押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第175話 ヴァルト亭の礼

 

 王都のヴァルディス侯爵邸に用意された客人離れは、つい先ほどまでの騒がしさが嘘のように静かだった。

 

 箱馬車も、栗毛にしか見えない機械馬2頭も、馬具も、侯爵家の紋章板も、すでに真壁の収納へ収められている。残っているのは、転移位置として登録された床の一角と、そこに立つ真壁と澪、それから見送りに来たクラウス、マルグリット、アルベルトだけだった。

 

「では、失礼いたします」

 

 真壁が一礼すると、クラウスはまだ納得し切れない顔で床を見た。

 

「本当に、明日の夕方にはここへ戻るのだな」

 

「ええ」

 

 真壁の返事には、近所へ買い物に出る程度の軽さしかない。

 

 王都と侯爵領の距離を考えれば、クラウスが何度も確認したくなる気持ちは分かる。澪自身も、初めて転移を経験した頃なら同じ顔をしていたはずだった。

 

「遅れないでくださいね」

 

 マルグリットが念を押す。

 

「承知しています」

 

「夕方とは、日没前でよろしいですね」

 

「その頃には参ります」

 

「薬の相談もありますから」

 

「母上。それは今夜、父上となさってください」

 

 アルベルトが即座に止めた。

 

 澪は、王国宰相との密談を終えたばかりなのに、マルグリットの中では竜命薬を巡る家族会議がまだ本番前なのだろうと思った。クラウスの顔に疲労が戻った気がしたが、見なかったことにする。

 

「真壁さん、行き先は採石場ですか」

 

 澪が尋ねると、真壁は首を振った。

 

「ヴァルト亭へ参ります」

 

「このまま直接ですか」

 

「ええ。知らせるべき相手を後回しにする理由はありません」

 

 その言葉を聞いた瞬間、澪の胸の奥に、先ほどまで残っていた熱が戻った。

 

 王立魔術院によるオスヴァルト師の積極捜索を終わらせる。

 

 クラウスがそう明言した時、澪は安心して泣いてしまった。当人であるヴァルトが、その知らせを翌朝まで待たされる理由はない。

 

「分かりました」

 

 澪が頷くと、真壁は転移先の安全を確認した。

 

「では」

 

 視界が歪む。

 

 侯爵邸の整った壁も、見送りに立つ3人の姿も、一瞬で遠ざかった。

 

 次に足の裏へ伝わったのは、よく磨かれた木の床の感触だった。

 

 澪は反射的に周囲を見回す。

 

 先ほどまでいた王都侯爵邸の客人離れとは違う。だが、異世界の森の奥へ来たとも思えなかった。

 

 目の前には厚いコンクリートの壁があり、その上部には現代式の照明が安定した白い光を落としている。床は木張りで、空気は乾いていた。森の湿気も、土の匂いも、夜気の冷たさも感じない。

 

「ここが、ヴァルトさんのお家ですか」

 

「ええ。ヴァルト亭です」

 

 真壁は当然のように答えた。

 

 澪はもう一度、室内を見回した。

 

 壁は頑丈そうだった。扉も厚く、窓は小さい。住宅として落ち着けるよう木材や布が使われているのに、建物の骨格だけは、どう見ても人をくつろがせるより先に何かを防ぐ目的で造られている。

 

 家を建てる時に要塞の基準を混ぜる必要があったのか。

 

 真壁が造ったと考えれば、必要性より先に「できるからやった」が来た可能性もある。

 

 2階で椅子を引く音がした。

 

 続いて、扉の開く音と、階段を下りる足音が近づいてくる。

 

「もう気づかれたんですか」

 

「自宅の中へ2人現れたのです。気づかなければ、防衛設備として問題がありますな」

 

 普通の家でも気づくと思う。

 

 澪がそう返す前に、階段からヴァルトが姿を見せた。

 

 行商の時に着ている外套はなく、シャツの袖を肘までまくっている。髪も少し乱れており、普段よりずっと生活の中にいる姿だった。

 

 一瞬だけ警戒した目を向けたものの、真壁と澪だと分かると、その緊張はすぐにほどけた。

 

「真壁さん。澪さん」

 

「夜分にすみません」

 

「いえ。澪さんがこちらへ来られるのは、初めてでしたね」

 

「はい。道を通らず、いきなり家の中へ来るとは思いませんでした」

 

 ヴァルトは澪が周囲を見回していることに気づいたようだったが、家の説明より先に真壁へ視線を戻した。

 

「王都で、何かありましたか」

 

「ええ。君へ直接伝えるべきことがあります」

 

 真壁の声が少しだけ低くなる。

 

 その調子を聞いたヴァルトも、居間へ案内しかけた足を止めた。

 

「先にお茶を」

 

「その前で結構です」

 

 真壁は遠回しにせず、結論を告げた。

 

「クラウス・ヴァルディス侯爵が、王立魔術院によるオスヴァルト師の積極捜索を終わらせると約束しました」

 

 ヴァルトの手が止まった。

 

 表情は崩れない。

 

 けれど、澪にはその沈黙が、言葉を選んでいるというより、言葉そのものが見つからない時間に見えた。

 

「侯爵閣下は、私に気づかれたのですか」

 

「境界と結界を扱い、火竜を1人で討ち、王都を避けているヴァルトという術者です。気づかぬ方が不自然でしょう」

 

 真壁の説明は正しい。

 

 正しいが、ヴァルトにとっては「隠し方が足りなかった」と言われているのと同じかもしれない。

 

 ヴァルトはわずかに目を伏せた。

 

「そうですか」

 

「ですが、侯爵様は王立魔術院にも王家にも報告しません」

 

 澪が続けると、ヴァルトが顔を上げた。

 

「侯爵家は、押入商会だけではなく、ヴァルトさん個人にも大きな借りがあるとおっしゃっていました」

 

「私個人に、ですか」

 

「はい。火竜を倒したことも、マールヴェインの森で魔物を間引いて、スタンピードになる前に抑えていることも、侯爵領を守った恩だと」

 

 澪は、クラウスの言葉を思い返しながら伝えた。

 

「領民を守っている人へ、礼の代わりに追手を差し向けるほど落ちてはいない、と」

 

 ヴァルトは何も言わなかった。

 

 真壁が静かに続ける。

 

「専任の捜索人員を外し、各地への照会も止めるそうです。継続捜索から情報待ちへ切り替え、新しい確証が出ない限り、魔術院から追手は出させない、と」

 

「魔術院の命令が止まっても、個人で私を探す者は残ります」

 

「ええ」

 

 真壁は都合のよいことだけを言わなかった。

 

「王都へ戻っても安全になった、という話ではありません。しかし、王国の命令として君を追う仕組みは止まります。侯爵領にいる限り、クラウス殿が政治的に守るとも約束しました」

 

 ヴァルトは長く息を吐いた。

 

 その時になって初めて、肩からわずかに力が抜けた。

 

 大きく喜ぶわけではない。声を震わせることもない。

 

 けれど、いつも周囲の気配を探っている目が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

 澪は室内を見た。

 

 厚いコンクリートの壁。

 

 頑丈な扉。

 

 家の内外に張られた境界。

 

 目に見えない探査をずらす認識阻害。

 

 地下には退避場所まであると、あとで聞くことになるのだろう。

 

 来たばかりの時には、真壁とヴァルトが技術を持て余して造った、快適すぎる要塞だと思っていた。

 

 だが今は少し違って見える。

 

 これは便利な裏拠点である前に、追われていたヴァルトが、安心して眠るために必要とした家なのだ。

 

 誰にも見つからず、襲われても壊れず、万一破られればさらに奥へ逃げられる。

 

 そこまで備えて、ようやく自分の家だと思えたのかもしれない。

 

「侯爵閣下が、そこまでしてくださる理由は……」

 

 ヴァルトが低く呟く。

 

「君が、それだけのことをしたからです」

 

 真壁は即座に返した。

 

「私は、必要な魔物を狩り、危険な火竜を排除しただけです」

 

「君にとっては必要な処理でも、救われた側にとっては恩です」

 

 真壁はそこで言葉を切り、ヴァルトを見た。

 

「役に立ったから、さらに働けと言われる話ではありません。役に立ったから、今度は守ると言われたのです」

 

 ヴァルトは黙り込んだ。

 

 澪には、その言葉が一番深く届いたように見えた。

 

「侯爵様は、ヴァルトさんを押入商会の一員だから守るのではなく、ヴァルトさん自身に借りがあると言っていました」

 

「……そうですか」

 

 返事は短かった。

 

 それでも、声はいつもより少し低く、重かった。

 

 澪は余計な言葉を足さなかった。

 

 こういう時に励まそうとすると、たぶんヴァルトは気持ちを整える方へ逃げてしまう。静かに受け止める時間を残した方がよい。

 

 しばらくして、ヴァルトが改めて2人を居間へ案内した。

 

 途中、澪の視線が玄関脇に止まる。

 

 そこにはロードバイクが置かれていた。

 

 ただし、澪が現代側で知っている自転車の形を、辛うじて保っているだけだった。

 

 前輪は大きく歪み、タイヤは裂けている。ハンドルは曲がり、片側のブレーキレバーも壊れていた。変速機とチェーンの周囲には土と細かな石が噛み込み、銀灰色のフレームには深い擦れと熱で変色した跡が残っている。

 

「これ、火竜との戦いで壊れたんですか」

 

「ええ」

 

 ヴァルトは足を止めずに答えた。

 

「かなり壊れていますよ」

 

「フレームは無事です。総チタンですから」

 

 無事。

 

 澪はもう一度、車体を見た。

 

 前輪は斜めを向き、ハンドルも正常な位置にはない。これを無事と呼ぶなら、骨が折れていない人間は全員軽傷になる。

 

「直すんですか」

 

「交換部品が揃えば考えます」

 

 ヴァルトはそう言って、ロードバイクから視線を外した。

 

 真壁は曲がった前輪と総チタンフレームを一度見ただけで、何も言わない。

 

 何も言わない時の真壁は、何も考えていないのではなく、すでに作業手順まで終わっている可能性が高い。

 

 澪は黙っておくことにした。

 

 

 

 

 

 ヴァルトが淹れた茶は、王都侯爵邸で飲んだ物より濃かった。

 

 澪はカップを両手で包みながら、ようやく肩の力を抜いた。

 

「もう一つ、クラウス殿と取り決めたことがあります」

 

 真壁が言うと、ヴァルトは静かに頷いた。

 

「マールヴェインの森についてですか」

 

「察しがよろしい」

 

「私が王都へ行かなかった理由まで話したのであれば、そこへ行き着くでしょう」

 

 ヴァルトの声に責める響きはない。

 

 ただ、自分の行動がどこまで知られたのかを確認している。

 

「森の魔物の数、生息域、増減の傾向を侯爵家へ共有することになりました」

 

「私の素性については」

 

「求められていません。森の状態だけです」

 

 ヴァルトは少し考えた。

 

「領軍を入れると言われませんでしたか」

 

「勝手に入れないと約束されました。君の間引きへ指図するつもりもないそうです」

 

「それなら助かります」

 

「必要になれば、外周警戒、周辺住民への対応、物資の補給を侯爵家が担当します。増加速度が落ちない場合、生息域が村へ近づいた場合、君1人での処理が追いつかない兆候が出た場合は報告してください」

 

 ヴァルトは茶へ視線を落とした。

 

「今のところ、処理できる範囲です」

 

 今のところ。

 

 澪はその言葉に少しだけ安心した。

 

 以前のヴァルトなら、処理できなくなるまで「問題ありません」と言い続けていた気がする。範囲外になる可能性を言葉に含めただけでも、だいぶ違う。

 

「それなら、問題ありません」

 

 ヴァルトが顔を上げる。

 

「森の状況だけであれば、こちらでまとめます」

 

「頼みます」

 

 真壁が頷いた。

 

 これまでヴァルト1人が誰にも知られず背負っていた森の管理が、侯爵家との防衛協力へ変わる。

 

 管理されるのではない。

 

 任せきりにもされない。

 

 その中間へ、ようやく落ち着いたのだと思う。

 

 

 

 

 

 重い話が終わると、澪は改めて室内を見回した。

 

 1階には簡易台所と食卓、素材の一次処理に使う作業台がある。壁際には森で使う外套と長靴が置かれ、奥には古びた収納棚のような物が見えた。

 

「あれは収納ですか」

 

「バッテリー室への扉です」

 

「バッテリー室」

 

 家の中にある単語としては、かなり力強い。

 

「屋上の太陽光発電から蓄電しています」

 

 ヴァルトは平然と説明した。

 

「屋上にソーラーパネルがあるんですか」

 

「はい。雨水回収設備もあります」

 

「地下もあるんですよね」

 

「保存庫と退避場所があります」

 

 澪は茶を一口飲んだ。

 

 屋上で電気と水を確保し、地下へ逃げられる。

 

 どこから見ても要塞だった。

 

「この家は、真壁さんが建てたんですか」

 

「建物は、ほとんど真壁さんです。私は外から見つからないようにしました」

 

「基礎から屋上まで、一通りですな」

 

 真壁が答える。

 

 一軒家を基礎から建てた話を「一通り」で済ませる人は、普通ではない。

 

「2階は寝室と書斎、それから結界の制御を行う部屋です」

 

「制御室まであるんですね」

 

「小部屋です」

 

 小さいかどうかは、用途の異常さを和らげない。

 

「地下は保存庫と、危険素材の隔離区画と、非常時の退避場所です」

 

「真壁さん」

 

「何でしょう」

 

「これ、一軒家ですか」

 

「要塞ですな」

 

「一軒家です」

 

 ヴァルトが即座に訂正した。

 

「並の魔物では壁も破れません」

 

「丈夫な一軒家です」

 

 形容詞を増やしても、地下シェルター付き要塞が一軒家へ戻るわけではない。

 

 けれどヴァルトは、建物の分類だけは譲るつもりがないらしい。

 

「2階も見ますか」

 

「いいんですか」

 

「見られて困る物は片づけます」

 

 見られて困る物がある前提なのが、やはり普通の一軒家ではない。

 

 ヴァルトが先に階段を上がり、澪と真壁が後に続いた。

 

 2階の書斎へ入ると、机の中央に薄型のノートPCが置かれていた。

 

 澪には見慣れた形だが、この世界の室内にあると、それだけで現実感が薄くなる。

 

「もう使い慣れましたか」

 

「操作には慣れました」

 

 ヴァルトは椅子の背へ手を置く。

 

「便利すぎることには、まだ納得していません」

 

「高く評価しているということですな」

 

「腹が立つほど便利だと言っています」

 

 それは、かなり高い評価だと思う。

 

 机の周囲には、農業、発酵、畜産、土壌について調べた痕跡が残っていた。小瓶や素材片も置かれているが、ヴァルトはそれらを説明する前に、邪魔にならない位置へ寄せていく。

 

 空調の風が直接当たらない棚には、味噌の壺と醤油の瓶が置かれていた。

 

「ここが一番安定しているので」

 

 澪が見る前に、ヴァルトが説明する。

 

 危険な魔術素材より丁寧な場所に置かれているように見えたが、指摘しない方がよさそうだった。

 

「静かな森で自給しながら暮らす。結構なスローライフですな」

 

 真壁が満足そうに言った。

 

「どこがですか」

 

 ヴァルトはすぐに返した。

 

「森の一軒家です」

 

「鉄筋コンクリート、太陽光発電、蓄電池、空調、オフラインAI、地下シェルター付きですが」

 

「快適でよろしい」

 

「スローライフの定義を都合よく壊さないでください」

 

 ヴァルトが設備を挙げれば挙げるほど、本人の口から要塞である証拠が増えていく。

 

「それでも、時間の使い方は君の自由でしょう」

 

 真壁が続けると、ヴァルトは一瞬だけ黙った。

 

「魔物を間引き、素材を処理し、発酵を管理し、森の状態を確認する生活を、ゆっくりとは呼びません」

 

 それは設備より仕事量の問題だと思う。

 

 澪は真壁を見たが、本人はヴァルトの返答にも満足そうだった。

 

 

 

 

 

「そういえば、私、この家を外から見ていません」

 

 1階へ戻ったところで澪が言うと、ヴァルトは少し嫌そうな顔をした。

 

「見る必要はないと思いますが」

 

「家へ来たのに、外観を知らないまま帰る方が気になります」

 

「では、見ておきましょう」

 

 真壁が先に決める。

 

 ヴァルトは諦めたように玄関へ向かい、扉の結界を必要な範囲だけ解除した。

 

 一歩外へ出た瞬間、空気が変わった。

 

 湿った森の匂いが戻り、夜気が頬へ触れる。

 

 澪は振り返った。

 

「……え」

 

 先ほどまでいた鉄筋コンクリート造の2階建て住宅は、どこにも見えなかった。

 

 そこにあるのは、壁板が黒ずみ、屋根が歪み、苔と蔦に覆われた古い森番小屋だった。窓は暗く、屋根の一部は今にも崩れそうに見える。長年放置された猟師小屋の残骸だと言われれば、疑う理由はない。

 

「今までいた家が、これですか」

 

「外からは、そう見えるようにしています」

 

 ヴァルトは平然としている。

 

 屋上にあるはずのソーラーパネルは、焦げ茶色に傷んだ屋根板にしか見えない。室外機は崩れかけた薪箱。雨水回収用の管は、古びた丸太と水桶へ形を変えている。

 

 2階建ての輪郭すら、周囲の岩や木々の影へ溶け込んでいた。

 

「本当に、誰も住んでいないようにしか見えません」

 

「それが第一の防御です」

 

 真壁が答えた。

 

 家の紹介としては、かなり悲しい成功だった。

 

「昼間の方が、もっと壊れて見えます」

 

 ヴァルトが付け加える。

 

「どうして昼の方を強化したんですか」

 

「明るい方が細部を見られますから」

 

 理屈は通っている。

 

 理屈が通っているからこそ、そこへ努力を注いだ事実だけが残る。

 

「結構な欺瞞です」

 

 真壁が満足そうに頷く。

 

「真壁さんが建物を目立たせすぎたからです」

 

「頑丈に造っただけです」

 

「森の奥に2階建てのコンクリート住宅を造れば、普通は目立ちます」

 

 両方とも正しいが、原因だけは完全に真壁側だと思う。

 

 

 

 

 

 夜も遅くなっていたため、真壁と澪は長居せずに帰ることにした。

 

「明日は再び王都侯爵邸へ戻ります」

 

 真壁が転移区画へ向かいながら言う。

 

「森の状況について、侯爵家へ渡せる内容をまとめておき給え。魔物の種類、生息域、増減が分かれば十分です。狩りの方法や収納内の処理まで明かす必要はありません」

 

「承知しました」

 

「無理をして全部1人で片づけないでくださいね」

 

 澪が言うと、ヴァルトは少しだけ困った顔をした。

 

「今のところ、処理できる範囲です」

 

 また「今のところ」が付いた。

 

 澪は、それで十分だと思うことにした。

 

 ヴァルトが玄関扉の結界を戻すため、壁際の制御部へ意識を向ける。

 

 澪は先に転移位置へ立った。

 

 その時、真壁が何気ない動きで玄関脇のロードバイクへ手を触れた。

 

 音も光も出ない。

 

 ただ、一瞬だけ車体の輪郭が揺れたように見えた。

 

 次に見た時には、歪んでいた前輪が真っすぐになり、裂けていたタイヤも元へ戻っている。曲がっていたハンドルも、壊れていたブレーキレバーも、何事もなかったように整っていた。

 

 総チタンフレームの擦れや熱変色まで消えている。

 

 澪は真壁を見た。

 

 真壁は何もしていない顔で手を離した。

 

 ヴァルトはまだ制御部を見ている。

 

 言わないのだろうか。

 

 たぶん、言わないのだろう。

 

「澪さん」

 

 ヴァルトが振り返る。

 

「はい」

 

「来てくださって、ありがとうございました」

 

 捜索が止まったことだけではない。

 

 その知らせを今夜すぐ、自宅まで持ってきたことへの礼なのだと分かった。

 

「はい。また来ます」

 

「次は昼間に」

 

「外がもっと壊れて見えるんですよね」

 

「よく見える時間ほど、偽装の精度が分かります」

 

 家の見学なのか、欺瞞技術の鑑賞会なのか分からなくなってきた。

 

「では、森の件は頼みました」

 

「承知しました」

 

 真壁が転移を発動する。

 

 視界が切り替わる直前、澪はロードバイクを見た。

 

 完全に元通りだった。

 

 ヴァルトが気づいた時、どんな顔をするのか少し見たかった。

 

 

 

 

 

 次に足をつけたのは、採石場秘密基地の床だった。

 

 機械的な照明が点いた静かな空間に、真壁と澪の2人だけが立っている。

 

 真壁はすぐに収納からエアカーを出した。

 

「ロードバイク、直しましたよね」

 

 澪が助手席へ乗りながら尋ねる。

 

「フレームは無事でしたからな。必要な部品を交換しただけです」

 

「ヴァルトさんには言わなくてよかったんですか」

 

「見れば分かります」

 

 前輪が横を向いていた自転車が元通りになっていれば、誰でも分かる。

 

 問題は、いつ直したのかだ。

 

「余計な機能は付けていませんよね」

 

「本人が必要としていない物を加える理由はありません」

 

 今回は、と省略されていないことを祈りたい。

 

 エアカーがゆっくり浮上する。

 

 夜の採石場を離れ、領都へ向けて進み始めた。

 

 ヴァルトの認識阻害境界を応用した補助装置が作動し、機体の音と光が遠くへ届かないよう薄く散らされる。

 

「今日は、もう十分働きましたよね」

 

 澪は窓の外を見ながら言った。

 

「ええ。領都へ戻れば、11月納品の進み具合を確認するだけで結構です」

 

「確認して、問題があっても、今日は作業を増やしませんからね」

 

「問題があると分かっていて、明日へ送るのですかな」

 

「明日に送っていい問題もあります」

 

「それは内容を見てから決めることです」

 

 すでに増やす準備へ入っている。

 

 王国宰相との秘密協議より、こちらの方が止めにくいかもしれない。

 

 澪は座席へ深く背を預けた。

 

 王都でクラウスと話し、王立魔術院の捜索を止める約束を得て、その足でヴァルトへ知らせを届けた。

 

 明日の夕方には、再び王都侯爵邸へ戻らなければならない。

 

 それでも今夜、ヴァルトへ直接伝えられたことはよかった。

 

 外からは誰も住んでいない廃屋にしか見えない家。

 

 その中に空調が動き、電気が灯り、未来の端末が置かれ、総チタンのロードバイクがある。

 

 あれほど異常な設備が詰まっているのに、澪には最後にはちゃんと家に見えた。

 

 追われて逃げ込む場所ではなく、仕事を終えたヴァルトが戻る場所。

 

 仲間が訪ねてきて、また来ると言って帰っていく場所だった。

 

 

 

 

 

 真壁と澪が消えた後、ヴァルトは転移区画の境界を通常状態へ戻した。

 

 玄関へ向き直り、そこで足を止める。

 

 壊れていたはずのロードバイクが、何事もなかったように立っていた。

 

 前輪は真っすぐ。

 

 タイヤも新品同様。

 

 ハンドルもブレーキも元の位置へ戻り、総チタンフレームに残っていた火竜戦の傷まで消えている。

 

 ヴァルトは近づき、ブレーキを握った。

 

 正常に動く。

 

 車体を持ち上げてペダルを回すと、チェーンも変速機も滑らかに回った。

 

「……いつの間に」

 

 修理を頼んだ覚えはない。

 

 真壁から説明も受けていない。

 

 だが、誰が直したのかを考える必要はなかった。

 

 ヴァルトは車体を鑑定する。

 

 隠し武器なし。

 

 結界発生装置なし。

 

 火竜対策の追加機構なし。

 

 余計な装甲もない。

 

 以前と同じ、普通のロードバイクだった。

 

「本当に、普通に直しただけか」

 

 ヴァルトはもう一度鑑定した。

 

 結果は同じ。

 

 それでもしばらく疑うように車体を見てから、ようやく小さく息を吐く。

 

 その手が、総チタンフレームをそっと撫でた。

 

 王国から追われる仕組みが止まるという知らせ。

 

 何も言わず直された、火竜戦の傷。

 

 どちらも自分から求めたものではない。

 

 ヴァルトは静かな室内を見回した。

 

 コンクリートの壁。

 

 安定した灯り。

 

 空調の低い音。

 

 2階には、作業途中のノートPC。

 

 玄関には、また走れるようになったロードバイク。

 

「家、か」

 

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 

 以前なら、追手から隠れるための場所だと考えていた。

 

 今夜は、その言葉が少し違って聞こえた。

 

 ここは逃げ込むためだけの場所ではない。

 

 仕事を終え、仲間を迎え、また戻ってくるための家だった。

 王都のヴァルディス侯爵邸に用意された客人離れは、つい先ほどまでの騒がしさが嘘のように静かだった。

 

 箱馬車も、栗毛にしか見えない機械馬2頭も、馬具も、侯爵家の紋章板も、すでに真壁の収納へ収められている。残っているのは、転移位置として登録された床の一角と、そこに立つ真壁と澪、それから見送りに来たクラウス、マルグリット、アルベルトだけだった。

 

「では、失礼いたします」

 

 真壁が一礼すると、クラウスはまだ納得し切れない顔で床を見た。

 

「本当に、明日の夕方にはここへ戻るのだな」

 

「ええ」

 

 真壁の返事には、近所へ買い物に出る程度の軽さしかない。

 

 王都と侯爵領の距離を考えれば、クラウスが何度も確認したくなる気持ちは分かる。澪自身も、初めて転移を経験した頃なら同じ顔をしていたはずだった。

 

「遅れないでくださいね」

 

 マルグリットが念を押す。

 

「承知しています」

 

「夕方とは、日没前でよろしいですね」

 

「その頃には参ります」

 

「薬の相談もありますから」

 

「母上。それは今夜、父上となさってください」

 

 アルベルトが即座に止めた。

 

 澪は、王国宰相との密談を終えたばかりなのに、マルグリットの中では竜命薬を巡る家族会議がまだ本番前なのだろうと思った。クラウスの顔に疲労が戻った気がしたが、見なかったことにする。

 

「真壁さん、行き先は採石場ですか」

 

 澪が尋ねると、真壁は首を振った。

 

「ヴァルト亭へ参ります」

 

「このまま直接ですか」

 

「ええ。知らせるべき相手を後回しにする理由はありません」

 

 その言葉を聞いた瞬間、澪の胸の奥に、先ほどまで残っていた熱が戻った。

 

 王立魔術院によるオスヴァルト師の積極捜索を終わらせる。

 

 クラウスがそう明言した時、澪は安心して泣いてしまった。当人であるヴァルトが、その知らせを翌朝まで待たされる理由はない。

 

「分かりました」

 

 澪が頷くと、真壁は転移先の安全を確認した。

 

「では」

 

 視界が歪む。

 

 侯爵邸の整った壁も、見送りに立つ3人の姿も、一瞬で遠ざかった。

 

 次に足の裏へ伝わったのは、よく磨かれた木の床の感触だった。

 

 澪は反射的に周囲を見回す。

 

 先ほどまでいた王都侯爵邸の客人離れとは違う。だが、異世界の森の奥へ来たとも思えなかった。

 

 目の前には厚いコンクリートの壁があり、その上部には現代式の照明が安定した白い光を落としている。床は木張りで、空気は乾いていた。森の湿気も、土の匂いも、夜気の冷たさも感じない。

 

「ここが、ヴァルトさんのお家ですか」

 

「ええ。ヴァルト亭です」

 

 真壁は当然のように答えた。

 

 澪はもう一度、室内を見回した。

 

 壁は頑丈そうだった。扉も厚く、窓は小さい。住宅として落ち着けるよう木材や布が使われているのに、建物の骨格だけは、どう見ても人をくつろがせるより先に何かを防ぐ目的で造られている。

 

 家を建てる時に要塞の基準を混ぜる必要があったのか。

 

 真壁が造ったと考えれば、必要性より先に「できるからやった」が来た可能性もある。

 

 2階で椅子を引く音がした。

 

 続いて、扉の開く音と、階段を下りる足音が近づいてくる。

 

「もう気づかれたんですか」

 

「自宅の中へ2人現れたのです。気づかなければ、防衛設備として問題がありますな」

 

 普通の家でも気づくと思う。

 

 澪がそう返す前に、階段からヴァルトが姿を見せた。

 

 行商の時に着ている外套はなく、シャツの袖を肘までまくっている。髪も少し乱れており、普段よりずっと生活の中にいる姿だった。

 

 一瞬だけ警戒した目を向けたものの、真壁と澪だと分かると、その緊張はすぐにほどけた。

 

「真壁さん。澪さん」

 

「夜分にすみません」

 

「いえ。澪さんがこちらへ来られるのは、初めてでしたね」

 

「はい。道を通らず、いきなり家の中へ来るとは思いませんでした」

 

 ヴァルトは澪が周囲を見回していることに気づいたようだったが、家の説明より先に真壁へ視線を戻した。

 

「王都で、何かありましたか」

 

「ええ。君へ直接伝えるべきことがあります」

 

 真壁の声が少しだけ低くなる。

 

 その調子を聞いたヴァルトも、居間へ案内しかけた足を止めた。

 

「先にお茶を」

 

「その前で結構です」

 

 真壁は遠回しにせず、結論を告げた。

 

「クラウス・ヴァルディス侯爵が、王立魔術院によるオスヴァルト師の積極捜索を終わらせると約束しました」

 

 ヴァルトの手が止まった。

 

 表情は崩れない。

 

 けれど、澪にはその沈黙が、言葉を選んでいるというより、言葉そのものが見つからない時間に見えた。

 

「侯爵閣下は、私に気づかれたのですか」

 

「境界と結界を扱い、火竜を1人で討ち、王都を避けているヴァルトという術者です。気づかぬ方が不自然でしょう」

 

 真壁の説明は正しい。

 

 正しいが、ヴァルトにとっては「隠し方が足りなかった」と言われているのと同じかもしれない。

 

 ヴァルトはわずかに目を伏せた。

 

「そうですか」

 

「ですが、侯爵様は王立魔術院にも王家にも報告しません」

 

 澪が続けると、ヴァルトが顔を上げた。

 

「侯爵家は、押入商会だけではなく、ヴァルトさん個人にも大きな借りがあるとおっしゃっていました」

 

「私個人に、ですか」

 

「はい。火竜を倒したことも、マールヴェインの森で魔物を間引いて、スタンピードになる前に抑えていることも、侯爵領を守った恩だと」

 

 澪は、クラウスの言葉を思い返しながら伝えた。

 

「領民を守っている人へ、礼の代わりに追手を差し向けるほど落ちてはいない、と」

 

 ヴァルトは何も言わなかった。

 

 真壁が静かに続ける。

 

「専任の捜索人員を外し、各地への照会も止めるそうです。継続捜索から情報待ちへ切り替え、新しい確証が出ない限り、魔術院から追手は出させない、と」

 

「魔術院の命令が止まっても、個人で私を探す者は残ります」

 

「ええ」

 

 真壁は都合のよいことだけを言わなかった。

 

「王都へ戻っても安全になった、という話ではありません。しかし、王国の命令として君を追う仕組みは止まります。侯爵領にいる限り、クラウス殿が政治的に守るとも約束しました」

 

 ヴァルトは長く息を吐いた。

 

 その時になって初めて、肩からわずかに力が抜けた。

 

 大きく喜ぶわけではない。声を震わせることもない。

 

 けれど、いつも周囲の気配を探っている目が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

 澪は室内を見た。

 

 厚いコンクリートの壁。

 

 頑丈な扉。

 

 家の内外に張られた境界。

 

 目に見えない探査をずらす認識阻害。

 

 地下には退避場所まであると、あとで聞くことになるのだろう。

 

 来たばかりの時には、真壁とヴァルトが技術を持て余して造った、快適すぎる要塞だと思っていた。

 

 だが今は少し違って見える。

 

 これは便利な裏拠点である前に、追われていたヴァルトが、安心して眠るために必要とした家なのだ。

 

 誰にも見つからず、襲われても壊れず、万一破られればさらに奥へ逃げられる。

 

 そこまで備えて、ようやく自分の家だと思えたのかもしれない。

 

「侯爵閣下が、そこまでしてくださる理由は……」

 

 ヴァルトが低く呟く。

 

「君が、それだけのことをしたからです」

 

 真壁は即座に返した。

 

「私は、必要な魔物を狩り、危険な火竜を排除しただけです」

 

「君にとっては必要な処理でも、救われた側にとっては恩です」

 

 真壁はそこで言葉を切り、ヴァルトを見た。

 

「役に立ったから、さらに働けと言われる話ではありません。役に立ったから、今度は守ると言われたのです」

 

 ヴァルトは黙り込んだ。

 

 澪には、その言葉が一番深く届いたように見えた。

 

「侯爵様は、ヴァルトさんを押入商会の一員だから守るのではなく、ヴァルトさん自身に借りがあると言っていました」

 

「……そうですか」

 

 返事は短かった。

 

 それでも、声はいつもより少し低く、重かった。

 

 澪は余計な言葉を足さなかった。

 

 こういう時に励まそうとすると、たぶんヴァルトは気持ちを整える方へ逃げてしまう。静かに受け止める時間を残した方がよい。

 

 しばらくして、ヴァルトが改めて2人を居間へ案内した。

 

 途中、澪の視線が玄関脇に止まる。

 

 そこにはロードバイクが置かれていた。

 

 ただし、澪が現代側で知っている自転車の形を、辛うじて保っているだけだった。

 

 前輪は大きく歪み、タイヤは裂けている。ハンドルは曲がり、片側のブレーキレバーも壊れていた。変速機とチェーンの周囲には土と細かな石が噛み込み、銀灰色のフレームには深い擦れと熱で変色した跡が残っている。

 

「これ、火竜との戦いで壊れたんですか」

 

「ええ」

 

 ヴァルトは足を止めずに答えた。

 

「かなり壊れていますよ」

 

「フレームは無事です。総チタンですから」

 

 無事。

 

 澪はもう一度、車体を見た。

 

 前輪は斜めを向き、ハンドルも正常な位置にはない。これを無事と呼ぶなら、骨が折れていない人間は全員軽傷になる。

 

「直すんですか」

 

「交換部品が揃えば考えます」

 

 ヴァルトはそう言って、ロードバイクから視線を外した。

 

 真壁は曲がった前輪と総チタンフレームを一度見ただけで、何も言わない。

 

 何も言わない時の真壁は、何も考えていないのではなく、すでに作業手順まで終わっている可能性が高い。

 

 澪は黙っておくことにした。

 

 

 

 

 

 ヴァルトが淹れた茶は、王都侯爵邸で飲んだ物より濃かった。

 

 澪はカップを両手で包みながら、ようやく肩の力を抜いた。

 

「もう一つ、クラウス殿と取り決めたことがあります」

 

 真壁が言うと、ヴァルトは静かに頷いた。

 

「マールヴェインの森についてですか」

 

「察しがよろしい」

 

「私が王都へ行かなかった理由まで話したのであれば、そこへ行き着くでしょう」

 

 ヴァルトの声に責める響きはない。

 

 ただ、自分の行動がどこまで知られたのかを確認している。

 

「森の魔物の数、生息域、増減の傾向を侯爵家へ共有することになりました」

 

「私の素性については」

 

「求められていません。森の状態だけです」

 

 ヴァルトは少し考えた。

 

「領軍を入れると言われませんでしたか」

 

「勝手に入れないと約束されました。君の間引きへ指図するつもりもないそうです」

 

「それなら助かります」

 

「必要になれば、外周警戒、周辺住民への対応、物資の補給を侯爵家が担当します。増加速度が落ちない場合、生息域が村へ近づいた場合、君1人での処理が追いつかない兆候が出た場合は報告してください」

 

 ヴァルトは茶へ視線を落とした。

 

「今のところ、処理できる範囲です」

 

 今のところ。

 

 澪はその言葉に少しだけ安心した。

 

 以前のヴァルトなら、処理できなくなるまで「問題ありません」と言い続けていた気がする。範囲外になる可能性を言葉に含めただけでも、だいぶ違う。

 

「それなら、問題ありません」

 

 ヴァルトが顔を上げる。

 

「森の状況だけであれば、こちらでまとめます」

 

「頼みます」

 

 真壁が頷いた。

 

 これまでヴァルト1人が誰にも知られず背負っていた森の管理が、侯爵家との防衛協力へ変わる。

 

 管理されるのではない。

 

 任せきりにもされない。

 

 その中間へ、ようやく落ち着いたのだと思う。

 

 

 

 

 

 重い話が終わると、澪は改めて室内を見回した。

 

 1階には簡易台所と食卓、素材の一次処理に使う作業台がある。壁際には森で使う外套と長靴が置かれ、奥には古びた収納棚のような物が見えた。

 

「あれは収納ですか」

 

「バッテリー室への扉です」

 

「バッテリー室」

 

 家の中にある単語としては、かなり力強い。

 

「屋上の太陽光発電から蓄電しています」

 

 ヴァルトは平然と説明した。

 

「屋上にソーラーパネルがあるんですか」

 

「はい。雨水回収設備もあります」

 

「地下もあるんですよね」

 

「保存庫と退避場所があります」

 

 澪は茶を一口飲んだ。

 

 屋上で電気と水を確保し、地下へ逃げられる。

 

 どこから見ても要塞だった。

 

「この家は、真壁さんが建てたんですか」

 

「建物は、ほとんど真壁さんです。私は外から見つからないようにしました」

 

「基礎から屋上まで、一通りですな」

 

 真壁が答える。

 

 一軒家を基礎から建てた話を「一通り」で済ませる人は、普通ではない。

 

「2階は寝室と書斎、それから結界の制御を行う部屋です」

 

「制御室まであるんですね」

 

「小部屋です」

 

 小さいかどうかは、用途の異常さを和らげない。

 

「地下は保存庫と、危険素材の隔離区画と、非常時の退避場所です」

 

「真壁さん」

 

「何でしょう」

 

「これ、一軒家ですか」

 

「要塞ですな」

 

「一軒家です」

 

 ヴァルトが即座に訂正した。

 

「並の魔物では壁も破れません」

 

「丈夫な一軒家です」

 

 形容詞を増やしても、地下シェルター付き要塞が一軒家へ戻るわけではない。

 

 けれどヴァルトは、建物の分類だけは譲るつもりがないらしい。

 

「2階も見ますか」

 

「いいんですか」

 

「見られて困る物は片づけます」

 

 見られて困る物がある前提なのが、やはり普通の一軒家ではない。

 

 ヴァルトが先に階段を上がり、澪と真壁が後に続いた。

 

 2階の書斎へ入ると、机の中央に薄型のノートPCが置かれていた。

 

 澪には見慣れた形だが、この世界の室内にあると、それだけで現実感が薄くなる。

 

「もう使い慣れましたか」

 

「操作には慣れました」

 

 ヴァルトは椅子の背へ手を置く。

 

「便利すぎることには、まだ納得していません」

 

「高く評価しているということですな」

 

「腹が立つほど便利だと言っています」

 

 それは、かなり高い評価だと思う。

 

 机の周囲には、農業、発酵、畜産、土壌について調べた痕跡が残っていた。小瓶や素材片も置かれているが、ヴァルトはそれらを説明する前に、邪魔にならない位置へ寄せていく。

 

 空調の風が直接当たらない棚には、味噌の壺と醤油の瓶が置かれていた。

 

「ここが一番安定しているので」

 

 澪が見る前に、ヴァルトが説明する。

 

 危険な魔術素材より丁寧な場所に置かれているように見えたが、指摘しない方がよさそうだった。

 

「静かな森で自給しながら暮らす。結構なスローライフですな」

 

 真壁が満足そうに言った。

 

「どこがですか」

 

 ヴァルトはすぐに返した。

 

「森の一軒家です」

 

「鉄筋コンクリート、太陽光発電、蓄電池、空調、オフラインAI、地下シェルター付きですが」

 

「快適でよろしい」

 

「スローライフの定義を都合よく壊さないでください」

 

 ヴァルトが設備を挙げれば挙げるほど、本人の口から要塞である証拠が増えていく。

 

「それでも、時間の使い方は君の自由でしょう」

 

 真壁が続けると、ヴァルトは一瞬だけ黙った。

 

「魔物を間引き、素材を処理し、発酵を管理し、森の状態を確認する生活を、ゆっくりとは呼びません」

 

 それは設備より仕事量の問題だと思う。

 

 澪は真壁を見たが、本人はヴァルトの返答にも満足そうだった。

 

 

 

 

 

「そういえば、私、この家を外から見ていません」

 

 1階へ戻ったところで澪が言うと、ヴァルトは少し嫌そうな顔をした。

 

「見る必要はないと思いますが」

 

「家へ来たのに、外観を知らないまま帰る方が気になります」

 

「では、見ておきましょう」

 

 真壁が先に決める。

 

 ヴァルトは諦めたように玄関へ向かい、扉の結界を必要な範囲だけ解除した。

 

 一歩外へ出た瞬間、空気が変わった。

 

 湿った森の匂いが戻り、夜気が頬へ触れる。

 

 澪は振り返った。

 

「……え」

 

 先ほどまでいた鉄筋コンクリート造の2階建て住宅は、どこにも見えなかった。

 

 そこにあるのは、壁板が黒ずみ、屋根が歪み、苔と蔦に覆われた古い森番小屋だった。窓は暗く、屋根の一部は今にも崩れそうに見える。長年放置された猟師小屋の残骸だと言われれば、疑う理由はない。

 

「今までいた家が、これですか」

 

「外からは、そう見えるようにしています」

 

 ヴァルトは平然としている。

 

 屋上にあるはずのソーラーパネルは、焦げ茶色に傷んだ屋根板にしか見えない。室外機は崩れかけた薪箱。雨水回収用の管は、古びた丸太と水桶へ形を変えている。

 

 2階建ての輪郭すら、周囲の岩や木々の影へ溶け込んでいた。

 

「本当に、誰も住んでいないようにしか見えません」

 

「それが第一の防御です」

 

 真壁が答えた。

 

 家の紹介としては、かなり悲しい成功だった。

 

「昼間の方が、もっと壊れて見えます」

 

 ヴァルトが付け加える。

 

「どうして昼の方を強化したんですか」

 

「明るい方が細部を見られますから」

 

 理屈は通っている。

 

 理屈が通っているからこそ、そこへ努力を注いだ事実だけが残る。

 

「結構な欺瞞です」

 

 真壁が満足そうに頷く。

 

「真壁さんが建物を目立たせすぎたからです」

 

「頑丈に造っただけです」

 

「森の奥に2階建てのコンクリート住宅を造れば、普通は目立ちます」

 

 両方とも正しいが、原因だけは完全に真壁側だと思う。

 

 

 

 

 

 夜も遅くなっていたため、真壁と澪は長居せずに帰ることにした。

 

「明日は再び王都侯爵邸へ戻ります」

 

 真壁が転移区画へ向かいながら言う。

 

「森の状況について、侯爵家へ渡せる内容をまとめておき給え。魔物の種類、生息域、増減が分かれば十分です。狩りの方法や収納内の処理まで明かす必要はありません」

 

「承知しました」

 

「無理をして全部1人で片づけないでくださいね」

 

 澪が言うと、ヴァルトは少しだけ困った顔をした。

 

「今のところ、処理できる範囲です」

 

 また「今のところ」が付いた。

 

 澪は、それで十分だと思うことにした。

 

 ヴァルトが玄関扉の結界を戻すため、壁際の制御部へ意識を向ける。

 

 澪は先に転移位置へ立った。

 

 その時、真壁が何気ない動きで玄関脇のロードバイクへ手を触れた。

 

 音も光も出ない。

 

 ただ、一瞬だけ車体の輪郭が揺れたように見えた。

 

 次に見た時には、歪んでいた前輪が真っすぐになり、裂けていたタイヤも元へ戻っている。曲がっていたハンドルも、壊れていたブレーキレバーも、何事もなかったように整っていた。

 

 総チタンフレームの擦れや熱変色まで消えている。

 

 澪は真壁を見た。

 

 真壁は何もしていない顔で手を離した。

 

 ヴァルトはまだ制御部を見ている。

 

 言わないのだろうか。

 

 たぶん、言わないのだろう。

 

「澪さん」

 

 ヴァルトが振り返る。

 

「はい」

 

「来てくださって、ありがとうございました」

 

 捜索が止まったことだけではない。

 

 その知らせを今夜すぐ、自宅まで持ってきたことへの礼なのだと分かった。

 

「はい。また来ます」

 

「次は昼間に」

 

「外がもっと壊れて見えるんですよね」

 

「よく見える時間ほど、偽装の精度が分かります」

 

 家の見学なのか、欺瞞技術の鑑賞会なのか分からなくなってきた。

 

「では、森の件は頼みました」

 

「承知しました」

 

 真壁が転移を発動する。

 

 視界が切り替わる直前、澪はロードバイクを見た。

 

 完全に元通りだった。

 

 ヴァルトが気づいた時、どんな顔をするのか少し見たかった。

 

 

 

 

 

 次に足をつけたのは、採石場秘密基地の床だった。

 

 機械的な照明が点いた静かな空間に、真壁と澪の2人だけが立っている。

 

 真壁はすぐに収納からエアカーを出した。

 

「ロードバイク、直しましたよね」

 

 澪が助手席へ乗りながら尋ねる。

 

「フレームは無事でしたからな。必要な部品を交換しただけです」

 

「ヴァルトさんには言わなくてよかったんですか」

 

「見れば分かります」

 

 前輪が横を向いていた自転車が元通りになっていれば、誰でも分かる。

 

 問題は、いつ直したのかだ。

 

「余計な機能は付けていませんよね」

 

「本人が必要としていない物を加える理由はありません」

 

 今回は、と省略されていないことを祈りたい。

 

 エアカーがゆっくり浮上する。

 

 夜の採石場を離れ、領都へ向けて進み始めた。

 

 ヴァルトの認識阻害境界を応用した補助装置が作動し、機体の音と光が遠くへ届かないよう薄く散らされる。

 

「今日は、もう十分働きましたよね」

 

 澪は窓の外を見ながら言った。

 

「ええ。領都へ戻れば、11月納品の進み具合を確認するだけで結構です」

 

「確認して、問題があっても、今日は作業を増やしませんからね」

 

「問題があると分かっていて、明日へ送るのですかな」

 

「明日に送っていい問題もあります」

 

「それは内容を見てから決めることです」

 

 すでに増やす準備へ入っている。

 

 王国宰相との秘密協議より、こちらの方が止めにくいかもしれない。

 

 澪は座席へ深く背を預けた。

 

 王都でクラウスと話し、王立魔術院の捜索を止める約束を得て、その足でヴァルトへ知らせを届けた。

 

 明日の夕方には、再び王都侯爵邸へ戻らなければならない。

 

 それでも今夜、ヴァルトへ直接伝えられたことはよかった。

 

 外からは誰も住んでいない廃屋にしか見えない家。

 

 その中に空調が動き、電気が灯り、未来の端末が置かれ、総チタンのロードバイクがある。

 

 あれほど異常な設備が詰まっているのに、澪には最後にはちゃんと家に見えた。

 

 追われて逃げ込む場所ではなく、仕事を終えたヴァルトが戻る場所。

 

 仲間が訪ねてきて、また来ると言って帰っていく場所だった。

 

 

 

 

 

 真壁と澪が消えた後、ヴァルトは転移区画の境界を通常状態へ戻した。

 

 玄関へ向き直り、そこで足を止める。

 

 壊れていたはずのロードバイクが、何事もなかったように立っていた。

 

 前輪は真っすぐ。

 

 タイヤも新品同様。

 

 ハンドルもブレーキも元の位置へ戻り、総チタンフレームに残っていた火竜戦の傷まで消えている。

 

 ヴァルトは近づき、ブレーキを握った。

 

 正常に動く。

 

 車体を持ち上げてペダルを回すと、チェーンも変速機も滑らかに回った。

 

「……いつの間に」

 

 修理を頼んだ覚えはない。

 

 真壁から説明も受けていない。

 

 だが、誰が直したのかを考える必要はなかった。

 

 ヴァルトは車体を鑑定する。

 

 隠し武器なし。

 

 結界発生装置なし。

 

 火竜対策の追加機構なし。

 

 余計な装甲もない。

 

 以前と同じ、普通のロードバイクだった。

 

「本当に、普通に直しただけか」

 

 ヴァルトはもう一度鑑定した。

 

 結果は同じ。

 

 それでもしばらく疑うように車体を見てから、ようやく小さく息を吐く。

 

 その手が、総チタンフレームをそっと撫でた。

 

 王国から追われる仕組みが止まるという知らせ。

 

 何も言わず直された、火竜戦の傷。

 

 どちらも自分から求めたものではない。

 

 ヴァルトは静かな室内を見回した。

 

 コンクリートの壁。

 

 安定した灯り。

 

 空調の低い音。

 

 2階には、作業途中のノートPC。

 

 玄関には、また走れるようになったロードバイク。

 

「家、か」

 

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 

 以前なら、追手から隠れるための場所だと考えていた。

 

 今夜は、その言葉が少し違って聞こえた。

 

 ここは逃げ込むためだけの場所ではない。

 

 仕事を終え、仲間を迎え、また戻ってくるための家だった。

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