押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第176話 迎えに来た娘

 

 朝、澪は目覚まし時計を止めたまま、しばらく布団の中で天井を見ていた。

 

 昨日は大学へ行く代わりに、侯爵家の一行と空を飛び、王都商人ギルドで登録を済ませ、王国宰相と火竜や不老に近い薬について話し合った。その後はマールヴェインの森の奥へ転移し、ヴァルトの家を見学してから、エアカーで領都まで戻っている。

 

 こうして順番に思い返してみても、学生の1日に混ぜてよい出来事が一つもなかった。

 

「今日は大学ですね」

 

 台所から聞こえた真壁の声に、澪はようやく身体を起こした。

 

「分かっています」

 

 返事をしながら時計を見る。寝坊ではないが、のんびりしている時間もなかった。

 

 竜血疲労耐久強化薬のおかげか、昨日ほど動き回ったわりには身体が重くない。ただし、眠気まで消してくれる薬ではなかった。疲れにくくなったからといって、睡眠時間を削ってよいという意味ではないらしい。

 

 当然である。

 

 当然なのだが、真壁が知れば、空いた分へ別の作業を入れそうなので黙っておく。

 

 支度を終えて台所へ入ると、真壁は朝食を並べながら、すでに異世界側へ向かう準備まで整えていた。

 

「今日のお迎え、お願いします」

 

「承知しました。澪君は大学へ集中なさい」

 

「ヴァルトさんのお手紙も、今日受け取るんですよね」

 

「午前中に伺います。夕方にはクラウス殿へお渡しできるでしょう」

 

 真壁は焼いたパンを澪の皿へ置いた。

 

「ただのお迎えで終わればよいのですがな」

 

 澪はパンへ手を伸ばしかけて止めた。

 

「その言い方、何か起きると思っていませんか」

 

「何も起きないことを期待しているだけです」

 

 期待している人の口調ではなかった。

 

 昨日も、王都へ行く目的は商人ギルドへの登録と侯爵邸への訪問だったはずである。それが終わってみれば、火竜、竜命薬、王立魔術院、ヴァルトの正体、王家への紹介まで話が広がった。

 

 今日は母親と兄を迎えに行くだけだ。

 

 そう思うほど不安になるのは、真壁と行動してきた経験のせいだろう。

 

「何か分かったら、後で教えてください」

 

「ええ」

 

「大学へ行っている間に、王国の派閥争いまで進めないでくださいね」

 

「私が進めるものではありません」

 

 真壁の返答は正しかった。

 

 正しいが、見つけて持ち帰ってくる可能性は否定していない。

 

 澪はそれ以上追及せず、朝食を急いだ。

 

 昨日まで王国宰相の前に座っていたのに、今日は講義へ遅れないよう駅まで走ることになる。世界をまたいでも、大学の開始時刻だけは待ってくれなかった。

 

 

 

 

 

 真壁がヴァルト亭へ転移すると、2階から足音が下りてきた。

 

 ほどなく姿を見せたヴァルトは、真壁へ挨拶をした後、玄関脇に置かれたロードバイクへ視線を向けた。

 

 火竜との戦いで前輪を歪め、タイヤを裂き、ハンドルや駆動部まで壊していた総チタンフレームの車体は、昨夜のうちに元の姿へ戻っている。

 

「真壁さん。ロードバイクを直していただき、ありがとうございました」

 

「使える物を、使える状態へ戻しただけです」

 

「余計な機能が追加されていないことも確認しました」

 

 真壁がわずかに眉を上げる。

 

「確認なさったのですか」

 

「3回ほど」

 

「信用がありませんな」

 

「過去の実績に基づく確認です」

 

 ヴァルトは落ち着いた声で答えた。

 

 真壁は反論しなかった。

 

 自転車へ装甲を付けたり、魔道具を組み込んだり、用途を増やしたりする可能性を疑われている。その疑念を育てたのが誰なのか、考えるまでもなかった。

 

「問題なく走ったのであれば結構です」

 

「普通に走りました」

 

「それがロードバイクというものです」

 

「普通に直したことへ驚いているのですが」

 

 真壁は聞こえなかったように居間へ向かった。

 

 ヴァルトも追及はしなかった。今度こそ本当に何も付いていないことは、3回の鑑定で確認済みだった。

 

 食卓には、クラウス宛ての封書が置かれていた。

 

「こちらです」

 

 ヴァルトが差し出す。

 

 厚い報告書ではない。数枚の紙を折り、封をした簡潔な手紙だった。表にはクラウス・ヴァルディス侯爵の名があり、差出人には現在の名であるヴァルトとだけ記されている。

 

「内容は、昨夜お話しした範囲に留めました」

 

「拝見しても?」

 

「もちろんです」

 

 ヴァルトが用意していた控えへ、真壁は目を通した。

 

 マールヴェインの森で複数種の魔物が増えていたこと。現在は間引きによって森の外へ押し出される事態を防いでいること。直ちに周辺の村へ危険が及ぶ状態ではないこと。

 

 そして、増加の速度が再び上がった場合、生息域が村側へ移った場合、単独での処理が追いつかなくなった場合には、侯爵家へ知らせること。

 

 具体的な狩り方には触れていない。

 

 落とし穴も、岩を落としたことも、結界内へ水を入れたことも、麻痺ガスを使ったことも書かれていなかった。狩った魔物を収納内で解体し、肉や毛皮や肥料原料へ分けていることも伏せてある。

 

「よろしい。クラウス殿が判断するには、これで十分です」

 

「簡略化しすぎてはいませんか」

 

「詳しく書けば、詳しい質問が返ってきます」

 

 真壁は控えを返した。

 

「今回の目的は、森の危険を共有することです。君の技術を侯爵家へ提出することではありません」

 

「領主へ報告するなら、方法まで説明するべきかと思いました」

 

「方法を説明すれば、再現できる者を求められます。再現できなければ君へ依存する。どちらにしても、今の段階では必要ありません」

 

 ヴァルトは少し考え、頷いた。

 

「分かりました」

 

「異常が起きた時に、どこまで危険が及ぶか。それが分かれば、侯爵家は周辺の警戒と避難の準備ができます」

 

「森の中はこちらで処理し、外側を侯爵家へ任せるということですね」

 

「ええ。その線で結構です」

 

 真壁は封書を受け取った。

 

 ヴァルトは手紙から手を離した後も、しばらくその封へ視線を残していた。

 

「王立魔術院の捜索を止める処理は、どの程度かかるのでしょう」

 

「クラウス殿が本日から動かれるはずです。ただ、各地へ出た照会がすべて止まるまでには時間が必要でしょう」

 

「では、しばらくは今までどおりですね」

 

「慎重さを捨てる必要はありません。王都へ出る必要も、家の結界を弱める必要もない」

 

 真壁はヴァルト亭のコンクリート壁へ目を向けた。

 

「変わるのは、王国の制度が君を追わなくなることです」

 

「制度が止まっても、人は止まらないことがあります」

 

「その点は、クラウス殿も理解しています」

 

 ヴァルトは静かに頷いた。

 

 安心したからといって、明日から王都の大通りを歩けるわけではない。それでも、王国の命令として追跡されるのと、個人の執着を警戒するのとでは重さが違う。

 

「夕方、クラウス殿へ直接お渡しします」

 

「お願いいたします」

 

「森へ入る際は、無理をなさらぬよう」

 

「今のところ、処理できる範囲です」

 

 真壁はその返答を聞き、何も言わずに頷いた。

 

 以前なら、ヴァルトは範囲という言葉すら付けなかっただろう。処理できるか、できないか。その二つだけで考え、できなくなる直前まで報告しなかった。

 

 今は、自分の限界を侯爵家へ知らせる条件として書いている。

 

 それで十分だった。

 

 

 

 

 

 夕方。

 

 採石場秘密基地の転移区画で、真壁は王都侯爵邸への経路を確認していた。

 

 今回は王都の門を通る必要がない。エアカーも、箱馬車も、機械馬も使わない。登録済みの客人離れへ転移し、アルベルトとマルグリットを迎え、そのまま戻るだけである。

 

 少なくとも、真壁はそのつもりだった。

 

「真壁」

 

 背後から呼ばれ、真壁が振り返る。

 

 秘密基地の入口側から、エレナが歩いてきた。護衛は内部へ連れておらず、侯爵家側の者から正式に取り次ぎを受けて入っている。

 

「エレナ様。いかがなさいました」

 

「これから王都へ向かうのだろう」

 

「ええ。アルベルト殿とマルグリット様をお迎えに参ります」

 

 エレナは転移区画の床を一度見た後、真壁へ顔を戻した。

 

「私も連れていってほしい」

 

「王都へですか」

 

「父上にお会いしたい」

 

 エレナは率直に答えた。

 

「母上と兄上にも、私が迎えに行くことは知らせていない」

 

「皆様、驚かれますぞ」

 

「突然お願いしたのは私だ。お叱りを受けるなら、私が受ける」

 

 以前のエレナなら、行くと決めてから周囲へ理由を求めたかもしれない。今は、自分の希望によって予定へ加わることと、その責任が自分にあることを分けて考えている。

 

 真壁は王都側の状況を確かめた。

 

 転移先は侯爵邸の客人離れ。エレナにとっても自家の敷地内であり、クラウスもいる。人数が1人増えても、転移条件には問題がない。

 

「承知しました。ただし、王都の町へ出る時間はありません。侯爵邸へ着き、皆様とお会いした後は、そのまま領地へ戻ります」

 

「それで構わない。父上にお会いできれば十分だ」

 

「では、ご一緒いただきましょう」

 

 エレナは転移位置へ進み、指定された場所へ立った。

 

「ここでよいのか」

 

「ええ」

 

「私は何をすればよい」

 

「動かずにいれば結構です」

 

「分かった」

 

 返事は落ち着いていたが、エレナは足元と真壁の手元を一度ずつ確認した。

 

「本当に一瞬なのだな」

 

「ご自分で確認なさるとよいでしょう」

 

「疑っているわけではない」

 

「承知しております」

 

 真壁が平然と答えると、エレナは少しだけ眉を寄せた。

 

 疑っているのではない。初めて使うものを確認しているだけだ。そう言いたいらしいが、確認の回数が増えるほど、本人の緊張を証明してしまっている。

 

 真壁が転移を発動した。

 

 採石場秘密基地の無骨な壁が消え、次の瞬間には、王都のヴァルディス侯爵邸にある客人離れの室内へ切り替わる。

 

 エレナは姿勢を崩さなかった。

 

 ただ、見覚えのある調度と窓の位置を確かめ、扉へ視線を向けるまでに、わずかな間があった。

 

「……本当に王都邸なのだな」

 

「ええ」

 

「疑っていたわけではない。確認しただけだ」

 

 真壁は何も言わなかった。

 

 今度こそ指摘されたと思ったのか、エレナは背筋を伸ばし、先に扉へ向かった。

 

 

 

 

 

 応接室で待っていたクラウスは、扉が開いて真壁が入ってきても驚かなかった。

 

 昨日、自分の目の前で領地へ消えた男が、約束した時刻に王都邸へ戻ってくる。頭ではまだ納得し切れていないが、少なくとも予定どおりである。

 

「お迎えに参りました」

 

「うむ。時間どおりだな」

 

 どうにか平静を保って答えた直後、真壁の後ろからもう1人が姿を見せた。

 

「父上」

 

 クラウスは立ち上がった。

 

「エレナ?」

 

「はい」

 

 見間違いではない。

 

 領地に残っているはずの娘が、昨日まで誰もいなかった客人離れを通って、王都の応接室へ入ってきた。

 

 真壁が迎えに来ることは聞いていた。

 

 娘が増えるとは聞いていない。

 

 なぜこの客人離れは、日を追うごとに家族を吐き出すのだ。

 

 昨日は妻と息子が空を飛んで現れ、真壁と澪が床から消えた。今日は真壁が戻り、その背後から娘まで現れた。

 

 王都侯爵邸の客人離れは、いつから家族用の出入口になった。

 

「まあ、エレナ」

 

 マルグリットが嬉しそうに立ち上がる。

 

「エレナ。なぜここに」

 

 アルベルトも驚いて妹を見ている。

 

 エレナはクラウスの前で姿勢を正し、丁寧に一礼した。

 

「父上。突然の訪問となり、申し訳ございません」

 

 続いて母と兄へ向き直る。

 

「母上、兄上。お迎えに参りました」

 

「迎えに来たのは、真壁殿ではないのか」

 

 アルベルトの問いに、エレナは素直に頷いた。

 

「はい。私は真壁に同行をお願いいたしました」

 

 迎えの手段を用意したのは自分だとは言わない。

 

 突然来たことを真壁のせいにもせず、自分から頼んだと明確にしている。

 

 クラウスは、叱るために開きかけた口を閉じた。

 

 言い方に隙がない。

 

 娘が勝手に来たのなら注意できる。真壁に連れてこられたのなら、真壁へ事情を尋ねられる。

 

 しかしエレナは、自分で希望し、同行を頼み、その責任も自分にあると最初に認めてしまった。

 

 父親が説教を始めるための足場を、礼儀正しく撤去している。

 

「なぜ、事前に知らせなかった」

 

 それでもクラウスは、どうにか問いを見つけた。

 

「急にお願いしたため、知らせを送っても私より後に着くと思いました」

 

 クラウスは黙った。

 

 正しい。

 

 早馬を出しても、伝令を走らせても、領地から王都まで一瞬で来た本人より先には着かない。

 

 娘の到着を知らせる使者が、娘の後から到着する。

 

 何のための知らせだ。

 

 本人が先に来る連絡手段を、連絡手段と呼んでよいのか。

 

 いや、本人が来るなら連絡自体が不要なのではないか。

 

 考えれば考えるほど、王国宰相の中で通信と移動の区別が崩れていった。

 

「母上と兄上がお戻りになる前に、父上にもお会いしたいと思いました」

 

 エレナが続ける。

 

 クラウスの思考が止まった。

 

 会いたかった。

 

 娘は、父に会うために来たのだ。

 

 それを聞いた父親が、事前連絡の不備について長々と叱れるはずがない。

 

「……そうか」

 

 どうにか声を整える。

 

「よく来た」

 

「ありがとうございます、父上」

 

 エレナが微笑んだ。

 

 その表情は昔と変わらないように見える。

 

 けれど、立ち居振る舞いも、言葉の選び方も、クラウスの記憶にある娘より落ち着いていた。

 

 以前なら、自分が王都へ来たことを先に喜び、転移がどれほど面白かったかを語り、その後で母と兄へ挨拶したかもしれない。

 

 今は違う。

 

 突然訪ねたことを詫び、真壁へ無理を頼んだ責任を負い、家族へ順番に礼を尽くしている。

 

「少し見ぬ間に、随分と変わったな」

 

 クラウスが口にすると、エレナは意外そうに目を瞬いた。

 

「私が、ですか」

 

「良い方へだ」

 

 娘を褒めることなど難しくないはずだった。

 

 それなのに、面と向かって言うと、王国宰相である自分まで少し落ち着かなくなる。

 

 国王の前で政策を説明するより、娘へ成長したと伝える方が緊張するとはどういうことだ。

 

「押入商会の皆と、領地のあちこちを見て回りました」

 

 エレナは少しだけ視線を下げた。

 

「知らなかったことが、多くございましたので」

 

 クラウスは王都で報告を受けていた。

 

 エレナが町へ出たこと。

 

 農地を見たこと。

 

 工房で職人の話を聞いたこと。

 

 押入商会とともに、領民が働く現場を回ったこと。

 

 文面では、それが娘をどれほど変えたのかまでは分からなかった。

 

 今なら分かる。

 

 エレナは、問題を見ればすぐに口を出すのではなく、まず事情を聞くようになった。自分の立場から命じるだけでなく、相手が何をしているのかを考えるようになった。

 

 成長している。

 

 父親として、これほど嬉しいことはない。

 

 ただし、その成長を自分より先に見届けたのが、押入商会の面々だという点だけは少し面白くなかった。

 

 なぜ真壁殿たちの方が、娘の変化を先に知っている。

 

 自分は父親である。

 

 しかも王国宰相である。

 

 娘の成長くらい、報告書ではなく自分の目で最初に確認したかった。

 

 だが、娘へ現場を見る機会を与えたのも押入商会だった。

 

 感謝すべき相手に、父親としての小さな嫉妬をぶつけるほどクラウスも幼くない。

 

 幼くはないが、面白くないものは面白くない。

 

「その経験を大切にしなさい」

 

「はい、父上」

 

 エレナは素直に頷いた。

 

 また成長している。

 

 以前なら、分かっていると少し不満そうに返したかもしれない。

 

 嬉しい。

 

 嬉しいが、父親として自分の出番が減っているようにも感じる。

 

 成長した娘というものは、なぜ喜ばしいのに少し寂しいのだ。

 

 宰相府のどの資料にも、答えは書かれていなかった。

 

 

 

 

 

「クラウス殿」

 

 家族の挨拶が落ち着くのを待って、真壁が封書を差し出した。

 

「ヴァルト君から、マールヴェインの森についてです」

 

 クラウスは表情を改め、手紙を受け取った。

 

 封を切り、数枚の紙へ目を通す。

 

 差出人には、オスヴァルトではなくヴァルトとある。

 

 クラウスも、その名のまま読んだ。

 

 森では複数種の魔物が増えていたが、現在は継続的な間引きによって、森の外へ押し出される事態を防いでいる。

 

 直ちに周辺村へ危険が及ぶ状態ではない。

 

 ただし、増加が再び加速した場合、生息域が村側へ移った場合、単独での処理が追いつかなくなった場合には連絡する。

 

 簡潔だった。

 

 必要なことは書かれているが、どうやって魔物を狩っているのかは一言もない。

 

「討伐方法については、書いていないな」

 

「領主として必要な情報ではありませんので」

 

 真壁は平然と答えた。

 

「分かっている。確認しただけだ」

 

 本当は少し知りたい。

 

 火竜を1人で倒し、複数種の魔物を森の均衡を壊さずに間引く男が、何をしているのか。

 

 宰相としても、魔術師としての知識を持つ者としても興味はある。

 

 しかし、前日に秘密を守ると約束したばかりである。

 

 約束した翌日に、手紙へ書かれていない部分を尋ね始めれば、宰相の信用が1日も持たないことになる。

 

「周辺の警戒と、必要になった場合の補給はこちらで用意する」

 

 クラウスは手紙を畳んだ。

 

「領軍は森へ入れない。彼のやり方を乱すつもりもない」

 

「結構です」

 

 真壁が頷く。

 

「父上」

 

 それまで会話を聞いていたエレナが、静かに声を掛けた。

 

「領地側で私にできることがございましたら、お命じください」

 

 クラウスは娘を見た。

 

 まただ。

 

 以前なら、自分も森へ入ると言ったかもしれない。あるいは、ヴァルトを手伝うと先に決めていたかもしれない。

 

 今は自分で役目を作らず、領主である父へ判断を求めている。

 

 押入商会と領地を歩いた経験は、娘へ何をすべきかだけでなく、誰が決めるべきかまで教えたらしい。

 

 真壁殿。

 

 いったい領地で、娘へ何を見せた。

 

 いや、良いことを教えている。

 

 文句を言う筋合いはない。

 

 ないのだが、父親の知らないところで娘を立派にするのは、少し加減してもらいたい。

 

「今は必要ない」

 

 クラウスは気持ちを隠して答えた。

 

「だが、周辺の町や村を訪ねた時、住民が森の異変を感じていないか話を聞いてほしい」

 

「承知いたしました、父上」

 

 エレナは迷わず頷いた。

 

 森の中をヴァルトが見る。

 

 外側を侯爵家が警戒する。

 

 娘は領民の声を拾う。

 

 悪くない形だった。

 

 むしろ、娘へ任せる最初の役目としては適切かもしれない。

 

 クラウスは嬉しくなりかけ、すぐに気づいた。

 

 自分は今、娘へ領内の仕事を与えたのではないか。

 

 本人が申し出たとはいえ、これでは王都にいる父親が、久しぶりに会った娘へ最初に渡したものが仕事になる。

 

 父親として、何か順番を間違えている気がした。

 

 だが、すでにエレナは嬉しそうに頷いている。

 

 今さら菓子でも出せば、余計に不自然だった。

 

 

 

 

 

 アルベルトとマルグリットの帰り支度は、すでに整っていた。

 

 真壁が旅行鞄を収納すると、マルグリットはエレナの手を取った。

 

「来てくれて嬉しいですよ」

 

「私も、母上と兄上にお会いできて安心いたしました」

 

「私たちは昨日来たばかりだが」

 

 アルベルトが口を挟む。

 

「日数の問題ではございません、兄上」

 

 エレナは礼儀正しく答えた。

 

 言葉遣いは丁寧なのに、兄が反論できる余地はない。

 

 アルベルトは一度口を開き、何も言わずに閉じた。

 

 クラウスは息子へ少し同情した。

 

 母と妹が同じ側へ立った時、男が理屈で勝とうとしてはいけない。夫として長年学んだ知恵だった。

 

「では、お支度も整ったようですな」

 

 真壁が客人離れへ向かおうとしたところで、ふと足を止めた。

 

「クラウス殿。最後に、もう一つだけ」

 

 クラウスの胸に、嫌な予感が走った。

 

 昨日もそうだった。

 

 話が終わり、食事へ移る直前に新しい食材が出てきた。帰ると言った後には転移拠点と機械馬が出てきた。

 

 真壁が帰り際に「もう一つ」と言う時、それが本当に一つで済んだ記憶がない。

 

「今度は何だ」

 

 自分でも驚くほど、声に警戒が滲んだ。

 

「昨日、澪君と王都商人ギルドへ参りました」

 

「王都での取引登録を行ったのだったな」

 

「ええ。その際、こちらの商品と、それを見た者たちの反応を観察している男がいました」

 

 クラウスは椅子へ座り直した。

 

 やはり軽い話ではなかった。

 

 真壁は、商人ギルドで見本を出した時の様子を簡潔に説明した。

 

 男は商品の値段や品質だけではなく、誰が何を買い、ギルドの者たちがどの品へ強く反応したかを見ていた。

 

 澪が気づいたのは、男の身につけていた黒染めの革紐だった。

 

 その編み方が、灰橋町で黒鎖商会の関係者から押収した品と似ていた。

 

「黒鎖商会の者であるとは断定できません」

 

 真壁は慎重に言った。

 

「ただし、無関係として捨てるには気になります」

 

「男を追ったのか」

 

「いいえ。その場で追えば、こちらが気づいたと教えることになります」

 

「誰へ報告するかを見るため、泳がせたか」

 

「ええ」

 

 クラウスは腕を組んだ。

 

 黒鎖商会は侯爵領から排除された。

 

 だが、商会そのものが消えたわけではない。王都側に本体があり、領内で失ったものを取り返そうとしている可能性もある。

 

「黒鎖商会の動きが疑われているのは、侯爵領だけではありませんな」

 

 真壁が続ける。

 

「伯爵領の件か」

 

 クラウスの声が低くなる。

 

 別の伯爵領でも、流通への妨害や商人への圧力、役人への接近が報告されていた。まだ黒鎖商会の関与を確定できる証拠はないが、手口には似たところがある。

 

「ヴァルディス侯爵領と伯爵領。共通するものは何でしょうな」

 

 真壁に問われ、クラウスはすぐには答えなかった。

 

 産物は違う。

 

 土地の広さも、主要な街道も、領内の産業も異なる。

 

 黒鎖商会が単純に利益を求めるなら、もっと豊かで、もっと警備の弱い領地がある。

 

 それでも両方へ入り込み、交通を乱し、役人を抱き込み、領地の統治そのものを傷つけようとしている。

 

 クラウスの頭に、王宮の会議で並ぶ席が浮かんだ。

 

 国王の前で政策へ賛同した者。

 

 採決の際に自分と同じ側へ立った者。

 

 反対側の席から、こちらを見ていた者。

 

「両方の当主が、王宮では私と同じ側に立っている」

 

「ええ」

 

 真壁の返事は短かった。

 

「では、黒鎖商会の目的は領地そのものではないのでしょうか」

 

 エレナが慎重に尋ねる。

 

 クラウスは娘へ目を向けた。

 

「領地は手段だ」

 

 自分の声が冷たくなるのが分かった。

 

「街道を止め、税収を落とし、商人を逃がし、魔物の被害を増やす。領主が対処できなければ、統治の失敗として王宮へ持ち込める」

 

 ヴァルディス侯爵領だけなら、侯爵家個人への敵意で済む。

 

 同じ側に立つ伯爵領まで同様に傷つければ、クラウスへ賛同する貴族は領地すら治められないと印象づけられる。

 

 王宮でクラウスの政策を否定する材料になる。

 

「狙われていたのは、我が領地だけではない」

 

 クラウスは机へ置いた指をゆっくり握った。

 

「私と、私に同調する貴族たちだ」

 

 胸の内で、領主としての怒りが一気に燃え上がる。

 

 派閥争いなら王宮で行えばよい。

 

 政策を出し、反論し、国王の前で争えばよい。

 

 なぜ領民の荷を奪う。

 

 なぜ橋を傷める。

 

 なぜ魔物を町へ寄せる。

 

 自分を失脚させるために、何の関係もない領民の暮らしを踏み台にしたというのか。

 

 今すぐ心当たりのある者の胸倉を掴み、机へ叩きつけたい。

 

 もっとも、宰相が王宮で公爵級の貴族を机へ叩きつければ、派閥争いどころではなくなる。

 

 冷静であれ。

 

 証拠を集めろ。

 

 手順を踏め。

 

 宰相としての理性が必死に命じている。

 

 一方で領主としての自分は、手順など黒鎖商会の者ごと川へ投げ捨てろと叫んでいた。

 

 両者の折り合いをつけるのが、今日一番難しい仕事になりそうだった。

 

「お心当たりはございますかな」

 

「ある」

 

 クラウスは短く答えた。

 

 宰相としての権限を快く思わない者。

 

 国王が進める政策を、自分が主導していることへ反発する者。

 

 その中心にいる有力貴族の顔も浮かんでいる。

 

 だが、公爵本人が黒鎖商会へ命じたとは限らない。

 

 側近かもしれない。

 

 官僚かもしれない。

 

 御用商人が独自に忠誠を示そうとした可能性もある。

 

 複数の仲介者を挟み、依頼主自身が黒鎖商会の名すら知らないことも考えられた。

 

「今ここで名を出せば、その者だけを疑うことになる」

 

 クラウスは握った手を開いた。

 

「まず、黒鎖商会の報告先を探る」

 

「それがよろしいでしょう」

 

「王都側は私が見る。商人ギルドへ表立った照会は出さない。男が誰と接触し、情報がどこへ流れるかを静かに追わせる」

 

「押入商会の王都登録は、そのまま進めます」

 

「当然だ」

 

 クラウスは即答した。

 

「気配を感じただけで王都市場から退けば、こちらが怯えたと教えることになる」

 

「11月納品を優先し、王都での商品は絞ります。相手が何を見るかも確認できるでしょう」

 

「領内で新しい動きがあれば知らせてくれ」

 

「承知しました」

 

 そこで話が終わったと思った。

 

 今度こそ終わったはずだった。

 

 真壁は帰り支度へ戻ろうとしている。

 

 クラウスは胸の中で、ようやく息を吐いた。

 

「父上」

 

 エレナが口を開いた。

 

 まだ終わっていなかった。

 

「領地側でも、黒鎖商会と関係のあった商人や町を見直した方がよろしいでしょうか」

 

 質問そのものは適切だった。

 

 すぐに捕らえるとも、自分が調べるとも言わない。王都側と領地側の役割を考え、父の判断を求めている。

 

 また成長している。

 

 嬉しい。

 

 だが、なぜ今日だけで何度も娘の成長を見せられ、そのたびに新しい仕事まで付いてくるのだ。

 

「表立って動く必要はない」

 

 クラウスは父親の感情を隠し、領主として答えた。

 

「過去の荷の流れと取引先を、相手へ悟られぬよう見直しなさい。ただし、1人で調べようとはするな」

 

「承知いたしました、父上」

 

 エレナは丁寧に一礼した。

 

 素晴らしい返事だった。

 

 その素晴らしさに安心しながら、以前の娘なら「私が行く」と言い出しただろうかと考える。

 

 いや、成長してくれてよかった。

 

 本当によかった。

 

 だからこそ、自分が領地へ帰れない間に、どこまで成長するつもりなのだ。

 

 次に会った時には、侯爵家の会議を仕切り始めていても驚けない。

 

「では、お迎えの役目へ戻りましょう」

 

 真壁が立ち上がった。

 

 クラウスは思わず真壁を見た。

 

 本来、今日は妻と息子を領地へ帰すだけの夕方だった。

 

 そこへ予告なく娘が現れた。

 

 その娘が成長していた。

 

 ヴァルトから森の報告が届いた。

 

 最後には黒鎖商会と王宮の派閥争いまでつながった。

 

 なぜ真壁殿は、帰る直前に最も重い案件を置いていくのだ。

 

 先に言ってくれれば、せめて心の準備くらいはできた。

 

「現時点では、懸念にすぎません」

 

 真壁が補足した。

 

「その言葉で、私が安心できたことが一度でもあったと思うか」

 

 クラウスは耐え切れずに尋ねた。

 

 真壁は少し考えた。

 

「ございませんな」

 

 クラウスは額へ手を当てた。

 

 そこは否定してほしかった。

 

 嘘をつかないことは美徳である。

 

 だが時には、宰相の心を守るための小さな嘘も必要なのではないか。

 

 

 

 

 

 客人離れへ移ると、クラウスは家族3人を見渡した。

 

 妻と息子だけを見送る予定が、娘まで増えている。

 

 嬉しい。

 

 だが、もう帰ってしまう。

 

「もう帰るのか」

 

「はい」

 

 エレナが父へ向き直った。

 

「母上と兄上のお迎えに同行した身ですので、ご一緒に戻ります」

 

「せっかく来たのだ。もう少しいてもよいのだぞ」

 

 言ってから、少し父親らしすぎたかと思った。

 

 しかし、王国宰相が娘を引き止めてはいけないという決まりはない。

 

「ありがとうございます、父上」

 

 エレナは柔らかく微笑んだ。

 

「次は事前にお知らせして、ゆっくり伺います」

 

 礼儀正しい。

 

 あまりにも礼儀正しく、引き止める隙がない。

 

 昔のように、もう少しいると言い張ってくれてもよいのだぞ。

 

 成長を喜んだ直後に、勝手を言ってほしいと願うのは矛盾している。

 

 分かっている。

 

 分かっているが、父親の気持ちは宰相府の規則ほど整ってはいなかった。

 

「到着したら知らせを寄越しなさい」

 

「一瞬で到着いたしますが」

 

 アルベルトが言う。

 

「一瞬でも、着いたかどうかは別の話だ」

 

「承知いたしました」

 

 エレナが頷いた。

 

「私からお知らせいたします、父上」

 

「すぐ転移で戻ってくるという意味ではないぞ」

 

「分かっております」

 

 娘ならやりかねないと思ったわけではない。

 

 少しだけ、その可能性が頭をよぎっただけである。

 

 真壁が転移を発動する。

 

 マルグリット、アルベルト、エレナ、真壁の姿が一瞬で消えた。

 

 クラウスは、誰もいなくなった床を見つめた。

 

 昨日まで領地にいた娘が、夕方に突然現れた。

 

 少し見ない間に成長した姿を見せた。

 

 領地のために自分が何をできるか尋ね、礼儀正しく挨拶をし、また一瞬で帰っていった。

 

 家族に会いやすくなったのだから、喜ぶべきなのだろう。

 

 だが、会いやすくなった分だけ、別れもあっさりしている。

 

 父親の心が追いつく前に、娘は領地へ戻ってしまった。

 

 しかも、最後に黒鎖商会の問題まで残された。

 

「真壁殿は、迎えだけで済ませるということができないのか」

 

 誰もいない部屋で呟く。

 

 答える者はいなかった。

 

 クラウスは応接室へ戻ると、家令を呼んだ。

 

 王都商人ギルドで押入商会を観察していた男について、表立たない調査を命じる。

 

 誰と会ったか。

 

 どこへ情報を運んだか。

 

 黒鎖商会とのつながりがあるか。

 

 ただし、相手へこちらが気づいたと悟らせてはならない。

 

 家令が退出した後、クラウスは窓辺に立った。

 

 王都の灯りが広がっている。

 

 この中に、黒鎖商会へ指示を出した者がいるかもしれない。

 

 侯爵領と伯爵領を荒らし、領民の暮らしを壊し、それを王宮で自分を攻撃する材料へ変えようとした者が。

 

「王宮で争う覚悟もない者が、領民へ手を出したか」

 

 低い声が室内へ落ちた。

 

 敵の名はまだ口にしない。

 

 疑いだけで動けば、相手の思う壺になる。

 

 黒鎖商会が情報を運ぶ先を見つけ、その上にいる者まで辿る。

 

 そこまで考えたところで、クラウスはふと思った。

 

 娘が次に王都へ来る時は、事前に知らせると言っていた。

 

 だが、どれほど早く知らせても、本人が転移で来れば同時に着くのではないか。

 

 手紙を送るなら前日。

 

 使者を出すなら数日前。

 

 けれど、娘は思い立った夕方に来られる。

 

 事前連絡という言葉の意味が、真壁たちと関わるたびに薄れていく。

 

 黒鎖商会の裏を探らねばならない。

 

 魔術院の捜索も止めなければならない。

 

 王宮の派閥にも目を配る必要がある。

 

 そのうえ、次に客人離れから誰が現れるかまで警戒するのか。

 

 クラウスは額へ手を当てた。

 

「せめて娘が来る時くらい、父親に心の準備をさせてくれ」

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