身体が温まるな」

 

「王宮からお戻りになった後には、よろしいでしょう」

 

 真壁が答える。

 

 次に出された鰻は、醤油と蜂蜜で照りよく焼かれていた。香ばしい皮の下から柔らかな身がほどけ、甘辛い味が舌へ残る。

 

「蜂蜜を魚料理へ使うのですね」

 

 マルグリットが感心する。

 

「菓子にだけ使う理由はありませんからな」

 

 真壁は当然のように答えた。

 

 その言い方を聞くと、用途を一つに決めていた側が間違っているような気がしてくる。

 

 主菜の火竜の腹肉は、厚く切られ、低い温度で中まで火を通したあと、表面だけが強く焼かれていた。

 

 ナイフを入れると、抵抗はあるものの硬くはなく、噛むほど濃い旨味が広がる。保全されたワイナリーの上級酒ともよく合った。

 

「この酒も、あのワイナリーに残っていたものか」

 

 クラウスが瓶を見る。

 

「ええ。設備と在庫を保全しておいて正解でした」

 

 真壁は穏やかに答えた。

 

 保全という言葉だけ聞けば、建物を修理して守ったように思える。実際には、ワイナリー一式が秘密基地の横へ移されている。

 

 クラウスがその実態を知った時にどんな顔をするのか、澪は少しだけ興味があったが、今夜これ以上新しい事実を増やすのは気の毒だった。

 

 食後には、真壁が秘蔵していた芋焼酎が少量ずつ注がれた。

 

 クラウスは香りを確かめ、一口だけ含む。

 

「強いな」

 

「ゆっくり味わう酒です」

 

 真壁が答える。

 

「今日は、ゆっくり味わうものが多すぎる」

 

 クラウスは小さく息を吐いた。

 

 その目は「火竜も薬もオスヴァルト師も転移も、一晩で味わわせるな」と叫んでいる。

 

 澪はグラスへ視線を落とし、笑わないようにした。

 

「お話は終わりましたか」

 

 マルグリットが静かに尋ねる。

 

「ひとまずは」

 

「では、家族の話を始めましょう」

 

 クラウスが妻を見る。

 

「今までの話も、十分に家族へ関わっていたと思うが」

 

「こちらは、私の5年に関わる話です」

 

 王国の将来と押入商会の秘密、オスヴァルト師の処遇まで話した直後なのに、マルグリットにとっては、ここからが本題らしい。

 

 竜命薬は若返りの薬ではない。

 

 今の年齢と身体から5年間、老化が止まる。

 

 その後は通常の老化へ戻り、止まっていた5年が一気に押し寄せることもない。

 

「あなたは、すでに服用したのですね」

 

「効果を確かめる必要があった」

 

「でしたら、夫婦で同じ時間を過ごすためにも、私が服用するのが自然でしょう」

 

「母上。残りは家族で相談して決めるべきです」

 

 アルベルトが口を挟む。

 

「誰かから奪うとは言っておりません」

 

「ですが、自分の分は決まっている前提で話されています」

 

「当然でしょう」

 

 マルグリットは迷いなく答えた。

 

 クラウスが目を閉じる。

 

 王立魔術院の捜索は止められても、侯爵夫人の決意は止められないらしい。

 

「分かった。お前の分は確保する」

 

 クラウスが折れた。

 

「ありがとうございます」

 

 マルグリットは満足そうに微笑む。

 

 持参した空箱へ薬を入れて持ち帰る必要はなかったが、自分の分が消えないという約束は無事に持ち帰れることになった。

 

 アルベルトは母の膝にある空箱を見たものの、何も言わなかった。

 

 触れれば「念のためです」と返されるだけだと分かっているのだろう。

 

 

 

 

 

 食事と家族会議がひと区切りつくと、真壁は懐中時計へ目を落とした。

 

「では、私たちは領都へ戻ります」

 

 あまりにも普段どおりの口調だったため、澪は一瞬、今いる場所が王都だということを忘れかけた。

 

「うむ。明日の夕方、迎えに来ていただけるか」

 

 アルベルトも当然のように答えた。

 

「承知しました」

 

「待て」

 

 クラウスが片手を上げた。

 

 声は低いが、顔にははっきりと困惑が出ている。

 

「今、何と言った」

 

「明日の夕方、迎えをお願いしました」

 

 アルベルトが答える。

 

「それは聞こえていた。なぜ真壁殿と澪会長が、今から領都へ戻ることになっている」

 

「11月の納品がありますので」

 

 真壁は当然の理由を答えた。

 

「理由ではない!」

 

 とうとうクラウスが声を上げた。

 

 澪は少し驚いた。

 

 火竜の話でも、オスヴァルト師の話でも、侯爵はここまで大きな声を出さなかった。

 

「どうやって、今から領都へ戻るのだ!」

 

「転移で」

 

 真壁が簡潔に答える。

 

 簡潔すぎた。

 

 クラウスの顔に、声へならない絶叫が浮かんだ。

 

 ――転移で、ではない。なぜ王都と領都を、隣室へ移るように言うのだ。

 

 澪には、そう聞こえた気がした。

 

「侯爵邸の客人離れを、転移拠点として登録しました」

 

「いつの間に」

 

「到着してすぐに」

 

 真壁は落ち着いている。

 

 王都へ来て最初に帰り道を作っただけなのだが、知らされる側からすれば、客人が自邸へ自由に出入りできる道を勝手に増やしたように聞こえるかもしれない。

 

「アルベルト」

 

「何でしょう、父上」

 

「お前は知っていたのか」

 

「登録するところを見ていました」

 

「なぜ私へ先に知らせぬ!」

 

「父上は王宮におられましたので」

 

 返答は正しい。

 

 正しいが、クラウスが求めているのは時系列の説明ではないらしい。

 

「つまり、今夜領地へ戻り、明日の夕方には再びこの屋敷へ現れるというのか」

 

「ええ」

 

 真壁が頷く。

 

「王都と領都を、隣町のように扱わないでもらいたい」

 

 クラウスは額を押さえた。

 

 距離そのものは変わっていない。ただ、真壁たちの移動方法だけが距離を無視している。

 

「その前に、馬車と機械馬を収納してまいります」

 

「馬車と……何だ?」

 

「機械馬です」

 

 クラウスの手が額から止まった。

 

「今日、門を通った栗毛の2頭です」

 

 真壁が補足する。

 

「……あれは馬ではなかったのか」

 

「馬型の自動人形ですな」

 

 クラウスはアルベルトを見る。

 

「お前は、それも知っていたのか」

 

「乗る前から」

 

 クラウスの目が見開かれる。

 

 その顔が、今度こそ大声で叫んでいた。

 

 ――なぜ私だけ、家へ帰るたびに世界の常識を一つずつ壊されねばならんのだ。

 

 実際には、侯爵の口から出たのは、もっと抑えた言葉だった。

 

「なぜ私だけ、話を一つずつ後から聞かされる」

 

 澪は心から同情した。

 

 火竜。

 

 国家級の薬。

 

 オスヴァルト師。

 

 転移拠点。

 

 機械馬。

 

 王宮から疲れて帰ってきた数時間で受け取る情報量ではない。

 

「では、回収してまいります」

 

 真壁は一礼した。

 

 クラウスが止める間もなく、澪とアルベルトを伴って部屋を出る。

 

 

 

 

 

 車庫と厩舎から使用人を下がらせ、まず侯爵家の紋章板を外した。

 

 続いて馬具を収納し、箱馬車を消す。

 

 栗毛の機械馬2頭も、真壁が触れると順に姿を消した。

 

 王都の門を堂々と通った馬車と馬は、空になった車庫へ何の痕跡も残していない。

 

「これでよろしいでしょう」

 

 真壁が言う。

 

「明日は、ここへ直接戻るのだな」

 

 アルベルトが確認する。

 

「ええ。馬車は使いません。皆様も客人離れから転移でお戻りいただきます」

 

 今日の箱馬車と機械馬は、王都の門を正規に通るためだけに作られ、使われ、回収された。

 

 目的だけ見れば簡単なのに、手段の方がずいぶん豪華だった。

 

 客人離れへ戻ると、クラウスとマルグリットが見送りに来ていた。

 

「馬車はどうした」

 

「収納しました」

 

「馬もか」

 

「ええ」

 

 クラウスは空の廊下を見た。

 

 見ても馬はいない。

 

 当然なのだが、理解が追いついていない顔だった。

 

「生きた馬を収納したのではないのだな」

 

「機械馬ですから、問題ありません」

 

 真壁が答える。

 

 クラウスの表情には「機械馬だから問題ない、という説明自体が問題なのだ」と書かれていた。

 

「明日の夕方、こちらへ戻ります」

 

 真壁は転移位置を確かめる。

 

「遅れないでくださいね」

 

 マルグリットが言った。

 

「承知しています」

 

「本当に、明日ここへ現れるのだな」

 

 クラウスはまだ信じ切れない顔で尋ねる。

 

「ええ」

 

「領都から?」

 

「正確には登録済みの拠点からです」

 

「正確さを増やすほど、理解しにくくなる説明もあるのだな」

 

 クラウスは疲れたように言った。

 

 王国宰相が、とうとう理解を諦め始めている。

 

「では、失礼いたします」

 

 真壁と澪が頭を下げる。

 

 次の瞬間、室内の景色が切り替わった。

 

 

 

 

 

 真壁と澪の姿が消えた後も、クラウスはしばらく客人離れの中央を見つめていた。

 

 数時間前まで王都にいなかった2人が現れ、火竜と薬とオスヴァルト師の話をし、晩餐へ火竜肉を持ち込み、馬車と馬を消して、領地へ帰った。

 

 明日の夕方には、また同じ場所へ現れるという。

 

「アルベルト」

 

「何でしょう、父上」

 

「領地では、これが日常なのか」

 

 アルベルトは少し考えた。

 

「毎日ではありません」

 

 クラウスの肩から、わずかに力が抜ける。

 

「ただ、珍しくはなくなりました」

 

 クラウスは黙った。

 

 その横では、マルグリットが家令へ、竜命薬をいつ服用するのがよいか相談するための予定を確認している。

 

 王国宰相として処理すべき問題は、ひとまず片づいた。

 

 しかしクラウスの顔には、最後まで声にならない絶叫が残っていた。

 

 ――せめて明日までに、一つくらいは常識を残しておいてくれ。

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